ニールス・ボーアとアインシュタイン | |||||||
|
|||||||
|
|||||||
1)ブラウン運動 イギリススコットランドの植物学者ロバート・ブラウンは、1828年に水面上に浮かべた花粉が破裂して中から出てきた微粒子が、ひとりでに不規則に動き回ることを発見した。花粉から出た1μm(10−6m=10−3 mm)くらいの粒子を顕微鏡で観察すると、ピコピコと激しく動き回っているのが見出された。彼は当初、これを生物特有の性質と考えたが、その後、ガラスや岩石のかけらなど無機物でもこの運動が観察され、しかも時間がたっても一向に衰えないことが分かった。これはブラウン運動Brownian motionと呼ばれるようになり、19世紀の科学界で大きく取り上げられた。 物質には3種類の状態、固体・液体・気体があり、物質の三態と呼ぶ。物質の状態は、温度や圧力によって変化する。 個体は、分子が規則正しく並び、互いに強い分子間力で結びついている。そのため固体は形を一定に保つことができるが、各分子は所定位置で乱雑な振動をしている。 液体は、固体に比べて、分子の熱運動が激しく、分子間力は弱くなっている。分子間の距離はあまり変わらないが、各分子の位置は自由に移動する。それで、体積は大きく変わり、容器の形に応じて形を変えることができる。 気体は、液体に比べてさらに分子の熱運動が激しくなる。分子間力はほとんど働かず、分 子間の距離は大きくなり、各分子は自由に運動し、その体積は温度や圧力によって大きく変化する。気体はその体積に比べて分子の占める割合が極めて小さいので、気体の種類が異なっても共通の性質が見られ、法則化(ボイル⋅シャルルの法則)することができる。 つまり、気体を容器に閉じ込めると、気体分子は容器内を激しく飛び回り、壁に衝突する。容器内の気体分子はどの分子も同じ力で壁に衝突する。容器の真ん中付近の分子だけが勢いが強くて、端の方の分子の勢いは弱いというようなことはなく、パスカルの原理が働いて、どこも一様である。 (ボイル⋅シャルルの法則は、質量が一定のとき、気体の体積 V=分子の数は、圧力 p に反比例し、絶対温度 T に比例する。 pv / T= k(比例定数;一定) 絶対温度を T、セルシウス温度を t [℃] とすると、T = t + 273.15。 ブラウン運動とは、気体や液体の分子は、たえず熱運動をしている。そして気体中や液体中にある微粒子も、これらいくつもの分子に衝突され続けている。その結果、微粒子は不規則に動かされることになる。このような微粒子の運動を「ブラウン運動」と呼ぶ。 微粒子を浮かべる気体や液体の種類によらず、ブラウン運動は起こる。しかも、ブラウン運動は、温度が高いほど溶媒分子の熱運動が活発になり、溶媒分子は激しく飛び回るようになり、それにともない浮遊粒子の動きも活発になる。つまり、ブラウン運動は温度が高いほど活発になる。 一方、浮遊粒子が大きくなると、質量も大きくなるため、大きな力が必要となり、溶媒分子がブラウン粒子を突き動かす量が小さくなる。また、ブラウン粒子の表面積が広くなると、一度にたくさんの溶媒分子が様々な方向から衝突してくる。そのため相互の力が打ち消し合い、ブラウン粒子の動きは小さくなる。つまり、ブラウン粒子が大きくなると、ブラウン運動が起きにくくなり、ブラウン粒子が小さいほど動きは激しくなる。つまり、熱というのは熱運動の運動エネルギーのことであり、分子の運動の激しさを熱という言葉で表現している。 ブラウンはこの運動の原因を解明することはできなかったが、発見者の名前にちなんで「ブラウン運動」と呼ばれた。 光学顕微鏡では、原子・分子そのものを直接見ることはできないが、顕微鏡で微粒子の動きを見ることによって、間接的に原子・分子の存在を知ることができる。 あらゆる物体を構成する分子・原子は常に乱雑に揺れ動いている。静止しているように見えるが、微視的には激しく揺れ動いている。この運動を熱運動と呼ぶ。この熱運動がブラウン運動の原因となる。 ブラウン運動というのは液体中に浮遊する微粒子がランダムに動き回る運動のことである。それは、液体分子によるランダムな衝突によって引き起こされる。この運動エネルギーを熱と呼ぶが、その実体は、分子の運動の激しさを物語っている。 熱運動の大きさを測る尺度が、温度である。 通常の温度計は、赤色に着色した灯油の膨張具合によって温度を測定する。分子の熱運動(運動エネルギー)がより激しくなれば、体積がより膨張する。ことを熱膨張と呼び、そのレベルを温度と呼ぶ。 検査対象物の分子が熱運動をしているため、その分子が温度計のガラス管に当たり、ガラス分子の熱運動を激しくなり、そのガラス分子が赤色の灯油の液体分子の熱運動を激しくさせ、赤色灯油が膨張し、温度計の目盛りを上げることになる。 物質が原子・分子からできていると考える原子論者は、水の分子が花粉の粒子に衝突することによりこの運動が引き起こされると考えた。熱現象が分子の運動によって生じるとする分子運動論から予想されたことは、気体中の分子も水の分子も秒速数百メートルというすさまじい速さで動いているということだった。それらの分子が絶え間なく花粉粒子に衝突することによってブラウン運動が引き起こされるとする説が19世紀後半に発表された。見積もりによれば、水の分子は、1秒間に1千万回も粒子に衝突する。しかしあまりにも多くの分子があらゆる向きから衝突するため、それらの力は互いに打ち消され、その結果、粒子は水の分子より遅い速度で動き回ると考えられた。 分子運動論によれば、全ての分子の運動エネルギーは等しく分配されると予想される。もしこの理論が正しければ、花粉の粒子でさえも分子一個と同じエネルギーを持つはずであると予想された。しかし、粒子の速度から運動エネルギーを見積もると、理論から予想されるものより、7〜8桁も小さな値となるため原子論の正しさを示す証拠にはならなかった。実は、ブラウン運動の軌跡は精度を粗く測定するほど遅くなり、精密に測定するほど早くなるという性質があり、当時の測定精度では、速度の正確な測定は不可能であった。 この「ブラウン運動」は、実は科学史上、重要な意味を持っている。このブラウン運動によって、原子や分子が実在することが証明されるのである。 ここまで微粒子と説明してきましたが、化学用語では「コロイド粒子」と呼ぶ。100万分の1mmから1万分の1mm程度の大きさの粒子が他の物質の中に均一に散らばっている状態を「コロイド」と言う。一方、原子の大きさは1千万分の1mm程度です。コロイド粒子は、原子にくらべるとずいぶん大きい。 粒子が大きいため、コロイド粒子を液体に溶かした場合は、真の溶液のような透明にはならず、不透明な懸濁液になる。牛乳やインク、墨汁、絵の具、泥水などがその例としてあげられる。 霧や煙、バター、クリーム、寒天、こんにゃく、ゼリー、ゼラチン、マヨネーズなど、私たちの身のまわりや自然界の多くのものがコロイドである。 アリストテレスが引用しているデモクリトスの議論にある通り、「限りなく小さな点は、決して寸法を構成できない」。有限な長さの物体が、有限な個数だけ集まって、ロープの寸法が作り出せる。ロープを無限に分割することはできない、物質は滑らかに持続しているのではなく、有限な寸法を持つ個々の原子により形づくられている。分割はできるがその作業は永続しない。「原子」には、それ以上分割されない究極の実体がある。世界に存在するあらゆる物質は、もうそれ以上に分割できない粒子(アトムatom)からできている。「アトム」とはギリシャ語で、これ以上「分割できないatomos」を語源にする。デモクリトスは、 この世は無限に広がる「空虚」と その中を運動する「アトム」 からできていると考えた。アトムは不変不滅で、自然界で物体や現象が変わるのは、アトムが絶えず動き回って、その組み合わせを変えているからである。デモクリトスは、古代ギリシャの時代に、唯物論を原子論によって完成させたのである。 1つの水滴を2つに分ければ、2つの水滴が得られる。その水滴も更に分割はできるが永続はしない。やがてどこかの時点で1個の水分子だけになる。ここで分割は終わる。1個の水分子より小さな水滴は存在しない。 多くの化学分野に由来する、何世紀にもわたる観測の積み重ねにより、化学物質は僅かな種類の元素で構成され、分子や原子の重さは、ほとんど原子核の重量に依存するため、元素の総数に基づく重力比によって物質の性質が決定されると考えられていた。化学者は、原子の固定的な組み合わせにより分子が構成され、その分子が物質の形を組み立てる、と見立てていた。例えば、H2Oと表示される水は、水素と酸素が2対1の割合で含まれている。 19世紀末から20世紀初頭のころは、原子や分子は存在しない、と考えている科学者も多かった。むしろ科学者や哲学者の多くは、原子論を謬論と見なしていた。 デモクリトスのすべての著作の破棄は、古代文明の崩壊のあとに起こった。アリストテレスによれば、物質は四原質と四性質で示されるような関係にある。すなわち、土は「乾-冷」、水は「冷-湿」、空気は「湿-温」、火は「温-乾」の性質をそれぞれもっている。また、土と水は「重さ」の性質をもち、土は水より重い、空気と火は「軽さ」の性質を持ち、火は空気よりも軽いとされた。そのため、土と水は自らの性質に応じて下降運動し、逆に、空気と火は上昇運動するのである。アリストテレスのこの日常観察的な考えが基礎になり、西欧思想が再建され、後のイスラーム哲学Islamic philosophyや中世スコラ学Scholologyにも多大な影響を与えた。スコラ学は、西欧中世の教会・修道院の付属学院 scholaの学者・教師たちによって担われた哲学・神学で、教父から継承したキリスト教思想と、アリストテレスを中心とする哲学とをどのように調和させ、あるいは区別して理解するかを中心課題とした。 一神教の思想が猛威を振るった数百年間に、デモクリトスの合理的な唯物的な自然学は完全に忘却され、長い科学の停滞期に入った。キリスト教は、コンスタンティヌス帝の313年にミラノ勅令で公認され、帝国内に広く浸透していた。テオドシウス帝は381年に、第1コンスタンティノープル公会議を召集し、三位一体説を正統教義として確認した。さらに392年、異教徒禁止令を出し、「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」と説くアタナシウス派キリスト教を事実上の国教とする措置をとった。これによって神、イエス・キリスト、精霊の3つが全て神性を持つという三位一体説のキリスト教信仰が、ローマ帝国と結びついて権威ある国家宗教とされる。それ以来、古代の思想を考究する学派は次々と閉鎖され、キリスト教と相容れない文書は悉く破棄された。プラトンとアリストテレスは、異教徒であるが「魂の不死」を信じていたため、教会から容認されることもあった。しかし、デモクリトスの文章は破棄された。 20世紀の初めにおいても、物理学者の多くは、原子は化学反応を説明するために化学者が便宜的に取り入れた架空の概念と見ていた。目に見えない、2個の水素原子と1個の酸素原子から構成される水分子の存在など、我々は原子を決して見ることはできないし、しかも、その大きさすら測りえない、それを信じる術がない。 しかし物質は原子から構成されると言う「原子仮説」を、1905年、アルベルト・アインシュタインにより、微粒子のまわりにある気体や液体の分子の運動が、ブラウン運動の原因と考え、数学的に解析することで証明して見せた。この25歳の年、アインシュタインは「ブラウン運動の理論」「光電効果の理論」「特殊相対性理論」という3つの革命的な論文を、『アナーレン・デア・フィジークAnnalen der Physik』に発表している。 それは、1799年創刊、世界で最も古い物理学の学術雑誌の一つ。物理学に関する幅広い分野の査読peer review済み原著論文を掲載している。査読(さどく)とは、研究者が学術雑誌に投稿した論文が、掲載される前に行われる、研究者仲間や同分野の専門家による評価や検証のことである。研究助成団体に研究費を申請する際にも、審査refereeinと言う査読がなされる。 25歳のアインシュタインが、23世紀前のレウキッポスLeukipposとデモクリトスのよって提示された説を証明して見せた。レウキッポス(BC470年頃~没年不詳)は、BC5世紀後半の古代ギリシアの哲学者であり、デモクリトスの師であり、共に原子論の理論を組み上げたと、アリストテレスは、原子論atomismの創始者と呼んだ。 目次へ |
|||||||
2)ブラウンとアインシュタイン 微粒子を浮かべる気体や液体のあらゆる種類が、ブラウン運動は起こす。ブラウン運動は、温度が高いほど、微粒子が小さいほど激しくなる。 ブラウン運動に興味をもったアインシュタインは、ブラウン運動を理論的に解析した。小さな浮遊粒子は常に水分子の衝突を受け、それらの力は途絶えることがないためにブラウン運動が続く。自然環境では、通常、ブラウン粒子も周りの水を含めれば温度が一定の熱平衡系である。それでも、小さな熱平衡系は常にゆらいでいる。 アインシュタインの関係式は、ゆらぎの大きさと外部から力を加えた時の動きやすさが比例していることを示していた。平衡状態から少しずらすためには、外から力を加えればよい。一般に加えた力が弱ければ応答としての動きの速さはそれに比例する。これを線形応答と言う。 電気回路の経験則であるオームの法則は、 電流(I) = 電圧(V) ÷ 抵抗(R) という式が成り立ち、電流は加えた電圧に比例し、抵抗に反比例する。 抵抗(R)とは、その物体の電流を流しにくい度合いを指す。電気抵抗とも言う。単位はΩ(オーム)。外部から加えた電圧に比例して電流が流れることを示しているが、これが線形応答の簡単な例である。 アインシュタインによれば、ブラウン運動による粒子の変位Dは式次式(1)で表される。 D = (RT/N)(1/6παη) (1) ここでRは気体定数、Tは絶対温度、Nはアヴォガドロ定数、αは微粒子の半径、ηは溶液の粘性を表す値である。D・α・ηは実験的に決められる数だから、この式とブラウン運動の結果からアヴォガドロ定数Nが決定できる。 pv / T= k(比例定数=気体定数;一定) 上記のボイル・シャルルの法則の関係式に、値を代入するば「気体定数」が算出される。ボイル⋅シャルルの法則では、質量が一定のとき、気体の体積 V=分子の数は、圧力 p に反比例し、絶対温度 T に比例する。 基礎化学でも取り上げているが、 0 ℃、1.013×105 Pa (1atm )の状態を標準状態と言う。 標準状態では1molの気体の占める体積は、気体の種類には関係が無く一定になる(アボガドロの法則)。 標準状態で1mol(分子6.02×1023個)の気体の体積は、22.4(L) で決まっている。 ボイル・シャルルの法則の関係式に値を代入すると、 PV/T =K PV/T =1.013×105 ×22.4/273 =8.31×103 となり、この値が気体定数である。 アインシュタインは、ブラウンの結果を知らずに1905年に論文を書き、粒子の拡散や分布という測定しやすい長時間の振舞いを測定すれば、原子の存在を実証できると予想した。また、逆にこの理論が実験で否定されれば、分子運動論にとって大打撃となることも指摘していた。 1908年にフランスのジャン・バティスト・ペランJean Baptiste Perrinが、ブラウン運動を観測し、アインシュタンの理論が正しいことを証明した。こうして、ようやく原子や分子の存在が広く信じられるようになった。 アインシュタインは、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞、ペランは1926年のノーベル物理学賞を受賞した。 ジャン・ペランは、1906年にアインシュタインの予想に基づきブラウン運動に関する注意深い実験を行い、アインシュタインの理論の正しさを実証した。様々の方法から見積もられた分子の数(アボガドロ数)は、プランクが黒体放射の理論から予測した数値ともほぼ同じ値となり、ブラウン運動の観察は物質が原子からなるということを確証する実験となった。 黒体とは、入射する電磁波をすべての波長にわたって完全に吸収し、また自らも電磁波を放射できる仮想的な物体である。黒体が放射する黒体放射のエネルギー分布は黒体の温度だけで決まり、黒体の温度が高くなるほどエネルギーが最大となる波長が短波長側に移動し波長の短い電磁波を多く放射する。物質が熱放射を行っていることはかなり前から知られていたが、その正体は電磁波であった。恒星の出す放射は黒体放射にかなり似ていて、実際には黒体放射で近似されることが多い。 水に落としたインクが拡散してゆく現象も、インクの粒子がランダムなブラウン運動をしながら全体として分布が広がってゆく結果と見ることができる。アインシュタインは、簡単な理論によりこの広がり方を予測し、一方で重力と拡散のつりあいで決まる粒子の分布を予測し、その2つの結果からアボガドロ数が見積もれると結論したのだった。 粒子の分布が広がる早さをあらわす拡散定数と、粒子に外力を加えたときの抵抗の逆数が比例するという関係式は、アインシュタイン関係式と呼ばれ、現在では、コンピュータの主要部品である半導体の理論を初め、現代の科学技術のあらゆる場面で役立っている。 原子の実在の実験的証明に向けて大きく前進したのはペランの沈降平衡の実験である。彼の成功は、ブラウンとアインシュタインの二人の先達が道を開いてくれたおかげといってよい。 1908 年になってペランが粒径のそろったコロイド粒子を使って実験を行った。0.1 mmの深さの水中にガンボージ樹脂(雌黄;しおう;東南アジア産オトギリソウ科の植物から採取する黄色樹脂) や乳香(カンラン科ボスウェリア属の樹木から採取される固形の樹脂)の微粒子を入れて平衡分布を実現、顕微鏡の焦点深度の浅いことを利用して底からの深さによって粒子数密度が変化する様子を調べた。ボルツマンの測高公式を使ってボルツマン定数kBは kB = R/NA = 1.6 × 10−16erg/deg となった。 さらにブラウン運動による平均自乗変位λ2x と時間t の比例関係を確かめ、これからアヴォガドロ数NA を決定した。アヴォガドロ数はペランの実験以前にももっと精度よく決められていた。ボルツマン定数kB の決定とアヴォガドロ数の決定は、精度を別にすれば同じである。アインシュタインは、気体分子運動論で知られている値として、NA = 6× 1023mol−1 を使っている。 5−75000×10−14g の微粒子を、水・砂糖水・尿素溶液・グリセリンなどの媒質の中で観察し、NA として5.5×10−23mol−1から8.0×10−23mol−1 の値を得た。これらの実験によって、ついに原子の存在は誰にも疑えないものとなった。ペランは1926 年のノーベル賞を受賞している。 現在の値は、NA = 6.0221367(36) × 1023mol−1、kB = 1.3806503(24) × 10−23JK−1 である。 目次へ |
|||||||
3)ブラウン運動とフラクタル
雪の結晶はうつくしく、一つとして同じものはない。あの美しい構造はどのようにして作られ、その多様性はどうして生まれるのだろうか。 それにブラウン運動が深く関わっている。ここではブラウン運動が作り出すフラクタルパターンfractal patternsについて調べたい。 普通に存在する自然界のパターンの大部分はランダムであり、二っとして同じものがないはずである。しかし、ランダムとはいっても、山並みの稜線それぞれには、それとわかる特徴を共有し、雪の結晶にしても、細部を見ると枝分かれが様々にあるが、その中でも何かある自然法則に支配された規則性が秘められている。確かに自然界に見られるフラクタルは、様々なスケールで同じパターンが構造全体で繰り返されている。つまり、そのフラクタルを互いの類似性として共有する多くには、自己相似性が見られ、それをフラクタルパターンと呼ぶ。 河川の一部を取り出し拡大しスケールを変えて観測しても、元のパターンと同じように見えると言う、そのスケールの変換に対しても不変なパターン(自己相似性がある形)を持つことを自己相似と呼ぶ。具体的な例をあげると、「雪の結晶」や「リアス式海岸」「稲妻」「雲」といったものが、よく例にあげられる。最近では「ロマネスコ・ブロック」がを典型例としてあげられる。 雪の結晶の先端を拡大してみると、そこには、結晶全体と同じ形をした小さな結晶が集まっていているのが分かる。岩手県の三陸海岸の「リアス式海岸」は、高台から眺めた景色と、衛星写真で広域的にとらえた映像であっても、どちらも自己相似性を如実に示す入り組んだパターンの海岸線が見られる。 熱運動によって引き起こされるブラウン運動では、溶媒分子が溶液中の粒子にランダムな衝突によってランダムな移動が起こることにより、浮遊粒子は溶液中に拡散していく。その動きは、大きな粒子では遅く、小さな粒子ほどに速くなる。 例えば、溶媒分子の数が相当に少なく、その寸法が充分に大きく、その溶液中の粒子が小さければ、その粒子はある時は右から、ある時は左からほぼ1回限りの衝突で飛ばされたままで終わる。通常、溶媒分子はごく小さく、寧ろ溶液中の粒子の方が大きい。事実、溶媒分子は極めて小さく、有限の数だけ存在するため「ゆらぎ」が生じるが、短い時間間隔での衝突が繰り返されて均衡が保たれているため、粒子の動きは小さいと観測される。 アインシュタインは25歳の時の「ひらめき」から、目で粒子の動きを見て観察し、その総体から分子の寸法を導き出し、その漂流の程度を計測して、原子の大きさを測定した。デモクリトスが知覚し得た物質を構成する原子を、2300年の時を経て、アインシュタインが、その存在を証明した。 一定の温度で所定の粘性を持つ溶液において、球状粒子の拡散の速度つまり拡散係数は、粒子径と反比例する関係になる。そのため、球状粒子であれば、溶液中の粒子径に関する情報は、粒子の拡散係数を測定することで得られることになる。 フラクタルの大きな特徴の一つは、その特殊な「次元」と言う概念にある。一番簡単な言い方をすれば、0次元は「点」、1次元は「線」、2次元は「面」、3次元は「立体(空間)」ということになる。ここでは、それを「長さ」「面積」「体積」という見方をする。 0次元の「点」では、長さも面積も体積もない。すべてが0。1次元の「線」は、面積と体積は0であるが、長さはある。両端がはっきりしている直線であれば、その長さを何らかの有限の数値で表すことができる。2次元の「面」の場合は、体積は依然として0であるが、面積は数値で表せる。 例えば正方形は、多数の直線が集まってできていると考えることができる。それぞれの直線の長さは決まっているので、あとは本数が数えれば全体の長さが求められそうだが、実際には幅を持たない直線を集めて面を作るには無限大の数の直線が必要となる。本数は無限大。つまり正方形の長の線が無限大に含まれることになる。体積の場合も同様で、無限大の枚数の面が集まってできていると考えることができる。 フラクタル図形の次元で考えると、大きい図形の中に、元となる同じ形の小さい図形がいくつ含まれているかを数える。例えば、1次元の場合、長さが1/2の線は単純に2個に分割、1/3の線は3個、1/5の線は5個、1/10の線は10個に分割され、小さい図形の「長さの分割数」がその「個数」となる。 2次元では、正方形であれば、この中に一辺の長さが1/2の正方形が22=4個含まれ、一辺が1/3なら32=9個、1/10なら102=100個となる。2次元では「長さの分割数の2乗」が「個数」となる。 同様に3次元の場合には、長さが1/2なら23=8個、1/3なら33=27個、というように、「長さの分割数の3乗」が「個数」となる。 上記の考え方を基本にフラクタル図形は、より微細に厳格なルールに従って描かれていく。その意味では十分に精密でありながら、ランダムな要素を持ったフラクタル図形でもある。平面内に多数の点を一定の規則を設けて形成すれば、ランダムな要素があっても、その例外的な場所以外は、ほとんどに同一性がある。微細な部分にこだわれば、完全に同じ形と言えないまでも、その全体と部分とを比較すれば、厳密に100%同じ形とは言い難いが相応に精密である。 ところで、フラクタルと言うからには、フラクタル次元を決めることができるはず、しかしフラクタル図形では、同じ形がキッチリ繰り返されているわけではない。「ミニチュアが何個含まれているか」という考え方だけでは完成できない。そこで、このような「キッチリしていない」フラクタル図形にも適用できる次元の決め方がいろいろと提案されている。 その中で最も有名なものの一つが「ハウスドルフ次元Hausdorff dimension」で、これは、「長さ」や「面積」や「体積」のような何らかの量(測度)を調べた時に、その値が0でもなく、無限大でもなく、ある有限の値になるポイントを探す、という方法である。 直線や正方形と比較しながらハウスドルフ次元を求める手順は、フラクタル図のように対象となる図形が平面的な図形ならば円で覆い、立体的な図形ならば球で覆う。大きな単純な円ならば一つだけで全体を覆うが、様々なパターンがランダムに絡めば、円は小さくなり、当然、必要な数は増えていく。この時、円と円とがムダに重ならないように注意すれば、円の直径を全部足し合わせたものがその図形の大雑把な「長さ」を、円の面積を全部足し合わせたものがその図形の大雑把な「面積」を表す。そして円が小さくなればなるほど重なり合っている部分や周囲にはみ出している部分が減って、実際の「長さ」や「面積」との誤差は小さくなる。円を無限に小さくすれば、元の図形の正確な「長さ」や「面積」にピッタリ一致するはず。つまり、複雑で特異的な形をした図形の「長さ」や「面積」などの測度を、円の測度で置き換えることができる。 拡大しても拡大しても同じような構造が繰り返し現れる幾何学図形を現代ではフラクタルと呼んでいる。フラクタルの名付け親であるマンデルブローは、ブラウン運動の軌跡の長さは、拡大すれば際限なく増大すると述べている。 アインシュタイン自身も、1905年の論文の中で、ブラウン粒子の軌跡を、過去の記憶を持たない軌跡、したがって、いたるところ不連続であるため微分ができない。そのため個々の運動を解析せずに、統計平均としての拡散現象を解析している。 ペランもイギリス海岸の長さを測ることは難しいと述べているように、自然界には複雑で長さや面積を決め難い図形はたくさん存在する。 しかしながら、細部を拡大すると全体と似る自己相似性があるフラクタル次元では、「フラクタル」をより細かくしていけば、全体の長さを測る物差しとなる。このような「細部を拡大すると全体と似る複雑図形」をフラクタル(図形)と呼ぶ。「フラクタル」とは、「砕けた」を意味する造語である。 今の例に適用すると、細部を拡大すると全体と似る自己相似性を持つ図形を描くためのモデルを数学的に作って見ると、曲線の次元は線であるかぎり1次元であるが、フラクタル次元を導入することにより、複雑さの度合いを数値化し分類することが可能となる。それにより、いくつかの縮小コピー変換f1, . . . , fmが出来上がる。これらは、平面上あるいは空間上のある点を中心にして、何倍かに縮小する操作をする。例えば、図形Xが、Xを「{f1, . . . , fm}によって作られる「自己相似集合」が完成する。 フラクタル図形の大きさをはかるちょうどいい「ものさし」を探す。図形の長さは、図形を小片にわけ、その小片の大きさを、さらに小さくしていき、それらの直径を足し合わせて測る。図形の面積は、図形を小片にわけ、それらの直径の2乗を足し合わせて測る。図形の体積は、図形を小片にわけ、それらの直径の3乗を足し合わせて測る。 アインシュタインは、、「t時間の物差し」を最小単位として測定して、その時間間隔から長さを割り出した。ブラウン粒子が移動する平均距離は、時間tの1/2乗(t1/2=)に比例すると予測した。つまり、物差しの最小単位を観測する時間間隔とすれば、時間間隔を1/2にすれば長さは4倍になる、したがって、フラクタル次元は2となる。ブラウン運動は1次元の曲線でありながら平面を埋め尽くすフラクタル図形になっている。 例えば、対象が平面的な図形であれば円で覆い立体的な図形であれば球で覆えばよい。大きな円ならば一つだけで全体を覆えるが、円が小さくなると、当然、必要な数は増えていく。この時、円と円とが重ならないようにすれば、円の直径を全部足し合わせたものがその図形の大雑把な「長さ」を、円の面積を全部足し合わせたものがその図形の大雑把な「面積」を表すことになる。そして円が小さくなればなるほど重なり合っている部分や周囲にはみ出している部分が減って、実際の「長さ」や「面積」との誤差は小さくなる。円を限りなく小さくすれば、元の図形の正確な「長さ」や「面積」にピッタリ一致することになる。つまり、複雑な形をした図形の「長さ」や「面積」などの測度を、円の測度で置き換えることができるようになる。さらに、「長さ」や、長さの2乗である「面積」や、長さの3乗である「体積」の他に、例えば「長さの1.5乗の測度」や「長さの2.3乗の測度」も考えることができるから、後は、これらの測度のどこに、0でもなく無限大でもない、有限の値になるポイントが来るかを調べればよい。そのポイントが「長さ」の2乗の、つまり面積のところに来ればハウスドルフ次元は2、1.5乗のところに来ればハウスドルフ次元は1.5ということになる。 目次へ | |||||||
4)ゆらぎの世界へ アインシュタインの2つの論文により、世界に対する見方を一変させた。宇宙の果てや運命を支配する相対論、ミクロの極限へと向かう量子論により、時空のデザインが信じがたい光景となって提示された。 しかし、相対論というマクロの世界と、量子論というミクロの世界の狭間の世界は、物体に備わっている性質として、絶え間なくゆらいでいる(不確定)。アインシュタインはそこに第3の扉を用意する。他の論文に比べて、一見地味に見える3つめの論文、ブラウン運動の論文は「ゆらぎ」の世界へ誘う扉でもあった。 ブラウン運動は、粒子運動の軌跡である。例えば、たなびく雲は、たくさんの水や空気の粒が揺れ動く中で生まれては消える。アインシュタインの第3の論文を出発点として、絶え間ない変動と不安定にさらされる世界、その非平衡状態を扱う物理学が生まれた。無数の分子が存在する世界には、一個一個の分子の運動からは予測がつかない偶然性ありながら規則性があり、そのそれぞれが異なった法則に支配されている。それらを理解するためには、移り変わりの中に法則を探り、数学的な記述方法を見出す非平衡物理学が必要であった。非平衡物理学の一つの流れは、線形応答理論に発展し、電気抵抗と熱雑音の理論的関係や、磁性体など様々の物質の物性を予測する基本理論として、通信やコンピュータなど現代のあらゆる技術に用いられている。 もう一つの流れは、不安定性を捉えるカオス理論や構造形成の理論へと発展した。不安定性は、ゆらぎを拡大するため、同じ方程式に支配される場合でも、異なった結果を生み出し、世界に多様性を与える原因となっている。現在では、生物の形態形成のメカニズムや、人の筋肉の動きとそのエネルギー生成の原理さえも解明され続けている。また、ブラウン運動の軌跡が持つ、拡大を繰り返しても同じ構造となる、フラクタルという概念が紡ぎ出す世界観が、自然科学だけでなく、経済やデザインの分野にも、新たな覚醒を呼ぶ契機となった。 この「ゆらぎ」の世界の物理学には、現代の物理学に新たな進路を与えてくれたが、アインシュタインや量子学の発展に重要な役割を果たしたニールス・ボーアであった。 アインシュタインはニールス・ボーアよりも6歳年上になる。アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞した翌年1,922年に、同賞を受賞したのがニールス・ボーアであった。 アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルAlfred Bernhard Nobel(1833年10月21日 ~1896年12月10日)は、ダイナマイトを発明したスウェーデンの化学者・発明家・実業家であった。日本でいえば幕末から明治時代までの生涯、その間だけでも、アヘン戦争やクリミア戦争、普仏戦争などがあり、ヨーロッパの列強は各地で戦争に明け暮れていた時代であった。 巨万の富を得ていたノーベルは、破壊的なダイナマイトの発明と実業で財をなしたため、生前の評判はけっして芳しいものではなかった。しかも、ダイナマイトが完成するまでの過程で、いくつかの事故があり、そこでも多くの人達が亡くなっている。兄のリュドビックが死亡した時にノーベルが死んだと勘違いしたフランスのある新聞社が見出しに「死の商人、死す」と報じた。 この記事を読んだノーベルは、自分の周りからの評価を知り、自分が本当に死んだらどれほどの非難にさらされるか考え、考えたあげくに遺書を残すことにした。 1896年12月10日、アルフレッド・ノーベルは、地中海に面したリグーリア海岸のイタリアの都市サン・レモで亡くなった。享年63歳。この命日に、ノーベル賞の授賞式が行われ、スウェーデンとノルウェーでは祝日になっている。病没した年の12月30日に、その後世界で最も有名な遺書となるノーベルの遺書が開封された。 「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資して継続される基金として設立し、その毎年の利子を、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」 彼はその無念の気持ちと平和への志をノーベル賞制定の遺書に託し、その基金としての全財産の3100万クローナを残して1896年に他界した。3100万スウェーデン・クローナという価値は現在の価値に直すと17億クローナ、その為替レートが「1クローナ=14.67円」とすると、日本円に換算すると約250億円となる。 遺書には「候補者の国籍はまったく考慮しないこと」「人類の福祉にもっとも具体的に貢献した人びと」に与えるなど、賞についての細部にわたる指定が行われ、その精神は現在に至るも少しも変更されていない。 ノーベルは国際賞にすることを強く希望していたため、スウェーデン国内では激しい論争が巻き起こった。しかし、彼の年若い助手であったラグナル・スールマンの働き掛けや数年に渡る議論の末、1901年の第1回のノーベル賞は、エックス線を発見したドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンに物理学賞が授与された。レントゲンがエックス線を発見したのが1895(明治28)年11月8日、そのエックス線は、医学史の中でも最大の発見といわれており、放射線医学の歴史はここから始まった。 ノーベルの意思を引き継いだ方々がノーベル財団を設立して今日に至る。賞金はこのノーベル財団の基金から提供されている。一時賞金が底を尽きかけた事も有って現在は安全な有価証券だけでなく不動産や株式投資も行っている。 ノーベル賞の賞金額は、「基本的に、1千万スウェーデン・クローナ」、この額は、ノーベル財団の資産運用の状況によって変わる。iPS細胞を作った山中教授は、日本円で約4700万円の賞金が贈られた。 英米が、ドイツにおける核兵器開発をそれほど恐れたのには理由がある。ひとつは、ヒトラーが手に入れれば、躊躇なくそのような強力な破壊兵器を使用するだろうということ。もうひとつは、不確定性原理で知られるドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの存在であった。ニールス・ボーアは、『ハイゼンベルクは、ヒトラーの兵器庫に原子爆弾を届けるために邁進している』と述べている。ハイゼンベルクは、1925年に量子力学のひとつの形式である「行列力学」を発表。1926年、コペンハーゲンのボーアの元で量子力学を研究する。1927年、行列力学から導かれる結論が「不確定性原理」を発表。これは、ある粒子の位置と運動量は同時に決定することはできないという性質を示している。1932年、量子力学の創始者として、31歳でノーベル物理学賞を受賞している。 ハイゼンベルクは、1922年の秋頃から、ニールス・ボーアに研究所での進捗状況を手紙で伝えていた。1923年のクリスマス直前にも、最近の研究についてボーアに手紙を書いていた。数週間ほどすると、ボーアからコペンハーゲンに来るようにという返事が来た。 1924年3月15日の土曜日、ハイゼンベルクは、コペンハーゲン・ブライダムスヴァイ17番地にある、赤いタイルの屋根の新古典様式の3階建ての建物の前に現れた。玄関には「理論物理学研究所」の看板があった。通称、「ボーア研究所」である。 はじめの数日間は、ボーアの姿を見る事さえままならかった。ドアにノックがあり、ボーアが大股に入ってきて、「忙しく申し訳なかった。ちょっと徒歩旅行をしよう」と誘われ、海辺の小さな町チスヴィレにあるボーアの別荘に泊まるなどして、二人は3日目に研究所へ戻った。その2週間の滞在期間中に、ボーアとハイゼンベルクは、研究室の裏手の広々とした公園を歩きながら、あるいは夕方にワインを一本飲み干しながら論じたことで、「いずれ科学を大きく進展させる天賦の才に恵まれている」ハイゼンベルクは、後年、1924年3月のコペンハーゲンの滞在は「天からの贈り物」だったと述べている。同年9月17日にボーアの研究所に戻った時、22歳のハイゼンベルクは、量子物理学に関する単著と共著合わせて10篇以上もの優れた論文を発表していた。後年、ハイゼンベルクは「ゾンマーフェルトから楽観的であることを学び、ゲッティンゲンでは数学を学び、ボーアからは物理学を学んだ」と述べている。 1927年2月、ボーアとハイゼンベルクは、数か月にわたり量子力学の首尾一貫した物理学的解釈を作ろうとしたが敵わず、ボーアとハイゼンベルクは疲れ果ててしまった。ボーアは一か月の休暇をとり、ノルウェーにスキー旅行に出かけた。その留守中、まだ25歳のハイゼンベルクは、不確定性原理を発見する。自然の内奥に潜む構造を、その妄想から世界を変革する理論を、周囲に先駆けて組み立てるのには20代と言う若さが必要だった。時間は誰にとっても同じように過ぎ去るものではない、と理解したのは20代のアインシュタインであった。 「ハイゼンベルクの 不確定性原理」は、あらゆる事物には、「相関性」の側面があり、電子は常に存在しているわけではなく、電子が存在するのは、何かと相互作用を与え合っている時だけである。つまり、何かと衝突した時に、電子はその場に姿を現す。電子がある軌道から別の軌道に「量子跳躍」する時が、この世界に存在できる唯一の方法である。電子とは、ある相互作用から別の相互作用への跳躍の総体であり、誰も邪魔をしなければ電子はどこにも存在しない。 電子の位置の不確定性を小さくしようとすれば、運動量の不確定性が大きくなり、逆に、電子の運動量の不確定性を小さくしようとすれば、位置の不確定性が大きくなってしまう。位置と運動量の両方の測定値を「きっちりとした値」に確定することはできない。 その誤差は、その実験装置や測定器が未熟であったとか、目盛りの誤読などによる測定誤差ではない。実験装置は完璧で測定は理想的に正確に行われていると仮定しても、用いた光の粒子性と波動性の2重性により本質的な誤差(不確定性)が生じる。 ハイゼンベルグは、電子の位置と速度を記述する代わりに、数学で言う「行列(数字の一覧表)」を作成した。そこに様々な数字を代入して計算された答えは、観察結果と完全に一致したのである。ここに量子力学の根幹をなす、本当の意味で最初の方程式が誕生した。今日に至るまで、この方程式は一度足りとも誤ることなく常に正しい結果を予見してきた。 ハイゼンベルクの研究を引き継いだのも、25歳の英国人ポール・デイラックPaul Adrien Maurice Diracである。彼は方程式を土台にして、数学力で新しい理論を構築した。今日のエンジニア・化学者・分子生物学者などは、ディラックの量子力学を日常的に利用し続け、アインシュタイン以後に生まれた、20世紀最大の物理学者と評価している。ディラックの理論の並外れた有効性は、コンピューター・分子化学・分子生物学のみならず、レーザーや半導体も、ディラックの量子力学がなければなり立たないのである。 量子力学の一般公式を完成させた数年前に、ディラックは自分の方程式が、電磁場のような「場」にも適用できるばかりか、更に特殊相対性理論とも矛盾しないことに気が付いた。ディラックは、それを認識する過程で、物理的な描写を、深奥まで単純化する方法を発見した。それが、ニュートンが提唱した粒子の概念と、ファラデーが導入した場の概念との統合となった。 電磁波の正体は、空間を伝わる「振動するファラデー力線」であり、電荷のない場所では消滅や分岐することなく、無限遠まで達するものもある。しかも電磁波は極小のスケールでは光子の一群である。ファラデーとマックスウェルの場は、光子と言う粒子で形作られている。光電効果で明らかのように、他の物質と相互作用を与え合うとき、電磁波は粒子の群れのような振る舞いをする。光は人の目に、分割された個別の光子となって浴びせている。その光子は電磁波の「量子」である。 光速度(秒速約30万km)を電磁波の波長で割ると、その電磁波が1秒間に振動した回数が求められる。これを振動数(周波数)と呼ぶ。振動数は物理学用語で、周波数は無線通信などでの工学用語である。振動数の単位はヘルツ(Hz)である。波長の短い電磁波ほど振動数が大きく(高く)なり、より速く振動する。光(電磁波)が物質に出会う時、何が起こるかは振動数の大小に左右されるため、光を含め振動数の理解により、電磁波の性質をより深く知ることができる。例えば、振動数が大きいエックス(X)線やガンマ(γ)線は、物質を通り抜ける「透過作用」があり、その際に物質を作る分子や原子から電子を弾き飛ばす「電離作用」を起こす。レントゲン写真は、X線が筋肉の中を半分程度透過する能力があるが、骨は殆ど透過しないため、体の内部を観察できる。 可視光だけでなく、波長の長い人工的導波体の無い空間を伝わる3THz以下の電磁波(長波~超短波・マイクロ波)から1EHz(エクサヘルツ)のガンマ線まで、波長の異なるすべての電磁波は同じ光速度で空間を伝わっていく。ガンマ線は、「コバルト照射」などと呼ばれ、各コバルト線源(放射性金属コバルト60をステン. レス鋼製のカプセルに二重に溶接密封した構造の、専用の治療装置を使う)から放出されるγ線がヘルメット内の小さな穴を通過することでペンシル状のビームとなり、小さな領域を照射するように設計されている。このようにして、多方向から一点に高線量の放射線を集中させることができので、ガンなどの治療に使われている。しかも、広島や長崎の原爆から出た放射線が中性子線とガンマ線であった。原子力発電の原子炉内では、核分裂から発生した物凄い数の中性子が飛び回っている。これが放射線の1つである「中性子線」となる。ガンマ線のように透過力が強いので、人体の外部から中性子線を受けるとガンマ線の場合と同様に組織や臓器に影響を与える。吸収された線量が同じであれば、ガンマ線よりも中性子線の方が人体に与える影響は大きい。そして、それを浴びた多くの人々が即死し、即死を免れた人々も焼けただれ苦悶の中で死に至る。 光の正体は「振動するファラデー力線」であれば、ある相互作用と別の相互作用の間で、電子が描く確率の雲は「場」と似通っている。ファラデーとマックスウェルの場も、光子と言う粒子で作られているのであれば、粒子は空間の中に場として拡散しており、その場も粒子のように相互に影響を与え合っている。ファラデーとマックスウェルは、場と粒子を分けて考えていたが、ディラックの量子力学の中で一体の物と解された。 ディラックの量子力学の方程式は、存在し得るあらゆる物理的な変数を値として取り込んでいる。この方程式をファラデー力線のエネルギーに当てはめれば、このエネルギーは特定の値だけを示し、他の値を取ることがないことも明らかになる。電磁場のエネルギーは、特定の値だけを取るが、プランクとアインシュタインが直観したエネルギーの粒子性を、ディラックの量子力学の方程式が証明して見せた。 ディラック方程式とは、量子力学の基礎方程式であるシュレーディンガー方程式を、特殊相対論の要請を満足するように修正した方程式である。 相対性理論では、時間と空間が同じ性質をもつものとして扱われる。具体的には、時刻 t と空間座標 r=(x,y,z)をまとめて1つのベクトルとして (ct,r) = (ct, x,y,z) のように扱う。ただし定数 c=299,792,458m/sは光速度である。このような相対論的な4成分ベクトルのことを一般に4元ベクトル(しげんべくとる)と呼ぶ。4元ベクトルはとくに位置座標を表しているので「4元位置ベクトル」と呼ばれる。4元ベクトルと呼ばれるものは4元位置ベクトルだけに限らない。 エネルギー Eと運動量 pでは、 (E/c,p)= (E/c,px,py,pz) 上で示した例のような組み合わせは4元ベクトルになっている。これを「4元運動量ベクトル」という。非相対論的な力学では別々のものと考えられていた物理量が相対論では1つの4元ベクトルとして解釈されるようになる。しかし、どのような物理量も4つ組み合わせれば4元ベクトルになれるかと言うとそうではない。相対論的な座標変換の規則(2つの座標系で測定される物理量の間の関係を一般に座標変換と言う)に正しく従うものだけが4元ベクトルになれるのである。 ディラックの量子力学は、2つの作業を可能にする。第一は、物理的な変数が、有限な選択肢の中で、どの値をとり得るか計算する。これを、「変数スペクトルの計算」と呼ぶ。この計算は、事物の本質を形成する「粒子」が備える極めて普遍的な性質を捉えている。粒子は、あらゆる物理的な変数になり得る。原子・電磁場・分子・振り子・岩・天体などなどが、他の対象と相互作用を与え合っている瞬間に、その対象の変数がどの値をとり得るのかを計算してくれる。つまり、ディラックの量子力学の方程式は、あらゆる物理的な変数が取り得る値を規定していることになる。例えば、プランクとアインシュタインが直観した光の粒性は、ディラックが編み出した量子力学の方程式で確認できる。 ディラックの量子力学が可能にする第二の作業は、「確率」の計算である。あつ対象が次に相互作用を起こす時に、Aと言う値で現れるか、Bの値になるかは、その「確率」の計算で知ることができる。これを、「遷移振幅の計算」と呼ぶ。 このような確率が、量子論の鍵となる3つ目の性質、「不確定性」を表すことになる。つまり、唯一絶対の予測はなく、実現する見込みのある複数の予想しか立てられないため、その確率を計算することになる。 例えば、電子や粒子を、空間に見出せる確率は、ぼんやり広がる雲のようなものとイメージされている。電子が存在する確率が高ければ、雲の色が濃くなっている。それが、原子核の周りを回る電子の原子軌道となるが、それは一番電子が現れやすい場所を連続して表示してくれる。 目次へ |
|||||||
5)ナチス政権下の物理学者 アインシュタインは、「ヒトラー票は、必ずしも反ユダヤ主義を反映したものではなく、経済的苦境と失業により間違った方向へ導かれたドイツの若者たちの間で引き起こされた一時的な怒りを表しているに過ぎない」と評し、それが当時の一般的な見解であったが、実際には、ナチスに票を投じた者の多くは、ホワイトカラーの労働者・商店経営者・小規模事業者・北部プロテスタント農民・職人・産業の中心から外れた非熟練労働者などの層で、選挙権を得たばかりの若者達の票は、わずか1/4に過ぎなかった。 1928年~1930年における選挙の間にドイツの政治情勢に決定的に影響を及ぼしたのが、1929(昭和4)年10月24日に発生したニューヨーク株式市場の株価大暴落に始ま世界恐慌 world economic crisisであった。アメリカで起こった株の大暴落「暗黒の木曜日Black Thursday」 と、その後の10月29日に「悲劇の火曜日Tragedy Tuesday」という大暴落が重なり、アメリカのウォールストリ-ト証券市場は大崩壊する。それを端緒にする大恐慌であった。1929年に発生した世界恐慌の場合、底を打って持ち直しの徴候が出てきたのは1933年と見られている。アメリカでは、この恐慌によって国内総生産が恐慌の始まる前に比べ1932年の時点で30%低下し、失業率は25%にまで上昇した。失業者数は1,200万人、閉鎖した金融機関の数は1万以上にもなり、特に銀行の閉鎖がすさまじい、1929年から1931年の間に、3,000 以上の銀行が倒産した。 連邦政府は銀行預金を保証しなかった。顧客は全ての貯蓄を失う。銀行倒産のニュースを聞き、人々は自分の預金を引き出そうと銀行に殺到、銀行は現金を使い切って倒産するという、負のスパイラルとなった。 世界経済の面から見れば、アメリカと西ヨーロッパの各国との格差が広がったことも、世界恐慌を引き起こす要因の一つとなった。 1920年代には第一次世界大戦の痛手から立ち直れない西ヨーロッパに対して、アメリカは西ヨーロッパの復興のために大量の投資を行い、その結果、他国からの借入を大きく上回ったため、債務国から世界最大の債権国になった。 逆に、第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、資本輸出国から資本輸入国に転じ、多額の借金を抱え、フランスも長期で運用する資金的余力を失い、短期を中心にする資本輸出国になった。 一方、第一次世界大戦に対するドイツの賠償金の支払いは莫大過ぎて、自国だけで直ぐに支払うすべもなく、結局、アメリカからの借入に頼るようになった。 イギリスやフランスはこうして支払われた賠償金で、戦争中にアメリカから借りていたお金を返済し、再びこれをアメリカからドイツは借り入れた。 こうしてアメリカを中心にするドイツやイギリス、フランスの膨大な資金需要の循環構造ができあがり、 これによって、1920年代のアメリカの好景気が維持された。 ニューヨークに始まる金融危機の衝撃波が、ドイツを直撃した。それまでの5年間、危なげな経済復興を支えてきたのがアメリカからの短期貸付であった。そのため、莫大な損害を被ったアメリカの金融機関は、貸付残金の即時返還を求めてきた。この還流資金の中断は.、ドイツの経済を完全に機能不全し、1929年9月では130万人だった失業者が、1930年10月には300万人にも達した。 1930年12月2日、アインシュタインは、ドイツを離れ2ヵ月の滞在予定で、ロサンゼルス郡パサデナPasadenaのカルフォルニア工科大学(カルテックCaltechの略称でも親しまれている)に向かていた。船がニューヨークに到着すると、待ち構える報道陣から15分間の記者会見をせがまれ、あるレポーターが「アドルフ・ヒトラーについてどう思うか」と問いかけられ、アインシュタインは、「彼はドイツの空っぽの胃袋を食い物にしているのです」「経済状態が改善さえすれば、大した問題でななくなる」と、ナチスは「ワイマール共和国の子供っぽい病気」にすぎず、直ぐ治るだろうと、余りにも楽観的であった 1919年7 月31日、第一次世界大戦後のドイツ共和国(ヴァイマル共和国)の新憲法が制定され、当時、世界でもっとも優れた民主主義的なヴァイマル憲法制定から、1933年のヒトラー政権の成立までのドイツ共和国を特にヴァイマル共和国(ワイマール共和国とも表記)という。ヴァイマル憲法の下で、国民の直接選挙で選ばれる大統領制と議会制が実現し、社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出された。その後も、社会民主党を中心とした連立内閣が続いた。社会民主党はドイツ第二帝国が崩壊した後、社会主義革命を目指したスパルタクス団(ドイツ社会民主党の左派が結成した革命集団)の蜂起を抑え穏健な社会改良政策を進めた。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担が足枷となって、激しいインフレで経済は疲弊し、左からは労働者の不満を吸収したドイツ共産党の進出と、右からは反ヴェルサイユ体制を唱える国家主義運動であるナチズムが台頭し、政治・社会の混乱はより激しくなる。一方では実現された平和の中で、人々は「ドイツのアテネ」ともいわれ国土のほぼ中心に位置する文化の薫り高い古都ヴァイマルを中心に、第一次世界大戦後、大衆文化の広がりという新しい文化状況の中でヴァイマル文化を生み出した時代でもあった。同時に、物理・化学・生理学・医学などの分野はもとより、文学、哲学及び芸術の最先端を行く国と見られていた。 1930年、ヒンデンブルク大統領は、社会民主党内閣が大恐慌に対応できずに辞任した後、議会内少数派の保守派のブリューニングを大統領緊急命令権によって首相に任命した。この大統領緊急命令はヴァイマル憲法の規定によるものであるが、これによって議院内閣制は停止されたことになった。憲法上、最重要な議院内閣制が機能できなくなったためである。その後、短命内閣が続くとヒンデンブルクは、1932年選挙で第1党となり、11月の選挙でも第一党を維持(過半数ではなかった)したナチス党のヒトラーに対し、1933年1月に組閣を命じヒトラー内閣が成立した。 アインシュタインは、ナチスを「ワイマール共和国の子供っぽい病気」と評したが、その病気が、「ワイマール共和国」の息の根を止めた。共和国は既に、名ばかりの議会制民主主義で、法律を制定することすらままならず、実質的には、「行政による政令支配」が行われていた。 この状況に、精神分析の創始者ジークムント・フロイトは、1930年12月7日、「われわれは悪い時間に向かっている。私は年寄り特有の無関心さで目をつぶれば良いことだが、7人の孫をことを思うと悲しまざるを得ない」と語っている。 (第1次大戦後の大恐慌を背景に誕生したナチス政権が賠償金の支払いを拒否したことや、1953年の「ロンドン協定」でドイツ統一まで支払いが猶予されたことから、完済が遅れていた。 2010(平成22)年10月3日、ドイツ財務省は、第1次世界大戦(1914~18年)の戦後処理を定めたベルサイユ条約などで敗戦国のドイツに科された賠償金のうち、最後まで残っていた国債利子分の約7千万ユーロ(約80億円)の支払いを完了したと発表した。大戦終結から92年後にようやく完済したことになる) 1932年、ハイゼンベルクが、行列力学から導かれる結論「不確定性原理」で、31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞(受賞自体は翌年に延期された)、翌1933年、31歳のディラックと46歳のシュレーディンガーがノーベル物理学賞を分かち合う。 20世紀前半に物理学は急成長した。物理学者の多くは若く、矢継ぎ早に新たな発見をしていた。量子力学の新分野が、20世紀初頭に科学的革命をもたらしたのが理由かもしれない。ノーベル委員会もそれを承知していた。各委員も、物理学の新発見に関心があり、研究成果をすぐに認めていた。 1933年1月30日のヒトラー内閣成立直前の1932年、ナチスは、二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。しかも、同年11月の選挙で、第1党の地位は保持したが、ナチスは34議席を失う。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第1党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は、一転してナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金を復活させた。 1933年1月30日、ヒトラーが首相に任命されドイツでナチスが権力を握る。当時、アインシュタインは、幸運にもカリフォルニア工科大学の客員教授として在米中であった。4月6日、ドイツ学生協会は新聞やプロパガンダの手段により、全国的に「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動を行うと宣言し、その運動は火による書物の「払い清めSauberung」によってクライマックスを迎えた。5月10日、ナチスの象徴・鉤十字を身に付けた学生と学者たちが松明を掲げ、ベルリンの大通りの1つウンター・デン・リンデン(「菩提樹の下」の意味がある)からベルリン大学の正門の目前にある歌劇場広場まで行進した。その間、「非ドイツ的」「ユダヤ=ボルシェビキ的(レーニンが属するボルシェビキ派は、革命により直ちに社会主義実現に向かうべきと考えた。党綱領の採択ではマルトフ派に敗れたが、党の人事面では多数を占めたので、多数派の意味でボリシェヴィキと呼ばれた。レーニンはユダヤ人の血を引いていた)」な著作と断定して、ベルリン市内の図書館や書店から略奪した2万冊に及ぶ本を積み重ね火を放った。そこにはアインシュタイン・マルクス・ブレヒト・フロイド・ゾラ・プルースト・カフカなど後世に名を残す著作が燃やされる光景を、4万人の群衆が見守っていた。それがドイツの主要な大学都市でくりひろげられた。 ドイツには50万人のユダヤ人がいた。4月7日、「職業官吏再建法」が成立した。200万人に及ぶ国家公務員がその適用対象になった。この法律は、ナチスの政敵である社会主義者・共産主義者・ユダヤ人を標的にし、その第三条が「アーリア条項」で、「アーリア人でない出自の公務員は退職する」と規定された。 4月11日、「職業官吏再建法暫定施行令」を発令、この法令により「非アーリア人種」とはユダヤ人の事であると明言され、両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば、その当人の信仰が何であれ、たとえ無神論者であれ、すべてユダヤ人となると定めた。1871年、正式にドイツ国民になってから62年を経て、再びドイツ国民のユダヤ人は法的な差別を受けるばかりか、迫害の標的にされた。 しかし、ドイツを脱出する動きは鈍く6月までに出国したユダヤ人は25,000人に留まった。 ユダヤ人でありながらナチスに協力したハイゼンベルクは『戦争を物理学に利用する』ことしか頭になかったと言う。後年、米国が原子爆弾を開発して実際に使用したことを知ったハイゼンベルクは驚愕する。 科学界は、ドイツで起こっているナチスによるユダヤ弾圧を逃れてきた科学者たちに金銭と仕事を提供して援助する行動を速やかにおこし、個人や私的な財団からの贈与や寄付金をもって救援組織が設立された。イギリスでは、1933年5月に、ラザフォードを会長とする学術支援評議会が設立された。亡命科学者・芸術家・作家たちに当座の職を提供するための「情報センター」となった。亡命者の多くは、スイス・オランダ・フランスに脱出し、そこを足掛かりにイギリスやアメリカに渡った。 理論物理学の世界に文字通り君臨していたボーアの判断は、連合国側に大きな影響を与えた。コペンハーゲンでは、ボーアの研究所が、多くの物理学者の寄港地となった。ニールス・ボーア研究所Niels Bohr Institutetは、コペンハーゲン大学の研究機関である。1914年にコペンハーゲン大学の教員となった理論物理学者ニールス・ボーアが、1916年の教授就任時より研究所開設の嘆願をしていた。設立資金の多くは、有名なビールの銘柄カールスバーグで知られるカールスバーグ醸造所の慈善団体からのもので、後にロックフェラー財団による支援を受けるようになった。研究分野は、天文学・地球物理学・ナノテクノロジー・素粒子物理学・量子力学・生物物理学と広範囲に渡る。 1920年代、1930年代において、この研究所は原子物理学・量子物理学研究の中心地となっていた。ヨーロッパ中さらには世界の物理学者が新しい理論や発見についてボーアと相談するために研究所を訪問した。「コペンハーゲン解釈」はこの期間にこの研究所で行われた研究から名付けられたものである。 1931年12月、デンマーク王立科学文化アカデミーは、カールスバーグ醸造会社の創設者が建てた壮麗な邸宅「名誉の家」の次の居住者にボーアを選んだ。これによりデンマークの指導的市民の地位を得たことにより、その権威によりボーアと弟のハーラルは、「亡命者の知的労働者を支援するためのデンマーク委員会」の設立に加わった。 ニールス・ボーア生誕80周年の1965年10月7日に、正式に「ニールス・ボーア研究所」と改名された。1993年1月1日、同じ大学の天文観測所、エルステッド研究所、地球物理学研究所と合併したが、新しい研究所の名前はニールス・ボーア研究所のままであった。 シュレーディンガーは、第1次世界大戦中に軍務に服したため、「アーリア条項」が適用されないため、ベルリンを離れる必要はなかったが、自分の主義を貫いてそのベルリン大学教授を辞去した。シュレーディンガーがオックスフォード大学のマグダレンカレッジで亡命生活を送って一週間もしない1933年11月9日、マグダレンカレッジの学長から、今年のノーベル物理学賞をディラックと共同受賞したと電話で知らされた。延期されていた1932年のノーベル物理学賞は、ハイゼンベルクの単独受賞であった。 1933年、アインシュタインは、プリンストン高等研究所に着任し、当初は嫌な思いもしたようだが、11月末頃には、プリンストンは魅力的な場所になり始めていた。彼はベルギーのエリザベート王妃に宛てた手紙に「プリンストンは美しい小さな街で、儀式ばった事の好きな、神格化されたちっぽけな英雄たちが大仰に気取っています」、「それでもある種の儀礼に目をつぶれば、勉強に適した雰囲気と、気が散ることから離れていられる自由があります」と書き送っている。1934年4月、アインシュタインは、無期限にプリンストンで暮らすつもりと公言した。1955(昭和30)年に没するまでこのプリンストンに住み続けた。 デンマークのニールス・ボーアは、1939(昭和14)年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気付いていなかったようだ。 1939年9月に第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパの多くの国がドイツによって占領され、ユダヤ人の多くが次々に収容所へと送られた。ボーア自身もユダヤ系であったが、デンマークが中立の立場を守っていたことから、彼はヨーロッパから脱出するユダヤ人や亡命する科学者たちの窓口として活動した。しかし、デンマークがドイツに占領された。それでもなお故国を離れようとはせず、ギリギリまでユダヤ人たちの脱出を手助けした。 ゲッティンゲンは、北ドイツ最大の州であるニーダーザクセン州の南に位置する大学都市、地図でいうとドイツの真ん中より少し上あたり、ゲッティンゲン大学は、1737年に創立、ドイツに9つあるエクセレントセンターの1つに掲げられる名門国立大学である。法学・哲学・数学・物理学において伝統的に実績を有し、これまでノーベル賞受賞者を45名輩出していた。 ナチスは、量子力学の揺籃の地だったゲッティンゲンを、卓越した最高学府から二流の大学にしてしまった。ナチスの教育相がゲッティンゲン大学で最も尊敬されている数学者ダーフィト・ヒルベルトに「きみの研究室は、ユダヤ人やその友人たちが去ったことで非常に苦労しているようだが・・・」、ヒルベルトは「苦労?いいえ、苦労などなりません。大臣閣下、研究所はもはや存在していませんから」と答えた。 当時、ナチス・ドイツも研究開発を進めていた核兵器の開発であったが、ニールス・ボーアはヨーロッパ戦線が終わりを迎える頃にアメリカに渡ったこともあり、ロス・アラモスで行われていた「マンハッタン計画」はすでに始まっており、原子爆弾はもう完成間近にあった。 しかも、この時彼が知ったのは、この原爆を開発した科学者たちの多くがそのことを後悔し始めているということであった。それは自分たちが生み出した兵器が、どれほどの被害をもたらし、その放射能の影響がいかに広範囲、長時間に及ぶかを十分に理解したからであった。ボーアもまたその危険の大きさを認識し、すぐにその抑止に向けた活動を始めた。 目次へ |
|||||||
6)原子爆弾と物理学者の関わり 1937(昭和12)年2月の初め、ボーアが妻と息子のハンスを伴って、6ヵ月に及ぶ世界旅行の途中、一週間の滞在予定でプリンストンにやってきた。それがアインシュタインとボーアの最初の出合であった。後にアインシュタインの助手となるヴァレンティン・バーグマンは、その時の討論について「量子力学に関する議論は全く盛り上がらなかった。傍目には、アインシュタインとボーアは、互いを超えた遠くに向かって話しているように思えた」。しかもあれほど重要な議論であれば「本来であれば、何日、何時間もの時間が必要なはずだ」、しかしその内容を目前にしたバーグマンは「語られないことが余りに多すぎた」と慨嘆している。 ボーアは「量子の世界と言うものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事は、自然を見出すことだと考えるのは間違いだ。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」と断言する。 アインシュタインは、古典物理学とはキッパリと手を切り、観測者とは独立した実在があると言う理念があり、自らの「相対性理論」や量子化学によって引き起こされた革命よりも、さらなる過激な物理学の革新を求めていた。 アインシュタインはベルギーのエリザベート皇太后への手紙に「深く仕事に専念しても、避けようもない悲劇の予感にとらわれます」と書き送った。その手紙の日付は1939年1月9日、ボーアがアメリカに向かう2日前であった。プリンストンに戻ったボーアは、高等研究所の客員教授として4ヵ月間滞在した。アインシュタインとボーアは、この時は友情溢れる和やかな交流であったようだが、アインシュタインは、依然としてコペンハーゲン解釈を受け入れていなかったため、冷ややかな雰囲気も漂っていたようだ。ボーアと一緒にアメリカに来ていた、共同研究者のペルギーの物理学者レオン・ローゼンフェルトは「アインシュタインは、彼自身の影にすぎないように見えた」と回想している。 ボーアはアメリカのプリンストンに到着すると、アインシュタインに最近の研究成果、大きな原子核が小さな原子核に分裂する際に、エネルギーが放出される、「核分裂の発見」を伝えた。ボーアはアメリカに向かう船中で、遅い中性子を衝突させた時に核分裂を起こすのは、ウラン239ではなく、ウラン235と言う同位体であることを発見した。研究結果を自らの原子核分裂予想と関連付ける核分裂の理論を米物理学会で発表した。 天然ウランはウラン238が99.3%、ウラン235が0.7%で構成され、核分裂を起こすのはウラン235だけである。ウランを使う原子爆弾を作るのにあたって一番の問題は、天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235をいかに取り出すかにあった。かくしてウラン235が核分裂しやすい物質であることを世界が知った。ボーアが53歳で成し遂げた最後の大きな物理学上の功績であった。 同年6月、イギリスのバーミンガム大学でフリッシュとルドルフ・ピエールスの二人はウラン235の臨界質量を調べ、10㎏あれば核分裂反応が連続することを発表した。 アインシュタインが量子の世界の本性についての議論を避けたため、この間、ボーアはプリンストン大学の助教授ジョン・アーチボルト・ホイーラーJohn Archibald Wheelerと「核分裂メカニズム」についてニールス・ボーアと共同研究を行った。 ジョン・ホイーラーは、1911年、アメリカのフロリダ州生まれ、ジョンズ・ホプキンズ大学を卒業した。33年に物理学博士号を取得し、アメリカ学術研究会議(NRC)のフェロー、ノースカロライナ大学助教授を経て、38年からプリンストン大学助教授となった。1942(昭和17)年から第二次世界大戦の間、原子爆弾開発のためのマンハッタン計画にも参加した。ニールス・ボーアと共同で「核分裂メカニズム」を書き上げ、水爆計画推進に貢献した。 戦後はプリンストン大学に戻り、統一理論についてアインシュタインと共同研究をし物理学をリードする一方、水素爆弾の開発計画にも関わった。アインシュタインが築いた「一般相対性理論」を発展させて、理論物理学者ブライス・ドウィットと共に、宇宙全体の波動関数が量子重力理論の中で捉えられる「ホイーラー・ドウィット方程式」と呼ばれる方程式を提唱し、「なぜブラックホールや中性子星が発生するのか」「宇宙全体は、本当に物理的に存在しうるのか」「宇宙では何が起こっているのか」といった課題に対して、その波動関数は、宇宙の幾何学とそこに含まれる物質についての全情報を含むものであった。教育者としては、1965(昭和40)年、量子電磁力学の研究においてノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマン博士など多くのノーベル賞学者を輩出したことでも知られる。重力が巨大なため、物質だけでなく、光さえも放出しない天体を「ブラックホール」と名付けるなど、晩年は量子重力理論の構築に精力を傾けた。 その当時、第二次世界大戦中にナチスが原爆を開発するのではないか、という恐怖感が米英の連合国に強かった。それが米国の原爆開発の誘因になった。ドイツが原爆を開発するとなれば、その中心人物とみられたのは、量子力学の建設者で、不確定原理を提唱した理論物理学者のハイゼンベルクだ。ハイゼンベルクらはドイツ南西部の山あいの美しい町、ハイガーロッホの丘にある教会の地下洞窟に重水炉を建設し、終戦直前の1945(昭和20)年2月末に実験したが、核分裂の連鎖反応が持続する臨界に達しなかった。 この原子炉は、ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって1945年4月に、近くの畑に埋められていたのを接収され、徹底的に調べられた。ここに居た研究者たちは捕らえられ、イギリスのケンブリッジの近くのカントリーハウス(ブリテン島の農村において貴族およびジェントリ(郷紳)の住居として建設された邸宅)に、合わせて10人のドイツの原子核物理学者が幽閉された。 現在は、再現された炉心が現地の博物館で公開されている。コンクリートの円筒(シリンダー)の中にアルミタンクを設置し、冷却のためにその間は普通の水で満たされている。直径約210cm、高さ216cmのそのアルミタンクの中に、ハイゼンベルクの原子炉が別のマグネシウムのタンク、直径・高さともに124cmが置かれ、そのタンク間は厚さ43cm、10トンにもなる黒鉛で埋められている。これで、発生した中性子がタンクから漏れないように遮断する。 78本のアルミニウム導線に、一辺5cmの角形の天然ウランを664個ぶら下げてフタに14cm間隔で配列して固定し、マグネシウムのタンクの中に入れられ、ネジどめの蓋で止められ密封されてある。その664個の天然ウランが、中性子減速材の重水(水素の同位体のうち質量数2のジュウテリウム(Dまたは2Hで表す)をいう)に浸される構造だった。原理的には、天然ウラン燃料を寄せ集めただけの簡単なものであるが、多ければ臨界に達して核爆発を起こす。 原子炉の中央には煙突と呼ばれる管を通して、ウランが核分裂を起こすための中性子を発生させる機動装置「ラジウム - ベリリウム 中性子源」が入れてある。 その構造を基に計算したところ、「原子炉がほんの少しだけ大きければ、臨界に達していた」とする計算結果を、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の岩瀬広がまとめた。つまり、ハイゼンベルクの原子炉はかなり臨界に近い状態にあったが、減速材の重水の量がわずかに不足し、しかも余裕のない小さな炉心であったため、「最後まで臨界に至らなかった」。炉心の円筒の高さと直径をそれぞれ8cm伸ばして132cmであれば臨界したことになると言う。科学史に造詣が深い政池明京都大学名誉教授と連名で、日本物理学会誌2014年4月号に「ハイゼンベルク原子炉の謎」と題して報告している。 ハイゼンベルクらはかき集めたウランと重水を、連合国の猛爆撃をくぐり抜けてハイガーロッホまで運び込んだ。しかし、減速材の重水の量がわずかに不足して、余裕のない小さな炉心しか作れず、「最後まで臨界に至らなかった」と政池明さんらは指摘している。 重水のほとんどは、第二次世界大戦前から、ノルウェーのリューカンにある工場で製造され、備蓄されていた。原爆開発と関連して、この重水は最も重要な戦略物資になり、連合国とナチスの間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1943年2月27日、連合国側のノルウェー人6人の決死隊によるリューカンの重水工場爆破作戦が成功、この重水阻止作戦が、ハイゼンベルク原子炉の臨界を止めたとする見方もある。 ドイツの原爆計画や大戦中のハイゼンベルクの活動は、本人が戦後、多くを語らなかったため謎が多い。 原子炉には、冷却材として軽水(普通の水)を使う軽水炉のほかに、重水を使う重水炉、炭酸ガスやヘリウムガスを使うガス冷却炉などがある。重水炉は、天然ウランを燃料とすることができるが、現在、日本にある商業用の原子力発電所は、重水が高価なうえ、高速中性子fast neutronの吸収量が、軽水の300分の1と減速能力が劣るため、すべて軽水炉である 高速中性子の「高速」は中性子のスピードが高速であることであって、増殖のスピードが高速であるという意味ではない。核分裂で生まれる中性子はメガ電子ボルト MeV(1MeV≒0.160×10-12J ) 領域のエネルギーをもっている。こうした高いエネルギーを持ち、どれくらい速いものを高速中性子と言うかはあいまいであるが、エネルギーが0.5 MeV(メガ電子ボルト)以上のものを高速中性子と言うようだ。その速さは秒速1万km以上であり、光速度の3%以上となる。 ボーアがヨーロッパに戻ってから、第二次世界大戦が勃発する1カ月前の1939年8月2日、ドイツ出身のアインシュタインはアメリカの大統領フランクリン・D・ルーズベルトに宛てた、2ページにわたる書簡に署名した。これがアメリカを核軍拡競争へと引き入れる、愚かな人類の歴史の始まりとなった。 「閣下 原稿として私のところへ送られてきました E・フェルミと L・シラードによる最近の研 究は、ウラン元素が近い将来、新しい重要なエネルギー源となるかもしれないという期待を私に抱かせます。このことによりもたらされる状況のある点では、注意深く見守る必要があれば、政府当局による迅速な行動を起こす必要があるものと思われます。 よって、以下の事実と提案とに閣下のご注意を促すのが私の務めであると考えるものです。 過去4か月の間に、フランスのジョリオ、またアメリカのフェルミとシラードの研究によって、大量のウランによる核連鎖反応が有望なものとなってきました。 このことによって、極めて強い力と、ラジウムに似た大量の新元素とが生成されるでしょう。 これが近 い将来に成し遂げられるのは、現在、ほとんど確実なことであると思われます。 またこの新たな現象は爆弾、それも、あまり確かとは言えないのですが、考えられることとしては極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかもしれません。 船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体ならびにその周囲の領域を優に破壊するでしょう。 ですが、また、こうした爆弾は航空機で運ぶにはあまりに重過ぎることがわかるかもしれません。 合衆国には、ほどほどの量がごく貧弱な質のウラン鉱石しかありません。 カナダと旧チェコスロバキアにはいくつかのよい鉱石がありますが、最も重要なウランの供給源はベルギー領コンゴです。 この状況に照らして、閣下は、政府と、アメリカにおいて連鎖反応を研究している物理学者のグループとのより継続的な接触を保つことが望ましいとお考えになるかもしれません。 これを達成するための、ひとつのありうる方法は、閣下の信頼にたる、そしてまたおそらくは非公式な地位で働くことのできる人物にこの仕事を託すことでしょう。 この人物の仕事は以下のようなものとなるでしょう。 a) 今後の開発の情報を政府機関へ逐次伝え、また合衆国へのウラン鉱石の供給を保障する問題に特に注意しつつ、政府の施策に対しての提案を行い、政府機関への接触すること。 b) もし資金が必要なら、この目的に貢献しようと望む民間人との接触を通じてその資金を供給することにより、またおそらくは適切な設備を持つ企業の研究所の協力も得ることによって、現在、大学研究室の予算の制限内で行われている実験研究の速度を上げること。 私の知るところでは、実際ドイツは、ドイツが接収したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を停止しています。こうした、いち早い行動をドイツが取ったことは、おそらくはドイツ政府の外務次官フォン・ヴァイツゼッカーの子息が、現在ウランに関するアメリカの研究のいくつかを追試しようとしているベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していることを根拠として理解できるでしょう。」 この1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻した。ルーズベルトは、10月、アインシュタインに手紙のお礼を述べ、提起された問題を調査するための諮問委員会を設立したことを伝えた。 アインシュタインが署名したこの手紙は、アメリカ政府にほとんど何の反応も引き出すことはできなかった。 1939(昭和14)年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻(現地時間・午前4時45分)。ドイツ空軍Luftwaffeはポーランド国内のいくつかの目標を攻撃。 翌日2日、イギリスおよびフランス、共同でドイツへ最後通牒を送付。イギリスは、直ちに「国民兵役法」を制定し、完全徴兵制を施行する。これにより、18歳から41歳までの男性の国内居住者が全て召集される。 原子爆弾の製造に重要なのは、核分裂を起こすはウラン235だと言うボーアの発見だった。ルーズベルトは1939年10月、ウラン諮問委員会Advisory Committee on Uraniumを立ち上げた。この時点では、第二次世界大戦は始まっていたが、アメリカはまだ関与していなかった。 1940年4月9日、ドイツはデンマークに侵攻し占領した。占領したが、ドイツとデンマークは、デンマーク人による政府と陸軍が存続することを合意した。ボーアの母はユダヤ人であった。しかし、自分の国際的名声が研究所の人々を守れると願いコペンハーゲンに残留した。 1943年夏、連合国軍の進攻に伴い、デンマークにおける抵抗活動が、労働者による破壊行為とストライキという形で拡大した。同年8月、ドイツの全権代表ベストは、レジスタンスによるサボタージュとストライキの激化に手をやき、デンマーク政府に緊急事態宣言の発令とサボタージュをする者への死刑執行を要求する。政府がそれを拒否すると、ドイツ軍は戒厳令を発令し、デンマーク人による自治は頓挫した。 ナチスは3,000人のデンマーク将兵とユダヤ教ラビの指導者を含む「危険人物」100人を拘束した。それに反発した政府は統治に責任がもてないとして、総辞職しその機能を停止する。 ベストはナチス第三帝国の地方総督のような存在だったが、コペンハーゲンの代表部でその彼を支えていたのが治安担当のカンスタインと海事担当のゲオルゲ・フェルディナント・ドゥクウィッツだった。二人はナチス党員である。カンスタインはベストの旧友で、占領当初からデンマーク政府とのデリケートな交渉の困難な現状をよく知っていた。ゲオルグ・ドゥクウィッツは戦前コペンハーゲンの船舶会社で働き、デンマーク語を自由に話しこの国の要人との交流が密である、ベストが最も信頼する部下であった。 9月28日、ベストはデンマークの8,000人のユダヤ人を一掃せよとの最終命令を受けとった。その日、ドゥクウィッツは露見すれば国家反逆罪に問われる危険な行動にでる。彼は面識のある社会民主党首のトフトに至急会いたいと電話をいれ労働者会館に向かう。会議室には、トフトと党幹部、前首相ブールが待っていた。ドゥクウィッツは「破局が迫っている」と切り出し「すでにすべてが準備されている。コペンハーゲン沖に移送船が錨を下ろしている。ゲシュタポに逮捕されるユダヤ人の同胞は、その船で彼らの運命を決める場所に運ばれる」と伝えた。その場にいた出席者の一人は「彼は怒りと恥で顔面蒼白だった」と書いている。 社会民主党首トフトは直ちに党幹部に指示して車を走らせ、あらゆる方面にその情報を伝えた。トフト自身は、最高裁判所判事でユダヤ人会長のヘリケスの邸宅へ駆けつけた。彼は10月1日午後9時にユダヤ人の一斉検挙が始まると告げ、その情報源を教えると、ヘリケスはすぐさま、ユダヤ人会のネットワークを通じてそのニュースを流させた。 10月2日には、スウェーデン政府はデンマーク在住ユダヤ人約7,000人に亡命支援を申し出る。 ナチス占領下のデンマークで国を挙げてユダヤ系市民を守ったドラマが始まる。オランダ・ベルギー・フランスなどでは、ドイツ占領軍の圧力に抗しきれずユダヤ人迫害に協力し、あるいは積極的に、女性・子供・老人を含む多くの人びとを強制収容所に送ったが、デンマーク人はユダヤ人市民を移送しようとするナチス政権に積極的に抵抗した唯一の被占領国であった。ナチスのこの計画の情報が流れると、デンマーク人は、ユダヤ人を積極的に家に匿うか、教会の中に聖域を作り、あるいは病院の患者に成りすますなどした。 ドゥクウィッツは、ナチスのデンマーク系ユダヤ人を移送計画であることをデンマークのレジスタンスに密かに知らせてもいた。デンマーク人たちは直ぐに対応し、ユダヤ人を海路で中立国のスウェーデンに移す活動を全国規模で組織した。デンマーク在住ユダヤ人8,000人のほとんどが住んでいたコペンハーゲンやその他の都市から鉄道や自動車、そして徒歩で脱出し始めた。デンマーク人の支援を受けた彼らは、2週間足らずで、漁師はデンマーク系ユダヤ人約7,200人と、非ユダヤ人の親戚680人をデンマークとスウェーデン間を隔てる海を漁船で運び、安全な場所に送り届けた。 デンマークの救出活動は全国規模だった。しかし、約300人にも満たないデンマーク系ユダヤ人が、チェコスロバキアにあるテレージエンシュタットゲットーに移送された。 1945年4月15日、デンマーク系ユダヤ人の囚人たちは、ゲットーghetto (ユダヤ人隔離居住区)から解放され、スウェーデンの赤十字の保護下に置かれた。これは、スウェーデン政府代表とナチス高官との間で行われた交渉の結果、強制収容所のスカンジナビア人囚人は、ユダヤ人も含めて、ドイツ北部にある通過収容所(強制収容所や絶滅収容所に移送されるまでの一時収容を行うための収容所、多くの場合ユダヤ人であった)に移送されることになったためである。デンマーク人は、ユダヤ人を広範囲に支援しナチスの政策に抵抗することで命を救えることを証明した。 家族と共にスウェーデンに脱出していたニールス・ボーアは、1943年10月6日、イギリスへ亡命した。外交郵便用のモスキート爆撃機(木製双発機)の弾薬庫にパラシュートをつけて搭乗した。攻撃を避ける高度飛行のためボーアは酸欠で気絶した。イギリスの物理学者ジェームス・チャドウィックが出迎えた。1週間後に息子のアワ・ボーアもロンドンに亡命した。ニールス・ボーアは、マンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将のマンハッタン計画参加要請が伝えられる。ボーアは、イギリスの政治家たちと会ったのち、直ぐに渡米し、プリンストンに立ち寄ってから、「ニコラス・ベイカー」と名乗り原子爆弾の開発に携わった。 アインシュタインは原子爆弾の開発に参加するよう依頼はされていなかった。ボーアは依頼され、1943年12月22日、原爆製造中のニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所に向かう途中プリンストンに立ち寄った。この時、アインシュタインや、1940年に高等研究所に加わったヴォルフガンク・パウリとともに夕食を取っている。 ヴォルフガンク・パウリは、父方の祖父はユダヤ人で、コペンハーゲンの理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)に滞在した。1938年のドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年の第二次世界大戦勃発とともに、ユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。パウリは1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授となった。 アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞が授与された。 1945()年、東部戦線では4月16日、ソ連の赤軍がオーダー川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地を突破するための戦いを開始していた。ソ連赤軍による集団集中攻撃戦術は、結果以上に損害が高くついた。4月17日、第1白ロシア方面軍の戦線では、ドイツ軍防衛ラインは完全にソ連赤軍を阻止していた。一方、その南側では第1ウクライナ方面軍が、計画通りにドイツ中央軍集団の司令官フェルディナント・シェルナーの防衛ライン左翼を防衛していた第4装甲軍を圧倒していた。スターリンは、ゲオルギー・ジューコフにベルリン占領の栄誉を与えるため、第1ウクライナ方面軍の戦車軍を北進させると励ました。 シェルナーは第4装甲軍を支えるために、予備の2個装甲師団を送り込んだ。しかしゴットハルト・ハインリツィ司令官のヴァイクセル軍集団と中央軍集団はこの攻勢のために連携が取れなくなってしまい、これが戦いの分岐点となった。第4装甲軍の後退は、中央軍集団が包囲されることを意味していた。このシェルナーの失敗のために第1ウクライナ方面軍が進撃に成功したことは、ハインリツィが築いた堅牢な防御ラインが寸断されたことによる。 4月18日、ソ連両方面軍はこれまでの甚大な損害にも拘わらず果敢な進撃を続けた。夕方までに第1白ロシア方面軍はドイツ最終防衛ラインに到達、第1ウクライナ方面軍はフォストを占領、目の前にある広々とした地区への侵攻準備に入った4月19日までにはドイツ軍がゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅していた。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンが初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜には、ベルリンの郊外に赤軍の戦車部隊が到達する。側近や国防軍首脳部の一部は、ヒトラーに南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、ヒトラーはそれを拒否した。 4月28日、赤軍はポツダム広場にまで進出しており、総統官邸への強襲が目前に迫っていた。その日の深夜、ヒトラーは妻とるエーファと2人だけの総統地下壕の地図室でささやかな結婚式を挙げた。結婚式の後、ヒトラーは妻となったエーファとともに簡素な結婚披露宴を催した。その後、秘書官のトラウデル・ユンゲを連れて別室に移動し、自身の遺言を口述した。 4月29日、ヒトラーは同盟国イタリア社会共和国の指導者ベニート・ムッソリーニがパルチザンに捕らえられ、裁判もなく即時銃殺処刑され、ボムバッチ(イタリア共産党の創設者の一人であるが、ムッソリーニの旧友)・ムッソリーニ・その愛人ペタッチ・パヴォリーニ(共和ファシスト党書記長)・スタラーチェ5人死体が逆さ吊りにされたことを知っている。ファシスト党の書記長をつとめたアキッレ=スタラーチェという人物は、頭はよくないが党には忠実な男だった。この人物の「ドゥーチェ(統領)信仰」は異常なほどであった。「ファシスト党の幹部は、ドゥーチェと電話で話すとき、直立不動の姿勢をとらなければならない」という規則を作った。 パルチザンに捕えられていたファシスト党員は、かつてムッソリーニを神の如き存在と賞賛したこかを問われ、逆さ吊りになったムッソリーニの遺体を指し示しながら死刑を宣告された。しかし彼は射殺される直前に遺体へ敬礼した。パルチザンは激高し彼の遺体も広場に吊るした。 このことは、ヒトラーが遺言の中でも言及している。つまり自分の死後、晒し者される可能性が高いと考えていた。 4月30日、「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人が後に語っている。その後直ぐに、焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、ヒトラーの世話係であった総統護衛部隊リンゲ中佐が後に証言している。これは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェ少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エーファの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と述べた。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ)のカプセルを噛み砕き、直ぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている。 諮問委員会はその後、マンハッタン計画へと姿を変えた。米国のルーズベルト大統領の命令で極秘に進められた原爆開発計画で、世界で初の核兵器を生み出した研究開発プロジェクトである。マンハッタン計画と言うコードネームは、事務所がニューヨークに置かれたことに由来する。開発と製造をしたニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所を中心に、テネシー州オークリッジのウラン濃縮工場、ワシントン州ハンフォードのプルトニウム生産炉と分離回収施設などがあった。約13万人を動員され、1945 (昭和20)年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード市の北西 97kmの砂漠で史上最初の原爆実験に成功した。 当時、連合軍(アメリカ・イギリス・カナダ・フランス・中国など)と敵対していた枢軸国(ドイツ・日本・イタリア・ハンガリーなど)の特にナチス・ドイツが、原子爆弾開発に着手することに焦ったアメリカ・イギリス・カナダが、政府・産業・科学・学術分野の大規模な共同作業として1942年に立ち上げ、1946(昭和21)年まで続いた。アメリカのこの極秘プロジェクトが原爆を開発し、それが1945(昭和20)年8月、広島と長崎に投下され、数多くの犠牲者を生んだ。 1945 (昭和20)年8月6日、広島の深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、市民はようやく眠りについた。その月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽の陽射しは厳しく、気温は瞬く間に上昇した。午前7時9分、警戒警報のサイレンで、再び叩き起こされた。この時は、アメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけであった。警報は午前7時31分に解除された。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとり、最悪の戦時下であっても、曲がりなりにも仕事に出掛けたり、猫の額ほどの畑で作業をしたり、それぞれの1日を始めようとしていた。 この時、広島中央放送局の情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴った。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押す。 「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、すさまじい衝撃音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上った。 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、原子爆弾が、広島に投下された瞬間であった。原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600mの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂した。灼熱の火球を多方向に放出した。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径28mの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達した。 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に絡み、かつて類例のない甚大な被害を惹き起こした。 物理学者が想定した原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺戮が、瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害は人体の細胞組織の壊滅にまで及び、その後も長期間にわたり被災者の人生の阻害要因となった。 原爆によって亡なくった人の数は、正確ではないが、昭和20(1945)年12月末までに、約14万人と推定されている。さらに被爆した人々の不幸は、その子孫にも及び何十年と続く。 原爆投下の数日後、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をし、実質的に第二次世界大戦が終わった。 1955(昭和30)年、アインシュタインが亡くなったときの追悼会において、生化学者ライナス・ポーリングは、晩年アインシュタインは彼に「私はひとつ大きな間違いを犯してしまった。 ルーズベルト大統領に原子爆弾を作ることを勧めた手紙に署名したことだ」と、後悔していたと言う。 目次へ |