飛鳥時代の要路
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 目次
 1)難波より飛鳥の大道
 2)高句麗使節の迎賓館・相楽館


 1)難波より飛鳥の大道
 『日本書紀』
 「推古天皇元(593)年夏4月10日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を皇太子に立てた。重ねて摂政を掌り、帝王の政務の悉く委ねた。皇子は橘豊日天皇(用明天皇)第2子で、母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしとのひめみこ)という」
 穴穂部間人皇女の「穴穂部」の由来は、安康天皇(穴穂天皇;あなほのすめらみこと)が、父の允恭天皇が崩(かく)れた42年12月14日に
 『日本書紀』は「穴穂皇子が天皇位に即(つ)き、皇后(允恭天皇の皇后忍坂大中姫【おしさかのおおなかつひめ】)を尊んで皇太后と呼んだ。ただちに石上(いそのかみ)に遷都した。これを穴穂宮という」と記す。
 その石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)は、穴穂神社が天理市田町(たちょう)にあることにより、その故地として有力視されていた。しかし、それも安康天皇の子名代の「穴穂部」があったという伝承に因み、明治初年に改称されたという。
 穴穂部間人皇女は、現在、その所在は定かではないが、石上穴穂宮で養育されたことに由来する。
 穴穂部間人皇女は、欽明天皇の第3皇女で、母は蘇我稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であるから、後の崇峻天皇とは同母弟になる。母親を宣化天皇の皇女・石姫とする敏達天皇は異母兄にあたる。
  同じく稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)を母とする用明天皇がおり、後の推古天皇も、同じ堅塩媛を母とし、異母兄にあたる敏達天皇の后となり、その皇后広姫(ひろひめのみこと;息長真手王【おきながのまてのおおきみ】の娘)の崩御により、敏達天皇5(576)年、皇后に立てられた。
 用明天皇の皇子である聖徳太子は、その推古天皇と極めて血縁が近い甥にあたる。
 
 摂政の初見は応神天皇の母神功皇后であるが、聖徳太子以後、7世紀を通じて、皇太子または大兄王など皇親が、国政を総理する慣行が続いた。太子が大臣蘇我馬子とともに国政を総理したのは、皇室が蘇我氏の専横を抑えようとしたためとみられる。
 律令において摂政を執る役職は規定されなかった。元来、皇族が任ぜられたが、平安前期の貞観8(866)年に、清和天皇が幼少のために藤原良房が任ぜられて人臣の摂政が始まった。以来、天皇の外戚となった藤原北家の者が摂政・関白に就く慣例が生まれた。
 
 「推古天皇3年5月10日、高麗の僧慧慈(えじ)が帰化した。皇太子は慧慈に師事した。この年、百済の僧慧聡(えそう)も来朝した。この両僧は、仏教を弘布(ぐぶ)し、いずれも三宝の棟梁(仏教界の指導者)となった」  
 東大寺戒壇院の僧侶凝然(ぎょうねん;示観国師と敬称)は、82歳で没するまで、その著書は実に120余部、1,200余巻にも及んだと伝えられる希代の学僧であった。その著書『三国仏法伝通縁起(さんごくぶっぽうでんづうえんぎ)』は、応長元(1311)年に書上げた鎌倉時代の3巻の仏教書で、インド・中国・日本における各宗の伝播(でんぱ)状況を概説した仏教通史である。それには、百済僧慧聡も、厩戸皇子の師になったと記す。  
 仏教文化は、大和の飛鳥で開花し、日本仏教として結実し、やがて後世の各宗派の泰斗が、その原点として、聖徳太子の仏教を研鑽した事が多く伝承されている。  
 しかし仏教文化は、大和の飛鳥だけに開花したのではなく、難波にも注目すべき寺院が築造されていた。  
 『日本書紀』敏達天皇6(577)年  「夏5月5日、大別王(おおわけのおおきみ)と小黒吉士(おぐろのきし)を遣わし、百済国への宰(みこともち)とした(王臣が天皇の命令を承り三韓への使者となった際、宰と自称した。韓への宰というのは、古に典拠したことによる。今は使者という。後世は皆これに倣った。
 大別王の出自は詳らかでない)

  冬11月庚午(かのえうま)の朔、百済国の王(こきし;威徳王)は、還る使者の大別王らに授け、経論の巻を若干、ならびに律師(りっし:徳望の高い戒律の師)・禅師(ぜんじ;禅定【ぜんじょう】に通達している師僧)・比丘尼・呪禁師(じゅごんのはかせ;仏教の祈祷で災厄をはらう僧)・造仏工(ほとけつくるたくみ)・造寺工(てらつくるたくみ)の6人を献上した。やがて難波の大別王の寺に安置した」
 (禅定とは、真正の理を悟るため、思念や妄想から脱し、精神を集中させ、心身浄化に達する修行)。
 大別王の出自と同様、大別王の寺の所在は不明であるが、敏達天皇紀に、飛鳥時代の寺院が難波に造営されていた。
 難波津は大和・河内の外港としてひらかれ、大和川の舟運により大和へつながり、大和に通じる古道の出発地でもあった。
 一方、新羅との関係はより深酷になっている。新羅は、4世紀後半、農村共同体を基盤とした貴族が連合し建国した。朝鮮半島における三国時代、長きにわたって弱体であったが、5世紀後半になると、新羅は高句麗やヤマト政権の勢力を排除しながら洛東江(らくとうこう)中流域の加羅諸国を侵攻した。この時期なると新羅王の勢威が伸張し、巨大な墳墓がつくられた。
 中国との良好な関係を保ちながら、6世紀中頃には、ヤカト王権が影響力を行使してきた半島中南部の加羅諸国を滅ぼし、その勢いのまま百済・高句麗の領土を削っていった。
 「敏達天皇8(579)年冬10月、新羅は枳叱政奈末(キシサナマ)を遣わし調(みつき)を奉り、合わせて仏像も贈った」
  翌「9年夏6月、新羅は安刀奈末(アトナマ)と失消奈末(シショウナマ)を遣わし、調を奉ったが、天皇は受け取らずに帰した」
 朝鮮半島の情勢は、ますます緊迫した。
  推古天皇10(602)年「春2月、来目皇子(くめのおうじ;用明天皇皇子で、母は皇后穴穂部間人皇女。聖徳太子の同母弟となる)を、征新羅将軍に任命し撃たせようとした。諸々の神部(かんとものお;大和朝廷の祭祀に奉仕した神官;従軍して航路の安全と戦勝を祈願した)及び国造や伴造など、合わせて軍衆2万5千人を授けた。
 夏4月、将軍来目皇子が筑紫に到着した。そこから進軍して嶋郡(しまのこおり;福岡県糸島市志摩馬場【いとしまししまばば】辺りが郡衙の所在地)に駐屯して船舶を集め軍粮を運んだ。
 6月3日、大伴連囓(おおとものむらじくい)と坂本臣糖手(さかもとのおみあらて)とが百済から帰国した。この時、来目皇子が病臥し、征討を果たせなかった」
 「推古天皇11(603)年春2月4日、来目皇子が筑紫で薨じた。駅使を使い奏上した。天皇これを聞いておおいに驚き、聖徳太子と蘇我大臣を召して、
  『征新羅大将軍の来目皇子が薨じた。大事に臨んだが果たせなかった。大変悲しい』と言った。
 それで周芳(すは;周防国)の娑婆(さば;山口県防府市佐波;ほうふしさば)で殯(もがり;陵墓ができるまで遺体を棺に納め安置し、その間、遺体に向かって誄【しのびごと】をする)をした。それで土師連猪手(はじのむらじいて)を遣わし殯の事を掌らせた。これが、猪手連の孫が娑婆連(さばのむらじ)となる機縁であった。
 後に河内の埴生山(はにゅうのやま;大阪府羽曳野市埴生野)の岡上に葬った。
 夏4月、来目皇子の兄当麻皇子(たいまのみこ;母は葛城氏;当麻寺を開基というが未詳)に替えて、征新羅将軍とした。
 秋7月3日、当麻皇子は、難波より発船した。6日、当麻皇子、播磨に到着、時に、従っていた妻、舎人姫王(とねりのひめおおきみ;欽明天皇の皇女)が赤石(兵庫県豊岡市赤石)で薨じた。ために赤石の桧笠(ひかさ;兵庫県姫路市大塩町の日笠山か?)の岡上に葬った。それで当麻皇子が引き返し、遂に征討は果されなかった。
 冬10月4日、小墾田宮(おはりだのみや;高市郡【たかいちぐん】明日香村)に遷られた」
 604年、隋で煬帝が即位する。
 605年 、隋の煬帝が大運河の建設を命じる。
 607年 、第2回遣隋使として小野妹子が派遣される。
  「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」

  推古天皇21(613)年に「冬11月、難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置いた」とある。
 難波津からまっすぐ南下し、四天王寺のあたりで渋河道に合流し柏原市域を通り、さらに斑鳩を経由して飛鳥まで続く日本最古の官道として整備された。
  飛鳥文化は、大和飛鳥を中心に6世紀後半から7世紀の前半に、推古朝を頂点として華開いた文化を美術史上飛鳥文化と呼んだ。時代区分としては、仏教渡来から大化の改新までをいう。その飛鳥文化は、我が国に仏教が伝来して以来最初の、仏教文化の開花期であった。その国際性は、とりわけ朝鮮半島からの渡来文化に彩られていた。
 ただ百済仏教のみが伝来したわけではなく、高句麗・新羅の仏教もあいついで受容された。それは仏教のほか、道教・儒教・芸能などが、土木・建築・仏像製作・鋳造技術・染織工芸などと共に流入される、多岐にわたる朝鮮三国からの渡来文化であった。やがて遣隋・遣唐使による外交過程にともない中国仏教が導入されてきた。
 それにより、東アジアの仏教が、唐・西域・天竺などの伝統文化を複合する大乗仏教を様々に発展させていった。
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 2)高句麗使節の迎賓館・相楽館
 欽明天皇31(570)年
 「春3月、蘇我大臣稲目宿禰が薨じた。
 夏4月2日、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや;桜井市初瀬)に行幸された。
 越(北陸地方)の人・江渟臣裾代(えぬのおみもしろ)が京に来て、
 「高麗の使人が、風浪に辛苦し迷い、泊まる浦津が分からず、流されるままに漂流し、突然、漂着しました。それを郡司(道君)が隠匿しています。それで臣がお知らせに参りました」と奏上した。
 天皇は詔して、
 「朕は帝業(天子の統治)を承(つ)いで、僅か10年である。高麗が航路に迷いながらも、初めて越の海岸に着いた。漂泊に苦しむも、いまだ生命を全うしている。徽猷(きゆう;よい施策)が広く行きわたり、至德が魏々(ぎぎ;高く尊い)、しかも仁政が傍(あまねく)(ゆきわた)り・大恩が蕩々(とうとう;果てしなく広大)である証しではないか。官人は、山城国の相楽郡(さがらのこおり)に館(むろつみ;室積み;客舎)を建てて浄(きよ)め整えて置け。使人を厚くもてなせるように」と言われた。
 この月、乗輿(じょうよ;天皇)は泊瀬柴籬宮より戻ると、東漢氏直糠児(やまとのあやのうじのあたいあらこ)と葛城直難波(かずらきのあたいなにわ)を遣わし、高麗の使者を迎えさせた。
 5月、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ;傾子、これを舸陀部古という)を越に遣わし、高麗の使節を饗応した。大使は膳臣が勅使とわかると、道君に、
 「おまえは天皇ではなかった。はなから疑っていた通りだ。汝が膳臣を伏して拝んだのを見て、ますます百姓(おおみたから)に過ぎないと再認識した。前に我を偽り、調(みつき)を奪い着服した。それを早く返せ。言い訳は煩わしい」と迫った。
 膳臣はこれを聞き、人を使いその調を探索し、これを揃えて返し、京に帰り復命した。秋7月、高麗の使節は近江に到着した。
 この月、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)を遣わし、難波津(なにわのつ)より発船し、狹々波山(ささなみやま;滋賀県 大津市の逢坂山)に船を引きとめ飾船に仕立てた。そこから近江の北山(琵琶湖の北岸)へ迎えに行った。山背の高(こまひのむろつみ;相楽館)に案内するや、東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたいこまろ)と錦部首大石(にしこりのおびとおおいし)を遣わし守護した。更に高麗の使節を相楽館(さがらかのむろつみ)で饗応した」
 敏達紀にも「敏達天皇3(574)年夏5月5日、高麗の使人が、越の海の海岸に停泊した。秋7月20日、高麗の使人が、入京した(後略)」とある。
 相楽館は、北陸から琵琶湖の北岸に出て、乗船して湖の南端の瀬田川から宇治川と下り、船のまま木津川を遡上して相楽郡に入る高句麗使節の迎賓館であった。
 相楽郡は、笠置町(かさぎちょう)・和束町(わづかちょう)・精華町(せいかちょう)・南山城村(みなみやましろむら)の3町・1村を含む。木津川は、三重県伊賀市で柘植川と服部川、京都府相楽郡南山城村で名張川と合流し、京都府で淀川に流入する。
 木津川の南岸にある木津は、現代でも交通の要衝である。古代では、藤原宮造営用の木材が、近江長浜の田上山から伐りだされて、琵琶湖を南下して瀬田川・宇治川を下り、宇治津で宇治川が流入していた巨椋池(おぐらいけ)で、木津川(泉河)を南に遡上して、木津(泉津・泉木津)で陸揚げされた。陸路、平城山を越えて飛鳥京へ運ばれた。
 巨椋池は、京都府南部にあたる京都盆地の中央部、盆地の最も低い地域に、昭和10年代まで存在していた大きな湖沼であった。当時の面積約 7k㎡あり、宇治川・木津川(泉川)・葛野川(かどのかわ;桂川)・鴨川・櫃川(ひつかわ;山科川)など、京都盆地の全水系が集中する地点にあたり、与等(よど;淀)津・三室津・岡屋津・宇治津などが結ぶ水上交通の中継地となっていた。また宇治茶園の覆いに用いた葦などの恵みもあった。
 琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。それが淀川となり、難波津に流れ出た。 現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる巨椋池は、平安京と平城京の間に位置しており、陸上交通は、その池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。

 木津川は、古代では泉河とよばれ、木津川水運を利用した「泉津」としてその役割を発揮した。平城京へ遷都すると、「泉津」は淀川と結んだ西国からの物資陸揚げ地ともなり、平城京の「外港」としての重要性は一段と高まった。
 欽明天皇の政権は、越の海の海岸から高句麗との交易・交流を見据えて、この水系を念頭に置きながら相楽館を建てた。
 精華町は、京都府の南西端に位置し、西は生駒市、南は奈良市に接する奈良県との県境にある。『和名類聚抄』にも、精華町の地に大狛郷を記す。その精華町の区域に、江戸時代には、下狛村があり、明治22年には、相楽郡狛田村の大字になった。精華町の対岸、木津川右岸にある京都府木津川市山城町に、今でも上狛(かみこま)の地名と「高麗寺」という字名を遺す。
 「狛」の地名は、相楽館の迎賓館を核にして、高句麗系渡来人が移住して来た証となる。山城町「上狛」にあった高麗寺の伽藍配置は、法起寺式を採り、白鳳期に本格整備され、平安期まで存続したとされる。薬師寺の僧・景戒(きょうかい;けいかい)が平安時代初期に書き上げた『日本霊異記』中巻18話に、高麗寺の永常(えいじょう)をそしり口がゆがんだ、と記す。
 昭和9(1934)年に、日本最古の寺院とされる飛鳥寺や天智天皇が建立した川原寺と同型の瓦が、高麗寺の史跡で大量に見つかり、昭和13年からの発掘調査により、約200m四方の寺域と推定され、塔が右、金堂が左にある法起寺式の伽藍配置であった。塔の心柱(しんばしら)の礎石の南側面に、半円形の横穴式の舎利孔があった。平成17年の発掘調査では、塔の上部に取り付けられた相輪部の水煙と円筒形の擦管(さっかん)が出土した。
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