鏡作部・鏡作連・鏡作首

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 南アルプス市若草町加賀美、美濃の各務から甲斐に鏡作部一族が移住した。
 
目次
 1)大和国城下郡の鏡作(加加都久利)
 2)伊斯許理度売命/石凝姥命
 3)鏡作部と仿製鏡
 4)鏡作は各地に拡散
 5)品部


 1)大和国城下郡の鏡作(加加都久利)
  『倭名類聚鈔』によれば大和国城下郡(しきのしものこおり)には、鏡作(加加都久利)・賀美・大和(於保夜末止)・三宅(美也介)・黒田(久留多)・室原(也本也)の6郷があった。
 奈良県天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)の付近が、大和郷で、周辺には大和古墳群がある。この「ヤマト」地名が「倭」「大倭」「大和」の始まりと比定されている。
 弥生時代には、環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡があった。石製の銅鐸鋳型の破片やフイゴなどが出土している。銅鐸の技術者は、祭祀の形態が変わり、銅鐸が不用になると銅鏡の製作に従事したようだ。
 『延喜式』神名帳に記される城下郡の式内社には鏡作伊多神社(かがみつくりいた)・鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたま)などがみえる。


 2)伊斯許理度売命/石凝姥命
 伊斯許理度売命/石凝姥命(いしこりどめのみこと)は、『古事記』では伊斯許理度売命(伊斯許理度賣命)、『日本書紀』では石凝姥命とあり、鏡作連の祖神として、記紀の天の岩屋戸の神話や天孫降臨神話に登場する女神である。
 『古事記』の上巻3では「『僕(あ)は国津神で、名は猿田毘古神(さるたびこのかみ)なり。出(い)で居(お)る所以は、天津神の御子が天降り坐(ま)すと聞きつる故に、御前(みさき)に仕え奉らんとして、参向(まえむか)えて待り」と申した。
 「しかして、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)伊斯許理度売命・玉祖命(たまのおやのみこと)、併(あわ)せて五伴緒(いつとものを)を支(わか)ち加えて天降りたまう」とあり
 また「伊斯許理度売命に課して、鏡を作らしむ」とあり、「鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖」と記す。
 『日本書紀』では、天照大神が素戔嗚尊の狼藉に、神代上第7段一書第二で、「『汝はなお黒心(こくしん;邪心)あり。もう汝の顔は見たくもない』と言い、天石窟(あまのいはや)に入り磐戸(いはと)を閉ざしてしまった。是で、天下は常闇(とこやみ)になり、昼夜の殊(ことなり)も無い」
 「時に、諸神はこれを憂い、鏡作部の遠祖の天糠戸者(あまのあらとのかみ)に鏡を作らせた」とある。「糠戸」は「粗砥」で、それは鏡作に不可欠な道具である。
 神代下第9段(一書第一)に「二神(ふたはしらのかみ)が天(あめ)に昇り、復命して告げるに『葦原中国は、皆既に平定しまいました』という。時に天照大神は勅(みことのり)をして『しからば、我が子を降させよう』という。
 まさに降そうとした頃に、皇孫(すめみま)が生まれた。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)という。
 時に奏上があって『この皇孫に代えて降そうと思う』という。
 それで天照大神は、天津彥彥火瓊瓊杵尊に、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)及び八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)、三種宝物(みくさのたから)を賜う。
 また中臣の上祖(とほつおや)の天児屋命(あめのこやねのみこと)・忌部(いむべ)の上祖太玉命(ふとたまのみこと)・猨女(さるめ)の上祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)・鏡作の上祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)・玉作(たますり)の上祖玉屋命(たまのやのみこと)、すべて五部神(いつとものをのかみ)を配(そ)えて侍らしめた」
 石凝姥命は記紀に興味深く登場する。
 『日本書紀』の岩戸隠れの第7段の一書第一に
 「即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛(ひほこ)を作らしむ。又、真名鹿(まなか;真名とは“漢字”のこと;鹿を漢字で記したという意味)の皮を全剥(うつはにはぎ)ぎて、天羽鞴(あめのはぶき;鹿の革で作った鞴)に作る。此を用(も)て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐(ましま)す日前神(ひのくまのかみ)なり」と矛や鞴(ふいご)を作ったともある。
 「鞴」は「ふきかわ(吹き皮)」の約で、鞴は元々皮で作った。
 日前國懸神宮(ひのくまくにかがすじんぐう)は、和歌山電鐵貴志川線日前宮駅の北、和歌山県和歌山市秋月にある。鳥居をくぐり、参道を北へ進むと、突き当たる。
 同じ境内の左、西半が日前神宮、右の東半が國懸神宮である。祭神並びに由緒上は、一体不二の間にあり、同一境内に本殿を異にするが、共に南面する。古来より紀伊国造家によって奉られた。
 日前神宮は日像鏡を御霊代として祀り、國懸神宮は日矛鏡を御霊代として祀る。
 紀伊国造家は、現和歌山市府中に比定される紀伊国名草郡に本拠をもつ紀直氏で、神武朝に初祖天道根命(あめのみちねのみこと)が当国国造に任ぜられたのが始まりという。日前・国懸社を奉斎し、中世末まで強大な勢力をもった。
 『古事記』などでは、葛城・平群・蘇我・巨勢などのヤマトの雄族と同族と伝える。『日本書紀』では、小弓(おゆみ)、その子大磐(おおいわ)、男麻呂(おまろ)らの朝鮮での活躍が伝えられ、本拠紀伊と瀬戸内沿岸各地の支族を掌握して海路を確保し、ヤマト政権の朝鮮経営に積極的に関与した。


 3)鏡作部と仿製鏡
 金属で鏡その他の器物を作る技術者を組織し、ヤマト王権に隷属せしめたのが鏡作部であるが、連が賜姓される以前の鏡作造がこれを管掌し、宮廷祭祀にもかかわった。
 石凝姥命は、鏡作部の遠祖の天糠戸の子で鏡作連(かがみつくりのむらじ)の祖神、「凝」は「樵」と同じで、山林の木を切りだす職業の人で、やがて「石凝」として石を切り出して運び、後に金属も扱うようになった。
 「姥(とめ)」は老女を指す。石凝姥命は老女であった。
 天照大神(あまてらすおおかみ)を岩屋戸から引き出すために八咫鏡(やたのかがみ)を作り、また天天孫降臨神話では天孫に随従する「五部神」の一人とされている。
 「五部神」、『古事記』には「五伴緒」のいずれも朝廷の神事にかかわる氏族で、天岩戸神話の条にそろって登場する。初めは鎮魂祭(たましずめのまつり)をつかさどった天鈿女命/天宇受売命(あまのうずめのみこと;【うずめ】は舞踊をつかさどった巫女)のみであったが、のちに政治的意図などから他の4神が加わった。
 「五伴緒」は5族の伴造の「緒」で、「緒」とは、起こり・始まりの意であるから、その氏族の「始祖」のことである。
 伴造は、天武12(683)年に連の姓を与えられた鏡作造で、その本拠は『和名類聚抄』にみえる大和国城下郡鏡作郷であろう。


 4)鏡作は各地に拡散
 鏡作造(連)は鏡作部を管掌し、鏡の製作と神祇の祭祀にあたった。記紀では、伊斯許理度売命/石凝姥命(いしこりどめのみこと)を鏡作連の祖神とした。『和妙類聚抄』の大和国城下郡鏡作郷、今の奈良県磯城郡田原本町付近を本拠とした氏族であった。
 鏡は、当初は中国から伝来したが、銅に錫・鉛・亜鉛などを加えて強度化し、鏡やほかの器物を製作する技術者が、弥生時代に、既に中国・朝鮮半島から渡来していた。卑弥呼の時代には、彼らが作る仿製鏡が量産されるようになった。大和王権はこうした鏡などを製作する人々を鏡作部として編成し、品部として隷属させた。鏡作造がその伴造である。
 その品部は各地に拡散し、大和・伊豆に鏡作郷があり、摂津・美濃・甲斐・美作・安芸にかがみ(覚美・香美・各務・加賀美・加賀見・加々美・加々見・・香々美・香々見)などの地名が残る。
 天武12年10月条では、連とされた鏡作造、正倉院文書の『優婆塞貢進解』では鏡作首が登場する。優婆塞は在家の男の仏教信者である。優婆塞貢進文のなかに本貫を詳しく記すのは、戸籍と照合して誤りのないことを確かめたうえで、課役免除の措置を行うためである。

 甲斐国巨摩郡加賀美邑は加賀美遠光が居住していた地だが、現在の南アルプス市若草町加賀美である。
 中興武家諸系図に「各務、清和、武田清光男次郎遠光称之、同次男長清称之」とあり、美濃国各務郡各務郷の大族各務勝一族が甲斐国巨摩郡に移住して、各務なる地名が甲斐に生じ、後に加賀美に転訛したことを裏付ける。
 加賀美邑の近くの釜無川右岸に鏡中條(南アルプス市)の地名があり、各務氏は上古の鏡作部の後裔であることをうかがわせる。従って、当地の多くの加賀美氏は加賀美遠光の血流ではなく、古代からの各務氏の後裔と見られる。

 日本古代の法制書『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』の大同元年の牒に神封18戸(大和2戸・伊豆16戸)とある。『和妙類聚抄』にも伊豆国田方郡(たがたのこおり)にも鏡作郷が記されている。

 古代の鏡作は、律令制以前は、鏡作造に率いられ、ヤマト王権やヤマトの豪族に隷属し、漢鏡や唐鏡を手本とする仿製鏡の製作に従事した部民であった。天武12(683)年に連姓を与えられたが、以後鏡作部の技術は次第に一般化し、律令制のもとでは、その仕事は雑工戸(ざっこうこ)が担当するようになった。


 5)品部
 大和朝廷に直属した手工業者とその他の技術者集団や、朝廷で労役に従事する者と特定の産物を貢納する者などがいた。いずれも「品部」といった。「品」は「しなじな」、即ち「諸々」の意である。「部」の制度自体、大和朝廷の官司の伴を中心に編成された。特に古くから編成された内廷的な伴は、豪族の一族が担い、その伴に貢納する民も含まれていた。

 畿内の中小豪族を任ずる伴の制度
 殿部(とのもり)は、天皇の乗輿・宮殿の調度・灯火をつかさどる。
 水部(もいとり)は、天皇・皇后や朝儀などに供する飲料水・手水・饘(かたかゆ;米を煮た飯)・粥(しるかゆ;今日の飯・粥)・氷をつかさどる。
 山部(やまべ)は、朝廷直轄領の山林を守るのを職とした。
 海部(あまべ)は、海産物を上納し、航海技術をもって朝廷に仕えた。
 掃部(かにもり)は、殿内の掃除をつかさどる。
 門部(かどもり・かどべ)は、宮殿の諸門の守衛をつかさどる。
 蔵部(くらひと)は、内蔵・大蔵の出納をつかさどる。
 物部(もののべ)や佐伯部(さえきべ)は、軍事・警察や刑罰をつかさどる。

 部民として、当初は、畿内やその周辺に居住する帰化氏族を任じた品部は
 『日本書紀』では雄略7年に陶部(すえつくり)・鞍部(くらつくり)・晝部(えかき)・錦部(にしごり)・訳語部(をさ)などの職掌を冠した品部を置いたとしている。彼らは須恵器作り・馬具作り・画工・錦織り・通訳を専門とする技能集団であった。『日本書紀』は、5世紀後半以降に渡来した人々を「今来才伎(いまきのてひと)」といい、それより古い時代に渡来した人々を「古渡才伎(こわたりのてひと)」と呼んでいた。
 史部(ふひと・ふひとべ)には、文筆を専門職とする氏族が任じられ、ヤマト王権の記録や文書を掌った。
 一般の部とは異なり、大陸や半島からの渡来人や、その後胤から選ばれた。姓の「史」を賜り、それを歴代称した。
 錦織部(にしこり・にしごりべ)は、絹織物の生産に従う。錦織部などでも、5世紀中葉以降に、百済より順次渡来した技術者を集住させては組織化された。錦織の部民は主として畿内地方に分布するが、近江・信濃・因幡・美作・阿波・讃岐・豊前などにも、その痕跡をとどめている。
 錦織部を管掌する中央の伴造はなく、各地の伴造が統率したようだ。
 衣縫部(きぬぬい・きぬぬいべ)は、ヤマト王家の衣服の縫製に従う部民である。漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)・飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)・伊勢衣縫部などがあり、その多くは、5世紀前後に百済や中国の呉から渡来した帰化人であった。
 『日本書紀』には、応神37(306)年、阿智使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)を呉に遣わし縫工女(きぬぬひめ)を求めた。呉王は工女兄媛(ぬひめえひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4婦女(よたりのをみな)を与う、とある。一方では、日本古来の衣縫部もあった。
 雄略天皇14年3月「衣縫の兄媛を以て大三輪神に奉る。弟媛を以て漢衣縫部(あやのきぬぬひべ)と為す。漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の衣縫は、これ飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬひべ)・伊勢衣縫(いせのきぬぬひら)の先(おや)なり」とある。
 漢衣縫部は漢人系の衣縫の品部である。飛鳥衣縫部は大和国十市郡飛鳥に集住した衣縫の品部で、その管掌者たる飛鳥衣縫造の家は、崇峻天皇元年是歳条に、これを壊して法興寺を建てたとある。ならば高市郡明日香村の安居院(あんごいん)の地となる。また『和名類聚抄』に、伊勢国壱志郡の呉部郷が記されている。呉部郷は現在の長野川・榊原川の流域にあった郷という。

 鍛冶部(かぬち・かぬちべ)は、鉄と兵器の生産に従う。
 陶作部(すえつくり・すえつくりべ)は、陶器の製作に従う。
 鞍作部(くらつくり・くらつくりべ)は、鞍などの馬具の製作に従う。日本では5世紀前半より馬具が製作されているので、それ以前から渡来していたことになる。
 馬飼部(うまかい・うまかいべ)は、その馬の飼育・調教にあたっていたようだ。

  斉明天皇6(660)年、百済は唐と連合した新羅の攻撃を受けて滅亡する。 このよう国際情勢下、朝廷の政治組織を革新した。その下部組織を形成する伴や部を、百済の官司の諸部の制度を導入して、朝廷の記録を掌っていた百済の帰化人の史部が、漢語の「部」とその字音の「ベ」を、日本の「伴の制度」に重ねたと思われる。