車山から上田市真田町に向い、地藏峠を越えて松代へ出ました。
 標高477mの小山「象山(ぞうざん)」の地下に碁盤目のようにくり貫かれた「象山地下壕」を見学しました。入口にある案内板によると、東西20本の壕が本坑でそれぞれ20m間隔に掘られており、これらを南北4~5本の連絡坑がつないで碁盤目状になっています。総延長は5.9km、トンネルの大きさは幅4m中央高さ2.7mとあります。
 備え付けのヘルメットを被って入壕すると、壕内の温度は15度で、残暑の時季、急激に涼しくなります。年中一定の温度だそうです。所々に照明用の電灯が誘導、岩盤に削岩機で開けた穴にダイナマイトを挿入して破砕した岩肌が当時を物語ります。公開されている約500mの終点迄行って引き返してきます。

 松代象山地下壕内部の写真です。松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)と象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 象山壕だけが公開されています。ここの地質は堅い岩盤地帯に築かれているため、安全とみられています。1964年(昭和39年)6月16日、その新潟地震のM7.5にも耐えています。1965年(昭和40年)8月3日から約5年半もの間続いた松代群発地震でも、堅い岩盤は持ち堪えます。
 象山壕の入り口の横には長野市が設置した案内板がある。2013年、説明文の「強制的に」の文言を同市がテープで覆い隠し、市作成の案内パンフレットも撤収した、そうです。

松代象山地下壕の案内板には
「松代象山地下壕は、第2次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに、大本営、政府各省等を松代に移すという計画の下に構築したものです。
着工は昭和19年11月11日午前11時。
翌20年8月15日の終戦の日まで、約9か月の間に当時の金で約2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され1日3交代徹夜で工事が進められた、とあります。
食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われています。
松代地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3か所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余に及んでいます。
全工程の75%の時点で終戦となり工事は中止されました」と記されています。

入り口の追悼平和祈念碑案内には
「太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本営の移転と国体(天皇制)護持のため、軍の命令によって、防衛上の観点から選ばれた松代を中心に、大本営と皇居(舞鶴山)、政府機関と日本放送協会・中央電話局(象山)、皇族住居(皆神山・後に食糧庫に変更)、賢所(弘法山)、受信施設(妻女山)などを移転する大工事が秘密裡に企画された。
1944年11月11日から45年8月15日、敗戦の日まで続けられたこの工事には、東部軍、工兵隊、熱海鉄道教習所生徒、および産業報国隊・勤労報国隊の徴用者や学徒・学童も多数動員されたが、地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地下の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)からの多くの強制連行者を含む約6千人の人々であった。
 その工事は、厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も乏しく、発破や落盤の事故、栄養失調で死亡したり、逃亡した者も少なくない。
 さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もおり、犠牲者は3百人とも推定されているが千人という説もある。
 しかし戦後、軍部等による関係資料の焼却などにより、犠牲者氏名はほとんど不明であり、今日までに氏名が判明したのは強制連行された朴道三・金快述の他、飯場頭の趙徳秀、中野次郎の4人にすぎない。
 この工事では、住民も土地を強制買収され、特に松代の西条地区では仮皇居の建設工事で、百戸以上が立ち退きを強制されたりしたが、住民や徴用者と朝鮮(韓国・朝鮮)人との関係は友好的な面もあって、そのきずなは今日も途絶えていない。
 この大地下壕を中心とする「松代大本営」は、太平洋戦争と朝鮮植民地化に象徴される日本のアジア侵略の歴史と、その反省を永遠に刻む歴史的遺跡であり、この碑の建立と壕の見学が、なお残る民族差別の克服と友好親善の新たなる第一歩となることを切に願うものである。
1995年8月10日
松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会」とあります。

 長野市ホームページには、
 「この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります」という。
 当時の軍部のありようは、
「組織は腐敗する。権力は人を愚かにする」の典型でした。
未だに、日本人は、その負の遺産に苦しんでいるのです。