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1)日本列島とは 日本列島は、新生代新第三紀中新世の約2,000万年前~1,500万年前に日本海が拡大してアジア大陸から分離した。日本列島の構造は、大陸だった時代に造られた土台を「基盤」に、日本海の拡大以降に堆積した「被覆層」からなる。その日本列島の基盤は古代アジア大陸に海洋プレートが沈み込む「沈み込み帯」の大陸側に形成された「弧状列島(島孤)」であった。そのため海溝と平行に並んでいる。東北日本の地質帯は北海道~東北へと南北に並び、西南日本の地質帯は関東~沖縄へと東西に並ぶ。 「中央構造線」は、日本がまだアジア大陸にあった中生代白亜紀の1億年~8,000万年前ごろに誕生した長大な断層であった。そのアジア大陸の一部だった時代に、西南日本の基盤が、中央構造線により大きくずれ動かされた。中央構造線を境に、内陸側を「内帯」、海溝(現在は南海トラフ)に近い側を「外帯」に分けられた。 海洋プレートが沈み込んでいる「沈み込み帯」では、海溝から離れた内陸側に海溝と平行にマグマが上昇して大陸弧(弧状火山帯)ができる。内帯は中生代白亜紀にマグマが上昇した地帯で、外帯はマグマが上昇しなかった地帯である。弧状火山帯は、大陸と大洋の境界に位置し、大陸側に弓形に連なる列島のことを指す。言わば日本列島も弧状火山帯であり、その特徴的な弓形状は、プレートテクトニクスによって形成される。弧状火山帯が弓形になるは、プレートが球面上の湾曲した板であるため、縁は円形(弧状)になる。 弧状火山帯の特徴は、火山の山体と噴火の形式に最もよく表れる。火山は地下のマグマがマントル内から上昇して地表に噴き出したもので、弧状列島上の火山岩は概して二酸化珪素SiO₂に富んでいる。一般にその噴火が激しい爆発型の成層火山が多い。成層火山は、ほぼ同一の火口からの複数回の噴火により、溶岩や火山砕屑物などが積み重なり形成される富士山・岩手山・浅間山のような円錐状の火山で、広大な裾野を持つことが多い。 成層火山では、その噴出物が何層にも積み重なる不安定な山体となり、地震や風雨により山崩れが発生しやすく、噴火の爆発や地震を契機に大規模な「山体崩壊」よって多量の土砂が流れ下る「岩屑なだれ」が起りやすい。 マグマの形成には水が不可欠で海洋プレートが、大陸プレートの下に沈み込む際に供給される水が、岩石の融点を下げ、マグマの形成を補ける。このようなプロセスによって弧状火山帯が出現する。火山帯の海溝側の縁を火山前線と呼び、火山の分布密度は火山前線に沿って最も大きく、大陸側に行くほど小さくなる。もともと内帯と外帯の間にあったはずの岩石は、中央構造線を境に上昇し、その後の地殻変動や風雪により侵食され失われる。 日本列島の誕生 日本列島の「もと」は、新第三紀の2,000万年~1,500万年前頃に、アジア大陸から離れ、太平洋へ向かって移動した。それぞれの海洋プレートの沈み込みで、西南日本は時計まわりに回転、東北日本は反時計まわりに回転し、日本海が背景海盆として拡大し大陸との間が開いた。そのとき、本州中央部は折れ目になって東西に引っ張られて数千mも落ち込み、海底の地層が厚く堆積した。 この本州中央部を南北に横断する、新第三紀以降の地溝帯に火山岩と堆積岩によって埋められた地帯を、ラテン語で「大きな溝」を意味する「フォッサマグナ」 と呼ぶ。地質断面図ではU字型に南北に形成されている。 年代の異なる地層が重なる北部フォッサマグナでは、新第三紀中新世(約2,300万年前~約530万年前)の地層が厚く分布し、複雑な褶曲構造を持つ。 具体的には、北部フォッサマグナ南部に位置する中新世に堆積した地層の一部を構成する内村累層は、早期中新世の堆積岩であり、総厚さは5,000mを超えている。主に玄武岩と流紋岩質の火山岩や火山砕屑岩などからなり、その褶曲された地層が、中新世後期以降の複数の段階で地域的な断層によって分断され、それぞれが異なる小さな特異な地質体をなした。さらに地殻衝突によって複雑に再形成され、それが更新世にまで続く。 また、北部フォッサマグナは、秋田―新潟油田褶曲帯と連続しており、同じ時期に形成されたことを示している。 この地域の深層地下水は、化石海水を起源とするNa-Cl型地下水で代表されている。そのフォッサマグナの深さは、石油採掘のボーリングなどによって明らかにされ、両側の山の地質と同じ地質が底6,000mの深さに横たわっていた。 この新第三紀の変動により、フォッサマグナ地域で中央構造線は、東北日本と西南日本に分かれた。このフォッサマグナの古い海底地層が、U字型の溝が東西に走り、本州中央部から関東地方にかけても縦断している。ただ、東北日本の中央構造線がどこに続いていたのかまでは良く分かっていない。 フォッサマグナは幅広い地帯で、西縁の断層を糸魚川-静岡構造線と呼ぶ。ただ、北部フォッサマグナと南部フォッサマグナは異なる形成過程を辿り、それぞれに地質的特性がある。それにより北部フォッサマグナ地域は被覆層に覆われて基盤は見えないが、関東山地には基盤が露出している。具体的には、関東山地を境に、北側の「北部フォッサマグナ」と南側の「南部フォッサマグナ」に分けられている。 北部フォッサマグナは、新生代新第三紀の2000万年前~1500万年前にかけて日本列島が大陸から離れた時に、本州の折れ目になって東西に引っ張られ、地殻が伸びて数千メートル沈降した地帯である。その地殻変動は終わり、当時の海底に噴いた火山岩や海底に堆積した地層で、北部フォッサマグナの海もすっかり埋まった。数百万年前から現在の地殻変動が始まり、北部フォッサマグナの中にも山地の隆起や盆地の沈降が生じている。北部フォッサマグナを埋めた被覆層がたいへん厚いので、上昇している山地でも侵食により失われずに、山頂まで新しい時代の海底の堆積物で覆われている。 南部フォッサマグナは、1,500万年前頃にフィリピン海プレート上の伊豆‐小笠原列島が、フィリピン海プレートの北上とともに本州側に次々と「多重衝突帯」した。もとは伊豆‐小笠原列島をつくっていた海底火山噴出物や衝突境界の海峡や海溝を埋めた堆積物からなる地質であった。フィリピン海プレートは、新生代に南洋で誕生した若い海洋プレートで、日本列島が大陸から離れるころに、西南日本の沖合まで移動し、やがて西南日本のプレート下へ沈み込み始めた。ただ軽く軟らかい伊豆‐小笠原列島の上部の付加体堆積物は沈み込めずに次々と南部フォッサマグナの上に乗り上げていった。その衝突は櫛形・御坂・丹沢・伊豆半島の順に続いて形成された。丹沢山地は、フィリピン海プレート上にあった当時の伊豆半島が北米プレートへの衝突により大陸側の付加堆積物が隆起して形成された地形と見られている。初期の櫛形や御坂の衝突が始まった年代は、2500万年前や1200万年前という推定があるが、丹沢に関しては、ほぼ600万年前と言われている。伊豆半島は現在も衝突中で、将来は神津島の衝突も想定されている。 現在も、日本列島下には、太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込んでいる。太平洋プレートは古く約13,000年前には、年間10 cm程度の速度で東北日本の下に急速に沈み込んでいる。このプレートの沈み込みにより、東北日本は寒冷な環境になっている。 フィリピン海プレートは比較的若い、約5,000万年前に「マントルプルーム運動」によって西フィリピン海盆が形成を開始し、プレートが拡大し始めた。約2,000万年前に太平洋プレートと接していたプレート北端の古琉球弧の海溝がユーラシア大陸に沈んでいた海溝と衝突し、ユーラシアプレートとの境界に変わった(南海トラフ・琉球海溝)。その速度は年間3-5 cm程度であり、このプレートの沈み込みにより、西南日本の熱構造は比較的温かくなっている。 フィリピン海プレートは、主にフィリピン海を含む領域を占める太平洋の北西部に位置する海洋プレートで、その収束型境界は東は小笠原海溝やマリアナ海溝、北から西にかけては相模トラフ・南海トラフ・琉球海溝・ルソン海溝・フィリピン海溝などがあり、伊豆諸島・小笠原諸島・マリアナ諸島・ヤップ島・パラオなどが島弧として形成され、大東諸島やルソン島の一部がこのプレート上にある。特に本州の中では、伊豆半島だけがフィリピン海プレート上にある。また伊豆半島や伊豆大島からヤップ島まで2,800km以上に及ぶ、世界的にも大規模な火山活動が活発な火山島が多い。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、フィリピン海プレートが北米プレートに沈み込むことにより発生した地震であった。 (「マントルプルーム運動」は、地球のマントル内で発生する大規模な対流運動である。この理論は「プルームテクトニクスplume tectonics」とも呼ばれ、マントル 内で発生する大規模な 対流運動を プルーム plumeと呼ぶ。高温の物質が円柱状に上昇する流れであり、深さ2,900kmに達するマントル全体の動きである。 地震波トモグラフィーで観測すると、マントル内部に上昇流とみられる高温領域と、下降流とみられる低温領域が確認でき、こうした筒状の上下の流れplumeがマントルの対流に相当すると考えられている。) 日本列島の古生代のチャート(堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素SiO2、石英で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片の微化石が海底に堆積してできた岩石)中のウナギのような細長い体のコノドントの「歯」や放散虫などの微細な化石の研究がすすんだ結果、日本列島の地質体の多くが中生代のジュラ紀(約2億130万年前~約1億4500万年前)あることがわかってきた。さらに日本列島の地質帯の多くは、堆積岩や火成岩が複雑に混在した付加体と付加体起源の変成岩から構成され、海溝域の沈み込み帯で形成されたと考えられるようになった。 関東地方北部の日立帯には、時代が未詳な付加堆積物が分布する阿武隈帯の西側に続き、茨城県北部から福島県にかけて広がる地域で、古生代カンブリア系(約5億4200万年前~約4億8830万年前)の白亜紀花崗岩と日立変成岩が分布する。日立変成岩は、茨城県北部の日立市や常陸太田市にかけて分布し、約5億年前のカンブリア紀と石炭紀~ペルム紀の岩石が白亜紀に広域変成を受けた地質体である。日立鉱山などの含銅硫化鉄鉱床を含む。 藍閃石質広域変成作用 足尾山地から八溝山地にかけては、主にチャートや砂岩・泥岩と石灰岩を含むジュラ紀(約2億130万年前~約1億4500万年前)付加体「足尾帯」が分布する。群馬・新潟県境付近、谷川岳周辺から利根川・片品川上流にかけて、新第三紀以降の火山岩などの下位に、蛇紋岩や結晶片岩、変成苦鉄質火成岩などからなる小岩体が分布し、これらをまとめて上越変成帯と呼んでいる。 蛇紋岩は、主に蛇紋石からなる岩石で、変成岩または火成岩中の超塩基性岩に分類される。この岩石は、蛇紋石Mg3Si2O5(OH)4を主要構成鉱物とし、かんらん岩などが水と反応して蛇紋岩化作用(または蛇紋石化作用)によって生成される。 スビライトは、藍閃石質広域変成作用によって形成される岩石である。この現象は、低温で高圧の条件下で進行する変成作用であり、藍閃石を含む緑色変成岩が形成される。 藍閃石質広域変成作用は、特定の物理条件のもとで発生する。藍閃石片岩そのものの化学組成は、他の角閃岩や緑色片岩と大きく変わらない。しかし、藍閃石質広域変成作用を受けた緑色変成岩は、一般的にNa₂Oの含有量が高く、Fe₂O₃:FeOの比率も高いことがわかっている。これは、メタソマティズムmetasomatismと、一部の藍閃石質広域変成域で支配的な高い水蒸気圧によるものと考えられている。 メタソマティズムとは、ギリシャ語のμετά metá「変化」とσῶμα sôma「体」に由来する。熱水やその他の流体による岩石の化学的変化を言う。ここでは岩石が海洋地殻下のマントルにおける流体の影響を受けて化学組成や鉱物組成を変化させる地質学的プロセスを指す。藍閃石質広域変成作用は、熱水活動と密接に関連しており、蛇紋岩や超塩基性岩類の活動とも結びついている。 そのためNa20は,変成岩地域以外の部分から,添 加 されたといわざるを得ない。海水のNa20にその起源 をも とめるよりも、藍閃石質広域変成作用が蛇紋岩ないし,超塩基性岩類の活動 と密接に関係するのであれば、そのNa20は火成活動に伴って地下深所から変成時に添加されたとみなされる。 日本列島のような激しい地殻変動を受けている地域の地下深く、数kmから数十kmで形成された「複変成岩(広域変成岩)」は、安定した鉱物の組み合わせに変化するが、複変成岩は強い圧力を受けるため、褶曲構造や縞模様が目立つ。 上越変成帯は、群馬県の谷川岳から新潟県の南魚沼市付近まで広がっている。この地域には、変成岩や蛇紋岩の小岩体が散在している。これらは、白亜紀や新生代第三紀の花崗岩との接触変成作用によって複変成岩に変化した接触変成岩、または熱変成岩である。マグマの貫入に伴って周囲の岩石がマグマの熱により変成を受けてできるもので、通常は地殻の比較的浅い部分で起こる。上越地方には少なくともジュラ紀から中新世にかけて藍閃石型広域変成帯が存在したと推定されている。 谷川岳が藍閃石型広域変成帯であれば、この地域では、高圧変成作用が起こり、藍閃石やヒスイ輝石などの特徴的な鉱物が形成されている。藍閃石質広域変成作用は、低温で高圧の条件下で進行し、一般的にはNa₂Oの含有量が高く、しかもFe₂O₃:FeOの比率も高い。このような特性は、一部の藍閃石質広域変成域でメタソマティズムと高い水蒸気圧が支配的であることに起因していると考えられている。 谷川岳の地質は、地球の変動と進化を理解する上で実に興味深い。 藍閃石片岩藍閃石型広域変成帯では、玄武岩質の塩基性の岩石が高い圧力(数千気圧以上)と比較的低い温度(200~300℃)の条件下で広域変成作用を受けて生成される。このため谷川岳の藍閃石型広域変成帯に関連して興味深い地質的特徴を持っている。藍閃石型広域変成帯では、高圧変成作用の一形態であり、温度と圧力のうち、相対的に圧力の影響を強く受けて広域変成岩ができる。藍閃石は、珪酸塩鉱物の一種で角閃石の仲間で、化学組成は Na2(Mg3Al2)Si8O22(OH)2、このタイプの変成岩には特徴的な鉱物である。 谷川岳頂上のルーフペンダント(蛇紋岩は後から貫入した花崗岩のため硬い接触変成岩になっている)や中生代ジュラ紀(岩室層)および新生代第四紀(栗沢層)の礫岩には、藍閃片岩または藍閃片岩相地域に特徴的な変成岩が見られることから、上越地方には藍閃石型広域変成帯が存在したと推定されている。 岩室層は、日本の地質学的な層序において、ジュラ紀に堆積した岩石層である。 主に玄武岩溶岩からなり、その下には礫層や湖沼性堆積物(粘土や有機質土層)が分布している。この層は、上越変成帯の特徴であり、藍閃片岩相地域に関連している。 栗沢層は、新生代前期更新世に堆積したと推定される岩石層で、境界断層である白岩断層帯(東北日本に位置する横手盆地東縁断層帯の一部)周辺で露出しており、白岩断層帯と並走している。 栗沢層は、下部ほど大きく変形しており、上部ほど変形が小さくなる様子が観察されている。これは、境界断層が栗沢層の堆積期の前期更新世に活動し、その堆積中に収束したことを示す。 谷川岳の頂上付近からロープウェイ山頂駅につながる天神尾根は、おおむね接触変成作用を受けた火山岩の玄武岩類と変成岩で超塩基性岩の蛇紋岩からなる。蛇紋岩に比べて玄武岩類が多く分布し、山頂に近い部分には、枕状溶岩を思わせる玄武岩も見られる。また、蛇紋岩中には変成作用を受けた結晶片岩(板状の鉱物の雲母や柱状の鉱物の角閃石が含まれるなど)も存在している。接触変成岩は、天然の焼き物のようなもので、変成作用を受ける前の岩石が高温で変質し、新しい鉱物に変わる。 谷川岳の接触変成岩は、全体が赤味を帯びていたり、堆積面が不明瞭な塊状になったりしている。 枕状溶岩とは、海底で噴出したマグマが海水で急激に冷やされ、米俵のような形になった溶岩で、確かに枕が積み重なったような様相を呈していることから、枕状溶岩と呼ばれた。さらにその上に新たな枕状溶岩がが積み重なったような形になる。枕状溶岩の存在は、その時に海が存在した年代を特定出来る「示準化石」になる。現在、最古の枕状溶岩が見つかっているのは始生代(太古代)であり、38億年前には既に海が存在していたということになる。地球ができたのが46億年前である。 生物が生きていた地域の環境を特定出来る化石は「示相化石」と呼ぶ。ホタテ貝の化石は、冷たい海だったと特定できる。サンゴの化石が見つければ、暖かい海、二枚貝の化石が見つかれば、浅い砂底の海、ブナの葉の化石が見つかれば、寒冷地と特定される。 領家変成帯は、中央構造線の内帯側に、関東から九州まで、続く変成岩帯あり、高温低圧型の変成岩が分布している。ただし、紀伊半島西部から西では、中央構造線沿いの内帯側の幅10kmほどは、「和泉層群」が領家変成帯を覆っている。領家変成帯の岩石は、高温低圧型の広域変成岩と、花崗岩などの貫入岩である。 領家変成岩は、ジュラ紀付加体の岩石が、白亜紀に地下10km~15kmで高温低圧型の変成岩になり、のちに地表に露出したものである。砂岩や泥岩が高温低圧型の広域変成を受けたものは、白っぽい部分と黒っぽい部分が縞々になった「片麻岩」になっている。泥質片麻岩には黒雲母が多量に生じ、光が当たるとキラキラと金色に光る。変成度が高くなると、菫青石(きんせいせき)や珪線石(けいせんせき)を含むようになる。 菫青石と珪線石は、どちらも変成岩や火成岩中に見られる鉱物で、菫青石は、青紫色の美しい鉱物で、特にホルンフェルスhornfels(マグマ貫入による熱で起こる変成作用で形成される変成岩)や片麻岩中に見られる。高温低圧の条件下で形成されることが多く、宝石としても利用されることがある。 珪線石は、白色や淡黄色の鉱物で、片麻岩やスカルンskarn(石灰岩や苦灰岩などの炭酸塩岩の中や近くにマグマが貫入してきた際にできる接触変成岩)、花崗岩ペグマタイト中に産出する。ペグマタイトpegmatiteとは鉱物結晶が特に大粒になった火成岩の総称である。花崗岩ペグマタイトは巨晶花崗岩とも呼ばれる。主に花崗岩質であるが、閃緑岩質や斑れい岩質のものもある。 ペグマタイトは、マグマがゆっくりと冷却される過程で形成され、非常に大きな鉱物結晶を含むことが特徴である。珪線石は、藍晶石や紅柱石と同じアルミニウムのケイ酸塩鉱物で、同じ化学組成を持ち、圧力や温度によって異なる結晶構造を持つ同質異像の鉱物である。 中央構造線を挟んで南側の外帯には三波川変成帯(さんばがわへんせいたい)がある。日本最大の広域変成帯で、低温高圧型の変成岩が分布しており、群馬県藤岡市の三波川に由来している。領家変成帯(りょうけへんせいたい)は、中央構造線の内帯に接する変成岩帯で、高温低圧型の変成岩が分布している。中央構造線を挟んで外帯の三波川変成帯と接している。この変成帯では、ジュラ紀に大陸縁の海溝で付加された付加体が、白亜紀に発生した古期領家花崗岩マグマの大規模な上昇による熱で片麻岩へ変成している。領家変成帯と三波川変成帯は、同じジュラ紀の付加体で、しかも白亜紀にそれぞれ異なる変成を受けた対の変成帯である。領家変成帯は、古期領家花崗岩の大規模な上昇による熱で片麻岩へ変成したもので、三波川変成帯とは同じジュラ紀の付加体であるが、異なる変成を受けている。三波川変成帯の岩石は、板を重ねたような「結晶片岩」類で、ジュラ紀の付加体の岩石が、白亜紀にさらに地下15~30kmの深部まで引きずり込まれて低温高圧変成を受けて変成岩になり、のちに地表に露出したものである。 関東山地には、北側から三波川帯・秩父帯・四万十帯に相当する地層が分布し、西南日本の地質体配列の連続が認められる。能登半島全域を含む飛騨帯は、かつてアジア大陸の一部を構成していた花崗岩や花崗岩質の変成岩からなる大陸性の地塊であるが、飛騨外縁帯から南の地層は、アジア大陸の縁にできた付加体起源とそれに由来する変成帯から構成される。そのため大陸側から太平洋側に向かうにつれ年代が若くなる傾向がある。北部の筑波山地には花崗岩と変成岩の小岩体があり、領家帯に相当すると考えられている。 丹沢山地には、新第三紀の丹沢層群中に同じ新第三紀の中新世(約2,303万年前~約533万年前)の深成岩が貫入し、その周囲に丹沢変成岩が分布する。これらの岩石は、約500万年前に丹沢山地の深部でマグマの熱と圧力によって形成された結晶片岩である。角閃岩・含ざくろ石角閃片岩・緑泥石緑色片岩などいくつかのタイプがある。丹沢山地は、大平洋プレート上の火山島が日本列島に衝突したことによってできたものであり、その火山島深部のマグマの熱と圧力による変成作用によって丹沢変成岩が形成された。 関東山地は、基盤岩が広く露出しており、北側から三波川帯・秩父帯・四万十帯と区分されている。いずれも、日本列島の地質を形成する主要な地質体である。 三波川帯(さんばがわたい)は、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて形成された変成岩からなる。この帯は関東山地から一旦フォッサマグナによって寸断され、長野県諏訪湖南方の上伊那地域で再び現れ、天竜川中流域や小渋川を経て紀伊半島、四国、九州の佐賀関に至る全長約1,000kmに及ぶ。この中央構造線は、関東山地の北縁の下仁田から武蔵嵐山に至る地域で見られる。この関東平野の下にも西南日本の基盤が続いていることが、深さ3,000mに達するボーリングで明らかになっている。 秩父帯はジュラ紀の付加体からなり、関東山地の西部に位置している。この帯は、地下から上がってきたマグマが冷えてできた深成岩の一種である「甲府深成岩体」で構成されている。 四万十帯は白亜紀と新生代古第三紀の付加体からなり、関東山地の北部に分布している。 火山性陥没盆地群 新生代におけるフォッサマグナ地域の隆起は中期中新世末からはじまり、後期中新世には全般的隆起が進行していた。この時期、隆起中軸部付近で激しい火山活動が集中し、多数の火山性陥没盆地群が形成されている。 火山性陥没盆地は、一次的な配列とそれに雁行する二次的な配列が斜交する。これらの盆地は、鉛直方向(糸の先に重りを垂らしたときの、糸の方向)からの地殻の突き上げによる溶融体の上昇による引張場で深部断裂が生じた。 隆起中軸部では、中新世の花崗岩活動や後期中新世の火山性陥没盆地の発生が観察され、現在も地下深部で「火山-深成作用高温帯」が存在している。「火山-深成作用高温帯」では、断層運動で壊れることなく変形してできた岩石が存在する。この岩石は断層岩の一種であり、マグマの活動に伴って多様な鉱床が形成され、地温勾配が著しく高まり、地熱地帯や温泉地帯が生成された。地震データからも、隆起中軸部の地下には溶融体が存在し、深度30~50 kmまたは20~60 kmに低速度層が観察されている。その火山性陥没盆地群により、部分溶融と膨張にともなって深部断裂が起こり、その深部断裂に沿うマグマ群の上昇によりマントル融体の上昇が生じ隆起したと考えられている。 地質時代を通じてみると、日本には非常に多くの場所で火山活動が活発であった。しかし、現在活動中の火山は限られており、しかもその分布は偏っている。また、既に侵食されて山体でないものも多い。その場合、山体の地下にあったマグマだまりが地表に現れ、花崗岩や閃緑岩などの深成岩が露出していれば、多くの場合、かつてはその上に火山があったことの証明となる。 火山は地下のマグマが地表に噴出することによって形成される。マグマはマントルの一部が溶けて発生すると考えられている。しかし、マグマは地下深くにどこにでも存在するわけではなく、むしろマグマの存在すること自体が例外である。それは、通常のマントルは固体として安定であり、何らかの理由がない限り溶けないからである。 フォッサマグナ海の場合、火山性陥没盆地群により、部分溶融とその膨張にともなって深部断裂が起こり、その深部断裂によりマグマ群の上昇によるマントル溶融体の上昇が生じ隆起した。マグマの発生にはフォッサマグナ海の水が大きな役割を果たしていると考えられている。深部断裂に沿うマグマ群の上昇による溶融体の上昇による高温状態と、フォッサマグナ海によって断層下のマントルにもたらされる水の存在である。 海底の水は対流するため常に冷えている。その周りのマントルも冷やされ引きずり込まれる。それを補うために、下部からより高温で流動性のあるマントル (アセノスフェア) が上昇し、全体として対流を発生する。こうして、冷たい海水の沈み込みにより熱いアセノスフェアが上昇するという現象が起きる。また、水はマントルの岩石の溶融点を下げる効果がある。海底深くの冷たい水や鉱物の構造の中に含まれる結晶水が、高温・高圧下の鉱物を分解したりする。水は岩石よりも軽いため、海洋プレートの上位のマントル (マントルウェッジ) に移動する。こうして火山性陥没盆地群の海底のマントルは、溶けやすくなる。 フォッサマグナの西縁の断層を糸魚川‐静岡構造線と呼ぶ。東の縁は柏崎市から関東平野の地下の千葉付近を結ぶあたりにあると推定されているが、浅間山の火山岩や堆積物が関東平野を埋めているため東縁の正確な位置はまだよく分かっていない。 浅間山と前橋泥流堆積物 浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町と御代田町から群馬県吾妻郡嬬恋村にまたがる安山岩質の標高2,568mの成層火山である。浅間山は数10万年前から活動を始め、噴火と山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。大規模な山体崩壊による土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残している。 (吾妻郡は、『日本書紀』によれば、日本武尊が東征した際にこの地を平定したことで知られている。その『日本書紀』によると東征の凱旋後、都に戻る途上、日本武尊が、この地で亡き妻の弟橘媛【おとたちばなひめ】を偲び「吾嬬はや」と3度嘆いたとされる。) この浅間山堆積物は「前橋泥流堆積物」と呼ばれ、火山岩塊と火山性の砂泥が混ざった不均質な「未固結堆積物」であり、今から更新世末の約2万7千年前の最終氷期に、浅間山の形成初期に存在した黒斑火山の崩壊によりもたらされたことが、前橋市街の中心部にある巨石の天然記念物「岩神の飛石」の地表部から採取した試料の崩壊によって生成される放射起源のストロンチウムSrの同位体比と、巨石を運んだとみられる前橋泥流の堆積物から採取した木片試料の14C年代を予察的検討した結果、明らかになってきた。前橋泥流は200km2以上の範囲を10~15mの厚さで覆い、流下してきた全量は3km3を超えていたと推定されている。 黒斑火山の崩壊により、南北両山麓は広範な岩屑流堆積物で覆われた。この山体崩壊堆積物は、南西麓では塚原岩屑流堆積物、南東麓では塩沢岩屑流堆積物、北麓では応桑岩屑流堆積物(おうそうがんせつたいせきぶつ)と呼ばれている。さらに吾妻川を流下し、関東平野に達した泥流も前橋泥流堆積物として知られている。火山活動の終了は約2万1千年前になる。 火山体や山体斜面の崩壊物が関東平野に広がり、前橋市や高崎市の台地を形成し、地域の地形を大規模に改変した。この堆積物は、関東平野北西部の前橋台地を形成している地下地質の一部である。 前橋泥流堆積物は、扇状地性の前橋礫層を覆って堆積し、平均層厚は10~15mになる。その層上に厚3m前後~5m弱の「褐色火山灰質シルト層」が堆積している。 「褐色火山灰質シルト層」は、赤褐色または黄褐色の火山灰土壌で、関東地方の台地や丘陵を広く覆う「関東ローム層」がその一例となる。 「前橋泥炭層」は、群馬県南部に分布しており、約1万1千年前に井野川泥流が浅間山東麓から流れて形成された堆積物である。群馬県の井野川は、群馬県高崎市を流れる利根川水系烏川支流の一級河川で、この泥流によって、関東平野北西部に高崎台地(高崎面)と井野川低地帯(井野面)という2つの地形面が形成された。高崎台地は烏川の左岸側に分布し、高崎市街地が位置し前橋泥流堆積物の上位にある。一方、井野川低地帯は高崎台地と東の前橋台地に挟まれて分布し、両段丘面の間には比高数mの段丘崖が存在し、井野川低地帯は基本的に井野川泥流堆積物であることが明らかになっている。また、前橋泥炭層は前橋市総社町でも産出されており、その年代は約1万6千年前~1万5千年前と推定されている。 前橋泥炭層は、灰色または暗灰色の火山灰質の粘土と中粒から粗粒の砂が交互に層をなしている。平均層厚は約10〜15mになる。 浅間山の外輪山は三重に構成されている。黒斑山(くろふやま)は最も外側の第一外輪山の一座で、その中では最高峰(標高2,404m)である。黒斑山は浅間山の前身の火山とされ、約10万年前から活動が始まったと考えられている。最盛期には標高2,800mから2,900mほどの成層火山に成長したが、約2万3,000年から2万4,300年前にプリニー式噴火に伴って大規模な山体崩壊が生じ、馬蹄形カルデラを形成した。その活動が始まったのは約10万年前で、形成後、約23,000年前に大きく崩壊した。有史以降の活動はすべて山頂噴火で、それもブルカノ式噴火Vulcanian eruptionの特徴を示す。主に安山岩質マグマを噴出する火山で、爆発的な噴火を伴い火山灰や火山弾などを噴出し、粘り気の強い溶岩を流出する。日本では、浅間山・阿蘇山・桜島などの噴火がこれに該当する。構成岩石のSiO₂量は53.5~74.0wt.%である。 目次へ |
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2)富士山周辺の地層体 南部フォッサマグナは、富士山を取り囲むように分布する地域で、日本列島と伊豆・小笠原諸島が衝突する領域にあり、伊豆衝突帯とも呼ばれる。フィリピン海プレートの表層部は主に相対的に重たい海洋地殻からなるが、その東端部の伊豆・小笠原諸島は日本列島と同じく軽い島弧地殻であるため沈み込みにくい。このため、日本列島に対して北北西方向へ凸状に押し込む強い変形を及ぼし、伊豆・小笠原諸島の火山岩と周辺の深海堆積物、その境界付近に発達する凹地(トラフ)に堆積した地層などを日本列島に押しつけながら沈み込む。 南部フォッサマグナ地域では、それら付加された地層・岩体が、逆断層・褶曲によって変形し複雑に織り込まれている。なお、南部フォッサマグナは、明治時代から北部フォッサマグナと合わせて、「フォッサマグナ」と呼ばれているが、成り立ちが異なることから、一括することに地質学的な意義はない。 富士火山を囲む山域は、甲府盆地-巨摩山地、富士川谷などとともに、地質学的には南部フォッサマグナと呼ばれている。富士山はその中央に広い面積を占めて聳えている。 富士山の西方に位置する身延地域には、日本列島を分断する糸魚川−静岡構造線がその中央を南北に走っており、これを境に西側は地質学的に四万十帯、東側は南部フォッサマグナと呼ばれる。西側の四万十帯地域は、中生代白亜紀~新生代新第三紀前期中新世(1億数千万年前~約1,500万年前)にアジア大陸東縁部の沈み込み帯で形成された付加堆積物で主に形成されている。 東側の南部フォッサマグナ地域は、中期中新世(約1,500万年前)から現在まで、日本列島と、フィリピン海プレートの東縁部に位置する伊豆・小笠原諸島との衝突帯で形成された付加堆積物からなる。 身延西側の四万十帯 西側の四万十帯と呼ばれる地域には、白亜紀~前期中新世(1億数千万年前~約1,500万年前)のユーラシアプレートの東縁で、海洋プレートが沈み込む際に形成された付加体や、それを不整合に覆う前弧堆積盆や海溝充填堆積物が広く分布し、まだ日本列島が概形もなくアジア大陸の東縁であった時代の地層・岩体の形成過程の記録をとどめている。 四万十層群(四万十累層)と呼ばれるのも、日本列島の中生代白亜紀から古第三紀にかけて形成された地層で、房総半島から関東山地・赤石山脈・紀伊山地・四国山地南部・九州山地南部を経て沖縄本島まで約1,800 kmにわたって帯状に分布し、この地質帯には、砂岩・泥岩・チャート・玄武岩・斑レイ岩などが複雑に重なり合った累層であるからである。さらに海底地すべりの痕跡や変成作用を受けた地層も挟まれている。 四万十層群は、地質学的には西南日本外帯に属し、その形成は海洋地殻とその上に堆積した砂や泥が海溝に沈み込む際に多数の地塊に分割され、傾斜しながら地上に押し上げられて露出した。衝上断層は、地質学研究では重要な現象で、上位の地層が下位の地層に対して緩い角度でずり上がった断層を指し、具体的には、断層面が45度以下の逆断層を指し、低角逆断層とも呼ばれる。低角逆断層では、上盤(上側の岩石ブロック)が下盤(下側の岩石ブロック)に対して相対的にずり上がる変位を示し、或いは古い地層が新しい地層の上に重なたりする。 延岡衝上断層は、九州の四万十帯を北西側の白亜紀付加複合体と南東側の古第三紀付加加複合体(一部は新第三紀に及ぶ)に分けられる大規模な衝上断層になっている。この断層は、北西側の古い白亜系が南東側の若い地層の上に衝上している特徴を持つ。 この地質帯は沈み込みプレート境界の現象を理解する上で明解でしかも重要であり、加えて四万十層群は、放散虫や有孔虫の微化石研究、古地磁気学などによって年代が特定されている。 (考古地磁気年代推定法は、試料の残留磁化を測定し、過去の地磁気の変化と比較して年代を推定する。この年代推定法では、比較の為の過去の地磁気の詳細な変化を確定しておくことが基本で、それには考古学との連携が不可欠とされる。日本では長年、考古学研究者と共同で研究が進められ、過去2千年間の詳細な古地磁気変化がデータ化され、年代推定も高い精度で可能となっている。 各種の年代研究法の中で考古地磁気年代推定法は、対象となる遺物が広範囲で、しかも遺物そのものの年代を扱える。火山噴火によって生成される火山灰や溶岩流には磁性鉱物が含まれている。これらの残留磁化を測定し、火山活動の時期を特定できる。その精力的な研究により、詳細な古地磁気経年変化が求められているのは、諸外国ではあまり無い。) 身延東側の南部フォッサマグナと呼ばれる地域は、日本列島の土台がアジア大陸から完全に分離して日本海ができた中期中新世(約1,500万年前)から現在にかけての地層の歴史を記録している。しかもフィリピン海プレート東縁部の伊豆・小笠原諸島が日本列島に沈み込んだいわゆる伊豆衝突帯にあたる。 衝突帯では、伊豆・小笠原諸島地域の海底で噴出した火山岩とその周辺の深海堆積物とともに、概ねプレート境界に一致する日本列島と衝突する境界に発達した凹地(トラフ)を埋めるトラフ堆積物が剥ぎ取られ、日本列島に押しつける圧力による断層と褶曲により複雑に変形した付加体を形成した。 目次へ 身延の南部フォッサマグナ地域 身延南部フォッサマグナ地域には、新生代新第三紀中新世1,600~鮮新世末期の260万年前頃に形成された、現在の伊豆・小笠原諸島に分布する海底火山岩や深海堆積物、現在の駿河湾の北部に分布するトラフ堆積物に相当する地層・岩体が、複雑な褶曲により変形した断層に挟まれて分布する。この地域には、過去3つの年代に形成されたトラフ堆積物が分布しており、それらが陸化した年代である1,200万年前、800万年前、260万前年頃に、新たなトラフがプレート境界と一緒により本州弧に移動し、それまで堆積したトラフ堆積物が海底火山や深海堆積物とともに日本列島に押しつけられた地殻変動を読み取ることができる。 糸魚川-静岡構造線は、糸魚川市から静岡市に達する総延長約250 kmの大規模な南北方向の断層帯で、地域ごとに特異な活動史が認められている。身延地域は中生代1億数千万年前以降のプレート境界の沈み込み帯における大地の変遷を凝縮して記録している地域である。また、現在も南海トラフの東端が上陸する沈み込み帯に属する活動的な地域でもある。 身延断層という、西側が数km以上隆起した逆断層がある。260万年前頃、現在の丹沢山地が日本列島に押しつけられ、身延地域を含め南部フォッサマグナの多くの地域は陸化して山地となり、新たに南側の伊豆半島ブロックとの衝突境界付近に相模トラフと駿河トラフが形成された。曙断層と身延断層は、その時期に形成された断層である。 身延地域は中生代白亜紀の1億数千万年前以降のプレート境界の沈み込み帯における大地の変遷を凝縮して記録している地域であるとともに、現在も南海トラフの東端が上陸する沈み込み帯に属する活動的な地域である。身延山自体は、約1,000万年~700万年前の中新世に噴出した南方の伊豆・小笠原諸島の海底火山体が北へ移動し、260万年前の鮮新世末期以降に剥ぎ取られ日本列島に押しつけられ、身延断層の西側隆起の変位によって山地となった地塊である。曙断層は、活断層である糸魚川-静岡構造線断層帯南部(白州-富士見山)区間の一部でもある。また、身延断層の南部も活断層とされている。 身延地域を含む山梨県南西部から静岡県に至る糸魚川–静岡構造線は、四万十帯地域と南部フォッサマグナ地域との境界でもあり、約1,500万年前中新世に伊豆・小笠原諸島(伊豆-小笠原弧)が日本列島(本州弧)に衝突した際の境界にあたる西傾斜の逆断層である。曙断層や身延断層には、西側が数km以上隆起した逆断層がある。 身延山は、約1,000万年~700万年前頃中新世に噴出した南方の伊豆・小笠原諸島の海底火山体が、北へ移動し260万年前鮮新世末期以降に剥ぎ取られ日本列島に押しつけられ、身延断層の西側隆起の変位によって山地となった地塊である。 四万十帯は、房総半島南部から、関東山地・赤石山脈・紀伊半島・四国南部・九州南部・南西諸島にかけて分布する、主に白亜紀~前期中新世(約1億数千万年前~約1,500万年前)に形成された付加体と前弧堆積盆~海溝充填堆積物からなる四万十累層群が分布する地域である。 目次へ 巨摩山地 巨摩山地は、山梨県西部を南北方向に連なる山地である。赤石山脈の東北部に位置し、その前山で富士川の支流である早川の谷で主脈と分かれている。東側は断層崖で甲府盆地に接し 、富士川水系の一級河川の御勅使川(みだいがわ)などによる扇状地が発達している。糸静線によって四万十帯とは異なる地質を持っている。 四万十帯は仏像構造線と南海トラフとの間の地域にあるため、フィリピン海プレート方向からの力を受け圧縮の場となっている。このため、地層は圧縮力による変形作用を受け、レンズ状のレキを含む形態の岩石が形成されている(「メランジェMélange」呼ばれる)。 メランジェは、比較的変質していない物質が、レンズ状塊の細粒となって圧砕され、部分的に再結晶した岩石である。四万十層群の地層では、数mm以下の火山灰と角のとれ軽石などの白い岩片がレンズ状に引き伸ばされているのが特徴で、火山から噴出した火砕流堆積物は、堆積後も数100℃と高温の状態がしばらく続き、その熱により、火砕流堆積物に含まれる軽石などの礫岩が固まりきらないまま堆積し、その上に積もる地層の重みで押しつぶされることで、レンズ状の岩片を含む溶結凝灰岩となる。 仏像構造線は中央構造線の南側に位置し、中央構造線とほぼ平行に九州から関東地方まで分布している。地層の方向が場所によって異なり曲線状になる褶曲構造や、断層がしばしば認められるのも四万十帯の地層の特徴と相似している。 巨摩山地の方は、南部フォッサマグナの一部で、この山地は南北に約35km、東西方向に最大幅で約15kmの紡錘形をしており、櫛形山(標高2,052m)が最高峰である。櫛形山は新第三紀中新世に噴出した火山岩で構成されている。櫛形山の東麓には、南北走向の狭長な凹地帯や、階段状の斜面がみられる。 地質学的には、新第三紀中新世に噴出した玄武岩質の岩石と、中新世後期に堆積した泥岩が主で、玄武岩質の櫛形山亜層群は、海底火山の噴出物と考えられている。 桃の木亜層群は山梨県南西部の巨摩山地西部に位置し、南部フォッサマグナ北西端に属する。 桃の木亜層群は、主に火山岩からなる櫛形山ブロックの衝突・付加に伴うトラフ充填堆積物と推定されている礫岩主体であるが、泥岩層も分布しており、海溝斜面に堆積したものと思われる。 櫛形山ブロックは安山岩〜玄武岩質の溶岩および火山砕屑岩を主とした櫛形山亜層群と、その上位に累重し、ほとんど砕屑岩類で構成される桃の木亜層群からなり、木亜層群がトラフ充填堆積物と考えられている。桃の木亜層群の層序や構造は複雑で、礫岩主体の上部層、砂岩泥岩互層・泥岩からなる中部層と、砂岩泥岩互層・礫岩からなる下部層に区分されるようだ。 (伊豆衝突帯で最初に衝突したとされる「櫛形山ブロック」に着目して地質調査を行い、衝突に伴い海溝に充填していた「トラフ充填堆積物 」が桃の木亜層群の後背地となった考え、その堆積年代を測定することが試みられた。年代測定は国立科学博物館つくば研究施設で行われた。桃の木亜層群下部層の堆積年代は新第三紀中新世1,500~1,350万年前よりもかなり古い古第三紀漸新世 2,350万年前をも含むことが明らかになった。伊豆弧の衝突開始は少なくとも中新世の1,460 万年前以降に出逢ったようだ。) 伊豆弧は太平洋プレートによるフィリピン海プレートに対する沈み込みに関連した火成活動で形成されたため、伊豆弧が本州弧に衝突を開始した年代やその後の動向すべてが、その時代のプレートの配置によって制御されっている。 ジルコンZrSiO4は岩石中に普遍的に含まれる副成分鉱物である。ジルコンZrSiO4に頼るU-Pb年代測定は、地質学や考古学などで広く用いられている。そのジルコンZrSiO4のU-Pb年代測定法は、ウランの原子核壊変による鉛同位体成長を利用し、物質に高エネルギーの電子線を照射することで、ジルコン内のウランから鉛への壊変、つまりジルコン内のウランと鉛の比率を測定し、その比率から年代を算出する。 つまりU-Pb(ウラン・鉛)年代測定法は、天然に存在する放射性物質の一つであるウランUの原子核が崩壊して、最終的に鉛 Pbの原子核に変化することを利用する手法である。地球の年齢がおおよそ45億歳であると人類が知ったのも、このウラン・鉛年代測定法の理論が確立されたからに他ならない。地球の年齢は今でも放射年代測定によって求められている。この方法は、岩石中の放射性同位体の量を調べることで行われる。具体的には、U-Pb法以外に、カリウム-アルゴン法(K-Ar法)、ルビジウム-ストロンチウム法(Rb-Sr法)などが用いられる。 ジルコンZrSiO4には、 U-Pb 局所年代分析法の特徴からくる利点がある。この手法で用いられるウランの同位体は、ウラン 238(238U:半減期約 45 億年)とウラン 235(235U:半減期約 7 億年)の二種類であり、それぞれが放射壊変をくり返して、最後に、それぞれ鉛 206(206Pb)と鉛 207(207Pb)という同じ元素の同位体になって安定する。これらのウランが、独立して時を刻む二つの時計を持つということにより、ウランを含む鉱物が結晶化した後、現在に至るまで元素移動のない理想状態を保ち続けていれば、結晶化の年代を示す二つの時計は全く同じ時刻を示す。このデータの信頼性は高い。 またジルコンZrSiO4という鉱物はダイアモンドのイミテーションにも使われるほど硬く、しかも熱にも機械的摩耗や化学的変質作用にも強靱な鉱物であるため、結晶化した時の年代を具体的に同位対比で確実に刻む。短期間であれば 900℃の高温下でも年代がリセットされないという。 ジルコン中のジルコニウムZrは、8配位4価のジルコニウムイオンZr4+として珪酸イオンSiO42-と結合しているが、天然に産するジルコンには、これらの一部は様々な元素によって置き換えられていることが普通にある。特にジルコニウムに近い化学的性質を持つハフニウムHf(チタン族元素の一つ、レアメタル。主な用途は、原子炉の制御棒・合金材料・紫外域用の薄膜材料など。)は、花崗岩などに含まれている。 通常のジルコンでも数 wt%に達する濃度で含まれている。50%以上のジルコニウムをハフニウムに置き換えた鉱物はハフノンHafnon(HfSiO4という組成を持つ正方晶系のケイ酸塩鉱物)と呼ばれ、天然に産する大半のジルコンは、主要成分end memberのジルコンとハフノンの固溶体と言う。 ウランやトリウムといった放射性元素も4価のイオン(U4+、Th4+)となって、ジルコン中のZr4+と置き換わって含まれる。 花崗岩などに含まれている通常のジルコンでは、ウラン・トリウムはそれぞれppm程度の濃度である。これが放射壊変して最後に鉛になるので、ジルコン中のウランの同位体と鉛の同位体の比を測定することでその結晶化年代が測定できる。もし最初から鉛を含んでいたらその補正は難しいが、ジルコンの結晶には二価の陽イオンを含む余地がないので、初期鉛は無視できるほどしか含まれないと言う。 伊豆衝突帯で最初に衝突したとされる櫛形山ブロックに着目して地質調査を行い、その地質が海溝を充填していた「トラフ充填堆積物」だったと考えられている。その地質を構成する桃の木亜層群の堆積年代と後背地を、薄片観察とジルコンU-Pb年代測定で解明しつつある。桃の木亜層群の試料は、貫入岩の影響が比較的少ないと考えられる丸山林道および仙城沢から採取し、筑波研究施設・国立科学博物館でジルコンU-Pb年代測定が行われた。 櫛形山ブロックは、安山岩から玄武岩質の溶岩および火山砕屑岩を主とした櫛形山亜層群と、その上位に累重する、ほとんど砕屑岩類(さいせつがんるい)からなるトラフ充填堆積物で構成される「桃の木亜層群」からなる。桃の木亜層群は、層序や構造が複雑であるが、礫岩主体の上部層、砂岩泥岩互層(主に泥岩)からなる中部層、砂岩泥岩互層(主に礫岩)からなる下部層とほぼ解析された。 桃の木亜層群下部層に挟在する凝灰岩中のジルコンU-Pb年代は約23,500万年前に集中していた。下部層の砂岩中のジルコンからは、約2,000~230,000万年前に及ぶ広範囲の年代が得られた。 桃の木亜層群下部層の砂岩が示したジルコンU-Pb年代頻度分布が示した約2,000~230,000万年前に及ぶ広範囲の年代は、西南日本に分布するジュラ紀〜白亜紀付加体のジルコン年代頻度分布と類似しており、後背地は本州弧の付加体であったことを示す。若い年代を示したジルコン粒子が極めて少数であったことや、薄片に火山岩片がほとんど存在しなかったことから、下部層堆積時には伊豆弧の影響がほとんど及んでなかったことを示す。中部層も同様の傾向を示唆していた。 上部層の礫種は大部分が堆積岩であったため伊豆弧の影響は小さいと考えられる。これらを統合すると、伊豆弧の衝突は少なくとも1,460万年前以降ようだ。桃の木亜層群の堆積年代は微化石層序や貫入岩の冷却年代に基づいて1,500~1,350万年前とされた。この分析した下部層中の凝灰岩は岩石や地層の産状から降下火山灰と考えられるため、下部層の一部は2,350万年前に堆積した層準を含むと考えられる。一方で中部層の砂岩の堆積年代は約1,460万年前と推定されるため、下部層と中部層が一連とすると、日本海拡大をはさむ900万年間堆積を続けたことになる。その場合の平均堆積速度は10 cm/kyのオーダーとなり、それにしては、トラフ充填堆積物としての量が少ない。桃の木亜層群はその内部にこれまで未確認の不連続な存在が潜んでいるようだ。 桃の木亜層群下部層の堆積年代は1,500万年~1,350万年前よりも古い2,350万年前を含むことが明らかになり、伊豆弧の衝突開始は少なくとも1,460万年前以降出逢ったと考えられる。今後桃の木亜層群やより上位の層準について詳細な地質調査・分析を行うことで、伊豆弧衝突の変遷がより明らかになると期待されている。 フォッサ・マグナ周辺には、新第三紀中新世から鮮新世にかけての火山活動に由来する厚い地層がある。この地域では、海進が始まり、膨大な火山性物質が堆積した。中期中新世末ごろになると、フォッサマグナ各地では隆起の傾向が目立つようになり、後期中新世には全般的隆起が進行していたようだ。この時期、主に 約800万年前 ~ 5 万年前にかけては、フォッサマグナ各地において花崗岩類の貫入がみられ、この深成岩の活動が隆起現象に深く関わっていたと考えられている。 島弧に誘発される陥没盆地の発生には、マントル内で形成されたマントル溶融体の上昇による隆起が強く関与している。中新世の火山性陥没盆地についても、その隆起軸部には、後期中新世になるとフォッサマグナ各地における多くの陥没盆地が発生し全般的な隆起に繋がった。 フィリピン海プレートの沈みこみがはじまって伊豆半島をのせたプレートが本州側のプレートに衝突したための水平方向の圧縮力によると言う主張、いわゆるプレート論的な見方もあるが、後期中新世の列島各地における火山性陥没盆地群の形成様式や盆地の規則的な配列、その時期の花崗岩などの深成岩類の貫入や火山活動など、地表部にみられるさまざまな共通する地質現象は、マントル上部から地殻下部における部分溶融と膨張にともなって深部断裂が起こり、溶融体の上昇と深部断裂に沿うマグマ群の上昇によって隆起が生じ、火山性陥没盆地群の発生を大きく誘発したと見る方が、より合理的な説明ができる。 丹沢・御坂-富士川・甲府-巨摩・五日市・比企-小川・秩父・富岡・草津・湯沢などの堆積盆地には火砕岩類や礫岩・砂岩・泥岩などの海成層が堆積し、中期中新世の 約1,6 00万年前なると、フォッサマグナ全域をはじめ山陰や東北地方の日本海側では急激な沈降と海進をともなって海域が大きく拡大した。 それが中期中新世の後期から約500万年前の末期になると、埼玉県秩父市にある秩父盆地や、関東山地東南部に位置する東京都青梅市・八王子市・西多摩郡日の出町・五日市町・檜原村・奥多摩町に広く展開する五日市盆地のように、それまで海域であったフォッサマグナの各地は陸化への一途をたどった。五日市盆地は、陥没によって始まり、さらに中期から後期中新世に新しい堆積盆地が発生し、後期中新世から前期鮮新世には摺曲が形成された。地域の中央部から東部にかけた河川沿いの地層は、第四紀後半の完新世に堆積したもので、現在の河川によってつくられた本市では一番新しい河川の沖積低地となっている。後期中新世には丹沢地域の一部を除いて、広い地域が隆起と削剥の場となった。 (五日市盆地は、断層によって形成され、新第三紀の地層で覆われている。関東山地から流れ出した砂岩・泥岩・チャート・頁岩・閃緑岩などからなるる砂礫がこの地域に供給されている。秋川と平井川が盆地の東側を流れており、その水中で堆積した頁岩の中から化石が見つかっている。) 前述したように前~中期中新世には関東山地から北関東にかけての地域には、新第三系を基盤として多数の堆積盆地が形成され海域が広がった。堆積盆地の堆積中心の移動方向は南北に延びる隆起軸部付近を境にして、その東側と西側でやや対照的な動きを示している。つまり堆積中心の移動方向は、西側では北西~北方ないし南方へ、東側では東南東ないし北東方へ移動している。 堆積盆地の形成時には中軸部付近で隆起が生じ、隆起軸部をはさんでその側方に向かって堆積中心が移動したものと考えられる。中期中新世には海域は大きく拡大したが、中期中新世末になるとこれらの地域は隆起し、それにともなって離水をはじめた。後期中新世の前半にはこの傾向はより顕著となった。 広域的離水域の拡大に引き続く全般的隆起の時期には、隆起軸部で激しい陸上の火山活動が生じ、多数の火山性陥没盆地が形成されている。例えば,山梨県甲府盆地北方の三富陥没盆地、その西方の太良ケ峠地域の陥没盆地などが、新第三紀鮮新世に入ると、河川による河成堆積物が主となり、火山活動も盛んになった。軽石層は、近隣の火山から供給されたものと考えられている。 この南部フォッサマグナ地域はその北側の関東山地と西側の赤石山地で四万十帯の堆積岩(中生代白亜紀~新生代古第三紀)と接している。関東山地との間には藤野木-愛川構造線が、赤石山地との間には糸魚川-静岡構造線が走る。この地帯の太平洋側には南海トラフから駿河トラフが伊豆半島に近づくと北へ湾曲して入り込んでいる。この南部フォッサマグナを満たす地層は主に新生代新第三紀の地層で、それより古い地層は露出していない。 このように南部フォッサマグナ地域は、西南日本外帯(四万十帯)のさらに外側(太平洋側)に位置している新生代後期の堆積地帯である。しかし、一方ではこの南部フォッサマグナ地域は、中新世の初期から東日本島弧系の火山活動の場であった。その 火山活動は第四紀まで引き続き、富士火山からさらに南へ伊豆半島を経て伊豆・小笠原弧の島々に続く。このように富士火山の基盤地域は、西南日本弧の外帯の上に東北日本-伊豆・小笠原弧の火山帯が重なっている地域である。 富士山を中心に取り囲む一帯は、日本列島と伊豆・小笠原諸島が衝突する領域にあたり、伊豆衝突帯とも呼ばれる。フィリピン海プレートは、相対的に重たい海洋地殻からなるが、その東端部の伊豆・小笠原諸島の表層部は日本列島(弧状列島)と同じく軽い島弧地殻であるため沈み込みにくい。 ユーラシアプレート上の日本列島に対して、フィリピン海プレートが北北西方向へ沈み込む力が強いため変形を及ぼした。伊豆・小笠原諸島の火山岩と周辺の深海堆積物、その境界に発達した相模トラフに堆積した地層などを、日本列島に押し込みながら沈み込んだ。フィリピン海プレートの厚さは、海洋地域での表面波分析により、平均して約30-40 kmとされている。ただし、場所によって厚さは異なる。フィリピン海プレートの岩盤がすべて沈み込むことが不可能であれば、南部フォッサマグナ地域では、それら付加された地層・岩体が、逆断層・褶曲によって押し込まれ日本列島に複雑に織り込まれる。 富士山の北東後方に丹沢山地、北西後方に巨摩山地(櫛形山地)と御坂山地、西側に天子山地(天守山地)があって、それらが富士の広い裾野を縁取っている。天子山地は、山梨県南部と静岡県北部にまたがり、富士川と富士山の裾野の間に位置する。この山地は本栖湖に南接し、南北に細長く連なっている。最高峰は毛無山(標高1,964m)で、西側には赤石山脈の前衛となる身延山地が富士川を挟んで対峙している。地質は新生代新第三紀中新世の御坂層群の凝灰岩などの堆積岩類と花崗岩からなり、600万-800万年前に南にあった島が本州に衝突してその一部になった。 その山々を構成している地層は、新生代新第三紀の中新世から鮮新世の海に堆積した地層と海底火山噴出の玄武岩質の岩石類である。それ以外には、中新世後期に堆積した泥岩が分布している。 (表面波分析 表面層とは表面から3原子層 (~1 nm)までと定義されている。 およそ10 nmまでの層は超薄膜、およそ1 μmまでの層は薄膜と定義される。固体表面の特性や機能は、表面の化学構造によって決まる。この固体の表面数原子層という非常に浅く薄い領域の化学構造を明らかにする手法が表面分析法で、表面分析装置を用いることによって、表面数原子層のみに存在する物質の元素組成や化学状態を分析することができる。 低速電子線回折法Low Energy Electron DiŠraction(LEED) 低速(数百~数十 eV)の電子線を固体表面に照射し、固体表面の原子により散乱された電子線の回折像から表面の原子配列に関する情報を得る。 XRD(X線回折分析) X線を粉末状にした岩石試料に照射することで得られる「回折X線」を利用して、岩石に含まれる鉱物を同定する。鉱物は、それぞれ固有の結晶構造(格子)を持つ。鉱物にX線を照射すると結晶構造に固有の回折X線パターンが得られる。その情報を解析することにより、岩石の鉱物組成の情報を得ることができる。 マイクロX線CTスキャナー マイクロX線CTスキャナーは、X線を岩石試料に照射し、透過したX線を観測することで内部構造を三次元的に可視化する分析装置である。試料をそのままの状態で撮影することも可能で、そのため、様々な分析・実験の前に撮影を行い、デジタルデータとして岩石の内部構造を記録しておく役割もある。) 目次へ |
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3)南部フォッサマグナ南西部の地層 曙断層 南部フォッサマグナ南西部の曙層は、上部中新世〜鮮新世の主に礫岩(夜子沢礫岩部層)からなり、下部になると、身延断層の西側では角礫岩(安山岩 - 玄武岩角礫岩:手打沢角礫岩部層)に軟体動物化石が多産する砂岩(遅沢【おそざわ】砂岩部層)や泥岩(川平【かわだいら】泥岩部層)を伴う。一方、身延断層東側では、夜子沢礫岩部層と中富地区川平の川平泥岩部層のみが分布する。 (角礫岩brecciaは、イタリア語に由来し、「瓦礫」を意味するが、角張った礫が堆積してできた礫岩を指す。「手打沢角礫岩」では、直径2 mmを超える砕屑岩で構成された堆積岩。角礫岩は運搬作用の影響をほとんど受けていないため、含まれている礫や砂などの砕屑物は角張っており、また多くの場合砕屑物のサイズも均一ではない。主に陸上または水中での崖崩れによってできる。堆積した物質が堆積岩になっていく「続成作用【ぞくせいさよう】」を、地学では、「圧密作用【あつみつさよう】」・「脱水作用」・「膠結作用【こうけつさよう】」という3つの段階で示す。) 約600万年の中新世末以降、伊豆−小笠原弧の北北西から北西方向への沈み込みの変化に伴い本地域は東西短縮域となり、本地域の海底火山活動は終息し、北北西−南南東方向の褶曲構造fault-foldが形成された。 海などの広い堆積盆では、地層は一般に水平に堆積するが、完全に固結する前に地殻の変動によって横方向に圧縮されると、波形に曲がる。これを 褶曲と言い、盛り上がった箇所を背斜(せいさ)、沈んだ箇所を向斜(こうしゃ)と呼ぶ。 曙層のこの曙向斜の元は、トラフ堆積盆内に堆積した地層で、その後、急激に隆起した北東方の赤石山地北部から大量に運び込まれた粗粒堆積物を多く含む。そのため、このトラフ堆積盆の形成に伴い、曙層と西八代層群及び富士川層群下部〜中部との間には、大規模な傾斜不整合(「手打沢不整合」)が形成された。 赤石山地は、北は諏訪湖から南は静岡県の天竜川まで広がっており、標高3000メートル級の山々が連なる。この地域は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの衝突によって形成されたため、複雑な地質構造を持つ。赤石山地の地質は主に付加体と呼ばれる堆積物で構成されており、これが山地の形成に大きく貢献した。赤石山地の背斜構造は、これらの堆積物が圧縮されてアーチ状に変形した結果である。 南部フォッサマグナ南西部には、巨摩層群・竜爪層群(りゅうそうそうぐん)、・西八代層群・富士川層群、静岡層群・浜石岳層群・庵原層群などが分布しており、東部には富士火山層が広く分布している。富士山は約70万年前に活動を始めた小御岳火山、約10万年前から1万年前に活動した古富士火山、そして約1万年前から現在まで活動している新富士火山の3つの火山活動期に分けられる。その南部フォッサマグナ南西部の地層には多量の火山岩が含まれている。そのうち西八代層群の地層が分布している。南部フォッサマグナ西部に位置する西八代層群は、富士火山北側に東西に長く伸び、西部には御坂層群がある。西八代層群は、富士川とは山梨県身延町下山で合流する常葉川(ときわかわ)付近から甲府盆地まで分布している。その先の富士川の北側が早川との合流地点である。この西八代層群の北西部の巨摩山地には巨摩層群が延伸しており、後期中新世に形成された富士見山断層とは山梨県南部で接している。 山梨県南部にあたる南部フォッサマグナ地域に分布する富士川層群は、主に鮮新世に形成された地層で、粗粒から中粒の砂岩層と礫岩層からなり、脈状の構造が観察されている。曙層の脈状の構造は、泥質極細粒砂岩からなる粗粒~中粒砂岩層に幅1~10 cmの筋状に連続して発達した層平行剪断に伴う脱水脈であるためか、層理面に急角度の面状を成している。脱水脈は、地震や急速な堆積作用などが引き金となり、地下水が移動することで形成される。これにより、地層内の水分が抜け、脈状の膠結構造が残る。曙層のこれらの構造は、地震動や急速な堆積作用などによる液状化や流動化が引き金となって形成されると考えられている。 「手打沢角礫岩部層」は、地質学的な用語で、山梨県南巨摩郡身延町の富士川流域に分布している。この地域では、富士川層群と曙層群という地層が見られる。 曙層群は、川平層・中山層・平須層からなる。川平層は礫岩層を挟む泥岩層、中山層は成層または弱成層の礫岩層、平須層は巨礫からなる礫岩層と言う。堆積物の中に見られる成層構造を層理と呼び、数cmから数mの間隔が普通で、より細かい数 mm単位の成層は葉理(ようり)と呼ぶ。肉眼で識別できる最小の層構造である。ある面を境に堆積物が変わるときは明瞭な層理面として観察できるが、粒度が変化するときなどは明確な面が見られないこともある。また、堆積物に層理が見られない場合は塊状と言う。例えば、波状や筋状の縞模様が観察されることが多く、これにより堆積した環境を推定することができる。 曙層群の川平層は礫岩層を挟んで泥岩層から成り、中山層は成層または弱成層の礫岩層、平須層は塊状の巨礫からなる礫岩層と言う。軟体動物化石の発見もあり、地質時代の推定に役立っているまた、手打沢川流域に分布する手打沢角礫岩部層は、身延町の手打沢川流域に分布しており、貝殻片やサンドパイフ形の生痕化が見つかっている。夜子沢礫岩部層の礫や、下位の遅沢砂岩層の二枚貝化石が変形していることが報告されている。 遅沢(おそざわ)砂岩部層の2地点から軟体動物化石が85種産し、遅沢砂岩部層からの軟体動物化石には、二枚貝類が多産し、それ以外に巻貝のタマガイ科が多く見られる。遅沢砂岩部層から産出した代表的な軟体動物化石は、熱帯-亜熱帯区の上浅海帯(じょうせんかいたい)岩礁底群集と暖流域の外洋に面した上浅海帯〜下浅海帯の砂底群集、さらなど大陸斜面岩礁底から深海域の群集が認められる。 「上浅海帯」は、浅海底を2分したときの上半部を指す。最干潮線から水深30mぐらいまでの浅海で、河川水が混入し、栄養塩類が多く太陽光線も透過するため、海藻や植物性プランクトンが多く、動物も種類に富んでいる。この海域は生物多様性に富み、海洋生態系において重要な役割を果たしている。 「上浅海帯岩礁底群集」は、岩礁域の潮下帯に広がる生物群集を指す。この生態系は、日本沿岸温帯域の岩場で見られ、多様な生物から成る複雑な群集を有している。現代の岩礁域は、サザエやアワビなどの貝類、タコやイセエビなどの漁場として重要であり、多くの魚類の産卵場や成育場でもある。 遅沢砂岩部層から得られた軟体動物化石群集は、砂底および岩礁の浅海域に生息する種と大陸斜面から深海域の生息する種が共存する混合群集であり、このことは狭い大陸棚と急峻な大陸斜面の存在を示唆する。 1952年、富士川右岸に合流する支流の手打沢川の上流約1.3km地点に、手打沢川右岸40㎡の不整合露頭が発見された。不整合とは、一つの地層群と他の地層群に、陸化などによる浸食作用や堆積しない期間がある場合を言う。露頭の下の泥岩層と上の礫岩層は斜交関係で接している。富士川北部は不整合で、南部は整合関係で部分的に傾斜不整合である可能性が高いと考えられている。フォッサマグナの構造とその発達を考える上で重要な露頭と言える。 富士川層群 新生代新第三紀鮮新世の260万年前頃になると現在の丹沢山地が日本列島に押しつけられ、身延地域を含め南部フォッサマグナの多くの地域は陸化して山地となり、新たに南側の伊豆半島ブロックとの衝突境界付近にトラフが形成された。曙断層と身延断層は、その当時と重なる断層であった。 身延山地は、山梨県南西部と静岡県北部にまたがる山地、一般的には、早川の谷から南側、富士川右岸の山地を指す。その身延地域には、糸魚川−静岡構造線とともに、地震や斜面崩壊などの対策上、注視すべき断層として曙断層と身延断層が、西側が数km以上隆起した逆断層帯として存在する。 身延山自体が、中新世の約1,000万年~700万年前頃に噴出した南方の伊豆・小笠原諸島の海底火山体が、北へ移動し260万年前以降に剥ぎ取られた深海堆積物と付加堆積物が日本列島に押しつけられ、身延断層の西側隆起の変位に伴い山地となった地塊である。 曙断層は、活断層である糸魚川-静岡構造線断層帯南部(白州-富士見山)区間の一部とされる。この断層は、日本列島に対して北北西方向へ強い変形を及ぼし、伊豆・小笠原諸島の火山岩と周辺の深海堆積物を日本列島に押しつけながら、ユーラシアプレートの下に沈み込んだフィリピン海プレートのひずみが蓄積されている。 身延地域には、糸魚川−静岡構造線とともに、地震や斜面崩壊に関する減災上、注視すべき断層として曙断層と身延断層が、西側が数km以上隆起した逆断層として並ぶ。260万年前頃になると現在の丹沢山地が日本列島に押しつけられ、身延地域を含め南部フォッサマグナの多くの地域は陸化して山地となり、新たに南側の伊豆半島ブロックとの衝突境界付近に駿河トラフが形成された。曙断層と身延断層は、その時期に形成された逆断層でもある。 例えば、身延山は、約1,000万年~700万年前頃に噴出した南方の伊豆・小笠原諸島の海底火山体が、北へ移動し260万年前以降に剥ぎ取られ日本列島に押しつけられ、身延断層の西側隆起の変位によって山地となった地塊である。 甲府盆地の西縁にあたる巨摩山地の東麓にも、活断層がある。本山地の南部の富士川河谷西縁の富士見山(1639m)東麓周辺でも断層が活動的である。富士見山東麓の東 は富士川に、南は早川に、北は大柳川が、それぞれの境になる。 櫛形山層は、富士見山(曙)逆断層に接している。その断層に沿って比高約1,000mの断層崖が北北東一南南西方向 に延びる。段丘面はまず富士見山を源とする支流性の段丘と、富士川沿いの段丘とに分けられる。支流性の段丘は、平須面(富士見山東麓の平須登山口付近にある身延町「みのぶ自然の里」の無料駐車場の標高は700m)と大塩面(富士見山東麓の身延町大塩、平須より北東にあたる。)に分けられる。支流性の段丘にっいては、大塩面よりも低位の段丘面が分布するが、平須面も富士見山山麓東側を中心 に分布し、平須では、東に高度を減じながら約2kmの幅で発達している。一般に、平須面は基盤の曙累層を明瞭な傾斜不整合で覆う厚さ5~80mの平須礫層から成る。 しかし、平須より北寄りの堂平(富士見山東麓の堂平登山口)では厚い平須礫層が櫛形山層の上に直接乗る。平須面は富士川の段丘とは異なる分布形態を示し、富士見山東麓に発達した開析扇状地面である。 (開析dissectionとは、一定の連続性を持つ地形面が、侵食などの影響により多くの谷が形成され、地形面が細分化されることである。連続した地形面が短時間に形成された断層地形や火山地形は、地震や風雪の関連から特に意味を持つ。愛鷹山もかつて富士山と同様に、成層火山の典型的な形をしていたが、開析が進み現在の形になったとされる。) 富士見山は山梨県身延町と早川町の境にあり、富士川の右岸に聳える。平須及び堂平登山口から3時間ほどで「展望台」に到着。富士山が見えるのが当たり前な山梨で「富士見」を名乗るだけあって富士山の眺望が素晴らしい!とりわけ頂上手前の展望台からは富士山周辺の最高峰毛無山【1,964m】、その天子山塊越し上にそそり立つ富士山、そして振り返れば南アルプスの白根三山と、圧巻なのが、左から大菩薩嶺・小金沢山・牛奥ノ雁ヶ腹摺山・黒岳の山陵風景!富士川に点在する集落が、まるで箱庭のように見える里山の穏やかな風景! 山頂には美しい樹林が広がり、富士山側の切り開かれいる林道の撮影ポイントからは、2月9日頃と1月4日頃にダイヤモンド富士が見られる! 目次へ |
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