チバニアン期 TOP 車山お知らせ 車山ブログ 歴史散歩
 
 目次
 1)地磁気逆転
 チバニアン期のシベリア高気圧 千葉セクション
 2)チバニアン期の古生物
 日本海の形成 チバニアン期以前の古生物
 北太平洋亜熱帯循環と代表的な海流および水塊
 3) 第四紀氷河時代
 ナウマンゾウの時代
 
 1)地磁気逆転
 下層雲は、その名の通り、上空の最も低い位置、約2,000m付近の青空に浮かぶ白いわたのような「青天積雲」に代表される。雨や雪などの降水をもたらす雲は、中層雲である「乱層雲」を除けば、基本的にこの下層雲が主体となる。その青天積雲が発達し、大きくなると中層や高層にまで広がる「雄大積雲」となり、雲の下では激しい雨に突風が伴う。特に「積乱雲」は発達すると、高さ13,000mまで上昇することもあり、他の雲と比べて非常に分厚く大きな雲となる。積乱雲は壮大で美しいが、ゲリラ豪雨や落雷などの激しい気象現象をもたらす。
 中層雲は、上空の真ん中付近 2,000m~7,000mに発生する雲、この雲は小さな水の粒が集まってできており、青空に白い羊の群れがいるように見える。中層雲は、上層雲の巻雲や下層雲の晴天積雲とは異なり、水平に広がっていることが多い、これは、中層雲が気温の不連続面に沿った広範囲の弱い上昇気流により生じるためと言う。
 地磁気geomagnetismは、地球自体が持つ磁性と、その地球によって生じる磁場を言う。地磁気の大部分は、地球内部の外核といわれる部分で発生する。ここでは鉄とニッケルが主成分となっており、巨大な圧力と高温(約4400℃~約6100℃)のバランスの中で溶融状態にあり、地球磁場はこの導電性の高い鉄の流体運動・対流により生じている。
 宇宙空間にも広がる地球磁場は、太陽から放出された高エネルギー粒子の流れ、太陽風の圧力を受け、太陽と逆側に圧縮され、また地球の反対側では吹き流されるようになる。地球の磁気圏は、太陽風のため昼側では地球半径の10倍ぐらいまでに圧縮され、夜側では細長い尾を引く。こうした地球磁場が支配できる領域を磁気圏と呼ぶが、地球は磁気圏を持つことで太陽風の高エネルギー粒子に直接さらされずに守られ、生命が宿る美しくも苛烈な惑星となった。
 磁場はN極・S極からなる磁極で、正電荷・負電荷からなる電荷とは異なり、それぞれ単独では存在できない。磁極の強さが「磁気量」と呼ばれる。この磁場は、空間それぞれで向きと大きさを持つ物理量で、通常はテスラTという単位で表されるが、地球の磁場はとても弱いため、ナノテスラnTが用いられる。地球は、一つの大きな磁石とみなすことができる。北極は地球の北極点であり、南極は地球の南極点であるが、北極は磁極とは異なり、南極は磁極と一致している。地磁気の観点から言えば、北極は「N極」であり、南極は「S極」、つまり、地磁気の磁場の向きに基づいて命名されている。方位磁針の針は、北を指すN極と南を指すS極を示すが、方位磁針の指す北(磁北)は、地理的な北とは異なる。地理的な方向を知る際の「正確な真北」とは、ある地点を通過する子午線が示す北、つまり北極点の方向を指す。その地図上の真上とは、地球の自転軸の北端(北緯90度地点)であり、コンパスが指す北は「磁北」と呼ばれる。地球の磁力を地磁気と呼ぶ。
 太陽の表面は「コロナ」と呼ばれるセ氏 100万度もの極めて高温の大気で覆われている。コロナは、時には爆発的に膨張し、陽子と電子の粒子からなる「プラズマ」が太陽の外へ飛び出し地球まで達する。これが太陽風である。地球に降り注ぐ宇宙線や太陽からの紫外線を和らげる役割も果たす地磁気は、地球の大気や水の宇宙空間への拡散を防ぐ。
 地磁気逆転geomagnetic reversalは、地球の地磁気の向きが南北逆になる現象で、この逆転は、地球の磁場が数万〜数十万年ごとに反転することを意味する。最後の磁場の逆転は約78万年前に起こっている。逆転時には地磁気の強度が最大約1/10まで減少した。
 地磁気逆転途中の5,000年間、中国の黄土高原では冬の季節風が運ぶ砂塵の粒が大きくなり、堆積速度が3倍となった。冬の風がそれだけ強まっていた。その5,000年間は地磁気強度の減少と、銀河宇宙線の50%以上の増加期間と一致する。冬の季節風の強化は、銀河宇宙線の増加に伴い増えた下層雲の日傘効果で、大陸が太平洋に比べより強く冷え、シベリア高気圧がより強まったことによる。そのシベリア高気圧は、主にシベリア内陸部特有の厳しい寒冷化を産み、大気を冷却し、その密度を凝縮させた。また、銀河宇宙線がその気候変動の大きな要因に加わった。
 78万年前の地磁気逆転途中に、銀河宇宙線が増加したことによる下層雲の日傘効果がシベリア高気圧をより強化し、冬の季節風をより激しくした証拠が見つかっている。この現象は、銀河宇宙線が地球の気候変動に影響を及ぼす証拠を示すものとなった。冬季の季節風が強化されると、日本海上で北西季節風が卓越し、日本海側は厳冬となり豪雪になる。季節風は、夏は海洋から大陸へ、冬は大陸から海洋へ吹く。それは大陸と海洋の比熱差によって起る。その冬の海洋への季節風強化と同じ期間に、78万年前の地磁気逆転途中の約5,000年間にわたって黄土粒度が粗くなり、堆積速度が3倍以上増加する「冬の季節風の強化」の痕跡が大阪湾堆積物コアで発見された。この風の強化期間は、地磁気逆転に伴い地磁気強度が1/4以下に減少し、それが銀河宇宙線が50%以上増加した期間と一致する。
 これは「スベンスマルク効果」により、銀河宇宙線の増加は、大気中の水蒸気やエアロゾルをイオン化し凝結核ぎょうけつかく)を増やして下層雲量を増加させ、その雲の日傘効果で大陸がより低く冷却され、シベリア高気圧が強化されたことを示唆していた。
 ちりやほこりを含まない清浄な空気中では、相対湿度(その温度における飽和水蒸気量に対するその時の空気中の水蒸気量の比率)が100%を超えても水滴はできない。大気中を浮遊する微粒子(エアロゾル)は、水滴の半径を大きくし、低い過飽和度でも水滴ができるようにする。エアロゾルは、水蒸気を凝結 させるための核の役割を担う。

 地磁気逆転途中の現象として、大阪湾堆積物コアで痕跡が見つけられている2−3℃の年平均気温の低下と気温年較差の増大に加え、今回新たに冬の季節風の強化の痕跡が見つかった。これらの痕跡の原因が下層雲の日傘効果によることがほぼ確実となった。
 (海洋観測船や深海掘削船による研究航海の際に掘削・採取される連続する柱状の試料marine core samples【コアcore】は、全地球規模における過去の地球環境変動、例えば海水面変位・地磁気の変移・海流系の変動・水温変化などの記録を留める。これらのコアは、海底から採取され、物質循環プロセスや海洋環境変動の実態を復元するために詳細に解析される。海洋コアは、地球環境システムの理解や近未来の気候変動予測において重要な情報試料にる。
 また、大阪湾地域の更新世チバニアン期(約77.4万年前~12.9万年前)の地磁気逆転当時の海成粘土層の特徴や形成過程についても調査されている。この湾内の特徴は、海成粘土層に粗粒な部分が挟まっていることにある。
 この現象は、新生代第四紀後氷期の約5,000年前の縄文海進により、海面が高くなった時期に潮流や沿岸流による運搬作用が強くなり形成された。
 後氷期の急激な海進について、大阪湾の状況は非常に興味深いです更新世チバニアン期の約21,000~約19,000年前の最終氷期の最盛期に、北半球や南極大陸に大陸氷床が広く発達し、それにより海面が120~130m低下した。
 後氷期海進は、地質学的には完新世海進、または日本では縄文海進と呼ぶ。最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった温暖化に伴う海水準上昇を指す。日本では縄文時代が始まる約16,000年前に近い時期にこの海進が発生した。
 後氷期気温が上昇し始めると、海面も上昇し始めたこの時期、大阪湾では縄文海進による急激な海面上昇が起った。 特に約9,850年前~5,000年前にかけて、海面は現在の高さを超え、最大で約2.2m上昇した。この期間に、古河内湾を誕生させた。
 深海底より5倍以上速い堆積速度を持つ大阪湾海底堆積物について国立の産総研が1997年にボーリングした堆積物コアから、100年スケールの高解像度の地磁気逆転データを取得し2006年に発表した。
 このコアから78万年前に起こった最後の地磁気逆転において数百年単位の小反転が少なくとも4回起こったことを発見し、インドネシアのジャワ島、中国の黄土高原レスでも同様の小反転が見つかっている。
 千葉セクション【千葉県市原市の養老川河岸に露出する地層断面】では、2010年にボーリング調査を行い、10年単位の超高解像度の古環境データを取得した。
 上総層群がある千葉県の房総半島沖は、海洋プレートの太平洋プレートとフィリピン海プレートが、大陸プレートの北米プレートにぶつかる沈み込む地点にあたる。
 同半島は第四紀更新世後期に隆起して陸地化したが、初期には海底の沈降域にあった。基盤の沈降速度が早く、その上に堆積した地層の堆積速度が世界最速級であったため、世界でも稀な高解像度の古海洋環境記録が取得できた。大阪湾、北大西洋の記録とあわせて、3地域で同時に起こる数百年スケールの急激な温暖化と寒冷化を多数確認された。 )

 銀河宇宙線が増えれば下層雲が増え、逆に銀河宇宙線が減れば下層雲も減るので逆日傘効果で温暖化が起こる可能性もある。銀河宇宙線が下層雲の生成を誘起するというスベンスマルク効果は、銀河宇宙線が気候に影響を及ぼす可能性を示唆した仮説であるが、かつてのほとんどの気象観測データを使った検証では、銀河宇宙線量や雲量とも変化が微少なため、気候への影響を示す明確な証拠を得ることが困難であった。しかし、銀河宇宙線が大幅に増加した地磁気逆転期には、雲量の増加も大きく、日傘効果もより強くなるため気候への影響はより高感度で検出できる。
 春先に見られる黄砂は、中国内陸部の砂漠地帯で巻き上げられた砂塵が偏西風に乗って日本列島にまで運ばれたものである。モンゴルとの国境付近に位置するゴビ砂漠のすぐ南の中国黄土高原では、この砂塵が過去260万年の間に厚さが最大で200mにもなる風積土 (風で運ばれ堆積した細粒物質層) として堆積している。
 (砂漠や氷河で生成された岩粉が風に運ばれ堆積した黄土をレスloess 【Löß】と呼ぶ。元々がドイツ語で、氷河起源のものを指したが、日本では砂漠起源の黄砂が堆積した風積土をレスと呼ぶ。)
 風が強くなれば粗い粒子がより遠くまで運ばれ、運搬量も増える。このことに着目し、地磁気逆転時に増えた雲の日傘効果で、冬の季節風が強化されたする仮説を立て黄土高原中央部の2か所のレス層の砂塵の粒度と堆積速度の変化を詳細に調査した。
 その結果、両地点ともにおいて78万年前の地磁気逆転途中の約5,000年間にわたって粒度が粗くなり、堆積速度が3倍以上増加する「冬の季節風の強力化」の痕跡が発見された。この風の強力化期間は、逆転に伴い地磁気強度が1/4以下に減少し、銀河宇宙線が50%以上増加した期間と一致した。これは銀河宇宙線の増加とともに下層雲が一段と増加し (スベンスマルク効果)、その雲の日傘効果で大陸がより強く冷却されてたことを示唆している。

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チバニアン期のシベリア高気圧
 偏西風Westerliesとジェット気流は、どちらも中緯度の上空で西から東へ吹く風であるが、偏西風は、北緯35~65度あたりの中緯度帯の上空1万m付近で吹いている西風のことである。日本は中緯度帯にあるため、日本の上空にも偏西風が吹いている。日本の天気が西から東へ変化するのも、この偏西風が影響している。
 ジェット気流Jet Streamは、偏西風の中でも特に強い風を指す。夏よりも冬のほうが強く吹く、冬には風速が100mを超えることもある。このジェット気流は、高度9000m(300hPa)付近で観測される。
 偏西風は南北方向に波打って流れており、南に張り出した部分が「気圧の谷」で、地上では低気圧が発生する。逆に北に張り出した部分は「気圧の尾根」と呼ばれ、高気圧が発生する。
 地球の自転によって、コリオリの力が働き、風が向かう方向を右側に偏向させる。南から北に向かう気流は、このコリオリの力によって、どんどん右にそれていくことになり、最終的に西から東へ移動するようになる。地球の自転により、北半球では偏西風は右に曲がり、南半球では左に曲がりる。また、太陽によって赤道付近が暖められ、上昇気流が発生する。この上昇気流により、低気圧が形成され、周囲の空気が流れ込む。

 シベリア高気圧Siberian Highは、冬の季節風を強め日本列島に寒気をもたらす。気圧が高いことが特徴で、現代では、冬季には1050-1070 hPa程度まで発達することもある。
 シベリア気団は、地球規模で寒気が蓄積されることにより形成される。シベリアの冬季の太陽の位置は低く、ほどんど登らない。大陸の高緯度できるシベリア気団は、太陽の恩恵が乏しく気温が低い、さらに夜は放射冷却の効果でさらに冷えていき、冷たい空気は、暖かい空気と比べると密度が高いので重たい(冷たい空気の分子は集まりやすい。暖かい空気は温度が高くなるほど分子が広がる。暖かい空気が上昇して冷たい空気が下降する仕組みは、 冷たくて重い空気が暖かくて軽い空気を押しのけるから)。地表面に寒気がどんどん溜まっていく。その重たい空気が高気圧を形成する。 シベリア高気圧は背の低い高気圧と呼ばれる。
 大陸で溜まりに溜まった寒気が、日本に流れ込んでくるのが寒波で、それがシベリア気団と呼ばれるものの実態で、冷たい空気は、暖かい空気と比べると重たい、 重たい空気が高気圧を形成するので、背の低い高気圧気団になる。
 気圧は相対的で高気圧か低気圧かは、その気圧差の比較で決められるが、シベリア気団の気団とは、広い範囲で温度や湿度のほぼ一様な性質をもった大陸でできた空気の塊を指す。 シベリア気団では、放射冷却に加えて地表面の重たい寒気が蓄積され、その冷え切った空気の塊が、特段に冷たくて重たい高気圧を形成するから「シベリア高気圧」と特に呼ばれる。
 中緯度上空を流れる偏西風が、ときおり大きく北に持続的に蛇行することがあり、それがシベリアの移動性高気圧の移動を阻害する状態が1週間程度かそれ以上にわたって続くことがある。この時、高緯度側に蛇行した偏西風は高気圧性の渦(北半球では時計回り)をつくる。これを「ブロッキング高気圧」と呼ぶ。
 通常、移動性の高低気圧はジェット気流上を東進するが、「ブロッキング高気圧」が発生すると移動性の高気圧が東進を妨げられる(ブロックされる)ため、異常気象が発生し易い。この高気圧と対になって赤道側に低気圧性の渦ができることもあり、「ブロッキング高気圧」は様々な異常気象をもたらす。その予測は長期予報にとって非常に重要であるが、同時に非常に難しくなる。
 「ブロッキング高気圧」は、下層から上層まで周囲より温暖になっており、長期間停滞することが多く、しかもゆっくりと西進することがある。ブロッキング現象によってシベリア上空に高気圧が停滞すると、極端な高温を引き起こし、周りの大気の流れに影響してさらなる異常気象を引き起こすこともある。2010年、ロシアの西部やシベリアを中心に猛暑となり、同国気象庁によると、1日の平均気温が平年より9~10度も高い状態が長く続き、「130年の観測史上最も暑い年になる」(フロロフ同庁長官)。緊急事態省によると、水死者は全土で昨年より倍増、6月は1244人、7月も891人に達し、計2千人を超えた。干ばつや自然火災で26の連邦構成体が非常事態を宣言した。またブロッキング現象は、気象の変化のスピードを遅くする要因にもなっている。
 2010年夏には、ロシア付近の高気圧のブロッキングは、1ヶ月以 上に亘って持続した。上空では等圧線に沿って風が吹 くので、ブロッキングの西側では暖かい南風が、東側では冷 たい北風が持続する。この普段とは異なる異常気象が、なぜそんなに長く持 続するのかというメカニズムは依然として分かっていない。「20世紀最後の難問」と言われていたが、21世 紀になっても「難問中の難問」である。
 「ブロッキング高気圧」にはいくつかのパターンがあり、主なものでは、高緯度側のやや東側にブ「ブロッキング高気圧」、低緯度側のやや西側に低気圧が形成され場合、偏西風が2つに分断され、高気圧側では暖かい南風が、低気圧側では冷たい北風が持続する。また、帯状に流れていた偏西風が2つに分かれ、北の分枝は高気圧性に「ブロッキング高気圧」の周りを流れ、南の分枝は低気圧性に曲がって寒冷な低気圧の周りを流れる場合があり、、この型がブロッキングの典型的なパターンである。
 シベリアでは「ブロッキング高気圧」が西進する様子がみられ、シベリア高気圧の 発達と関連している可能性が考えられている。この上層の「ブロッキング高気圧」が関与して、シベリア高気圧が、日本列島に一段と厳しい寒気をもたらす冬の季節風として猛威を振るう。
 
 チバニアン期の境界が世界で最もよく分かる地層として認められて「国際境界模式層断面とポイント(GSSP)」と呼びれる「千葉セクション」の近くで掘削した海成層のコア試料から、10年間隔の超高解像度の古海洋環境記録が得られている。この記録と大阪湾や北大西洋中緯度の記録から、中期更新世チバニアン初期の、数mの海水準変動を伴う氷床の拡大と縮小を、500年~2000年間隔でくり返す激しい気候変化が明らかになった。北太平洋と北大西洋で同時に起こるこの気候変化の一部には、北大西洋の大量の氷山流出が関係している証拠も発見された。
 地磁気逆転途中の5000年間、中国黄土高原では冬の季節風が運ぶ砂塵の粒が大きくなり、しかも堆積速度が3倍に増加していた。つまり冬の風が強大化していた。 上記の5000年間は地磁気強度が減少し、銀河宇宙線が50%以上増加した期間と一致する。
 この冬の風の強大化は、銀河宇宙線の50%以上の増加が下層雲の増加を誘発し、その日傘効果により太陽熱が遮られ、冷えやすいユーラシア大陸が太平洋に比べより強く冷え、シベリア高気圧が強まった証拠でもある。つまり、銀河宇宙線は気候変動の要因になり、冬の季節風強化と同じ時期に、大阪湾堆積物コアの分析から寒冷化や気温の年較差の増大も起きていたことから、雲の日傘効果がこれらの主因であることがほぼ証明された。
 これらの気候事象は、新生代更新世後期の7万年前から2万年前にかけての最終氷期に起こったダンスガード・オシュガー・サイクルDansgaard-Oeschger cycle(D-O)事象に特徴が似ている。D-Oイベントは数百年~3000年ほど続く温暖期(亜間氷期)と寒冷期(亜氷期)の20回に及ぶ繰り返しであった。寒冷期の事象として北大西洋における大量の氷山流出が同時に起こったこと
もあった。この寒冷期には、日本列島を含む東アジアでは、気温低下と夏季降水量の減少を併発した。
 銀河宇宙線が増えれば下層雲が増え、銀河宇宙線が減れば下層雲が減るという正の相関(スベンスマルク効果)は、銀河宇宙線が地球全体の気候に多大な影響を及ぼすことを示した。主に正の電荷をもつ銀河宇宙線は地球と太陽の磁場によってシールドshieldされており、磁場が弱まれば大量の銀河宇宙線が地表に降り注ぐ。更に磁場が弱まれば大量の銀河宇宙線が地表にばら撒かれ、生命絶滅の危機を迎える。このように銀河宇宙線量を制御している地磁気と太陽磁場も、気候への影響は大きい。

 チバニアン期直前の約78万年前から約77.6万年前にかけての間氷期MIS19)では、温暖期が約1万年で終了しているので、既に温暖期が1万年以上続く完新世~現在でも、人為的な影響がなければそろそろ寒冷化して氷期に入る可能性が考えられる。
 大阪湾の海底堆積物コアで見つかった酸素同位体ステージMIS19の最高海水準期付近の寒冷化は約5,000年間続いており、その期間は地磁気強度が40%以上減少し、銀河宇宙線量が40%以上増加した期間にぴったり一致した。このことから、当時の寒冷化は銀河宇宙線の増加により増えた下層雲の日傘効果が原因だと考えられている。本来なら、最高海水準期に合わせて気温もピークを取るが、この寒冷化が起こったことで少なくとも中緯度域の最温暖期は、地球磁場逆転geomagnetic reversal後、地磁気強度が40%以上に回復するまで遅らされている。それは約78万年前の最高海水準期の4,000年後の約77万6,000年前である。同様の遅れは北大西洋中緯度域の海表面水温でも起こっている。
 約78万3,000年前から約77万7,000年前にかけての間氷期は、気候リズムが乱れていた。最温暖期は、約780,000年前の最高海面期から約4,000年遅れで約77万6,000年前発生しており、それも約77万7,000年前の地磁気逆転直後に関連した寒冷化が原因でこの遅れが生じた。
 地磁気逆転は、約78万3,000年前から約77万7,000年前にかけての間氷期における最高海面から低海面に向かう途中で発生している。この地磁気逆転のタイミングは深海底堆積物や中国の記録と一致しており、地磁気逆転と関連している可能性が高い。地磁気逆転に伴う地磁気強度減少期と寒冷化がリンクしていることが示唆されてる。
 寒冷化期間に地磁気強度が40~20%ほど減少し、銀河宇宙線量は40~90%増加したと推定されている。この重なりは、銀河宇宙線が下層雲の形成を有利にし、その日傘効果を介して寒冷化している。約77万7,000年前の地磁気逆転直後から地磁気強度が急激に回復したため、銀河宇宙線増加とそれに伴う下層雲の日傘効果が低下し、本来の温暖な間氷期が戻ったと考えられている。

 チバニアン初期の、数mの海水準変動を伴う氷床の拡大・縮小を500年~2000年間隔でくり返す激しい気候変動を経た直後、突然、銀河宇宙線増加による寒冷化により日本列島を含む東アジアで、気温低下に加え、夏季降水量の減少が起こっている。それが約200年の周期で振動しながら急激に温暖化して800年後にピークに達した直後、最温暖期の最中、大量の大氷山流出が北大西洋中緯度域まで到達する大寒冷イベントを契機に、わずか50年で突然、寒冷期に戻った。太陽活動に起因すると思われる周期性を伴う急激な温暖化が、忽然と停止する現象であった。
 周期性を伴う温暖化と急激な寒冷化は地磁気逆転直後に2度繰り返し、その約1万年後にもう1度繰り返した。いずれも地磁気強度が元の強さに回復した後であった。この間氷期の後半が、数mの海水準変動を伴う氷床の拡大縮小を500年~2000年間隔でくり返す激しい気候変化の時代だったことを明らかにした。
 (「千葉セクション」における地磁気の逆転境界付近の地層には、ツガ・モミ・ブナ・ツツジ・イヌマキの仲間など花粉の化石が多数含まれ、現在よりも少し寒い気候が認識されている。今では日本列島で見られなくなった種、ハリゲヤキやカリヤグルミなども見つかっており、これらの花粉化石をもとに、地磁気逆転の時代、カラブリアン期末からチバニアン期初頭にかけての陸上環境を詳細に復元する研究が進められている。)

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千葉セクションChiba section
 「千葉セクション」は、千葉県市原市田淵の養老川沿いに露出する地層で、約77万年前の地層を示している。この地層は、更新世の前期のカラブリアンと中期のチバニアンとの境界を示すものであり、それは地球史上最後の地磁気逆転が起きた際の事象の痕跡を留めている。
 田淵の露頭で見られる地層は、海底で堆積したもので、この地層は2017年11月に「国際標準模式層断面及び地点」に内定され、2018年には「養老川流域田淵の地磁気逆転地層」として国の天然記念物に指定された。
 しかも、77万年前に起こった御嶽山噴火による火山灰層(白尾火山灰層)が、地磁気逆転の時期の目印となり、その地層は「チバニアン」とも呼ばれる、中期更新世の地質時代を画している。養老川沿いの露頭では、地磁気の逆転境界付近の「白尾火山灰層」に含まれる火山灰が、現在の御嶽山付近から飛来したもので、地磁気が逆転した時期と白尾火山灰が堆積した時期が比較的近いため、地磁気逆転が起きたときの地層の位置を確認するのに適し、また、この地層からは当時の海中に生息していた微生物の化石や植物の花粉の化石も産出されており、地磁気逆転時の環境変化を解析する試料が取得できた。
 「千葉セクション」および周辺の地層を対象として、地層に含まれる花粉や海洋微生物化石の分析を行い、千葉複合セクションが堆積した約80万年前から約75万年前までの6万年に及ぶ気候と海洋環境の変化が詳細に調査された。
 千葉複合セクションには、この時期の、寒冷(氷期)→温暖(間氷期)→寒冷(氷期)と激しい気候と海洋環境の変動の軌跡が遺されていた。その結果、温暖期中で最も暖かかった時期の長さが約1万年間であることが明らかになった。また、最後の地磁気逆転が約77万年前に起こっていたが、千葉複合セクションでは、地磁気逆転の際、生物の明瞭な絶滅現象や気候・海洋環境の特異な変化は確認されていない。
 この時代の千葉県には、ゾウやサイ、超大型のトドなど、現代では想像できない大型の動物たちが暮らしていた。

 https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/014/61/
 「チバニアン」を生きた古生物 県立中央博物館で企画展

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 2)チバニアン期の古生物
日本海の形成
 新生代古第三紀漸新世中頃〜新第三紀前期中新世中頃の約3,000万年前〜1,800万年前、海洋プレートが沈み込む海溝の西側に背弧海盆として日本海の形成が始まった。その地下深部から流動性のある高温のマントルが上昇することによって、大陸プレートの東縁の大陸縁辺地殻の一部が引き延ばされ、正断層が伸展し大陸地殻が裂け、その地下深部の割れ目から大量のマグマが噴き出して火山活動が激化した
 少なくとも漸新世(約3,400万年前~約2,303万年前)の約2,400万年前、東アジア大陸の縁辺地殻に深い溝ができ、湖や湿地が形成された。その後、裂け目が拡がり、中新世の2000万年前~1500万年前にかけて、背景海盆ができ、さらに深度を深め、2000~3000m程度の水深をもつ日本海ができた。中新世の半ば約1,500万年前に現在の位置に移動し、日本列島の骨格・弧状列島ができたと言われている。
 中新世は、約2,303万年前から約530万年前にあたる新第三紀の第一世の地質時代である。気候は比較的温暖であったが、中新世後期(約790〜530万年前)には、東アジアの気候が夏季モンスーンから冬季モンスーンに移行し徐々に寒冷化が進行し、中新世の終わり頃には南極大陸の氷床が拡大し大陸のほとんどを覆うようになった。また、海と陸の生物相は現代に近づいていた。
 (南極氷床Antarctic ice sheetは、地球上に2つある海氷polar ice packs【北極海の北極氷パックと南極海の南極氷パック】の内の一つ。南極大陸の98%を覆う氷床が、地球で一番大きい一個の氷の塊である。面積はおよそ1400万km2、体積は3000万km3、地球上にある淡水の内およそ61%を占める。
 東南極の氷床は大きな陸塊に載っているが、西南極では載っている岩盤は海面下2500mよりも深い所にある。)

 その後も日本海は拡大していくのだが、日本海の海洋底の拡大の仕方は少し変わっている。一般には大西洋に見られるように、大陸が分裂し、地溝帯が中央海嶺の拡大に伴って離れていく。大西洋中央海嶺は、大西洋の真中を南北に連なる海嶺で分かれているが、南北アメリカの海岸線とヨーロッパ・アフリカのそれとが合致している。アイスランドもこの海嶺の一部で、大西洋を拡大させたホットスポットのひとつである。ナンセン・ガッケル海嶺は、その大西洋中央海嶺の延長で、アイスランド北方から北極海へ延びる海底山脈で、大部分が北極圏に属するグリーンランドと北極圏のスピッツベルゲン島(ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島)の間を延伸する。その長さは約1800㎞で、ロシア東部の東シベリアの海岸に達している。このホットスポットとは、リソスフェアより下のアセノスフェアを生成源とする、マグマによる火山活動が起きている場所を指す。マントル上昇によって温度を保ったまま圧力が減少するため、マントルに部分的な溶融が起こり、マグマが発生する。
  地球の内部構造を理解するには、どんな物質でできているかという岩質 (組成) による見分け方と、剛体であるかないかという力学的な違い (流動性) からアプローチする。
 上部マントルは主にかんらん岩からできていると考えられている。下部マントルは高い圧力のためかんらん岩がより緻密な構造に変わっていると考えられ、上部マントルと下部マントルの間は漸移帯 (遷移層) がある。
 下部マントルと外核の境界部はD"層と呼ばれ、かんらん岩が更に緻密な構造に変わっている。
 外核は主に液体の鉄とニッケルから、内核は主に固体の鉄とニッケルからできている。
 アセノスフェアは、リソスフェア(プレート)の下位にあって、部分的に融解している物質であるため、比較的流動性に富んだ軟らかい層なので、岩流圏とも呼ばれる。
 アセノスフェアは、リソスフェアと違い流動しやすい特性があるため、リソスフェアと対比される。アセノスフェアの下部で接する上部マントルには、地震波の速度が深さと共に減少するいわゆる低速度層として存在するが、アセノスフェアはこの層とほぼ同一のものと考えられている。
 低速度層は、大陸下よりも海底下でより顕著に存在することが地震波の観測から知られている。この層は海底下では深さ70~250kmくらいに存在するが、大陸下ではほとんど認められない。
 しかし、日本などの島弧下では低速度層は異常に発達しており、地殻直下(深さ約30km)にまで及んでいる。このようなアセノスフェアの発達状況の違いは、上部マントルとリソスフェア(プレート)の間に位置する層であり、上部マントルは主にかんらん岩からできており、アセノスフェアはその一部が溶けて流動性を持っていると考えられている。マントルは、高温のために部分溶解しているか、それに近い軟弱な状態にあると考えられている。アセノスフェアは、リソスフェアよりかなり軟らかいためリソスフェア(プレート)が運動するのを容易にしていると考えられている。リソスフェアは、地球表面を覆う硬い層で、地震発生や火山噴火のメカニズムに重要な役割を果たしているが、そのリソスフェアはアセノスフェアの上を流動している。

 日本海は、大陸縁辺部の地殻の伸長と薄化によって始まった海盆で、日本海の東側を画する大規模な横ずれ断層から拡大が開始された。その後も伸長を続ける大陸性地殻の東縁で西方へ伸長していく新生代古第三紀漸新世の約2800万年前の日本海の拡大開始は、ユーラシア大陸縁辺部の薄化と島弧地殻の伸長よるものであった。
 日本海は、大陸と日本列島に取り囲まれた縁海である。ユーラシア大陸と樺太の間の間宮海峡(タタール海峡)、樺太と北海道の間の宗谷海峡でオホーツク海と繋がり、北海道と本州の間の津軽海峡では太平洋と、九州と対馬の間の対馬海峡東水道、対馬と韓国の間の対馬海峡で東シナ海と繋がっている。
 海底地形は、日本列島沿岸海域の大陸境界地、すなわち小規模な海底山脈(海嶺)と海盆とが複雑に組み合って分布する海域と、大陸性地殻からなる大和海嶺、朝鮮海台などの高所、そして日本海北部に代表される深海盆に大別できる。
 日本海の北半分を占める日本海盆の最深部は約3,796mで、その日本海盆底は主に玄武岩からなり、約3,000万年前に形成されたと推定されている。周りの陸地から海底谷を通って流れ込んだ陸性堆積物が厚さ2000m も積もり、著しく平坦であるが、西部はやや浅くなっている。
 約2800万年前に日本海の東縁を画する大規模横ずれ断層では、海洋地殻と上部マントルの一部も含むリソスフェアの最初の断裂が起こり、そこから海底拡大が開始された。この海底拡大は新第三紀中新世の約1800万年頃まで西および南西に伝播し、日本海盆の東半分を海洋性地殻で形成した。一方、日本海南西部では地殻伸長・薄化により陸性地殻の断片からなる海嶺・海台群と海盆群が形成された。海嶺は海洋底で海盆を分ける細長い山脈状の地形で、海嶺により新しい海洋地殻が形成される場所であるばかりか、海底が生まれる場所でもある。日本海盆には海嶺・海台群と陸性地殻の伸長・薄化により生じた海盆群が存在する。
 日本海が形成され、これに伴う海底火山活動で日本各地にグリーンタフgreen tuffと呼ばれる凝灰岩層が発達した。緑色凝灰岩とも呼ばれる、その緑色や緑白色や淡緑色などは、産出場所によって、その色調は異なる。重要なのは、グリーンタフが緑色を呈する理由が、岩石に含まれる輝石・角閃石などの造岩鉱物が、熱水による化学反応で粘土鉱物の1種の緑泥石に変化したことにある。しかも、グリーンタフは、日本列島以外にもアジア東部の大陸地殻にも存在し、約2600万年前から約500万年前にかけて「グリーンタフ造山運動」と呼ばれる造山運動が起きたことによる。この造山運動は、日本列島を含む太平洋周辺地域で特に顕著で、地殻の沈降と堆積が初期段階で支配的であったが、後半には褶曲と隆起が著しくなり、日本列島の形成に大きく寄与した。
 グリーンタフのグリーンは緑色を指す。タフとは火山灰が固まってできる凝灰岩を指す。つまり造山運動による変質作用によって生成された緑色を示す変成鉱物である。
 一口に緑色とは言っても、緑色や緑白色や淡緑色など、産出場所によって、その色調は異なる。グリーンタフが緑色を呈する理由は、岩石に含まれる輝石・角閃石などの造岩鉱物が、熱水の影響による変質により粘土鉱物の1種の緑泥石に変化したことによる。
 輝石は火成岩および変成岩で見つかり、角閃石は主に火成岩で見られる。特に苦鉄質の火成岩によく含まれ、マグマが固化してできた岩石であることを示す。代表的な石材としては、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される大谷石、秋田県大館市で採掘されてきた十和田石、伊豆で採掘されてきた伊豆石、福井県で採掘されていた笏谷石(しゃくだにいし)や滝ケ原石などがある。

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チバニアン期以前の古生物
 チバニアン期の千葉県周辺には、3種類のゾウが生息していた。その時期が古い順に「ムカシマンモス」・「トウヨウゾウ」、そして「ナウマンゾウ」であった。

 中新世の古代ゾウ
 今の「日本列島」のようにはなっていないが、多くの小島が連なった弧状列島時代の新生代中新世の前期の約1800万年から1600万年前には、海溝から離れた大陸縁地殻の下にマントル内の上昇流が到達し、地表を隆起させた。その陸成層と海成層には、石炭層や植物の化石が含まれている。この時代、気候は温暖でステゴロフォドンというゾウが生息し、ただ、時代が下るに従って小型化していった。
 ステゴロフォドンはアジアに広く分布していたゾウの系統の一種で、日本列島では、宮城県船岡町で発見されたのが最初で、1600万年前から600万年前までの中新世の地層で見つかっている。もともと大陸にいたのが、島に来て、変化していく。歯を比べていくと、古いのは大きいが、時代を下ると途中段階でだんだん小さくなってる。最終段階の600万年前ぐらいになると、かなり小さくなっている。寒冷化の島嶼環境で矮小化した。
 (2000万年ほど前の中新世初期、日本列島はまだユーラシア大陸東縁の一部であり、現在の下北八戸沖は、アジア大陸縁辺部にあたる。八戸沖の海底下には、北海道日高トラフの南部から東北日本太平洋側にかけて帯状に分布している中新世初期起源の石炭層が眠っている。 その海底下2000m付近の石炭層は、いまだ良質の無煙炭になりきっていない褐炭や亜瀝青炭【あれきせいたん】という未成熟の石炭で、非常に長い年月をかける熟成途中の、かつて森だった地層が海底下に眠っている。)
 そこから先、日本のゾウはどうなったのかは、実は、よく分からない。中新世後期になる地球寒冷化が進行し、約1600万年前から600万年前までの間、ゾウに限らず陸上生物の化石記録がほとんど産出しない。中新世の終わりには氷床が大陸のほとんどを覆うようになる。生物相も現代に近づき、ヒト科もこの時代に現れた。中新世の終わり(約530万年前)に、ヒト科が登場した。この時期、アフリカでは森林が広大な平原に置き換わり、主に樹上で生活していた古代のヒト科が地上での生活に移行した。この変化が、ヒト科の進化に大きな影響を与えた。
 (ヒト・チンパンジー・ゴリラ・オランウータンなどのヒト上科は、2800~1800万年前の漸新世後期と中新世前期にアフリカ・アラビア地域で出現し、中新世前期の赤道アフリカの高温、湿潤な季節的気候の熱帯密林に生息し多様化した。)
 その後のゾウの化石記録が見当たらない。600万年ぐらい前になるとツダンスキーゾウというのが見つかっている。ツダンスキーゾウは、約400万年前に、日本唯一の古代湖である琵琶湖周辺に生息していた。アジア大陸に当時いた巨大なゾウで、それが日本に渡って来た。渡ってきた時点では、大陸と日本がつながっていたのかもしれない。その後、しばらくまた切り離されて交流がない状態が続く。それで、何百万年かにわたって日本で独自に進化していく。それが、ミエゾウハチオウジゾウアケボノゾウという系列になる。
 先祖のツダンスキーゾウに近いミエゾウは、肩高(けんこう)が4mもの巨躯だったのに対して、アケボノゾウは2mだった。 この系列は、ステゴドンというアジアに広く分布していたグループだ。長く前に突きだした牙が特徴で、牙と牙の間が狭くて、鼻がその間を通らなかったのでは、と言われている。ゴンフォテリウムステゴロフォドンよりは、現生のゾウに近いが、分類学的に言うと「ステゴドン科」として、「ゾウ科」と区別される。
  「日本のゾウ」として関係してくるものとしては、まず原始的なゾウの先祖から、ゴンフォテリウムが分かれて、その後、ステゴロフォドンや、さらにステゴドンが出る。さらに、現在のインドと東南アジアに生息しているアジアゾウ類が分岐して、その先でマンモスの仲間と現生アジアゾウの仲間が分かれる。現生アジアゾウとナウマンゾウは、ほとんど「きょうだい」のような近縁だ。 中新世初頭の2300万年ぐらい前に、ユーラシアとアフリカがつながった。それ以前のアフリカは島大陸だった。ゾウは連綿とアフリカの島大陸の中だけで進化してきた。その後、ユーラシアとつながり、アフリカにいた動物たちがユーラシアに広がり始めた。その中で化石記録に残ってるのゾウがゴンフォテリウムである。それが最初に日本にもやって来ていた。 ところが1600万年前ぐらいから600万年前ぐらいの地球寒冷化Global cooling間は、ほとんど陸上の哺乳類の化石記録が遺存していない。最初は大陸と同じような動物たちがいて、その後、日本列島がバラバラの島状態になると、どんどんその間に絶滅していき、化石記録が乏しくなる。その前の時期では、ゾウの一種、中新世に棲息していたゴンフォテリウムという原始的ゾウが岐阜県で見つかっている。ゴンフォテリウムは、現代のゾウとは異なり、上下の顎に牙を持ち、水生植物を主な食物としていた。
 中央アジアや中国からは、多くの化石が産出している。 その後、ステゴロフォドンというゾウの化石は割と豊富に産出し、時系列の変化が追える。 中新世後期の寒冷期、約790万年前から580万年前、中高緯度一帯が寒冷化し、生態系が現代型に移行した。特に中新世後期750万年前を境に太平洋底層水の影響が弱まる一方、北太平洋中層水の影響が強くなった。この北太平洋中層水の強化により、北半球氷床拡大と冬季モンスーンの強化が、成層化していた日本海を攪拌し、海洋の中層水を表層に上昇させ、栄養豊富な水を表層に運ぶため、海洋生態系に重要な影響を与えた。
 地球の寒冷化は、海洋循環の変動を引き起こし、それが生態系に大きな影響を与えた。日本周辺では、いくつかの放散虫のみならず、巨大化石鮫メガロドンや、海洋哺乳類デスモスチルスも絶滅し、代わりに珪藻やイルカといった現代型の海洋生態系へ移行した。中新世の現代型海洋生態系の成立と海洋循環の変動、そして地球の寒冷化との関係性が研究されている。

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北太平洋亜熱帯循環と代表的な海流および水塊
 黒潮は、亜熱帯の海洋循環の一部で、風によって駆動される亜熱帯循環西岸境界流となって、北太平洋の西側の大陸沿いを強く流れる。黒潮の海流は、温暖な水を高緯度地域に運ぶため、気候に大きな影響を与える。その黒潮が房総沖で離岸して東方に向かう流れを黒潮続流と呼ぶ。黒潮続流は、黒潮に引き続き、南方からの高温・高塩な海水を運び、特に冬季には、日本東方沖で海洋上の大気へ膨大な熱を放出する。
 一方で、亜寒帯水の南縁、亜寒帯海流と北太平洋海流の間に形成される亜寒帯前線が、北太平洋では北海道奥尻島の北緯42度近くを東西に延びている。この前線は、塩分の南北断面で34.0psu(Practical Salinity Unit【実用塩分単位】、例えば34psuの塩分の海水は、だいたい34‰の塩分濃度、つまり海水1kgあたり34gの塩分が含まれている。)の等塩分線が上層数百mをほぼ鉛直に走っている所を指標にしている。黒潮続流の北側には、亜寒帯前線を越えてきた低温・低塩な海水があり、千島列島より南下してくる親潮や海洋の渦による混合により亜寒帯循環に起源を持つ海水が運ばれる。
 黒潮続流の北側は、この低温・低塩の海水と亜熱帯起源の高温・高塩の海水の両方が存在する海域のため混合水域と呼ばれる。黒潮続流は、その混合水域の南の境界側と見られる。
 北太平洋の中緯度に、大きな時計回りの海洋の循環、北太平洋亜熱帯循環亜熱帯循環)がある。この北太平洋亜熱帯循環の中央部は、北太平洋の中緯度に位置する大規模な時計回りの海流システムの一部であり、この循環により、温かい海水を低緯度から中高緯度へ、冷たい海水を中高緯度から低緯度へと運ぶ、南北方向の熱の分配に大きな働きをする。
 この循環の中央部には、黒潮や黒潮続流、北太平洋亜熱帯モード水などの特徴的な海流や水塊が存在する。これらの海流や水塊は、気候システムや海洋環境に重要な役割を果たす。この循環は、低緯度域の温かい海水を中高緯度域へ運び、また、中高緯度域の冷たい海水を低緯度域へと輸送することで、南北方向の熱の分配に大きく寄与するが、北太平洋周辺の気候システムに重大な影響を及ぼす。
 亜熱帯循環は、海上の風によって作り出される。そのため、その強さは大気場の変化に応じて変動する。例えば、冬季に北太平洋の北部で卓越するアリューシャン低気圧Aleutian lowの変動は、亜熱帯循環を構成する流れの強さや分布、さらには亜熱帯循環内部の多くの現象に影響を及ぼすことが知られている。
  日本を含む極東域における冬季の平均的な地表循環では、シベリア高気圧とアリューシャン低気圧の、言わば「西高東低の気圧配置」、つまりシベリア上空の冷たく重い空気が東アジアへ吹き出し、東アジアに寒冷な気候をもたらすことが主要な要因になっている。寒気の吹き出しに伴う大陸起源の乾いた重たい空気は、日本へ到達する前に日本海から大量の水蒸気が供給される。その供給された水蒸気が本州や北海道の日本海側の地域に豪雪をもたらし、しばしば重大な災害と事故を引き起こす。
 冬季のシベリアからの冷たく乾いた北西よりの季節風をもたらす気候システムは冬のモンスーンと呼ばれ、研究が精力的に行われている。
 アリューシャン低気圧は、北太平洋のアリューシャン列島付近で冬季に発生する低気圧で、この気象現象は、気圧の低い状態が恒常的に続くため、日本やアラスカを通過しながら発達し、冬季には頻繁に激しい嵐を呼び込む。アリューシャン低気圧は、シベリア高気圧との相互作用によって形成され、冷たい湿った重たい空気と温かい湿った軽い空気がぶつかり合うことで発達し厳しい環境変化を生み出す。
 加えて中緯度上空を流れる偏西風が大きく蛇行し、移動性高低気圧の移動を阻害する状態が1週間程度かそれ以上にわたって続くことがある。この時、高緯度側に蛇行した偏西風は、高気圧性の渦(北半球では時計回り)を伴う。これをブロッキング高気圧と呼ぶ。

 中緯度上空を流れる偏西風は、ときおり大きく南北に持続的に蛇行することがある。この蛇行が持続すると、気温や降水が平年とは異なる状態が続くことで異常気象をもたらす重要な要因の一つになる。この蛇行が高緯度側にひときわ大きく起こっている場所ではブロッキング高気圧が形成される。
 この気象現象は、年々変動を繰り返しながら、北太平洋の広い範囲に影響を与えている。偏西風は時間的に変動し、偏西風の強い東西流型から偏西風の弱い南北流型へと周期を描くブロッキング高気圧の発生には、チベット高原などの大きな山岳、大陸や海洋上の加熱が強く影響している。 
 ブロッキングとは、「偏西風の西風を阻止する」意味である。東西流型の場合は高・低気圧が順調に東進するので、天気は周期的に変わる。このような場合は、異常天候にならない。
 南北流型のブロッキング型では、帯状に流れていた偏西風が2つに分かれ、北の分枝は高気圧性にブロッキング高気圧の周りを流れ、南の分枝は低気圧性に曲がって寒冷な低気圧の周りを流れる。
 南北流型とは、この尾根の振幅が著しく増大した場合である。この場合には、地域的に天候の違いが大きく、南風の吹いている地域は温暖、北風の吹いている地域は寒冷、その中間では寒気と暖気がぶつかり合い長雨や集中豪雨となる。このような南北流が、1か月以上持続すると異常気象になる。

 亜熱帯循環には、黒潮および黒潮続流、北太平洋亜熱帯モード水、北太平洋回帰線水、北太平洋中層水といった特徴的な海流や水塊が見られる。北太平洋回帰線水は、塩分の高い水塊で、蒸発が盛んで降水の少ない北太平洋亜熱帯循環の中央部で形成される。この水塊は、特に南北方向の熱の分配に大きく働き、北太平洋の気候システムにおいて重大な影響を及ぼす。また、回帰線水の変動は、蒸発量と降水量のバランスに影響され、その海流や水塊は、日本を含む北太平洋周辺地域の気象・気候や海洋環境と関連していることから長期的な気候変動の指標として注目されている。
  北太平洋中層水は、北太平洋の中緯度域に広がる水塊で、深さ約300~1000mに分布している。この水塊は、低塩分で特徴づけられ、亜寒帯水と亜熱帯水が混合することで形成される。この中層水も、北太平洋亜熱帯循環に沿って輸送され、気候や海洋環境に大きな影響を与えている。例えば、地球温暖化によって黒潮の流量が増加し、北太平洋中層水の分布が広がると予測されている。
 また、それらの変化は、水産業をはじめとした日本の社会経済活動にも直接的・間接的な影響を及ぼしている。  
 近年の研究では、地球温暖化による亜熱帯循環は様々な環境変化と及ぼすと想定されている。例えば、地球温暖化に伴う海上風の変化によって亜熱帯循環全体が強化され、今後、黒潮の流量は増加すると考えられている。その暖流である黒潮の流量の増加により、日本近海を含む亜熱帯循環北西部の表層水温は他の海域に比べて大きく上昇することになる。海面からの蒸発が活発になり高塩分水が形成され、亜熱帯循環の南西部の表層に塩分極大層として分布する。この表層水塊は、回帰線水と呼ばれており、北太平洋では亜熱帯循環域の南西部に広く分布する北太平洋回帰線水を指す。
 亜熱帯高気圧に覆われ、いつも天気のよい亜熱帯域では蒸発が降水を上回り、塩分が高くなる。これに対し、積乱雲が発達し雨のよく降る熱帯域や、蒸発が少なく雨がしとしとと降る亜寒帯域では塩分は低くなる。
  このような塩分の違い、またその時間変化は、水温とともに海洋循環に大きく影響するが、その具体的なメカニズムは、まだよく分かっていない。それは、塩分データの蓄積が少ないためで、塩分の観測は水温に比べて困難で、20世紀までの海洋物理の変動はもっぱら水温によって記述されてきた。
 塩分の役割は、塩分観測が継続的に行われている、ごく限られた海域あるいは観測点での調査に過ぎない。
 さまざまな海洋の変化は、気象・気候や水産資源の分布に影響し、日本をはじめとした東アジア地域での気象災害(大雨・暴風・旱魃など)の増加や一部の魚介類の不漁を引き起こす可能性は高い。
 
 海は陸に比べて暖まりにくいため、春になるとオホーツク海はユーラシア大陸に比べて温度が低く重くなり、その上空に高気圧が形成される。このオホーツク海高気圧は6月から7月にかけて停滞し、南の小笠原高気圧との間に梅雨前線が形成され、日本付近は梅雨になる。盛夏になり、ジェット気流が北上し小笠原高気圧がさらに発達すると、オホーツク海高気圧は消滅し、梅雨明けとなる。
 (ジェット気流は、対流圏上層に位置する強い偏西風の流れで、気流の流れの中心軸に近いほど風速が速いが、どこでも平均的な普通の風とは異なる。主要なものとして、北緯40度付近の寒帯ジェット気流と北緯30度付近の亜熱帯ジェット気流がある。
 北緯30度の鹿児島あたりの高度1万m付近では、風速20~100m/sを超える強い偏西風が吹いている。北緯30度の上空は、 赤道の暖かい空気が冷やされて地面に落ちてくる場所(ハドレー循環)であり、北緯60度付近、樺太より500kmほど北あたりで上昇した冷たい風が南下してくる場所(フェレル循環)であるため、空気がどんどん集まる高気圧となり「上空から地面に落ちた空気」はすぐに 北や南の【より空気が少ない方】へ移動する。これが高気圧から低気圧に風が吹く原理である。
 赤道では気温が極めて高い、地表の空気がすぐに暖かくなり、軽くなった空気がどんどん上昇するため、北緯30度付近では風を送って空気を減らしてもいっこうに空気の密度差は埋まらない。気圧差が埋まらないため大気は不安定なまま状態化する。)

 オホーツク海高気圧は冷涼で湿潤であるため、夏に発達すると、北海道~関東地方の太平洋側に冷害をもたらす。この冷害の原因は、オホーツク海高気圧から吹き出す春から夏(5月~9月)に吹く冷たく湿った北東の風、 寒流の親潮の上を吹き渡ってくる冷たいヤマセ(山背)による。 秋になり、再びジェット気流が南下し秋雨の時期になると、オホーツク海高気圧は復活する。 この風は、冷涼で湿潤であるため、海上を進む間に雲や霧を発生させる。さらに陸に達すると、日照量の減少や気温の低下をもたらし、さらにこれが長く続くと米の収穫量が激減して農業に大打撃を与え、いわゆる冷害を引き起こす
 例えば、1993年には深刻な米不足となり、その年の日本の米の生産量は979万3000トンで、前年比74.1%にまで落ち込む。これには1991年6月15日に、フィリピンのルソン島西側にあるピナトゥボ火山が大爆発したことも、米の収穫量激減の原因だとされている。

 北太平洋の中緯度には、温暖で湿潤な高気圧(北太平洋高気圧)が年中形成されている。太平洋高気圧は、太平洋に発生する温暖な亜熱帯高気圧の一部である。北太平洋には北太平洋高気圧と、南太平洋には南太平洋高気圧が張り出すが、日本では単に「太平洋高気圧」と言う場合、北太平洋高気圧を指す。 この高気圧は、北東太平洋上に位置し、東側ではアメリカ合衆国西海岸に年間を通じて温暖で乾燥した気候をもたらし、西側では夏の日本の天気を支配する。また、冬には寒気の南下を妨げることもある。
 この高気圧は、地球規模の大気の大循環の一環として生成され、赤道付近で暖められた海面や地上の空気が上昇し、両極に向かって流れることで形成される。北太平洋海域の北太平洋高気圧は、夏季に最盛期を迎え、小笠原諸島方面から日本付近に張り出す小笠原高気圧を形成する。 春から夏にかけて発達し、北のオホーツク海高気圧との間に梅雨前線が形成され、日本付近は梅雨になる。
 盛夏になり、ジェット気流が北上し小笠原高気圧がさらに発達すると、オホーツク海高気圧は消滅し、梅雨明けとなる。小笠原高気圧の内部は晴天域が広がっているが、その周辺部では海面から蒸発した水蒸気が風で運ばれるため高温多湿となり、日本付近が小笠原高気圧の辺縁部にあたるような状況では、特に暖かく湿った風が山岳部にぶつかる地域で激しい雷雨となり、災害が引き起こされる事態も生じる。

 北半球氷床が拡大した中新世後期(約790万年前~580万年前)の地球寒冷化に伴い、様々な生物が絶滅した一方、最古のヒト科が出現し、現代型の生態系が成立した。同時期の日本海でも、海洋環境や生態系が大きく変化した。東アジアでは夏季モンスーンが弱化して冬季モンスーンが卓越し、イネなどC4植物(シーよんしょくぶつ)を主体とした草原が拡大した。更に大陸のヒマラヤ山脈の著しい隆起は、岩石の浸食作用を活発化させ、それにより海に流入したカルシウムイオンが炭酸イオンを吸収し、大気中の二酸化炭素濃度を下げて気候の寒冷化を促進した。
 カルシウム塩と二酸化炭素が反応すると、炭酸カルシウム CaCO₃が生成される。これは、貝殻やサンゴの骨格、石灰岩や大理石などの主成分となる。
  人類が食料として栽培している植物には、イネやコムギなどのC3植物とトウモロコシやサトウキビ、ソルガム(「コーリャン」とも呼ばれ、原産地は熱帯アフリカで、エチオピアを原産地とする仮説が有力、乾燥地において他の穀物の栽培できないところで栽培されることが多いが、反収はイネ・コムギ・トウモロコシの三大穀物に比べて低い。)などC4植物の両方がある。現代では、C4植物の優れた形質をC3植物に導入することによって、収量の向上や、地球温暖化や気候変動に対応できる耐環境ストレス品種の開発が期待されている。
 東京大学大学院農学生命科学研究科では、C3植物、C4植物、それらの中間型を含むフラベリア属植物8種(キク科のフラベリア属の21種には、連続的な光合成型を持つ種である)、イネ科植物2種の光合成特性を比較調査した。その結果、弱光から強光に変化した際、C4植物、中間型、C3植物の順に素早く光合成が立ち上がることが明らかになった。光合成に使用される二酸化炭素CO2は気孔から取り込まれるが、その気孔の開口はC4植物、中間型、C3植物の順に素早いことが明らかになった。C4植物は、CO2濃縮機構と素早い気孔応答という2つを活用して環境に適応するように進化したということが明らかにされた。
 C4植物は、二酸化炭素をまず4炭素化合物(オキサロ酢酸)として固定し、その後カルビン回路に送ることで、光合成の効率を高める。このプロセスは、特に高温や乾燥条件下で有利に働く。カルビン回路は、光合成の過程で二酸化炭素を有機物()に変換する反応で、葉緑体のストロマで行われる。
  日本周辺では、日本海固有の放散虫(Cycladophora nakasekoiやC. papillosum)のみならず、巨大ザメのメガロドン、海洋哺乳類デスモスチルス(体長約1.80m、体重は約200kgと推定、カバに似ており半水棲)も絶滅し、代わりに北方侵略種が増加し、珪藻やイルカといった現代型の海洋生態系へ移行した。同時期の北西太平洋の縁海である日本海でも、クジラなど海洋大型生物の進化する一方、大きな海洋環境・生態の変化が発生した報告も少なくない。

 仙台市にある竜の口渓谷周辺に分布する新生代中新世末期から鮮新世前期の約500万年前後の竜の口層から、貝化石ばかりかクジラやゾウ、ウマなどの哺乳類の化石も見つかっている。「竜の口層」の地層からは、寒流の影響を受けた浅海性貝類の化石や、また中新世に生息していたデスマトフォカ類などの海生哺乳類やウミガメ類などの海生脊椎動物化石も産出しており、その中には寒流の影響を受けた種も含まれている。
 「竜の口層」は、現在の東北日本沿岸よりも寒冷な海洋環境を示すものであった。しかし、陸生植物化石相からは温暖な気候が示されており、この矛盾を解明するためにさまざまな研究が行われている。
 竜の口渓谷は、宮城県仙台市青葉区を流れる小河川(広瀬川の支流)で、この渓谷は、仙台城の南面を縁取り、高さ約70mの崖を両岸に露出させているが、美しいV字谷の断崖絶壁である。仙台城は南の守りを、その竜の口渓谷の断崖にあずけ、この方面にめだった防備は設けず細く危うい道があるのみ、その方角から「辰ノ口」と呼ばれた。転じて「竜ノ口」と書かれたのは、その渓谷を刻む 川の名に由来する。竜の口渓谷は、竜の口層とも呼ばれ、化石採集地として知られている。
 クジラ化石は、竜の口層という地層から産出しており、今から約500万年前の新生代第三紀鮮新世初期のもの、発掘された化石は推定全長10数mの大型のものと、3.5m程度の小型のものの2種類あり、大型の方はナガスクジラ科、小型の方はケトテリウム科(絶滅)の仲間であると判った。小型の方についてはさらにハーペトケトゥス・センダイクスという種に同定されつつあると言う。ハーペトケトゥス・センダイクスは、1954(昭和29)年に現在の岩手県奥州市から発見された。上野公園の国立科学博物館に、その500万年前のヒゲクジラの全長わずか3mちょっとの全身骨格化石が保管されている。現代に生息しているヒゲクジラで最も小さい南半球のコセミクジラさえも6mはあるのに、何故こんなにも小さいのか?
 中新世後期の地球寒冷化は、約790万年前〜580万年前の間に、南極大陸の氷床拡大や東アジアの気候を夏季モンスーンから冬季モンスーンに移行し、陸上では寒冷化による乾燥が森林を草原に変え拡大させた。加えて日本列島形成に伴う地殻変動も厳しく、脊椎動物群集を一層多様化させた。この激しい環境変化による生態系への影響については未だ多くの点が未解明であるが、ハーペトケトゥス・センダイクスにも耐性や適応を迫られ小型化したことは充分想定できる。
 ナガスクジラは、極地も含むほぼ世界中の海に生息しており、化石記録では中新世中期のものにナガスクジラ属に属す可能性のあるものが知られているが、中新世後期以降のものは確実に記録保存とされている。竜の口層は、二枚貝類のタカハシホタテなど豊富な貝化石の産出層としても古くからよく知られていた。

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3)第四紀氷河時代
 ミエゾウ・ハチオウジゾウ・アケボノゾウアケボノゾウの化石が発見された時、その時代の新しい発見として「夜明け」を象徴するものとして名付けられた)の系列は、日本各地で見つかっており(ミエゾウは三重県をはじめ、長崎県・福岡県・大分県・島根県・長野県・東京都でも発見されている)、しかし、大陸では発掘例が無いので、日本固有種だと考えられている。しばしば地名を冠していることからも、各地の「ご当地ゾウ」でもある。残念ながら、島環境は厳しい。時代が下るに従って、体が小さくなっていく。ご先祖のツダンスキーゾウに近いミエゾウは肩高が4mもの巨躯だったのに対して、アケボノゾウは、体高2m、全長4m前後と比較的小型で、ミエゾウが大陸から分かれたのち、日本に生息して環境に適応し矮小化したと推定されている。250万年前の新生代第四紀更新世ジェラシアン期からチバニアン期の70万年前までは生息し、関東から九州北部まで、日本の各地に化石を遺存させている。
 ただツダンスキーゾウが、琵琶湖に棲息していたという事実は未だ見つかってないが、ツダンスキーゾウから進化したミエゾウ、そこからさらに進化したアケボノゾウなどは棲息していた。その復元骨格など琵琶湖のほとり草津市に、2020年10月グランドオープンした「滋賀県立琵琶湖博物館」に.今でも展示されている。

 第四紀氷河時代は、ジェラシアン期の約258万年前から現在まで続く地質時代で、地球の気候が寒冷化と温暖化を繰り返す氷期と間氷期が交互に訪れる。この第四紀は、更新世と完新世の2つの時代に分けられる。また大規模な氷床や山岳氷河の拡大と縮小が繰り返された。更新世では、マンモスなどの大型動物が繁栄し、完新世では人類が進化し、しかし現代に至るまでの環境変動が続く。
 チバニアン期は、現在の地球磁場の成立(77.4万年前)に始まり、約65万年間(12.9万年まで)の時代である。この時期には氷期と間氷期の移り変わりも4万年周期から10万年周期へと変わったことから、生物相が激動した時期であった。房総半島の海成層は、チバニアン期を代表する地層群であり、日本近海に生息する太平洋沿岸のアシカ上科(アシカやセイウチの仲間)の鰭脚類(ききゃくるい)などの移り変わりを知ることができる。
 アケボノゾウは、約250万年前から70万年前にかけて生息していた日本固有種で、大陸では化石が見つかっていないため、日本で進化したものと考えられている。アケボノゾウの化石が発掘される地層からは、ミエゾウの時代より冷涼な気候で繁茂するトウヒといった植物の化石が多く見つかっている。アケボノゾウがいた時代は寒かったようで、大陸から渡ってきたミエゾウが寒冷化に耐え小型化することで、島となった日本の環境に適応し、アケボノゾウへと進化していったと考えられている。体高は1.5〜2.0m、体重は2〜3tと推定され、比較的小型のゾウであった。頭部はやや大きく、長いキバを持っていた。現生のアジアゾウやアフリカゾウと比べて胴が長く足は短かった。
 静川層群は、南部フォッサマグナ地域の富士川上流中富地域に位置する地層群で、特に新第三系の堆積環境と構造に関する研究が進んでいる。
 静川層群は主に新第三紀鮮新世から第四紀更新世にかけての時代に形成され、駿河トラフの延長における沈み込みで堆積した。
 特に、曙礫岩層という上部層が後期鮮新世に属することが確認されている。
 この地域の地質構造は、北北東-南南西の走向を持ち、駿河トラフの西側谷壁で生じたランダムな隆起による不整合地層が見られる。 
  アケボノゾウの祖先は東アジアやインドで生息していたが、ジェラシアン期の氷河期(更新世氷河期)に氷橋を渡り日本に移動したとされている。この時代、身延地域では、山梨県南巨摩郡身延町中富地区に分布するいわゆる静川層群の層序、曙層群曙層中部層から赤石山地側が急激に隆起して曙地域に東側に傾斜する大規模な「ファンデルタ」が検出されている。「ファンデルタ」は、地質学的な用語で、三角州と扇状地の両方の性質を持った堆積相を指す。侵食海岸や岩石質陸棚など、山が海岸に接する海底に見られるもので、扇状地が海にも広がっていると考えられる。 第四紀の基底にあるのが、「ヒト属Homo erectus」の出現という第四紀の本来の意味であるかもしれないが、海洋プレートと大陸プレートとの相境界上に生じる 大規模隆起による現在の地形形成という視点も重要である。
 アケボノゾウも、約70万年前まで生きのびていた。そこで絶滅した。実はその一歩手前の約110万年前の時代に、大陸からまた日本にいなかったゾウが入って来た。これがムカシマンモスで、これまでいろいろな名前でよばれていた化石が含まれており、シガゾウもその1つである。この時期、アケボノゾウと、国内で2種類生存していたことなる。ところが、ムカシマンモスも、アケボノゾウと同じチバニアン期の70万年前に絶滅する。その後、今度は60万年ぐらい前にトウヨウゾウっていうのが入って来るが、トウヨウゾウが、日本に生息していたのは、僅か10万年ぐらいでしかなかった。
 ムカシマンモスは、その名の通り、のちのマンモスゾウにつながるもので、トウヨウゾウは、ミエゾウ・ハチオウジゾウ・アケボノゾウと同様のステゴドン類で日本固有と考えられている。ステゴドンは、鮮新世から更新世にかけてアジアに広く生息していたゾウ目のステゴドン科に属する属で、以前はゾウ科に分類されていたが、現在は別科のステゴドン科として扱われている。日本でもアケボノゾウやミエゾウなどの種の化石が発見されている。
 ステゴドンとは、ギリシャ語で屋根という意味、つまり「屋根型の歯をもったゾウ」ということになる。その臼歯の左右に走る山脈は高くなり、山脈の間の谷は深くなり進化する。同時に、山脈を形づくる突起の一つ一つがくっつきあったために、この山脈状の突起を屋根と呼んだ。この歯の山脈は、咬板(こうばん)とよばれ、進化するにつれて高さと数が増すようになる。
 マストドンがアメリカ大陸にわたり、ゾウの王国を築いた当時、アジア大陸では、このステゴドンが栄えていた。ステゴドンは、マストドンにかわって、アジアの王者になった。中新世の約2600万年前、その当時の気候は熱帯性で、森林が繁茂していた。ステゴドンの系統をたどってみると、ヨーロッパに住んでいたマストドンからわかれたステゴロフォドンを先祖としていて、オーストリアを経て、アジアにまで住んでいた。インドを中心にして、ボルネオ・ピルマ・日本など、たくさんのステゴドンの化石が発見されている。
 古第三紀漸新世末期の2600万年前から、更新世にかけて、日本にもたくさんのステゴドンが渡って来た。  第一章にでてきたアケボノゾウもその仲間である。三重県には、エレファントイデスという種族も住んでいた。また、兵庫県からはアカシゾウが、有明海の海底からはトウヨウゾウが発見されている。当時の琵琶湖は、現在よりももっと大きかった。そのまわりの森には、シガゾウやトウヨウゾウが群れをなしていた。 大陸には、ステゴドンが栄えていたが、日本には、日本独持のステゴドンがいた。アケボノゾウやアカシゾウがその代表である。
 日本のステゴロフォドンと、大陸のステゴロフォドンとの関係は定かではないが、日本のステゴロフォドンは、生きていた時代も古いし、形も大きい。

 トウヨウゾウは大陸でも化石が出土するため、アケボノゾウの絶滅後、新たに日本に入ってきたものとされている。日本で化石が産出する年代は、約 60万年前~50 万年前である。産出時代が短いわりには産出する化石は多く、北は宮城県から南は宮崎県まで広い範囲に亘る。特に備讃瀬戸の海底からは多くの臼歯化石が産出している。なお、トウヨウゾウは、牙の長いステゴドン的な形状に復元されることが多いが、見つかっているのは臼歯だけなのではっきりしたことは分からない。それでもトウヨウゾウはステゴドン類に属するゾウで、中国の南部、四川省の重慶近くの洞窟から発見された不完全な臼歯片を模式標本とする。臼歯の大きさは、ミエゾウとアケボノゾウの中間くらい。
 トウヨウゾウがいなくなって、その後、チバニアン期の約34万年前に有名なナウマンゾウが入って来る。このナウマンゾウは、今から2万年ぐらい前までは何とか生き延びる。トウヨウゾウもナウマンゾウも、朝鮮半島か東シナ海が氷橋でつながった時に来ているが、実はサハリンから北海道に入ってきたルートがあって、そこを通ってきたのがマンモスゾウMammuthus primigeniusである。マンモスの最も古い化石は、東シベリアで発見されチバニアン期の約75 万年前と言われている。40万年前には疑いようのないマンモスゾウの化石が発見されている。そして、ヨーロッパにはチバニアン期末期の 15 万年前に、アメリカには 後期更新世初期の10 万年前に登場している。日本からは 14 個の臼歯化石が発見されている。そのほとんどが北海道からのものであるが、1標本のみ島根県沖の日本海から発見されている。この標本は、生息していたものではなく、大陸沿岸部から漂着したものと考えられている。

 約 4.5万年前~ 2.3万年前の年代が日本のマンモスゾウの生息年代になる。マンモスゾウの生息環境は、マンモス・ステップに生息していたことがわかっている。マンモス・ステップは、寒冷で乾燥した草原で、多くのイネ科植物に加えて、スゲや極地ヤマヨモギ、エンドウやデージー(キク科の多年草)、そしてキンポウゲなどの草本植物が生えている環境と知られている。マンモスゾウが発見された地層の花粉分析だけでなく、冷凍マンモスの胃の内容物からも調査されている。
 5万2000年前に瞬間冷凍された、4000年前(縄文時代中期、温暖な気候を背景に、縄文文化は最盛期を迎える)に絶滅したマンモスゾウの発見は、完璧な状態で保存されており、染色体も無傷であった。この発見により、マンモスのゲノム解析、さらにマンモスゾウの食性についても重要な試料が得られた。シベリアで発見されたマンモスゾウの胃の内容物からは、イネ科の植物が主食であったことが推測された。他にはキンポウゲ科やヨモギ類を食べていた。しかし、温暖化に伴い湿潤化した現在のタイガでは、雪が降り積もる環境に変わってしまったことが分かった。永久凍土で発見された冷凍マンモスゾウは、過去の生態系や遺伝子の謎を解明する手がかりとなった。
 日本においても、北海道北部は、サハリン北部に匹敵するような寒冷・乾燥化した中で草原とグイマツやハイマツを主体とした疎林が発達していたとされ、マンモスゾウの生息できる環境があったことが伺える。
 グイマツは北東アジアの亜寒帯に広く分布し、千島列島南部の色丹島や択捉島、サハリン南部に自生している。今から約3万年~1万年前の最終氷期の後期には,北海道から東北北部まで分布していたが,気候の温暖化にともない後退し、約8千年前には北海道から姿を消した。現在、北海道内で植栽されているグイマツは、千島列島やサハリンから導入された。
 マンモスゾウを含めた更新世末期の大型脊椎動物の絶滅については、これまで過剰殺戮説と環境変動説が議論されてきた。このうち、環境変動説はロシアやアメリカの研究者によって提唱されてきた。この議論の背景には、ロシア極東地域で発見された冷凍マンモスゾウなどの腸管に残された植物化石や花粉化石から、最終氷期の亜間氷期interglacial period(現在の完新世間氷期は、約11,700年前に更新世の最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった)には、気候が温暖で、ツンドラは氷床を追うように極地方へと後退していき、かつてツンドラ植生を育んでいた地域に森林が戻るようになり、草本植物が減少している。
 また,各地のマンモスゾウ化石の14C年代測定結果から、それまで大規模であったマンモスゾウの集団が分断縮小した過程も推定されるようになった。加えて、近年各地の深海底堆積物、グリーンランドや南極の氷床コアなどを使った酸素同位体の研究も進み,過去の地球の気候変動のようすが詳細にわかるようになった。
 過去数十万年にわたる南極の氷床コアを分析した結果、気温上昇が先にあって、それに追随して二酸化炭素CO₂などの温室効果ガス濃度が上昇していることがわかっている。具体的には、最終氷期から現在の間氷期に移行する間の南極の気温とCO₂濃度の変動はほぼ同時か、気温の方がやや早いことが解明された。先に気温上昇などの気候変動で温室効果ガスの濃度が変化し、その変化がさらに気温変動を増幅させていた。
 南極氷床コアでは酸素の安定同位体比の詳細分析から年層を抽出し、火山噴火などの記録を参照しながら年代を決定している。グリーンランドの氷床量の変化についても、氷床コア内部の酸素18同位体を用いて過去の気温を推定している。
 原子の種類ごとに、陽子の数は決まっている。水素原子は1個、炭素原子は6個、酸素原子は8個である。一方、中性子の数は、同じ種類の原子であっても一定ではない。たとえば酸素原子の場合、陽子8個と中性子8個の原子核でできた「酸素16」が地球上の酸素原子の約99.7%を占める。この「16」という数字は、陽子と中性子の合計数を表している。だが、陽子8個と中性子10個からなる「酸素18」も約0.2%存在する。このように、同じ種類の原子で中性子の数が異なるもの、それが「同位体」である。陽子と中性子はほぼ同じ重さを持つ。ということはつまり、酸素18は酸素16よりも重い。同じ酸素原子でも「軽い酸素」と「重い酸素」がある。その化学的な性質に変わらないが、化学反応を起こす速度などが異なる。
 さまざまな物質中の酸素同位体比を調べると、その値は物質ごとに少しずつ異なる。その物質が化学反応によってつくられる際に、酸素16と酸素18では反応速度が違うために、酸素同位体比が変化する。その変化には、温度が深く関わることが分かっている。したがって、物質中の酸素同位体比を調べれば、その物質がつくられた時の気温や水温が推定でる。これらの研究は、将来の気候変動を予測する上で貴重な情報となっており、人類が大気に与える影響を考える上でも重要となる。
 特に更新世末期の最終氷期最寒冷期とその後の急速な温暖化により、マンモスゾウをはじめ多くの大型動物が絶滅したようだ。マンモスゾウは、北半球の広範囲にわたって生息していたが、氷河期の終了とともに減少し、4000年前に絶滅した非常に著名な動物とされた。
 日本における更新世末期のゾウ類の絶滅時期については、3 万年前から 1 万年前の年代が推定されている。ナウマンゾウとマンモスゾウの放射性炭素年代測定の結果をまとめると、ナウマンゾウは最終氷期最寒冷期Last Glacial Maximum(LGM)以前に絶滅し、マンモスゾウは LGM になっても生息していたが、LGMが終了すると日本からは消えていった。これは、従来いわれている大型獣の絶滅要因のうち、環境変動説を支持する結果となった。
 (glacial;氷河時代の or 氷河の作用による)
 後期更新世は、約12万6千年前~.約1万1千7百年前までの期間を指す。その中で、約2万1千年前が最終氷期最寒冷期Last Glacial Maximum(LGM)にあたる。この時期、北半球の大部分が氷床に覆われ、海面は現在より約120m低下してた。 この寒冷期には、ヨーロッパ北部、カナダ、シベリアの広範囲が氷床に覆われており、南半球でも南アメリカ大陸の南端部、現在のチリとアルゼンチンにまたがるパタゴニア地方に広がる南パタゴニア氷原が拡大していた。凍結した陸塊としては、南極大陸、グリーンランドに次いで、現在の地球上では3番目に大きい。アンデス山脈を源として、チリ側とアルゼンチン側を合わせて48の氷河が流れ出している。
 当時の気候は非常に乾燥しており、現在の砂漠地域よりさらに拡大していた。
 
 地球規模で起こる気候の寒暖は、温帯の動物も寒冷な地域の動物も絶滅へと追いやる。日本におけるナウマンゾウやマンモスゾウの絶滅は、ただ一度の衝撃的な出来事で起こったものではなく、何度も起こる気候変動による生息地の減少や分断を経ながら更新世末期の最終的な絶滅に至った。ただマンモスゾウは、最後の氷期が終わって急激にあったかくなると、日本国内で生きてられないので絶滅したか、サハリンを通ってまたもとへ戻ったかは不明である。

 ナウマンゾウの時代
 1867年(慶応3年10月14日、二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許)、横須賀製鉄所(現:米海軍横須賀基地)の建設のため、もとは盛り上がった標高約45mの白仙山を掘削したところゾウの下あごの化石が出土した。その下あご化石は、1871年に大学南校(現:文部科学省、現:東京大学)に送られ、東京帝国大学の教授であり、ナウマンゾウの名前の由来となったドイツ人の地質学者エドムント・ナウマン(1854~1927)によって研究された。これが世界初のナウマンゾウ化石となった。
 その後1921年(大正10年)には浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見された。京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は、1924年(大正13年)にそれがナルバダゾウnamadicusの新亜種であるとしてこれを模式標本(模式地は遠江国敷知郡伊佐見村佐濱、現在の静岡県浜松市中央区佐浜町)とし、日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンに因んでElephas namadicus naumannniと命名した。これにより和名は「ナウマンゾウ」に決定された。その横須賀で出土したナウマンゾウ化石は、現在は東京国立博物館に保管されている。
 ナウマンゾウは、今からチバニアン中期の約43 万年前~後期更新世の約2万年前に日本列島とその周辺に生息していた。その時代の地球は、氷河期と比較的暖かい間氷期が何度もくり返していた。
 約258万年前~約1万1700年前までの時代を更新世、それ以降の現在に至るまでの時代を完新世と呼ぶ。更新世は地球全体で4回の氷期と3回の間氷期を繰り返した氷河時代であった。現在の   完新世(間氷期)は、約11,700年前に 更新世の最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった。間氷期は、氷期と氷期の間の比較的温暖な時期で、現在は後氷期にあたるが、次の氷期の前の第四間氷期であると考えられている。
 氷河の発達拡大した時期である氷期と氷期との間にあって、間氷期は、気候は温暖化し、中緯度地域まで分布していた氷床が急速に融解し氷河も後退する。そのため海面が上昇して急激な海進がおこり、海面は現在の位置かそれ以上にまであがった。気温の上昇も大きく、暖化の程度は高緯度ほど顕著に現れ、大陸氷河周辺では氷期に比べて約10℃前後は高まったとみられる。
 氷河の発達しなかった地域では、その間氷期と認める証拠の一つに、海面上昇による海進堆積物がある。最終間氷期(リス‐ビュルム間氷期)、チバニアン期最期の約13万年前から気候温暖化した「後期更新世」の7~8万年前の浅海堆積物は世界各地に分布しており、日本においても、下末吉海進期(しもすえよしかいしんき)の堆積物で知られる海成層が各地にみられる。横浜市北東部に分布する下末吉層(しもすえよしき)は、基盤の上総層群を不整合に覆っている。この地層は、下部が礫や砂層、中部が泥層、上部が砂層からなり、1サイクルの堆積相を示している。
 その下末吉層は、関東地域に広がる台地の一部であり、神奈川県北東部の川崎市高津区・横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区などに分布している。この地層は新生代後期更新世に形成され、模式地の下末吉層は一連の海進の堆積物であり、泥層とその上位の砂層から成り立っている。
  この本層中には浅海生の貝類化石、ナウマンゾウおよびニホンムカシジカCervus praenipponicusなどの哺乳)動物化石、ホウゼンジグルミJuglans   Sieboldiana hosenjianaなどの植物化石が多く含まれる。これらの動植物化石から当時の気候を推定すると、とくに中部泥層の堆積期は現在より若干温暖であったといえる。
 厳しい環境の中で動植物が生き残りを賭け翻弄され、高度な知能をもった人類が現れ、この時期を耐え忍んだ種が台頭してきた。そして完新世になると氷期が終わり、地球は温暖な気候になった。
 氷河期に海面が下がっていたときには、日本列島とアジア大陸が陸続きで瀬戸内海も河川が流れる陸地であった。瀬戸内海の底引き網漁業で引き上臼歯(奥歯)の付いた下顎、尺骨(前脚の骨)からナウマンゾウの大きさが想定できる。
 ナウマンゾウは、日本から発見されるゾウ化石の中で最も多い。その産地は200か所以上に及ぶ。ナウンマンゾウは野尻湖のほか、千葉県印旛沼・北海道幕別町忠類・東京都日本橋浜町・神奈川県藤沢市などから、まとまった化石が見つかって骨格復元が行われている。瀬戸内海からは、おびただしい量の化石が出土している。長野県では、信濃町野尻湖・信濃町柏原・長野市・中野市・上田市・青木村・小諸市・佐久市・佐久穂町・南牧村・富士見町など、11カ所ほどで発見されている。
 その化石の産出層準の下限は、チバニアン中期の約36〜34万年前とされているが、この時代が低海水準期のピークを過ぎた時期にあることから、ナウマンゾウが日本に渡来したのはそのひとつ前の低海水準期である約43 万年前の可能性が高い。 そもそもナウマンゾウの祖先は、アフリカの新第三紀鮮新世-第四紀更新世から発見されているレッキゾウ E. reckiとされているが、エチオピアから新たに発見されたレッキゾウの頭蓋骨を基に、ナウマンゾウの祖先種は、カラブリアン期の100万年前以降にアフリカを旅立ったと思われている。
 レッキゾウ (Palaeoloxodon recki、もしくはElephas recki)は、新生代鮮新世後期から更新世前期にかけてアフリカ大陸に生息し絶滅したゾウの一種である。主にアフリカ大陸東部、南部地域に生息した史上有数の巨ゾウであるが、長鼻目ゾウ科に属し、ナウマンゾウと同じくパレオロクソドンPalaeoloxodon属とする説が有力である。ケニアやタンザニアなどから化石が産出されている。ほぼ完全な骨格がケニアの東トゥルカナTurkanaで発見されており、大型の個体は肩高4.5mに達することもある。
 この種の特徴的な形態は、特に頭部形状が極めて独特で過度なまでに隆起した頭頂、眼窩の位置が下がっていること、また、臼歯は高歯冠で後の亜種になるほど顕著になるため、硬い植物種を食べるグレーザーgrazers(草の葉食の動物)であったようだ。植物食であれば、氾濫原などに生息していたと推定されている。年代によって変異があり、進化段階に応じて5つの亜種に区別されていますが、近年の研究ではこれらの亜種は多系統的であり、複数の種に分けられる可能性が示唆されている。
 レッキゾウの全身骨格が各地で出ており、特にケニヤは東トゥルカナ湖の東岸にあたるクービ・フォーラ地層で見つかった個体は、長鼻類の単一個体の完全骨格で、肩高が4.5mに達する唯一の出土例であった。多くの場合、部分的な骨格や、複数体分の骨格を一体として組み合わせたものからサイズを推定する。
 この完全骨格のレッキゾウこそが「長鼻類史上最長身」の種類であったとみても、大過ないと考えられ、長鼻目ゾウ科に属し、ナウマンゾウと同じくパレオロクソドンPalaeoloxodon属とする説が益々有力となった。パレオロクソドンPalaeoloxodonは、絶滅したゾウ科の属であるが、この属は鮮新世にアフリカで誕生し、更新世にユーラシアに広がった。特にナウマンゾウが有名で、既知の最大種には肩高4メートルを超えるヨーロッパの Palaeoloxodon antiquusや、インドの Palaeoloxodon namadicus(史上最大の陸生哺乳類とされる)もこの属に含まれている。
 ケニアの最北部に位置するトゥルカナ湖Lake Turkanaは、面積が琵琶湖の約10倍にも及ぶ世界最大のアルカリ湖である。この美しい湖は植物プランクトンが多く、緑色をしていることから「翡翠の海」とも呼ばれている。手つかずの自然が広がるトゥルカナ湖周辺は、ナイルワニやカバの繁殖地として知られているほか、フラミンゴやサギ、ペリカンなどの渡り鳥が飛来することでも有名である。この地域は生態系の豊かさだけでなく、古人類の骨や動物の化石が発見されるなど、人類学の研究の場として重要視されている。
 北海道忠類産・日本橋浜町産・神奈川県藤沢産などの4 体のナウマンゾウ標本で行われている形態は、復元ごとに異なるが、肩甲骨(けんこうこつ)は約2~2.7 m、雌の牙は短いが、雄は長く2 m以上あるものもある。背中は肩と腰が高いなどの形態的特徴を持っている。1966年にいまの印西市で発掘されたナウマンゾウは、全身の骨の化石が見つかり、日本で初めて全身骨格のレプリカで復元された。会場にはこの全身骨格のほか、下あごや脊椎などの化石の実物が展示されている。
  長野県上水内郡信濃町の野尻湖畔からはナウマンゾウ、ヤベオオツノジカの化石と共に、旧石器時代の石器や骨器が見つかっており(野尻湖遺跡群)、ナウマンゾウは当時の人類の狩猟の対象であったことを示す。日本においては約2万年前に絶滅したとされるが、これは日本列島の現生人類による槍を使う集団狩猟方法が向上した後期旧石器時代にあたる。当時の人類が使っていたと思われる槍の穂先などの石器などが見つかった場所からナウマンゾウの化石も出土例も多い。ナウマンゾウが人類の狩猟の対象であった。
 ナウマンゾウなどのように大型の動物の歯や骨の化石は「龍骨(竜骨)」と呼ばれ、古くから止血・鎮痛・防腐などの効果がある収斂薬(しゅうれんやく)や、鎮静薬などとして用いられてきた。正倉院には「五色龍歯」(ごしきりゅうし)と呼ばれるナウマンゾウの臼歯の化石が宝物として保存されている。
 1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで長野県の野尻湖畔に位置する立が鼻遺跡(野尻湖遺跡群)で実施された4次にわたる発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。それにより、ナウマンゾウは熱帯性動物であるため毛を持っていないと思われていたが、野尻湖での発掘により、やや寒冷な気候下でも生息できることが判明した。
 1976年(昭和51年)、東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中に、地下約22mの地点から3体のナウマンゾウの化石が出土した。この化石は浜町標本と名付けられ、頭蓋や下顎骨が含まれている。出土地層は約1万5000年前の上部東京層である。他にもナウマンゾウの化石は、東京都内だけでも田端駅・日本銀行本店・明治神宮前駅など20箇所以上で出土している。
 1998年(平成10年)、北海道湧別町東芭露(ひがしばろう)の林道沿いの沢で奇妙な形の石を隣村から山菜取りに来ていた漁師が発見し湧別町教育委員会に寄贈した。同委員会は札幌の北海道開拓記念館にその石(化石)の調査を依頼した。北海道ではケナガマンモスは6 - 4万年前に、ナウマンゾウは約12万年前に生息していたと考えられていたので、約35,000年前のマンモスの臼歯化石であると発表した。しかし、2002年(平成14年)に滋賀県立琵琶湖博物館の鑑定でナウマンゾウのものであり、北海道でもマンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが津軽海峡線(ブラキストン線Blakiston Lineとは、津軽海峡を通る哺乳類や鳥類の動物相の分布境界線を言う)を越えて生息していた新しい事実が判明した。 ナウマンゾウは、寒冷期で陸橋が形成された約43 - 30万年前に日本列島へ渡来した。ユーラシア大陸からもナウマンゾウとされる化石の発掘例があるが、日本のナウマンゾウと同種であるかどうかは今のところ不明である。
  ナウマンゾウの絶滅 現在の北海道から九州までの日本列島の広範囲に生息していたが、約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代・後期更新世に絶滅したとされる。ナウマンゾウの化石は、北海道から九州まで日本の様々な地域で発見されしかも豊富である。最大の特徴として頭蓋骨上の頭頂部の隆起があり、頭部のシルエットがベレー帽を思わせるほどに突き出ていたとされている。また、最大の特徴である口元の牙は長さが2.4m以上、直径も20cm以上にも成長する。
 ナウマンゾウの主な生息場所は、同時に見つかる植物や動物の化石の構成から、温帯の針葉樹の混じる落葉広葉樹の森林や湿地に生息していたと推定されている。オオツノシカやヒグマのほか、二ホンモモンガやアカネズミ、タヌキなど日本の固有種の動物たちとも共存していた。ナウマンゾウの祖先は日本とユーラシア大陸がまだ陸続きであった時代に、陸橋を通って日本に渡ってきたと推測されている。佐渡沖の日本海海底で化石が発見されている。1966年(昭和41年)1月、島根県温泉津町の沖合い60km、水深220mの日本海海底でも、岩美町田後港の漁船が採取した。全長230cm、最大周囲45cmで、ナウマンゾウの左上切歯(上顎の前歯、象牙ではない)化石と同定された。
  後期更新世の日本列島に棲息した長鼻目は本種とケナガマンモスのみであり、ヤベオオツノジカやハナイズミモリウシBison hanaizumiensisと共に後期更新世の日本列島に分布した大型陸棲哺乳類であった。ハナイズミモリウシは、日本列島に生息していたウシ科のバイソンの一種で、この種は、最終氷期を中心に存在しており、花泉遺跡(岩手県一関市)から発掘されている。この遺跡では、ハナイズミモリウシの化石だけでなく、オーロックス(野生種のウシ)の化石も同時に見つかっている。ハナイズミモリウシは、現生のバイソンに近い大きさで、推定体高は2m、推定体長3.1m、この種は、旧石器時代の日本列島の動物相を代表する大型陸棲哺乳類の一つであり、その絶滅の原因は気候変動や人間による狩猟などが考えられている。
 ナウマンゾウは肩高2.5m〜3mで、現生のアジアゾウよりもやや小型であった。一方で、氷期の寒冷な気候に適応するために皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたとようだ。牙(門歯)は発達しており、雄では長さ約240cm、直径15cmほどに達している。この牙は雌にも存在し、長さ約60cm、直径は6cmほどでした。また、牙の外側から内側へのねじれの様な湾曲も特徴的で、頭蓋骨上の頭頂部の隆起があり、頭部のシルエットがベレー帽を思わせるほどに突き出ていた。
 ナウマンゾウは約34万年前に日本列島に出現し、寒冷期で陸橋が形成された約43 - 30万年前に日本列島への渡来があったと考えられています。現在の北海道から九州までの日本列島の広範囲に生息していましたが、約2万年前頃から衰退し、約1万5000年前の新生代・後期更新世に絶滅したとされている。

 「氷河期」には極地の大陸氷床や高山域の氷河群が大規模に広範囲に広がる。氷河時代は地球史の中で5つの重要な時期があり、その一つの第四紀氷河時代(新生代氷河時代)は、ジェラシアン期の約258万年前から現在まで続く地質時代である。氷河時代は、寒冷な気候が続いたわけではなく、寒冷化と温暖化が交互に起こった。寒冷な「氷期」と少し暖かくなる「間氷期」に分けられる。「氷期」なると、1年の平均気温が5〜10℃ほど下がり、蒸発した海水の一部が、雪となって降りつもり、やがて氷河となって陸にとり残される。そのため、海面が下がり、日本海が内海になり、瀬戸内海が河川が流れる陸地になった時期もあった。
 氷河の拡大と縮小、世界的な海面の変動、生物の分布域の移動などが繰り返されてきた。この時代は、地球規模の激しい環境変動の中で人類が発生して進化した最新の地質時代でもある。
 現在は「間氷期」にあたり、氷河時代のうち、「氷期」と「氷期」の間に挟まれた、気候が比較的温暖な時期である。現在の完新世間氷期は、約11,700年前に更新世の最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった。
 ゾウというのは、ケナガマンモスのように寒冷気候に適応していたものもいるが、基本はアフリカ起源で、どちらかというと熱帯、亜熱帯系の動物である。トウヨウゾウも、中国にはたくさん化石記録があるが、割と南のほうに偏る。トウヨウゾウが来た頃というのは、間氷期の中でも特に暖かくて、その時、サイも入ってきている。

 地球の歴史には多くの重要な時期があり、特に注目すべき5つの時期を選ぶと
 1)地球の誕生(約46億年前):
 およそ46億年前に起こった微惑星の衝突・合体の繰り返しによって、現在の水星から火星までの範囲に20個ほどの原始惑星が誕生した。この20個の原始惑星から水星・金星・地球・火星が形成された。私たちが住む地球はそのうち10個の原始惑星が衝突・合体して誕生した。
 地球の表面がマグマで覆われていた(マグマオーシャン)が、徐々に冷却されて地殻が形成された。
 2) 先カンブリア時代(約46億年前~5億4000万年前):
 この時代は、地球が誕生した約46億年前から約5億4,100万年前までの非常に長い時代を指す。この時代は、地球の歴史の約88%を占めている。最初の生命が誕生、光合成を行うシアノバクテリアが酸素を生成し始めた。これにより、大気中の酸素濃度が増加し、生命が繁栄する基盤が整った。
 3)カンブリア爆発(約5億4000万年前):
 「ありえない」と考えられてきた「全球凍結(スノーボールアース)」という壮絶な環境変動が実際に起こった。それが原因となって原生生物の大量絶滅(大絶滅)とそれに続くカンブリア爆発と呼ばれる跳躍的な生物進化をもたらした。生物は、凍結しなかった深海底や火山周辺の地熱地帯や深部地下生物圏en:deep biosphereのような、一定の温度が保たれる場所で生きながらえてきた。バクテリアの遺伝子の変化を含む環境適応能力は極めて高く、全球凍結した地球上に、1つのディナー皿程度の大きさの「オアシス」が 1000 か所ほどあれば、それぞれに 1000 ほどの単細胞個体がいれば、それまでの全ての生命種は十分に維持される。
 かつて海底に堆積した炭酸塩鉱物や生物死骸は、プレートの移動によって数千万年後に海溝から地下へ沈み込む。沈み込んだ炭酸塩鉱物(初期の地球大気に存在していた大量の二酸化炭素は、のちに石灰岩や苦灰石などの炭酸塩岩として大量に地殻に固定されて減少した)や生物死骸は地下の高熱で分解して二酸化炭素に変化し、海溝近くの火山から火山ガスとして大気中に放出される。地球大気に含まれていたメタンは、シアノバクテリアの光合成による酸素が大気中に蓄積され始めた約25億年前ころに、酸化されて空気中から無くなった
 約5億4200万年前から5億3000万年前の間に起こった現象で、多くの動物の門(ボディプラン)が急速に出現した。この時期には、今日見られる多くの動物の基本的な体の構造が一斉に現れた。この現象は「カンブリア爆発」と呼ばれ、生物の多様性が拡大した。
 4)パンゲア大陸の形成と分裂(約3億年前~2億年前):
 すべての大陸が一つに集まり、巨大なパンゲア大陸が形成された。その後、パンゲアは分裂し、現在の大陸配置となった。
 5)第四紀氷河時代(約260万年前~現在):
 現在も続いているこの時代、地球は複数の氷期と間氷期を繰り返した。これにより、地球の気候や生態系に大きな影響が及び、地球上の生命体へ繰り返される過酷な試練と進化に繋がったが?)


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