筑紫とヤマト王権
                           継体天皇時代の朝鮮半島情勢 (筑紫磐井の乱)
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 目次
 1)武寧王
 2)加耶・金官国滅亡
 3)百済は任那にある四つの県の割譲を、倭国に要求
 4)大加耶の危機
 5)ヤマト王権の圧政と国造
 6)筑紫君磐井の乱
 7)金官国滅亡と継体天皇崩御
 8)磐井の乱後に増大する屯家
 9)犬養部は犬を飼養し屯家を守衛する部民

 1) 武寧王
 継体天皇の時代は、それまでの強引なヤマト王権の拡大とその強権に圧迫され、それに耐えてきた各地の王族が、今やヤマト政権は大王すら定められない内紛状態と知ると、一斉に蜂起した。
 その最中、
 『日本書紀』は「17(523)年夏5月、百済国の王(コキシ)武寧薨(みう)せぬ」とある。
 (『日本書紀』は、王を「コキシ」・「コムキシ」と訓む、それは百済語の呼称にならったことによる)

 『続日本紀』延暦8(789)年12月28日に、桓武天皇の生母高野新笠(たかののにいがさ)、「皇太后崩ず」とある。
 その皇太后高野新笠の薨伝、延暦8年12月附載に「后の祖先は、武寧王の子純陀太子(じゅんだたいし)より出ず。今上(桓武天皇)・早良親王・能登内親王を生めり」とある。

 継体天皇が『日本書紀』に「12(518)年春3月9日、弟国(おとくに)に都を遷す」と、いまだヤマトに入れなかった当時の百済情勢は、東城王が外征にも成果を挙げ、王権と国力の回復をはたしながら、晩年には暗君と化した。
 武烈天皇元年にあたる東城王21(499)年、夏の大旱魃により、被災した国民が飢餓に苦しみ、盗賊が各地で横行した。群臣達は国倉を開錠し救荒するよう請うが、王は拒否した。10月には、疫病が蔓延した。『高句麗本紀』には「百済の民が餓えて2千名が投降して来た」とある。
 その状況下、500年の春、王宮の東、忠清南道公州市錦城洞に高さ5丈(じょう;丈は身のたけの意で、古来180cm、5丈は9m)もの臨流閣を築き、池を掘りに珍しい鳥を飼うなどの贅の限りを尽くした。
 臣が上書して諫言したが、その臣下を遠ざけた。同年も旱魃があったが、側近とともに臨流閣で一晩中の宴会をするなどしていた。こうした腐敗振りに、501年11月、衛士佐平の白加(ハクカ;白はくさかんむりに白)の放った刺客に刺され、12月に死去した。諡は東城王である。
 東城王の後に即位したのが、第2子の武寧王(ブネイオウ;在位:501年 ~ 523年)であった。昭和46(1971)年に、古代の熊津の地である忠清南道公州(コンジュ)の宋山里古墳群から、排水工事中に、武寧王墓が全く盗掘されていない状態で発見され、墓誌石(買地券石;ばいちけんせき;土地の売買証明書)も共伴し、そのアーチ形の煉瓦造りの磚築墳(せんちくふん;焼成煉瓦を積み重ねた墳墓)が王墓と特定された。
 王と王妃の墓誌石には「寧東大将軍百済の斯麻王(武寧王)、年62歳、 癸卯(523)年5月7日に崩到」と記されている。王の生没年が判明する貴重な史料となっている。その古墳は、王と王妃を合葬した磚室墳で、武寧王の没年が523年、陵の築造が525年、王妃の没年が526年、その王妃は529年に武寧王陵に追葬されたなど年代が明らかになった。その棺材は日本にしか自生しないコウヤマキと判明した。
 武寧王が最新の南朝文化の摂取につとめたため、王都は大いに繁栄していたとみられる。王と王妃のものと思われる金環の耳飾り・金箔を施した枕・足乗せ・冠飾などの金細工製品・中国南朝から舶載した銅鏡・陶磁器など約3,000点近い華麗な遺物が伴出した。
 武寧王陵の築造年代が明確になり、その多くの副葬品は考古学上の編年基準ともなり、朝鮮に現存する最古の史籍『三国史記』に記された武寧王の在位年などの伝承が史実であったことも証明された。
 武寧王の墓誌石にある「寧東大将軍百済の斯麻王、年62歳」とある武寧王の諱が「斯麻」であったことが、『三国史記』にも記されている。ところが『日本書紀』の雄略天皇5年6月の条に「孕める婦(め)、果して加須利君(かすりのきし;蓋鹵王;こうろおう;『三国史記』によれば在位455~475)の言(こと)のごとく、筑紫の各羅嶋(かからのしま;佐賀県唐津市鎮西町加唐島)で兒(こ)を産めり。よりてこの兒を名付けて嶋君(セマキシ;武寧王の諱)という。ここに軍君(コニキシ;蓋鹵王の弟)、一つ船を以て嶋君を国に送った。これを武寧王となす。百濟人、この嶋を呼んで主嶋(ニリムセマ;ニリムは古代朝鮮語で“国主”)という」
 武烈天皇4(501)年「今年、百済の末多王(マツタオウ)の無道、百姓(たみ)を暴虐。国人(くにひと)遂に除(す)てて嶋王を立つ、これを武寧王となす」とあり百済新撰の註記を「末多王は無道、百姓を暴虐、国人共に除(す)つ。武寧王立つ、諱は斯麻王、これ琨支王子(コンキセシム)の子、則ち末多王の異母兄なり」と引用した。
 この条は、すべて百済新撰を引用したようだ。末多王は三国史記にある昆支【コンキ】の子で名は牟大、諡は東城王とあり、日本から王として百済に送り返されたことが雄略23年4月条に載る。
 雄略天皇5年4月と6月の条に琨支の来朝と、武寧王が実は琨支の兄の蓋鹵王の子とある。
武寧王は「斯麻王」と称され、佐賀県唐津市鎮西町の各羅島(加唐島)で生まれ、在位は501年~523年であった。


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 2) 加耶・金官国滅亡
 6世紀に入ると、半島情勢は大きく転換し、新羅の法興王(ポップンワン;在位:514年 ~ 540年)は、「兵部」を設置するなど国家組織を整備し、520年には官位制を中心とする「律令」を発布し、翌521年には、中国南朝の梁に朝貢する。
 台頭著しい新羅は高句麗南部へ領土を拡大させた。
 一方、百済の武寧王の南進策により、半島の西南端にあった馬韓地域が、更にその東方、倭国の半島の拠点があった加耶諸国が次々と両国に併呑され、遂には滅亡した。
 その間、慶尚南道金海付近にあった金官国に、新羅が洛東江(ナクトンコウ)を渡り入り込んでくる。金官国は侵攻を受けつつ532年降伏、倭国は金官国の独立回復を画策したが562年には滅亡した。
 このような中で武寧王の次に即位したのが、その子の聖王(ソンワン)である。

 「18年春正月、百済の太子明(めい)、位に即く」。武寧王の子、聖明王(聖王)である。百済の第26代の国王で在位523から554年と長い。朝鮮正史『三国史記』の聖王にあたる。欽明天皇紀の日本と親善関係をむすび、高句麗や新羅と戦う。釈迦仏像・経典を最初に日本に伝えたという。
 554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、新羅国に入って、久陀牟羅の砦を築いた。孤立した王子余昌(後の威徳王)を救援しようとして、途中の狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ、捕らわれ斬首され、首は穴に埋められた。在位32年。諡されて聖王といった。諱は明穠(ミョンノン)
 窮地の王子余昌は、筑紫国造の奮戦で助け出された。

 継体天皇「20(526)年秋9月13日に、磐余玉穂(いわれのたまほ)に都を遷した(ある本では、7年也という)
 継体天皇は即位後、20年目の526年の秋9月13日、山城国乙訓にあった弟国宮から大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)へ都を遷した。ようやくヤマト大王の王城の地に宮を築くことができた。その所在地は、現在の奈良県桜井市池之内付近であろうとされている。「玉穂」は本居宣長著『古事記伝』では美称としている。
 磐余(いわれ)とは、現在の桜井市南西部の池之内・橋本・阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である。
 第17代 履中天皇の時代に磐余に潅漑用の巨大な「磐余の池」が築かれた。

 3世紀、邪馬台国までの里程記述に、半島から列島への渡航地として、狗邪韓国という国が記される。この国が半島南部の大河、洛東江河口の右岸に所在した、後の金官国(慶尚南道金海市付近)であった。金官国は、または「駕洛国(からこく)」とも「金官加羅」ともいう。「カラ」とは、本来は金官国の固有名であった。やがて「韓」と表記し、朝鮮の総称となった。
 金官国は洛東江河口の良港であり、古来より列島との交流の拠点であった。倭政権が誕生すると「任那」と称し、大陸外交の機関を置いた。やがて4世紀代から5世紀前半にかけて金官国の全盛期となり、加耶諸国の最有力国となる。すると金官加羅の固有名であった「カラ」が加耶諸国の汎称となった。
 5世紀後半、倭国ともっとも緊密であった金官国が衰退すると、代わって北の慶尚北道高霊の伴跛国(はへこく)が有力となる。伴跛国を「大加耶」と呼ぶようになる。
 「加耶」は、本来、朝鮮半島南部の慶尚南道を中心に、その周辺もある程度含んだ地域名であった。やがて朝鮮の三国時代、百済や新羅に併呑されずに存続した諸小国群全体を指すようになった。その範囲は時代により変動する。一般には洛東江下流域が中心だが、時には中流域まで及ぶこともあった。
 狭義の加耶は、たとえば六加耶などの特定の国を指す。ちなみに、六加耶とは、以下の国々をいう。
 『三国遺記』には、金官伽耶(きんかんかや;金海)・阿羅加耶(あらかや;咸安)・古寧加耶(こねいかや;咸昌)・大加耶(おおかや、だいかや;高霊;コリョン)・星山加耶(または碧珍加耶;星州)・小加耶(こかや;固城)の六加耶を、その他に、卓淳(とくじゅん;大邱)・非火(ひか;昌寧)・多羅(たら;陝川)、己汶(こもん;蟠岩・南原)・多沙(たざ;河東)などが加耶に含まれた。
 『日本書紀』の「任那」とは、加耶諸国の汎称として使われたが、加耶は、一般に言われているように、朝鮮半島南部の小国群の呼称ではなく、実は、加耶諸国の一国である金官国の別名にほかならない。
 「広開土王碑」に、永楽10(400)年、新羅に進軍した高句麗軍が、新羅王都の倭軍を追い払い「任那加羅」まで追撃したと記されている。
 924年に慶尚南道の昌原の鳳林寺に建てられた「昌原鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑(しょうげんほうりんじしんきょうたいしほうげつりようくうとうひ)」には、「大師は諱(いみな)を審希(しんき)といい、俗姓は新金氏(しんきんし)、その先祖は任那の王族に連なる、・・・我が国に投ず」とある。
 「我が国に投ず」とは、532年に金官国最後の王金仇亥(きんきゅうがい)が、妃・長男の金奴宗・次男の金武徳・三男の金武力とともに新羅に投降したことをいう。この碑は、現在はソウルの景福宮内にある。
 『三国史記』の強首(きょうしゅ)伝にも「臣本任那加良人(良民)」という一文がある。その他に、倭の五王が要求した都督諸軍事の称号の中に「任那」が頻繁に入っている。「任那」という地域名は、『日本書紀』の独善で使われたのではない。古来、朝鮮半島の一地域の呼称として厳存していた。
 百済から贈られた七支刀より、 日本列島の倭が朝鮮半島南岸の諸国と4世紀後半に通交していたことが確認された。
 『日本書紀』によれば、神功皇后47年(367)、百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきた。その一年前にその仲立ちをしたのが、現在の昌原地方にあった卓淳国であるという(田中俊明氏などの説)。百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても倭の強力な軍事支援を必要とした。以来、毎年のように使節を派遣する。
 5年後の神功皇后52(372)年には、百済が、現在、石上神宮にある七支刀を送ってきたとある。倭から派遣された千熊長彦(ちくまながひこ)と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたという。七支刀はこの同盟を記念して作られた。
 広開土王の顕彰碑によれば、399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通したため、広開土王は百済を討つため平譲まで進軍してきた。ちょうどそのとき新羅から使者が来て、「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としてしまった。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と申し出た。そこで、広開土王は新羅救援軍として5万の大軍を新羅へ派遣したという。400年のことである。

 広開土王の碑文によれば、その頃、倭軍は男居城から王都の新羅城まで満ち満ちていた、という。高句麗軍はその倭軍を追い払い、更に退却する倭軍を追って任那加羅(金海)の従抜城まで来ると、城は帰服したという。しかし、安羅(咸安)の軍などが逆をついて、新羅の王都を占領したとされている。

 顕彰碑の碑文の性格を考えれば、国境に満ちていたとする倭軍の規模や派遣された5万の高句麗軍の記事などは、割り引いて考えなければならない。だが、一定の史実を背景とした記述とされている。この頃の加耶諸国は、侵入してきた高句麗軍を反撃するほどの強力な軍事力があり、倭政権とは緊密な協力関係にあったことが知られる。

 だが、5世紀の前葉には、金官国の丘陵の稜線に築かれてきた王墓が急に中断され、その後は、これらの王墓が破壊され、その上に小型墳が造られるという現象が生じている。これは加耶地域の中で金官国があった金海地域だけに見られる特別な現象である。他の加耶地域では5世紀中葉から、支配者の墓として竪穴式石室をもつ壮大な円墳が築かれるようになるのとは、極めて対象的である。このことがどのような歴史的事実をはらんでいるのか、非常に興味深い。

 高句麗の攻勢と勝利、倭と結んだ金官・安羅・卓淳などの加耶南部の敗北が、大成洞古墳群の5世紀前葉からの衰退と、何らかの関係があると思われる。高句麗の武力を伴う脅威は新羅を越えて加耶に及んだ。こうした高句麗や新羅の外圧に対して、3つの可能性が指摘されている。南部加耶の支配者集団が解体し、他の政治集団に吸収された。加耶の北の方の大加耶あるいは伴跛(はへ)へ移住した。または倭へ移住した。以上の3つである。

 加耶諸国の発展段階は4世紀から5世紀前半段階と、5世紀後半から滅亡する562年に至る6世紀中葉の段階とに大きく分けることができる。洛東江の流域に割拠する金官・安羅・卓淳などの諸国が成立するのは、4世紀の中葉を中心とする時期だろうと想定されている。5世紀後半になると新羅勢力が東の方から侵攻してくる。その影響で倭国と最も緊密な関係にあった金官国などが衰退し、代わって北の大加耶(伴跛国・はへ・慶尚北道高霊)が台頭する。470年代には、この大加耶を盟主に、加耶北部から西部にかけての諸国が連盟を結成する。この大加耶連盟は、はやくから倭国と友好関係にあった金官・安羅・卓淳などの加耶南部諸国とは一線を画し、別個の政治勢力を構成していた。479年に大加耶国王の荷知(かち)が南朝の斉に初めて朝貢し、柵封されている。

 雄略天皇は、「加耶」を中心とする渡来人の先進技術・文物を独占的に掌握する事により、列島支配が強化され、その理念とした「治天下大王」が名実ともに結実する。倭政権は478年の倭王武の遣使を最後に、600年の第一回遣隋使まで、120余年にわたって中国王朝との通交を絶った。

 加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。5世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官国の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)・馬具・甲冑などの渡来系文物の系譜は、5世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。しかし、5世紀後半になると、おおむね高霊を中心とした大加耶圏から伝来する。

 この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や慶尚北道の「波旦県」を出自とする秦氏(はたうじ;慶尚北道の蔚珍郡【ウルチン・グン】の古地名に「波旦」がある)などは、倭政権との関係が深まり、その代表的な渡来系氏族となる。
 5世紀末になると、百済の勢力が加耶諸国に武力侵攻してきた。加耶諸国は新羅や倭政権に仲介を求めてきた。一方、百済は倭の朝廷に五経博士などを送り、加耶諸国西部の領有を国際的に認めさせようとした。


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 3) 百済は任那にある四つの県の割譲を、倭国に要求
 『日本書紀』によれば、512年、百済は任那にある四つの県の割譲を、倭国に要求してきている。この地域は百済と国境に接する半島南部の西海岸沿いの地域である。
 物部氏の頭領だった物部麁鹿火(もののべのあらかい)は、この任那割譲に反対したが、継体天皇の擁立を推進した大伴金村(おおとものかなむら)は「百済が要求する地域は倭国にとってあまりに遠方すぎる、影響力を及ぼすのは困難である。しかし百済にとっては地続きの好地ですから、ここで百済に好餌を与えておけば、先々の両国関係を良好に維持することにも繋がる」と主張し、加耶につながる四県の百済割譲を許した。

 この軽率な割譲処置は、隣接する加耶諸国に大きな衝撃を与えたばかりか、倭国と百済に対する不信感が一挙に高まり、加耶諸国は高霊加耶を中心に、新羅と同盟を結んだ。この倭政権の軽率な決断により、新羅もこれを契機に積極的に加耶地域に勢力を拡大した。525年には、洛東江中流域に、沙伐州(さばつしゅう)を設置し軍政を布き百済と対立するようになった。こうして、百済と新羅に挟まれた加耶諸国は、両国の草刈り場の様相を呈した。新羅や百済の勢力が強まるにつれ、金海の金官国をはじめとする南部地域の勢いが弱まり、加耶諸国は自衛のために高霊の大加耶を中心とする連盟を結成して、これに対抗した。

 連盟体制下で、加耶諸国の支配者層の代表が集まって外交・軍事の実務を協議した。しかし各国の利害が対立し、親百済派と親新羅派が生じて連盟体制の内部に大混乱が生じた。その混乱を巧みに利用して新羅が勢力を広げた。532年には金海国などを、562年には高霊加耶を中心とする残余の勢力を併合してしまった。

 『日本書紀』は「継体6(512)年夏4月6日、穗積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に遣わした。そのため筑紫国の馬40匹を賜った。
 冬12月、百済が使者をつかわし調(みつぎもの)を献じ、別に上表して任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県を賜ることを請うた。哆唎国(たりのくに)の宰(みこともち)穗積臣押山は奏上して『この4県は、遠く日本から隔たるが、百済と連なり、旦夕に通交がし易く、鶏や犬の鳴き声もどちらのものか区別がつかないくらいです。今、百済に賜い同国と合わせれば、固く保たれるため、これに過ぎたる施策はありません。
 それでも望むままに百済と合わせ賜えば、後世、いっそう危うくなるかもしれませんが、離間したままでは、幾年も守り通せません』と言った。
 大伴大連金村は、この意見に添えて、同じく計策し奏上した。物部大連麁鹿火(ものべのむらじあらかい)を、勅(みことのり)を宣(のたま)う使いとした」。
 この決定には異論が多く、大連麁鹿火の妻も強固に諌めた。大連がそれに答えて『その意見はもっとだが、天皇の勅命に背くことは恐れ多い』と言う決まり文句に対して、妻は切に諫言し『病と称し、勅宣しないことです』と言う。大連は妻の諫に従った。(中略)
 そのため、使者を代えて勅を宣べさせた。賜物と詔書を、上表に添えて任那4県を賜った。大兄皇子(後の安閑天皇)は、『前もって他用があり、国を賜う件に関わらなかった。後に宣勅を知り驚き悔み改めようとした。令(のりごと)して『胎中之帝(ほむたのすめらみこと)以来、官家(直轄地)を置いていた国を、なんじらは蕃国が乞うままに軽々しく従い賜わったものよ』と言った。それで日鷹吉士(ひたかのきし;吉士は朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた古代の姓)を遣わし、百済の使者に勅を改めると宣べると、使者が答えて『父君の天皇が、便宜を図られて賜る勅命が既に下されました。子の皇子が、どうして帝勅を違えて、妄りに改められるのでしょうか。これは必ず偽りごとでしょう。たとえ事実としても、杖の太い頭で打つ方のと、小さい方で打つのと、どちらが痛いでしょうか』と啓すると退出した。
 このため疑われ、流言となり『大伴大連と哆唎国守(宰;みこともち)の穗積臣押山は、百済から賄賂を受け取っている』と言われた」。
 上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県とは、朝鮮半島西南端の全羅南道栄山江(ヨンサンガン)流域から蟾津江(ソムジンガン)の求礼(クレ)付近の当時馬韓と呼ばれた地域に比定されている。
 哆唎国守の穗積臣押山とあるが、「国守」とは律令制下の国司の長官であるから、この時代では「宰(みこともち)」と呼ばれる倭政権の地方の長官であった。押山はこの継体6(512)年から、哆唎地域の宰として派遣され17年以上に亘って駐在していた。「四県割譲」のように、百済の要望を取り次いだり、百済の使者を倭国へ帯同したりする大使館の駐在官的な使臣であった。時には、百済の要請を受けて軍事行動もしていた。


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 4) 大加耶の危機
 現在まで5世紀後半から6世紀半ばに集中する前方後円墳が、全羅南道の栄山江(ヨンサンガン)流域を中心に13基、全羅北道地域に1基の計14基出土している。周濠をめぐらし、埴輪を立て並べ、盛土を階段状に段築するなど、列島固有の前方後円墳であった。
 前方後円墳は首長墓であるから、475年の百済の熊津(ウンジン)遷都から6世紀にかけて、馬韓地方に穗積押山のような首長クラスが派遣され、やがて列島式の首長墓に葬られる人物が少なからずいたことになる。
 5世紀後半における熊津遷都以降、新羅勢力が西の方へ侵攻する形勢となり金官国の凋落が目立ち、倭政権は百済との関係をより緊密にした。
 『日本書紀』は「継体7(513)年夏6月、百済は姐弥文貴将軍(さみもんきしょうぐん)・洲利即弥将軍(つりそに)を遣わし、穗積臣押山(百済本記には、委【やまと】の意斯移麻岐弥【おしやまきみ】とある)に付き添わせて五経博士段楊爾(だんように)を奉った。別に奏上して『伴跛国(ハエー;大加耶)が、臣の国の己汶の地(コモン;蟾津江流域)を略奪した。伏してお願いいたします。天恩で判断いただき本属(もとつくに)に返させて下さい』と申した」。
 「伴跛国」は慶尚北道の高霊(コリョン)の地で、5世紀初頭までの「加耶」は、慶尚南道の金海が中心であったが、後半以降は「伴跛国」を「大加耶」と呼んで、北道を中心に連盟した。
 『日本書紀』は、倭国や百済が「己汶」や「多沙」を領有していたように記すが、「己汶」や「多沙」は「大加耶」を盟主とする大加耶連盟に参加していた独立国で、百済が東進して勢力を伸張してきた状況を語っていた。
 東城王が501年12月に暗殺された後、王都熊津で即位した武寧王は、新羅と共同して北の強国高句麗と戦い、しばしば漢江(ハンガン)流域で高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。熊津は大いに繁栄した。
 武寧王は「四県割譲」という半島西南の馬韓地方を制圧した。武寧王は全羅南道の西部まで進出し、ついに東進して大加耶連盟に加入している「己汶」や「多沙」へ侵攻した。その見返りとして武寧王から五経博士が交代制で貢進された。五経とは『詩経』・『書経』・『礼記』・『易経』・『春秋』の五経であり、すべて孔子以前からの書物である。
 五経博士は前漢の武帝が、五経を教授し文教をつかさどるために制定した学官で、それぞれを専門に弟子に教える博士であった。後に科挙の仕事にも携わった。
 『日本書紀』は、百済の武寧王が、継体7(513)年に、五経博士段楊爾(だんように)を渡来させ、その3年後には帰国させ、かわって漢高安茂(あやのこうあんも)を渡来させた。段楊爾らは、五経全部に精通し教授した学者であったようだ。
 『三国史記』「百済本紀」の聖王19年の条に「毛詩(詩経)博士」が記されている。継体天皇の時代に、百済から儒教に関する博士が最初に渡来した。
 武寧王は、馬韓の東北に隣接する加耶へ進出をはかった。「四県割譲」の際、倭国の対応に不信を抱いた加耶諸国の懸念が、早くも現実のものとなった。百済は蟾津江の上中流域にあった己汶を略奪したことで、大加耶連盟の盟主の伴跛国と戦闘状態に入った。武寧王は、倭国に軍事援助を要請してきた。
 『三国史記』は大加耶が、姻戚関係にある新羅に救援を求めた。一旦は応じたが、その後間も無く新羅も加耶南部を侵略していった。
 同年、伴跛国も倭国に珍宝を貢上し軍事援助を要請してきたが、百済支持を変えなかった。
 『日本書紀』は「継体8(514)年3月、伴跛は、子呑(しとん)・帯沙(たさ;蟾津江の河口近くに姑蘇城あり)に築城し満奚(まんけい)と結ぶ百済に対する防御ラインとした。烽候(狼煙台)と邸閣(武器庫)を置き、日本に備えた。また、爾列比(にれひ)と麻須比(ますひ)に築城し麻且奚(ましょけい・推封;すいふ)と結び大加耶の南側の防御ラインとした。その上で士卒と兵器を集め、新羅に迫った。子女を追いかけ回して略奪し、村里を剥奪した。その凶悪な軍勢が襲った所には生存者はまれで、その暴虐は度が過ぎ、犯された惱害により、厳しく責め殺された者が甚だ多く、詳細に記せないほどであった」
 これ以後、伴跛などの加耶諸国は新羅と婚姻外交を果すが、やがて、その通婚も破られ新羅は加耶を侵略する。
 「9年春2月4、百済の使者文貴将軍(もんくいしょうぐん)らが帰国を願った。勅して物部連(名は伝わらない)を副えて帰国の際に遣わした(百済本記には、物部至至連【ものべのちちのむらじ】とある)。
この月、沙都嶋(さとのしま;巨済島)についた時、伴跛の人が恨を懐き悪意に満ち、强さを頼んで暴虐の限りを尽くしている、という風評が聞こえた。それで、物部連は、水軍五百を率いて、直ちに帯沙江(たさのえ:蟾津江の河口)まで進んだ。文貴将軍は、別れて新羅から百済へ向かった。
 夏4月、物部連は、帯沙江に停泊して6日間止まった。伴跛は、軍勢を揃えて討伐してきた。果敢に攻めかかり、身体を拘束し、衣服を脱がし、所持品を略奪し、帷幕(きぬまく;露営用の天幕)を悉く焼いた。物部連らは、畏怖し逃げるばかりであった。僅かに逃延びた者たちが、汶慕羅に停泊した(汶慕羅;もんもちと;は蟾津江外にある島名)
 継体10(516)年夏5月、百済は前部木刕不麻甲背(ぜんほうもくらふまこうはい;前部とは百済の貴族組織、上部・前部・中部・下部・後部からなる)を遣わし、物部連らを己汶に迎え労わり、先立って百済に導いた。群臣が各々衣裳・斧鉄(おのかね)・帛布(きぬ)を出し、国物(くにつもの;国の産物)と合わせて朝廷に積置き、慰問は慇懃で、賞禄(たまいもの)は時に豊かになった。
 秋9月、百済は州利即次將軍(つりそし)を遣わし、物部連に副えて来朝し、己汶の地を賜ったことに謝意を示した。別に五経博士漢高安茂(あやのこうあんも)を貢上し、博士段楊爾に代えることを願った。その願いにより代えた。
 14日、百済は灼莫古將軍(やくまくこ)・日本の斯那奴阿比多(しなのあひた)を遣わし、高句麗の使安定(あんてい)らに付き副わせて来朝し修好した」
 斯那奴阿比多の「斯那奴」は「科野」とみられる姓で、「阿比多」は「直」で名と思える。百済風に「アヒタ」と呼んだ日本の信濃出身の百済人であろう。
 『続日本紀』天平宝字5(761)年3月15日に「(百済人)科野友麻呂等二人に清田造を賜姓した」とある。百済や任那に出征後、そのまま土着した者が少なからずいたようだ。
 安定は高句麗の使者として初見となる。
 「12(518)年春3月9日、弟国(京都府乙訓郡)に遷都」。
 16(522)年、百済は蟾津江を南下し、遂に多沙(たさ;帯沙)津を確保した。帯沙は伴跛の外港でもあり、それが百済に併呑され、大加耶連盟に大きな痛手となった。以後、大加耶は新羅に接近していく。このとき倭国は大加耶と戦い敗北している。


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 5) ヤマト王権の圧政と国造
 『日本書紀』允恭天皇11(422)年「春三月4日に、茅渟宮(ちぬのみや;大阪府泉佐野市上之郷)に幸(いでま)す。(中略)
 衣通郎姫(そとおりのいらつめ;允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹で、天皇の妃)藤原宮に居(はべ)りき。時に天皇は大伴室屋連に詔(つげ)て『朕はこの頃、美麗(かおよ)き孃子(おみな)を得た。これ皇后の母弟(おもはらから;娣は妹)なり。朕の心に異(こと)に之を愛(いと)しむ。冀(ねが)わくば、その名を後葉(のちのよ)に伝えんと欲する。如何か』という。室屋連は、勅命により奏(もう)す可し。即ち諸国の国造らに課し、衣通郎姫の為に藤原部を定めた」とある。
 「藤原部」は、衣通郎姫の御名代で、その殿屋(でんや)が藤原に置かれたことによる。この記事から明らかなように、大王や王族の名を伝承するためと称し、諸国の国造の領民を専制的に料民とし、后妃・王子の生活費や、宮に仕える舎人や膳夫などの資養にあて、宮の運営維持の経費に充てた。
 それを私有する后妃・王子、または大王の名や宮号を付して何々部と定めた。
 諸国の国造は、伝来の領民を管理しながら、そこから生産性が高い領地領民を一方的に割かれたばかりか、その管掌者に任命されるという幾重もの負担を課された。
 国造に定められることは、その地方における権力者にとって、中央からその権力機構の一員と認知された証となり、地元で専権を振るえたであろうが、伴造の制度がありながら、現実には、大王の職業部の品部まで管理せざるを得ない立場となっていた。そのため国造でありながら藤原部直・春日部直などの姓を与えられていく。中央に直属する伴造を頂点とする体制に組み込まれ、現地で管理する伴部の末端的な支配層となった。
 天武12年9月の条に、藤原部造に連の姓を賜っている。正倉院文書の養老5年の下総国倉麻郡意布郷の戸籍では、藤原部直白麻呂ほか82人の殆どが「藤原部」であった。「藤原部」は、天平宝字元(757)年3月27日に「藤原部の姓を改め、久須波良部(葛原部)と為す」とある。正倉院文書の戸籍、下総国相馬郡邑保郷の戸主に久須波良部音があり、常陸国にも久須波良部の戸があった。
 ☆氏と姓
 ヤマト政権の豪族層は、ウジと呼ばれる組織を形成していた。系譜上、祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指すが、事実上は、家々が氏を単位として結合する、土着の豪族的集団であったとみられる。
 主導的立場にある家の家長が「氏の上(うじのかみ)」となって、主要構成員である「氏人(うじびと)」を統率した。
 氏名は、元々、出雲氏・尾張氏・毛野氏・吉備氏・紀氏などの地方の大豪族や、和邇氏・穂積氏・葛城氏・平群氏・蘇我氏・安倍氏・波多(羽田)氏・巨勢氏などの大和地方の氏族も、その本拠地・居住地の地名に由来する例が多い。やがてヤマト政権の内廷である品部に由来する物部氏・大伴氏・錦織氏・犬養氏・弓削氏・服部氏・膳氏・土師氏などや、大王の直轄領の名代の管掌者などを出自にする刑部氏・額田部氏・日置氏・日下部氏などの氏族が増えてくる。
 その氏の制度化により、それに応じた姓が与えられるようになると、その姓が政治的な位階となった。
 氏の組織は5世紀末以降の史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。 氏は血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家からなる同族集団であったが、同時に地縁関係で結ばれた政治組織という性格をもっていた。 地方の豪族の多くは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして「氏の上」としての名実が伴い、朝廷における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利が与えられた。その氏名により、首長の出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いがあり、それに応じて姓が賜与され、「部曲」の管掌が公認された。

 ☆毛野氏を牽制する屯家
 稲荷山古墳の被葬者も4世紀初頭の崇神天皇以来、代々のヤマトの大王に、帯刀したまま近侍する「杖刀人」であった。その古墳がある行田市付近の武蔵国播羅郡(はらぐん;埼玉県深谷市周辺)にも「刑部(おさかべ;,允恭天皇の皇后忍坂大中姫のための子名代)」があり、その埼玉郡には「藤原部」があった。
 『万葉集』に美しく詠まれる
 足柄の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振らば 家(いは)なる妹(いも)は 清(さや)に見(み)えもかも
 (足柄の峠に立って袖を振れば、家にいる妻ははっきりと見てくれるだろうか)
 「右の一首は、埼玉郡の上丁(かみつよぼろ;防人の一般兵士)の藤原部等母麿(ともまろ)のなり」。

 「横見郡」は比企郡(埼玉県比企郡吉見町)から別れたようだが、横見屯倉(よこみのみやけ)が置かれた。比企丘陵北側から荒川流域に広がり、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵の中心地であった。その横見屯倉は、「日下部吉士」などが、屯倉の管掌者であった。
 奈良国立文化財研究所の『平城宮発掘調査出土木簡概報』により、横見屯倉が置かれた地に、日下部(くさかべ)があったことが知られた。
 雄略天皇の生母の忍坂大中津姫(おしさかのおおなかつひめ)と、その妹で藤原宮に住む衣通姫(そとおりひめ)の部民(藤原部)や、雄略天皇の皇后草香幡梭姫(くさかのはたびひめ;仁徳天皇の皇女)の部民が埼玉古墳群の周囲に配されている。日下部氏は、この皇后の子名代に由来する。
 この部民は、その所在地から軍事的な要地に配置された、屯田兵的軍事集団ともみられている。
  この地域にヤマト大王の田部が重点的に配置されたのは、この北に利根川を挟んで大豪族の「毛野氏(けぬし)」の本拠地があったためである。
 武蔵国の屯倉の設置について、『日本書紀』では、安閑天皇(531~535年)の元年閏12月条に
 「武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたひおみ)と同族の小杵(をき)が、国造の地位を相争い幾年も経つが決着しなかった(使主・小杵は、皆名である)。 小杵の気性は激しく逆らいやすく、高慢であった。密に上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)の援けを求めに赴き、使主を謀殺しようとした。使主は、これを覚って遁走し、京に詣でて事態を言上した。 朝廷は裁断し、使主を国造とし、小杵を誅殺した。
 国造の使主は、かしこみつつも歓喜し、その感謝の念を示して、謹んで天皇に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の四処を屯倉として奉置した。この年は、534年にあたる」。
 
 継体21(527)年、筑紫君磐井の反乱が勃発し、1年有余の戦いの結果、継体22(528)年12月条によれば、同年11月に大将軍物部麁鹿火(あらかひ)によって磐井は斬殺され終息した。
 『日本書紀』安閑天皇2(532)年5月の条には多数の屯倉設置の記事があることから、この時期はヤマト王権が各地の豪族の政争に関与しながら各地に直轄領として屯倉を設けて、その経済的基盤を一層強化すると同時に、地方の大豪族の既得権益を削いでいった。
  朝廷が武蔵国造として推す笠原直使主に対抗して、上毛野君小熊が同族の笠原直小杵を担ぎ出して対抗したが敗れて、四処を屯倉として献上せざるをえなくなった、というのが実態であろう。記事の4屯倉は、ヤマト王権の東国支配の拠点をなったと考えられている。

 横渟屯倉は『和名類聚抄』にある武蔵国横見郡で、 現在の埼玉県比企郡吉見町や東京都村山市の一部に比定されている。
 橘花屯倉は、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん:現在は神奈川県)の御宅郷や橘樹郷で、現在の神奈川県川崎市高津区子母口付近にあたる。
 多氷屯倉の「多氷」は多末(たま)の誤記とされ、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市。
 倉樔屯倉の「倉樔」を倉樹(くらき)の誤記、武蔵国久良郡(くらきぐん)、現在の神奈川県横浜市の一部。
  これらの屯倉は、荒川と多摩川流域に位置している。特に橘花屯倉は、多摩川の河口を支配する場所である。朝廷は後の水運の便から、これら流域を押さえ、毛野氏が海に出るルートを遮断し、朝廷の海上ルートにするため、あえて毛野氏に献上させた。

  多摩川が流れる武蔵国は、かつて上野国とともに東山道に属していた。当時の利根川は東京湾に乱入し、南武蔵への行路を妨げていた。ために武蔵国西部を南北に流れる多摩川を遡上し上野国に至るルートが開かれていた。それで武蔵の国府は多摩郡に置かれ、現在の東京都府中にある大国魂神社付近にあった。武蔵国が東山道から東海道に編入されたのは、奈良朝末期の宝亀2(771)年であった。
  三浦半島の東端、東京湾に面して切り立った山の斜面にある走水神社は、景行天皇80年(4世紀半ば)、日本武尊が東征の途上、ここから浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと伝えられる。この地は東京湾を舟で横断する古代東海道の海上ルートで、日本武尊と弟橘媛の悲話がここに始まる。


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 6) 筑紫君磐井の乱
 安康・武略紀の5世紀後半頃から6世紀初頭にかけて、「磐井の乱」など大豪族の反乱が起きている。この時期、ヤマト王権は、各地の豪族を介して民衆を間接的支配することから、その豪族の支配権を徐々に排除して、朝廷から派遣された中央官僚が直接支配するという大きな政策転換があった。当然、その抵抗は激しかったと推測され、そのため屯倉を献上し臣従を誓った豪族を優遇し、国造に任じたりし懐柔した。

 継体天皇「17(523)年夏5月、百済国王武寧が薨じた。18年春正月、百済太子明(聖王=聖明王)が即位。
 20(526)年秋9月13日、磐余の玉穗に遷都(ある本では7年とある)」。

 翌527年、ヤマト政府は、朝鮮出兵を準備し大規模な軍事行動にでようとした。この時、謀反の機会をうかがっていた北九州の豪族らは、筑紫国造磐井を中心に朝鮮の出兵を拒否した。そればかりか反乱軍は、政府軍を迎え撃った。こうして一年有半にわたる激戦が展開し、政府軍は北九州から動けず、政府軍が命じる兵力や物資の調達も拒否され、逆に豪族や有力農民の攻勢にさらされ、ついに朝鮮出兵は挫折した。
 反乱軍の主導者の磐井は、筑紫君としてヤマト政権の氏姓制度に組み込まれ国造に任じられていた。その一方、新羅と好(よしみ)を通じ独立の機会を窺っていた。
 磐井の墓と伝えられる福岡県八女市吉田の岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、八女市北部の東西に延びる人形原(にんぎょうばる)台地の中央に位置している。前方後円墳で、東西 125m・幅 82m・高さ 55m・墳丘は長さ約 140m、前方部の幅は約 95mで内部構造は不明であるが、横穴式石室があったとみられている。また後円墳の東北部に一辺43 mの方形台状の特異な平坦部がある。衙頭(がとう)があったされている。
 九州屈指の大古墳で、墳丘上から石人石馬と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土し、円筒埴輪なども発見された。墳丘には埴輪を樹立し、輪列の内側に、阿蘇の凝灰岩製の石人石馬を配したらしい。
 『釈日本紀』所収された『筑後国風土記』の逸文によれば、磐井の墓は上妻県(八女郡)の南2里にあり、墓の北東角の「衙頭」には罪人を取り調べる「解部(ときべ)」がいて、兵馬をめぐらせ威容を誇っていた、という。これらの点は福岡県八女市の岩戸山古墳の状況と合致しており、『筑後国風土記』のいう磐井の墓が岩戸山古墳を指すことはまちがいないようだ。

 「21年夏6月3日、近江毛野臣(おふみのけなのおみ;波多臣・淡海臣などの祖)が6万の軍兵を率いて、任那へ往き、新羅に破れた南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を復興させ都邑を建てて任那と合わせようとした」
 南加羅の「ありひ」は古代朝鮮語では南の意、「し」は助詞、「南加羅」は洛東江口にあたる釜山・金海地方で、慶尚南道金海にあった金官国とその周辺をいう。
 喙己呑は慶尚北道達城郡慶山とみられる。
 「ここに、筑紫国造磐井が、秘かに叛逆を謀ったが、実行をためらい、年を経た。成就し難いと恐れながらも、常に隙を窺っていた。新羅がこれを知り、密に貨賂(まいない)を磐井の所へ送り毛野臣の軍を防止するよう勧めた。
 ここで、磐井は、筑紫(福岡県)あたりから、火(ひのくに;肥前・肥後)・豊3ヵ国を勢力圏として、国造の職務を果さなくなった。外では海路で待ちうけ、高麗・百済・新羅・任那などの国から、毎年、朝貢される船を欺き招き寄せていた。
 国内では、任那に遣わされる毛野臣の軍を遮り、無礼にも『今は使者となっているが、昔は我と同輩で、肩や肘(ひじ)をすり合わせ、同じ器で会食した仲だ。急に使者になったとはいえ、我がお前に従うのは無理だ』と公然と言い放った。
 遂に従わず交戦となり、驕り高ぶるばかりとなった。これにより、毛野臣は防止され途中で滞陣した。
 天皇は、大伴大連金村・物部大連麁鹿火(あらかひ)・許勢大臣男人(こせのおほおみをひと)らに詔して『筑紫磐井が、叛(そむ)き塞(ふさ)ぎ、西戎の地を占有した。今誰が将軍にふさわしいか』と言った。大伴大連ら皆が『正直で仁勇もあり兵事に通じ、今、麁鹿火の右に出る者はございません』と言った。天皇は『可(ゆるす)』と言われた。

 秋8月、詔で『大連よ、このように磐井が従わない。汝が徂(ゆ)きて征(う)て』と言われた。物部麁鹿火大連は再拝して『あの磐井は西の戎(ひな)の奸猾です。川が阻んでいるのを頼んで朝廷に従わず、山の峻険に拠り反乱を起こしました。徳義にもとり道に背き、侮り驕り自から賢(さか)しとしています。
 道臣(みちのおみ;神武天皇に仕えた大伴氏の祖)の昔より室屋(大伴大連金村の祖父)にいたるまで、帝を助(まも)り、処罰し、民を塗炭(くるしき;とたん;非常な難儀)から救うことに、昔も今も変わりません。ただ天の助けを、臣は常に重んじています。つつしんで拝命して征伐いたします』と言った。
 詔で『良将の軍である。恩を施し、仁恵を推及し、己(おのれを)を恕(かえり)みて人を治める。攻めること決河(けっか;河川の水があふれ堤防を切るような猛烈な勢い)の如し、戦うこと風の発つが如し』と申した。
 重ねて詔があり『大将は、民の司命(しめい;生殺与奪の権を握る者)なり。社稷の存亡は是に在り。勗(つと)めよ、恭しんで天罰を行え』と申した。
 天皇は親(みずか)ら斧と鉞(まさかり)を取り、大連に授けて『長門以東は朕がこれを統御する。筑紫以西は汝が統御せよ。賞罰の専行を許す。その都度、奏上する煩わしさは避けよ』と申した」
 「斧と鉞」は征討に向う大将軍に全権を委任した節である。
 「22(528)年冬11月11日、大将軍物部大連麁鹿火は、自ら賊の首魁磐井と筑紫の御井郡(みいのこほり;現福岡県小郡市付近)で交戦した。両軍の旗と鼓が臨み合い、塵埃が入り乱れ、両陣が戦機と決すると、万死が満ちる地となるのは避けられず。遂に磐井を斬り、明らかに勝敗が定まった。
12月、筑紫君葛子(くすこ)は、父に連座し誅されることを恐れ、糟屋屯倉を献上し、死罪を贖(あがな)おうとした」

 継体21(527)年、筑紫君磐井の反乱が勃発し、1年有余の戦いの結果、継体22年12月条によれば、同年11月に、磐井は大将軍物部麁鹿火によって斬殺された。
 筑紫君の本拠地は、現在の福岡県八女市付近である。磐井の墓の所在地や最後の戦いの地が御井郡であったことからも明らかだ。古代、八女県があった。
 磐井が筑前よりも筑後を拠点にしたのは、中国方面の航路上の津があり、当時の大陸文化の要路として有明海沿岸は重要であったからだ。有明海に臨む地域の、石人・石馬類の文化の分布は、鳥取県に若干みられるのだが、福岡県・大分県・熊本県のものが殆どだ。主として阿蘇溶結凝灰岩製で、埴輪を石造彫刻で石人・石馬・石鎧に仕立ている。磐井の勢力圏内で育まれてきた特有の文化であった。鳥取県米子市淀江の石馬谷古墳(小枝山5号墳)は、全長61.2mの前方後円墳で、墳丘は2段築成で葺石がみられる。そこには石馬が立てられていたと伝えられている。
 『筑後国風土記』の逸文では、磐井が豊前国上膳県(かみつけのあがた;福岡県豊前市)へ遁走し、その山中で死んだようだ、と記している。大宝2年の豊前国の上三毛郡(かみつみけのこほり;福岡県豊前市)戸籍によると、この地域には新羅系の移住者が多かったことが分かる。磐井は豊前あたりの新羅系住民の支援もあてにしていたようだ。

 慶尚南道の動乱は、玄界灘を介する朝鮮半島南部の情勢を混沌とさせ、倭国から百済への沿岸航路に支障をきたし、ヤマト王権は有明沿岸より大陸へ通じる海路の確保が、一段と重要になった。
 磐井は有明の海人族(あまぞく)の首長であり、その水軍の総帥でもあったのだろうか。
 
 百済の聖王【ソンワン】は、554年に新羅と管山城【忠清北道沃川郡】で戦っている最中、孤立した王子余昌【後の威徳王】を救援しようとして狗川【忠清北道沃川郡】で伏兵に捕らえられて斬首された。
 『日本書記』欽明天皇17(556)年の条で
 「春正月、百済王子恵(けい;余昌の弟)が帰国を願った。それで甚だ多くの兵器・良馬を賜った。また頻りに禄物を賜った。衆人が讃歎するほどであった。ここに、阿倍臣(あへのおみ)・佐伯連(さへきのむらじ)・播磨直を遣わし、筑紫国の軍船を率いて護衛して国に送り届けた。別に筑紫火君(つくしのひのきみ;肥国の豪族)を遣わし勇士一千を率い彌弖(みて;彌弖は津の名;慶尚南道南海島東南端の蟾津江口にある弥助里;ミジョリ)まで護送した。そのまま津の航路の要害の地を守らせた(百済本記では「筑紫君の子、火中君【ひのなかのきみ】の弟」とある)」
 筑紫君は、肥君と同族関係にあったようだ。

 糸島半島一帯は、『魏志倭人伝』に記される伊都国の本拠であった。「女王国より以北にはとくに一大率(いちだいそつ)を置き諸国を検察す。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国にて治す」とあり、邪馬台国以北の諸国を検察するため、邪馬台諸国のなかでも政治・外交・交易・警察などを統轄する枢要な地位を占めていた。『万葉集』では、「怡土」とも表記された。
 『日本書紀』では仲哀天皇8年正月の条に「筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)は、天皇の行(いでま)すを聞(うけたまは)り」、帰順の標を船の舳艫(ともへ;じくろ;船首と船尾)に立てて、穴門の引嶋(下関彦島)に迎いに参ると
 「天皇は五十迹手を美(ほ)めて、『伊蘇志(いそし)』と言った。故に、時の人は五十迹手の本土(もとのくに)を名付けて伊蘇国(いそのくに)といった。今では伊覩と言って訛った」。
 「伊覩」を『和名類聚抄』では筑前国怡土郡と記す。後に志摩郡と合わせて糸島郡となる。旧怡土郡付近は、仲哀紀が記すように、ヤマト王権の時代には、怡土県(いとのあがた)が置かれていた。
 弥生時代から5世紀の前半までは、伊都国の五十迹手一族や不弥国(ふみこく)の宗像氏などの玄界灘沿岸の勢力が、朝鮮半島と倭国の海上交易や外交交渉の実務を担う重要な役割を果たしていた。
 ヤマト政権下でも、大伴氏や紀氏などが持節大将として派遣されるが、直ちに戦端となれば実害も多く、かつての朝鮮半島での戦績からみても、敗北の危険性が極めて高い、そのための戦術の策定や実務交渉にあたり、伊都国や不弥国に居住する首長一族を頼った。

 5世紀の中頃、大きく朝鮮半島の情勢が変わると、玄界灘沿岸の勢力よりも、筑後川流域を含む有明海沿岸に、非常に大きな勢力圏が形成され、朝鮮半島の海上交通に広く関わっていった。有明湾周辺の筑後国三潴郡(みづまのこほり;みずまぐん)の水沼君(みぬまのきみ)や火君(ひのきみ)などの氏族が実務上深く関与した。
 「景行紀18年条」に「水沼県主」として、「雄略紀10年条」では「水間君」と記される。肥後国には、玉名郡の菊池川流域の日置氏、阿蘇山を祭祀する宮司が豪族化した阿蘇君、宇土半島の基部より八代郡氷川流域の火(肥)君、八代海を臨む葦北(熊本県芦北地方)の国造の地位にある葦北君、熊本市の白川下流域を本拠とする軍事的な氏族である建部君などの諸豪族がいたが、その最大の豪族は火君であった。また肥後国玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する江田船山の前方古円墳の被葬者は、雄略天皇の時代に、典曹という外交文書など文書関係を司るヤマトの役所に仕えていた文官・ムリテであった。
 その頃に、有明海沿岸の肥後型横穴式石室が、西日本各地に広がり、山陰地方にも肥後型の石棺式石室が分布していく。

 熊本県宇土半島で産出する阿蘇山系の溶結凝灰岩による石棺が、摂津にある継体天皇の御陵である今城塚古墳(いましろづかこふん;大阪府高槻市郡家新町)以外に、大和に7例、河内に2例、近江に2例、備前に1例が運び込まれている。近江では伝息長広姫陵(滋賀県米原市村居田)がその1例である。広姫は、近江国坂田郡に勢力を張る王族・息長真手王(おきながまておう)の娘で、敏達天皇の皇后である。その姉の麻績郎女は継体天皇の妃であった。
 阿蘇山系の溶結凝灰岩製石棺の分布は、6世紀後半にあたる植山古墳(うえやまこふん;奈良県橿原市五条野町)の東石室の例以外は、いずれも5世紀末から6世紀前葉頃と限られた時期に集中している。筑紫国造磐井が台頭し反乱した時代と重なる。

 福岡県朝倉市甘木の地名には、奈良盆地と一致する地名が多く、その方位まで一致している。筑後山門(柳川・八女市一帯)と肥後山門(菊池郡一帯)などヤマトの古い地名も残る。これらの地名のトの音は、甲類のトの音で、「邪馬台」の乙類のト音とは異なるとされる。阿蘇山系の溶結凝灰岩を産出した宇土市周辺にも、奈良県御所市にかつてあった葛上郡(かつらぎのかみのこおり)の「日置(ひき)」とか、幾つもの共通する地名がある。これは古代ヤマトや近畿地方の大伴氏や紀氏のみならず、朝政半島へ外征を命じられた膳部(かしわで)・平群・上毛野(かみつけの)・近江毛野(おふみのけな)・物部などが率いる軍勢が、ヤマトから有明湾を経由して朝鮮半島に渡航した際、その過程で近畿地方の地名を現地に移し留め、凱旋する際には有明海沿岸から、水運で、その宇土産の溶結凝灰岩製石棺や石室、その他の文物を運び込んだためのようだ。
 その阿蘇ピンク石とも呼ばれる岩石は、宇土半島の付け根にある馬門(まかど)という地域で採石されたもので、熊本県氷川産や阿蘇山北部の菊池川産などの阿蘇溶結凝灰岩が灰色、または黒色をしているのに対して、普通の状態では薄いピンクで、水分を多く含むと小豆色に変色するところからこの名前で呼ばれた。ところが地元の九州では、阿蘇ピンク石製石棺は、現在までのところ1例もない。 

 元は正倉院に伝来し、蜂須賀家が旧蔵した大宝2(702)年の筑前国嶋郡川辺里(ちくぜんのくにしまこほりかわのべり)の戸籍の断簡が、奈良国立博物館に遺る。筑前国嶋郡川辺里は玄海灘を臨む筑前嶋(糸島半島)にあり、今の福岡県糸島郡志摩町馬場のあたりと考えられ、嶋郡の郡衙の所在地であった。断簡は、嶋郡大領(おおきみやつこ;郡司の長官)の肥君猪手(ひのきみのいて)の家族構成のほぼ全容を今日に伝えている。
 肥君の本拠は、熊本県八代郡宮原町(現氷川町)辺りの氷川流域にあった。筑紫君一族の凋落後は、同族関係の肥君が、郡司の大領になるほど筑紫に勢威を振るったようだ。糸島半島の嶋地方には6世紀ごろに進出してきたとみられ、糸島半島の東側の韓亭(宮浦唐泊)や西側の引津亭(現在の船越辺り)を拠点とする海人族(あまぞく)の首長として、海上交易や製塩を営んでいたのか。
 
 磐井との戦いに勝利した倭政権が、筑紫君の残存勢力を抑止するため、葛子に糟谷の地を献上するように命じた。そこは博多湾の東部地域にあたり、そこを窓口として新羅と交易をしていた。その密接な関係から、新羅と同盟し、朝廷の征新羅軍を阻むため反乱におよんだ。
 また糟谷の地に多々良川が流れている。「多々良」は「蹈鞴(たたら;ふいご)」を語源とし、貝原 益軒の著書『筑前国続風土記』によれば、多々良川の川砂は砂鉄を含み、製鉄が行われていたことに由来するとある。その筑紫君の枢要な地を奪い「糟谷屯倉」としてヤマト王権の直轄領とした。
 贖罪のための献上というのはヤマト政権の建前で、磐井との戦いに勝利した政権側が、残存勢力を弱体化し、自らの支配力を強化するために、筑紫君の枢要な地、博多湾に流入する多々良川を挟んだ広大な農地を奪い、なおかつ博多湾を制圧する意思を示した。現在でいえば、福岡市東区の土井・粕屋町の戸倉・江辻のほか、糟屋町内橋と長者原の一部を含む多々良屯倉は、豊かな稲の収量以外に、外港・河川・採鉄・軍事基地なども含まれていた。「糟屋屯倉」を足がかりに、継体天皇の子・安閑天皇は、筑紫に 穂波屯倉と鎌屯倉を置いた。これらを含めて、磐井がかつて支配していた筑紫・肥・豊の3国の屯倉を統括するために、同母弟の宣化天皇は那津官家(なのつのみやけ)を創建した。
 福岡市博多区の比恵遺跡(ひえいせき)では、3本柱の柵に囲まれた倉庫と考えられる10棟の総柱建物が出土した。これにより、古墳時代後期(6~7世紀)になると、大型の高床式倉庫群が造営されていたことが明らかになった。
 『日本書紀』宣化元(536)年条に「夏5月、詔して『官家(みやけ)を那津の口(ほとり;博多大津)に造り建てよ。又その筑紫・肥(ひのくに)・豊(とよのくに)の3国の屯倉は、散在して遠く離れすぎて輸送に支障がある。もし必要となった時に、急遽準備するのが難しい。そのため諸郡に命じて、当座の稲穀を分け移し、那津の口に官家を建てて集めよ。非常に備え、永く民の命を守らせよ。早く郡県に命を下し、朕の心を知らせよ』」との記述がある。
 この宣化元年に博多湾岸に設置された官家を通称「那津官家」と呼んでいる。7世紀後半に大宰府が設置されるまで、その役割を担っていた。比恵遺跡における建物の配置や規模から、『日本書紀』に記される那津官家に関係する建物として、平成13年国史跡に指定された。


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 7) 金官国滅亡と継体天皇崩御
 継体23(529)年、金官国が、遂に新羅に武力制圧された。隣国の安羅は、それを脅威として倭国に救援を要請した。急遽、近江毛野臣(おふみのけなのおみ)が派遣された。『日本書記』には「近江毛野臣率衆六萬」とある。
 『三国史記』には、532年、金官国主の金仇亥(きんきゅうがい)が新羅に投降し金官国は滅亡した、とある。
 『日本書記』「継体24(530)年秋9月、任那の使が奏上し『毛野臣は、既に久斯牟羅(くしむら)に舍宅を築造してから、滞在が2年(一本には3年とあるのは、往来も年数に含めたからである)になりますが、政務を聴くのを怠っています。
 ここでは日本人と任那の人の間で、よく子供が生まれます。その帰属の訴訟で判じかねると、毛野臣は、楽(この)んで誓湯(うけいゆ;古代日本で行われていた神明裁判)を置き、『真実であれば爛れず、嘘であれば必ず爛れる』言い、そんため湯に投じられて爛れ死ぬ者が多いのです。
 又、吉備の韓子(からこ;大日本⦅おおやまと⦆の人が蕃国⦅朝鮮諸国⦆の女を娶って産んだ子が韓子である)である那多利(なたり)・斯布利(しふり)を殺し、常に人民を悩まし宥和心がありません』という。天皇はその行状を聞き、人を遣わし召喚しようとしたが、来ようとしなかった」。
 「冬10月、調吉士(つきのきし;調伊企儺は、難波の人で、応神天皇の代に弩理使主という者が百済から帰化し、その曾孫弥和は顕宗天皇の代に調首の氏姓を賜わった。吉士も古代の姓の一つで朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた。伊企儺の子孫は、調吉士を号した。)が任那より戻った。
 奏言して『毛野臣は、人を侮り恨み、世の治め方にも通じず、結局、宥和心がないため加羅を擾乱させた。愚かにも自分の意のままに振舞うため、禍を防げるとは思えません』。
 故に、目頰子(めづちこ)を遣わし召喚した(目頰子は、未だ詳かではない)。この歲、毛野臣は、召喚されて対馬まで来たが、病となり死んだ。送葬の舟は、河に沿って近江に入った」。
 「継体25(531)年春2月、天皇の病が酷くなった。7日、天皇は磐余の玉穗宮(たまほのみや)で崩じた。時に御年82。冬12月5日、藍野陵(あいののみささぎ;大阪府高槻市郡家新町⦅ぐんげしんまち⦆にある今城塚古墳)に葬られた。


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 8) 磐井の乱後に増大する屯家
  『日本書紀』安閑天皇2(535)年「5月9日に、筑紫に穗波屯倉・鎌屯倉、豊国(福岡県東部と大分県)に滕碕屯倉(みさきの)・桑原屯倉・肝等屯倉(かと)・大抜屯倉・我鹿屯倉(あかの)、火国(佐賀・長崎・熊本の3県)に春日部屯倉、播磨国(兵庫県西部)に越部屯倉・牛鹿屯倉、備後国(広島県東部)に後城屯倉(しつきの)・多禰屯倉(たねの)・来履屯倉(くくつの)・葉稚屯倉(はわかの)・河音屯倉(かはとの)、婀娜国(あなの;備後国安那郡・深津郡;現広島県深安郡・福山市)に胆殖屯倉(いにえの)・胆年部屯倉(いとしべの)、阿波国に春日部屯倉、紀国に経湍屯倉(ふせの)・河辺屯倉、丹波国に蘇斯岐屯倉(そしきの)、近江国に葦浦屯倉(あしうらの)、尾張国に間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野国に緑野屯倉、駿河国に稚贄屯倉(わかにえの)を置く。
 秋8月、国々に犬養部を置く、と詔があった」。
 筑紫磐井の乱のように国造らの反乱が全国各地に起こり、それらが鎮圧された結果、『安閑紀』に、上記を含めて関東から九州まで屯倉が大量に配置された。これに伴い犬養部が設けられた。屯家の制度が充実し、地方の官制度も整っていく。
 だが『日本書紀』は、継体天皇の崩御をその25年辛亥(531)とし、安閑天皇元 (534) 年までの2年間は空位であった、と記す。その後、僅か在位2年の間に、全国各地に多数の屯倉が設置されたのは、安閑朝が動乱期にあり、それは皇位継承をめぐって勃発した、そのため王権の支配を再構築したため、という説もある。

 ヤマト政権は朝鮮半島における新羅の攻勢により、磐井の乱後、屯倉制や部民制を列島中に拡げていった。特に乱後の九州では、軍事的部民が配置されていった。ヤマト政権は、肥後地方に日下部・壬生部・建部・久米部などに軍事的部民を配置した。物部関係では、筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫に多い。大伴関係では、筑紫・豊・火に分布するものの密度は低い。


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 9) 犬養部は犬を飼養し屯家を守衛する部民
  『日本書紀』には、犬養部を統率した伴造に、県犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)・海犬養連(あまいぬかひのむらじ)・若犬養連(わかいぬかひのむらじ)・阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の4氏が記されている。
 諸氏は、犬養部を率いて宮門・大蔵・内蔵・地方の屯倉などヤマト国家の諸施設の守護にあたった伴造系氏族である。
 この屯倉設置の記事に、上毛野国の緑野屯倉(みどののみやけ)があるが、『倭名類聚抄』には、「美止乃」と註し、郡内は11郷により編成されている。その11郷は、おおよそ今日の群馬県藤岡市と鬼石町の一部を加えた範囲とみられる。
 『日本書紀』安閑天皇2年「9月3日、桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに詔して、屯倉の税(たちから)を主掌(つかさど)らしめた。13日に、特に大伴大連金村に勅命があり『牛を難破の大隅嶋と媛嶋(ひめしま)の松原に放牧せよ。それにより名を後世に残したい』」。淀川河口の砂嘴が、砂州の島となり、放牧地となった。
 『続日本紀』霊亀2(716)年2月2日の条に「摂津国の大隅嶋と媛嶋の2牧を罷(や)めさせた」とある。

 屯倉の「税」とは、「稲穀で納められる田租」で、稲穀は、穂から外して籾がついたままの状態であるが、精米したものよりも保存がきくことから、倉庫に納められる穀物は、この状態であることが多かった。
 穎稲(えいとう)は、成熟した稲を穂首で刈り取ったままの稲穂で、律令制下では、租税としては穎稲を原則としていた。穎稲は種籾として保存に適するが、稲穀は貯蔵用として優れていた。実際には穎稲と穀稲の両方で収取が行われていた。


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