近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。

「みずうみ」は「水海(みずうみ)」の意で、海はもとより池や沼なども表した。特に区別して用いる場合には、塩水のところを「塩海・潮海(しほうみ)」といい、淡水のところを「水海(みづうみ)」や「淡海(あはうみ)」といった。現在では、塩分を含んだ「塩水湖(塩湖)」も「みずうみ」に含められている。

漢字の「湖」は、「氵扁」で「大陂(おほつつみ)」の意で、「胡」は、この場合「古」を音符とする会意形声文字となる。

7世紀、飛鳥京から藤原宮時代の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海(ちかつみづうみ)」という字が見える。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となる。近江国名は、琵琶湖を「近つ淡海(ちかつあはうみ)」と称したことに由来するとするが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。

「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」の意ではない。大宝令の制定以降、「近江国」と国名表記が定められ定着した。

「遠江」も都から遠い浜名湖を「遠つ淡海(とおつあはうみ)」と称したことに由来する。7世紀後半の木簡の国名表記にも「近水海国(ちかつみづうみ)」と対になるように「遠水海国(とおつみづうみ)」とある。当時の各地域の住民には、「近い」「遠い」の意識が芽生えるはずもなく、ヤマト朝廷の視点による遠近感であった。