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1)清寧紀の土地支配 日本書紀の『清寧前紀』に、 「輙(すなわ)ち難波の来目邑(くるめむら)の大井戸(おおいへ)の田(たとところ)を十町、大伴室屋大連に賜った。また田地(たどころ)を漢彦(あやひこ)に与え、その恩(めぐみ)に報いた」とあり、 大王から給与された「田」や「田地」に「たとところ」や「たどころ」の古訓が付されていた。「田荘」は田地を主とし、それを経営する拠点として「宅」が付属していた。 大化改新前の、天皇や皇族の所有地である屯倉 (みやけ) に対して、豪族層は、その所有地に土地管理施設や倉庫などを併設した。その耕作は、豪族の私有民である奴婢・部曲の労働力によって賄われた。また付近の一般農民に、土地を貸し付け、その賃租による経営もあった。 賃租は、1年を限って、代価を支払いする土地耕作の形式であった。耕作以前に出す対価を賃、収穫後に支払う対価を租といった。その価は、各地の生産性や土地の肥瘠 (ひせき) によって異なった。 雄略天皇は、奈良盆地の西南部を本拠とする葛城一族を打倒し、大王家の地位を不動にする。しかし雄略天皇が崩御すると、朝廷は、再び不安定になった。 『日本書紀』には吉備上道臣田狭の妻であった吉備稚姫(きびのわかひめ)が、雄略天皇に奪われ、星川皇子らを生んだ。天皇死後、その吉備稚姫と星川皇子らが謀反を起こし、大蔵を占拠した。乱に呼応した吉備上道臣が、皇子支援の水軍を率いるが、その到着前に大伴室屋・東漢掬(やまとのあやのつか)の軍に包囲され焼き殺された。大王家と姻戚関係を持つ吉備上道臣という吉備地方の有力首長が、軍事力を背景に王権の簒奪を図ったとみられる。 東漢掬は、『日本書紀』や『古事記』よれば、応神朝に父の阿知使主(あちのおみ)とともに中国系と称して朝鮮半島から渡来した。『日本書紀』は、応神天皇 20(350頃)年、子の都加使主 (つかのおみ;東漢掬) ならびに党類 17県の民を率いて来朝した、と記す。東漢掬は、同朝の末年に父とともに呉(中国江南の地)の国に遣わされて、呉王より兄媛(えひめ)・弟媛・呉織(くれはとり)・穴織の縫織工女(きぬぬいめ;縫織の工女)4名を賜って帰国した、とある。 阿知使主は、仁徳天皇の死後、履中天皇が即位する直前、皇位を望む履中の同母弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)の反乱で難波宮を焼くが、その際に履中天皇をたすけた。 また雄略朝に百済から貢上した今来才伎(いまきのてひと;新来の手工業技術者)の陶部(すえつくり)・鞍部(くらつくり)・画部(えかき)・錦部(にしごり)・訳語(おさ)などの管理を命ぜられた。仁徳・雄略天皇時代に重用され、東漢氏発展の基礎を築いたという。 乱後、王位を継いだ清寧天皇は、上道臣支配下の山部を取り上げた。清寧天皇は、雄略天皇が葛城円大臣を滅ぼした時に、贖罪を請い献上した葛城韓媛(かつらぎのからひめ)との間の皇子である。再び葛城氏系の皇太子が大王となった。 そして、奈良盆地の西南部の臣の勢力の平群氏が、この5世紀中ごろの擾乱期に乗じ台頭する。大和国平群郡の平群谷を本拠とし平群真鳥(まとり)が、葛城氏没落後の雄略朝に大臣となり、それを契機に興隆した。しかも、平群臣一族は、武烈天皇の時代には、国政を専断し、大王になろうとするまで強盛となった。 白髪皇子(しらかのみこ;清寧天皇)が即位し、大和の磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや;奈良県橿原市東池尻町)に都した。大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣とした。生来の白髪で、皇后も皇子もなかったので、その御名代を白髪部(しらがべ)と定めた。 『続日本紀』の延暦4年5月3日の条で「白髪部を改姓し真髪部となす」とあり、 『和名類聚抄』にある「真壁」の郷名は、摂津国島上郡・駿河国有度郡(うどごおり)・常陸国真壁郡・上野国勢多郡・下野郡芳賀郡・同国河内郡・備中国窪屋郡などにみられる。 治世5年、清寧天皇5(484)年1月16日に崩じた。墓所は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ;白髪山古墳;大阪府羽曳野市西浦)である。 目次へ |
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2)顕宗天皇と仁賢天皇 『日本書紀』は清寧天皇の在位中の2年11月に、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ;履中天皇のみこ)の子、億計(おけ;後の仁賢天皇)と弘計(をけ;顕宗天皇)を発見し、翌3年宮中に迎えた、と記す。 両王は、雄略天皇に父市辺押磐皇子が殺されると、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えていた。 一方、『古事記』では「故に、天皇が崩じた後、天下を治めるべき王がいない。それで、日継を掌る王を、市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのおおきみ)の妹・忍海郎女(おしぬみのいらつめ)に問う。またの名飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、葛城の忍海の高木の角刺宮(つのさしのみや;葛城市忍海;おしみ)に住まいしていた」と記す。 重臣たちは、王位継承者を飯豊女王に相談すると、億計と弘計両王の存在を教えた。その忍海郎女の「忍海」の名は、奈良盆地の西南部の葛城市新庄町忍海に由来するので、葛城氏の血脈とみられる。兄の億計王、後の仁賢天皇と弟の弘計、後の顕宗天皇は共に、母は荑媛(はえひめ)で、葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)の娘である。飯豊女王は、同じ葛城氏の系譜にある甥達を王位継承者に指名して、衰微する一方の葛城氏の再興を願った。 履中天皇紀に、「2年春正月4日、瑞歯別皇子(みつはわけのみこ;反正天皇;仁徳天皇の皇子、履中の弟)を立てて儲君(ひつぎのみこ)とした。冬10月、磐余を都とした。この時に、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)・円大使主(つぶらのおおみ)が、共に国事を執る」とあり、葛城氏没落後の雄略朝以降、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とする平群木菟が国政に携わるようになった。木菟の子の真鳥(まとり)も、雄略紀以降、清寧・顕宗・仁賢朝と「大臣」を歴任して一族の全盛期を築いた。 その真鳥が、奈良盆地西南部を本拠とする臣連合と連携し、市辺押磐皇子の係累を大王に即けようと、飯豊女王と図ったようだ。 目次へ |
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3)『古事記』は億計・弘計の両王を見出した時の様子 「山部連小楯(やまべのむらじをだて)を、針間国(播磨国)の宰(みこともち)に任じた時、その国の民、名が志自牟(しじむが)の新室楽(にいむろうたげ;新築祝い)の酒宴で盛り上がり、次々に立って皆が舞った。ここに火を焚く童2人が、竈の傍らにいた。その童どもに舞いさせた」と記す。 「志自牟」、この国人の名は、『日本書紀』の清寧2年の条や顕宗前紀に、「忍海部造細目(おしぬみべみやつこほそめ)」という人が記されている。播磨の赤石評の北、美嚢郡(みのう)に、縮見屯倉 (しじみのみやけ)があって、忍海部造細目というのはこの縮見屯倉の首(おびと・管理者)であった。また『播磨国風土記』には「志深村首伊等尾(いとみ)」とあり、「伊等尾」は「細目」の訛伝ともいえ、「志深村首」となれば、村の首長も兼ねていた。『播磨国風土記』は「又、倉が造られた処を御宅村と号した」と伝えている。 『日本書紀』天武天皇3(674)年 「3月7日、対馬国司守忍海造大国が、『銀が始めて当国【このくに】に産出、貢上いたします』と言す(当時は島司【とうし】という。律令制で、壱岐・対馬・多褹【たね;種子島】の三島に置かれた官人で国司に準じた)。 これにより、大国に小錦下位(しょうきんげのくらい)を授けた。およそ銀が倭国に有ると、初めてこの時に出(み)えた」と記す。『忍海』一族は、鉱物採掘と鍛冶部(かぬちべ)と深くかかわる。 『古事記』応神天皇記に、 「又、百済国に『若し賢(さか)しき人有れば、貢上(たてまつ)れ』と科(仰;おお)せ賜いき」とあり、 「故に命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)れる人、名は和爾(王仁)吉師、即ち論語十巻・千字文(せんじもん;1,000の漢字を綴ったもので、識字と習字のために用いられた)一巻合わせて十一巻が、この人に付けて貢進(たてまつ)りき」「又、手人(てひと;技術者)の韓鍛(からかぬち;朝鮮より渡来した鍛冶技術者)・名は卓素(たくそ)と呉服(くれはとり;中国江南の地より渡来した機織技術者)の西素(さいそ)との二人を貢上(たてまつ)りき」と記す。 百済より韓鍛の卓素が貢上され、その百済系技術者集団を組織し各地に居住させ、伴造の韓鍛冶首(からのかぬちのおびと)に支配させ、宮廷工房に上番させた。その韓鍛冶(辛鍛冶・辛鍛部・辛金部・韓鉄師部・韓鍛)の名を有する一族が、近江・丹波・播磨・紀伊・讃岐と広く展開した。 なお、大和の忍海は、現在の奈良県葛城市新庄(旧北葛城郡新庄町)にある忍海(おしみ)というところを中心とした地域である。その西南に近接する葛城市寺口・平岡で、昭和59(1984)年、葛城山山麓からのびる尾根上に形成された寺口忍海古墳群が発掘調査された。径10~15m程度の円墳で、その多く埋葬施設は横穴式石室で、約180基で構成されている。墓地造成に伴い約60基の発掘調査が行なわれた。 出土した遺物から、古墳は6世紀前半をピークにする5世紀後半から7世紀初めにかけて継続して造られていた。鉄滓が石室内で発掘されているが、鉄鉾・鉄刀・鉄剣・鉄鏃などの武具のほか馬具や、ミニチュアを含む鉄製農工具類が出土した。副葬品には、鍛冶に関わる遺物が多く、韓鍛の集団が、その被葬者に少なからず含まれていた。 昭和61年、西側にある平岡西方古墳群からも、鉄床・鉄鎚などの鍛冶工具をはじめ、鉄製の馬具や農具などが多く出土した。 この地に飯豊皇女は「忍海角刺宮」を建てた。市辺押磐皇子の遺児、億計王(おけおう)と弘計王(をけおう)の二人の甥が見つかると、この宮に招いた。 兄弟は、父が雄略天皇のために殺されて以来、丹波に難を避け、その後、身を隠していたのが、播磨の赤石評にあった縮見屯倉の首、忍海部造細目の家であった。 『日本書紀』、清寧天皇3年「夏4月7日、億計王(後の仁賢天皇)を皇太子(ひつぎのみこ)となし、弘計王(後の顕宗天皇)を皇子となした」とある。 『古事記』では、億計王と弘計王の兄弟が発見されたクライマックスが、 『武人の我が父が、腰に佩びる太刀の柄は丹(朱)塗りであり、太刀の緖には赤い布が巻かれている。堂々と赤い幡(絳旗)を立てるのを見ると、恐れて多くが隠れ、山の尾根の竹を刈り払い、地に伏し靡いた。八絃(やつお;弦が多い)の琴の調べに合わせ、天下を治められた伊邪本和気天皇(いざほわけのすめらみこと、履中天皇)の御子・市辺忍歯別王の末葉ですが、今は僕(しもべ)です』と為詠(うた)いて言う。 これを聞いた小楯は驚いて、床机から転げ落ち、家中のものを追い出し、二柱の王子を左右の膝に乗せて、泣き哀れんだ。周辺の住民を集めて仮宮を作らせ、そこに住まわせ、駅使(はやうまづかい)により都へ報せた。 叔母の飯豊皇女は、この知らせを聞き喜ばれて、二人を角刺宮に招き入れた。 目次へ |
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4)平群氏の専横と粛清 この後に『古事記』は、億計王(意祁命;仁賢天皇)・弘計王(袁祁命;顕宗天皇)の兄弟と平群臣志毘(へぐりのおみしび)との確執を記す。清寧天皇の時代、大臣平群真鳥が権勢に驕り、その息子の志毘臣にも専横の振る舞いが多かった。 「すると、袁祁王(をけのみこ)も歌垣に立ちました。 (歌垣は、男女による歌の掛け合い踊り合う集団的な歌舞行事で、主に春先、山上で行われた求婚の場であった。秋の例や水辺の例もあるが、奈良時代では宮廷でも行われた) かくして、天下を知らしめんとした時、平群臣の祖である志毘臣が、歌垣に立ち、婚(まぐわ)いをしようとしていた美人(おとめ)の手を取った。その嬢子(おとめ)は菟田首(うだのおびと;奈良県宇陀郡菟田野町辺りの地方豪族)の娘で、名は大魚(おふを)という。そこで袁祁命も歌垣に立った。 ここで志毘臣は、 『大宮の、あっちの端の隅が傾いていないか』と歌った。 このように歌い、その歌の上の句(本;もと)に対して、末(すえ;下の句)を続けるよう振ってきた。 袁祁王は、 『大匠(おおたくみ) 拙劣(をじな)みこそ 隅傾(すみかたぶ)けり(朝廷に名匠がいないから隅々が傾くのだ;おまえたち重臣に人材がいないため朝廷が傾くのだ)』と歌った。 志毘臣も、また、 『王(おおきみ)の 心を緩(ゆら)み 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり(王子たちの心が緩んでいるので、臣下が幾重にも厳重に囲んだ柴垣に入れないでいる;垣の中の美人には近付けるまいと侮る)』と歌った。 王子も、また、 『潮瀬(しおせ)の 波折(なをり)を見れば 遊び来る 鮪(しび)が端手(はたで)に 妻立てり見ゆ(潮の流れが速い波濤が立つ浅瀬を見れば、迷い込んだ鮪(マグロ)の片鰭(ひれ)の脇に、我が妻が立っているのが見える;【遊び来る】とは、必要がないのに来るの意)』と歌う。 志毘臣はいよいよ怒り、 『大君の 王子(みこ)の柴垣 八節結(やふじま)り 結(しま)り廻(もとほ)し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣(大君の御子の柴垣は、幾重にも縛り家の周囲を廻り固めているが、それはすぐ切れる柴垣、焼けてしまう柴垣だ)』と歌う。 王子も、また、 『大魚(おふを)よし 鮪突く海人(あま)よ 其(し)が荒(あ)れば 心恋(うちこほ)しけむ 鮪突く志毘(大きな鮪を狙う海人よ、その大魚が遠ざかり、波が荒れれば心悲しいだろう。鮪突く志毘臣よ;鮪は美人の意)」と歌う。 このように歌の掛け合いをして、互いに帰った。歌垣の夜が明けると、意祁命と袁祁命の二人は 『おおよそ朝廷の人たちは、夜明け早くに朝廷に参り、昼には志毘の門に集まる。今、志毘は必ず寝ている。また門前に人はいない。今攻めなければ後では難しくなる』と議(はか)り 軍を興し志毘臣の家を囲んで殺した。 ここで、二人の王子は、互いに天下を譲り合った。意祁命は弟の袁祁命に譲り 『針間の志自牟(しじむ)の家に住んでいた時、汝が命の名を明かさなかったら、天下の君に臨めなかった。これこそ、汝、命の功(いさお)である。我が兄であっても、汝、命が先ず天下を知らしめよ』と言った。 強硬に主張するため辞退できず、袁祁命が先ず天下を治めた」 目次へ |
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5)顕宗天皇即位 清寧天皇の死後、王位は暫く空位となる。飯豊皇女が女王となり、後継者を定めたのかは史料上明らかではないが、市辺押磐皇子の子で、弟の弘計 (おけ)皇子が即位する。この顕宗天皇の宮居は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)、『古事記』は単に「近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)」という。その所在については河内説と大和説がある。大阪府羽曳野市飛鳥の地か、あるいは奈良県高市郡明日香村飛鳥または東隣りの八釣か… 垂仁記に「飛鳥君」、顕宗記に「飛鳥河」、記の序文に「飛鳥清原大宮」が見える。記が「遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)」と呼ぶのは、最初からではなく、後の顕宗天皇が「飛鳥」を都にしたからである。その顕宗天皇以後に允恭・顕宗の両宮を「遠」「近」と区別する必要が生じたからである。 『日本書紀』の顕宗紀では、顕宗記の「近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)」を、「近飛鳥君八釣宮」、時には単に「八釣宮」と呼ぶ。顕宗天皇3年「夏4月15日、八釣宮に崩ず」。「八釣」となれば万葉集に頻発する大和飛鳥の八釣である。 「八釣川 水底絶えず 行く水の 継ぎてそ恋ふる この年ころを」(柿本人麻呂) 八釣川の川底に、絶えることなく流れる水のように、この何年もの間、いちずに恋い焦がれています 「矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪に騒(うぐ)ける 朝(あした)楽しも」(柿本人麻呂) 八釣山の、木立も見えないほど、降り乱れる白雪、馬を駆ける朝の楽しさよ 開化天皇の孫の八瓜入日子王(やつりいりひこのおう)は、三野(美濃)の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)である長幡部(ながはたべ)氏の祖である。「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す。「長幡部」とはそれを織る技術者集団である。美濃国本巣郡美濃郷(岐阜県本巣郡糸貫町見延;現本巣市見延)を本拠とする長幡部氏は、その皇別氏族である。 『古事記』開化天皇段によれば、開化天皇第3皇子の日子坐王(ひこいますのおおきみ)の子・神大根王(かむおおねのおおきみ)が 「神大根王は、三野国の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)、長幡部連の祖」と記される。 『国造本紀』は三野前国造を「春日率川朝、皇子彦坐王子八爪に命じ国造に定め賜う」と記す。「春日率川朝」とは、開化天皇の陵が奈良市油阪町の春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)にあるため、開化天皇の時代をいう。 また「八瓜」は、明日香村八釣である。 「飛鳥」と書いて「あすか」と読むが、「ひちょう」あるいは「飛ぶ鳥」、決して「あすか」とは読めない。履中記に「明日」の地名起源説話が載るが、「あすか」に類する地名は全国各地にある。 「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ(明日香の里を置いて、奈良の都に行ってしまえば、あなたが住んでいるところはもう見えないのでしょうね)」と万葉集などで詠まれた。「飛ぶ鳥の」は、「明日香」を導く枕詞として使われている。 「稲穂の実り豊かな大和の里に、たくさんの鳥が営巣」したため「飛鳥」の字があてられたのか。 目次へ |
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6)顕宗天皇、父の市辺押磐皇子を埋葬 『日本書紀』顕宗天皇元(490)年「2月5日、詔で『先王が、多難に遭遇し、郊野(近江来多綿の蚊屋野;くたわたのかやの;滋賀県愛知郡秦荘町上蚊野・北蚊野)で命を落とされた。朕は幼年であって、逃亡し隠れた。にわかに出会い迎え入れられた。天子の位に昇り継ぎ、広く先王の御骨(みかばね)を求めたが、よく知る者がいなかった』という。 詔が終わると、皇太子億計と泣哭し悲憤が耐え難くなった。この月、老人たちを召し集め、天皇が親(みずか)ら一人ひとりに尋ねた。一人の老媼(ろうおう;年をとった女)が進み出て『置目(おきめ)が御骨を埋また所を知る。是非、見にお出かけ下さい(置目は老媼の名なり。近江国の狭々城山君【ささきのやまのきみ】の祖先、倭帒宿禰【やまとふくろのすくね】の妹、名は置目という。下文(【しものくだり;5月条】にも見える)』と申した。 それで天皇は、皇太子の億計と、老嫗婦(おみな)を率いて、近江国の来田絮(くたわた;滋賀県蒲生郡蒲生町・日野町付近)の蚊屋野の中に行幸し、掘出して見ると、果して老女が言う通りであった。 (『大安寺資財帳』に「近江国156町5段128歩、蒲生郡来田綿…」とある) 穴を覗いて哀号し、懇ろに言葉をかけて更に慟哭した。古(いにしえ)よりこの方、これほど惨い痛みはない。仲子の尸(かばね;市辺押磐皇子の 護衛や雑役を務めた帳内、佐伯部売輪)と御骨が交じわってよく分けられなかった。ここに磐坂皇子の乳母がいて、『仲子の上の歯は落ちていたので分けられる』と奏(もう)した。それで、乳母が申すように髑髏を分けようとしたが、ついに手足と胴体ともに分けられなかった。それで、蚊屋野の中に、二つの陵を相似せて造立し一つとし、葬儀は異にしなかった。老媼の置目に詔をして、宮の傍(ほとり)の近い所に住まわし、尊び謹(つつし)ませ、喪礼に不足が生じないようにした」 『日本書紀』顕宗天皇2年「秋8月、天皇は、皇太子億計に 『我が父先王は無実であるのに大泊瀬天皇(雄略天皇)に射殺され、骨(かばね)は郊野に棄てられた。まだ骨の全てが見つかっているわけではない。憤嘆が心に溢れる。(中略) 我が天子たる事2年、大泊瀬天皇の陵を壊して骨を砕き投げ散らしたい。今、報復する事が親孝行となるではないか』と言う。 皇太子億計は、直ぐに答えられないほど歎き、漸くして諌めて 「なりません。 大泊瀬天皇(雄略天皇)は政治全般を正し統率し、天下を照臨した。華夷(かい;都鄙;天下)が欽仰する天皇の身なれば、我が父の先王は天皇(履中天皇)の皇子であったが苦難に遭遇し、天位に登ることができなかった。これを鑑みれば、尊卑の違いは格別である。それでも忍(むご)く陵墓を壊せば、誰を人主(きみ)として天の霊(あめのみたま)に奉じるであろうか。それが壊すべきではない理由の一つです。また天皇と億計は、かつて白髪天皇(しらかのすめらみこと;清寧天皇)の厚い寵愛と特別な恩恵を受けた。それなくして宝位(たかみくら;天子の位)に臨めたであろうか。大泊瀬天皇は白髪天皇の父です。 億計が諸々の老賢(としたかきさかしひと)に聞くと、老賢は、 『呪語すれば呪われる。徳行は報われる。恩恵を受けて報いなければ、人民の心を深くそこなう』と言う。 陛下の国を治める徳行が広く天下に聞こえています。しかし陵を壊し、それを華裔(みやこひな;都鄙)が見ることになれば・・・。億計の恐れは、そういった姿勢で国政に臨めば民を養うことができなくなる、それが壊すべきではない二つ目の理由です」 天皇は、 「善きかな」 と言って、役(えだち;夫役)を止めた」 顕宗天皇の皇后は、難波小野王(なにわのおののみこ)とあるが、その父は『日本書紀』に丘稚子王(おかのわくこのみこ;雄略天皇の皇子・磐城皇子の子)、『古事記』では石木王(磐城皇子と同一人物)と表記する。難波小野王の母は未詳である。 『日本書紀』に顕宗天皇の皇子女(こうしじょ)の記載なく、『古事記』にも「子 無かりき」とある。 『日本書紀』は顕宗天皇3年夏4月「25日、天皇、八釣宮で崩ず」とあるのみで、その治政は3年である。『古事記』は「天皇の御年、38歳、天下を治めて8年」とする。『一代要記』などは48歳とし、治世年数は『古事記』の8年と同じである。 『一代要記』の著者は不詳。後宇多天皇(在位1274~87)のときに成立したが、その後も鎌倉時代末~南北朝時代初期まで書継がれた。天皇一代ごとの主要事項を摘記した年代記である。水戸徳川家による『大日本史』の史料探索中に、延宝年間(1673~1681年)に金沢文庫本で発見され、10冊に書写され流布した。 陵は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)で、片岡(傍丘)の石坏(盤杯;いわつき)の岡の上にありと伝えられる。奈良県香芝市北今市の地とする。 目次へ |
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7)武烈天皇 平群氏は、武内宿禰の後裔と伝えられ、葛城氏とは同族となる。大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ平群真鳥(まとり;木菟の子)が、雄略天皇が即位する前年11月13日に、「大臣」となり、大伴連室屋(むろや)と物部連目(め)をもって「大連」とすると、それ以来、一族が興隆を極め、仁賢天皇の崩御後、真鳥大臣は権力に驕り、大王になろうと国政を専断した。 『日本書紀』では、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れた小泊瀬稚鷦鷯太子(おはつせのわかさざきのひつぎのみこ;後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺される。 5世紀の末、平群鮪は、皇太子(後の武烈天皇)と女性のことで争い、皇太子の命を受けた大伴金村(おおとものかなむら)によって、父子ともに討たれた後、急速に衰退した。 大伴とは、伴造の大いなる者、あるいは朝廷に直属する多数の伴造を統率して来たことによるのであろう。4~5世紀の大和政権の草創期に、臣下として王権に仕え諸役務をこなす伴造の統轄者として勢力を伸長させ、やがて物部と同様、ことに来目部(くめべ;朝廷の宮門の警衛)や靫負部(ゆげいべ;弓矢を負った王権の親衛軍)などの軍事的部民を支配下に置き、大王に直属する各種舎人集団を率いたため、その実権は不動のものと思えた。 5世紀後半、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ;後の雄略天皇)の即位前紀、安康天皇を殺害した眉輪王(まよわのおおきみ)を邸内にかくまったために、安康の弟大泊瀬皇子の軍に囲まれ、葛城円大臣と眉輪王は焼殺された。以後、葛城氏は凋落する。 允恭・ 安康天皇と大連であった大伴室屋が急速に台頭し、その後も雄略・清寧・顕宗天皇の3朝を通して大連として仕えた。 大伴金村は、武烈・継体・安閑・宣化・欽明に至る五朝の大連であった。金村は、仁賢天皇の死後、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと;武烈天皇)と謀り、強盛に奢り「王のように振る舞い、皇太子の宮の造営と称し、自分の邸宅を造るなど」、国政を壟断する平群真鳥大臣(へぐりのまとりのおおおみ)の家を焼き、その子弟ともども殺した。平群氏は 壊滅したようだ。金村は、小泊瀬が武烈天皇に即位すると、大連となった。 『日本書紀』は、武烈天皇を激しく酷評する。 「頻りに諸々の悪行をなし、一つの善行もない。諸々の酷刑は、ほぼ欠かさず親覽した。国内の人民ことごとく震撼した」 「武烈天皇5(503)年夏6月、人を塘(いけ;土手)の樋の中に伏せさせ、外に流出する所で、三叉の矛で刺殺し楽しんだ」 「8年春3月、女(おみな)を全裸にして平板の上に据えて、馬を牽いて前につかせ交尾させた。女の不浄(ほとどころ)をみて、潤んでいれば殺し、潤んでいなければ没(から)めて官婢(つかさやつこ)とし、これを楽しんでいた」、ここまでとなると、余りにも作為的である。 『日本書紀』に、武烈天皇「6年秋9月、詔で『国を伝える機(まつりごと)は、子を立てることを貴(とうと)しとなす。朕には継嗣がいない。何をもって名を伝えよう。また天皇の旧例により、小泊瀬の舎人を置き、代(みよ)の号(な)となし、万歳(よろずよ)まで忘れ難(がた)からしめよ』とのたまう」とある。 『古事記』の武烈記には「この天皇に、太子(ひつぎのみこ)がなく、それで御子代と為(な)して、小長谷部を定めた」と記す。『古事記』では、名代と子代の区別が判然としないが、子代は子がないために置かれるのではなく、皇子の養育の費用に充てるために設けられた。 「小泊瀬の舎人を置き」とは、武烈天皇に近侍する舎人部が置かれたという意で、その大王の宮に出仕する舎人以下の内廷の官人の費用にあてるため、東国を主として名代が新たに追加された。 万葉集に信濃国の防人部領使(さきもりのことりづかい;防人を引率して物資を輸送した国司の官人)小長谷部笠麿(おはつせべのかさまろ)の歌が載る 「大君の みこと畏み 青雲の とのびく山を 越よて来のかむ (大君の命【みこと】を畏れ敬い、青雲のたなびく山を、ここまで越えて来ました。病を得て、これ以上進めないのが残念です)」 天平勝宝7(755)年2月22日、「信濃国の防人部領使、京に向ふ途上に病を得、防人等の歌十二首を上る」とある。 正倉院御物にある調庸の麻布に、「天平勝宝4(752)年10月 筑摩郡山家郷の人小長谷部尼麻呂、調庸布を貢す」とある。いずれも孝謙天皇の時代である。 屋代木簡の25点に21の氏名や部がみえる。このうち、他の史料によって信濃国に分布するものとして既に知られていたものは、「小長谷部」・刑部・金刺舎人・他田舎人・生王部・物部・尾張部・神人部の8を数え、そのほかの三枝部・金刺部・他田部・若帯部・穂積部・守部・小野部・酒人部・宍部・宍人部・三家人部・石田部・戸田部の13は、信濃国では初見であった。 「小長谷部」は、屋代木簡などから千曲川流域に沿って広く居住していたものと推定されている。長野市篠ノ井塩崎長谷の字名はその名残であろう。 「小長谷部」の名は、他にも越中・遠江・甲斐・上野・下総など東国に見られる。その管掌者として現地の国造一族から選任されたものが、「小長谷部直」と称し、その子弟を小長谷部舎人として、ヤマト大王に貢上していた。また「小長谷部直」は、甲斐国八代郡を本貫とした一族もみられている。 唐突に『日本書紀』は、武烈天皇8年 「冬12月8日、天皇は列城宮(なみきのみや)で崩御」と記す。 (泊瀬列城宮は、奈良県桜井市出雲で、三輪山と纒向山の南麓にあたる泊瀬谷にあり、東に向えば宇陀、それから伊賀・伊勢に向う) 武烈の死後、皇位継承者がなかったため、金村は群臣と諮って、応神天皇5世の孫という継体天皇を越前より迎えた。 目次へ |
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8)応神王朝の終焉 大王家の王系譜によれば、仁徳天皇の後、葛城の磐之媛(いわのひめ)を母とする履中・反正・允恭の兄弟3人が大王位を継承した。住吉仲皇子(すみのえのなかつおうじ)が、仁徳天皇死後、同母兄の皇太子(後の履中天皇)の殺害をはかり皇太子の宮に火をはなったが、皇太子は物部大前(もののべのおおまえ)・平群木菟(へぐりのつく)・漢直阿知使主(あやのあたいあちのおみ)らに助けられ大和の石上神宮にのがれた。皇太子の同母弟(後の反正天皇)が、自分の舎人・隼人の刺領巾(さしひれ)に命じ住吉仲皇子を暗殺させた。その履中天皇の子が市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)である。 反正天皇は、和珥【和邇】木事(わにのこごと)の娘である和珥津野媛(わにのつのひめ)を皇夫人(きさき)に、妹の和珥弟媛(わにのおとひめ)を妃に立てる。同母兄弟の履中・允恭の両天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。 和珥氏(わにうじ)は、5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北東部に本拠を置き、大王家と姻戚関係を結び、多くの后妃を出した大和の臣姓の有力豪族であった。綏靖・孝霊・開化・応神・反正・雄略・仁賢・武烈・安閑・欽明・敏達の各天皇の后妃に、和珥氏一族の女性や、仁賢皇后の春日大娘(かすがおおいらつめ)と安閑皇后の春日山田皇女のように、その后妃が生んだ皇女がなり、同じ臣姓豪族である葛城氏・平群氏や蘇我氏よりも格段に多かった。 上記の履中・反正・允恭の兄弟3人が大王位を継承したことが、その継承争いに拍車をかけた。雄略天皇の在位は5世紀後半、「日本書紀」は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)・坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)や従兄弟の市辺押磐皇子(いちのべのおしわ)たちを殺して即位したことを克明に記す。 その治世は、史上初めて大臣・大連制を定め、平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、古代ヤマト王権が漸く専制体制を確立した時代であった。 雄略天皇の死後、第3子の白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと;清寧天皇)が即位した。 『日本書記』清寧天皇の「即位前紀」に 「白髮武広国押稚日本根子天皇は、大泊瀬幼武(雄略)天皇の第3子で、母は葛城韓媛(かずらきのからひめ)と言う。天皇は、生来白髮で長じて民を愛された。大泊瀬天皇は諸皇子の中でも特に霊異ありとし、雄略22(478)年、皇太子に立てられた」とあり、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)が、雄略天皇に焼き殺される際に代償として奉った娘の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)であった。葛城氏系の大王の再登場は、再び奈良盆地西南部の臣グループの復権を伴うものであった。 『日本書記』清寧天皇2(481)年「春2月、天皇は、子がいないことを悔い、大伴室屋大連を諸国に遣わし、白髮部舍人(しらかべのとねり;護衛・雑務に掌る下級官人)・白髮部膳夫(しらかべのかしわで;食膳などを掌る)・白髮部靫負(しらかべのゆげい;宮門の守護を掌る)を置いて、遺跡として後世に示そうとした」とある。 いずれも、大王の宮に出仕する舎人以下の内廷の官人の費用にあてるため、諸国に置かれた伴部(品部)である。清寧天皇に仕える舎人は、主に東国の国造の子弟から採用し、その費用は白髮部の民が負担した。それは諸国の民を王民化することに通じ、諸国の豪族がヤマト王権に服属することが前提条件となる。 白髪部は、武蔵・上総・下野・常陸・美濃・遠江・駿河などの東国に主に分布し、摂津・和泉・山背・美作・備中・岩見・周防・肥前・肥後などにも広く分布している。 昭和51(1976)年の飛鳥京跡の調査で、「白髮(部)50戸」と記す「白髮部木簡」が出土した。共伴した木簡に「大花下」・「小山上」・「小乙下」の冠位名が書かれてあった。その冠位は、大化5(649)年から天智称制3(664)年まで採用されていた。 平城宮遺跡から出土した木簡には「三島上郡白髪部里」と記されていた。摂津国三島郡の三島県主は、継体天皇の擁立に関与していた。 伴部・子名代・屯倉の各地への設置は、諸国の豪族のみならず国造層すら、その支配権の侵害に反発し、更には底辺にある農民層すら、貢納・力役などの新たな加重負担により、生活基盤が脅かされ反発せざるをえなくなった。5世紀後半には、有力農民層の憤懣が頂点に達し、各地で国造層の謀反が勃発したようだ。 その一方、清寧天皇には、后妃も皇子もいない。その後、顕宗・仁賢・武烈天皇と4代続くが、その期間僅か20年ばかりであった。ヤマト王権は大いに動揺し、大王の権威は失墜した。 継体天皇が、ようやく即位した19年後の継体20(526)年に、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや;奈良県桜井市池之内?)に遷都がかなった。その直後に百済から請われ、新羅による朝鮮半島統一を阻止すため大規模な軍兵を出兵させるが、北九州の「筑紫君磐井の乱」により阻止された。 大王の軍勢は、ヤマト政権が命じる軍衆や物資の調達を拒否する豪族や、それを支える農民層の反抗に阻まれ、朝鮮出兵は遂に挫折した。 継体21年、筑紫・肥・豊(福岡・熊本・大分県)にわたる広域連合軍が、筑紫国造磐井を中心に決起し、1年有半にわたる激戦を展開した。筑紫国造磐井は、ヤマト王権から国造に任じられていながら、新羅とも連携し、その同盟国として独立をも視野に入れていた。 目次へ |