大腸癌
 
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 癌細胞の転移 大腸癌 細胞の生命化学

 
 目次
 1)大腸癌と癌抑制遺伝子
 2)Wntシグナル経路
 3)Wntタンパク(Wnt protein)と陰窩
 4)陰窩から癌の謎を解く
 5)癌細胞の生物学が切り開く治療法

 1)大腸癌と癌抑制遺伝子
 大腸は1.5〜2mほどの長さの臓器で、結腸・直腸S状部・直腸に分けられる。大腸は小腸から繋がり、右下腹部から始まり、右上腹部→左上腹部→左下腹部へと、最後に肛門へ繋がる。大腸癌は、結腸や直腸の内壁の上皮から生じる。高齢者に多く、遺伝性ではない。ただし例外的に、発癌しやすい家系があり、その場合、かなり若年で発症する。特定の癌要因のある家系では、成人後すぐに発症し、前癌病変として結腸と直腸の内壁上皮に数百ないし数千個のポリープができる。
 癌になりやすい家族の遺伝子研究の結果、ポリープ発症の原因は大腸腺腫症(Adenomatous Polyposis Coli:APC;後期促進複合体APCとは異なる)という抑制遺伝子の欠失か不活性化にあることが分かった。その遺伝子や遺伝子の産物が細胞内で、どう振舞っているのか突き止めるのは容易ではない。おそらく未知のタンパク質ではないか、と想定はされる。しかし大部分のタンパク質は、細胞内では単独では機能しない。他のタンパク質と相互作用している。
 未知のタンパク質を探し、その生体での役割を解析しなければならない。その着手の第一歩が、結合する相手を同定することにある。未知のタンパク質であっても、細胞内で既知のタンパク質と結合すれば、タンパクータンパクの機能が相互関連しているとみていい。その結合するタンパク質を同定する簡単な方法が、免疫共沈降法である。例えば、シグナル伝達経路のタンパク質相互の作用は、細胞外シグナル分子を含む液中で細胞を壊して、そのシグナル分子を識別することが分かっている受容体タンパクに対する抗体(免疫グロブリンというタンパク質)を加える。
 生体内でのタンパク質の性質は、他の分子との物理的な相互作用で決まる。抗体は、脊椎動物の体内で生産される、感染から守る物質で、特定の異物、即ち抗原を標的にして結合して、その異物を生体内から除去する分子である。ヒトは、数十億種に及ぶ抗体分子を生産する。抗体分子は、同一の重鎖2と同一の軽鎖2本からなり、軽鎖の先端にそれぞれ同一抗原結合部位を持つ。抗体は、異物が体内に入ると、その異物、即ち抗原を識別して特異的に結合する抗体を作り、異物を排除するように働く。
 ヒトの身体はどんな異物が侵入しても、ぴったり合う抗体を作ることができる。抗体は白血球の一種のB細胞(Bリンパ球)が作る。休止状態のB細胞の表面膜には、特定の抗原を識別し受容体として働く抗体分子が存在している。抗原がこの受容体と結合すると、B細胞は刺激され活性化し分裂を始め、特性が同じ水溶性の抗体を大量に分泌する。抗体に結合した細菌やウイルスは、白血球の一種の血球成分である好中球(こうちゅうきゅう)を活性化することで、これを殺して除去する。または、抗体と抗原の会合体を食細胞のマクロファージが捕食する。
 受容体と強く結合している別のタンパク質であれば、共に沈降する。強く結合し合うタンパク質の最も簡単な同定法は、免疫共沈法である。この手法では、抗体を利用して細胞の抽出物から、特定の標的タンパクを沈殿させる。これが別のタンパク質と強く結合していれば、結合相手のタンパク質も沈殿する。細胞外シグナル分子が、細胞を刺激した時に、どのタンパク質が結合するかは、この方法で同定できる。大腸腺腫症遺伝子の産物APCの性質解明には、この方法が使われる。
 APCに対する抗体を利用して、ヒトの培養細胞抽出液からAPCの結合相手のタンパク質を捕え、そのアミノ酸配列からβ-カテニンと同定した。β-カテニンの役目は、主に接着結合にあると見られていたが、やがてβ-カテニンには、もう1つ全く異なる機能があることが判明した。

 注)Adenomatous腺腫性の)、Polyposis( 一定部位の粘膜面に無数のポリープが一面に広がって発生 する疾患) 、 Coli大腸菌APC(大腸腺腫症);腺上皮細胞から発生する腫瘍で、一般に良性のもの。甲状腺や乳腺に最もよくみられ、被膜でおおわれた球状結節。肉眼的には臓器などの内部に発生する結節状のもの、および粘膜の表面に発生するポリープ状のものがある。
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 2)Wntシグナル経路ウィント-シグナルけいろ:wnt signaling pathway)
 ショウジョウバエ(Drosophila:drous f l )の研究で、ヒトのβ-カテニンタンパクのアミノ酸配列が、ショウジョウバエのArmadillo(アルマジロ)タンパクとよく似ていることが分かった。Armadilloは、ハエの正常発生において重要な役割を果たすシグナル伝達経路の必須タンパクである。
 この経路はWntファミリーの細胞外シグナルタンパクによって活性化される。Wntファミリーで最初に発見されえた遺伝子は、変異ハエの表現型にちなんでWingless(翅がない)と呼ばれた。Wntタンパク(Wnt protein)が細胞表面の受容体に結合すると、細胞内シグナル伝達経路が作動して、最終的に細胞の成長・分裂・分化に影響を及ぼす一群の遺伝子が活性化する。この径路にあるどのタンパク質も、その変異は発生の乱れにつながり、ハエの体の基本設計が壊れる。乱れが最も少ない変異では、翅のないハエが生まれるが、遺伝子発現に影響する大部分の変異は胚の死を招く。
 Armadilloと脊椎動物の相同タンパクβ-カテニンは、細胞接着に関わるだけでなく、Wntシグナル伝達経路を介して、遺伝子発現の制御の仲立ちをしていることが強く示唆された。
 Wnt径路は、ショウジョウバエで発見され、集中的に研究された結果、マウスやヒトなど脊椎動物でも、発生の多くの局面を制御していたことが分かった。実際、Wnt径路のタンパク質のいくつかは、ショウジョウバエと脊椎動物で交換しても機能する。
 β-カテニンと遺伝子発現の直接の繋がりは、哺乳類細胞の研究から明らかになった。免疫沈降法でAPCの結合相手のβ-カテニンを捕えられたと同様に、β-カテニンを「おとり」にして、これに結合するシグナル伝達経路のタンパク質を捕えたところ、LEF-1 /TCF(略してTCF)と呼ばれる転写調節因子であった。ショウジョウバエのWnt径路にも、これに相当するものがあり、ショウジョウバエの遺伝学と哺乳類の細胞生物学を組み合わせて、遺伝子の制御機構が解明された。
 Wntは、細胞結合に使われていない、遊離のβ-カテニン(ハエではArmadillo)を蓄積させて特別なシグナルを伝える。遊離のβ-カテニンは、細胞質から核内に移動して、そこでTCF転写調節因子と結合して複合体を作り、細胞増殖刺激因子の生産などに関わる種々のWnt応答遺伝子の転写を活性化する。
 細胞がWntタンパクに出合わないと、APCタンパクは、シグナル分子のβ-カテニンの分解を促進してWnt径路を不活性状態に保つ。Wntタンパクがあれば、活性のないAPCを含む複合体であっても、遊離のβ-カテニンが集積して転写調節因子TCFと結合し、Wnt応答遺伝子群の転写を促進して、最終的に腸陰窩の幹細胞を増殖させる。大腸では、APCを不活性化する変異が、Wntシグナル伝達経路の過剰活性化を引き起こし、腫瘍ができ始める。
 Wntシグナルを受け取っていない細胞で、TCFが活性化しないよう、APCはβ-カテニンの分解を促進し、この径路の活性を調節していた。APCがないとβ-カテニンの濃度が増すので転写調節因子TCFが活性化し、WntシグナルがなくともWnt応答遺伝子が発現する。
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 3)Wntタンパク(Wnt protein)と陰窩
 幹細胞による細胞の入れ替えの方法は、組織によって異なる。小腸の内壁では、吸収細胞と分泌細胞が一層に並んで単層上皮を作り、この層が腸の内壁に指状に突き出た絨毛の表面を覆っている。この上皮と、下の結合組織にくい込んだ形の陰窩の内壁の上皮とは連続しており、幹細胞は陰窩の底近くにある。この幹細胞から分化する大部分が、増殖性の前駆細胞で、これが上皮層内を上に向って移動していく。前駆細胞は移動しながら、最終分化して吸収細胞または分泌細胞となり絨毛の先端に達すると、やがて腸の内腔に脱落して死んでいく。上皮細胞が陰窩の底で誕生してから、絨毛の先端で脱落して死ぬまで、ヒトでは3から6日間と短命である。
 腸上皮の細胞は、消化酵素など様々な物質や細菌・ウイルスなどに晒される過酷な環境下にある。また、腸内の物質は、生物が食べた食物などによって頻繁に化学変化する。環境中にある様々な有害物質や変異物質に対する最初の防御線である。そのために痛んだ細胞を迅速に入れ替えることで組織を維持し続けている。上皮細胞が外部的な刺激で変異や不適切な分裂を始めても、その細胞や子孫細胞は、通常通り絨毛の先から外部に捨てられるため、高頻度に変異が発生しても癌にはならない。
 一方、ニューロンの機構は、他のニューロンと複雑な連絡網を構築し、特にその系統は、発生の初段階から緻密に組織化されるため、完成後に一部のニューロンが壊れると、細胞個々の再生程度では修復できない。そのため、骨などで外界から隔離されたような状態で保護されている。
 重層上皮の表皮では、全く違うことが起こる。表皮では、増殖性の幹細胞と前駆細胞が、基底膜に接着した一番底の層にとどまっている。細胞はできた場所から分化しながら、外に向って細胞の層に対して垂直に移動する。最終分化した細胞とその残骸は、やがて皮膚表面から剥がれて落ちる。
 皮膚の表皮の場合は、一番底の層の幹細胞から入れ替わる。その底の層には、幹細胞と幹細胞由来の分裂している前駆細胞が混在している。前駆細胞は、一番底の層から出ると直ぐに分裂を止め、外部に向って移動しながら分化する。やがて細胞内の核や多くの細胞小器官が崩壊して縮むと、ケラチンフィラメント((keratin filament)の詰まった平らなうろこ状になり、やがてうろこは皮膚の表面から剥がれ落ちる。再生を前提にした組織である。ケラチンフィラメントは、最も多様性に富む中間径フィラメント(intermediate filament)である。中間径フィラメントは、幾つもの長いひもを撚り合わせて、引っ張り強度を高めたロープのようなひもでできている。この線維状の構成単位は、中央の長い棒状領域と両端の不定形領域からなる。中間径フィラメントの束が細胞質を横切り、細胞膜にくっついているデスモソームに繋がっている。その細胞同士の細胞膜を繋ぐデスモソームを介して隣り合う細胞と間接的に繋がっている。細胞間結合するデスモソームは、細胞接着を作るタンパク質で、細胞膜を貫通して、細胞内部にある細胞骨格線維を連結して機械的な強度をもたらしている。
 ケラチンフィラメントは、脊髄動物の舌と目の角膜と腸管内壁など器官によって上皮の種類が違う。特有なケラチン類が組み合わせられれば、毛髪・羽毛・爪などにもなる。ケラチン(keratin)は、動物体の角・蹄・爪・髪・羽などに含まれる硬タンパク質の一種で、ヒトには50個以上のケラチン遺伝子がある。ヒトの遺伝性疾患である「単純性先天性表皮水泡症」は、クラチン遺伝子に変異があるために、ケラチンフィラメントの形成が妨げられる。患部を押しただけで表皮細胞が破れ、皮膚に水泡ができる。

 1種類の幹細胞から数種類もの分化した子孫細胞が生じることも珍しくはない。小腸の幹細胞から吸収細胞や杯細胞(粘液を作り出して分泌する単細胞腺で、大量の分泌顆粒を含むため膨らんでいる)など数種の分泌細胞が作られる。酸素を運ぶ赤血球や感染と戦う種々の白血球(好中球・リンパ球・単球・好酸球・好塩基球の5種類)など、血液中の細胞すべては、骨髄にある造血幹細胞に由来する。
 どんな幹細胞系でも、新しい細胞が適切な時機に適切な場所で、適切な数だけ作られる制御の仕組みでコントロールされている。この制御は、幹細胞同士とその子孫細胞のみならず、その領域にある他の細胞間を調節する細胞外シグナルに依存している。そのシグナルとそれにより活性化する細胞内のシグナル伝達経路は、意外に少なく、6群の基本的シグナル伝達機構に分けられる。それらの機構が、胚や成体で、様々に組み合わさり繰り返し使われ、種々の状況下で複雑な応答を成し遂げている。
 シグナル伝達機構の殆どは、腸など複雑な幹細胞からなる器官の維持に役立っている。Wntタンパクというシグナル分子群は、Wntシグナル伝達経路として活性化し、それぞれが腸陰窩の基底部で、幹細胞と前駆細胞の増殖を維持している。更に幹細胞から分化する細胞の生産管理もする。
 しかも陰窩にある細胞は、離れた部位で作用する別のシグナルも作り、陰窩の外ではWnt経路が活性化しないようにしている。それらの細胞は、別のスグナルを伝達し合い、互いの多様化を調節して、分泌細胞や吸収細胞へとそれぞれを分化させている。
 ひとたびシグナル伝達機構が破綻すると、腸内壁の構造は崩壊する。それにより、Wntシグナル伝達経路が乱れ、大腸癌を誘発し暴走させる。
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 4)陰窩から癌の謎を解く
 Wntシグナルを受け取っていない細胞で、TCFが活性化しないよう、APCはβ-カテニンの分解を促進し、この径路の活性を調節していた。APCがないとβ-カテニンの濃度が増すので転写調節因子TCFが活性化し、WntシグナルがなくともWnt応答遺伝子が発現する。それが、どのようにして大腸癌の発生を促進するのだろうか。
 それで、腸の内壁上皮で特異的に発現するTFC遺伝子ファミリーの1つTFC4が欠損するマウスで実験することになった。TFC4の遺伝子を破壊したノックアウトマウス(遺伝子操作により1つ以上の遺伝子を欠損させたマウス)を作った。変異は致死的で、TFC4を欠くマウスは、生後直ぐに死んだ。このマウスの腸に異常があった。腸の内壁の再生に関わる幹細胞を含んだ陰窩が全く存在していなかった。TFC4は、腸の増殖性幹細胞集団の維持に欠かせないことが分かった。
分解を促進するAPCがないと、それとは逆で、β-カテニンが過剰に蓄積し、TFC4転写調節因子に結合して、TFC4応答遺伝子群を過剰に活性化した。すると腸の幹細胞が過剰増殖してポリープができた。分化した細胞の生産は続き、やがて腸の内腔に捨てられるが、陰窩の細胞集団の増殖が速すぎて廃棄機構が間に合わなくなった。その結果、肥大化した陰窩の数が次第に増え、増殖組織の塊がポリープとして腸の内腔に突き出て来た。この原発腫瘍が変異を重ねて、やがて浸潤癌に変わった。
 ヒトの大腸癌の60%以上で、APC遺伝子の変異が見つかる。機能しているAPCを保持している少数派の腫瘍では、その約1/4がβ-カテニンを活性化する変異を持っていた。この変異は、β-カテニンタンパクを分解されにくくする傾向があり、APCの欠損と同じ結果を招く。実際、β-カテニンの活性を増強する変異が、黒色腫・胃癌・肝癌など他の腫瘍でも見出されている。
 癌は通常、体細胞に起きる変異から発生するため、両親から受け継ぐ生殖細胞に由来しない。そのため遺伝性疾患ではない。しかし、現実には、いくつかの非常に稀な癌では、家系に由来するとしか思われない悲劇が生じている。一部の癌では、強い遺伝子性の危険因子があるようで、その子供にも同じ癌が発症する事例が重なる。例えば、一対の癌抑制因子のAPCを、一方だけが変異を受け継ぐ家系の子であっても、大腸癌になりやすい傾向があWntシグナル伝達経路で働くタンパク質には、癌の発生を刺激する変異が標的とする遺伝子が多数ある。る。最も弱い遺伝子性の傾向は、乳癌などの幾つかの癌で見られるが、未だ、その遺伝子が明らかになっていない。
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 5)癌細胞の生物学が切り開く治療法
 癌細胞の発生と増殖、その浸潤による転移の仕組みの解明こそ、癌対策と治療の解明に繋がるはずだ。しかし、癌細胞は特別に変異を起こしやすく、ウイルスと細菌や寄生虫と同様、壊滅させようとすれば、その抵抗能力を急速に発達させる。その変異はランダム(random)であるため、全ての癌の症例が、独自の変異遺伝子の組み合わせを持つようだ。個々の患者の症例をみても、腫瘍細胞全てに遺伝子損傷が共通するわけでもなく、全ての患者、あるいは同じ患者であっても、その全ての癌細胞に有効な治療法はないようだ。
 癌は通常、原発腫瘍の直径が1cm以上に育っていないと発見されない。その段階では既に、腫瘍は遺伝的に一様でない数億個もの細胞が形成され転移している可能性が高い。言い換えれば、腫瘍は数億個の細胞の塊がないと見つけられない。腫瘍が顕著になるには数年を要している。一般に1個の癌細胞が分裂して2個になるために要する時間を倍加時間(doubling time)という。典型的な乳癌の倍加時間は、90〜100日程度である。そのため、治療を更に困難にさせている。
 典型的な大腸癌の症例は、APC遺伝子を失って生じる、結腸か直腸の上皮のポリープから変異を蓄積して癌を進行させるものである。その根底にある一連の変異の全ては、最初の変異から続く1個の細胞の中で偶然起こる。その一連の過程は、10年から20年以上経過している。大腸癌の殆どは、APC癌抑制遺伝子の欠失から始まるが、その後の一連の変異は多様であり、しかもポリープの多くは癌化しない。
 有効な治療が可能となった癌は増え続けているが、手術が極めて効果的であることには変わりなく、しかも手術法は絶えず進歩し、新しい技法が精力的に追求されている。多くの症例では、軽ければ切除すれば治る。手術が無理な部位には、周辺をあまり損傷させない用量の放射線療法やDNA損傷化学療法で癌細胞を殺せる。

 正常細胞ではDNAが損傷されれば、その損傷が修復されるまでは増殖を止める。癌細胞は、正常な細胞が持つ、その周期制御機構を欠くため、ひとたびDNAが損傷されても修復しないまま増殖し続ける。そのため癌の娘細胞は、染色体の損傷を受け継ぎすぎて生存を全うできなくなる。
 この正常なDNA損傷応答の欠如が、癌細胞が増殖させる特性であったが、それが癌の欠点ともなり、これを標的にする分子治療により癌細胞を死滅させる、多数の新しい治療法が開発されてきている。
 細胞の複製装置は、極めて精度が高い。しかも校正機能もあり、コピーの誤りを修正している。細胞は、この複製の誤りを修正するためにDNA誤対合修復(mismatch repair)という予備の系によるプロセスがある。
 複製装置の誤りは、約10(1千万)塩基に1個の割合である。DNA誤対合修復系が、その99%を修正してみせる。結果的に、109(10億)塩基に1個の誤りとなり、細胞の複製装置の精度は、驚異的水準まで向上する。

 複製装置のコピーの誤りは、誤対合したヌクレオチドとして現れ、これが修正できなければ、高精度のコピー能力があだとなり、持続するDNA複製では、2個のDNA分子の一方に、永続的な変異として残ることになる。DNA誤対合修復タンパク質複合体は、DNAの誤対合を認識して、DNA鎖に生じた誤ったヌクレオチドを含む部分を切り取り、元の親鎖を鋳型にして、その部分を正しく再合成して埋め戻す。この修復機構により、正しい塩基配列が再構築される。
 そのためには、DNA誤対合修復系が、二本鎖のいずれかにある誤りを識別する必要がある。正しい方のDNA鎖を、部分的に切り取りなどすれば、誤りを重ねることになる。この問題の解決するために、DNA誤対合修復系が必ず、新しく合成されたDNA鎖を切り取ってみせる。
 癌の予防には、DNA誤対合修復系の役割が際立つ。誤対合修復タンパクの遺伝子に変異があると、その遺伝的要因により数種の大腸癌に罹り易くなる。ヒトはそれぞれ両親の配偶子に由来する1コピーずつの染色体を受け継ぐ。その体細胞の1コピーに変異があっても表現されないが、同じ遺伝子を持つ正常な相同染色体にたまたま変異が重なると、その細胞と子孫細胞全てが、誤対合修復ができなくなるため、急速に変異が蓄積されていく。癌は多数の変異が蓄積した細胞から生じるため、誤対合修復系に欠損がある細胞は、際立って癌化しやすくなる。誤対合修復遺伝子の変異を遺伝した個体は、少なからず癌を発症する。

 例えば乳癌や卵巣癌の細胞には、遺伝的不安定性が見られる。DNAの二本鎖切断の修復タンパク質であるBrcal1またはBrcal2の欠損に起因するものである。これらの癌細胞は、別種のDNA修復機構を備えて生存する。この代替DNA修復機構を阻害させる薬があれば、癌細胞が分裂する複製後に、娘DNA鎖が断片化されるため増殖ができなくなる。この遺伝性の阻害薬は、完全な二本鎖切断修復機構を持つ正常細胞には殆ど影響しないため、副作用は余り起こらない。
 免疫系を利用して腫瘍細胞を殺す方法もある。特定の癌に関わる分子異常が分かれば、特異的な分子標的治療の設計に着手できる。腫瘍にある特異な細胞表面分子を標的にして破壊する。腫瘍特異的分子を識別する抗体を体外で作って患者に注射し、腫瘍細胞を直接狙い撃ちする。製薬業界では、副作用を考慮して、特定の細胞表面分子だけに結合して、想定した影響だけに止められるような創薬を理想としている。
 免疫細胞に照準を合わせる別の抗体では、免疫細胞の表面に存在するFas(ファス)リガンド膜結合タンパクにより活性化する、キラー細胞を阻止しようとするとする、癌細胞の抑制表面分子を中和して、癌の細胞死を促す。キラー細胞は、望まない、あるいは不要となった免疫細胞のアポトーシスを誘導することで、免疫応答を調節し、細胞死誘導シグナル伝達複合体を形成する引き金となって、細胞死へと導く連鎖反応を開始する。

 特定癌遺伝子の産物を直接標的にして、その作用を抑え、癌細胞を死滅させる研究が、盛んに行われている。慢性骨髄性白血病(CML)の場合、癌細胞の恣意的な振舞いは、増殖すべきでない時に増殖させる変異を起こす細胞内シグナルタンパク(チロシンキナーゼ;tyrosine kinase)に起因する。動物の様々な生理的調整に関わるホルモンや増殖因子の多くはタンパク質である。チロシンキナーゼは、アミノ酸の一つであるチロシンにリン酸を付加する機能を持つ酵素で、細胞の増殖・分化などに関わる信号の伝達など重要な役割を果たす。
 キナーゼとは、リン酸基を他の化合物に転移する(リン酸化する)酵素の総称である。遺伝子の変異によってチロシンキナーゼが異常に活性化すると、癌細胞が勝手に増殖し、慢性骨髄性白血病などの疾病の原因となる。
 イマチニブ(商品名グリベック)と呼ばれる小分子の薬は、この発癌を促進するタンパク質の過剰活性型変異キナーゼの活性を阻害する。そのタンパク質に依存する癌の増殖を阻止する効果は劇的で、白血病細胞の異常増殖と存続が強く抑制され、何年も無症状のまま生存できる患者が多くなった。
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