「科野」の語源について、江戸時代、独学で国学を研究した谷川士清(たにかわことすが)が、『日本書紀通証』に「科の木この国に出ず」と記した。
 荷田春満(かだのあずままろ)・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる賀茂真淵も『冠辞考』に「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり」と記しています。
 古代信濃には科の木が多く自生し、その樹皮の繊維から布・縄・牛馬の手綱などが作られていました。
 また賀茂真淵は「信濃国いにしえ科野と書く。その地名には科のこと多く見ゆ。山国にて階坂(しなさか)あれば地の名となりけむ」とも記していた。
 その形声文字である「階」の「阜(こざとへん)」が、「土盛り」を表し、「しな」・「きざはし」などと訓まれ、「高きに登る道」という意となり、「皆」が「音」になります。
 信濃には、更科・豊科・埴科・倉科・仁科・明科・蓼科など科がつく地名が数多くあります。階坂(科坂)は高き峠を意味します。『古事記』にもみられますが、古代では「坂」は「峠」を意味しました。信濃でも、碓日坂(うすひのさか;碓氷峠)・神の御坂(御坂峠)・県坂(あがたさか;鳥居峠)などと呼んでいました。
 これが、賀茂真淵が記す「山国にて階坂あれば地の名となりけむ」の意味です。
「科野」の「野」は、山裾の緩やかな傾斜地を意味します。

 7世紀末の藤原宮跡から出土した木簡に「科野国伊奈評鹿□大贄」とあり、『古事記』には「科野国造」と表記します。 
 『続日本紀』では、文武天皇紀の慶雲元/大宝4(704)年の条に「鍛冶司(かぬちのつかさ)をして、諸国の印を鋳しむ」とあり、その諸国の国印を作成するにあたり、正方形の印面を「○○国印」と4文字構成するため、国名をすべて2文字の表記としました。その時に「科野」を「信濃」と、「三野」を「美濃」としたのです。