駿河は、「尖川(するとがわ)ないし駿馬が千里を駈けるが如く、山から海に落ちる険しい川 」を意味した。『万葉集』には「打縁流駿河能國(うちよするするがのくに)」とあるが、『和名類聚抄』では「須流加」、『東遊駿河舞歌』では「須留可」、『駿河国風土記』では「薦河」と表記された。それは駿河の三大河川である大井川・安倍川・富士川の流れが急峻であることに由来する。

諸国名義考(上)に

「駿河 和名抄に、駿河(須流加の國府在り)名義は、萬葉集に打縁流駿河能國(うちよするするがのくに)云々とある如く、尖川(するとがは)の意なるべし、

また東遊駿河舞歌に、須留可奈(するがなる)、宇止波末仁(うどはまに)、宇知與須留(うちよする)、奈見波奈々久佐乃(なみはななくさの)云々ともあり、こは川ならず、海なれば、いづこも浪はつよく打ちよすべけれど、万葉集の歌にゆかりあればいふのみ、

すべて此國の川は、山より落ちて海に入る水のけはしければ、川波強く打ちよする勢ひの猛烈なるによりて、尖川國と云なるべし、

此國に駿河郡あり、もとはそこより出し名なるべし、此國の風土記に、駿河に三大河有り、而して其の濤勢は駿馬が千里を駈けるが如し、故に國號と為す、また、薦河(するが)は其の河流薦々(えんえん;急峻な有様)に依り、而して淀み溜を知らず也、所謂(いわゆる)志通波他河(しづはたがは;賤機川;安倍川)、不二河(ふじかは)、大堰河(おほゐがは)也とあるは、共に字になづみたる也」

(静岡市安倍川中流に、賤機【福田ヶ谷】地区が現存する。「薦」には「頻り」の訓読みがある。その意は「度合いが著しいさま」に通じる)

赤石山脈の間ノ岳(あいのたけ)を源流とする大井川は、現在では、静岡県中部を南下する川であるが、かつては静岡市井川地区下流域から、駿河と遠江の境となって駿河湾に注ぐ。山間地に深い峡谷を刻み、流域の長さに比して著しく狭隘で、日本でも屈指の急流である。奈良時代の大井川は、現在より北寄りに折れ、今の栃山川を流れていた。その流路が境であるため、後世に、大井川の流路が変わり、駿河国の領域が西に広がった。

駿河は、その流域にある三大河川の急峻な有様が、その国名の由来となったが、近国の三河は、「男川(おとかわ)」、「豊川(とよかわ)」、「矢作川(やはぎかわ)」の三川を単純にその国名の由来とした。

「美濃」も青野(あおの・大垣市青野)、大野(おおの・揖斐郡大野町)、各務野(かがみの・各務原市)という「三野」から「御野」を経て、大和朝廷より、大宝4(704)年に、諸国の国印の製作にあたり、吉祥語を選ぶことを命じられ「美濃」と表記した。公式令に、銅製で大きさ方2寸と定められ、中央官司の鍛冶司(かぬちのつかさ)などによって製作され、中央から各令制国に1面ずつ送られた。その国印が正倉の鎰(かぎ)とともに国司任命の節(しるし)となった。

「野」は、郊外を表記するため「里」扁となった。「予」は音符である。「野」とは「王城を去る2百里より3百里」の開けた平原を指す。

律令時代の五畿七道の一つ「東山道」は、大宝元 (701) 年に、近江から岐阜県不破郡にあった不破の関を越え、美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野の7ヵ国の国府を連ねる街道として定められた。宝亀2(771)年、武蔵を東海道に移し、陸奥・出羽の2国を加えて8ヵ国となった。

「東海道」は、伊賀から伊勢国の鈴鹿の関を越え、志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸の14ヵ国を径路とする街道であった。

「東山道」と「東海道」とでは、それぞれに属する北と南の国名が、「野」と「河」で対(つい)になっている。

北の山岳地の「美濃」と「信濃」に対して、海側に接する「三河」と「駿河」の国がある。この地形を反映する国名の制定は、ヤマト朝廷が画期的な政策意図で命名したことの表れであった。