車山高原日記  さわやか信州 4月の風景
 
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 4月の末からのゴールデンウィークに合せて、蓼科湖畔の聖光寺において300本のソメイヨシノが 開花します。
 諏訪の高島城をはじめ信州の桜の名所は数々あります。
伊那の大草城址公園・松本市の弘法山古墳と松本城・上田城や真田幸隆・昌幸の墓がある長谷寺など景観よし
 
春 薄曇 タカネザクラが咲きました
 車山高原にタカネザクラ(高嶺桜)・峰桜(ミネザクラ)が、開花期を迎えました。

 車山湿原や八島ヶ原湿原は、標高が高いので5月中旬ころに、開花するでしょう。

 高嶺桜は、展葉と同時に淡い紅を含んだ白い花を2〜3個ずつ咲かせます。

 新葉の上部は赤褐色、下部は鮮やかな若葉色です。

 実に美しい色合いとなっています。
 指先で、軽く触れて下さい。鱗片葉ともよく粘る花柄です。
 萼筒は薄い紅紫色を帯びて、優しげに、春の薄曇空を透かします。
(2023.4.30[Thu])
車山山麓に山吹咲く頃

 大門街道の山辺に咲く辛夷の花の香りを、春風に連れ添わせ、ウグイスの囀りが、目覚めはじめた谷側の樹々に木魂します。

 国道を走る車が途絶え、耳を澄ますと、鳥の囀りばかりか、時が流れる音までも聞こえそうな静けさになります。

 柏原あたりの山肌に点在する山桜が、美しく咲ききそいます。

 塩沢あたりの上川の岸辺に咲く山吹が、風にそよぎ、川面に映る黄色い花びらを散らしています。

 老いらくに揺らぐ心には、諏訪の平の白いリンゴの花は、眩しすぎました。
(2023.4.29[Wed])
音無川の二輪草

 音無川は車山と白樺湖を源流にして、滝ノ湯川・渋川と合流し上川となって諏訪湖に流入します。

 音無川が、若葉香る谷川となるには、まだ間があります。

 それでも車山山麓の渓流の草地には、二輪草の花の群れが、いくつか見られるようになりました。

 辛夷や山桜が散りはじめると、控えめに二輪草が、ゆかしい花を咲かせます。

 木陰にただよう気品ある美しさ、それが二輪草です。

 二輪目は、一輪に少しおくれて、白い小さな蕾をつけます。
(2023.4.28[Tue])
車山山麓に辛夷と山桜が咲き始めました
 諏訪ICから国道152号(大門街道)を通って白樺湖へ、その大門峠の交差点を左折して5分、ビーナスライン沿いに、車山の展望リフトが、右手に見えてきます。
 その大門街道に、漸く辛夷と山桜が同時に咲き始めました。
 山桜より早く咲く「春告げ花」の辛夷の開花を目安に、農作業を始める地方も多く、「田打ち桜」「種まき桜」「田植え桜」などとも呼ばれています。鹿児島では、この花が咲くと、薩摩芋を植えるため「芋植え花」と呼びます。
 辛夷の名の由来は、その果実の表面が幾筋か盛りあがり、赤子の拳の形に似るからだそうです。
 辛夷は、豪雪の重さを、枝をしなやかに曲げてのがし、決して折れません。
 新しく伸びた枝は、辛夷本来の樹型を維持するよう、紡錘形に整えます。
 そんな強さがありながら、車山の山麓に咲く辛夷の花は、早春のしののめ風に翻弄され、一弁ごとに疵ついて開くようで、痛々しさを感じます。 
(2023.4.27[Mon])
蓼科湖近くの聖光寺の桜

 蓼科山聖光寺(しょうこうじ)の本尊が昭和45年7月9日、奈良薬師寺長老橋本凝胤師によって開眼されました。

 蓼科湖に近い聖光寺は、毎年ゴールデンウィーク間近の開花に合わせて桜まつりが開催されます。

 標高1,200mですから、4月末から5月上旬という遅い時期に、約300本のソメイヨシノが満開の時期を迎え、『聖光寺桜祭り』が開催されます。

 その期間中は、境内のライトアップや野点などがあり、大勢の人でにぎわいます。

 今日、出掛けてきましたが、八分咲きくらいでした。
 阿弥陀岳と一面の桜、穏やかな風景でした。
2023.4.26[Sun]
下諏訪町北高木の枝垂れ桜
 諏訪郡下諏訪町北高木の「みはらし台公園」の墓地の一角に屹立する枝垂れ桜です。町の天然記念物に指定されています。樹齢300年以上・目通り幹周3.4m・樹高19 m、諏訪湖を望む東西20 m余に及ぶ枝張の広がりが実に勇壮でした。
 陽炎が立つ山際の道に届かんばかりに、無数の花房が糸の様に細く、滝のごとく降り注ぎ、その間から風光る諏訪湖を見通す光景と出合い、ただ感嘆するばかりでした。

 古代から連綿と歴史を刻む諏訪郡には、小領主が藩士となることも稀ではなく、高島藩では、郊外の知行地に居住する武士もいました。
 2代目藩主諏訪忠恒が、高木を知行する武士に、分け与えたとする苗木の由来から、「士族墓地の枝垂れ桜」とも呼ばれています。

 天正11(1,583)年3月28日、家康の安堵状により、諏訪家を再興した頼忠は、諏訪郡の領有が認められ、譜代大名に準ずる扱いを受けます。翌12年には、家康の命で、本多康重の娘が、嫡子の初代高島藩主頼水に嫁いで来ます。
 それにより高島藩主の地位は、幕府内でより強固になります。
 家康の関東転封により、一旦関東へ移封された頼水が、関ヶ原での戦勝後、諏訪高島城に復します。
 当初2万7千石でしたが、大坂の陣の勲功で5千石を加増されます。3代諏訪忠晴の代に、2千石を弟頼蔭と頼久に均等に分知し、旗本に列させたため、石高は3万石となり、以後10代を継いで、明治に至ります。

 諏訪忠恒公が大阪夏の陣(1615年)に出陣し、戦勝凱旋した際に持ち帰った5つ苗の1本が、高木の藩士に分け与えられたと伝わる桜の古木です。
 諏訪市の温泉寺の歴代藩主廟所に続く坂道に2本、その境内に1本、そして諏訪市の母の廟所がある貞松院に1本と植えられている枝垂れ桜と、それぞれ樹齢と伝承を同じくしています。
2023.4.25[Sat]

温泉寺シダレザクラの古木
 諏訪市湯の脇にある高島藩諏訪氏の菩提寺である臨済宗温泉寺は、二代高島藩主諏訪忠恒が開基となり、下諏訪の慈雲寺14世泰嶺玄未を開山として寛永17(1,640)年に建立されました。
 忠恒が大阪夏の陣(1,615年)に出陣し、戦勝凱旋した際に持ち帰った5本の苗は、アズマヒガンの変種で、その内の3本が温泉寺に植えられたと伝わります。
 現在三本の名残のシダレザクラの古木は、桜大門に2本あり、市の天然記念物に指定されています。その坂道の桜大門を登りつめると、高島藩歴代藩主の廟所があります。
 両側に植えられたしだれ桜が桜並木となって、「桜大門」の由来となりました。
 今でも、その景観を残しており、廟所から下る坂道からは、「桜大門」を通して、諏訪市の市街地と鏡面のように輝く諏訪湖が一望されます。
 もう一本の「忠恒櫻」と名付けられた桜大門の名残の桜が、本堂前に移植されています。 明治3年の火災で樹幹が損傷をうけて樹勢が衰退していましたが、地元の方々の尽力により、回復しています。
(2023.4.24[Fri])
水月公園の桜
 慈雲寺所有の寺林が寄進され、今は桜の名所になりました。
 桜樹に添うように、地元の俳句愛好者の句碑が約40基立ち、中に俳聖芭蕉や弟子の曽良と島木赤彦らの句碑が、公園の品格を高めています。

 しばらくは 花の上なる 月夜かな  
                   芭蕉

 はる雨の 雲のあひだより 現るる 山の頂き 雪真白なり
                   赤彦
 
 水月公園は、眼下に諏訪湖を望む高台の公園です。諏訪湖と桜を組合せた景観が特徴です。諏訪湖と湖周の下諏訪町・岡谷市の街並が、夜景を一見に値する佳景として際立てます。
(2023.4.23[Thu])
慈雲寺の枝垂桜が美しい

 本堂の内陣の欄間には、武田菱と梶の葉紋が彫られた彫刻が嵌められ、境内には高島城を築いた日根野高吉の五輪塔が建ち、寺の奥には寺を開基した金刺満貞と、開山した一山一寧国師の供養塔があります。
 
 一山一寧国師の「上堂の偈」には

  美しい甍は、半ば雲に入り
  農家漁屋は、松門に接し
  翆杉(すいさん)は、日を蔽い 
  霊祠に近し

  金鐸が風に鳴る宝塔が在り
  千朶の山屏が 優しく囲い
  一つの鏡箱に納まる湖面が 
  村々を照らす
(2023.4.22[Wed])
慈雲寺の天桂の松
 慈雲寺の境内には、枯山水の庭が、いくつも広がっていました。
 巨石の立石と白砂の調和が美しいです。
 杉並木の参道から入る山門の両側には、仁王像が、雄渾に佇立し
 境内には樹齢400年と言われる天桂の松が鶴翼のように広がり
 苔庭の周りには、三十三観音が、静かに安置されていました。
 
 天桂の松は赤松です。
 慈雲寺は創建以来、3回火災に遭遇しています。天文6(1,537)年の火災では、当時の住持の天桂玄長禅師に、深く帰依した武田信玄の援助により、旧前にまさる再建がなされました。
 その天桂玄長禅師の手植えの松として、「天桂の松」の名が付きました。
(2023.4.21[Tue])
下諏訪町の慈雲寺、苔の参道
 慈雲寺(じうんじ)は、長野県諏訪郡下諏訪町にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
 天桂の松(てんけいのまつ)・大梵鐘・竜の口など見所も多く、裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣、日根野高吉の墓もあります。
 日根野高吉は和泉の出身で、信長・秀吉と仕え、天正19(1,590)年の小田原の役で、戦功ありとして諏訪を宛行われました。
 今の高島城を、諏訪湖を防御の要として、水城を築城しました。慶長5(1,600)年に病没し、この慈雲寺に葬られました。 
 慶安2(1,649)年に、嫡子の当時大分藩主の嘉明が、その50回忌の追善供養として五輪塔を建立したのです。
 諏訪地方では、最大の五輪塔です。

 春宮の北東にある慈雲寺は、春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺です。寺は下社の大祝金刺満貞が鎌倉の高僧一山一寧を諏訪に招請して、正安2(1,300)年に開基しました。
 一山一寧は、中国「宋」より帰化した僧です。鎌倉幕府執権北条貞時の帰依が篤かったといわれています。
 中門から山門に向かう杉並木の参道に生える苔の連なりが、静かな趣となって、慈雲寺の風格を伝えてくれています。
(2023.4.20[Mon])
樹齢400年を誇る延命桜
 貞松院は諏訪市諏訪2丁目の市街にあるお寺です。開基は初代高島藩主の諏訪頼水です。
 諏訪市が、天然記念物として誇る大樹が、貞松院の枝垂れ桜です。今が満開でした。散り始めてもいません。高さ15m、目通り4.3mと堂々とした実に風格のある巨木です。
 諏訪藩二代目藩主忠恒公が、元和元年(1615)大坂夏の陣の際に苗を5本持ち帰ったものの1本とされています。樹齢400年、『延命桜』とも呼ばれ、諏訪市文化財に指定されています。
 貞松院は、開山当初の寺号は慈雲院でした。頼水の正室、忠恒の母は、正保 2(1645)年10月 7日に病没しました。忠恒は、母の素意に応え、廟所を慈雲院に建て、伽藍を修復し、寺領40石と広大な山林を寄進し、母を中興開基として追孝供養したのです。
 貞松院に漂う穏やかな風情は、慈愛を秘めた母と子が、密やかにかもし出す風韻かもしれません。
 貞松院は岡崎藩主・本多康重の長女です。その戒名に因んで、以後、貞松院を寺号としました。
2023.4.19[Sun]
桜咲く立石公園の眺望
 立石公園は車山の西南麓にあって、諏訪市の中心部から北東へ約1.5km離れた山腹にあります。
 諏訪市・岡谷市・下諏訪町や諏訪湖が眼下に一望できます。
 遠く乗鞍・穂高などの北アルプスも望めますが、御嶽山や木曽駒ヶ岳の雄姿が、素晴しい景観となって展開しています。
 今現在、満開の桜と芝桜が彩る時計塔の周辺が美しいです。

 国蝶オオムラサキの生息地として知られ、そのエサとなるエノキを育てるなどの保護活動が行われています。

 諏訪湖の標高は759mもあります。また広大な湖を一周するのに15.9kmと距離があり、夫婦で歩かれる方が多いようです。
2023.4.18[Sat]
荒神山の桜が美しい!
 上伊那郡辰野町のほぼ中央、標高764mの小高い丘が荒神山です。今、彼岸桜・染井吉野などを中心に、800本以上の桜が咲き誇っています。
 その最上部にある見晴らし台からは、諏訪湖を源流とする天竜川と、伊那谷の北部に位置する大城山(おおじょうやま)が眺望されます。
 その大城山の山頂から北約1キロ地点が「日本の地理的中心」となる0ポイントです。北緯36度00分00秒と東経138度00分00秒が交差しています。
 
 荒神山には大きなため池「たつの海」があり、その池をまたいで、「こいのぼり」約130匹が天空を舞っていました。
 全国600ヶ所の中から100ヵ所を選ぶ「ため池百選」の一つに数えられました。
(2023.4.17[Fri])
諏訪市上川の桜と水仙
 今現在、桜と水仙が満開となっている場所が、諏訪湖に注ぐ上川の左岸にあります。
 その諏訪市赤沼の上川の堤に、見事ともいえる桜並木と、その河川敷に植栽された約25万株の水仙が見頃を迎えているのです。
 上川の桜は、明治37.38年の日露戦争の戦勝を記念して植樹されました。忙しげに上川の堤を走る車窓に流れる桜の木々は、いずれも年輪を重ねた巨木の数々なのです。
 堤を散策すれば、一本々々の桜木から漂う風格が、西日に映えて一層目映い!
 桜の花びらが散り染める土手の斜面に、瑞々しい緑の若葉の野萱草が群生していました。
 精緻に描かれた下村観山の絵のような風情でした!
(2023.4.16[Thu])
車山高原のシジュウカラとウグイス
 「ピーツピーツ」、鳥の中でも、逸早く春を告げるシジュウカラは、車山の真冬でもズミの黄色い実を食べに、よく飛んできます。
 つがいで見かける方が多いのです。
 四十雀と書いてシジュウカラ、スズメ40羽に対してこの鳥1羽という交換条件から名づけられたというのです。

 車山高原のレア・メモリーの朝8:30の温度は、2.0℃です。
 晴れ間もあるせいか、ウグイスの囀りが白樺の木立の方から聞こえてきます。
 ウグイスは、早春、山里でホーホケキョと鳴く練習をしてから、まだ沢筋に残雪が輝く車山高原に戻って来て、大きく囀り、巣造りに入るのです。
(2023.4.15[Wed])
車山の雪崩による通行止め解除

 車山高原スキー場を過ぎた所から霧ヶ峰間のビーナスラインが、雪崩により、2月12日14時から、通行止めとなりました。

 諏訪側からは国道152(大門街道)を走行し白樺湖へ上がり、大門峠の交差点を左折して、車山高原スキー場へアクセスするのが唯一のルートとなりました。

 ただ冬は霧ヶ峰から上がるのは、雪崩ばかりでなく危険がともないます。

 4月17日、通行止めが解除されました。
(2023.4.14[Tue])
小県郡青木村の大法寺の由来
 小県郡青木村の大法寺は、松本と上田を結ぶ保福寺峠越えの東山道沿いに、大宝元(701)年、文武天皇の勅願により藤原鎌足の長子の定恵が開山したと伝えられています。そのため当初は開山した時の年号から大宝寺と称していました。ただ、定恵は天智天皇4(666)年に死去していいます。
 いずれにしろ、大宝2(702)年に、大法寺の境内近くに東山道が五畿七道の一つとして開削され、「浦野駅」が置かれた際、「駅寺」として開かれたようです。永正2(1505)年に火災に遭い堂宇が焼失しましたが、元禄10(1697)年に、現在の寺号である大法寺に改称され、比叡山延暦寺の末寺となっています。  
 境内後方の高台にある大法寺三重塔は、正慶2(1333)年に建立されたもので、その美しさから「見返りの塔」と呼ばれ、明治32年(1899)に国宝に指定されました。
 長野県上田市の塩田平から別所温泉にかけて、同じく国宝の安楽寺八角三重塔や前山寺の未完成の重文三重塔など鎌倉時代の古刹が数多く残っています。
 この青木村にかけての扇状地に二つもの国宝の塔があるのです。
 古墳時代には、埴科の地(森・雨宮・土口)に古代科野国がありましたが、古墳時代が終わると、政治・経済・文化の中心は上田の塩田平地域に移ったようです。千曲川の度重なる大水害よりものと考えられます。
塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。信濃守護の北条氏の本拠として、その庇護の下、寺院や塔の建立が盛んになり充実します。
 大法寺の三重塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年であたる正慶2(1333)年に建立されたことが分かっています。
(2023.4.13[Mon])
上田市丸子町の桜を訪ねて
 
 丸子公民館横の桜並木は、日中、満面に太陽をとらえるので、開花が一番早いのです。
 同時期、4月中旬から、依田川桜堤防では桜が見頃を迎えます。
 桜堤防の見頃は今週末くらいでしょう。
 この時季に合わせて、丸子橋上流で依田川鯉のぼりの掲揚が行われます。

 依田川に架かる丸子橋を渡ると岩谷堂観音があります。
 樹齢八百年の義仲桜が、今週、見頃を迎えます。
 平安時代初期の建立で、信濃三十三観音霊場、中部四十九薬師霊場でもあります。
 木曽義仲戦勝祈願の地として知られています。
2023.4.12[Sun]
国宝大法寺の三重塔と桜

 参道を登って行くと大法寺三重塔の入り口付近で、さまざまな表情の羅漢石像が並んでいます。

 小高い丘に三間四方の檜皮葺「三重塔」が、枝垂桜を通して優雅な姿をみせています。
 伝承によれば、奈良時代の大宝年間(701年 - 704年)に、藤原鎌足の子の定恵が創建したといわれますが
 寺の付近は、東山道の浦野駅のあった土地であり、浦野駅関連の寺院であったとする説が有力だそうです。

 三重塔が「見返りの塔」と呼ばれたのも、東山道を旅する人々が、この塔の姿があまりにも美しいので、思わずふり返るほどであったからだそうです。
2023.4.11[Sat]
国宝松本城の桜
 約300本のソメイヨシノやヤエザクラが、城郭と堀を取り囲んで咲き誇り、遠く残雪の北アルプスを眺めながらの花見散策でした。

 肥後一国54万石の加藤清正公が、江戸からの帰りに立ち寄った際、松本城主石川康長が清正公に馬を差し上げたときにつないだ木が、写真のシダレザクラです。
 桜と天守のコントラストが見事でした。

 松本城の天守は、現存する12の城のうち唯一の平城だそうです。
 天守の窓から眺める堀端の桜並木が美しい!!
(2023.4.10[Fri])
弘法山古墳の桜

 全長66m・築造年代が3世紀末頃の前方後方墳です。

 標高650m弘法山から、松本市街地が望め、北アルプス連峰が見渡せる場所です。

 古墳復元を記念して、山全体に植樹された数千本の桜が、咲きそろいピンク色に染まっています。
(2023.4.9[Thu])
上田城跡公園内の桜の開花状況

 ソメイヨシノの標本木が、そろそろ「満開」です。

 お堀の周り、本丸跡も「満開」を迎えます。この春一番の見頃となっています。

 北櫓前のシダレザクラが、一際、きれいでした。

 招魂社の陽光桜の紅色が、美しく鮮やかです。
(2023.4.8[Wed])
諏訪市 桜の開花情報

 高島城の本丸跡に設置された公園のソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラなど約90本の桜が、4月17日前後に見頃を迎えます。

 諏訪湖に流入する上川沿いの桜やスイセンも、もう5分咲き位です。

 諏訪湖畔沿いにある桜並木は、高島城の桜と同様かと思われます。
 諏訪湖と桜を眺めながら散歩を楽しんでみて下さい。

 約240本ある桜の中で、約150匹ほどのこいのぼりが泳いでいでいる西山公園もそろそろ見頃です。 
(2023.4.7[Tue])
高島公園の桜(高島城)
 諏訪市高島にあるにある中世の水城跡で、「諏訪の浮城」や「島崎城」とも呼ばれています。

 信濃なる 衣か崎に 来て見れば 富士の上漕ぐ 海士の釣船

 豊臣秀吉方の武将日根野高吉が築城した高島城の園内は、今では桜の名所となっており、花見のシーズンには大勢の人で賑わいます。
 ソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラ約90本が植えられています。
 早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから「ハルコガネバナ」と呼ばれるサンシュユも、桜と同じ時期に満開となり、桜との色の協演が楽しめます。
 今年の高島公園の桜の見ごろは、4月中旬でしょうか。
(2023.4.6[Mon])
諏訪のノカンゾウ(野萱草)が食べごろです
 車山高原や霧が峰に群生するニッコウキスゲは、有名です。
 人里で普通に見られるキスゲの仲間がノカンゾウ(野萱草)とヤブカンゾウ(藪萱草)です。
 ニッコウキスゲの花は、恥じらうように横向きに咲き、ノカンゾウやヤブカンゾウは、誇り高く上向きに咲きます。
 ノカンゾウがベニカンゾウ(紅萱草)とも呼ばれるように、紅・橙色が強く、花期も低地のニッコウキスゲより一ヶ月ほど遅く咲きます。
 ノカンゾウがキスゲのように一重咲きであるのに対し、ヤブカンゾウは八重咲きで、雄しべ雌しべがなく種子ができません。球根で増えます。やや山地の日当たりの良いところが生育環境です。
 ノカンゾウの花は、田圃の畦など湿り気のあるところに普通見られますが、畦地では平気で刈られています。
 『和名類聚抄』には「一名、忘憂」とあり、身につけると憂いを忘れる、「忘れ草」とも呼びます。
万葉集に
 我が下紐(したひも)に、付けたれど、醜(しこ)の醜草(しこくさ)、言(こと)にしありけり
  (あなたを忘れようと「忘れ草」を付けていたけど、辛いことを忘れるどころか、あなたへ思いは募るばかりです)
 大伴家持が、数年離れていた坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に、再会した時に贈った歌です。
中国原産の史前帰化植物だそうですが、日本列島では、本来、帰化植物でない種類の方が希少でしょう。
アクがないので、私は山菜として食べています。
 
 春の若芽や葉は和え物、お浸しなど、花は一輪ごとに天ぷらか、花びら一つづつをスープの浮実にします。
2023.4.5[Sun]
坂城の千曲川の大洪水
 戌の満水(いぬのまんすい)は、寛保2(1,742)年に、千曲川流域で発生した大洪水です。流域全体で2,800人以上の死者を出し、田畑の流出も広範囲におよぶ未曾有の大災害でした。
 坂城でも、千曲川の大洪水は、江戸時代だけで64回が記録され、4〜5年に1回の割合で被災していました。
 天保12(1,841)年の大洪水では、坂城の耕地は壊滅に瀕しました。
 幕府は、代官石井勝之進を通じた農民の復旧の請願を受け、直ちに佐藤嘉長を派遣しました。
 嘉長は、5年の歳月を費やして弘化2(1,845)年に、彼の命名になる常山堤を完成しました。
 この堤は、洪水の勢いを直角に受けるため、堤端には畳石と称した巨石を用いて堅牢にし、基礎には大石を敷く構築工法を採用しています。
 常山堤の名称は兵法書「孫子」に由来し「常山の蛇の如く耐え得るもの」として名付けられました。
 桜の木の下に、石碑が設置されています。
 その説明文には「天保12(1,841)年の大洪水で、その辺り一帯の農地が壊滅な被災に瀕した。幕府は代官所へ、ただちに佐藤嘉長を派遣。嘉長は5年の歳月を費やして常山堤を完成させた。
 堤は基礎を大石で築いた、300mに渡る堅牢無比なものであった。そのため農地は水害から守られるようになり、村人は毎年堤上に祠を置いて祭りを行い、堤を補強するための大石を投じた。
 そして、嘉長の功績と常山堤の由来を永く後世に伝えるため碑を建立した」とあります。
 それは、千曲川の川筋に対しほぼ直角に設置されてといいます。現在では、新たに造られた堤防の外側に石碑と共にその一部が残されています。この堤防によりより千曲川の流れを正面から受け止め、西側に流し、坂城の広大な農地を守ったのです。
 嘉長は当時有名な河川管理の技術者だったようで、坂城町以外でも河川改修に関して佐藤嘉長の名を見ることができます。
 孫子の兵法書によれば、常山にすむ蛇は頭を打たれれば尾が、尾を打たれれば頭が、それぞれを救うという故事から、この堤も洪水がどこをついても崩れない、と嘉長は説きました。
2023.4.4[Sat]
美しい坂城町の岩井堂山(自在山)
 村上義清の本拠地があった坂城町を走る国道18号の車窓から、神奈備山であっても不思議ではない、見事な三角錐状の山が眺められます。
 戸隠神社の流れをくみ「太々神楽(町指文)」を今に残す自在神社があるため、坂城町では自在山と呼びます。
 またその特異な山容から、戸倉上山田地域では唐傘山(からかさやま)とも呼んでいます。
 古くは「善光寺名所図会」に「ヤキメシ山」と記されていました。

 坂城町上平地区と千曲市上山田との境界にあり、九頭竜権現を祭る九竜山から北東へ下る尾根の突端にあります。
 その麓にある自在神社(じざい)には、戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏が祀られています。標高793mの山頂に、武田晴信は狼煙台を築きました。
 この美しい山容であれば、坂城の神山と称えられてもよいはずですが、その三等三角点の山頂は、東側だけが間伐されており、千曲川対岸の五里ヶ峰・葛尾山・姫城跡・太郎山と上田市街地が眺望されます。
(2023.4.3[Fri])
諏訪湖を眺める有賀城(諏訪市豊田有賀)
 有賀城は諏訪湖の南岸から有賀峠を越えて伊那・辰野に繋がる峠道沿いにあります。北と東北に延びた尾根の先端と南方の尾根続きに築かれた山城です。
 標高920m、比高100mと、諏訪湖の西山の高台に位置し、枝垂れ桜で有名な江音寺の背後に聳える山稜に築かれています。
 有賀峠は、諏訪市有賀から上伊那郡辰野町へ抜ける最短経路で、鎌倉街道でもありました。峠の諏訪湖側は断崖を這うような急勾配ですが、南側は覗石・上野などの山間部の緩やかな下り斜面が続いて辰野町平出に至ります。
 峠を越えた南側は地形から見れば伊那谷に属しますが、古代から、上伊那郡の北部まで諏訪郡であったため、諏訪市の市域となっています。
 峠周辺には、矢ノ沢湿原の「ザゼンソウの里公園」内の座禅草と、南の山間へ入った板沢地区には福寿草の群落があり、春が遅い諏訪地域では、漸く来たかと思う「春の兆し」を知らせてくれます。
 江音寺の背後を東側に進んでいくと、諏訪高島藩の家老であった千野氏の墓地があります。
(2023.4.2[Thu])
長野県千曲市屋代にみる千曲川の水害
 長野県千曲市大字屋代の屋代遺跡群は、弥生時代から中世にかけて河川の自然堤防上に営まれた複合集落址です。屋代遺跡群の成立は縄文時代晩期にまで遡ることが明らかにされていますが、当時から、かなりの自然堤防が形成されていました。
 弥生時代の遺物の分布からその屋代遺跡群全域に広がり、それは弥生時代中期になると一層顕著となります。古墳時代の居住域も弥生時代同様、自然堤防の北側に偏る傾向がありました。
 その傾向は自然堤防の変化に依るもので、弥生時代以前には自然堤防は今より北側に位置していました。その後南下し奈良時代の頃から現在の自然堤防が形成されたのです。
 「更埴条理水田遺構」と居住域の境は、昭和44年に行われた圃場整備以前の水田と畑地の境とほぼ変わらず、今日と殆ど変りがないのです。
 その自然堤防の背後にできた湿地で水田化が進められ、古墳時代中期の水田跡が広範囲に確認されました。
 千曲市の全長100mの前方後円墳・森将軍塚古墳が4世紀に築かれています。古墳時代初期から有力首長が統治していたのです。しかし河川の流路に沿って形成された自然堤防の背後での農耕は決して安定したものではなく、千曲川の氾濫が頻発し、水路が埋没したため、8世紀以前の遺構は殆ど確認されていません。
 しかしながら、8世紀前半ごろの多数の付札木簡(屋代木簡)が出土しています。信濃国の郡衙があったようです。
(2023.4.1[Wed])