景行天皇と倭建命
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 目次
 1)景行天皇の后妃と皇子・皇女
 2)景行天皇の御子80王、地方官となる
 3)景行天皇「諸国に令して田部と屯倉を興した」
 4)安閑天皇、屯家を全国に拡大
 5)景行天皇、膳大伴部を置く
 6)小碓命、九州・出雲へ遠征
 7)倭建命に東征を命じる
 8)倭建命崩ず
 9)倭建命の御子たちと建部
 


 1)景行天皇の后妃と皇子・皇女    目次
 大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇;おほたらしひこおしろわけのすめらもこと)が、纒向の日代宮に居まして、天下を治めた。この天皇は、吉備臣などの始祖にあたる若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおほいらつめ;伊那毘は後の播磨国印南郡の地名)を娶り、生れた御子は、櫛角別王(くしつのわけのおほきみ;茨田下連等之祖;『播磨国風土記』に「河内国茨田郡“まったぐん”の枚方の里」とある)、次に大碓命(おほうすのみこと)、次に小碓命(をうすのみこと;景行紀2年に「大碓皇子・小碓命。一日同胞而双生」とある)、またの名が倭男具那命(やまとをぐなのみこと)、次に倭根子命(やまとねこのみこと;倭の大地に根を張る意があり、国土に勢力を伸張させる天皇の地位を象徴)、次は神櫛王(かみくしのおおきみ;下文に「木国之酒部ノ阿比古、宇陀ノ酒部之祖」とある;酒部は、大化前代、酒を醸造する部民)の5柱(いつはしら)
 又、八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと;崇神天皇の皇子・美濃の人)の娘・八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)を娶った。生れた御子は、若帯日子命(わかたらしひこのみこと;次代成務天皇)、次は五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと;尾張連の祖)、次は押別命(おしわけのみこと)、次は五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)
 五百木之入日子命は『新撰姓氏録』左京皇別上の御使(みつかい)朝臣条によれば、気入彦命は応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連(みつかいのむらじ)の氏姓を賜ったという。『新撰姓氏録』右京皇別下にも、御立史(みたちのふひと)が気入彦命の後裔と記されている。
 『古事記』・『日本書紀』の双方には、この皇子の名は見られない。名前の類似点から五百城入彦皇子と同一人物と考えられる。 又、妾(みめ;妃;『日本書紀』には襲武媛“そのたけひめ”とある)の子、豊戸別王(とよとわけのおほきみ)、次に沼代郎女(ぬのしろのいらつめ)とある。
 又、妾の子、沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)、次は香余理比売命(かごよりひめのみこと)、次は若木之入日子王(わかきのいりひこのおほきみ)、次は吉備之兄日子王(きびのえひこのおほきみ)、次は高木比売命(たかぎひめのみこと)、次は弟比売命(おとひめのみこと)とある。
 又、日向之美波迦斯毘売(ひむかのみはかしびめ)を娶り、生れた御子は、豊国別王(とよのくにわけのおほきみ)とある。
 (『日本書紀』景行紀13年、天皇が九州遠征で襲“そ”の国を平定し、高屋宮“たかやのみや;宮崎県西都市大字岩爪に高屋神社が現存”に滞在した際、佳人御刀媛“みはかしひめ”を娶り生んだという。日向国造の祖とされる。
 『日本書紀』が記す襲の国とは、景行天皇12年「11月、日向国に到り、行宮“あんぐう”を建てて居住された。これを高屋宮という」。
  「12月5日に、熊襲を討つことを議った。天皇は群卿に『朕が聞くには、襲国に厚鹿文(あつかや)鹿文(さかや)という者がいる。この両人は熊襲の首領で、仲間が甚だ多く、熊襲の八十梟帥(やそたける)と呼ばれる。その鋭鋒は当たるべからざる勢いがある。寡兵では、賊を滅ぼせない。しかし、多くの兵を動員すれば、百姓の害となる。何とか武威に頼らず、座してその国を平定できないか』といった」。
 源順の編纂した『和名類聚抄』に、大隅国姶羅郡にある郷の一つに「鹿屋郷」があるが、「鹿屋」の正しい読みは「かや」という。襲の国は、この辺りをさすとみられる)。
 又、伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)の弟(おと;皇后の妹)・伊那毘能若郎女(いなびのわきいらつめ)を娶り、生れし御子は、真若王(まわかのおほきみ)、次に日子人之大兄王(ひこひとのおほえのおほきみ)とある。
 (旧事記・天皇本紀に「奄智白幣造(あむちのしらしでのみやつこ)の祖」とある。 奄智とは、大和国十市郡菴知村“あむちむら”で、現在の奈良県天理市庵治町“おうじちょう”に因む。白幣とは、白和幣“しらにぎて”で、榊の枝に掛け、神前に、捧げる麻や楮“こうぞ”で織った白い布で、後に絹や、梶の木の皮の繊維部を糸にして織った白布を用いた)
 又、倭建命の曽孫・名は須売伊呂大中日子王(すめいろのおほなかつひこのおおきみ;下文には、倭建命と弟橘比売命の皇子・若建王“わかたけるのおほきみ”の皇女とあり、『日本書紀』では、その3男とすれば、倭建命の孫となる)の娘・訶具漏比売(かぐろひめ)を娶り、生れた御子が大枝王(おほえのおほきみ;下文には、景行天皇の皇子として大江大王が載る)



 2)景行天皇の御子80王、地方官となる    目次
 おおよそ、この大帯日子天皇の御子たち21王を記すが、記されない59王があり、甚だ多い。合わせて80王の中、若帯日子命(成務天皇)と倭建命、また五百木之入日子命、この3王は、太子(ひつぎのみこ)の名を負う。 それより他の77王は、悉く国々の国造・和気(わけ)・稲置・県主に、それぞれが別け賜った。  そうして、若帯日子命が、天下を治め、小碓命は、東西の荒神(あらぶるかみ)と伏(まつろ)わぬ者どもを平らげた。 次の櫛角別王は、茨田下連(まむだのしものむらじ)らの祖となった。次の大碓命は、守君・大田君・嶋田君の祖となった。次の神櫛王は、木国(紀ノ国)の酒部阿比古(さかべのあひこ)と宇陀酒部(うだのさかべ)の祖となり、次に豊国別王は、日向国造の祖となった。
 天皇は、三野国造(みののくにのみやつこ)の祖となる大根王(おほねのおほきみ)の娘、兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の2人の乙女の容姿が、美麗と聞き及び見定めようとして、御子の大碓命を遣わし呼び寄せた。その遣わされた大碓命は、召し出さず、おのれ自ら2人の乙女を娶った。代わりに、他の女人を探して、その乙女を偽って名付けて貢上した。
 天皇は、他の女だと知り、長らくひと所に目を据えて物思いにふけり、ついに娶ることはなかった。その大碓命が、兄比売を娶り生れた子が、押黒之兄日子王(おしくろのえひこのおほきみ;これが三野の宇泥須和気“うねすわけ”の祖)である。また弟比売を娶って、生れた子、押黒弟日子王(おしくろのおとひこのおほきみ;これが牟宜都君“むげつのきみ”らなどの祖)である。

 この景行天皇の御世に、田部(たべ)を定め、また東の淡水門(あづまのあはのみなと)を定め、また膳(かしはて)の大伴部(おほともべ)を定め、また倭の屯家(みやけ)を定めた。また坂手池(さかてのいけ)を作り、竹をその堤に植えた。
 (牟宜都君は、大碓命を始祖とする。美濃国武芸郡“むげのこおり;後の岐阜県武儀郡;むぎぐん”有智郷を本拠とする豪族で、現在の美濃市・関市一帯である。その領域は武儀郡・郡上郡・山県郡・方県郡“かたがたぐん”一帯に及ぶ。
 鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文に「牟義都国造、名は伊自牟良君“いじむらのきみ”」とある。 『日本書紀』の雄略天皇7(463)年の条で、吉備下道臣前津屋(きびのしもみちおみのさきつや)の反抗に際して「身毛君大夫(むけのきみますらお)を遣わし」とある。 岐阜県岐阜市岩崎眉山の山頂にある、4世紀後半築造の前方後円墳である鐙塚古墳“あぶつかこふん”は、牟宜都君の族長の墳墓とみられている)
 (坂手池は奈良県磯城郡田原本町阪手の地にある。
  『万葉集』3230の歌
  幣(みてぐら)を 奈良より出でて  水蓼(みずたて)の 穂積(ほづみ)に至り  鳥網(となみ)張る  坂手を過ぎ 石走(いははし)る 神南備山に  朝宮に 仕へ奉りて  吉野へと 入り坐(ま)す 見れば 古(いにしへ)思ほゆ

 元正天皇が吉野へ詣でる時に、幣(みてぐらを神前に並べる意から、“奈良”にかかる枕詞)を神に奉斎する奈良の都を出て、水蓼(ヤナギタデで、和名はマタデ・ホンタデともいう。水辺に生えるタデ科の一年草で、辛くて口が【ただれる】の意味でタデの名が付いた。葉は、奈良時代から魚や鳥等の臭みのある食材に添えられ、臭みを消し、味を引き立てた。今でも鮎の塩焼きに、タデ酢が添えられる。穂状に花が咲くところから“穂”または地名の“穂積”にかかる)の生える穂積(田原本町保津)を通って、鳥網を張る(鳥網を坂に張る意から、坂にかかる枕詞)坂手を通り過ぎて、石が転げ落ちる階(きざはし)を登る神が宿る山で、早朝から天皇にお仕え申し上げて、吉野の離宮へと 元正天皇がお入りになる光景を見ると、 天武・持統の昔が思い出されます。)



 3)景行天皇「諸国に令して田部と屯倉を興した」    目次
  景行紀57年10月の条で「諸国に令して田部と屯倉を興した」とあり、田部は、古代ヤマト朝廷の直轄地である屯倉を耕作させるために、地方豪族が支配する農民の一部を部民として設定した。
  その由来は、仁徳紀即位前記に「伝えきくところでは、纏向玉城宮(まきむくたまきのみや)における垂仁天皇の御世に、太子の大足彦尊(景行天皇)に倭の屯田(みた)を定めさせた。この時の勅旨は『全ての倭の屯田は、時の天皇の屯田であり、帝の皇子といえども、当代の天皇でなければ、掌ることはできない』。これを山守の地というべきではない」とある。
 もともとは、大和の諸々に置かれた屯倉は、ヤマト大王領である「屯田」に付属する倉庫や事務所などをさしたが、やがて屯田の支配領域一帯を称するようになった。
 安閑紀元(534)年10月条に「天皇は大伴大連金村に勅して、4人の妻を召したが皇嗣がない。後世、わが名が絶えることが心配だ、といわれた。金村は、后妃のために屯倉を置き、それを後世に伝えることにより御事績を顕彰するようになさいませ、と答えた。
 大伴大連金村が 『小墾田屯倉(おはりだのみやけ;大和国高市郡)と国ごとの田部(たべ;屯倉の耕作に従事する民)を紗手媛(さてひめ)に賜い、桜井屯倉(河内国河内郡“東大阪市”;ある本では加えて茅渟山屯倉“ちぬのやまのみやけ;大阪市泉佐野市”を賜った)と諸国の田部を香々有媛(かかりひめ)に、難波屯倉と郡ごとの钁丁(くわよほろ;屯倉に付属する田地の耕作者)を宅媛(やかひめ)に賜い、後世に示して、昔を偲ぶようになさいませ』と申し上げた。天皇は「奏上の通り施行せよ」と詔(つ)げられた。
  『日本書紀』安閑元年閏12月条によると、三島竹村屯倉(みしまたけむらのみやけ;大阪府三島郡;高槻市)が、大河内直味張(おほしこうちのあたいあじはり)がさし出す钁丁(くわよほろ)によって耕作され、これが、河内県の部曲(豪族の私有民)を田部とすることのはじまりである、としている。
  『日本書紀』「安閑元年閏12月4日、三島に行幸され、大伴大連金村が従った。天皇は大伴大連を使い、三島県主飯粒(いいぼ)に良田がないか尋ねさせた。県主飯粒は、この上なく喜ばれ、誠心を尽くさて、上御野・下御野・上桑原・下桑原ならびに竹村の地を、総じて40町を献上した」 。 その上、三島県主飯粒は詔を賜り、喜びかつかしこまり、その子の鳥樹(とりき)を大伴大連にたてまつり、従者少年の一人とした。  
 それより先の元年秋7月1日に「皇后は、その身分は天皇と同等といえるが、内外での名声にことのほか隔たりがある。それで屯倉の地を充てて、椒庭(うちつみや;皇后の宮殿)を建て、後代の遺構とする」といわれ、勅使を遣わし、良田を選ばせた。勅使は勅命を奉じ、大河内直味張(おほしこうじのあたいあじはり;更名黒梭“くろひ”)に伝えて、『今、汝は、肥えた雌雉田(きじた)を差し出しなさい』といった。
 味張は、突然奉るのを惜しみ、勅使を誑かして『ここの田は、干天の際は、用水が難しく、溢水期には浸水します。労力を費やすわりに、収穫は甚だ少ないのです」という。勅使はその言葉通り、隠すことなく復命した』
 次いで、安閑元年閏12月4日、天皇が三島に行幸され、従った大伴大連金村が「(前略)今、汝味張は、王土の辺境にある微々たる民でありながら、突然、その王土を奉るのを惜しみ、軽く使者の宣旨に背いた。味張は、今後、郡司に預かることはならぬ。 (中略)
 これに、大河内直味張は、怖畏しひたすら悔い、地に伏して冷汗を流した。そして大連に「愚蒙の民の罪は万死に値します。謹んでお願いいたします。郡毎に、钁丁(くわよぼろ;田部)を春期には5百丁・秋期には5百丁を天皇に奉献し、子孫もこれを絶やしません。これにより命を救っていただければ、後々の戒といたします」といい、別に河内の狭井田(さいた)を6町、大伴大連への賂(まいない)とした。
 これが三島に竹村屯倉が置かれ、河内県(こうちのあがた;大河内直の本拠地)の部曲(うじやつこ;豪族の私有民)が田部となった、ことの起こりである」。
 『高槻市史』によれば、当初、屯倉の管理は、三島地方の首長であった三島県主と大河内直が管理していたが、やがてヤマト朝廷が派遣する三宅連・武生連らに委ねられたという。また、この屯倉の田部の居住地を、市内芥川東岸にある上田部・下田部の地名に比定している。



 4)安閑天皇、屯家を全国に拡大    目次
  2(535)年5月9日に、筑紫(福岡県ほぼ全域。古くは九州全体を称した)に穗波屯倉・鎌屯倉、豊国(福岡県東部・大分県)に三崎屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉(かとのみやけ)・大拔屯倉(おほぬくのみやけ)・我鹿屯倉(あかのみやけ)、火国(佐賀・長崎・熊本3県)に春日部屯倉、播磨国(兵庫県西部)に越部屯倉・牛鹿屯倉(うしかのみやけ)、備後国(広島県東部)に後城屯倉(しつきのみやけ)・多禰屯倉(たねのみやけ)・来履屯倉(くくつのみやけ)・葉稚屯倉(はわけのみやけ)・河音屯倉(かわと)、婀娜国(あなのくに;備後国安那郡・深津郡;広島県深安郡・福山市)に膽殖屯倉(いにえ)・膽年部屯倉(いとしべ)、阿波国(徳島県)に春日部屯倉、紀国に経湍屯倉(ふせ)・河辺屯倉(かわへ)、丹波国(たにわのくに;兵庫県北部)に蘇斯岐屯倉(そしき)、近江国に葦浦屯倉、尾張国(愛知県西部)に間敷屯倉(ましき)・入鹿屯倉(いるか)、上毛野国(群馬県)に緑野屯倉(みどののみやけ)、駿河国に稚贄屯倉(わかにえ)を置いた。
 秋8月1日に、詔して諸国に犬養部(いぬかいべ;犬を飼って屯倉を管理した部民)を置いた。
 9月3日に、詔して桜井田部連・県犬養連・難波吉士(なにわのきし)らに、屯倉の税を主宰させた。
 13日に、時に大伴金村に勅命が下り「牛を難破の大隅島(おほすみのしま;大阪市東淀川)と媛島松原(ひめしまのまつばら;大阪市西淀川区)に放牧し、歴史に名前が残るよう願う」と仰せになった。
 (主に西日本に屯倉が設置され、桜井・犬養などの連と難波吉士たちが現地に派遣され、稲穀などの租税関係を管掌した。)



 5)景行天皇、膳大伴部を置く    目次
 東の淡水門(あづまのあはのみなと)とは、景行紀53年の条に「冬10月、上総に行き、海路により淡水門を渡りとあり、この時、覚賀鳥(かくかくのとり;カクカクと鳴く鳥;みさご)の声を聞き、その鳥の形を見たいと思い、探しながら海に入っていった。そこで白蛤(うむき;はまぐり)をとった。その時に、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖で磐鹿六鴈(いわかむつかり)という者が、蒲をたすきにして、白蛤を膾(なます;魚・貝・獣などの生肉を細かく刻んだもの)にして進めた。それで、六鴈臣の功を褒めて膳大伴部(かしわでのおおともべ;膳部の管掌者に任じられた)を賜った」とある。
 安房国は、房総半島の南端部で、初めは上総国の一部であったが、養老2(718) 年、平群・安房・朝夷・長狭の4郡をさいて分国した。
 膳臣(かしわでのおみ)の派生氏族の高橋氏のよる、『政事要略』所引の「高橋氏文」には、景行天皇の宣命に六雁命の子孫を上総国・淡国の長と定め、「東国に入る(中略)、上総国安房の浮島宮に到る」とあり、「浮島宮」は、遠征中の景行天皇の行宮であるから、淡水門は館山湾に比定できる。
 朝廷内の御膳にあたる伴部を、膳大伴部となった磐鹿六鴈を始祖とする膳臣、後の高橋朝臣が管掌した。その伴部は大王に直属するため、諸国の国造は、その子弟を上番させた。
 一方、諸国にも、人を割り当て、各地に膳大伴部を広げた。「高橋氏文」に「武蔵国上祖」「秩父国 上祖」「東方諸国12氏」とあるように、古代の東国、志摩・三河・遠江・駿河・甲斐・相模・武蔵・安房・下総・常陸などの諸国にも置かれた。
 「高橋氏文」には「若狭ノ国 六鴈命永久子孫等 遠世乃国家為定」とあり、膳大伴部が若狭国にも置かれ、さらに石見・豊前・豊後・筑前・筑後・肥後の諸国にも置かれた。

 藤原京・平城京の発掘調査から多数の木簡が出土しており、これら木簡のほとんどは都に税として貢進された物品を記す。 木簡には、その物品の名前とともに、貢進地の国名と郡名が記され、それが何の税にあたるを示す租・庸・調の文字が記されている。
 しかし、一部の木簡には、租・庸・調だけでなく、贄(にえ)や御贄(みにえ)・大贄(おおにえ)の文字がある。日本古代から平安時代まで、贄の貢進国、即ち御食国(みけつくに)は、皇室・朝廷に、新穀も含まれていたが、特に穀類以外の副食物、魚貝類・海藻を中心に、動物の肉・果物であり、その加工品もあったため、生鮮食品のみとはいえないが、 特に海水産物を中心とした御食料(みけりょう)を貢いだため、贄の本質は特産性、季節性にあったとみられる。
 律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられたが、これとは別に贄の貢納が、『万葉集』にある郷土礼讃の歌にあるように、令外の制度として存続した。
 『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国・志摩国・淡路国などによる贄の貢ぎが認められるが、『日本書紀』「孝徳天皇2(646)年正月1日」の大化の改新の詔の其の四に、「旧の賦役を罷めて、田の調を行う」、「凡そ調の副物(そえもの;付加税)の塩と贄には、今後とも郷土で産出するものをあてよ」とある。
 『風土記』の伝承のなかで、律令制度が導入される以前、ヤマト朝廷の時代から、征服された人々が征服者に食物を貢進する服属儀礼が厳然としてあった。
 『延喜式』によると、若狭国は旬料として「雑魚」、節料として「雑鮮味物(水産物)」、さらに年に一度「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納めることが定められている。先述した、「高橋氏文」にある「若狭ノ国 六鴈命永久子孫等 遠世乃国家為定」とあり、膳大伴部が若狭国に置かれた、贄の管理と貢進の手配を管掌したようだ。
 また『延喜式』は、志摩国が10日毎に「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」を貢進していたと記す。淡路国は、旬料・節料として「雑魚」を贄とした。



 6)小碓命、九州・出雲へ遠征    目次
 天皇は小碓命に「なんで汝の兄は、朝夕の大御食(おほみけ;天皇との会食)に参らないのか、汝だけで行って労わりさとせ」と詔(つ)げられた。
 詔げてから5日が経つも、参らないままだった。それで天皇は小碓命に尋ねた。「なんで汝の兄は、いつまでも来ないのか。もしや未だに諭していないのか」というと、「とうに諭しています」と答えた。また「どう諭した」と詔げる。「早朝、厠に入るところを待って、捕まえ打って、手足を引き抜いて、薦に包んで投げ捨てました」と答えた。
  これ以後、天皇は、この御子の激しく荒い性情を恐れ「西方に二人の熊曾建(くまそたける;九州南部の熊曾という地の勇者)がいる。いずれも伏(まつろ)わぬ無礼な者どもだ。それで討ち取って来てくれ」と詔げて遣わした。この時、御子の髮は、額の上で束ねていた(つまり15、6歳)
 小碓命は、九州に行く前に、伊勢神宮にいる叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ねた。叔母は、衣(上衣)と裳(下半身に着るスカート状の衣類)を給わり、短剣を懐に入れて出征した。
 小碓命が、熊曾建の家近くに到着して見ると、その周囲を兵が三重に囲む中で、室屋(むろや;土を掘り下げ、柱を立て、板・茅で屋根を葺く竪穴住居)を作っていた。やがて、新室の落成を祝うために、食物の準備などで騒ぎ始めた。それで、家の周囲を遊行しながら、祝宴の日を待った。
 その祝宴に臨み、童女のように垂髪(うない)にするため、その結った髪を梳って垂れさせ、かの叔母の衣裳を着て、すっかり少女の姿に変装した。そして、女人の中に交じって、室内に入り込んだ。
 すると熊曾建の2兄弟が、その乙女をみて気に入り、自分たちの間に座らせ盛んに歓楽した。それが酣(たけなわ)になった時、懐から短剣を出し、兄の熊曾の衣の衿を掴み、その胸を刺し貫いた。弟の建(たける)は、それを見て恐れ逃れた。
 小碓命は、直ちに追い、その室の階段の下で、その背後から、剣を尻から上へ刺し通した。 するとその熊曾建が「その刀を動かさないで欲しい、我が申したいことがあります」というと暫し許され、押し伏せられたまま言上させた。
 「貴方はどういう方なのですか」と、答えて「我は纒向の日代宮(ひしろのみや)に住まいし、大八島国(おほやしまくに)を支配する大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしこおしろわけのすめらみこと;景行天皇)の御子で、名は倭男具那王(やまとおぐなのおおきみ)である。おのれら熊曾建の二人が、伏ろわず礼を欠くと聞かれて、おのれらを取り殺せ、と詔げられ遣わされた」と詔げた。
  熊曾建が「実に西の方には、我ら二人を除けば勇猛な強者はいません。対して、大倭国(おほやまとのくに)には、我ら二人に勝る、勇猛な丈夫(ますらお)がいました。それで、吾があなた様に御名を差し上げ、服属します。今後は、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称えるべきです」といい終えると、熟れた瓜のように振り折り殺された。それで、その時から御名を褒めたたえ倭建命と呼んだ。
 そしてヤマトの都に帰り上るとき、山神・河神及び穴戸神(あなとのかみ;「長門」は、古くは「穴門(あなと)」)を、皆、言向和(ことむけわして上京した。
 (景行紀27年12月条に「海路より倭に還り、吉備到る、そこで穴海(あなのうみ;古代、岡山平野の大部分は「吉備の穴海」と呼ばれる内海であった)を渡り、そこに悪神がいたため之を殺した」、 同じく28年春2月条に「吉備の穴済神(あなのわたりのかみ)と難波の柏済神(かしわのわたりのかみ)に害心があり、毒気を放って行路の人を苦しめ、共に禍害の叢地となっていた。それで、悉くその悪神を殺し、すべて水陸の路を開いた。
 天皇は日本武尊の今までの功績を褒め、ことのほか愛した」とある。
 穴済は吉備国穴(広島県福山市の海)をいう)。

 上京の途次、出雲国に入った。当初から首長の出雲建(出雲の勇者の意)を殺そうとしていった。すぐに友垣(ともがき)となった。そこで秘かに赤祷(いちい)で、偽の太刀を作り佩刀して、出雲建を肥河(ひのかは;斐伊川)の水浴に誘った。そして倭建命は、河より先に上がり、出雲建が解いて置いていた大刀を取り佩いて、
 「刀を交換しよう」といった。
 その後、出雲建も河から上がって、倭建命の偽の刀を佩いた。
 そこで、倭建命は
 「いざ、試合をしてみよう」と誘った。
 それぞれが大刀を抜くと、出雲建の偽の刀は抜けなかった。すかさず、倭建命は、大刀を抜き出雲建を打ち殺した。
 この時の御歌に、
  やつめさす 出雲建が 佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)多纒(さはまき) 真身(さみ)無しに哀れ
  「やつめさす」は、「八雲(やくも)立つ」の音変化により、出雲(いづも)にかかる枕詞という説があるが、「弥つ芽さす」のことで、「弥つ」は「勢い付く・栄える・熟れる」、「さす」は「生じる」で「勢いよく芽が出る」意である。
  「いづも」は「出づる藻」で、その意味が込められた枕詞であった。 「黒葛」は、ツヅラフジ科の落葉性つる植物で、関東以西の常緑樹林帯を植生にする。そのつるは丈夫で籠・胡(ころく;やなぐい)などに編まれる。 この歌では、刀の柄や鞘にツヅラを丁寧に巻いて立派な刀装をしていた。
 
 勢威盛んな勇者、出雲建が腰に佩く刀よ 黒つづらを たんと捲いた立派な刀だったが 肝心の刀身が無かった さぞかし無念であったろう

 このように、伏ろわぬ者を治めて、都に帰還し復命した。



 7)倭建命に東征を命じる    目次
 それに天皇は、また重ねて倭建命に「東方12道の荒ぶる神と伏ろわぬ者どもを言向和平せよ(ことむけやわせよ;説き従え平定せよ)」と詔げ、群卿に宣(の)らしめて、吉備臣らの祖、名は御友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副えて遣わす時、柊(ひいらぎ)で作った八尋矛(やしろほこ)を給った。
 勅命を拝して退出し、伊勢の大御神の宮に参った。神宮を拝してから、斎宮の叔母の倭比売命に「天皇は、もはや、我に死ねと思し召しなのだろうか。どうにか西方の悪しき者を討ち、帰還して参上してみれば、束の間の時も経たずに、軍勢も賜わらず、今、更に東方十二道の悪しき者どもの平定に向わせます。これで分かります。やはり天皇は我の死が思し召しなのです」と申し、憂い嘆きながら退く時、倭比売命から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を賜った。また御袋(みふくろ)を賜い「もし火急のことがあれば、この袋の口を開けなさい」と詔(つ)げた。
 (御友耳建日子は、下文には吉備臣建日子とある。『日本書紀』では「吉備武彦と大伴武日連(おほとものたけひのむらじ)に命じ日本武尊に従えさせた」とある。
 柊はモクセイ科の常緑小高木であるが、樹高は10mにまで及ぶ。山地に自生する。葉に光沢があり、長楕円形で革質、対生する。葉の縁は、厚いとげ状のぎざぎざをもち、先が鋭い。材は器具・楽器・彫刻などに用いられる。節分の夜には、悪鬼邪霊を払うとして、枝葉にイワシの頭をつけて門口に挿す。
「八尋」は、「非常に長いこと」、「非常に大きいこと」。「尋」は両手を広げた長さを言う。「八尋矛」は征討将軍の節“しるし”である。 『日本書紀』では「天皇は斧鉞を持ち、日本武尊に授けた」とある。
 草薙剣は、皇位の璽、三種の神器の一つで、天皇の武力の象徴とされている。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲国において十拳剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬り伏せた。尾を斬った時、刃がこぼれた。その尾を割くと大刀が出てきた。その霊剣が叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、即ち草薙剣であった。
 日本書紀では「素戔嗚尊は『これを、どうして自分の物にできようか』と言って、尊の5世の孫の天之葺根神(あまのふきねのかみ)を遣わし高天原の天照大神に献上した。これがいまの草薙剣である」。
 「くさ」は「奇」・「不思議」に通じ、「なぎ」はヤマト地方の神奈備山・三輪山の祭神である蛇を意味する古語で、この剣の由来は、霊妙なる蛇の剣となる。
 「御袋」に関し下文に「袋の口を解き開いて見たまえば、火打その中にあり」とある)
 
 やがて、尾張の国に至った。尾張国造の祖・美夜受比売(みやずひめ)の家に入り留まった。その際、求婚しようと思ったが、再び、東国より戻った時にと思案し、東国に向かった。悉く山河の荒ぶる神と伏ろわぬ人々を言向け(説き従え)し平定した。
 (寛平2(890)年の熱田太神宮縁起、日本武尊東征条に「天皇は、吉備武彦と建稲種公(たけいなだねのきみ)に勅命して日本武尊に服従させた。道を進み尾張国愛知郡に至った時、稲種公が申し上げた。当郡の氷上邑(ひかみむら;知多郡大高村)は、桑梓の地(そうしのち;故郷)です。大王が車から馬を解き、ここに休まれることを伏請します。日本武尊はその懇誠に感じ入りながらも、踟(ちちゅう;躊躇)していると、近くに一人の佳麗な娘を見た。その姓字を問うと、稲種公の妹、名は宮酢姫とわかった。すぐ稲種公に命じ、その美しい娘を聘納させた」とある。
 『熱田大神宮縁起』には、日本武尊が尾張連らの遠祖である建稲種公の娘・宮酢姫命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢姫命にその剣を奉斎することを命じた。そこで建てたのが熱田神宮であるという。)

 こうして相模国に到着した時、その国造が偽り「この野の中に大沼があり、その沼の中に住む神は、甚道速振神(いとちはやぶるかみ;甚“いた”く猛々しい神)です」と申した。それで、その神を見に行こうと野に入っていった。するとその国造が、野に火を着けた。これを見て欺かれた知り、叔母の倭比売命から給わった袋の口を開けて見ると、火打が中に在った。そこで、先ず刀で草を刈り払い、火打で火を打ち出し、向火(むかいび)を着けて火勢を反転させ焼き退けた。帰ると、国造らを皆斬り滅ぼし、火を着けて焼いた。それで、今は燒津(静岡県焼津市)という。
 そこを立ち、走水の海(天平7年の相模国封戸“ふこ”租交易帳に御浦郡走水郷)を渡った時、そこの渡神(わたりがみ;海神)が大波を起こした。船がくるくる回り先へ進めなかった。その時、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと;山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な穂積臣の祖・忍山宿禰の娘)が「私が、御子の身代わりとなって海に入ります。御子は、遣わされた任務を果し、天皇に復命をしなければなりませんから」と進言し、海に入ろうとして、菅・皮・絹などの敷物を、波の上に何枚も重ねて敷き、その上に座られた。すると、荒波が自ずと凪(な)ぎ、船の進路が保たれた。
 その時、后が歌った。
  さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
  (この歌は簡潔で、しかも切迫する情景と思いが如実に語られている。事実、弟橘比売命による倭建命への最期の言葉となれば、お互いに耐えがたい慕情を残すことになっただろう。
 「さねさし」は「相模」の枕詞で、「さ」は接頭語で「ね」は嶺で、「さし」は「そばだつ」の意で、相武に「険(さが)し」を含意し「相模」に掛けたようだ。
 「小野」の「お」も接頭語、野・野原である。 最後の「問ひし君はも」の「問ひ」は、倭建命への呼び掛けで、しかも「はも」は、詠嘆の意を表す。
  山影が険しく稜 (そば) 立つ相模の野原で 御子と共に 燃える火の中で 私に呼び掛け 励まして下さった、そんな貴方でした。 )
  それから7日の後、后の御櫛が、海辺に流れ着いた。その櫛を拾い、御陵(本居宣長の註釈書「古事記伝」では「この御墓も、相模か上総か知り難し」)を造り納め置いた。
 そこを立ち、荒ぶる蝦夷らを悉く言向け(説き従え)、また山や河の荒ぶる神々を平定し、都に還られる途中、足柄峠の坂(古代、坂とは峠を意味)の麓で、乾飯(かれいい;ほしいい)を食べていた所に、峠の神が、白鹿の姿となってやって来て、そこに立った。尊は銜えたまま残していた蒜(ひる;葱・にんにく・のびるなど、食用となるユリ科の多年草の古名)の片端を持って待ち構えて打った。それが目に中り打ち殺した。
 そして、峠の上に登り立ち、三度、嘆かれた。「あづまはや(わが妻よ)」「あづまはや」「あづまはや」と弟橘比売命を思慕して叫ばれた。それで、その国を阿豆麻(あづま)という。
 さらにその国を越えて甲斐に出た。酒折宮(甲府市酒折町)に滞在した時、歌を詠まれた。

  新治(にいばる;常陸国新治郷) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
   すると夜警の火をたく老人が、続けて歌った
    日々並(かがかばな)べて
    夜には九夜(ここのよ)
    日には十日(とうか)

 (日に日を重ね 夜は9夜 昼は10日を) 

 (この歌謡が、中世に流行る連歌の起源とされ、そのため連歌を「筑波の道」と呼んだ)
 その老人の即妙を褒めて、東の甲斐の国造を賜った。
 (『国造本紀』甲斐国造条に「纒向日代朝(まきむくひしろちょう;景行天皇)の世、狭穂彦王3世の孫の臣・知津彦公(おみちつひこのきみ)、その子塩海足尼(しほのみのすくね)を国造に定め賜う」とある)。
 その国より科野国を越えて、科野の峠(美濃と信濃の国境、木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569mの御坂峠)の神を言向け(説き従え)、尾張国へ還り、戻った際に娶ると契っていた美夜受比売(みやずひめ)の許に滞在した。
 倭建命に食事を献(たてまつ)る時、美夜受比売は、大杯を奉げた。その時、美夜受比売が着ていた襲(おすい;頭からかぶって衣服の上を覆う、裾まで長く垂れた外衣)の裾に月経が付着していたのを見て、歌われた。

  久方の 天の香具山 利喧(とかま)に さ渡る鵠(くび;白鳥の古名)  弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがひな)を 枕(ま)かむとは  吾(あれ)はすれど さ寢(ね)むとは

 (吾は思へど 汝(な)が着(け)せる  襲(おそひ)の裾に 月(つき)立ちにけり  陽射しが降り注ぐ 天の香具山の上空を 鋭く喧(かまび)しく 鳴いて渡る白鳥のように ひ弱くか細い 嫋やかな腕を 手枕に吾が寝ようとしたが、そなたの着ている上着の裾に 月が出て無念であった。)

 美夜受比売は、それに答えて歌った。

  高光る 日の御子 八隅知(やすみし)し、我が大君(おおきみ)、あらたまの、年が来経(きふ)れば、あらたまの、月は来経往(きへゆ)く、諾(うべ)な諾な諾な、君待ち難(がた)に、我が服(け)せる、襲(おそひ)の裾に、月立(つきた)たなむよ。

 (空高く輝き光る日の御子の、私の大君よ、歳月があらたまる度に、年が来ては過ぎ去り、新しい月日も過ぎ去ります。そうです。あなたを待ちかねて、私の着ている衣服の裾に、月が登ったのです)」。

 (「高光る」は、「日」の枕詞。「日の御子」は、日輪である天照大神の天孫の意で、天皇・皇太子・皇子の美称。「八隅知し」は「我が大君」の枕詞で「天下(あめのした)の隅々まで平らかに支配する」の意味。
 「あらたまの」は「年」「月」「日」「春」「来経(きへ)」などに掛かる枕詞で 、「新玉の」を素直に解すれば「年月の改まる意」。 「諾(うべ)な」は「もっともである」の意)



 8)倭建命崩ず    目次
 こうして娶り、その身に着けていた草薙の剣を、美夜受比売のところに置いて、伊吹山の神を討ち取りに向かわれた(近江と美濃の国境にある伊吹山の「いふき」とは、「息吹き」で、伊吹山は、しばしば、天候が悪くなり、それを荒ぶる神によるとみて命名した)
 伊吹山の麓に着くと「この山の神を、素手で直接討ち取ってやろう」といい、その山に登ろうとした時、白い猪と、その麓辺りで出合った。牛のような大きさであった。
 言挙して「この白い猪に化身したのは、伊吹山の神の使者であろう。今、殺さずとも帰りに殺せばいい」と思い、そのまま登った。その時、激しい氷雨が降り注ぎ、大きな降雹(こうひょう)が倭建命を打ち悩ませた。(この白い猪に化身したのは、神の使者ではなく、神の正体であった。あえて言挙したため惑わされた)。
 やむなく山を下り、玉倉部(岐阜県不破郡関原町玉の池)の清泉(しみず)に着いて、休息し、少し正気を回復させた。それで、その清泉を、居寤清泉(いさめのしみず)と名付けた。
 (「居寤清泉」の名から、滋賀県坂田郡米原町醒井の地に比定されがちであるが、本居宣長の著『古事記伝』は「醒井と云う名は、この倭建命の御事に因れるごと聞ゆるを、彼の清水は、伊吹山よりやゝ遠く、且つ道のゆくても違へれば、是には非ざる可し」とある)
 そこの玉倉部から発って、当芸野(たぎの;美濃国多芸郡;岐阜県養老郡)の辺りに着いた時、「我の心中には、常々、空を翔行する一念があった。しかし今では歩くこともままならない。足の運びが定まらない」といわれた。これ故にその地を当芸と名付けた。
 そこより、少しばかり進んだが、甚だ疲れ、杖をつきながら僅かに歩んだ。それでそこを杖衝坂(つえつきさか;四日市市采女町にある「杖突坂」)と称した。
 尾津前(おつのさき)の一本松のもとに着くと、先に食事をとった。その時、その地に置き忘れていた刀が失われずにあった。 その時の歌が、
 
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津(をつ)の崎なる 一つ松 吾兄(あせ)を 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣著(きぬき)ましを 一つ松 あせを

 (尾張に 真っ直ぐ向かう 尾津の崎にある一本松、あなたよ。一つ松が人であったなら、 大刀を佩かせて、着物を着せたのに・・・・ 「吾兄を」は、古代、女子が男子を親しんで呼ぶ人代名詞“あなた”の意で、上代では多く間投助詞「を」を付けて、歌の囃子詞【はやしことば】に用いた。
 『日本書紀』では、「阿波例“あわれ”」と表現する)
 
 その地を出て、三重の村(伊勢国三重郡采女郷“四日市市采女”)に着いた時に、再び「我が足は、三重の勾(まがり)のようになり、甚だ疲れた(勾餅“まがりもちひ”とは、米や麦の粉を飴と混ぜてこね、ほら貝の形にし、油で揚げたもので、『古事記伝』では、勾餅を“万加利”と呼ぶ例がある、という。足が三重に折りたたまれた勾餅のように曲がってしまって、ひどく痛むということであろうか。)」といわれた。故に、その地を三重と称した。そこを出て、能煩野(のぼの;三重県亀山市)に着いた時、ヤマトの国を偲んで歌われた。

 倭(ヤマト)は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭し美(うるわ)し 

 (まほろば」は、「真」は美称の接頭語、「秀」は、高く秀でている意。)

 又歌われた。
 
 命の 全(また)けむ人は 疊薦(たたみこも) 平群の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ その子

 (生命力に溢れる人は、平群の山の 大きな白樫(しらかし)の葉を髪に挿し、その命を謳歌せよ!若人よ!
(畳薦の薦は、日本全国の沼や河川・湖などの水辺に群生するイネ科の多年草のマコモで、それで編んだ敷物。薦を幾重にも重ね、「ひとへ」「ふたへ」と数えることから、「重(へ)」の音をもつ地名「平群(へぐり)」にかかる枕詞になった。
 平群の山は、信貴・生駒山地の東方に、平群谷を挟み、ほぼ南北になだらかに連なる、生駒市の中央部から斑鳩町の法隆寺に伸びる矢田丘陵。 熊白檮の「熊」は「大きい」の意味がある接頭語、「白檮」は常緑高木の「白樫」で、その名の由来は、材が白いことによるが、樹皮が黒いことから「黒樫」とも呼ばれる。
 「髻華」の「髻」は「もとどり」とも訓み、髪を頭上に集めて束ねる「たぶさ」をいう。故に「髻華」とは「挿頭(かざし)」の意で、古代、木や草の枝・花・葉などを頭に挿し、頭部の装飾とした。植物を髪に挿し、その生命力を受容する祈りが込められていた。
 この歌は、思国歌(くにしのひうた)である。『日本書紀』では「思邦歌」とあり、故郷を偲ぶ「望郷歌」である一方、大王による国見の際の「国ぼめ歌」でもある。)

 又歌う、
 愛(は)しけやし  我家(わがへ)の方よ  雲居立ち来(く)
 
  (ああ!懐かしい我が故郷の家の方角から、雲が立ち昇ってくるよ)

  これは片歌(かたうた)である。この時、御病により極度の危篤状態となった。

 (原文にある「急(には)かに」は、危篤になった意味。片歌とは、5・7・7、5・7・7からなる音数の前段が独立した歌をいう)

  なお歌われた。

  嬢子(をとめ)の床の辺(とこのべ)に  我(わ)が置きし  剣の大刀 その大刀はや

 (乙女(妻)の美夜受比売の床の側に、私が置いてきた太刀。ああ、その太刀よ。
 上文に「その御刀の草薙剣以ちて、その美夜受比売(みやずひめ)の許に置き」とある)

 歌い終わるや崩じた。直ちに駅使(はゆまづかひ;うまやづかい)を大王のもとに参上させた。
 (駅使【早馬使;はゆまづかい】は、7世紀後半の律令制下、3世紀に全盛を迎える邪馬台国以来の北九州と近畿間の道筋だけでなく、更に東国へも延ばしはじめた。駅鈴を大和朝廷から下付し、駅馬や駅家を利用する公用の早馬制度を充実させた。
 『日本書紀』では、崇峻天皇5(592)年11月「5日、(蘇我馬子は)駅使を筑紫の将軍(紀男麻呂)の所へ遣わし「内乱(馬子による崇峻天皇弑殺)が生じた。外事を怠るな」と告げたとあるのが、駅使が記された史料では、現存する初出である)

 やがて、ヤマトに居る后たちや御子など多くの人が、伊勢に下り御陵(みさざき)を造った。

 (『日本書紀』でも、「能褒野(能煩野)で崩じ、時に30歳」とあり、『古事記』と同様、倭建命の事績を語るのに、「崩」「后」「御陵」など天皇と同等の表現が用いられている。
 「御陵」の所在地は、三重県亀山市田村町字女ヶ坂に王塚という前方後円墳があり、鈴鹿市加左登町石薬師には白鳥塚と呼ばれる円墳あり、同市長沢町には武備陵と称される円墳があるが、いずれか確定されていない)。

 そして、当地の水をたたえる田地を這いめぐり、号泣しながら歌うのであった。

 浸(なづき)の田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍匐(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)

 (陵を取り囲む 水に浸かっている稲幹【稲の茎】が並ぶ田を 這い廻って泣き哀しもう 陵の周辺に茂る山芋の蔓ように  
 野老は、 ヤマノイモ科の蔓性の多年草でオニドコロともいう。列島各地の山野に自生。地下茎から多くのひげ根を出し、これを老人のひげとみて野老“やろう”とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。
 肥厚した根茎には強い苦みがあり、アルカロイドを含み有毒で、喉や胃腸の炎症を惹き起します。古代では、救荒植物として、茹でて晒したりして、デンプンを取り出して食用にしたようです。)

 すると倭建命は大きな白鳥に身を変えて、天空に飛び立ち浜に向っていった。后や御子らは、小竹(しの)を刈った切株で、足を切り痛めても、その痛みを忘れ泣き叫びながら追った。
 この時の歌が、

 浅小竹原(あさじのはら) 腰渋(こしなづ)む 空は行(ゆ)かず 足よ行くな 
 
 (背の低い小竹の原を追っていくと、小竹が腰に纏わりつき進みずたらい。それでも空は飛べないし、足で追いかけてゆくしかない。
 「足よ行くな」の「よ」は、動作の手段を示す格助詞「で」の意。「な」は、確認・詠嘆・感動・意味の強調、などを表す終助詞)

 やがて、その浜の海水に入って、難渋して行く時に歌われた。

 海処行(うみがゆ)けば 腰渋(こしなづ)む 大河原(おほかはら)の 植え草 海処(うみが)は いさよふ

 (海を行く時は、海水で腰をとられて進みづらい、広々とした川面まで伸びる菅なので、海では足を取られて、なかなか追いついて行けない。
 “植え草”の「植」は、「木が直立する」義が根源であるから、植えた草ではなく、自然に茂り立った草。 “大河原”は、広々した川の水面。 “いさよふ”の「いさ」は、「イサ;否」「イサカヒ;諍」「イサヒ;叱」に通じ、行くことを阻まれている意味である)

 又、白鳥が飛び、岩の多い磯にとどまった時に歌う

  浜つ千鳥(ちとり)  浜よは行かず  磯伝(いそづた)ふ

 浜千鳥よ!浜辺を飛んでいかないで、どうして追っていきにくい磯を飛んで行くのです。

 (「浜よは行かず」の「よ」は、動作の経過点を示す格助詞で「・・・・を通って」の意。
 上記の4つの歌は、皆、倭建命の御葬儀で歌われた。それ故に今に至るまでも、これらの歌は、天皇の大御葬(おほみはぶり)に歌われた。
 天武紀朱烏元(686)年9月条に天皇崩御の際、殯庭(もがりのにわ)で「種々歌を奏す」とある。「浸の田」など4つの葬送歌も歌われたであろう)。
 
 さて白鳥は伊勢国より飛翔し、河内国の志幾(志紀郡志紀郷;柏原市周辺)に留まった。そのためその地に御陵を造り御魂の鎮座を願った。それで御陵を、白鳥御陵(しらとりのみさざき)と呼んだ。ところがそこから更に天高く飛翔して行った。
 およそ倭建命が、国々の平定に巡行した時、久米直の祖で名を七拳脛(ななつかはぎ)という者が、常に膳夫として従い仕えていた。
 (『日本書紀』景行天皇40年7月条に日本武尊の東征にあたり、七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫に任命した、とある)。



 9)倭建命の御子たちと建部    目次
 この倭建命が、伊玖米天皇(いくめのすめらみこと;垂仁天皇)の娘・布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりびめのみこと)を娶り生まれた御子が帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと;仲哀天皇)、一柱。
 また走水の海に入水した弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を娶り生れた御子が、若建王(わかたけるのおほきみ)、一柱。
 また近江の野洲国造(やすのくにのみやつこ)の祖・意富多牟和気(おおたむわけ)の娘・布多遅比売(ふたじひめ)を召して生まれた御子、稲依別王(いなよりわけのおほきみ)、一柱(稲依別王を祖とする犬上君は近江国犬上郡の豪族であった)
 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)は、飛鳥時代の7世紀前半、最後の遣隋使であり最初の遣唐使でもあった。
 『日本書紀』天武紀に「13年11月、犬上の君に姓を与えて朝臣とした」とあり、『新撰姓氏録』の「左京皇別」に「犬上朝臣は諡景行の皇子、日本武尊から出た」とある。
 また、『日本書紀』には 日本武尊の功名を録(しる)そうとして、武部(建部;たけるべ)を定めた、とある。倭建命の名代部であるから建部を正字とする。
 建部は、近江国では神崎郡・八日市市・犬上郡のほか、延喜式神名帳に「近江国栗太郡建部神社」、大津市には近江国一宮の建部大社(たけべたいしゃ)がある。
 建部は、諸国に在る。美濃国多芸郡建部・美作国真嶋郡健部・備前国津高郡健部、『出雲国風土記』出雲郡健部郷条に「しかる後、改めて健部を号する所以は、纏向桧代宮御宇天皇(まきむくひしろのみやノ景行天皇)の勅、朕の御子倭健命の御名を忘れざるため、健部を定め給う」とあり、『旧事紀』に「武田王は尾張国丹羽郡の建部君の祖」と見え、また同書五に「阿努の建部君」というのもある。これは伊勢国の建部君だろう。『和名類聚抄』には「伊勢国安濃郡建部」がみえる。
 続日本紀の神護景雲2(768)年、全国から9人が選ばれ、朝廷から褒賞された。その内、信濃国からは水内郡の刑部千麻呂(友情)と倉橋部広人(税の肩代わり)、伊那郡の他田部(おさたべ)舎人千世命(節婦)、更級郡の「建部大垣」の4人が含まれていた。
 「建部大垣」は「人となり恭順、親に孝あり」として褒賞された。
 それ以外にも、建部は、建部氏や建部の地名の分布から、伊賀・遠江・上野・常陸・能登・越中・備中・備後・紀伊・阿波・讃岐・筑前・豊前・肥後・日向・大隅・薩摩など、ほぼ全国的な規模で置かれている。
 単なる倭健尊の名代部というよりも、奈良時代前半の、蝦夷と対峙する鎮兵に近い、屯田兵的な部民であったようだ。
 また吉備臣建日子(きびのおみたけひこ)の妹・大吉備建比売(おほきびたけひめ)を娶って生まれた御子の建貝児王(たけかひこのおほきみ)、一柱。
 また山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)を娶って生れた御子、足鏡別王(あしかがみわけのおほきみ)、一柱。
 (本居宣長は『古事記伝』で、「和名抄に、山城国久世郡、栗隈郷【くりくまごう】がある。仁徳紀と推古紀に、山背の栗隈の県」とある。その「り」を省いて言ったのだろうか。定かでない」と記す。
 山城国久世郡の栗隈郷であれば、京都府宇治市大久保の周辺となる。
 足鏡別王は、下文に「鎌倉別・小津石代別・漁田別の祖」とある)。
 また、ある夫人の子に、息長田別王(おきながたわけおほきみ)がいる。おおよそ、倭建命の御子たちは、合わせて六柱(むはしら)である。
 (『旧事紀』と『天皇本紀』は、長田別王を「阿波君等祖」と記す)。
 そして帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと;仲哀天皇)が、天下を治めた。