車山高原日記  さわやか信州 4月の風景
 
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 4月の末からのゴールデンウィークに合せて、蓼科湖畔の聖光寺において300本のソメイヨシノが 開花します。
 諏訪の高島城をはじめ信州の桜の名所は数々あります。
伊那の大草城址公園・松本市の弘法山古墳と松本城・上田城や真田幸隆・昌幸の墓がある長谷寺など景観よし
 
春 薄曇 タカネザクラが咲きました
 車山高原にタカネザクラ(高嶺桜)・峰桜(ミネザクラ)が、開花期を迎えました。

 車山湿原や八島ヶ原湿原は、標高が高いので5月中旬ころに、開花するでしょう。

 高嶺桜は、展葉と同時に淡い紅を含んだ白い花を2〜3個ずつ咲かせます。

 新葉の上部は赤褐色、下部は鮮やかな若葉色です。

 実に美しい色合いとなっています。
 指先で、軽く触れて下さい。鱗片葉ともよく粘る花柄です。
 萼筒は薄い紅紫色を帯びて、優しげに、春の薄曇空を透かします。
(2015.4.30[Thu])
車山山麓に山吹咲く頃

 大門街道の山辺に咲く辛夷の花の香りを、春風に連れ添わせ、ウグイスの囀りが、目覚めはじめた谷側の樹々に木魂します。

 国道を走る車が途絶え、耳を澄ますと、鳥の囀りばかりか、時が流れる音までも聞こえそうな静けさになります。

 柏原あたりの山肌に点在する山桜が、美しく咲ききそいます。

 塩沢あたりの上川の岸辺に咲く山吹が、風にそよぎ、川面に映る黄色い花びらを散らしています。

 老いらくに揺らぐ心には、諏訪の平の白いリンゴの花は、眩しすぎました。
(2015.4.29[Wed])
音無川の二輪草

 音無川は車山と白樺湖を源流にして、滝ノ湯川・渋川と合流し上川となって諏訪湖に流入します。

 音無川が、若葉香る谷川となるには、まだ間があります。

 それでも車山山麓の渓流の草地には、二輪草の花の群れが、いくつか見られるようになりました。

 辛夷や山桜が散りはじめると、控えめに二輪草が、ゆかしい花を咲かせます。

 木陰にただよう気品ある美しさ、それが二輪草です。

 二輪目は、一輪に少しおくれて、白い小さな蕾をつけます。
(2015.4.28[Tue])
車山山麓に辛夷と山桜が咲き始めました
 諏訪ICから国道152号(大門街道)を通って白樺湖へ、その大門峠の交差点を左折して5分、ビーナスライン沿いに、車山の展望リフトが、右手に見えてきます。
 その大門街道に、漸く辛夷と山桜が同時に咲き始めました。
 山桜より早く咲く「春告げ花」の辛夷の開花を目安に、農作業を始める地方も多く、「田打ち桜」「種まき桜」「田植え桜」などとも呼ばれています。鹿児島では、この花が咲くと、薩摩芋を植えるため「芋植え花」と呼びます。
 辛夷の名の由来は、その果実の表面が幾筋か盛りあがり、赤子の拳の形に似るからだそうです。
 辛夷は、豪雪の重さを、枝をしなやかに曲げてのがし、決して折れません。
 新しく伸びた枝は、辛夷本来の樹型を維持するよう、紡錘形に整えます。
 そんな強さがありながら、車山の山麓に咲く辛夷の花は、早春のしののめ風に翻弄され、一弁ごとに疵ついて開くようで、痛々しさを感じます。 
(2015.4.27[Mon])
蓼科湖近くの聖光寺の桜

 蓼科山聖光寺(しょうこうじ)の本尊が昭和45年7月9日、奈良薬師寺長老橋本凝胤師によって開眼されました。

 蓼科湖に近い聖光寺は、毎年ゴールデンウィーク間近の開花に合わせて桜まつりが開催されます。

 標高1,200mですから、4月末から5月上旬という遅い時期に、約300本のソメイヨシノが満開の時期を迎え、『聖光寺桜祭り』が開催されます。

 その期間中は、境内のライトアップや野点などがあり、大勢の人でにぎわいます。

 今日、出掛けてきましたが、八分咲きくらいでした。
 阿弥陀岳と一面の桜、穏やかな風景でした。
2015.4.26[Sun]
下諏訪町北高木の枝垂れ桜
 諏訪郡下諏訪町北高木の「みはらし台公園」の墓地の一角に屹立する枝垂れ桜です。町の天然記念物に指定されています。樹齢300年以上・目通り幹周3.4m・樹高19 m、諏訪湖を望む東西20 m余に及ぶ枝張の広がりが実に勇壮でした。
 陽炎が立つ山際の道に届かんばかりに、無数の花房が糸の様に細く、滝のごとく降り注ぎ、その間から風光る諏訪湖を見通す光景と出合い、ただ感嘆するばかりでした。

 古代から連綿と歴史を刻む諏訪郡には、小領主が藩士となることも稀ではなく、高島藩では、郊外の知行地に居住する武士もいました。
 2代目藩主諏訪忠恒が、高木を知行する武士に、分け与えたとする苗木の由来から、「士族墓地の枝垂れ桜」とも呼ばれています。

 天正11(1,583)年3月28日、家康の安堵状により、諏訪家を再興した頼忠は、諏訪郡の領有が認められ、譜代大名に準ずる扱いを受けます。翌12年には、家康の命で、本多康重の娘が、嫡子の初代高島藩主頼水に嫁いで来ます。
 それにより高島藩主の地位は、幕府内でより強固になります。
 家康の関東転封により、一旦関東へ移封された頼水が、関ヶ原での戦勝後、諏訪高島城に復します。
 当初2万7千石でしたが、大坂の陣の勲功で5千石を加増されます。3代諏訪忠晴の代に、2千石を弟頼蔭と頼久に均等に分知し、旗本に列させたため、石高は3万石となり、以後10代を継いで、明治に至ります。

 諏訪忠恒公が大阪夏の陣(1615年)に出陣し、戦勝凱旋した際に持ち帰った5つ苗の1本が、高木の藩士に分け与えられたと伝わる桜の古木です。
 諏訪市の温泉寺の歴代藩主廟所に続く坂道に2本、その境内に1本、そして諏訪市の母の廟所がある貞松院に1本と植えられている枝垂れ桜と、それぞれ樹齢と伝承を同じくしています。
2015.4.25[Sat]

温泉寺シダレザクラの古木
 諏訪市湯の脇にある高島藩諏訪氏の菩提寺である臨済宗温泉寺は、二代高島藩主諏訪忠恒が開基となり、下諏訪の慈雲寺14世泰嶺玄未を開山として寛永17(1,640)年に建立されました。
 忠恒が大阪夏の陣(1,615年)に出陣し、戦勝凱旋した際に持ち帰った5本の苗は、アズマヒガンの変種で、その内の3本が温泉寺に植えられたと伝わります。
 現在三本の名残のシダレザクラの古木は、桜大門に2本あり、市の天然記念物に指定されています。その坂道の桜大門を登りつめると、高島藩歴代藩主の廟所があります。
 両側に植えられたしだれ桜が桜並木となって、「桜大門」の由来となりました。
 今でも、その景観を残しており、廟所から下る坂道からは、「桜大門」を通して、諏訪市の市街地と鏡面のように輝く諏訪湖が一望されます。
 もう一本の「忠恒櫻」と名付けられた桜大門の名残の桜が、本堂前に移植されています。 明治3年の火災で樹幹が損傷をうけて樹勢が衰退していましたが、地元の方々の尽力により、回復しています。
(2015.4.24[Fri])
水月公園の桜
 慈雲寺所有の寺林が寄進され、今は桜の名所になりました。
 桜樹に添うように、地元の俳句愛好者の句碑が約40基立ち、中に俳聖芭蕉や弟子の曽良と島木赤彦らの句碑が、公園の品格を高めています。

 しばらくは 花の上なる 月夜かな  
                   芭蕉

 はる雨の 雲のあひだより 現るる 山の頂き 雪真白なり
                   赤彦
 
 水月公園は、眼下に諏訪湖を望む高台の公園です。諏訪湖と桜を組合せた景観が特徴です。諏訪湖と湖周の下諏訪町・岡谷市の街並が、夜景を一見に値する佳景として際立てます。
(2015.4.23[Thu])
慈雲寺の枝垂桜が美しい

 本堂の内陣の欄間には、武田菱と梶の葉紋が彫られた彫刻が嵌められ、境内には高島城を築いた日根野高吉の五輪塔が建ち、寺の奥には寺を開基した金刺満貞と、開山した一山一寧国師の供養塔があります。
 
 一山一寧国師の「上堂の偈」には

  美しい甍は、半ば雲に入り
  農家漁屋は、松門に接し
  翆杉(すいさん)は、日を蔽い 
  霊祠に近し

  金鐸が風に鳴る宝塔が在り
  千朶の山屏が 優しく囲い
  一つの鏡箱に納まる湖面が 
  村々を照らす
(2015.4.22[Wed])
慈雲寺の天桂の松
 慈雲寺の境内には、枯山水の庭が、いくつも広がっていました。
 巨石の立石と白砂の調和が美しいです。
 杉並木の参道から入る山門の両側には、仁王像が、雄渾に佇立し
 境内には樹齢400年と言われる天桂の松が鶴翼のように広がり
 苔庭の周りには、三十三観音が、静かに安置されていました。
 
 天桂の松は赤松です。
 慈雲寺は創建以来、3回火災に遭遇しています。天文6(1,537)年の火災では、当時の住持の天桂玄長禅師に、深く帰依した武田信玄の援助により、旧前にまさる再建がなされました。
 その天桂玄長禅師の手植えの松として、「天桂の松」の名が付きました。
(2015.4.21[Tue])
下諏訪町の慈雲寺、苔の参道
 慈雲寺(じうんじ)は、長野県諏訪郡下諏訪町にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
 天桂の松(てんけいのまつ)・大梵鐘・竜の口など見所も多く、裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣、日根野高吉の墓もあります。
 日根野高吉は和泉の出身で、信長・秀吉と仕え、天正19(1,590)年の小田原の役で、戦功ありとして諏訪を宛行われました。
 今の高島城を、諏訪湖を防御の要として、水城を築城しました。慶長5(1,600)年に病没し、この慈雲寺に葬られました。 
 慶安2(1,649)年に、嫡子の当時大分藩主の嘉明が、その50回忌の追善供養として五輪塔を建立したのです。
 諏訪地方では、最大の五輪塔です。

 春宮の北東にある慈雲寺は、春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺です。寺は下社の大祝金刺満貞が鎌倉の高僧一山一寧を諏訪に招請して、正安2(1,300)年に開基しました。
 一山一寧は、中国「宋」より帰化した僧です。鎌倉幕府執権北条貞時の帰依が篤かったといわれています。
 中門から山門に向かう杉並木の参道に生える苔の連なりが、静かな趣となって、慈雲寺の風格を伝えてくれています。
(2015.4.20[Mon])
樹齢400年を誇る延命桜
 貞松院は諏訪市諏訪2丁目の市街にあるお寺です。開基は初代高島藩主の諏訪頼水です。
 諏訪市が、天然記念物として誇る大樹が、貞松院の枝垂れ桜です。今が満開でした。散り始めてもいません。高さ15m、目通り4.3mと堂々とした実に風格のある巨木です。
 諏訪藩二代目藩主忠恒公が、元和元年(1615)大坂夏の陣の際に苗を5本持ち帰ったものの1本とされています。樹齢400年、『延命桜』とも呼ばれ、諏訪市文化財に指定されています。
 貞松院は、開山当初の寺号は慈雲院でした。頼水の正室、忠恒の母は、正保 2(1645)年10月 7日に病没しました。忠恒は、母の素意に応え、廟所を慈雲院に建て、伽藍を修復し、寺領40石と広大な山林を寄進し、母を中興開基として追孝供養したのです。
 貞松院に漂う穏やかな風情は、慈愛を秘めた母と子が、密やかにかもし出す風韻かもしれません。
 貞松院は岡崎藩主・本多康重の長女です。その戒名に因んで、以後、貞松院を寺号としました。
2015.4.19[Sun]
桜咲く立石公園の眺望
 立石公園は車山の西南麓にあって、諏訪市の中心部から北東へ約1.5km離れた山腹にあります。
 諏訪市・岡谷市・下諏訪町や諏訪湖が眼下に一望できます。
 遠く乗鞍・穂高などの北アルプスも望めますが、御嶽山や木曽駒ヶ岳の雄姿が、素晴しい景観となって展開しています。
 今現在、満開の桜と芝桜が彩る時計塔の周辺が美しいです。

 国蝶オオムラサキの生息地として知られ、そのエサとなるエノキを育てるなどの保護活動が行われています。

 諏訪湖の標高は759mもあります。また広大な湖を一周するのに15.9kmと距離があり、夫婦で歩かれる方が多いようです。
2015.4.18[Sat]
荒神山の桜が美しい!
 上伊那郡辰野町のほぼ中央、標高764mの小高い丘が荒神山です。今、彼岸桜・染井吉野などを中心に、800本以上の桜が咲き誇っています。
 その最上部にある見晴らし台からは、諏訪湖を源流とする天竜川と、伊那谷の北部に位置する大城山(おおじょうやま)が眺望されます。
 その大城山の山頂から北約1キロ地点が「日本の地理的中心」となる0ポイントです。北緯36度00分00秒と東経138度00分00秒が交差しています。
 
 荒神山には大きなため池「たつの海」があり、その池をまたいで、「こいのぼり」約130匹が天空を舞っていました。
 全国600ヶ所の中から100ヵ所を選ぶ「ため池百選」の一つに数えられました。
(2015.4.17[Fri])
諏訪市上川の桜と水仙
 今現在、桜と水仙が満開となっている場所が、諏訪湖に注ぐ上川の左岸にあります。
 その諏訪市赤沼の上川の堤に、見事ともいえる桜並木と、その河川敷に植栽された約25万株の水仙が見頃を迎えているのです。
 上川の桜は、明治37.38年の日露戦争の戦勝を記念して植樹されました。忙しげに上川の堤を走る車窓に流れる桜の木々は、いずれも年輪を重ねた巨木の数々なのです。
 堤を散策すれば、一本々々の桜木から漂う風格が、西日に映えて一層目映い!
 桜の花びらが散り染める土手の斜面に、瑞々しい緑の若葉の野萱草が群生していました。
 精緻に描かれた下村観山の絵のような風情でした!
(2015.4.16[Thu])
車山高原のシジュウカラとウグイス
 「ピーツピーツ」、鳥の中でも、逸早く春を告げるシジュウカラは、車山の真冬でもズミの黄色い実を食べに、よく飛んできます。
 つがいで見かける方が多いのです。
 四十雀と書いてシジュウカラ、スズメ40羽に対してこの鳥1羽という交換条件から名づけられたというのです。

 車山高原のレア・メモリーの朝8:30の温度は、2.0℃です。
 晴れ間もあるせいか、ウグイスの囀りが白樺の木立の方から聞こえてきます。
 ウグイスは、早春、山里でホーホケキョと鳴く練習をしてから、まだ沢筋に残雪が輝く車山高原に戻って来て、大きく囀り、巣造りに入るのです。
(2015.4.15[Wed])
車山の雪崩による通行止め解除

 車山高原スキー場を過ぎた所から霧ヶ峰間のビーナスラインが、雪崩により、2月12日14時から、通行止めとなりました。

 諏訪側からは国道152(大門街道)を走行し白樺湖へ上がり、大門峠の交差点を左折して、車山高原スキー場へアクセスするのが唯一のルートとなりました。

 ただ冬は霧ヶ峰から上がるのは、雪崩ばかりでなく危険がともないます。

 4月17日、通行止めが解除されました。
(2015.4.14[Tue])
小県郡青木村の大法寺の由来
 小県郡青木村の大法寺は、松本と上田を結ぶ保福寺峠越えの東山道沿いに、大宝元(701)年、文武天皇の勅願により藤原鎌足の長子の定恵が開山したと伝えられています。そのため当初は開山した時の年号から大宝寺と称していました。ただ、定恵は天智天皇4(666)年に死去していいます。
 いずれにしろ、大宝2(702)年に、大法寺の境内近くに東山道が五畿七道の一つとして開削され、「浦野駅」が置かれた際、「駅寺」として開かれたようです。永正2(1505)年に火災に遭い堂宇が焼失しましたが、元禄10(1697)年に、現在の寺号である大法寺に改称され、比叡山延暦寺の末寺となっています。  
 境内後方の高台にある大法寺三重塔は、正慶2(1333)年に建立されたもので、その美しさから「見返りの塔」と呼ばれ、明治32年(1899)に国宝に指定されました。
 長野県上田市の塩田平から別所温泉にかけて、同じく国宝の安楽寺八角三重塔や前山寺の未完成の重文三重塔など鎌倉時代の古刹が数多く残っています。
 この青木村にかけての扇状地に二つもの国宝の塔があるのです。
 古墳時代には、埴科の地(森・雨宮・土口)に古代科野国がありましたが、古墳時代が終わると、政治・経済・文化の中心は上田の塩田平地域に移ったようです。千曲川の度重なる大水害よりものと考えられます。
塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。信濃守護の北条氏の本拠として、その庇護の下、寺院や塔の建立が盛んになり充実します。
 大法寺の三重塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年であたる正慶2(1333)年に建立されたことが分かっています。
(2015.4.13[Mon])
上田市丸子町の桜を訪ねて
 
 丸子公民館横の桜並木は、日中、満面に太陽をとらえるので、開花が一番早いのです。
 同時期、4月中旬から、依田川桜堤防では桜が見頃を迎えます。
 桜堤防の見頃は今週末くらいでしょう。
 この時季に合わせて、丸子橋上流で依田川鯉のぼりの掲揚が行われます。

 依田川に架かる丸子橋を渡ると岩谷堂観音があります。
 樹齢八百年の義仲桜が、今週、見頃を迎えます。
 平安時代初期の建立で、信濃三十三観音霊場、中部四十九薬師霊場でもあります。
 木曽義仲戦勝祈願の地として知られています。
2015.4.12[Sun]
国宝大法寺の三重塔と桜

 参道を登って行くと大法寺三重塔の入り口付近で、さまざまな表情の羅漢石像が並んでいます。

 小高い丘に三間四方の檜皮葺「三重塔」が、枝垂桜を通して優雅な姿をみせています。
 伝承によれば、奈良時代の大宝年間(701年 - 704年)に、藤原鎌足の子の定恵が創建したといわれますが
 寺の付近は、東山道の浦野駅のあった土地であり、浦野駅関連の寺院であったとする説が有力だそうです。

 三重塔が「見返りの塔」と呼ばれたのも、東山道を旅する人々が、この塔の姿があまりにも美しいので、思わずふり返るほどであったからだそうです。
2015.4.11[Sat]
国宝松本城の桜
 約300本のソメイヨシノやヤエザクラが、城郭と堀を取り囲んで咲き誇り、遠く残雪の北アルプスを眺めながらの花見散策でした。

 肥後一国54万石の加藤清正公が、江戸からの帰りに立ち寄った際、松本城主石川康長が清正公に馬を差し上げたときにつないだ木が、写真のシダレザクラです。
 桜と天守のコントラストが見事でした。

 松本城の天守は、現存する12の城のうち唯一の平城だそうです。
 天守の窓から眺める堀端の桜並木が美しい!!
(2015.4.10[Fri])
弘法山古墳の桜

 全長66m・築造年代が3世紀末頃の前方後方墳です。

 標高650m弘法山から、松本市街地が望め、北アルプス連峰が見渡せる場所です。

 古墳復元を記念して、山全体に植樹された数千本の桜が、咲きそろいピンク色に染まっています。
(2015.4.9[Thu])
上田城跡公園内の桜の開花状況

 ソメイヨシノの標本木が、そろそろ「満開」です。

 お堀の周り、本丸跡も「満開」を迎えます。この春一番の見頃となっています。

 北櫓前のシダレザクラが、一際、きれいでした。

 招魂社の陽光桜の紅色が、美しく鮮やかです。
(2015.4.8[Wed])
諏訪市 桜の開花情報

 高島城の本丸跡に設置された公園のソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラなど約90本の桜が、4月17日前後に見頃を迎えます。

 諏訪湖に流入する上川沿いの桜やスイセンも、もう5分咲き位です。

 諏訪湖畔沿いにある桜並木は、高島城の桜と同様かと思われます。
 諏訪湖と桜を眺めながら散歩を楽しんでみて下さい。

 約240本ある桜の中で、約150匹ほどのこいのぼりが泳いでいでいる西山公園もそろそろ見頃です。 
(2015.4.7[Tue])
高島公園の桜(高島城)
 諏訪市高島にあるにある中世の水城跡で、「諏訪の浮城」や「島崎城」とも呼ばれています。

 信濃なる 衣か崎に 来て見れば 富士の上漕ぐ 海士の釣船

 豊臣秀吉方の武将日根野高吉が築城した高島城の園内は、今では桜の名所となっており、花見のシーズンには大勢の人で賑わいます。
 ソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラ約90本が植えられています。
 早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから「ハルコガネバナ」と呼ばれるサンシュユも、桜と同じ時期に満開となり、桜との色の協演が楽しめます。
 今年の高島公園の桜の見ごろは、4月中旬でしょうか。
(2015.4.6[Mon])
諏訪のノカンゾウ(野萱草)が食べごろです
 車山高原や霧が峰に群生するニッコウキスゲは、有名です。
 人里で普通に見られるキスゲの仲間がノカンゾウ(野萱草)とヤブカンゾウ(藪萱草)です。
 ニッコウキスゲの花は、恥じらうように横向きに咲き、ノカンゾウやヤブカンゾウは、誇り高く上向きに咲きます。
 ノカンゾウがベニカンゾウ(紅萱草)とも呼ばれるように、紅・橙色が強く、花期も低地のニッコウキスゲより一ヶ月ほど遅く咲きます。
 ノカンゾウがキスゲのように一重咲きであるのに対し、ヤブカンゾウは八重咲きで、雄しべ雌しべがなく種子ができません。球根で増えます。やや山地の日当たりの良いところが生育環境です。
 ノカンゾウの花は、田圃の畦など湿り気のあるところに普通見られますが、畦地では平気で刈られています。
 『和名類聚抄』には「一名、忘憂」とあり、身につけると憂いを忘れる、「忘れ草」とも呼びます。
万葉集に
 我が下紐(したひも)に、付けたれど、醜(しこ)の醜草(しこくさ)、言(こと)にしありけり
  (あなたを忘れようと「忘れ草」を付けていたけど、辛いことを忘れるどころか、あなたへ思いは募るばかりです)
 大伴家持が、数年離れていた坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に、再会した時に贈った歌です。
中国原産の史前帰化植物だそうですが、日本列島では、本来、帰化植物でない種類の方が希少でしょう。
アクがないので、私は山菜として食べています。
 
 春の若芽や葉は和え物、お浸しなど、花は一輪ごとに天ぷらか、花びら一つづつをスープの浮実にします。
2015.4.5[Sun]
坂城の千曲川の大洪水
 戌の満水(いぬのまんすい)は、寛保2(1,742)年に、千曲川流域で発生した大洪水です。流域全体で2,800人以上の死者を出し、田畑の流出も広範囲におよぶ未曾有の大災害でした。
 坂城でも、千曲川の大洪水は、江戸時代だけで64回が記録され、4〜5年に1回の割合で被災していました。
 天保12(1,841)年の大洪水では、坂城の耕地は壊滅に瀕しました。
 幕府は、代官石井勝之進を通じた農民の復旧の請願を受け、直ちに佐藤嘉長を派遣しました。
 嘉長は、5年の歳月を費やして弘化2(1,845)年に、彼の命名になる常山堤を完成しました。
 この堤は、洪水の勢いを直角に受けるため、堤端には畳石と称した巨石を用いて堅牢にし、基礎には大石を敷く構築工法を採用しています。
 常山堤の名称は兵法書「孫子」に由来し「常山の蛇の如く耐え得るもの」として名付けられました。
 桜の木の下に、石碑が設置されています。
 その説明文には「天保12(1,841)年の大洪水で、その辺り一帯の農地が壊滅な被災に瀕した。幕府は代官所へ、ただちに佐藤嘉長を派遣。嘉長は5年の歳月を費やして常山堤を完成させた。
 堤は基礎を大石で築いた、300mに渡る堅牢無比なものであった。そのため農地は水害から守られるようになり、村人は毎年堤上に祠を置いて祭りを行い、堤を補強するための大石を投じた。
 そして、嘉長の功績と常山堤の由来を永く後世に伝えるため碑を建立した」とあります。
 それは、千曲川の川筋に対しほぼ直角に設置されてといいます。現在では、新たに造られた堤防の外側に石碑と共にその一部が残されています。この堤防によりより千曲川の流れを正面から受け止め、西側に流し、坂城の広大な農地を守ったのです。
 嘉長は当時有名な河川管理の技術者だったようで、坂城町以外でも河川改修に関して佐藤嘉長の名を見ることができます。
 孫子の兵法書によれば、常山にすむ蛇は頭を打たれれば尾が、尾を打たれれば頭が、それぞれを救うという故事から、この堤も洪水がどこをついても崩れない、と嘉長は説きました。
2015.4.4[Sat]
美しい坂城町の岩井堂山(自在山)
 村上義清の本拠地があった坂城町を走る国道18号の車窓から、神奈備山であっても不思議ではない、見事な三角錐状の山が眺められます。
 戸隠神社の流れをくみ「太々神楽(町指文)」を今に残す自在神社があるため、坂城町では自在山と呼びます。
 またその特異な山容から、戸倉上山田地域では唐傘山(からかさやま)とも呼んでいます。
 古くは「善光寺名所図会」に「ヤキメシ山」と記されていました。

 坂城町上平地区と千曲市上山田との境界にあり、九頭竜権現を祭る九竜山から北東へ下る尾根の突端にあります。
 その麓にある自在神社(じざい)には、戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏が祀られています。標高793mの山頂に、武田晴信は狼煙台を築きました。
 この美しい山容であれば、坂城の神山と称えられてもよいはずですが、その三等三角点の山頂は、東側だけが間伐されており、千曲川対岸の五里ヶ峰・葛尾山・姫城跡・太郎山と上田市街地が眺望されます。
(2015.4.3[Fri])
諏訪湖を眺める有賀城(諏訪市豊田有賀)
 有賀城は諏訪湖の南岸から有賀峠を越えて伊那・辰野に繋がる峠道沿いにあります。北と東北に延びた尾根の先端と南方の尾根続きに築かれた山城です。
 標高920m、比高100mと、諏訪湖の西山の高台に位置し、枝垂れ桜で有名な江音寺の背後に聳える山稜に築かれています。
 有賀峠は、諏訪市有賀から上伊那郡辰野町へ抜ける最短経路で、鎌倉街道でもありました。峠の諏訪湖側は断崖を這うような急勾配ですが、南側は覗石・上野などの山間部の緩やかな下り斜面が続いて辰野町平出に至ります。
 峠を越えた南側は地形から見れば伊那谷に属しますが、古代から、上伊那郡の北部まで諏訪郡であったため、諏訪市の市域となっています。
 峠周辺には、矢ノ沢湿原の「ザゼンソウの里公園」内の座禅草と、南の山間へ入った板沢地区には福寿草の群落があり、春が遅い諏訪地域では、漸く来たかと思う「春の兆し」を知らせてくれます。
 江音寺の背後を東側に進んでいくと、諏訪高島藩の家老であった千野氏の墓地があります。
(2015.4.2[Thu])
長野県千曲市屋代にみる千曲川の水害
 長野県千曲市大字屋代の屋代遺跡群は、弥生時代から中世にかけて河川の自然堤防上に営まれた複合集落址です。屋代遺跡群の成立は縄文時代晩期にまで遡ることが明らかにされていますが、当時から、かなりの自然堤防が形成されていました。
 弥生時代の遺物の分布からその屋代遺跡群全域に広がり、それは弥生時代中期になると一層顕著となります。古墳時代の居住域も弥生時代同様、自然堤防の北側に偏る傾向がありました。
 その傾向は自然堤防の変化に依るもので、弥生時代以前には自然堤防は今より北側に位置していました。その後南下し奈良時代の頃から現在の自然堤防が形成されたのです。
 「更埴条理水田遺構」と居住域の境は、昭和44年に行われた圃場整備以前の水田と畑地の境とほぼ変わらず、今日と殆ど変りがないのです。
 その自然堤防の背後にできた湿地で水田化が進められ、古墳時代中期の水田跡が広範囲に確認されました。
 千曲市の全長100mの前方後円墳・森将軍塚古墳が4世紀に築かれています。古墳時代初期から有力首長が統治していたのです。しかし河川の流路に沿って形成された自然堤防の背後での農耕は決して安定したものではなく、千曲川の氾濫が頻発し、水路が埋没したため、8世紀以前の遺構は殆ど確認されていません。
 しかしながら、8世紀前半ごろの多数の付札木簡(屋代木簡)が出土しています。信濃国の郡衙があったようです。
(2015.4.1[Wed])

2014年 4月 車山日記
 
車山のギョウジャニンニク
  前庭で、ギョウジャニンニクが芽を出 しました。他にも3か所群生地がありますが、毎年、この場所が一番早いです。
 最近では、シカも食べるようになりました。ニッコウキスゲの若芽と同様、2・3度、先の方だけ食べられます。
 天然物ですから、貴重なのですが、ギョウジャニンニクは、結構、繁殖力はあるのです。「鹿さん!食べすぎは、いけません」といっても通じません。どうしてか乱獲されます。
 今日は、オムレツに入れて食べます。
 明日は、豚肉と一緒にチヂミにします。フキ味噌を付けて食べます。
 明後日は、旬のタケノコとベーコンの千切りと合わせて、パスタにします。
(2014.4.29[Tue])
車山のショウジョウバカマが咲きました
 裏庭の斜面にショウジョウバカマが咲いていました。薄い紫の花が、瑞々しくきれいです。
 15cm前後の草丈ですが、美しい花ですから、白樺の木陰でも映えます。他の植物が活動する前の早春です。一層際立ちます。
 まもなくフデリンドウ・ツバメオモト・チゴユリも咲きだすでしょう。
 庭には、既にニッコウキスゲが、小さいが丈夫そうな若葉を出しています。
 ギョウジャニンニクの、濃い目の緑色の若葉も、10数株見つけました。最近は、鹿が食べるようになりました。フキノトウも、車山では、鹿が食べた痕跡を残すものも見られるようになりました。
 では、これからギョウジャニンニクを、木囲いで覆うことにします。
 まもなくヤマウドも芽を出すでしょう。
(2014.4.28[Mon])
車山高原にツクシが出ました
 車山に美味しそうなツクシが、漸く顔を出しました。桜は、未だ開花していません。今週辺りから大門街道沿いの山桜が楽しめそうです。
 蓼科山聖光寺は、まだ蕾です。標高1,200メートルですから、5月上旬という遅い時期に約300本 のソメイヨシノが満開の時期を迎えます。平成26年4月26日〜5月6日、日没から21時までライトアップされます。
 4月26日から桜が散る日まで、「蓼 科 温 泉 桜 祭 り」が、開催されます。 5月6日、午前11:00〜「豚汁の振る舞い」があり、お茶・ラムネ・花見団子・鶏ちまきなどが販売されます。
 下界が葉桜となっても、こちらでは、まだお花見を楽しむことができます。
 それから白樺湖周辺の桜が満開になります。今日、湖畔で「フキノトウ」がたくさん採れました。
 湖上には、4艘のボートが、雪の残る車山を背景に、ゆっくりと漕がれていました。
2014.4.27[Sun]
茅野市発祥の地に咲くアズマイチゲ
 早春の里山に花を咲かせるアズマイチゲ(東一華)。樹下の枯葉の中に咲いている、この花を見ると、もう春もここまできたかと驚かされます。その自生地は、カタクリの群生地と一致する場合が多いのです。
 落葉広葉樹林の若葉が広がる頃には地上部は枯れてなくなり、その後は翌春まで地中の地下茎で過ごすスプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)の一種です。関東地方でよく見かけられるので、「東一華」の和名がつきました。別名「雨降花」と呼ばれており、摘み取ると雨が降るという説があります。
 写真の「東一華」は、長野県茅野市の「だいもんじ・亀石周辺のカタクリの群生地」にある千野川神社入り口で、20株ばかり咲いていました。樹下に、純白のこの花の美しさは、よく目立ちます。
 亀石は元々、千野川神社に置かれたもの、それが「洪水で流されて行方不明になったが、今は上諏訪の個人宅にあることが分かっている。しかし、戻ってこない。」と言われています。
 東方の西茅野の集落の背後、標高840mの御岳山に御岳神社が鎮座しています。茅野(千野)氏の居城・駒形城がありました。文明15(1483)年の「文明の内訌」の時には、その居城を大熊城へ移していました。
 千野川神社の前を流れる千野川は、御岳山あたりを源流にしているのでしょうか?
2014.4.26[Sat]
だいもんじ・亀石周辺のカタクリの群生
 茅野市宮川の西茅野と安国寺の中ほど、西茅野から流れてくる千野川が宮川に合流するあたり、その南西山麓およそ2ヘクタールに、カタクリの群生が見られます。
 茅野のメリーパークの裏側奥の山沿いです。ヒノキの森の斜面に作られた遊歩道沿いに、可憐な花が咲いています。約2万株が自生しているそうです。市文化財の天然記念物に指定されています。
 市内では最大の群生地です。花の見ごろはおおよそ今頃、4月下旬です。
 カタクリの花は「春の妖精」とも「春の女王」ともいわれますが、小さな淡い紫の花が、一株一株、別れて咲きます。一株に一輪だけの花!暖かな思いやりを持って育てないと、消えてしましそうな儚さがあります。
 遊歩道からは、上原城がある金比羅山と蓼科山が、茅野市の市街地を挟んで、展望できます。
 鹿の食害がすごく、多数のヒノキの樹皮が剥ぎ取られていました。無残な倒木も目立ちます。
(2014.4.25[Fri])
下菅沢の祖霊桜
 茅野市豊平下菅沢にある墓地の中心に立つ、大きなシダレザクラです。その古木「祖霊桜(それいざくら)」が、今年も満開になりました。400年以上とも450年ともいわれ、胴回りが4.8mある巨木で、その太い幹の周りに、薄いピンクの花が隙間なく咲く、その長い枝垂を流します。
 武田信玄が諏方地域を領有していた時代から、木川家はこの一帯を広く支配した大地主でした。その当時からの先祖の墓が、数基、大きなシダレザクラの根本近くで安んじています。その先祖の霊を慰めるように大切なシダレザクラが、尾根の中段辺りに古い墓石に囲まれるように立っています。

 12代当主の木川さんによると「昨日・今日がまさに満開です!」ですと言われました。信玄と謙信の川中島の戦いの頃のものと伝えられているそうです。
(2014.4.24[Thu])
荒砥城の桜
 荒砥城(あらとじょう)は、長野県千曲市にあった城です。冠着山(かむりきやま)支脈の城山(標高895m)山頂を本郭とします。眼下の千曲川流域は屋代から坂城まで見渡せます。北アルプス・戸隠山・飯綱山も眺望!!
 荒砥城は、この地の豪族で村上氏の一族の山田氏の居城でした。村上氏の本城葛尾城の支城としての役割を果たしていました。荒砥城から葛尾城址が眺められます。
 天文22(1553)年武田軍は荒砥城を攻撃します。城将山田国政は奮戦し討死します。
 8月、村上義清救援の上杉軍が荒砥城を奪還します。上杉軍が越後に引き揚げると、屋代氏・室賀氏など村上義清に離反した武田勢が、猛攻を加え、荒砥城・葛尾城は武田の手に再び落ち、村上義清は上杉景虎を頼って越後に逃れます。荒砥城は戦功として屋代秀正に与えられます。

 天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後は、屋代秀正は上杉氏に従い海津城の副将として遇されます。川中島は上杉景勝領となり、荒砥城は徳川方の狐落城に対する上杉方の備えの城として重視されます。
 しかし村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、主将の山浦景国(村上義清の息子)とはうまくいきません。
 秀正は徳川氏に通じ、徳川の下へ出奔します。天正12(1584)年4月1日、上杉景勝に攻められ、荒砥城は火を放たれ、廃城となります。
(2014.4.23[Wed])
諏訪 高島城の桜が満開です
 ソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラ約90本が植えられています。花見提灯も桜に合わせて点灯しますので、夜桜見物もできます。
 点灯期間は桜の咲き始めから散り終わり、点灯時間は18時〜22時 
 高島城址公園内は、日根野織部正高吉により築城された高島城が復興され、住民の憩いの場となっています。
 5月下旬には「高島城祭」も行われます。また、樹齢が約130年を超えるフジも有名です。

 今、上川の土手が、ほぼ同じ時期に咲く桜とスイセンが、見事な競演、富士山を眺めながら散策して下さい。

 諏訪湖畔を散歩しながら、または足湯につかりながら、花見と間欠泉の噴出が楽しめます。

 西山公園では、千本桜と呼ばれるたくさんのソメイヨシノが咲き誇ります。市街地西方の中央自動車道に隣接した場所にあります。山腹の高台に位置しているため、東に八ヶ岳連峰、西に北アルプスを望み、眼下には諏訪湖とその周辺の茅野市・諏訪市・下諏訪町・岡谷市が一望できる景勝地として、市民に親しまれています。
 毎年、地元の若れんが設置する約100匹の鯉のぼりが色どりを添えます。
(2014.4.22[Tue])
伊那谷の芝桜
 伊那市小沢の広域農道沿いにある「花公園」で、30アールに、ピンクや白のシバザクラを植えています。
 中央には、富士山を模して高さが千分の1の、3.776メートルという「花富士」が美しいです!!
 借景は南アルプスの仙丈ケ岳です。
 水面に映る南アルプスと、芝桜の逆さ富士は、見ごたえがあります。
 近くには、「かんてんぱぱ」で有名な、長野県伊那市にある伊那食品工業株式会社があります。周囲には桜も多く、特に「かんてんぱぱガーデン」は、春はカタクリ・ミズバショウ・イワカガミ、夏はクリンソウ・ネジバナ ・レンゲショウマ、秋はマツムシソウ・ダイモンジソウなど四季折々の山野草が 楽しめます。
 各種フルーツ・コーヒー・抹茶などを素材にしたババロア・プリン・杏仁豆腐などの製品群の試食が楽しいです。
(2014.4.21[Mon])
車山高原の山焼き
 車山高原の山焼きは、スキーシーズンが終わり、春を迎える準備の一つです。緑 一色の山になる様に毎年行われます。今年4月20日でした。
 古くから、車山山麓の部落で飼う馬や牛が、美味しい草原の草を十分食べられるよう山焼きを行っていました。
 放って置くと、ミズナラ・レンゲツツジ・マツ・ニセアカシヤなどが繁殖します。
 特にレンゲツツジは毒性が強いので、貴重な馬や牛が、萱やそのたの草と一緒に食べたら大変です。痙攣や呼吸停止になります。
 レンゲツツジの毒が蜂蜜に混ざると蜂蜜が苦くなったり、蜂が蜂蜜を作る前に死んだりするそうです。
 近年、車山高原には、随分とカシワの木が自生するようになりました。
 山焼きに強い木なので、シカ同様、近い将来、車山高原の景観を変えていくかもしれません。
2014.4.20[Sun]
宗龍寺の枝垂桜が満開です
 4月19日、宗龍寺では、境内の枝垂桜が見頃を迎えています。
 上田市丸子の御嶽堂字山寺の地籍名から山寺の愛称で親しまれています。境内の桜のほとんどが枝垂桜で、樹齢数百年を越える桜が数多く、落ち着いた雰囲気を醸し出し好感が持てます。
 「宗龍寺」は室町時代、文安年間(1444〜1449)に開創しましたが、火災で焼失しました。その後、慶長5(1600)年中山勘解由左衛門宗龍を開基とし、上田市の龍洞院三世・底山元徹大和尚禅師を開山に迎え、曹洞宗中峰山宗龍寺として再建開創された、とあります。
 寺の裏山が金峰山です。その山頂部を、南北約8m・東西約15mに細長く削平し、依田城の主郭を築いたようです。木曽義仲が挙兵の際、その詰の城としたのが依田城です。
 その依田城址の登山口が、宗龍寺の南側に流れる渓流沿いにあります。宗龍寺は、平安時代末期、依田氏の祖依田為実の子・依田次郎実信が居館を構えた場所と伝わっています。
 依田実信は、木曽義仲の挙兵にあたり、その拠点とするために、自らの館を一時的に提供したようです。
 平家物語には「木曽はその頃依田の城にありけるが、その勢三千余騎で、城を出て、信濃と越後の境なる熊坂山に陣を取る」と語られています。
 また同寺は、依田川から丸子・長瀬を眺める高台にありますから、菅平根子岳・烏帽子・浅間山などを望む景勝の地として、丸子八景の一つに数えられています。
 
2014.4.19[Sat]
上田市丸子の宝蔵寺岩谷堂の桜
 長野県上田市御岳堂字岩谷堂(いわやどう)にある龍洞山宝蔵寺は、平安時代初期に比叡山の第三代座主・慈覚大師円仁によって創建されました。通称「岩谷堂」と呼ばれ、今では桜の名所で、旧丸子町にあたります。
 宝蔵寺の伽藍は、岩山の壁面を抉って建てられた数個の堂から成り立っています。特に、朱塗りの観音堂は、その特徴が明らかで、丁度、岩壁に寄り添うようにして咲く桜の木々が満開でしたから、丸子一帯を眺望する風景と相まって、参拝の方々が、しばしば感嘆の声を上げていました。
 木曽義仲は平家追討の令旨を受けて、この周辺で挙兵し、眼下に緩やかに流れる依田川の本流・千曲川の「白鳥河原」で信濃、北関東の兵を集めて軍団を勢揃いし、北陸路より京都に攻め上がりました。その折り、宝蔵寺で戦勝祈願をし、馬上登った道が現在「義仲馬大門」と呼ばれています。手植えの「義仲桜」といわれるエドヒガン桜が、萎んだ花柄一つなく、蕾一つ残さず、美しく咲いていました。

 通称「岩谷堂」上部の岩壁に、風雨などの侵蝕によってできた大きな洞窟があります。そこから成人の男女と幼児の人骨が、5体以上散乱状態で出土したようです。ほかに、鉄剣・鉄鏃・刀子・乳文鏡(にゅうもんきょう)・石製の紡錐車(ぼうすいしゃ)や土師器、須恵器など6〜7世紀の遺物が発見されました。その土器類などが、古墳から出土するのと同様の遺物でしたから、「岩窟古墳」と呼ばれてきました。
 登録名も「古墳」となっていますが、今では、この洞窟は鳥羽山(とばやま)洞窟と同じく、遺体を埋めないで置いて、空気中にさらしておく曝葬(ばくそう)が行われた崖葬(がいそう)の場所と考えられています。ただ、人骨には、焼けたものとそうでないものとが混じっていたようです。出土遺物から6〜7世紀の古墳時代後期に利用されたものと思われています。
(2014.4.18[Fri])
依田川の桜と鯉のぼり
 4月中旬から5月上旬、依田川の上空を、川幅いっぱいに、約100匹の鯉のぼりが舞います。各家庭から寄せられた鯉のぼりを再活用して街並みづくりに役立てているそうです。
 今、同じ時期に、堤防沿いでは桜が見頃を迎えています。丸子辺りの依田川沿いの堤は、覆い茂る桜の並木道となり、その公園の一角には、丸子鉄道時代の電気機関車が展示されています。

 安良居(あらい)神社は、依田川のほとりの丸子公園内にあります。上丸子区の氏神です。
 寿永2(1,183)年に木曽義仲が創建したと伝わります。
 義仲は、養和元(1181)年、東御市海野宿、白鳥神社近くの、千曲川の白鳥河原に軍勢を集結させます。平家討伐の挙兵に際して、武運の長久を祈って、笠懸の儀を行い、北に向かって之を射て命中させます。義仲が笠懸の儀を行った地は、安良居神社より北に2kmほど先の上田市御嶽堂にあり、「的場」と称しています。義仲は、その矢と笠を社殿に奉納しました。
 永2年(1183)3月、義仲嫡子義高を人質として源頼朝のもとへ送るにあたり、海野小太郎幸氏を随従させます。その出立にあたり、義高の武運を祈願して、幸氏に命じて笠懸の儀を行います。幸氏は、かつて義仲が奉納した矢をもって之を射て命中させます。再びこれを社殿に奉納し厚く報賽します。
(2014.4.17[Thu])
上田城の夜桜
 上田城を埋め尽くすように、約千本の桜が咲き誇ります。
 城の櫓門と石垣に映える桜
 堀の水面に映る桜
 桜の下から眺める城郭
 上田城千本桜まつりの期間中、4/4から4/20 18:30から22:00
 夜桜がライトアップされます。
 
 信州産の鶏肉をつかった「美味だれ焼き鳥」の屋台も出店しています。並んで食べました。ニンニク醤油タレの旨みと炭火の香りが香ばしい!!
(2014.4.16[Wed])
薄川堤防の桜
 薄川の両岸に桜の花が、3kmにわたって下流から上流に向かって順々に咲いていきます。春霞の陽気の中、河川敷にシートを広げてファミリーの方々が、花見を楽しんでいました。薄川の桜と遠く乗鞍岳・常念岳・大天井岳と槍ヶ岳の穂先を眺めながら、春の訪れを満喫していました。振り返ると上流の彼方に、美ヶ原の平らな高原台地が望めます。
 薄川は美ヶ原を源流に、松本市内で田川・女鳥羽川・奈良井川と順々に合流しやがて犀川となり、松代で千曲川に流れ入ります。
 東西に流れるこの川が、かつては松本の城下と郊外を隔てていました。当時の松本はこの薄川の扇状地にありました。
 その扇状地末端にある市の中心地では、いたるところで上質の水が湧き出します。その内「源池の井戸」は、毎分約230リットルの水が湧出しています。天保14(1843)年に刊行された「善光寺道名所図会」には、信濃国第一の名水と讃えられています。
 
(2014.4.15[Tue])
弘法山古墳の5千本桜
 国の史跡、3世紀末築造の弘法山古墳です。標高約650m、墳丘長66m、この古墳の出現期が、もし3世紀中葉に遡るのなら卑弥呼の時代と重なります。
 その弘法山古墳を、5千本を超える桜が包み込むように咲き誇ります。「まさに、今ですよ!」と呼びかけたいほど、大らかな美しいに満ち溢れています。
 古墳の山裾から山頂付近までの行き帰り、ソメイヨシノ・枝垂れ桜・オオヤマザクラなど約4,000本の桜が、華やかに導いてくれます。
 円墳の頂から北アルプスと松本の市街地を一望!
 乗鞍岳・槍ヶ岳・常念岳・爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳から白馬三山など白い雪の山稜が素晴らしいです。

 前方後方墳は、弥生後期に東海地方西部の濃尾平野を中心に拡大した古墳形式です。濃尾平野は、3世紀半ばころ、邪馬台国の女王卑弥呼と対立した、『魏志倭人伝』に登場する狗奴国の王国でした。その東海地方特有のS字甕が、弘法山古墳から出土していることから、被葬者は濃尾地方の勢力下に入り、その文化を共有していたとみられます。
(2014.4.14[Mon])
瑠璃寺の桜(長野県下伊那郡高森町)
 中央道/松川ICより車15分の瑠璃寺の桜です。天永3(1,112)年に開創されたお寺です。源頼朝も寺領を寄進し、祈願所としたそうです。国重文や県宝など、貴重な文化財を有し、瑠璃寺の本尊の薬師如来三尊仏は重要文化財です。
 平安後期の定朝様(じょうちょうよう)の優美な造形と、平安前期特有の重玄なたたずまいとが融合し、仏の慈悲が光彩となって辺りを照らします。実は、檜の素地仕上げで、900年の時を経ると、顔・首筋・胸が金色の光を発するのです。拝観には事前予約が必要です。 

 毎春には境内の枝垂れ桜の大木が見事な花を咲かせます。長野県の天然記念物です。樹齢200年を越え、薄桃色の繊細な花が緩やかに流れるように咲いていきます。発端は、源頼朝公から下賜された桜が起源となります。鐘楼脇の地主桜や参道の桜並木も古刹に彩りを添えます。
 この高森町は、有名な市田柿の産地です。帰ったら直ぐウイスキーグラスに、市田柿を入れて、1時間位我慢してから、両方を味わってみました。
2014.4.13[Sun]
春日城址の桜(伊那市西町)
 春日城は、戦国時代、300貫文を領有する伊奈の豪族伊那部重慶の居城でした。重慶の本姓は春日氏といい、市内美篶(みすず)上大島区の大島城より移り、以後、当城を「春日城」と呼びます。古くは「伊奈部城」とも呼ばれたようです。重慶の後を、嫡子重成が継ぎ、その重成の嫡子重親の時代に、武田信玄が伊那に侵攻します。
 当時、重成の次男重国は、伊那の東春近地区の殿島に所領を与えられ殿島氏を称して殿島城を本拠にします。
 天文11(1542)年、諏訪を併合した武田晴信は、同14(1545)年、伊那に侵攻して高遠城と福与城の攻略に挑みます。
 この時、福与城に籠る藤沢頼親を支援するため、信濃国守護小笠原長時が竜ヶ崎城(上伊那郡辰野町)に入り、その弟小笠原信定(松尾城主/飯田市)は春日城に入って福与城を支援します。定信は下伊那・中伊那衆を率いて、伊那部の春日城に本陣を置きます。参陣したのが下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺・保科・溝口・市瀬・大島氏など2千余の兵力が、春日城に集結し武田勢と対峙します。
 しかし、藤沢頼親が武田氏に降伏すると、春日城に集結した伊那衆は軍を解き、武田氏に降ります。伊那部氏も武田氏に帰服したようです。
 弘治2(1556)年7月、信玄が川中島で上杉謙信と対戦していたすきに、伊那部重親は弟の殿島重国・溝口正慶・黒河内政信・松島信久・宮田親房・小田切正則・上穂重清(うわぼしげきよ)ら上伊那郡南部の地侍8人と共に武田氏に謀反を起こします。
 「弘治二年重親信玄ニ背キ捕囚トナリ孤島ニ於テ殺戮セラレテ家名ヲ失フ」『伊那武鑑根元記』。
  8人は捕らえて市内狐島(きつねじま)の蓮台場(れんだいば)で磔にされ、その首は晒されます。
 伊那部氏没落後、春日城は、高遠城>の支城として整備され、武田氏の番城として維持されます。
 天正10(1582)年、織田軍5万の信濃侵攻に対して、本城の高遠城を守る武田勝頼の弟・仁科盛信の下へ、盛信靡下の春日昌吉は、部下を引き連れ、伊那・諏訪などの緒衆3,000人と共に高遠城に篭城し、織田の大軍を迎え撃ちます。昌吉達は妻子を自らの手にかけ、激戦の中に全員が討ち死にします。
 高遠城落城の最中、春日城は火を放たれ落城します。そのまま再建されることなく廃城となりました。

 現在は春日公園として整備され、桜の名所となっています。本丸跡に彼岸桜、二の丸・三の丸跡に染井吉野が合計約200本植えられています。三の丸の枝垂桜の大木は、大らかな美しさがあります。
 春日城址からは、伊那市を一望できる高台にあるため、桜越しに南アルプスの仙丈ケ岳と正対します。
2014.4.12[Sat]
坂戸大橋の桜が今一番!
 上伊那郡中川村には桜の名所が沢山あります。
 坂戸橋と天竜川、それに桜のアーチが織りなす見事な景観が写真の場所です。
 近くの大草城址公園と望岳荘からは、晴れた日には残雪の中央アルプスを背景にして、信州の春ならではの美しい景色を楽しめます。
 毎年晩秋の頃、車山から望岳荘の赤そばを食べに来ます。紅葉も彩り豊かで、天竜川の景観と一緒に飽かず眺めます。
 
 坂戸橋を渡った左にある碑が、中川村を、養命酒発祥の地と記しています。
 なだらかに迂回しながら上る道の途中を左折しますと、その養命酒工場跡地があります。
 養命酒が、駒ヶ根市に工場を建設したのは昭和47年のことです。
 ある大雪の晩、塩沢宋閑翁が雪中に倒れていた旅老人を救い、3年間塩沢家で過ごさせたそうです。すると、旅老人は、塩沢家の恩義に報いるため、霊酒の秘製法を授けて去っていきました。それから、手飼いの牛に乗って深山幽谷を歩き、薬草を採取して秘醸を始め、慶長7年(1602年)「養命酒」と命名したと伝えられています。
(2014.4.11[Fri])
大草城址公園の桜
 大草城址公園は、長野県上伊那郡中川村大草にあった大草城址を少しずつ公園として、整備していったものです。総面積は約5ヘクタール程あります。
 大草城址は、香坂高宗が、南北朝時代の興国4年/康永2年(1343年)の冬、南朝側に属していた後醍醐天皇の第8皇子・宗良親王を守護していた居城です。当時、高宗は、大草郷から大河原までの一帯を領有し、下伊那郡大鹿にあった大河原城を居城にしていました。
 宗良親王を迎え、更に奥地の内ノ倉(御所平)に仮御所を設けます。諏訪氏や諏訪神党に連なる知久氏や桃井氏など南朝方諸族らと共に宗良親王を庇護し続けました。
 香坂氏は、伊那谷に流れる天竜川の東側の一帯を治めていたとされています。隣接する北朝側に組していた、天竜川の東側に勢力を張る船山城の片切氏や飯島城の飯島氏らに対抗して、この要害堅固な大草城を本拠として足利幕府の軍勢と奮戦していました。
 宗良親王は正平10年/文和4年(1355年)、越後・信濃などの南朝勢力を結集して北朝方の信濃守護家小笠原氏と決戦、その桔梗原の戦い(塩尻市)で決定的な敗北を喫します。これ以降、諏訪氏や仁科氏など有力氏族が離反し、南朝方は一段と劣勢になります。
 正平24年/応安2年(1369年)には、将軍足利義満の命で、関東管領上杉朝房が大河原に攻め寄せるますが、高宗は大河原の地を守り抜いています。
 文中3年/応安7年(1374年)、失意のうちに宗良親王は吉野に去りますが、その後も度々大河原の地を訪れ、親王終焉の地の有力候補となっています。高宗は応永14年(1407年)、大河原城にて逝去。
 大草城址公園には、ソメイヨシノだけではなくて、濃いピンク色の八重紅彼岸桜や江戸彼岸桜など約200本程度が咲き競い、非常に雄大な3,000m 級の残雪の中央アルプスを背景にして、優麗で奥行きのある景観となって楽しまさせてくれます。
 出店で五平餅を3串買いました。1串150円と安い。お米はもちろん、大豆から味噌・黍・山椒・くるみなど中川村産のもので作った五平餅です。山椒の味と香りが際立っていますが、甘味もほどよく、実に美味しかった!車山からでは、度々、出かけられないのが残念です。
(2014.4.10[Thu])
あんずの里 千曲市
 2014年4月8日現在のあんずの里の開花状況は、千曲市観光協会(TEL:026-275-1326)のよると
 『平地 3分咲き』『中間 2分咲き』『山際 つぼみ』
とありました。
 近年、民家が大分増え、興趣に欠けてきています。
 昨日のあんずの里では、写真の位置を決めるのに苦労しました。
 あんずの里は、森将軍塚古墳から東南方面に眺められる森地区・倉科地区にあります。大峯山北麓の西側の谷筋台地にあります。 中国北部で形成された東洋系のあんずの品種群には、ウメとの交雑の痕跡があるそうです。そのためか、花も樹形もそっくりです。
 ウメの果実は完熟しても甘みが生ぜず、種と果肉が離れないのに対して、アンズは熟すと甘みが生じ、種と果肉が離れます。
 旧更埴市のアンズの生産量は、平成13年度には日本一であったそうですが、青森県の方が長野県を超えています。

 元禄時代、伊予宇和島藩主伊達宗利の娘・豊姫が第三代松代藩主真田幸道に嫁いだ際、故郷を偲ぶ品としてあんずの種子を持参したのが始まりといわれています。当時「唐桃」と呼ばれ、宇和島で栽培されていたあんずを領内に植え、遠く離れた郷里を偲んだといわれています。それが契機となり、松代藩は東条村(長野市松代町東条)で栽培を始め、やがて森村・倉科村・生萱村(いきがや)・石川村(長野市篠ノ井の一部)などへ苗木を配布し、栽培を奨励し、松代にあんず栽培が広がっていきます。
 アンズの種子を乾燥させた「杏仁(きょうにん)」が、咳止め薬として珍重され、松代藩が栽培を奨励したため、今日に至るまで生産が盛んになったと言われています。
(2014.4.9[Wed])
森将軍塚古墳
 森将軍塚古墳は、4世紀代に、千曲市大字森字大穴山に築造されました。これは森将軍の古墳ではありません。日本全国の古墳は、どれひとつとして埋葬者は表記されていません。「森」は、古墳のが所在する字名です。「森」という郡・里があったかもわかりません。
 将軍の由来も、善光寺平には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基あります。古来、この土地の有力者や権力者を将軍様と呼ぶ慣習があったようです。
 古墳は、長野県で最大となる全長約100mに及ぶ前方後円墳とみられています。平坦部から130 から140mの比高があり、有明山尾根上にあたる曲がった急斜面にあるため、後円部は楕円のようになり、前方部と後円部では中軸線が20度ばかりゆがみ左右対称とならず、後円部が楕円形に近いため、前方後方墳という説もありますが、発掘された埴輪の形から古式の前方後円墳とみて間違いはないようです。
 副葬品の殆どは過去の乱掘により散逸し、僅かに遺存した三角縁神獣鏡片の出土例は、長野県下では森将軍塚古墳だけだそうです。ヤマト王権から下賜されたものです。他にもヒスイの勾玉・碧玉製の管玉・近畿地方の影響と思われる土器類や円筒埴輪・壺形埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪や異形埴輪などの埴輪類、剣や切先の尖った槍か剣のようなもの、鉄鏃、細工のための小刀、農業に使う鎌などが出土しています。同時代の前方後円墳からは、通常、身分を示す鏡・玉・剣・鉄製農具などが伴出します。
 前方部の裾から直径1m・高さ1.2mの須恵器の大きな甕が出土しました。須恵器が焼かれ始めた5世紀で、現在の大阪府堺市の近くで作られました。古墳時代には2系統の土器が作られました。その一つは弥生文化の系統の素焼きの土師器です。もう一つが朝鮮半島南部からの渡来人がもたらした朝鮮系の須恵器です。須恵器は穴窯(あながま)の中で、1,100度以上の高温で還元焔焼成するもので、小さな焼成坑を地面に掘って焼成する土師器より、丈夫で硬質のものができます。須恵器を製作する渡来人は陶部(すえつくりべ)としてヤマト政権に仕えていました。その須恵器が、森将軍塚の裾から出土したことから、この地域の首長はヤマト政権に服属していたとみられます。

 墳丘は葺石で覆われ、三重の埴輪列のほか、墳頂には形象埴輪が配されていたようです。後円部頂の中央に長さ15.0m、幅9.3m、深さ2.8mの穴が掘られ、その内部に「墓壙」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの竪穴式の石槨が築かれていました。この石室は東日本最大級の大きさといわれています。

 この周辺からは、5から7世紀後半にかけて、13基の円墳を初め、それらの古墳の裾に沿って埴輪棺や組合式石棺や埴輪円筒棺などの小形埋葬施設が100基近く発見されています。それ以上あったと考えられますが、後世の採石などで消失したようです。
 埋葬施設のなかには6世紀代のものもあり、2世紀の間追葬が行われていたとみられます。
(2014.4.8[Tue])
一重山の屋代城からの眺め
 屋代城は千曲市屋代にあり、有明山から一つ北側に伸びた独立峰の一重山の山頂にある山城です。一重山は標高458m、比高98mある円錐形の山でした。佐久から北流してきた千曲川が、大きく右に迂回し東流をはじめ松代へ向かう、その流域を眼下に眺望する位置にあります。
 千曲川の対岸にあたる北方には、聖山・高雄山などの峰々、筑摩山地があり、その麓の千曲川左岸の町が八幡・稲荷山で、大岡・小川・中条への山道がつながり、途中、犀川沿いを走る国道19号に出られます。そこが牧之島城址です。
 千曲川対岸にあたる台地が八幡・稲荷山で、前光寺平へと北上する旧前光寺街道が通じています。
 
 屋代城には、築城の年次を記す史料がなく、室町時代初期に遡るものとみられています。大塔合戦にも参加した屋代氏代々の本拠で、天正11(1583)年4月、屋代城最後の城主・屋代秀正が去るまで 200余年に及ぶ詰め城です。
 屋代氏は葛尾城・村上氏の支族で、村上義清の副将格でしたから、屋代城は義清が北信4郡に進出する拠点としていました。

   絶頂の 城たのもしき 若葉かな   蕪村
 

 屋代秀正は、戦国武将ならではの紆余曲折を経て、最終的には徳川家康の武将となり、慶長19(1614)年の大坂の陣では徳川軍の旗奉行でした。
 元和8(1662)年、徳川秀忠により秀忠の次男・忠長付の家老に任じられ信濃小諸城主となりますが、翌年に死去します。享年66。家督は子の忠正が継ぎます。
 忠正は、徳川忠長の御附家老となり、寛永9(1632)年10月、忠長が幕命により改易されると、連座して改易され、越後の高田城主・松平光長預かりの蟄居の身となります。
 寛永13(1638)年9月、罪を許され、寛永15(1638)年2月、安房国内に1万石を与えられて北条藩を立藩します。なお、北条藩屋代氏は参勤交代をしない定府大名でした。

 3代忠位の時に万石騒動という大規模な農民一揆が起きます。家老川井藤左衛門の圧政により苛酷な年貢を課された農民が、江戸藩邸に門訴したのです。その責めにより除封された屋代家は、先祖代々の功が考課され、3千石の旗本となって家名を存続します。
 慶安4(1651)年百人組頭となり、寛文2(1662)年4月24日、69歳で逝去。養嗣子の忠興が継ぎます。
(2014.4.7[Mon])
信州の桜の満開時期
 諏訪湖畔の高島城には、ソメイヨシノを中心にシダレザクラ・ヒガンザクラ・ヤエザクラなど約90本が植えられています。諏訪湖間欠泉センターの近くの諏訪湖畔では、足湯につかりながらの花見が楽しめます。4月14頃、満開予想です。
 上田城の櫓門の枝垂桜の蕾が、大分膨らんできました。4月10日頃が満開予想です。
 松本城や堀周辺には、約320本のソメイヨシノ・コヒガンザクラ・シダレザクラなどが、青天下、残雪の北アルプスを背景に咲き誇ります。今年は4月9日頃が、満開予想です。
 春日城は、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた伊奈の豪族伊那部大和守重慶の居城でした。南アルプスや伊那市街地が一望され、その春日城跡の春日公園では本丸・二の丸などに約420本のソメイヨシノとコヒガンザクラが植えられています。4月10日頃が満開予想。
 高遠城は南アルプスの裾野にあり、1,500本のコヒガンザクラが咲き乱れます。4月中旬予想。
 善光寺境内とそのすぐ隣の城山公園一帯は、約470本のソメイヨシノが、一気に満開となり壮観です。4月12日頃の予想。
(2014.4.3[Thu])
裏庭に鹿の骨
 朝、裏庭でフキノトウを探していたら、白い鹿の骨が横たわっていました。
 病死か、大雪による餌不足か、猟銃で致命傷を受けながらここまで逃げて来たのかもしれません。
 秋、鹿の発情期になると「ナワバリ・オス」はナワバリ内に侵入しようとするオスを追い払うため、攻防が繰り返されれるます。メスジカの発情は、1日しか続かず、2週間後に再度発情を繰り返しますが、メスジカは浮気者で他のオスと平気で交尾します。「ナワバリ・オス」は、忙しすぎて、豊富な秋の味覚を食べることもままならず、十分な脂肪の蓄積ができなくなって、3月前後に力尽きることも多いのです。
 この冬、カラスがやたらに多いなと思いましたが、原因は、この鹿の遺体にありました。
 車山では、カラス・キツネ・タヌキ・アナグマ・ハクビシン・イノシシと健啖家に事欠きません。
 今、どう処分するか考えています。
(2014.4.2[Wed])
無患子(むくろじ)の実
 亜熱帯・熱帯暖地性で、本州中部以西の暖かい山野などに自生します。車山・諏訪湖周辺では見られません。
 学名はSapindus mukurossiです。ラテン語のsapo indicusはインドの石鹸が語源だそうです。
 落ちてた実を拾い、実の皮をむいて、その皮をこすり合わせると、サポニンを含むため、泡立つ石鹸となります。
 皮の中の1つの黒い種子が、実は「羽根つき」の羽根の球に使われるのです。
 上田城大手門前の観光会館では、ネックレスや数珠にして売られています。

 「雨の日の 雨の無患子 深大寺」 麦人 秋の季語です。
 無患子は、秋も深まってくると2cmほどの黄色い実を付けるからです。
(2014.4.1[Tue])


2013年 4月 車山日記

霧ヶ峰の山火事
 4月28日午前9:40頃、車山・霧ヶ峰・白樺湖一帯に、複数の消防車のサイレントと警鐘の音が鳴り響きました。
 今年の3月9日午後1時半ごろ、松本市で畑の下草を焼いていた火が隣の自動車修理店の駐車場に止めてあった車に燃え移り、16台が焼損しました。気象台によりますと、出火当時、松本地方には乾燥注意報が出されていました。 
 4月28日も9時半頃から、長野県の諏訪市の霧ヶ峰高原で、ススキ・ササ・立木などを焼く作業が開始されました。地元の人などおよそ400人が参加する野焼きです。その火が風にあおられ、カボッチョ山を全焼させカシガリ山にまで及ぶ山の大火災となりました。
 長野県内の諏訪広域消防本部の消防車23台の他、群馬県や山梨県など4つの県の防災ヘリと自衛隊ヘリの協力を得て大掛かりな消化が行われ、火は約7時間に及ぶ燃焼で、漸く午後5時に鎮火しました。
 長野地方気象台によると、当日、諏訪市には乾燥注意報が出ていて、午前10時ごろには10m前後の風が吹いていました。その状況下、諏訪市の市長が野焼きの点火式を始めました。霧ヶ峰高原は主に標高1,550〜1,650mに広がる草原で、火を入れることで森林化を防ぎ車山高原から霧ヶ峰にかけて咲き誇る、スミレ・ラショウモンカズラ・オダマキ・ニッコウキスゲ・ヤナギラン・シモツケソウ・マツムシソウ・ウメバチソウなどの陽性植物を育成するため、毎年、春に野焼きを行います。
 しかし、風にあおられ、予定していた10ヘクタールの15倍を超え、154ヘクタールまで燃え広がりました。待機していた消防の他、長野県のほか、群馬県や山梨県など隣県4つ消防の協力をえて、逸早く周辺県や自衛隊のヘリコプターが出動し、消火し、漸く火は約7時間後の午後5時に鎮火しました。その間、白樺湖の湖水が汲み上げられました。
 車山湿原・八島ヶ原湿原と合わせて霧ヶ峰三大湿原の一つに数えられている「池のくるみ踊場湿原」も国の天然記念物です。高層湿原と低層湿原を併せ持つ大変珍しい湿原で、湿原内の池にはスゲの根が蓄積されて持ち上がるヤチボウズと呼ばれる珍しい現象も見られます。その辺りは、特に焼失による炭化が激しく、一段と黒く、恐らくその辺りが野火点火の場所であったようです。その周囲のレンゲツツジや白樺などもほぼ全滅状態です。
 車山・霧ヶ峰は未だ新緑を迎えていない時季ですので、周辺の草本類には、殆ど影響はないでしょう。しかし立木やそこにしばし宿る野鳥のノビタキ・ウグイス・カワセミなどに、どのような影響を与えたのでしょうか。
 県消防防災ヘリの出動実績によると、2,000年以降、2,002年3月に美鈴湖から浅間温泉にかけて約176ヘクタールが燃えた火災に次ぐ、2番目の焼損規模だそうです。
 山田勝文市長や霧ヶ峰関係の人々が、長野地方気象台による乾燥注意報が出ていながら、あえてゴールデン・ウィークに合わせて強行するとは、その周辺住民でもただ唖然とするばかりです。
 緊喫の課題が、やがて林床植生のシカの食害による稀少草本類の消失と、笹の焼失による土壌の流出が現実問題となる危険性が高まります。焦土から生育する笹を含めて草本類は、シカにとって格好の餌となります。
 消防隊員・消防団・自衛隊の方々、御苦労さまでした!
(2013.4.30[Tue])
大門街道の山桜が開花しました
 諏訪から白樺湖・車山・霧ヶ峰の入口、国道152号は通称大門街道と呼ばれています。音無川流域のなだらかな山の傾斜地が若草色に染まり、白いコブシと薄紅色の山桜が彩りを添えています。 コブシは、山桜より早く咲き、東北地方では「種蒔桜」と、古くから春を告げる花木として親しまれています。各地方様々ですが、「こぶしの花が横向きに咲くときは大風が多い」「こぶしの花が上に向けば風強く、下向きに付けば雨が多い」「こぶしの花が上向きに咲けば豊作、下向きに咲けば凶作」などと占われています。
 秋田県ではコブシ、岩手県では糸桜など、地方によってコブシ・糸桜・山桜など種類が異なりますが、「田打ち桜」と呼び、その開花を農作業開始の目安としています。山桜(ヤマザクラ、エゾヤマザクラなど)は、葉と花がほとんど同時に開きます。赤茶色に染まった新葉と同時に、その葉のわきに輝くような淡い紅色の一重の五弁花を咲かせます。満開になっても一週間ほどは楽しめます。
 山桜の名は、山地に自生し、早春、新緑の山肌にたくさんの花を咲せることから、サクに複数を意味するラを加えたとされています。
 また木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)のサクヤが転訛したという説もあります。
 古くは花といえばサクラといえばヤマザクラを指し、神話では木花之開耶姫が富士の山頂に天降り、タネをまいてからサクラの花が咲き乱れるようになったと伝えています。

 「サクラ」は、古事記や日本書紀の神様より、更に遡る古代「サ坐(クラ)信仰」に由来するものと考えられます。

 標高1,441mの大門峠を長和町方面へ下りますと、大門大茂沢に不動滝があります。落差が約15mあり役行者の滝として伝承されています。時季により水量が多い場合は、勇壮な流れをみせてくれます。
 大門街道沿い掲げられる「不動滝」の看板から入り、舗装された林道の先に駐車場あります。そこの登山道入り口看板から10分ほど歩くと、垂直にせり出した岩山の下に水の落下する滝の音が響きわたります。
(2013.4.29[Mon])
諏訪市岡村 愛宕山地蔵寺の枝垂れ桜
 曹洞宗の禅寺、愛宕山地蔵寺です。本尊は延命地蔵大菩薩、脇本尊に千手観世音菩薩を祀ります。由来は、天正12(1584)年に金子城の鬼門除けとして建立されました。開基は戦国時代末期、諏訪氏を再興させた金子城主・諏訪頼忠です。頼忠は現諏訪市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城としましたが、後に、現諏訪市中洲に平城・金子城を築き、新しい拠点としたのです。
 元禄2(1689)年、高島藩3代藩主諏訪忠晴が、高島城の鬼門除けの諏訪藩祈願寺として移築しました。その地蔵寺山門の枝垂れ桜が満開です。高台ですので、諏訪市街地一帯を見渡せます。裏の墓所からは、諏訪湖も眺められます。幕末から明治にかけて活躍した諏訪の俳人、岩波其残(ぎざん)の墓があり、辞世の句「月花も近くて 遠しかくれ里」が刻まれた石塔が建てられています。
 境内奥にある庭園は、日本100名庭園にも選ばれ、諏訪地方では数少ない江戸初期様式の「池泉鑑賞兼廻遊式」庭園です。寺の移築時から造成が始まり、江戸時代中期初頭に完成したとみられています。
 裏山から二条の石樋を通して水を落とし、池泉に配置された亀石には石橋が掛けられ、正面山際の枯れ滝には蓬莱石が立てられる作庭です。当初はわずかな植栽で築山の線が強調され、石組は池泉の周辺に集中して置かれていました。
 庭の池には錦鯉が泳ぎ、別名「鯉(恋)の寺」とも呼ばれ、池の端に立つと鯉が大勢、寄って来ます。本堂の108体の観音様の天井絵は、是非観賞して下さい。観光諏訪の周遊コースに組み込まれています。
連絡先 0266-52-0824
(2013.4.24[Wed])
2013年度の車山展望リフトは、4月25日(木)、運行開始予定です。
 日本でも有数の展望を誇る標高1,925mの車山山頂まで、2本の4人乗りリフトを乗り継いで約15分です。スカイライナーを降りて中腹から頂上まで歩くルートや、帰りはハイキングコースを散策しながら歩いて下っるのも楽しいです。
 車山高原山麓−車山山頂(スカイライナー・スカイパノラマ乗継ぎ)所要時間約15分 730m+869m 
 大人往復1,500円、片道900円 小学生往復900円、片道600円 小人 往復500円、片道500円 レア・メモリー宿泊の方には、10offの割引券の用意があります。
 通常運行リフト スカイライナー 8:45〜16:30 下り最終16:50 スカイパノラマ 8:50〜16:15 下り最終16:30
山頂往復の場合 No.1リフト山麓最終乗車は、16:00 となります。
 詳細はTEL0266-68-2626 テレフォンサービス:0266-68-2500 E-mail skypark@kurumayama.co.jp
 車山の山頂からは、眼下に白樺湖があり、蓼科山と八ヶ岳連峰が正面に、また北・中央・南の各アルプス、浅間連山の連峰、見渡す彼方に富士山の姿も望めます。諏訪平から富士見高原まで遥かに見渡しながら、山頂にある眺望案内の銅盤で、名前を確認しながらその雄大な眺めを満喫して下さい。
 車山山頂にはトイレがございません。車山高原山麓の各レストランか、車山肩の仮設トイレをご利用下さい。
(2013.4.22[Mon])
信州上田市丸子の依田川桜堤防
 上田市の丸子地区にあるお花見スポットで、依田川の堤防で桜が並木となって約600mに渡って咲き続けています。依田川は白樺湖の大門峠を源流とする大門川、八島湿原を源流とする男女倉川、和田峠を源流とする和田川、美ヶ原を源流とする武石川などの河川と依田窪あたりで合流し、初めて依田川と名をかえます。
 鹿教湯温泉の内村ダム周辺を源流にする内村川と丸子城祉で合流し、上田市大屋で千曲川に流れ込みます。お花見シーズンには「こいのぼり」も川に渡されます。対岸の依田川と内村川にはさまれた丸子城祉下の丸子公園の桜も合わせて観賞できます。
 また桜並木の出入り口の公園には、かつてこの地で活躍した上田丸子電鉄の電気機関車ED251が展示されています。製糸業が全盛を極めていた大正7年12月、丸子軽便鉄道が施工費43万円で、大屋〜丸子間が開通しました。大正14年には電化とともに上田東駅まで延長され全線が開通しました。それも車社会になり昭和44年4月、50年間で廃線となりました。機関車の周りでは、多くの方が依田川流域の桜風景を写生していました。
 大屋駅は既に、明治29年に官設鉄道信越線の駅として開業していました。長野県北部方面から諏訪方面へ抜ける玄関口として、駅前を通る国道152号と共に発展し、地元や諏訪方面の住民からの請願によって、路線開通後に新設された国内初の「請願駅」でした。
2013.4.21[Sun]
村上義清の本陣、天白山
 天文17(1548)年、武田晴信と村上義清は、村上軍の本拠地に近い上田原から下之条付近で激突しました。それまで全戦全勝を誇っていた武田軍は、一敗地にまみれました。武田は板垣信方、村上は雨宮刑部正利など双方、重臣を失う結果となりましたが、この戦いは村上軍の勝利でした。村上義清は何と言っても「信玄を二度破った男」として有名な武将で、最初は天文17年(1548)のことでした。
 前年に佐久郡の志賀城(佐久市)と笠原城を落とした晴信は、埴科郡坂木の義清が支配する小県郡へ侵攻を開始し、上田原(上田市上田原下之条)へ侵出しました。晴信は、諏訪から大門峠を越え、丸子から塩田平にぬける鞍部砂原峠を抜けて上田原に近づき、千曲川支流の産川(うぶがわ)の東方の倉升山の麓、御陣ヶ入畑に布陣しました。
 上田原は、上田城のある市街地から千曲川を挟んだ対岸にあたり、平に見えるものの段丘の多い地形で、武田軍はこの段丘上に陣を布きました。義清の本拠地、坂城を中心とした小県・佐久軍勢に対する備えとして前方に千曲川の大河とその支流浦野川を置き、一方、義清が千曲川を超え、上田原を支配し、その拠点とした別所・塩田方面の別働隊に対して浦野川の支流産川を、その西南方面の備えとしました。義清の本拠に極力迫りながらも、防御にも満遍なく配慮した稀代の武将ならではの布陣でした。
 一方の村上軍の陣地には諸説あり、上田市の市立博物館では、村上軍の本陣は天白山の須々貴神社の近くだったとあります。上田原を一望できる天白山に、村上義清の砦がありました。天白山を背にし、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙したようです。上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷いたのです。
2013.4.20[Sat]
諏訪一番の桜の名所、西山公園の千本桜
 西山公園は諏訪市街地の西方の中央自動車道に隣接した高台にあります。古来、諏訪湖は上川下流域や宮川にまで及んでいました。その諏訪湖とその南東側に広がる沖積地を挟む山間部を、東山と西山と称しました。この諏訪地方独特の自然景観が、様々な歴史資源を育んできたのです。
 西山公園は西山の湖南地区の高台、北真志野にあります。中世、北真志野城(権現沢城又は本城)がありました。その城祉から権現沢に沿って西上すると、峠を越えて箕輪や辰野へ抜けることができ、有賀峠道の脇往還があったようです。
 西山公園内の桜並木を散策すると、城の曲輪を利用した地形と思えてきます。周辺には大熊・南真志野・田辺などの字名も残っています。
 山腹の高台に位置しているため、正面には霧ヶ峰と車山の山頂・東に蓼科山と八ヶ岳連峰・西に北アルプスを望み、眼下には諏訪湖とその周辺の諏訪市・下諏訪町・岡谷市が一望されます。
 西山公園は、市内有数の桜の名所で、毎年、地元の若れんが谷を渡す約150匹の鯉のぼりが、一段と華やかな花見にしてくれます。池に浮かぶ桜の花びらの中を、鯉のぼりが映えて泳ぎ回ります。千本桜の花見シーズンにはライトアップされます。諏訪湖を見渡す夜景が、満天の星空の下で、どんなに綺麗に映えるのでしょうか。サクラが終わりましたら、ツツジが見事に咲きそろいます。
 紅葉の季節には、桜の葉が赤く染まり、燃えるような紅葉衣を装い、楓・欅・銀杏なども秋の里山景色に彩りを添えてくれます。
(2013.4.18[Thu])
五十鈴川の桜並木
 長野県小県郡長和町長久保の五十鈴川の堤防沿いに咲く桜並木が、現在見頃を迎えています。五十鈴川は女神湖の北、立科町芦田陣内の周辺を源流とするとみられます。
 長和町で依田川と合流し、上田で千曲川となり、何故か新潟県に入ると信濃川と名を変え日本海に流入します。
 五十鈴川流域は、閑にして穏やかです。山間の小盆地に描かれる信州の山里の早春風景は、優しい新緑と山桜と山吹とで美しく描かれます。
 長久保周辺の数々ある桜並木は、特別に命名されないまま、訪れる人々に、里山の桜風景を、存分に満喫させてくれるでしょう。
(2013.4.16[Tue])
車山の旬の山菜、行者ニンニク
 香りが強烈でニンニクそのもので、食べた後でも暫く匂います。行者ニンニクの名前の由来は、山ごもりをする修験道の行者がよく食べたことからとも、逆にこれを食べると滋養がつきすぎて修行にならないため、食べることを禁じられたからとも言われています。
 乱獲で減り、本州では自生の物は殆ど枯渇したといわれています。日本では奈良県から北海道、千島列島や樺太、さらにアムール川系流域にあたる極東ロシアや、中国や朝鮮半島にも広く分布していました。北米でも見られるそうです。
 行者ニンニクは葉茎を主に食用としますが、オムレツに混ぜたり、しょうゆ漬けにしたり、生のまま「おひたし」にしたり、玉葱と一緒にマネリにしたり、種々工夫され食べられています。
 ビーフステーキのソースには、ステーキを焼き上げ、メイン皿に盛り、そのフライパンに行者ニンニク・生姜・玉ねぎの微塵切りを入れて炒め、日本酒・コーラ・酢・醤油を加えて煮詰めてからステーキに掛けます。自然にとろみが付きます。
 行者ニンニクを生のまま千切りにして、水切りした豆腐・納豆・かつおぶし・塩麹味噌をボールに入れ、スプーンでザックリ混ぜて食べます。食べる直前に白髪葱を散らせば最高です。 
 フライパンを中火で熱し、1cm幅に切った厚切りベーコンを炒めて、焼目が付いたら、荒くカットした玉葱を入れ、仕上がり間近に生のまま千切りにした行者にんにくを入れて、ポン酢をまわし入れて完成です。
 山菜の多くは、玉葱との相性が好いようです。行者ニンニクと玉葱の天ぷらに、干しエビを合わせて揚げれば、一流料亭なみの料理となるでしょう。
2013.4.13[Sat]
元善光寺の桜
 元善光寺(もとぜんこうじ)は長野県飯田市座光寺にある寺で、山号は長野市元善(もとよし)町にある善光寺と同じ定額山(じょうがくさん)です。元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)と呼ばれていました。本尊は金銅造阿弥陀三尊像でした。
 掲載写真は、飯田市の元善光寺の桜です。ほぼ隣接する麻績の里の枝垂桜「舞台桜」も満開でした。お互いに通じる遊歩道があります。
 推古天皇10(602)年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人・本多善光が国司の供をして、都へ上がった際に難波の堀江で三尊の如来様にめぐり合い、遙々生まれ故郷の飯田へお連れいたし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
 欽明天皇13(552)年、百済の聖明王が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行の原因として排仏派の物部守屋によって難波の堀江に捨てられたことが発端です。現在の大阪とも奈良県明日香村とも言われています。上洛していた本田善光が、そこを通りかかるとその金銅造阿弥陀三尊像が水中から出現して背に乗った、と伝えられています。善光が信濃国に戻り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」と称したようです。
 その後阿弥陀如来の霊告で、信濃国水内郡芋井郷、現在の長野市に移座し、如来堂を建立して祀ったという説や、皇極天皇元(642)年、勅命により本尊は芋井の里へ遷座され、その寺が本田善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになったともいわれています。
 遷座された本尊の代わりに勅命によって、元善光寺には本尊と同じ形の木彫りが本尊とされ、「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益(けやく)せん」という仏勅(仏のお告げ)が残されたことで、「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」になるといわれています。
 文献上に善光寺が表れるのは平安時代後期からで、そのころは三井寺の末寺でした。近世になると寛永寺の末寺となっています。
 本尊は、一つの舟型後光の中に、中尊阿弥陀如来と、六角形の宝冠を頂く観音菩薩と勢至菩薩の両脇侍像が置かれる典型的な一光三尊仏像で、善光寺如来とよばれています。秘仏ですから、代わりに本尊の分身仏とされる鎌倉時代の模刻像・前立本尊(まえだちほんぞん)が、重要文化財とり、数え年で7年に一度開帳されています。
 元善光寺でも、善光寺の特別御開帳と同じく7年に1度、御本尊の御開帳が行われ、先の「座光の臼」も宝物殿で一般公開されています。
2013.4.7[Sun]
麻績の里の「舞台桜」が、今、満開となりました
 長野県東筑摩郡に麻績村があります。京や江戸から善光寺参りの人々が往来する街道の宿場町として繁栄してました。その同じ長野県の南信地方の中心地なる飯田市座光寺にも麻績の地名が残っています。
 麻績とは青麻(あおそ)を績むことです。青麻とは、麻の素材の粗皮(あらかわ)を水にさらして細かく裂いた繊維で、布などの原料となり、青みがかっているので、そう呼ばれています。
 明治6年、子供が遊ぶクヌギが茂る傾斜地に、極めて特異な発想で、麻績学校と歌舞伎舞台とを兼用するために建てられました。学校としては県下最古の建物です。歌舞伎舞台も県下最大級で県宝に指定されています。正面1階が歌舞伎舞台で、2階が教室でした。
 その校舎横に植えられた桜が「舞台桜(ハンヤエシダレザクラ)」として有名になったのです。推定樹齢350年、開花形態が半八重で花びらの枚数が5〜10枚と花ごとに違う珍しい桜です。全国でもここでしか見られない桜ですので、今日でも多数のカメラマンがライトアップに備え、早々と陣取りをしていました。
 麻績の里の「舞台桜」を初めて眺め、堪能しました。そこから眺望されるのが、天竜川が流れる伊奈の平と、その背景となる仙丈岳を中央に置く南アルプスの山並みでした。
(2013.4.5[Fri])
2013年ビーナスライン開通情報
 ビーナスラインは、「八島湿原」〜「美ヶ原」間が冬期通行止めとなっています。
 今年のビーナスライン開通日は、残雪の影響等にもよりますが、4月23日(火)15:00以降と予定されています。
 本日、早朝からの小雨が、雪に変わり昼ごろまで降りました。白樺湖から車山にかけてビーナスラインの積雪は5cm位です。
 メルヘン街道(国道299号線)は、「麦草峠」区間が冬期通行止めとなっています。
 開通予定は2013年4月18日(木)です。道路状況により開通予定が遅くなる場合があります。
 国道299号線は、長野県茅野市と埼玉県入間市を結ぶ国道ですが、その中でも長野県茅野市〜佐久穂町間の38kmがメルヘン街道と呼ばれています。
 途中「麦草峠」(標高2,127m)を通りますが、この麦草峠は同じ長野県内にある志賀草津道路(国道292号線)渋峠の標高2,172mに次いで、 日本の国道にある峠として2番目に標高の高い峠です。
(2013.4.3[Wed])
諏訪大社前宮の欅の宿木
 諏訪大社上社の前宮の脇を流れる水眼の畔で、カンゾウの若葉やフキノトウを撮影しに出掛けて来ました。
 諏訪大社発祥の地ですから、古代から神域とされた社叢に取り囲まれています。径2mを超えるケヤキの大木が林立し、その遥かに高い枝々の先々に、唖然とされる数の「宿木」が、至るところ鳥の巣のように寄生していました。
 その近所で屈み柵囲いをしていた70才前後の古老に尋ねると、「宿主」はケヤキと言われました。
 春早く訪れると、枝が落ちていることがあります。そういう枝に絡まる「宿木」に、果実と同時に花を見ることもできます。果実は晩秋に熟し、直径約6〜8mmの球形で半透明の黄白色です。
 昨年5月下旬、ケヤキの大木は、薄い緑色の若葉を茂らせ、頭上の陽射しを受けて明るく映えていました。その上空が喧騒を極めています。「宿木」の果実は、カケスなどの野鳥が好んで食べるようで、ひっきりなしに「宿木」の中に飛来します。
 その果実には粘着性があり、消化管を通っても粘着性は失われません。種子を含んだ粘着性のある糞となり、木の幹や枝に貼り付くことによって分布を広げるのです。
 日本でも古くから人々に知られており、古名で「保与(ほよ)」として、万葉集にも出ています。

 あしひきの 山の木末の ほよ取りて
   かざしつらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)くとそ  大伴家持
(2013.4.2[Tue])
車山高原 春の山焼き
今年の車山高原の山焼き!!
平成25年4月21日(日) 午前8時30分〜10時30分と決まりました。
 山焼きをすることで、森林化を阻み、病虫害を駆除し、5月中旬以降から始まる美しい新緑の草原を演出します。
 車山の山焼きの方法は、灯油に一週間ほど浸した布切れを、太い針金の先に巻き、それに火を点けて、高原のミヤコザサや枯れた薄に点火していきます。
 車山高原の山焼きは、江戸時代以前から行われていました。家萱、秣、田畑の堆肥などを得るためです。ほっておくと白樺、松、ミズナラが生い茂り森林化するからです。
 現在の山焼きの主な目的は、ススキ野原を維持し車山高原の景観を保全する事と、高原の花々の保護のためです。
 森林化が進めば、アマドコロ・ウツボグサ・ニッコウキスゲ・マツムシソウ・ウメバチソウなどが、太陽の日差しを遮られ、光合成ができなくなり、それらの陽性植物はやがて消滅していきます。
 車山高原のように、人の手により維持される草原を「二次草原」と称します。
 霧ヶ峰高原も同時期に山焼きが行われます。
(2013.4.1[Mon])


2012年 4月 車山日記

茅野市の運動公園の桜
 茅野市の運動公園の周辺には沢山の桜が咲き、桜の木々の間から南アルプス・八ヶ岳・車山などの眺望も楽しめます。
 毎年、諏訪の人々が集い、お花見客で賑わう、人気のスポットです。お弁当を持って出かけることを、お勧めします。
 近くの茅野市立図書館の裏山の傾斜地には、カタクリの花が咲き競っています。
2012.4.29[Sun]
諏訪大社前宮の欅
 昨日諏訪大社上社の前宮で桜を見物していましたら、径2mに及ぶケヤキの大木に唖然とされる数の「宿木」が至るところに鳥の巣のように寄生していました。その近くで屈み柵囲いをしていた70才前後の古老に尋ねました。「宿主」はケヤキでした。通常、宿主としてはエノキが最も多く、ケヤキ、サクラ・ナナカマド・ニレ、アカシデ、クリ、ブナ、ミズナラ、カシワ、クワ、ヤナギ、エノキ・ヤマナシ等の落葉広葉樹の枝上に丸く育っています。地元の古老も定かでなく、古くからこの状態で、それを説明できないようでした。ただ鳥が巣として集まりますかと尋ねると、そういう事はないと答えます。
 「宿木」は、根のような突起を宿主の木の道菅に深く刺し込み養分を得ます。それでもすべて宿主に頼って生きているわけではなく、自らの葉で光合成を行い、宿主から得るのは、無機養分だけで主に塩です。それでも、半寄生植物といわれます。
 宿木類はビャクダン目に属すビャクダン科・オオバヤドリギ科・ミソデンドロン科の寄生植物の総称です。
 様々な種類の樹木に寄生し、特に繁茂が激しくなると宿主を枯らしてしまうこともあるそうです。通常、宿主の生長を阻害しない程度に留める、大部分が半寄生で、常緑の葉を持ち自ら光合成を行い、地中からのミネラルの供給だけを宿主に頼り、それ以上、依存しません。宿った木を枯らせば自分自身も枯れてしまいます。
 現在、前宮の欅の「宿木」は「宿主」と同様に、未だ冬枯れ状態でした。 
 「宿木」の繁殖は主に果実を食べる鳥により拡散されます。果実を食べた鳥が落とす排泄物が小枝に付着したり、果実をくわえて種子を搾り出したあと手近な枝でくちばしをぬぐったりします。それで種子が拡散されます。種子は粘着質のガム・ビシンで覆われ、宿主となる樹木の樹皮に付着しやすくなります。その後、樹皮表面の種子は根を伸ばして発芽し、これが樹木の幹に侵入することで寄生ができます。
2012.4.28[Sat]
諏訪市 江音寺枝垂れ桜
 江音寺の枝垂れ柳は諏訪市指定の天然記念物で、市内では最も大きく風情がありますが、枝垂れ桜も全面に展開する諏訪湖と車山・霧ヶ峰・八ヶ岳を鮮やかに、近景と遠景で見晴らす観賞の絶好の舞台を提供してくれます。
 この場所から東南に向かう、諏訪大社上社本宮から前宮に向かう道筋は、千年を優に超える諏訪の人々の生活の過程で育てられた自然でありながら深みのあるの桜並木の連続で、できれば季節を問わず歩いて、諏訪の原点となる歴史舞台を探訪して下さい。
(2012.4.27[Fri])
大門街道 コブシとヤマザクラ
 車山高原が鮮やかな若草色に染まる、新緑の時季を迎えました。カエデ・白樺・マユミなどの若葉が美しい!晴天下、大門街道沿いにコブシの白い一重の花が咲き乱れ、ヤマザクラが、しなやかな枝で、風にゆれながら、山道を導く風情となりました。
 コブシは、他の木々に先駆けて白い花を梢いっぱいに咲かせます。山に春を呼ぶ草花の競演が始まります。
 
 浮雲を 抱く明るさ 花こぶし     穴澤光江
(2012.4.26[Thu])
諏訪の桜と水仙
 諏訪湖へ流れる上川の土手にほぼ同じ時期に咲く桜と水仙の競演は、毎年見に行かないと、その年、ずーっと寂しい思いをします。今年は、まさに同時に満開になりました。
 諏訪市四賀赤沼の上川左岸河川敷に、約27万株の水仙を近くの農業を営む松木幸雄さんが、一人で23年ほど前から植え始め、面積も1,300平方メートル余に拡大しました。
 堤防道路沿いに約70本と連なるソメイヨシノは、明治42(1909)年、赤沼から日露戦争に出征した人たちが無事に帰還した記念に植えられました。
(2012.4.25[Wed])
諏訪 高島城の桜
 ソメイヨシノを中心にシダレザクラ、ヒガンザクラ、ヤエザクラなど約90本が植えられています。また、黄色の花を付けたサンシュユも桜と同じ時期に満開となり、桜との色の競演が楽しめます。秋のサンシュユの珊瑚のような赤い実も美しいです。
 諏訪地方の桜の開花は、遅れています。今、ようやく梅が咲き始めました。来週ぐらいに開花すると見られます。同時に上川沿いの水仙も見頃になるでしよう。
(2012.4.19[Thu])
車山高原の春の兆し
 ようやくレア・メモリーの前庭に、福寿草が咲きました。写真の福寿草の周りに散らばっている、黒くて小粒なかたまりは、鹿の糞です。
 福寿草根は毒性が大変強く、用量を誤ると心臓麻痺を起こして死亡する危険があるそうです。地面から芽を出したばかりの頃、フキノトウと間違えて食べ、中毒を起こす人もいるそうです。それで鹿も食べないようです。
 日光が当たると開き、日が陰ると閉じます。今はしっかりと花弁を広げています。今日は快晴です。
 今朝から鶯が、そこらじゅうで囀っています。
(2012.4.18[Wed])
上田城跡公園内の桜が開花
 4月17日、長野県の上田城跡のソメイヨシノが開花しました。例年の開花より、5日から1週間程度遅い状況です。例年だと開花して5日後くらいで満開となります。
 北櫓前のシダレザクラが三分咲き、やぐら下芝生広場のヤマザクラは五分咲きです。
 
(2012.4.17[Tue])
車山高原を食害する鹿
 本日も裏庭に闖入してきた親子鹿の母鹿の方です。熊笹の新芽が生える頃なので、あたり一面、先の柔らかい部分を食べ尽くします。葉の先が、ほうきのようになります。
 最近は、樅・唐松・錦木・真弓など若木の皮を丁寧に剥いて食べます。
 シカの胃は4室に分かれていて、反芻します。第1胃から第3胃は食道が変化したもので、そこで食物をさらに細かくし、人間の胃にあたる第4胃で消化します。
2012.4.14[Sat]
晩冬の霧ヶ峰高原
 ビーナス・ライン沿いの見晴台・富士見台の風景です。沢山の人がドライブがてら、冬の山岳景色を堪能していました。
 左手から蓼科山に始まる八ヶ岳が編笠山を南端し、その八ヶ岳南山麓に富士山が浮かぶ。その右手が甲斐駒ケ岳や北岳の南アルプスの山岳風景となり、ひとり独立して御嶽山の雄姿が眺望されます。
 眼下のむぎつき沢を下れば、ホウロク峠を通って音無川へ出られます。眼下の山里が、山浦地区です。
(2012.4.10[Tue])
冬の八島ヶ原湿原
 昨日、長靴を履いて冬の八島ヶ原湿原を散策してきました。写真は、宿り木です。これで四季を通して観察できました。
 人一人いませんでした。なぜか野鳥の姿も囀りもない、一切が無の光景でした。
 八島ヶ池・鎌ヶ池・鬼ヶ泉水も雪の下で凍っていました。
(2012.4.9[Mon])
車山高原 シロバナエンレイソウ
 ミヤマエンレイソウとも呼ばれます。標高1,000mぐらいから亜高山帯にかけて、草原というより樹間の湧水地に近いところでみかけます。それでも太陽の明かりが届かないと、花はつぼみのまま開花しません。
 花弁が紫のものは、ムラサキエンレイソウと別称されますが、山間の木立の中で出合うと感動します。それだけ希で、且つ美しい色合いです。
2012.4.8[Sun]