諏訪の鎌倉街道 | ||||||||||||||||||||||||
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1)鎌倉街道とは
信州の諏訪の平で、現在残っている鎌倉街道跡と呼ばれる殆どが、その道幅2mもない。 現代では、鎌倉幕府創設から数えて8百年余り経過し、殆どが廃道化して、山林の中に埋もれたかも同然か、 農道や山の小道となり、「幻の道」といった観を呈している。 主要な鎌倉街道は、化粧坂→町田→武蔵府中→入間→笛吹峠を通る武蔵路・信濃路とも呼ばれた[上道(かみのみち)」、奥大道(おくのたいどう)とも呼ばれた奥州道中から鎌倉に通じる「中道(なかのみち)」、江戸時代に房総街道・常陸街道と呼ばれた「下道(しものみち)」、京からは、鈴鹿峠を通過せずに美濃・赤坂宿までは、近世の中山道のコースを通る「京・鎌倉往還」、朝比奈切通から六浦・金沢と江戸湾沿いに延びる「六浦道(むつらみち)」など多岐にわたっていた。 統治には、古代邪馬台国以来、要路の開設が、必要条件とされていた。「上ツ道」「「中ツ道」」「下ツ道」と呼ばれている道は、古墳時代から奈良盆地にも、これと同じような呼び名の道が開設されていた。 鎌倉時代や室町時代の中世には、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には 「奥大道」・「下道」、南北朝の『太平記』には「上道」・「下道」、『梅松論』では「武蔵路」・「下道」などと書かれている。然しながら、その呼び名が同じでも、それぞれは同一の道筋を示してはいない。 下野足利荘から鎌倉に至る道筋である「武蔵大路」は、正慶2年/元弘3年(1,333年)に、新田義貞が北関東の武士団を糾合し、鎌倉を攻めた時に、直属の軍勢を率い、攻撃したのも鎌倉街道であった。稲村ヶ崎に達しながら、極楽寺の切通しの守りが堅固で、磯伝いを廻り、義貞が海中に剣を投げ祈ると、俄かに潮が引き瀬となり、渡れたとされた伝説のある路筋である。 「上道」より西関東の山々の裾を南北に辿るように秩父道とも呼ばれる「山辺の街道」があった。別に真っ直ぐ相模の足柄峠を越え、甲斐の御坂峠を越えて甲斐の国石和へ向かう「鎌倉往還」と、御坂峠を経て諏訪に入る鎌倉街道「西街道」があった。 「西街道」は、釜無川沿いの若宮→松目→栗生→花石→馬飼場(ばんげいば)→御射山神戸御所平などの山道を通り、茅野の坂室から西に分かれて、宮川の左岸を庵沢から西茅野・駒形城下・亀石・安国寺の樋沢城西・前宮前・峰堪え・高部を経て、神宮寺との境で「高部道」ともいわれた杖突峠道とつながる。 一方、上社本宮前を通って大熊・有賀の江音寺前・小坂の観音院の上・天竜川を見下ろす花岡城から岡谷の橋原に出て鮎沢で東の街道に合流したといわれている。 また江音寺前から有賀峠道から伊那へと通じてもいた。 奈良時代から使用されていた官道や各地域を結ぶ郡衙路などを、鎌倉幕府の成立後に、整備し再編成した地域も少なからずあったとみられている。 目次へ |
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2)諏訪の鎌倉街道、東街道を行く
釜無川の右岸にあたる富士見高原から急峻な山道を抜け金沢へと上り、宮川の坂室に到達した。 ここで二筋に分かれた。「東街道」は宮川の右岸から上原に出る。 当時の諏訪氏は、上原を、鎌倉幕府の都市計画を模倣し、地方街区を造った。上原八幡・上原五山・五日市場・十日市場などを備える諏訪の政治・経済の中心とした。 そこから桑原・細久保・武津・上諏訪から諏訪湖の北側、大和・高木・高浜を通り、諏訪大社下社秋宮裏・春宮の門前(慈雲寺裏)から砥川を渡り、更に東山田の小野田から中屋・中村を経て横河川を渡った。 ここから二筋に分かれます。荷直(になおし)峠から塩尻へ、もう一方は、今井から間下・天王森・丸山橋を抜けて、天竜川を渡り橋原へ出た。それが諏訪の鎌倉街道の一つ「東街道」である。 鎌倉街道は、旧石器・縄文時代の往古から、和田峠と八島ヶ原周辺の黒曜石産出地から、諸方に運ばれた道、建御名方命が諏方平一円を統治するための道、古代ヤマトの王化に服する道、天武天皇以降確立されていく律令政治が、国衙・郡衙を結ぶ駅馬道など、次々に開削され四通八達して行く。 それは、有賀峠から、和田峠・桑原城跡・上原城跡など「東街道」を眺望すれば、一目瞭然となる。 目次へ |
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3)甲斐国の名に秘められた意味
意外にも、宣長以来の研究を端緒する、橋本進吉の『上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)』において、その峡説が否定された。 エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(濁音があればその濁音も含む)に、古代の万葉仮名をあてたとき、その音には甲・乙2種類の音韻の違いがあったことが分かった。それにより分類すると、「甲斐」の「斐」の「ヒ」は乙類で、「峡;賀比」の「比」の「ヒ」は甲類であった。そのため、この説は破綻し新たな解釈が求められていた。 近年、山梨県立博物館館長の平川南が、古代甲斐国が、官道である東海道と東山道を結ぶ行路であったことから、「交(か)ひ」の意味を含めたという新説を提唱した。 律令制下では東海道に属す、駿河国から甲斐国に通じる枝道があった。その官道として甲斐路は東海道本路の駿河国横走駅(よこばしりえき;御殿場市駒門;こまかど)から分岐して、甲斐との国境の篭坂峠(かごさかとうげ)から御坂峠(みさかとうげ)を越えて八代郡にあった国府に達した。その国府は現在の笛吹市春日居であり、国分寺は同市一宮町に建てられた。 甲府盆地の南縁にあたる八代郡には、応神王朝直前の4世紀後半、曾根丘陵地帯に、東海地方経由でヤマト王権の影響を受けた甲斐銚子塚古墳(かいちょうしづかこふん)を代表とする大型古墳群が築造されている。指定名称は「銚子塚古墳附丸山塚古墳(かいちょうしづかこふん つけたり まるやまづかこふん)である。 駿河国から通じる中道往還は、精進湖から右左口峠(うばぐちとうげ)を越えて、中道町の曽根地区にいたる。 その地にある前方後円墳の後円部は、直径92m・高15mの3段築成、前方部は幅68m・高さ8.5mの2段築成であり、その規模は東日本最大級である。現在では、山梨県甲府市下曽根町の地籍で、その曽根丘陵公園の西側にある夕陽にまばゆく映える前方後円墳であった。 2015年11月16日、ケヤキ林の紅葉が主であったが、ブナやコナラなどの黄葉が多彩な景観となり、心和む一時を過ごした。 姥塚 (うばづか;御坂町)、加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も出土した。これら古墳の築造者とみられる甲斐国造が、ヤマト朝廷に貢献した馬が、「甲斐の黒駒」と呼ばれて、名馬の産地として評価された。 平安時代には信濃、上野、武蔵とともに天皇直属の御牧が置かれ、毎年、京に「甲斐の黒駒」を献上する駒牽(こまびき)が年中行事となった。 大化改新後、新しい国郡制が布かれ甲斐国となり、山梨・八代・巨麻(巨摩)・都留の4郡が置かれた。 目次へ |
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4)日本武尊と甲斐 『古事記』と『日本書紀』に如実に記される倭建命(日本武尊)の東征は、ヤマト王権の東国支配の過程を物語り、しかも行程の多くが、考古学的にも客観的史料により裏付けられつつある。建国の英雄が存在しない王国が、世界史上、どこの国にあったであろうか?『日本書紀』や『古事記』を解読した上で、その史料価値を云々して欲しい。ただ漢文解釈は極めて難しい研究作業である。もっと謙虚であるべきだ。 倭建命の実在の証明は、各地の戦略的重要地に展開している、多くの子名代「建部(たけるべ)」の存在もその一つである。『日本書紀』には 日本武尊の功名を録(しる)そうとして、武部(建部)を定めた、とある。 ただ『日本書紀』や『古事記』が記す倭建命(日本武尊)の無残な姿に、『英雄の苦悩』を実感できな人の歴史観に寧ろ不信すら感じる。 『古事記』の序文で、天武天皇が指摘しているように、両書が原本とする『本辞』『帝紀』それぞれに、既に異本が多く、その記述に少なからず齟齬があった。 『古事記』は8世紀の初めに成書化された。『古事記』の「序」では、天武天皇の勅命により、舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)が『本辞』『帝紀』を誦習(しょうしゅう)し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録し、和銅5(712)年正月28日に元明天皇に「献上」したとある。 「天武天皇の詔は『朕が聞くところでは、諸家に伝わる帝紀(帝の系譜が中心)や本辞(神話・伝説・歌謡などの言い伝え)は、既に正実と違ってきており、多くの虚偽が加えられている。当(も)し今この時、その失(過ち)を改めておかなければ、幾年も経ずに、その本旨が消滅してしまう。 それは国家組織の根本と天皇徳化の基本にかかわる事だ。そのため帝紀を撰録(整理記録)し、旧辞(旧い出来事)を調べ正し、偽りを削り、正実を定めて、後世に流布させたい』との意向であった」 それでも『古事記』と『日本書紀』が原書として撰録する『本辞』や『帝紀』など、それぞれが異本が多く、しかも記述上の違いが多く、その上、両書の編纂意図も異なるため、相互の録取に差異が生じた。 『古事記』や『日本書紀』の倭建命(日本武尊)の東征伝承は、ヤマト王権の東国支配の過程を物語っている。両書ともに、倭建命(日本武尊)の東征経路の往路は、古代律令制下に官道となる東海道であったが、帰路は東山道である。しかも東海道から、わざわざ甲斐国の酒折宮(さかおりのみや;甲府市酒折)に立ち寄ってから東山道へ向かい、最終地の尾張国に戻っている。 江戸時代の東海道を過(よぎ)る酒匂川・興津川・安倍川・大井川の4河川は、浅瀬が多いため徒歩渡りをしたという。しかし富士川の急流は、多くの派流を持つ広大な扇状地を形成していたためか、『古事記』では、倭建命は、足柄峠から須走へ出て、籠坂峠を越え山中湖・河口湖に至り、御坂峠を越えて富士川の支流の笛吹川を徒歩渡りして酒折宮に出たようだ。 『日本書紀』では、日本武尊は「蝦夷は既に平定され、日高見国(ひたかみのくに)より帰還し、西南の方の常陸を経て、甲斐国に至り、酒折宮(さかおりのみや)におられた」とあり、新治・筑波から武蔵の府中へ、それから足柄峠を越え横走駅に、その後は『古事記』と同じルートで酒折宮に達した。 古代の甲斐国は、酒折宮に象徴される東海・東山両道が結節する「交(か)ひ」であり、ヤマト王権が東国を王化する軍事上の要路であった。 『続日本紀』では、文武天皇紀の慶雲元/大宝4(704)年の条に「鍛冶司(かぬちのつかさ)をして、諸国の印を鋳しむ」とあり、大和朝廷は、諸国の国印を一斉に鋳造した。そのサイズが規格化された正方形の印画は「○○国印」と定められたため、国名は全て2文字とされた。上毛野国(かみつけののくに)・下毛野国(しもつけののくに)も「上野」「下野」の漢字2文字された。 古代では、頻発する天災や疫病には、ただ蹂躙されるままであれば、その破邪の祈りを込めて、その文字に吉兆を招く吉祥語(きっしょうご)をあてた。この時に定められたのが「甲斐」の2文字であったとみられる。 「甲(こう)」は象形文字であり、草木が初生する時、こぼれた種が地上に芽吹きする十干の第一の「きのえ」であり、また「春」・「日出」の東方を意味する。五行の木行のうち、東方より昇る朝日に育まれる「陽の木」である、どっしりと上空に伸びる巨木を育てる。 「斐」は形声文字で、「美しく彩ある容貌」の意で、その訓読みは、あや・あきら・うつくし・よし、などがある。 「甲斐」の語意により、新緑の巨木が茂る山梨県の甲府盆地の美しい光景が彷彿させられる。 『続日本紀』によれば、元明天皇は、和銅6(713)年5月に、「畿内七道諸国郡郷名、着好字(よいじ)」と令制国毎に、畿内と七道諸国の郡・郷の名に好字を付けるように命じた。 目次へ |
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5)小坂観音院の紫陽花と西街道
小坂観音院は諏訪氏の祈願所でした。そこは、諏訪湖畔の小高い山にあります。 その山門は、諏訪湖とは反対の山側に向いています。 山門からは、樹齢400年以上というサワラ(椹)の並木が続いていました。 山側には、鎌倉街道「西街道」が現在も通じています。山門から北西に向かえば、花岡城址裏の牛首から天竜川に出、橋原で「東街道」と合流します。そこから洩矢神社前・鮎沢・駒沢を通り上伊那の平出に達します。 小坂観音院の山門から南東へ向かえば、有賀江音寺前・湖南大熊・諏訪大社上社本宮下・諏訪大社前宮前・安国寺・西茅野などを通り、鎌倉に到ります。 光を浴び、風が吹き、季節が移ろい、山々の風景と共に、諏訪の花々が装いを変えていきます! (2015.7.12【Sun】) 目次へ |