継体天皇即位

  
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 目次
 1)古代ヤカトとは
 2)武烈天皇の継子問題
 3)継体天皇の系譜
 4)継体天皇即位
 5)河内の馬飼一族
 6)『日本書紀』百済三書を引用
 7)継体天皇ヤマトに入れず
 

 1)古代ヤカトとは
 「大和」は通常、奈良県全域、律令制下の大和国をさすが、ヤマト政権発足当初は、北方の物部氏領域の山辺郡から城下郡(しきのしものこおり)辺りが「ヤマトの中のヤマト」であった。この「ヤマト」と便宜的に表記される「古代ヤマト」は、通常、卑弥呼の邪馬台国が基盤していた纒向があった奈良盆地東南部であり、三輪山の東南麓にあたるシキ(式:磯城)とトオチ(十市)を中心にし、北側のヤマノベ(山辺)と南のタケチ(高市)の一部を含んでいた。

 「古代ヤマト」は、大陸からの先端文物の導入という面では、地理的な条件に恵まれていたとは言えない。筑紫・吉備・出雲より大陸からは遠い。
 奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁にあたる春日断層崖下の山々の裾を縫うように南北に通ずる古道が「山辺の道」と呼ばれた。邪馬台国以来、王権の中心として栄え、大陸からの物資も出回る市場都市であった。
 北上し東西に通じる「山辺の道」が陸運、寺川・初瀬川・布留川とその周辺の河川をつなぐ運河からなる大和川を経由して河内湖と摂津へ、そして瀬戸内海に繋がる海運、それぞれの起点となったのが「ヤマト」の水運であった。
 この山麓地帯は、比較的早くから水田開発され、しかも地震その他の風水害が稀で、その富の蓄積が大和の諸豪族の経済的な基盤となり、狭隘な領域でありなが他地方の大豪族を圧倒していった。
 ヤマト王権が握っていた海上ルートは、瀬戸内ルートの難波津のほかに、角鹿(つぬが;敦賀)を入り口とするルートが早くから確保されていた。角鹿は対馬海流が能登半島にぶつかる地、朝鮮半島からの船舶には重要な停泊地になっていた。角鹿は、応神天皇の伝承にみられるように、比較的早くからヤマト王権は、朝鮮半島との交易に枢要な領域として支配していた。

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  2)武烈天皇の継子問題
 唐突に『日本書紀』は、武烈天皇8年
 「冬12月8日、天皇は列城宮(なみきのみや)で崩御」と記す。
 (泊瀬列城宮は、奈良県桜井市出雲の、三輪山と纒向山の南麓にあたる泊瀬谷にあり、東に向えば宇陀から、名張・伊賀を経由して桑名・津・伊勢などに四通する)
 武烈の死後、皇位継承者がなかったため、応神天皇以来の王朝が断絶の危機となった。
 『日本書紀』に、武烈天皇「6年秋9月、詔で『国を伝える機(まつりごと)は、子を立てることを貴(とうと)しとなす。朕には継嗣がいない。何をもって名を伝えよう。また天皇の旧例により、小泊瀬の舎人を置き、代(みよ)の号(な)となし、万歳(よろずよ)まで忘れ難(がた)からしめよ』とのたまう」とある。
 『古事記』の武烈記には「この天皇に、太子(ひつぎのみこ)がなく、それで御子代と為(な)して、小長谷部を定めた」と記す。
 『日本書紀』は「継嗣(みつぎ)絶ゆべし」、『古事記』は「日つぎしろしめす王ましまさず」とある。
 『日本書紀』は継体天皇「即位前紀」に
 「小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと;武烈天皇)が崩御した。元(もと)より男女いずれの子もなく、継嗣絶ゆべし。
 21日に、大伴金村大連が議(はか)
 『方(まさ)に、今、絶えて継嗣無し、天下何所(あめのしたのいつのところ)にか心を繋(か)けん。古(いにしえ)より今に迄(いた)るまで、禍(わざわい)これにより起る。今、足仲彦天皇(仲哀天皇)の5世孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)が、丹波国の桑田郡(京都府にあった郡であるが、亀岡市の大部分・京都市の左京区と右京区の一部も含み 、大阪府高槻市の一部にまで及ぶ)に在(ま)す。試みに兵器を備え、御輿(みこし;天皇の車馬)を挟み衞(まも)り従い奉迎し、立てて人主(きみ)となすことを請う』と言った。大臣と大連らはこぞって皆随い、奉迎に向った。
 これには、倭彦王が、遥かに迎える兵を望み、懼然(くぜん)となり顔色が青ざめた。そのまま山や谷を逃げ走り行方知らずとなった」
 大伴金村は、再度、群臣と諮って、応神天皇5世孫という継体天皇を越前より迎えた。

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  3)継体天皇の系譜
 『日本書紀』は、
 「男大迹天皇(おほどのすめらみこと;継体天皇)、またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)は、誉田天皇(ほむたのすめらみこと;応神天皇)の5世の孫(うまご:子孫)で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子(みこ)で、母は振媛(ふるひめ)という。
 振媛は、活目天皇(垂仁天皇)7世の孫である。天皇の父(彦主人王)が振媛の容貌が美妙で甚だ美しい肌と聞きおよび、近江国の高嶋郡の三尾(滋賀県高島郡高島町)の別業(田荘【たどころ】;田畑や山林などが付属する経営地)から、使を遣わし三国の坂中井(さかない;中はこれを“な”と訓む;福井県坂井郡三国町)に招聘して、迎え入れると妃(みめ)とした。やがて天皇を生んだ。
 天皇の幼年期に、父の王が薨じた。
 振媛は嘆きながら『私は、今は遠く故郷を離れ、父母の膝もとで孝養を尽くせない。今後は高向(たかむこ;【和名類聚抄】の高向郷;福井県坂井郡丸岡町【元高椋村】付近)に帰寧がてら天皇を養育いたします』と言った。(中略)
 天皇の年57歳、武烈天皇8年冬12月8日、小泊瀬天皇(武烈天皇)が崩御した。元より皇子・皇女はなく、継嗣が絶えた。

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 4)継体天皇即位
 継体元(507)年春正月4日、大伴金村大連は、更に籌議(ちゅうぎ;集まって、はかりごとを相談)
 『男大迹王の性(ひととなり)は情け深く親に孝行を尽くす。天津日嗣を承(つた)えるべきだ。懇願し勧めまいらせ、帝業(あまつひつぎ)を紹隆(しょうりゅう;先人の事業を継承し、さらに繁栄させる)しよう』と言った。
 物部麁鹿火大連と許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ;許勢は巨勢・己西とも書き奈良県高市郡高取町西北部)ら皆は、
 『子孫を詳しく選んでみると、賢者はただ男大迹王のみ』と言った。
 6日、臣・連らを遣わし、節(しるし;君命を受けたしるしの旗)を持たせ法駕(みこし;天子の乗物)を備え、三国に迎えに行かせた。武器を持った武官が挟み衛り、容儀を厳かに整え、法駕より先駆け警固し、速やかに到着した。
 男大迹天皇は、静かに常のように落ち着き、床机に腰掛けていた。陪臣を整え列ねて、既に帝が坐(ましま)す風格があった。持節使らは、これに畏まり、傾倒し命を捧げ、忠誠を尽くさんと願った。
 しかし天皇の御心のうちになお疑念があり、久しく就任しないまま、たまたま河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ;河内馬飼の首長)を知り、密に使を立てて、詳らかに大臣・大連らが奉迎する本意を述べさせた。留まること二日三夜、遂に発った」と記す。
 継体天皇の誕生地を明記する史料はない。
 『古事記』は
 「武烈天皇既に崩じ、日継を知らせるべき王なし。故 に、応神天皇5世(応神天皇の王子・若野毛二俣王【わかぬけふたまたのおう】を一世と数える)の孫・袁本杼命(をほどのみこと;継体天皇)を、近淡海国(ちかつおふみのくに)より、上り坐(ま)さしめて、手白髪命(たしろかのみこと;仁賢皇女;郎女でなく命であるから大后)に合(あは)せ、天下を授け奉りき。
 応神天皇5世孫・袁本杼命が、伊波礼(磐余)の玉穗宮に坐し、天下を治(しらしめ)しき。天皇は、三尾君(近江国高島郡三尾郷が本拠)等の祖、名は若比売を娶(みあい)し…」と記す。
 『日本書紀』は、三尾には父彦太尊の別業があったと記す。また母の振媛も、彦太尊が美麗であったため「三国坂中井」に「人を遣して召上(めしあぐ)」とある。『上宮記』の逸文にも、オホド王の父の汗斯王(うしのみこ;彦太尊)は近江国の高島(滋賀県高島市)いたという。
 継体天皇が、
 「元年正月12日に、天皇、樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)る」とある。
 樟葉宮の所在地は、『和名類聚抄』に「河内国交野郡葛葉郷」とあり、現在の枚方市楠葉野田である。
 同年3月「14日、八の妃(やはしらのみめ)を納(めしい)れた(良き日を占いで択び、初めて後宮【きさき】を拜【さだ】めた)
 継体天皇の近江との深い関係から、近江の三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹の若比売、三尾君堅( みおのきみかたひ)の娘の倭媛(やまとひめ)、息長真手王(おきながのまてのおうきみ)の娘の麻績郎女(をみのいらつめ)など近江出身3人を妃としている。息長真手王の娘の広姫は、継体天皇の孫の敏達天皇の皇后となった。息長は近江国北東部の地名で、坂田郡息長村で現米原市にあった。天皇は近江の高島で生まれ、越前の高向で養育されたようだ。
 彦主人王が振媛の容貌が美妙で甚だ美しい肌と聞きおよび、使を遣わし三国の坂中井に招聘して妃とした。  継体天皇は「法駕を備え、三国に迎えに」赴かれていた。ヤマト王権の「三国県(みくにのあがた)」は、日本海側の県の東限であった。
 オホド王が本拠とした福井県鯖江の洪積台地が発達している武生盆地、そこに流れる九頭龍川の河口にある三国の津が、古来、北ツ海を介して朝鮮半島などの交易の窓口となり、水陸交通の要衝であった。
 『日本書紀』崇神天皇紀に「一書には、御間城天皇(崇神天皇)の代、額に角のある人が、船に乗り、越国の笥飯浦(けひうら;敦賀郡気比神社)に停泊した。それ故、そこを角鹿(つるが)と名付けた。
 『どこの国の人か』と尋ねると『大伽耶国(金官大加耶)の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名は于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本国に聖皇がいると伝え聞き、ここに帰化したい』」とある。
  敦賀や若狭は、ヤマト政権の初期から、朝鮮半島との外交・通商の中継地で、琵琶湖を漕ぎ渡り、淀川を下り、当時河内湖で合流していた大和川を遡上し磯城ヤマトに至っていた。
 越前の地域と朝鮮半島南部との関係は、韓国高霊郡池上洞32号墳から出土した金銅の冠と福井県吉田郡水平寺町松岡の二本松山古墳から出土した鍍金と鍍銀の冠が類似することからもうかがわれる。二本松山古墳築造年代は5世紀後期、継体天皇が即位したのは507年、天皇が越前にいた時代に、二本松山古墳は造られたようだ。

 「2月4日、大伴金村大連は、その場に跪(ひざまず)き、天子の鏡と剣の璽符(みしるし)を上(たてまつ)り、再拝(二度繰り返して礼拝)した」  天子の璽符は、鏡と剣であり、当時、三種の神器ではなく、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のみで、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は神器に入っていない。鏡と剣の2種であった。
 「そこで璽符を受け、この日、天皇位に即いた。大伴金村大連を大連に、許勢男人大臣を大臣に、物部麁鹿火大連を大連に、みな故(もと)のようにした。ここを以て、大臣大連等各々を職位(つかさくらい)のままにした」
 継体天皇の時、はじめて神璽(レガリア)が鏡と剣の2種であることが明らかになった。それ以前では、『日本書紀』の允恭天皇元年12月の条では「璽符」、雄略天皇元年12月の条では「璽」、顕宗天皇即位前紀にも「璽」とあるのみで具体的な表記がない。
 持統天皇4(690)年正月の即位のおり「神璽の剣・鏡を皇后(天武天皇の野皇后・持統天皇)に奏上」と明記された。「大宝令」・「養老令」・「古語拾遺」にも記された。やがて神璽を「三種の宝物(剣・鏡・玉)」と明記されるのは『百錬抄(ひゃくれんしょう)』からで、かなり後年で、後嵯峨天皇即位の仁治3(1242)年正月の条に「三種宝物」と記す。
 『百錬抄』は、公家方の編年体による記録で、冷泉(れいぜい)天皇から後深草天皇までを収録してある。

 継体天皇は、河内楠葉宮で即位した5年後の10月に山背国筒城宮(やましろのくにつつき:現京田辺市付近)、12年後に弟国宮(おとくに:現長岡京市付近)に移っており、 大和の国に入ったのは20年後のこととされる。

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 5)河内の馬飼一族
 日本書紀の神功皇后摂政前紀に、神功皇后に降伏した新羅の王(こきし)が「伏(したが)いて飼部(うまかい)と為らん。それ船(ふなかじ)を乾(ほ)さずして、春と秋に馬の梳(くし)及び馬の鞭を献(たてまつ)らん。また海の遠きに煩(わずら)わず、年毎(としごと)に男女の調(みつぎ)を貢(たてまつ)らん」と述べるくだりがある。
 飼部(うまかいべ)は、大化以前、ヤマト政権の職業部の一つで、馬の調教・飼養・従駕(おおみとも)や穀草の貢納などに従事した部曲(かきべ)である。大化以後は左右馬寮(さまのりょう/うまのりょう)に雑工戸(さっこうこ)として属した。
 『古事記』の仲哀段にも、新羅の王が御馬甘(みうまかい)となって服属することを誓う話が載る。馬飼部は、当初、新羅渡来の技術をもとに編成された可能性が高い。
 5世紀前半、応神天皇の15年8月条で、百済王から良馬2匹が贈られたので、その時、使者であった百済の王子阿直吉師に飼育させたという記述もあり、百済系の技術も後に入ったものと思われる。
 飼部は、河内と大和を中心に居住した。『日本書紀』に河内馬飼部(かわちのうまかいべ;履中天皇5年9月の条)・河内馬飼首歌依(―のおびとうたより;欽明天皇23年6月の条)・河内母樹馬飼(かわちのおもきのうまかい;継体天皇24年9月条)がみられ、
 天武天皇12(683)年9月の条には
 「9月2日、大風。23日、倭馬飼造・川内馬飼造など、凡(すべ)て38氏に姓を賜い連という」とある。
 飼部は、馬飼部を管掌する伴造や娑羅々馬飼造(さららうまかいのみやつこ)・菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)などの伴造(とものみやつこ)に率いられ、朝廷の馬官(うまのつかさ)に上番して職務にあたった。娑羅々・菟野・母樹(大阪府東大阪市豊浦町)など生駒山西麓を本貫として、河内には馬飼の集団が濃密に分布していた。
 政権の下部組織を形成する部は、百済の帰化人が朝廷の記録を掌った史部(ふひと;ふひとべ)が、百済の制度を漢語の部とその字音の「ベ」を、ヤマト王権の伴の制度に適用したためによるとみられる。
 令制下でも左右馬寮に飼部が属し、飼造戸・馬甘造戸・馬甘戸など雑工戸と称される人々が、おもに1戸より1丁(てい;賦課対象となる21歳~60歳までの男子)が年に6ヵ月間または臨時に上番して、馬部(めぶ;左右の馬寮【めりょう】に、それぞれ60人が仕えた雑人)や飼丁として勤務した。

 馬飼首として最初に登場するのが、継体天皇元年正月条に出る河内馬飼首荒籠(かうちのうまかいのおびとあらこ)であった。
  応神天皇の15年8月条で、百済王から良馬2匹の貢が奉られるが、考古学上も古墳中期の5世紀前半から、馬具の副葬品が増えてくる。
 武烈天皇の即位実現に功があり、オホド王の擁立を推進した大伴金村は、宣化天皇にいたる4朝の大連となったが、当初は、河内に本拠を置いた氏族であった。金村の密使となったのが河内の馬飼首荒籠である。
 四条畷市(しじょうなわてし)の蔀屋北遺跡(しとみやきたー)から、丁寧に埋葬された馬の全身骨格が、古墳時代の5世紀の土坑から検出された。この遺跡からは、馬の骨や歯の一部が多数出土した。馬具や飼育に必要であった大量の製塩土器も発見されている。これらにより蔀屋北遺跡は、馬飼集団の集落遺跡であったことが明らかになった。
 同市の鎌田遺跡(かまだいせき)や奈良井遺跡などからも、馬の骨・歯や馬の祭祀場が出土している。古墳時代の四條畷市は、西に河内湖、東に生駒山系の山並みにはさまれた場所にあって、馬は古墳時代の中頃に朝鮮半島から準構造船で渡海し、難波の津から河内湖に入ってきて四條畷で降ろされた。既に、河内では5世紀の頃から馬の牧があって、渡来人によって飼育されていた。
 馬史(うまのふひと)・馬首(うまのおびと)は、百済・加耶系の漢氏(あやし)の氏族である。
 馬毘登(うまひと;馬史)国人(くにひと)も、百済系漢氏の一族で、奈良時代の官吏であった。『続日本紀』天平神護元(764)年12月5日、一族44人とともに武生連(たけふのむらじ)に改氏姓した。そこには河内国古市郡の人、正六位上馬毘登益人も含まれている。
 国人は、河内国伎人郷(くれのごう)に本貫があり、天平勝宝8(756)年に詠んだ歌が『万葉集』にみえる。
  「にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽(ことつ)きめやも」 
 (巻第20-4458、右一首 歌宴の主人、散位寮散位馬史国)
 「息長川の水は絶えてしまおうとも、君に語らう言葉が尽きる事がありましょうか。いついつまでも末永く貴方とお付き合いが続きますように」
 鳰鳥(にほとり)は、カイツブリともいう。水中に潜って息が長く続くのでオキナガにかけたもの。
 『続日本紀』天平神護元(764)
 「9月18日。河内国古市郡の人正七位下馬毘登夷人と右京の人正八位下馬毘登中成らは、厚見連の氏姓を賜わった」とある。
 なお夷人は同年8月16日当時、大和国大目(だいさかん;律令制の国司四等官のうち四等官)として、「大和国十市荘券」に署名している(『大日本古文書』四)。

 応神天皇に始まる河内王朝以来、河内国には古くから馬飼集団がいた。しかも『延喜式』の左右馬寮によれば、河内の馬飼戸の数が最も多い。応神天皇「5世の孫」オホド王は、河内を本拠とする大伴氏と、百済・加耶系の漢氏族や新羅系の秦氏による、河内の馬飼グループに擁立されたのであった。
 河内王朝の始祖と見なされる応神天皇は、皇后に、三輪王権の血脈を受け継ぐ品陀真若王(ほんだまわかのおう;五百城入彦皇子【いおきいりびこのみこ】の王子、景行天皇の孫王)の王女の中比売(なかつひめ)を娶り、仁徳天皇を生み、ワケ大王家を樹立した。
 継体天皇は、仁賢天皇の娘手白香皇女(たしらかのおうじょ)を大后(おおきさい)として、欽明天皇を生み、前王朝を継承した。

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 6)『日本書紀』百済三書を引用
 『日本書紀』の記述は『百済記』を原本としている。『百済記』とは『百済新撰』・『百済本記(くだらほんき)』とともに『日本書紀』の編纂にかかせない文献資料であった。合わせて「百済三書 (くだらさんしょ) 」と略記される。いずれも百済の歴史を記録した歴史書で、現在には伝わっていない逸書であるが、その逸文が『日本書紀』にのみ引用された。
  百済三書の成立過程は判然としないが、当然、『日本書紀』成立の養老4(720)年以前に成立していたのは確かであるが、後世、『三国史記(さんごくしき)』を、高麗17代の仁宗の命を受けて金富軾(キム・プシク)らが作成した。朝鮮半島の三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを記す紀伝体の歴史書である。それが朝鮮半島に現存する最古の歴史書となる。1,143年に執筆が開始され、1,145年に完成した全50巻であるが、余りにも後代の編纂であった。

  井上光貞氏は、660年の百済滅亡に、当時交流の盛んだった倭が大量の亡命者を受け入れたことで百済の記録も日本にもたらされ、これらを史料に当時の亡命知識人によって百済三書が編纂された可能性を指摘した。この説に従うと、三書の成立は663年から720年の間となる。
  『日本書紀』では「百済本記」から、継体紀及び欽明紀の13項目の記事に18回引用している。これは『書紀』中に、引用されている外国系の史書中、最多である。「百済本記」は『書紀』の編纂過程で、最も信頼され、重宝された文献であったようだ。
  「百済本記」「百済記」「百済新撰」の「百済三書」は、その内容から『日本書紀』編纂時に、日本の朝廷に官人として仕えていた亡命百済人が、立場上、その当時の編纂意向に迎合し、歴史的事実を改変した記事も少なくないとみられている。ただ『日本書紀』は、現代の度重なる考古学的成果とは矛盾していない、寧ろ最重要な史料として再認識されている。

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 7)継体天皇ヤマトに入れず
  継体天皇は、
 「元年正月12日、天皇、樟葉宮(くすはのみや)に行至(いた)る」とある。
 樟葉宮の所在地は、『和名類聚抄』に「河内国交野郡葛葉郷」とあり、現在の枚方市楠葉野田である。継体天皇は、大和に入れないまま、河内で58歳と、当時としては高齢な即位であった。
 『日本書紀』の本文によれば、その後20年程して、漸く
 継体天皇「20年秋9月13日に、磐余玉穂(いわれのたまほ;桜井市池之内)に都を遷した(ある本では、7年也という)」。
 大和の臣姓グループの勢力に、大和入りを阻まれたようだ。20年経過して迎え入れられ、77歳で、大和の磐余玉穂に宮を構えた。しかし僅か4年半で継体天皇は崩じた。

 オホド王は河内の樟葉宮で即位した。大伴金村は、河内にある古代からの拠点を基盤にして、連姓グループの結集をはかった。河内の茨田連小望(まむたのむらじをもち)の娘関姫を妃に迎えた。樟葉宮がある枚方の地域は、淀川水系の要衝で渡来系の人々と深くかかわっていた。
 『播磨国風土記』に揖保郡(いぼこうり)枚方里の伝承が載る。河内国茨田郡枚方里の漢人が、播磨の当地に移住して来て「枚方」と名付けた、とする。現在の兵庫県太子町の「平方」あたりという。
 「茨田の堤」は、大阪府枚方市から守口市付近にかけての、淀川東岸に築かれた古代の堤防で、仁徳天皇が淀川の氾濫を防ぐため造らせた。名称は古代の郡名に由来する。
 『古事記』は「秦人(はたひと)を役(えた)して茨田堤と茨田三宅(屯倉)とを作り」とあり、『日本書紀』では新羅人に造らせたという。いずれにしろ渡来系の人々との関係が深い。しかも「茨田三宅」とは、河内国茨田郡の幡多郷(はたごう)の東隣りが交野郡三宅郷である。三宅郷は交野市の西部で、寝屋川市の東部の幡多郷に隣接している。
 仁徳紀13年9月条に「始めて茨田屯倉を立つ。因りて舂米部(つきしねべ)を定む」とあり、樟葉宮近くに大王家の料地があった。舂米部は屯倉に置かれた米を舂くことを職業とする部民で、それを管掌する伴造が舂米連であった。
 宣化紀元(536)年5月条に「河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ」と記録された。
 『新撰姓氏録』によれば、渡来系の茨田村主(すぐり)が居て、同じく渡来系の交野忌寸(いみき)が枚方市から交野氏に辺りに住んでいた。交野市の倉治(くらち)・津田・藤阪などの古墳群からは、秦氏など朝鮮半島南部からの渡来系氏族のものとみられる石室が出土している。倉治には交野郡衙跡とされる郡津(ごうつ)や、その倉跡もあり、付近には条里制遺構も発掘されている。「枚方」の由来が、淀川に連なる平らな潟であったためであれば、樟葉宮は淀川水系の平潟の近くに在った。

 「(継体)5(511)年冬10月、都を山背の筒城(つつき)に遷す」。木津川の辺にあたる山城国綴喜郡(つづきのこおり)である。多々羅地区には「都谷(みやこだに)」という地名があり、それを「筒城宮」の御在所とする根拠にした。同志社大学京田辺キャンパス内に「筒城宮址の碑」がある。しかし、大々的に造成され、かつての丘陵の姿は変貌を遂げている。継体天皇は7年間この地で過ごした。
 筒城宮が置かれた多々羅という地名は、世界各地でみられた原初的な製鉄法に由来するのだろうか。製鉄に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)をたたら(踏鞴)と呼ぶ。ヤマトと緊張関係にあったため鉄製武器による軍事的優位性を狙う意図もあったのだろうか。
 また踏鞴製鉄は大量の木炭を燃料とする。原料となる砂鉄の採取は山間部の渓流を利用して行われた。この地域は木津川に面し、その水利を利用できる。
 更に、継体の出自とされる近江に近い、そのため軍事的にも継体天皇にとって好条件であった。
 継体天皇は、近江の三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹の若比売、三尾君堅( みおのきみかたひ)の娘の倭媛(やまとひめ)、息長真手王(おきながのまてのおうきみ)の娘の麻績郎女(をみのいらつめ)など近江出身3人を妃としている。
 継体天皇と同様、応神天皇の後裔ともみられる息長真手王の娘の広姫は、継体天皇の孫の敏達天皇の皇后となった。
 息長は近江国東部の地名で、坂田郡息長村で現米原市にあった。継体天皇は近江の高島で生まれ、越前の高向で養育された。山城国綴喜郡の「筒城宮」は、ヤマトでの覇権を窺う戦略上枢要な地域であり、背後の近江や越前から兵力の動員も期待できた。ヤマトを西の河内から大伴金村が攻勢を強め、北から継体天皇の本体の軍勢が脅かす戦術が、大和の臣勢力の脅威を増した。
 木津川は、三重県伊賀市で柘植川と服部川、京都府相楽郡南山城村で名張川と合流し、京都府で淀川に流入する。木津川の南岸にある木津は、現代でも交通の要衝である。古代では、藤原宮造営用の木材が、近江長浜の田上山から伐りだされて、琵琶湖を南下して瀬田川・宇治川を下り、宇治津で宇治川が流入していた巨椋池(おぐらいけ)で、木津川(泉河)を南に遡上して、木津(泉津・泉木津)で陸揚げされた。陸路、平城山を越えて飛鳥京へ運ばれた。
 巨椋池は、京都府南部にあたる京都盆地の中央部、盆地の最も低い地域に、昭和10年代まで存在していた大きな湖沼であった。当時の面積約 7k㎡あり、宇治川・木津川(泉川)・葛野川(かどのかわ;桂川)・鴨川・櫃川(ひつかわ;山科川)など、京都盆地の全水系が集中する地点にあたり、与等(よど;淀)津・三室津・岡屋津・宇治津などが結ぶ水上交通の中継地となっていた。従って、河内の摂津や交野郡衙跡とされる郡津から木津までの水運は拓かれていた。また宇治茶園の覆いに用いた葦などの恵みもあった。
 琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川が、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。それが淀川となり、難波津に流れ出た。
 現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる巨椋池は、平安京と平城京の間に位置しており、陸上交通は、その池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。
 木津川は、古代では泉河とよばれ、木津川水運を利用した「泉津」が、その役割を担った。平城京へ遷都すると、「泉津」は淀川と結んだ西国からの物資陸揚げ地ともなり、平城京の「外港」としての重要性が一段と高まった。
 継体天皇の子の欽明天皇の政権は、越の海の海岸から高句麗との交易・交流を見据えて、この水系を念頭に置きながら高句麗の使節を迎える相楽館を建てた。相楽郡は、笠置町(かさぎちょう)・和束町(わづかちょう)・精華町(せいかちょう)・南山城村(みなみやましろむら)の3町・1村を含む。

 継体天皇は、京都府長岡京市今里付近の弟国宮(おとくに;乙訓)へ移った。乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を指す地名である。
 『日本書紀』は「6年夏4月6日、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を遣わし、百済に使わせしむ。よりて筑紫国の馬40匹(よおぎ)を賜う」とある。
 押山は6年12月条や23年3月条に、任那国の上哆唎(おこしたり)国守・下哆唎(あるしたり)国守とあるから、単なる使者ではなく執政官として派遣されていたことになる。穂積臣は物部氏の氏族で、天武13年11月に、朝臣の姓を授けられた。
  「12(518)年春3月9日、弟国(おとくに)に都を遷す」とある。長岡京市と向日市(むこうし)の全域と京都市西京区および南区・伏見区のそれぞれ一部もかつては山城国乙訓郡に属していた。弟国は、6世紀初めの継体の頃には、まだ川ではなく河内から巨椋池に続く海に臨んでいた。現在の桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる辺り、その古代の海を挟んで、樟葉宮のあった半島状の男山丘陵の対岸にあった。海と川との水運に恵まれていた。
  桂川(葛野川;かどのがわ)以西の西京区と、乙訓郡(向日市・長岡京市を含む)をあわせて、西ヶ岡あるいは西山とよばれる。乙訓郡と呼ばれる地域は、葛野郡から分離して成立したもので、兄国に対する弟国と解するのが正しいとされている。
  その郡域は、東と南に桂川が流れ、西は摂津・丹波と国境を接し、北は大枝(おおえ)から樫原(かたぎはら)の要路である。
 古来、西国街道と山陰街道を結ぶ街道として物集女街道(もずめかいどう)が利用された。京都市西京区(にしきょうく)の樫原で山陰街道から分かれてまっすぐ南下し、京都府向日市物集女町を通って、寺戸(てらど)で西国街道に合流した。
 継体天皇の時代の6世紀初頭には、桂川の右岸の西京区や太秦がある左岸の右京区のあたりから京都市南部を含む地には、渡来系の一族である秦氏が勢力を伸張していた。秦氏の系譜を記した『秦氏本系帳』によれば、秦氏が一族をあげて葛野川に取水堰を築いたという。これによって秦氏は5世紀後半、その流域の開発に成功し、「葛野大堰(かどのおおい)」と呼んだ。葛野川を大堰川(おおいがわ;大井川)と称する由来となった。平安時代に桂津が発展したために桂川が通称となった。この秦氏の氏寺的な存在が、厩戸皇子(聖徳太子)の特別な近侍者(きんじしゃ)として、『日本書紀』に皇子より「我、尊き仏像あり」と賜って造立した、秦河勝ゆかりの葛野秦寺(かどののはたでら)であった。この寺が右京区にある太秦広隆寺の前身である。
 治水開発の成功により、葛野の秦氏は、京都の伏見稲荷や嵯峨の松尾山(まつのおやま)の麓に営む松尾大社の古社を創建した。
 筒城宮でヤマトに近づいた継体天皇が、弟国というヤマトから遠い地域に宮を移したのは、弟国は淀川水系一つ、桂川右岸を押さえ、淀川(樟葉)・木津川(筒城)・桂川(弟国)と巨椋池の水運を、より効果的に支配するためとみられる。
 物集女(もずめ)の由来は、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず・現在の大阪府堺市あたり)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだことによるとされている。
 秦氏の「秦」は「波陀(ぼだ)」とも書かれ、朝鮮語では「海」を意味するそうだが、『三国史記』(金富軾ら編集)の地理志に、慶尚北道の「波旦県」が記されている。また朝鮮半島の慶尚北道の蔚珍郡(ウルチン・グン)の古地名に「波旦」がある。
 昭和61(1988)年3月、共同通信が、慶尚北道蔚珍郡竹辺面(チュッピョンミョン )鳳坪里(ポンピョンリ)で、524年の「新羅古碑」が農民の農作業中に出土した、と報じた。そこには、新羅六部や王以下の高官が蔚珍郡の住民を徴発したこと、「奴人法」や「殺牛まつり」などの記述があり、その碑文に「波旦(バタン)」という古地名が明記されていた。
 これにより秦氏の「秦」は「波旦」に由来し、秦氏を新羅系とみて朝鮮半島南部の東側を出自とする説が有力となった。
 新羅系の秦氏は、山城・大和・近江・越前・播磨・周防・豊前をはじめ各地に勢力を伸張させた。特に京都市西郊の葛野に秦氏の首長(秦造)秦河勝が居た。
 『日本書紀』欽明天皇即位前紀に
 「秦人の戸の数、すべて7,053戸、大蔵掾(おおくらのふびと)を以て、秦伴造と為す」とある。
 「大蔵」は、ヤマト王権の官物を収蔵する倉庫及び役所で、令制下の大蔵省の前身である。
 深草秦氏の大津父(おおつち)が記され、巨椋(おぐら)や伏見の秦氏はつまり桂川左岸の京都市伏見区深草の秦氏であったようだ。深草には深草屯倉も置かれていた。

 皇極天皇2(643)年11月、ついに上宮王家滅亡の時が来た。蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲した。山背大兄王らは生駒の山中に逃れた。
 「山背大兄王たち、四五日(よかいつか)の間、山に淹留(とどま)り、なにも喫飯(くら)えず。三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が、進みでて『深草屯倉に移向(おもむき)、そこより馬に乗り、東国に詣(いた)り、乳部(みぶ;上宮乳部の民;聖徳太子のために置かれた部民)を以て本(もと)となし、師(いくさたち;軍)を興して還(かえ)りて戦わん、その勝たんこと必(かなら)じ』と勧めた」とある。
 「深草屯倉」の深草は、『和名類聚抄』に山城国紀伊郡深草郷とある。欽明天皇即位前紀にある深草秦氏の大津父の出身地である。ヤマト王家の料所として古くから栄えていたようだ。

 河内王朝の始祖とみなされる応神天皇の時代、ヤマト王権の勢力が内外に飛躍的に発展した。「宋書」の倭の五王の一人、讚をこの天皇とする説がある。
 『日本書紀』の
 応神天皇15年秋8月条  「6日、百済王、阿直伎(あちき)を遣い、良馬2匹を貢(たてまつ)る。そこで軽(橿原市大軽町付近)の坂上の厩で養(か)わしむ。因りて、阿直岐を以て掌(つかさど)り飼わしむ。故にその馬をかう所を名付けて厩坂(うまやさか)という。阿直岐、また能(よ)く経典(経書・典籍)を読めり。即ち太子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師(みふみよみ)とす。
 是に天皇は阿直岐に問いて曰く『如(も)し汝(なんじ)に勝る博士(みふみよみひと)、また有りや』。
 対(こた)えて曰く『王仁という者あり、これ秀(すぐれ)たり』
 時に上毛野君の祖、荒田別(あらたわけ)・巫別(かむなきわけ)を百済に遣わし、仍(よ)りて王仁を徴(め)す。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖なり」
 16年春2月条
 「王仁来たれり。即ち太子菟道稚郎子の師なり。諸の典籍を王仁に習い、通達せざるということがない。いわゆる王仁は、これ書首(ふみのおびと)らの始祖なり」
 王仁は、千字文と論語をもたらしたと記されている。王仁一族は、漢籍専門の氏として、河内在住の史姓諸氏において中心的な地位を占めていく。  
 20年9月条にも
 「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類17県を率いて、来帰(もうけ)り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。

 筒城宮・弟国宮にしても大伴氏の基盤に近い樟葉宮とは、巨椋池でつながり、近江西部の三尾氏や東部の息長氏とも水路でつながっていた。また、樟葉宮・筒城宮・弟国宮のいずれも、朝鮮半島からの渡来系秦氏の勢力圏内にあった。
 継体天皇ばかりではない。厩戸皇子と山背大兄王や桓武天皇が、葛野の秦氏一族に頼る理由が、古代史を理解する要となっている。

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