大和朝廷、令制国の由来 Top 車山高原 諏訪の散歩 車山日記 | |||||||
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1)古代の国名
西国では「出雲国出雲郡」や「河内国河内郡」などのように、和泉・安芸・阿波・伊予・土佐・大隅・薩摩・壱岐など国名と同じ郡名を国内に有している。 一方、東国では上総国の安房郡が分立して安房国となる例外の他は、駿河国駿河郡の一例があるにすぎない。 西国の多くは、ヤマトを基盤とする朝廷が成立する前後の早い段階から自立的に地域支配を確立し、出雲や吉備などでは、ヤマト王権と拮抗する勢力圏を維持していた。そのためヤマト朝廷による列島支配が確立される伴い、それぞれに国名を定める際に、その既存の名称が、そのまま国名として命名されたため、郡名と同一の国名が多くなった。結果、隣国相互に関連性のない国名となった。 東国では、ヤマト朝廷の東漸に伴う服属で、朝廷の王化に靡く現地の豪族を、地方官として国造に任命し、政権勢力の伸張の拠点とした。そのため東国は、ヤマト朝廷の視点から、一方的に命名されるようになった。 目次へ |
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2)科野、信濃の国名
この用例の「ず」は、古語の打ち消しの助動詞ではなく、推量または意志の助動詞で「むず(んず)」や中世以降の「うず」の撥音無表記(はつおんむひょうき)で、「だろう」・「う(よう)」の意を表す。 荷田春満(かだのあずままろ)・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる賀茂真淵も『冠辞考』に「一説では、ここ科野という国の名も、この木より出たるなり」と記している。 古代信濃には科の木が多く自生し、その樹皮の繊維から布・縄・牛馬の手綱などが作られていた。 また賀茂真淵は「信濃国いにしえ科野と書く。その地名には科のこと多く見ゆ。山国にて階坂(しなさか)あれば地の名となりけむ」とも記していた。 その形声文字である「階」の「阜(こざとへん)」が、「土盛り」を表し、「しな」・「きざはし」などと訓まれ、「高きに登る道」という意となり、「皆」が「音」になる。 信濃には、保科(高井郡;若穂)・更科・豊科・埴科・倉科・仁科・明科・蓼科など科がつく地名が数多くある。階坂(科坂)は高き峠を意味する。『古事記』にもみられるように、古代では「坂」は「峠」を意味した。信濃でも、碓日坂(うすひのさか;碓氷峠)・神の御坂(御坂峠)・県坂(あがたさか;鳥居峠)などと呼んでいた。 これが、賀茂真淵が記す「山国にて階坂あれば地の名となりけむ」の意味で、「科野」の「野」は、「山裾の緩やかな傾斜地」をいう。 7世紀末の藤原宮跡から出土した木簡に「科野国伊奈評鹿□大贄」とあり、『古事記』には「科野国造」と表記してる。 『続日本紀』では、文武天皇紀の慶雲元/大宝4(704)年の条に「鍛冶司(かぬちのつかさ)をして、諸国の印を鋳しむ」とあり、その諸国の国印を作成するにあたり、正方形の印面を「○○国印」と4文字構成するため、国名をすべて2文字の表記と定めた。その時に「科野」を「信濃」と、「三野」を「美濃」とした。 目次へ |
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3)近江国と遠江国
「みずうみ」は「水海(みずうみ)」の意で、海はもとより池や沼なども表した。特に区別して用いる場合には、塩水のところを「塩海・潮海(しほうみ)」といい、淡水のところを「水海(みづうみ)」や「淡海(あはうみ)」といった。現在では、塩分を含んだ「塩水湖(塩湖)」も「みずうみ」に含められている。 漢字の「湖」は、「氵扁」で「大陂(おほつつみ)」・「陂塘(はとう)」を表し、「陂」と「塘」いずれも堤という意味の漢字である。「胡」は、この場合「古」を音符とする会意形声文字となる。 飛鳥京から7世紀の藤原宮時代の遺跡から出土した木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海(ちかつみづうみ)」という字が見える。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となる。 近江国名は、琵琶湖を「近つ淡海(ちかつあはうみ)」と称したことに由来するとするが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。 「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」の意ではない。それが、大宝令の制定以降、「近江国」と国名表記が定められ定着した。 「遠江」も都から遠い浜名湖を「遠つ淡海(とおつあはうみ)」と称したことに由来する。7世紀後半の木簡の国名表記にも「近水海国(ちかつみづうみ)」と対になるように「遠水海国(とおつみづうみ)」とある。当時の各地域の住民には、「近い」「遠い」の意識が芽生えるはずもなく、ヤマト朝廷の視点による遠近感であった。 目次へ |
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4)駿河国
諸国名義考(上)に 「駿河 和名抄に、駿河(須流加の國府在り)名義は、萬葉集に打縁流駿河能國(うちよするするがのくに)云々とある如く、尖川(するとがは)の意なるべし、 また東遊駿河舞歌に、須留可奈(するがなる)、宇止波末仁(うどはまに)、宇知與須留(うちよする)、奈見波奈々久佐乃(なみはななくさの)云々ともあり、こは川ならず、海なれば、いづこも浪はつよく打ちよすべけれど、万葉集の歌にゆかりあればいふのみ、 すべて此國の川は、山より落ちて海に入る水のけはしければ、川波強く打ちよする勢ひの猛烈なるによりて、尖川國と云なるべし、 此國に駿河郡あり、もとはそこより出し名なるべし、此國の風土記に、駿河に三大河有り、而して其の濤勢は駿馬が千里を駈けるが如し、故に國號と為す、また、薦河(するが)は其の河流薦々(えんえん;急峻な有様)に依り、而して淀み溜を知らず也、所謂(いわゆる)志通波他河(しづはたがは;賤機川;安倍川)、不二河(ふじかは;富士川)、大堰河(おほゐがは;大井川)也とあるは、共に字になづみたる也」 (静岡市安倍川中流に、賤機【福田ヶ谷】地区が現存する。「薦」には「頻り」の訓読みがある。その意は「度合いが著しいさま」に通じる) 赤石山脈の間ノ岳(あいのたけ)を源流とする大井川は、現在では、静岡県中部を南下する川であるが、かつては静岡市井川地区上流域から、駿河と遠江の境となって駿河湾に注ぐ。山間地に深い峡谷を刻み、流域の長さに比して著しく狭隘で、日本国屈指の急流である。奈良時代の大井川は、現在より北寄りに折れ、今の栃山川を流れていた。その流路が境であるため、後世に、大井川の流路が変わり、駿河国の領域が西に広がった。 駿河は、その流域にある三大河川の急峻な有様が、その国名の由来となったが、近国の三河は、「男川(おとかわ)」、「豊川(とよかわ)」、「矢作川(やはぎかわ)」の三川を単純にその国名の由来とした。 「美濃」も青野(あおの・大垣市青野)、大野(おおの・揖斐郡大野町)、各務野(かがみの・各務原市)という「三野」から「御野」を経て、ヤマト朝廷が、大宝4(704)年に、諸国の国印の鋳造にあたり、吉祥語を選び「美濃」と表記した。 公式令に、銅製で大きさ方2寸と定められ、中央官司の鍛冶司(かぬちのつかさ)などによって製作され、中央から各令制国に1面ずつ送られた。その国印が正倉の鎰(かぎ)とともに国司任命の節(しるし)となった。 「野」は、郊外を表記するため「里」扁となった。「予」は音符である。「野」とは「王城を去る2百里より3百里」の開けた平原を指す。 律令時代の五畿七道の一つ「東山道」は、大宝元 (701) 年に、近江から岐阜県不破郡の不破の関を越え、美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野の7ヵ国の国府を連ねる街道として定められた。宝亀2(771)年、武蔵を東海道に移し、陸奥・出羽の2国を加えて8ヵ国となった。 「東海道」は、伊賀から伊勢国の鈴鹿の関を越え、志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸の14ヵ国を径路とする街道であった。 「東山道」と「東海道」とでは、それぞれに南北に隣接する国名が、「野」と「河」で対(つい)になっている。 北の山岳地の「美濃」と「信濃」に対して、海側は「三河」と「駿河」の国である。この地形を反映する国名の制定こそが、ヤマト朝廷が画期的な政策意図で命名したことの表れであった。 目次へ |
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5)甲斐国
意外にも、宣長以来の研究を端緒する、橋本進吉の『上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)』において、その峡説が否定された。 エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(濁音があればその濁音も含む)に、古代の万葉仮名をあてたとき、その音には甲・乙2種類の音韻の違いがあったことが分かった。それにより分類すると、「甲斐」の「斐」の「ヒ」は乙類で、「峡;賀比」の「比」の「ヒ」は甲類であった。そのため、この説は破綻し新たな解釈が求められていた。 近年、山梨県立博物館館長の平川南が、古代甲斐国が、官道である東海道と東山道を結ぶ行路であったことから、「交(か)ひ」の意味を含めたという新説を提唱した。 律令制下では東海道に属す、駿河国から甲斐国に通じる枝道があった。その官道として甲斐路は東海道本路の駿河国横走駅(よこばしりえき;御殿場市駒門;こまかど)から分岐して、甲斐との国境の篭坂峠(かごさかとうげ)から御坂峠(みさかとうげ)を越えて八代郡にあった国府に達した。その国府は現在の笛吹市春日居であり、国分寺は同市一宮町に建っていた。 甲府盆地の南縁にあたる八代郡には、応神王朝直前の4世紀後半、曾根丘陵地帯に、東海地方経由でヤマト王権の影響を受けた甲斐銚子塚古墳(かいちょうしづかこふん)を代表とする大型古墳群が築造されている。指定名称は「銚子塚古墳附丸山塚古墳(かいちょうしづかこふん つけたり まるやまづかこふん)」である。 駿河国から通じる中道往還は、精進湖から右左口峠(うば ぐちとうげ)を越えて、中道町の曽根地区にいたる。 その地にある前方後円墳の後円部は、直径92m・高15mの3段築成、前方部は幅68m・高さ8.5mの2段築成であり、その規模は東日本最大級である。現在では、山梨県甲府市下曽根町の地籍で、その曽根丘陵公園の西側にある夕陽にまばゆく映える前方後円墳であった。2015年11月16日、ケヤキ林の紅葉が主であったが、ブナやコナラなどの黄葉が多彩な景観となり、心和む一時を過ごした。 姥塚 (うばづか;御坂町)、加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も出土した。これら古墳の築造者とみられる甲斐国造が、ヤマト朝廷に貢献した馬が、「甲斐の黒駒」と呼ばれて、名馬の産地として評価された。 平安時代には信濃、上野、武蔵とともに天皇直属の御牧が置かれ、毎年、京に「甲斐の黒駒」を献上する駒牽(こまびき)が年中行事となった。 大化改新後、新しい国郡制が布かれ甲斐国となり、山梨・八代・巨麻(巨摩)・都留の4郡が置かれた。 『古事記』と『日本書紀』に如実に記される倭建命(日本武尊)の東征は、ヤマト王権の東国支配の過程を物語り、しかも行程の多くが、考古学的にも客観的史料により裏付けられつつある。各地の戦略的重要地に展開している、多くの子名代「建部(たけるべ)」の存在もその一つである。『日本書紀』には 日本武尊の功名を録(しる)そうとして、武部(建部)を定めた、とある。 『古事記』の序文で、天武天皇が指摘しているように、両書が原本とする『本辞』『帝紀』それぞれに、既に異本が多く、その記述に少なからず齟齬があった。 『古事記』は8世紀の初めに成書化された。『古事記』の「序」では、天武天皇の勅命により、舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)が『本辞』『帝紀』を誦習(しょうしゅう)し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録し、和銅5(712)年正月28日に元明天皇に「献上」したとある。 「天武天皇の詔は『朕が聞くところでは、諸家に伝わる帝紀(帝の系譜が中心)や本辞(神話・伝説・歌謡などの言い伝え)は、既に正実と違ってきており、多くの虚偽が加えられている。当(も)し今この時、その失(過ち)を改めておかなければ、幾年も経ずに、その本旨が消滅してしまう。 それは国家組織の根本と天皇徳化の基本にかかわる事だ。そのため帝紀を撰録(整理記録)し、旧辞(旧い出来事)を調べ正し、偽りを削り、正実を定めて、後世に流布させたい』との意向であった」 それでも『古事記』と『日本書紀』が撰録する『本辞』『帝紀』など、それぞれが異本であったため、記述上の違いがあり、両書の編纂意図も異なるため、相互の録取に差異が生じた。 『古事記』『日本書紀』の倭建命(日本武尊)の東征伝承は、ヤマト王権の東国支配の過程を物語っている。両書ともに、倭建命(日本武尊)の東征経路の往路は、古代律令制下に官道となる東海道であったが、帰路は東山道である。しかも東海道から、わざわざ甲斐国の酒折宮(さかおりのみや;甲府市酒折)に立ち寄ってから東山道へ向かい、最終地の尾張国に戻っている。 江戸時代の東海道を過(よぎ)る酒匂川・興津川・安倍川・大井川の4河川は、浅瀬が多いため徒歩渡りをしたという。しかし富士川の急流は、多くの派流を持ち広大な扇状地を形成するためか、『古事記』では、倭建命は、足柄峠から須走へ出て、籠坂峠を越え山中湖・河口湖に至り、御坂峠を越えて富士川の支流の笛吹川を徒歩渡りして酒折宮に出たようだ。 『日本書紀』では、日本武尊は「蝦夷は既に平定され、日高見国(ひたかみのくに)より帰還し、西南の方の常陸を経て、甲斐国に至り、酒折宮(さかおりのみや)におられた」とあり、新治・筑波から武蔵の府中へ、それから足柄峠を越え横走駅に、その後は『古事記』と同じルートで酒折宮に達した。 古代の甲斐国は、酒折宮に象徴される東海・東山両道が結節する「交(か)ひ」であり、ヤマト王権が東国を王化する軍事上の要路にあった。 『続日本紀』では、文武天皇紀の慶雲元/大宝4(704)年の条に「鍛冶司(かぬちのつかさ)をして、諸国の印を鋳しむ」とあり、大和朝廷は、諸国の国印を一斉に鋳造した。そのサイズが規格化された正方形の印画は「○○国印」と定められたため、国名は全て2文字とされた。上毛野国(かみつけののくに)・下毛野国(しもつけののくに)も「上野」「下野」の漢字2文字された。 古代では、頻発する天災や疫病には、ただ蹂躙されるままであれば、その破邪の祈りを込めて、その文字に吉兆を招く吉祥語(きっしょうご)をあてた。この時に定められたのが「甲斐」の2文字であったとみられる。 「甲(こう)」は象形文字であり、草木が初生する時、こぼれた種が地上に芽吹きする十干の第一の「きのえ」であり、また「春」・「日出」の東方を意味する。五行の木行のうち、東方より昇る朝日に育まれる「陽の木」である、どっしりと上空に伸びる巨木を育てる。 「斐」は形声文字で、「美しく彩ある容貌」の意で、その訓読みは、あや・あきら・うつくし・よし、などがある。 「甲斐」の語意により、新緑の巨木が茂る山梨県の甲府盆地の美しい光景が彷彿させられる。 『続日本紀』によれば、元明天皇は、和銅6(713)年5月に、「畿内七道諸国郡郷名、着好字(よいじ)」と令制国毎に、畿内と七道諸国の郡・郷の名に好字を付けるように命じた。 目次へ |
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6)上総国とは
『日本書紀』や『古事記』に、当初から、その編纂を推進した天武天皇や、それに従った太安万侶らが、その史料として依拠した『帝紀』や『旧辞』自体に正確を欠く虞が多いと認識し、正史として編纂を急いだ経緯が『古事記』の序文に、明確に記されている。 『日本書紀』にある改新の詔の文書をはじめ、大化の改新の諸政策は、後世の潤色が含まれているため、『日本書紀』による編年は、他の多くの史料による検証が重ねられている。その結果、令制国が確実に成立したのは、大宝元(701)年に制定された大宝律令からとみられている。 『古語拾遺』によると、「よき麻の生いたる土地」という含意で捄国(ふさのくに;総国)を称したという。しかし、『古語拾遺』がいうように、「捄」や「総」という字に、麻に関連する含意があると解されず、この伝承自体が疑問視されていた。 古代にあっては、房総地方とりわけ上総の麻製品、上総国望陀郡(もうだぐん;現在の千葉県袖ヶ浦市・木更津市・君津市付近)の調庸物であった麻織物が徴された。その望陀布(もうだのぬの)は、奈良の正倉院に現存している。律令制においては、美濃の絁(あしぎぬ:絹織物)と同様、最も上質とされ、天皇践祚の折には、布団や幔幕に使われるほか、大嘗祭などの宮廷祭祀や遣唐使の貢納品としても採用されていた。 昭和42(1967)年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」と書かれた木簡が掘り出された。己亥(つちのと い)年は文武天皇3(699)年であり、阿波評は安房郡、後の安房国である。この木簡により7世紀末まで、「郡」ではなく「評」で表記されていたことが判明した。 続いて「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目の〈捄〉は判読しにくく、様々な文字を当てはめられた。そのうちに〈捄〉と解する説も出たものの、その音は「キュウ」であり、「総」は「ソウ」であり意味も異なるとし、また「上捄」では意味が通じないとされ閑却されていた。 その後の研究成果により「捄」の和訓は「総」と同じ「ふさ」である事と、「天観」という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高いと分かった。 『大漢和辞典』によれば、「捄」は房を成して稔る果実に由来する。麻の実も収穫時には房状になることから、麻が稔る姿から「捄」の字が用いられた。 令制国成立後、同じ和訓を持つ佳字(かじ)として「総」に書き改められた。それにより、麻と総が関連付けられ、『古語拾遺』の記述が妥当と再評価された。 律令制以前には、捄国(ふさのくに;総国)としてヤマト王権時代から支配されていた、その捄国は、現在の千葉県が主な国域であったが、茨城県や東京都の一部にまで及ぶ律令制以前からあった広域的な旧国名であった。上捄国と下捄国の分国は、元々、東海道が「海つ道(海路)」であったため、房総半島の南部の上総国の方が、畿内により近いとされたことに由来する。 また、上捄国と下捄国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮の流れにより、外房側からはじまったようだ。そのため房総半島の南東側が都に近いとされ上捄国となり、北西側が下捄国となった。 『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元(534)年としており、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠することから、上捄国と下捄国の分割は6世紀中葉とみられている。 上総国には6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、後の安房国も併せて8つの国造がいたが、ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)と呼んだ。 律令制以前では、須恵・馬来田・上海上・伊甚・武社・菊麻・阿波、長狭の8つの国造の領域があった。律令制の施行により、市原郡・海上郡・畔蒜郡・望陀郡・周淮郡・埴生郡・長柄郡・山辺郡・武射郡・天羽郡・夷灊郡(夷隅郡)・平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の15の郡(評)をもって、令制国として上総国が成立した。それは、東海道に属する一国であった。 国府は市原市にあったようだ。当地に、国分寺跡と国分尼寺跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であったため、国守である親王は太守と呼ばれた。親王太守は現地へ赴任しない遙任であったため、親王任国での実務上の最高位は次官の上総介であった。 下総国は、律令制以前、印波・千葉・下海上に国造が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾・千葉・印旛・匝瑳・相馬・猿島・結城・岡田・海上・蚊取・埴生の11の郡(評)をもって令制国となった。後に豊田郡が加わる。国府は市川市国府台付近に置かれ、国級は大国であった。 『続日本紀』では、文武天皇紀の慶雲元/大宝4(704)年の条に「鍛冶司をして、諸国の印を鋳しむ」とあり、その諸国の国印を作成するにあたり、正方形の印面を「○○国印」と4文字構成するため、国名をすべて2文字の表記とした。その時に「科野」を「信濃」と、「三野」を「美濃」としたように、「上捄」を「上総」と吉祥語に改められたようだ。読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に転訛した。「かみつふさ」の訛りであるため、正仮名遣では「かづさ」と表記されていたが、現代仮名遣いでは「かずさ」とされ、「つ」の由来が無視されている。 『古語拾遺』では、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子・太玉命(ふとだまのみこと)の孫にあたるある天富命(あめのとみのみこと)による開拓のことを記す。太玉命は祭祀を司る忌部(いんべ:平安初期に斎部と改称)氏の祖神とされ、中央氏族の忌部氏は、古代では王家に属する各地の品部(ともべ ; 職能集団)を率いる伴造の一族であった。伴(とも)は〈友〉であると同時に〈供〉をも意味し、大王に奉仕・従属する集団を指すことばで、造は「頭」を意味した。 忌部氏も、中央の諸氏族に朝廷の職務を分担させる氏姓制度が整う、5世紀後半から6世紀前半頃にその地位を確立し、当初は「忌部首(おびと)」であった。大和国高市郡金橋村忌部(現奈良県橿原市忌部町)を本貫とした。玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐など、各地に部民としての「忌部」の集団がいた。 「忌部氏」は、その各地の忌部を支配し、神宝の鏡・玉・矛・盾・木綿(ゆう)・麻を作らせ、その産物を徴収管理したほか、祭具の作製や神殿・宮殿の造営に携わった。 『日本書紀』孝徳天皇紀の大化元(645)年7月の条が、正史における忌部氏の初見である。 「戊寅(つちのえとら;12日)、天皇は阿倍倉梯万侶大臣(あへのくらはしまろのおおおみ)と蘇我石川万侶大臣に詔(つ)げて 『上古の聖王の事績に遵(なら)い、天下を治めたい。また信(まこと)をもって、天下を治める可し』と言われた。 己卯(つちのとのう;13日)、天皇は阿倍倉梯万侶大臣と蘇我石川万侶大臣に詔(つ)げて 『大夫(まえつきみ)と諸々の伴造たち一人ひとりに、喜んで民を仕えさせる方法を問い質せよ』と言われた。 庚辰(かのえたつ;14日)、蘇我石川麻呂大臣が 『先ず天神地祇を祭り鎮め、然る後に政事を議するべきです』と奏上した。 この日、倭漢直比羅夫(やまとのあやのあたいひらぶ)を尾張国に、忌部首子麻呂(いんべのおびとこまろ)を美濃国に遣わし、神に供献する紙・麻・木綿(ゆう;太布;たふ)などの幣(ぬさ)を徴発した」 『古語拾遺』は、天富命が阿波忌部を率いて東遷し、房総半島に上陸したとしている。その中で、「麻」の古語は「総(捄;ふさ)」というと記す。古代の総国(ふさのくに)は、後に安房国・上総国・下総国と分国したが、東遷した忌部が麻と穀(かじ;梶)を播殖(はんしょく)させ、阿波忌部が集住する地を安房郡と名づけたとことが国名の由来という。古くは阿波評とも表記したという。しかも天富命が太玉命を祭主とした安房社を創建した。館山市大神宮に現存する安房神社が、安房国の一宮なのだ。国分寺は館山市に置かれていた。 阿波国から、阿波忌部が黒潮にのって外房に至り、絹織物である「美濃の絁」と並び評される、麻製品として最も上質とされる望陀布(もうだのぬの)を開発した。調布としては、糸も細く緻密で、朝廷は望陀郡以外の上総国内各郡で生産された麻の調布も、上総細布(かずささいふ)として他国産とは別格の扱いとした。 『続日本紀』に 「和銅七(714)年二月。上総国言。去京遥遠。貢調極重。請、代細布。頗省負担。其長六丈。闊二尺二寸。毎丁輸二丈。以三人成端。許之」とある。 (上総国が「京を去ること遥遠、今までの調は貢上するに極めて重いので、願うことは、細布に代えれば、頗る負担が省けます」と言上してきた。長さ6丈・幅2尺2寸とし、成丁ごとに2丈を送る換算で、1端(反)を3成丁分相当として、これを許した。 成丁は成年に達した男子。 賀茂真淵は、その著『冠辞考』に「細布とは布の精巧なるを称美(しょうび)したるなりと云へるにて知るべし」とし、「調細布」の細とは幅の広狭ではなく、糸の細く目の細かい精巧なるを称した) それもあって房総半島の南東側が、都に近いと認識され「上捄国」と称された。 梶は、クワ科コウゾ属の落葉高木で、古代では、麻とならぶ重要な繊維原料であった。徳島県や高知県の山間部では、梶の樹皮の繊維で作る太布(木綿;たふ)という粗布を作り、穀物などを入れる袋や作業服に仕立てた。古代より、榊の枝に掛け、神前に捧げる白い布である白和幣(しらにぎて)は、梶の樹皮の繊維から織って、祭神の幣帛として奉献した。その樹皮は和紙の原料ともなった。 目次へ |