法華寺と吉良 義周
     
  前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された宮騒動以後、宝治合戦、元寇と続く執権政治の緊張の中で、確立された得宗専制体制は、得宗家と主な北条一族、及び幕府重臣によって行われた寄合政治が、重要な幕府機関として機能を果たしていった。
 寛元年間には北条時頼のもとに北条政村・金沢実時・安達義景・三浦泰村らが寄合を構成していたが、宝治合戦後には北条政村・金沢実時・安達泰盛・諏訪盛重らも加わった。
 元寇期には北条時宗の下に安達泰盛・太田康有ら御家人のみならず、佐藤業連・諏訪盛経・平頼綱などの御内人層も、実権を伴う寄合構成員となっていた。
 
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 1)神宮寺であった法華寺 車山ブログ  車山高原の野鳥
 2)法華寺の裏手にある吉良義周の墓    車山湿原レンゲツツジ  高原の花(春から初夏) 



 1)神宮寺であった法華寺
 鷲峰山(しゅうぶせん)法華寺は、元々、天台宗の寺であった。出家して蓮仏入道と号した鎌倉時代中期の領主・諏訪盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたといわれている。
 盛重は、諏訪上社大祝で、承久の乱後、鎌倉幕府の執権北条得宗家の嫡流・北条泰時の得宗被官として活躍し、泰時・経時・,時頼の3代に重用された。
 5代執権時頼ととその外祖父・安達景盛の挑発によって北条氏に反抗し、宝治元年(1247)年に、挙兵して敗北した評定衆・三浦泰村による三浦氏の乱(宝治合戦)の直前、盛重は、合戦かと全国より輻輳する武士団を、時頼の代理人として鎮定し退散させている。『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。時頼の長子北条時輔が誕生すると、盛重は断ったが傅役に任命された。
 延慶元(1,308)年、大祝の支族で下伊那に勢威を奮う知久敦信が、上宮普賢堂、釈迦堂、五重塔、鐘楼などを再建し、大いに興隆させた。

 後年、神宮寺は武田信玄に働きかけ、信玄の寄進により堂塔の再興に着手した。天正2(1,574)年、千手堂落成、同年三重塔再興起工、天正3年千手堂落慶、天正4年(推定)、三重塔が落成した。
 法華寺は、諏訪大社上社神宮寺の中心であった大坊に付属する宮寺の一つで、その神宮寺は、往時には七堂伽藍が揃った規模の大きな寺院であった。

 甲斐武田氏追討のために高遠城を落した織田信長の嫡男・信忠の率いる軍勢は、天正10(1,582)年3月 3日、諏訪に入り、武田信玄が崇拝していた諏訪大社上社本宮を焼き討ちし、その社殿等、全て焼失させました。その際、神宮寺だけは類焼を免れました。
 武田勝頼・信勝父子は、重臣で郡内領主の小山田信茂にも裏切られ、夫人北条氏の伝手を頼り上州を目指しますが、天目山に至り織田軍勢に挟撃され、遂に3月11日、天目山麓の田野の地で妻子とともに自刃、享年37であった。
 甲斐武田氏が滅亡すると、19日に信長自らが上諏訪に入り、この法華寺に本陣を置いた。すると、甲斐・信濃の国人衆は、引きも切らず参集する。盟友であり、武田氏討伐戦に加わっていた家康公は、信長と会見すべく、この法華寺を訪れている。
 法華寺で、信長は論功行賞を行ない、武田氏滅亡後の知行割をして甲斐・信濃両国などの支配を定め、家康公には信長より駿河一国が与えられた。
 小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、金松寺から信長に謁するため駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。尚、この時、信長の家臣である明智光秀は信長の怒りに触れ、居並ぶ諸将の面前で、欄干に頭を押し付けられて殴られるという恥辱を受けた。
 信長は、4月 2日に諏訪を発ち、翌日、甲府入りします。10日には甲府を出発、家康公の歓待を受け、居城である安土城へと東海道で戻り、4月21日には安土に着城した。それから2ヶ月も経たない 6月2日未明、信長は京都本能寺において光秀にあっけなく殺される「本能寺の変」が勃発した。
 明治初年の廃仏毀釈で、諏訪神社の神宮寺も、法華寺を除き全て取り壊された。現在は礎石すら残っていない。法華寺は平成11(1,999)年7月、放火によって本堂などの堂宇が焼失してしまい、わずかに山門を残すのみとなっていたが、本堂などがようやく再建された。
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 2)法華寺の裏手にある吉良義周の墓
 法華寺の裏山中腹に、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ)の外孫で、後に義央の養嗣子になった義周(よしちか/よしまさ)の墓があります。義周は、養父義央の首を討ち取られたことにより、「仕方不届」として幕府より咎めを受け、領地を召し上げられた。
 吉良義周は、討ち入り後の15日、幕府の検使に口上書を差し出している。
  「昨十四日夜八ツ半過、上野介並に拙者罷在候処へ、浅野内匠頭家来と名乗り、大勢火事装束の体に相見え、押込申候。表長屋の方は二個所に梯子を掛、裏門は打破、大勢乱入致、其上弓箭槍長刀など持参、所々より切込申候、家来共防候得共、彼者共兵具に身を固め参候哉、此方家来死人、手負多有之、乱入候者へは手を負せ候ばかりにて討留不申候、拙者方へ切込申候に付、当番之家来傍に臥居候者共之を防ぎ、拙者も長刀にて防申候処、二箇所手を負、眼に血入気遠く罷成り、暫く有て正気付、上野介俄無心許存(俄に心もとなく思い)、居間へ罷越見申侯へば最早討れ申候、其後狼籍之者共引取、居不申候  十二月十五日 吉良左兵衛義周」
  『米沢塩井家覚書』には「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候、二三日過ぎ左様の音も仕らず…御評定所にて、左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由、…御後の疵も逃疵ニハこれ無く前後左右より取囲み四方八方切り立て申す故、御後ニも疵有之るの由」とあります。
 翌元禄16(1,703)年2月、吉良義周は、評定所に呼び出され、大目付仙石伯耆守久尚や中町奉行丹羽遠江守長守ら列座の上処分の宣告を受けた。
 「浅野内匠家来共、上野介を御討候節、其方仕方不届に付領地被召上 諏訪安芸守之御預被仰付者也」2月11日の日暮れには(諏訪)安芸守邸へ護送された。4代高島藩主・諏訪安芸守忠虎へお預けの身となった。
 時に18才、吉良家からは左右田孫兵衛、山吉新八郎盛侍(もりひと)の2人のみ付き従います。荷物も長持3棹とつづら1個だけでした。高島蕃お預けは、当然、罪人扱いで、道中、錠をかけた青網をかぶせた籠で運ばれた。
 諏訪高島藩にお預けの身となった義周は、高島城南の丸に幽閉されたが、高家の子息ということで藩士たちは「左兵衛様」と敬称した。諏訪家では、義周の処遇について度々幕府に書簡を送って細々と指示を仰いでいる。
 高島藩の『元禄十六年御用状留帳』には「(二月)四日九ツ前に老中連名の手紙が届き、御預け人があるとの内容。七ツ時、評定所へ沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平助が行ったら、吉良左兵衛様をお預けするので受け取るようにと仙石伯耆守、丹羽遠江守、目付長田喜左衛門に言われたので、暮れ前には、御屋敷へ恙なくお連れした。」
 「左兵衛様の部屋にこたつをおいたらどうかとの伺いに、相成らずとの返事が来たが、こちらはまだ寒く、こたつがないとかなわないので、できるように申し付けた」
 「いつもお菓子として氷餅ばかり出しているが他のお菓子を出してはどうか。もしよろしければ、諏訪には相応の菓子がないので、江戸より届けてもらいたい」
 「髪を結う時、湯行水の時、庭へお出の時、爪を切る時、ものを書く時、鋏を使う時は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛のいずれか一人が付いていること」
 「左兵衛様は(五月)六日より持病の疝気が起こり延川雲山に診てもらったところ軽い容体であったが、持病だから長引くかもしれず油断なきように。」など詳細に記録されている。
 左兵衛は元来腺病質で流謫中疝気、風邪など度々患っていた。宝永2(1,705)年12月1日、悪寒発熱、病臥のまま正月を過ごした。翌年1月19、日暮れから小便が出なくなり、呼吸困難 に陥り、翌20日卯の上刻(午前六時頃)に絶命、配流されて3年後、享年21。
 遺体は塩漬けにされ、防腐処理が施された。
 同年2月4日、検使役の幕府御書院番石谷七之助清職が検死、断絶した吉良家に義周の遺骸を引き取る者はおらず、幕府より死体取り捨ての沙汰を受け、神宮寺村の法華寺に土葬されました。遺臣の孫兵衛・盛侍の両名は、義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金3両を法華寺に納めている。それが埋葬費用の全部であった。
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