人類史の出発地(古代メソポタミア) 車山お知らせ
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・ウバイ第3期(BC5300年~BC4700年) ・ウルク期(BC3800年~BC 3000年) ・ジェムデット・ナスル期(BC3100年~BC2900年) ・シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年) ・アッカド王朝(BC2334年頃~BC2154年頃) ・ウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年) ・古バビロニア時代 (バビロン第一王朝;BC2003年~BC1531年) ・古アッシリア時代(BC1950年頃~BC15世紀) ・中アッシリア時代(BC1365年~BC934年) ・新アッシリア(BC934年~BC609年) ・新バビロニア時代(BC625年~BC539年) ・アケメネス朝ペルシア時代(BC539年~BC331年) ・セレウコス朝シリア(BC 312~AD64) ・パルティア時代(BC141年~AD226年) ・ササン朝ペルシア時代(AD226年~AD642年) などが、メソポタミアの時代変遷を代表する。 | |||||
DNA DNAが遺伝物質 生物進化と光合成 葉緑素とATP 植物の葉の機能 植物の色素 葉緑体と光合成 花粉の形成と受精 ブドウ糖とデンプン 植物の運動力 光合成と光阻害 チラコイド反応 植物のエネルギー生産 ストロマ反応 植物の窒素化合物 屈性と傾性(偏差成長) タンパク質 遺伝子が作るタンパク質 遺伝子の発現(1) 遺伝子の発現(2) 遺伝子発現の仕組み リボソーム コルチゾール 生物個体の発生 染色体と遺伝 減数分裂と受精 対立遺伝子と点変異 疾患とSNP 癌変異の集積 癌細胞の転移 大腸癌 細胞の生命化学 イオン結合 酸と塩基 細胞内の炭素化合物 細胞の中の単量体 糖(sugar) 糖の機能 脂肪酸 生物エネルギー 細胞内の巨大分子 化学結合エネルギー 植物の生活環 シグナル伝達 キク科植物 陸上植物の誕生 植物の進化史 植物の水収支 拡散と浸透 細胞壁と膜の特性 種子植物 馴化と適応 根による水吸収 稲・生命体 胞子体の発生 花粉の形成 雌ずい群 花粉管の先端成長 自殖と他殖 フキノトウ アポミクシス 生物間相互作用 バラ科 ナシ属 蜜蜂 ブドウ科 イネ科植物 細胞化学 ファンデルワールス力 タンパク質の生化学 呼吸鎖 生命の起源 量子化学 ニールス・ボーアとアインシュタイン 元素の周期表 デモクリトスの原子論 古代メソポタミア ヒッタイト古王国時代 ヒッタイトと古代エジプト ヒクソス王朝 古代メソポタミア史
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1)後氷期(完新世)海進 ヴュルム氷期(最終氷期)は、約110,000年前頃から少しずつ気温が低下し始め、多少の変動はあるが全体としては低下し続け、20,000年から18,000年前に低温が下げ止まった後、急速に上昇し、13,000年ほど前に、1,000年程度の寒の戻りがあり、10,000年程前にはほぼ現在の水準に達し、最終氷期はほぼ10,000年前に終了した。 現在は後氷期(完新世)である。後氷期とは、約10,000年前から現代までの時代をさす。氷期の後であり、しばしば完新世と同義で使われる。この後氷期に、人類が勢力を拡大し、全地球規模に居住地を伸展させ、その著しい文明の発達が、地球環境に大きな影響を与える時期でもあった。 最終氷期の名称からは、氷河時代が終わったような印象を受けるが、やがて、数万年以内に次の氷期が到来するから、後氷期は実際には間氷期と見られている。
最終氷期が終わる今から約10,000年以上前の時代では、北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には、現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千mにも及ぶ巨大な氷床が聳えていた。いずれの氷床も、約19,000年前に最大に達した。およそヨーロッパ北部全域とカナダのほぼ全域、そして西シベリア平原の北半分が巨大な氷床に覆われていた。現存するものは、南極氷床とグリーンランド氷床のみであるが、氷期には、北アメリカ大陸北部にローレンタイドLaurentide氷床が、北西ヨーロッパにスカンジナビア氷床が聳えていた。 北アメリカの南限は五大湖周辺、東ヨーロッパではライン川の河口からポーランド南部都市クラクフのあたりまで、ロシアではモスクワからサハ共和国のアナバル湾まで達していた。アイスランド全島はもとより、南部を除いたブリテン諸島も氷床に覆われていた。 このため海水準がもっとも低下した時代では、マレー半島やスマトラ・ジャワ・ボルネオ島など、周辺の大陸棚が陸地になり「スンダランドSundaland」を形成していた。「スンダランドに住んでいた新人(類)の一部が、BC50,000年頃から北上しモンゴルやシベリアにまで広がり、徐々に寒さに適応した。やがて、アジアとアラスカを繋ぐベーリング陸橋を通って北アメリカに新人が拡大していった。 日本海と東シナ海をつなぐ対馬海峡は、きわめて浅くなり、やがて対馬暖流の流入が止まった。この影響もあり日本列島は現在より寒冷で、冬季の降雪量が少なかった。北海道では永久凍土やツンドラ、標高の高い地域では山岳氷河が発達し、針葉樹林は西日本まで南下していた。 それ以降急激に融解し続け、約7,000年前には、ほぼ完全に融解していた。氷河の後退過程で削剥・運搬された後に残った地形や堆積物の研究が、大きな成果を挙げている。 この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19,000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、海面は年ごとに、1~2cmというスピードで100m以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなった。ピーク時である約6,500年前 から約6,000年まで上昇が続いた。これが日本列島における「縄文海進」の原因ともなった。これは、約7000年以降、地球規模で見られる現象であった。 意外にも、その後起こった海退は、氷床が再膨張したためはなく、氷床融解による海水量が増大したことによって、 その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降し、そのエネルギーが、海洋底のマントルを陸側に移動させ、陸域を隆起させた。その結果、海面が下がるような現象が生じた。 日本列島では、顕著に「縄文海進」が起きるが、このような現象は氷床から遠く離れた地域にしか認められていない。かつて巨大な氷床が存在したイギリスや北アメリカの海岸では、「縄文海進」に相当する現象が生じていない。つまり、これらの地域では、重たい氷床が消失していたために、氷の荷重で押し下げられていた地表が、海水面の上昇速度よりも速く隆起し続けてきたためである。実際にスカンジナビア半島やハドソン湾の周辺では、今でも土地が隆起し続けている。つまり、氷床や海水量の増減は、地球上におけるそれぞれの配置条件に差異があり、しかも地球表面の形状でもゆっくりと形を変えるため、全体の海水量は同じように変化しても、地球上における陸と海との相対的な位置条件から多様な現象が生じ地表の様相を変えた。 アメリカの国境モンタナ州と接するカナダ南部のアルバータ州と、それより北米大陸中央部からアメリカ南部までの、ロッキー山脈の東側の広大なプレーリーPrairie(主に米国では大平原と呼ぶ)には、ローレンタイド氷床が広がっていた。広くカナダの大部分を占めていた氷床の厚さは数kmあったと考えられている。 氷期のローレンタイド氷床は、世界最大級の氷床であった。これほどにも巨大な氷河は地形に殆ど影響されることはなく、大地を容赦なく削り出した結果平らなプレーリーが出来上がった。 ローレンタイド氷床の影響は、後退を始めた際に極めて際立った。融解が始まると、大量の雪解け水が出てくる。それらは一時的に氷河湖となるが、膨大な水は、しばしば大洪水を引き起こす。下流地域では大規模な浸食作用で、平らなプレーリーの真ん中に巨大な谷がいくつも作られた。 実は、氷が完全に溶け切った現在においても氷床の影響は続いている。ローレンタイド氷床は、非常に広大で極めて厚かったため、膨大な重量があった。その重量によってカナダの大部分は少しばかり沈んでいた。やがて氷が溶けたことで重圧がはずれ、大陸は元の状態に戻ろうと隆起する。現在でも年間数cmの速さで続いている。 約19,000年前以降に氷床が急激に解けた原因の多くは、太陽と地球との天文学上の位置関係による。それが、北半球の高緯度地域に降り注ぐ夏期の日射量を、次第に増大させるよう作用した。 それなのに、北半球氷床の融解をもたらした日射量のピークの時期は、約9,000年前であり、温暖のため繁栄した日本の縄文海進のピーク、約7,000年前とは一致しない。おそらく一度融解を開始した氷床は、日射量が低下しても、氷を融解する方向へ様々に働くからである。例えば、日射をはね返す氷床表面の面積の減少などによって、日射量のピークである約9,000年前を過ぎても融解は進行していた。 目次へ | |||||
2)後氷期の気候変動 人類は過去1万年の間に農耕を契機に飛躍的な発展を遂げ、盛衰があるものの高度の文明を築いてきた。この人類が加速的に発展する前までは、非常に移動性が高い植物採集や狩猟・漁労が、生業の中心であった。採集狩猟社会の人口密度は、極めて希薄であった。 人類が生業形態を変えて農業を採用するようになった背景に、15,000ほど前から始まった気候の大変動が絡んでいた。ヤンガードリアスYounger Dryas期(最終氷期の終了に伴う温暖期、ヨーロッパの気候区分、暦年代12,900年前 ~11,500年前。「Younger Dryas」は、アルプスやツンドラに生息する匍匐性のバラ科の常緑低木チョウノスケソウDryas octopetalaの学名から命名)にも寒の戻りがあったとはいえ、その後1万年前から始まった後氷期という安定的な気候温暖期に、地球の環境は劇的に変化し、その適応から農業は始まった。 人類が生み出す成果は、起こりうる様々な可能性のひとつである一方で、環境とりわけ気候の変化は、長期的にみれば、人類が辿る社会生活に極めて大きく影響する。 後氷期という気候の安定期においても、実際には寒冷化を伴う急激な気候変動が周期的に発生していた。 地球規模で観察された急激な気候変動が、節目ごとに人間の活動に影響を与え、遺跡や文明、ひいては国家の盛衰にも連動することも稀ではない。 15,000年ほど前に晩氷期から後氷期に入って気候が大変化し、温暖化が始まった。ヤンガードリアス期の12,800年ほど前に寒の戻りがあった後、11,700年ほど前から完新世という安定した温暖期が始まり現在に至っる。 千年単位の気候の変化は、地球上の気候区に変化をもたらし、対応する生態系に変化を促した。特に、晩氷期から後氷期への温暖化は、気圧配置や寒冷前線の位置を変え、中高緯度地域の植生に大幅な変化をもたらし、適応する動物の分布をも大きく変化させることになった。人類が移動型の狩猟採集生活から、定住型の狩猟採集生活に生業を変化させ、最終的には栽培と飼育に代表される農業と牧畜業を創造し発展させていった背景に、晩氷期から後氷期にかけ気候の大変動があったことによる。 後氷期においても周期的な寒冷化現象は、程度の差があるが、人類の生業形態ないしは社会集団に大きく影響し、その進化を促してきた。その一方では、後氷期における地球温暖化に伴う地上気温の上昇により大気中の水蒸気量が増加することで、降水量が増加した。地上気温 1℃上昇に対する可降水量の増加率は、近年の理論的な手法も取り入れた多数のGPS 衛星の電波データ解析から、11~14%にのぼることが分かってきた。この値は、後氷期早々に始まる、農耕と牧畜との関係で、気温上昇に連動する上空の水蒸気量の増大が大きく関与していることを想定させる。 約9000年前~8500年前、肥沃な三日月地帯東部のクルディスタンの丘陵地帯に、ジャルモJarmo遺跡(イラク・クルディスタン、ザーグロス山脈の麓)などに見られる初期の農耕牧畜社会が形成された。湧水を利用した帯水農耕と丘陵部の天水農耕を組み合わせた複合的農耕であったが、近年の発掘調査では灌漑水路の跡も出土している。これは新石器革命と呼ばれるほどの人類にとって大きな画期となった。土器を使用し、日干し煉瓦による住居を建て、床は漆喰で塗り固めるなど定住生活が開始されていた。ジャルモ遺跡では、炭化した2種類の小麦と1種類の大麦の種子が検出された。しかも、周辺のザーグロスの野生のものとはわずかに遺伝子の配列が異なっていた。ムギの農耕が生業の一部となっていた。また周辺では羊などの牧畜も行われていた。ただ、この時期の原始農村を営む人種の系統は不明である。 気候変動の要因には、通常、大気と海洋の相互作用・火山活動・大気成分の変化・太陽放射の変動などがある。大気の全般的な循環は、気候と密接な関係があり、特に海洋は膨大な蓄熱能力をもち大気のエネルギー源として役割を果たして、それによる長期的な気候変動が地球規模で猛威を振るう。 例えば、海洋の表面では、大気との間で二酸化炭素を含む気体がやりとりされている。海洋は水蒸気の巨大な供給源である一方、二酸化炭素の貯蔵庫でもあり、しかもその表面温度の差に応じて大気の濃度を変化させ、複雑多様な気象現象を発生させる。 海洋の多くの能力は無限で、しかも緻密であり、幸いにも多くの復元力を保持している。その重要な能力の1つに、海洋が、大気から二酸化炭素を吸収していることにある。その量は、1990~2019年の平均で1年あたり20億トン炭素(トン炭素:炭素の重さに換算した二酸化炭素の量)と言う。海洋の二酸化炭素の吸収量は、数年から10年程度の規模で変動しながら、全体として増加している。2019年の吸収量は28億トン炭素で、1990年以降では、最大となっている。 産業革命以降、主に石炭で始まる化石燃料の消費の急増や、古代から旺盛な需要が絶えない森林木材や土地利用の拡大による自然植生の消失といった人間活動に伴って排出される二酸化炭素は、近年、急速に累増している。そのため、大気中の二酸化炭素濃度は上昇を続ける一方で、海洋は加速度的に、海面から大気中の二酸化炭素を吸収している。海洋が人為起源の二酸化炭素を吸収することによって、大気中の二酸化炭素濃度の上昇が抑えられている一方で、海洋中に二酸化炭素が蓄積されることにより、海洋酸性化が進行し、海洋生態系を大いに乱していく。 CO2(大気中) ⇔(水面下)CO2 + H2O ⇔ H2CO3 ⇔ H+ + HCO3- ⇔ 2H+ + CO32- (海水中に溶け込んだ二酸化炭素CO2は、二酸化炭素CO2・炭酸H2CO3・炭酸水素イオンHCO3-・炭酸イオンCO32-といった4種類の炭酸物質を組成して化学平衡の状態を保つ。大気中の二酸化炭素が増えると、これらの反応に伴って水素イオンH+が解離し、海洋を酸性化させる。結果としてH+が増加すれば、逆数値のpHは下がるため、H+濃度が濃ければ、pH ≦ 7.0(1/107mol/L)の数値はより下がるから、酸性度は強くなる)。 pH(「ペーハー」・「ピーエッチ」)とは水素イオン濃度の略称、溶液中の水素イオンの濃度を指す。) 海洋酸性化が進むと、海水中の炭酸系の化学的な性質が変化し、そのために海洋の二酸化炭素を吸収する能力が低下すると指摘されている。また、海洋が酸性化すると、植物プランクトン・動物プランクトン・サンゴ・貝類や甲殻類など、炭酸カルシウムCaCO3を含む方解石やアラレ石の構造を作る様々な海洋生物の成長や繁殖に影響を及ぼし、海洋の生態系に大きな変化が起きる怖れが生じる。なぜなら、炭酸カルシウムは、弱アルカリ性の水には、溶けにくい性質を持つが、酸性になると化学反応を起こすからである。 海水の炭酸カルシウムCaCO3は、過剰に海水が二酸化炭素を吸収すると炭酸水素カルシウム Ca(HCO3)2 となり水に溶解してしまう。 CaCO3 + CO2 + H2O ➔ Ca(HCO3)2 炭酸イオン CO32- の変化は、海水が二酸化炭素を過剰に吸収することで、水素イオンH+が過多となり、海水中で次の反応が生ずるからである。 CO2 + H2O ⇔ H2CO3 ⇔ H+ + HCO3- ⇔ 2H+ + CO32- 海水が弱アルカリ性であることは、サンゴ・貝類・ウニなど、炭酸カルシウムの骨格や殻を持つ様々な海の生物とって、炭酸カルシウムが弱アルカリ性の水に溶けにくい性質であるから、弱アルカリ性の海水こそが、現代の海洋生物の多くにとって必要不可欠な環境条件となっている。ただ重要なことは、地球上の諸生物は、猛烈な地球環境の大変化に、突然変異を常態化し、辛うじて奇跡的に生き残れた諸々の種の子孫である。人類が懸命に努力しても、当たり前のように、宇宙的な変動に連動する地球規模における大変動と、なによりも僅かな地球上のプレートの作用に翻弄される人類の文明の危うさが常に付きまとう。 過酷な試練に悲鳴をあげる人々に対して、「旧約聖書」の「ヤハウェ」は、ただ神意として語る。それは余りも残酷である。 BC4千年紀が西アジア一帯における乾燥化への転換期となったが、その引き金が公転軌道の変化とともに、太陽活動の衰退が重なったようだ。B.C.4200年頃 ~ B.C.2800年頃まで、太陽活動の衰退が気候に影響を与え、ひときわ高い偏差が周期的に生じていった。 ウルクは、シュメールとバビロニアにおける有力都市であり、この地方における最大級の遺跡の1つである。かつてのウルクは、ユーフラテス川に面していたが、現在では流路変更によってユーフラテス川から東に離れている。この流路変更がウルクの衰退の一因となった。 この都市はウルク期の標式遺跡で、BC4千年紀、シュメールでは都市化が進んだが、その際、この都市は指導的役割を果たした。最盛期のBC2900年頃には、6km2の広さの市壁内に50,000~80,000人が住み、当時において世界最大の都市であった。BC4千年紀、シュメールでは都市化が進んだが、その際、この都市は首長的役割を果たした(ウルク期;BC3800年~BC 3000年)。ウルク期と呼ばれる地縁的な専業集団と都市集住を特徴とする、階層社会が形成された。都市および周辺農村部と各地域を結び付ける交易ネットワークが拡大し、シュメール都市文化が各地に伝播していった。BC4千年末期にウルク期は崩壊し、BC3千年紀の初期王朝期という都市間の覇権抗争時代に入っていく。抗争が終わり帝国へと統一されるのが、 BC2334年頃のアッカド帝国成立時期である。
一方、パレスチナでは、BC4500年頃以降、気候が温暖な地中海性気候に転じている。BC3700年頃に地中海、西アジア一帯に北緯35度を境にして、北部では冷涼湿潤、内陸部のエルサレムの年平均気温が16.1℃であれば、古代にも見られる農業地帯の果樹栽培のみならず、大量の野菜がペルシア湾岸地域へ送られている。南部は極度に乾燥しているため、ネゲヴ砂漠が広がる。この時期の寒冷化により、イラン高原などの南部は砂漠化が激しく、かなり厳しい自然環境になる また、B.C.3200年頃~B.C.3000年頃に世紀規模の急激な寒冷・乾燥化が生じた。シュメール初期王朝時代以前の時期である。ウルク期(BC3800年~BC 3000年)が終わり、ジェムデド・ナスル期(BC3100年~BC2900年)に入る時期であたる。ジェムデド・ナスル期には、後の時代と比べると小規模ではあるが、交易が活発になり経済力が充実していた。支配者の階層化により、巨大な建造物が築かれた。また既に官僚が育ち中央集権化が進み、都市または集落の中心となる建物の跡からは、食糧の配給などが書かれた粘土板の他に、円筒印章が出土した。円筒印章の図像は、如実に時代背景を語るもので、都市の中で優先した新しい社会組織を反映し、そこを支配する人物、王や祭司の像が刻まれていた。やがて、商品の貯蔵管理やその受け渡しが、日常的に頻繁なれば、役人達の認証捺印に使われ、やがては平らなスタンプ印章に取って代わってゆくなど、神話に頼らない人間が躍動する画期的な時代の到来と言える。 アラブ首長国連邦の東部、オマーンとの国境に近いアル・アインは、ハフィート、ヒリ、ビダ・ビント・サウードなどのオアシス群に点在する、新石器時代の狩猟採集から農業へと、石器から鉄器へと、砂漠地域における先史時代から現代に至る歴史的変遷が汲み取れる遺跡群である。その周辺では、人間・オリックス・ガゼルなどを描いた岩絵が発見されている。その人類の活動の痕跡は、BC5千年紀にまで遡り、メソポタミア文明のウルク期よりも前に当たる。アラビア語で「泉」を意味し、砂漠を行き交う商人たちの中継地として古くから栄えた。周辺からは、新石器時代から砂漠地帯に人々が定住したこと示す、BC2500年ごろの遺構とされる積石塚墳墓群、水汲み場や日干しレンガの住居など多くの遺跡が発見されている。 アル・アイン近郊のハフィート山(ハフィト山;アラブ首長国連邦アブダビにある岩山、アルアインの南約35km周辺にはオアシスが点在する荒野で、BC4000年頃の遺跡も発見された)で発見された積石塚墳墓群の副葬品からメソポタミア製の土器が出土した。その様式がメソポタミアのジェムデト・ナスル期に属することから、アル・アイン周辺のハフィート山の遺跡は、BC3100年からBC2800年頃と推定されている。 ジェムデト・ナスル期の土器の発見により、メソポタミアとの交易が既に行われていたことを示すものである。この時期のオマーン半島一帯は、メソポタミア文明やインダス文明の諸都市との交易を積極的に行い、銅や閃緑岩(マグマが地下深部でゆっくりと冷えて固まってできた、二酸化ケイ素の含有量が60%程度の深成岩の一種。墓に使われる石材もその一種、黒御影石と呼ばれる)を輸出する一方、メソポタミアの農産物やインダスの象牙などを輸入する「国」を形成していた。多くの考古学的証拠から、現在のオマーン国内に含まれる地域と推定されている、この「交易国」が、メソポタミアの史料に記される「マガンMagan」と見られることから、アル・アイン周辺もこのマガン国の支配下にあったと考えられている。 マガンは通常、ペルシア湾付近にあった都市国家ウルと主に交易していた。オマーン北部のアフダル山地に点在するこの古代遺跡群は、青銅器時代にマガン国が造営したとされる集落跡である。マガン国は、アフダル山地の銅の採掘により、メソポタミア文明には欠かせない貴重な原料の産地となって富を蓄積していた。遺跡群の発掘は、銅山とメソポタミアの関係などを解明するために進められている。インダス文明の地域との交易が途絶すると、マガンからの銅の供給も途絶え、メソポタミアは、代わりにアラシヤ(現在のキプロス島)から輸入するようになった。 バハレーンに栄えた古代文明ディルムンDilmunは、メソポタミア文明の重要な交易相手、またメソポタミア文明とインダス文明の物資の集散地などとして記録されている土地である。バハレーンは、ペルシア湾に浮かぶ東京23区ほどの小さな島、周辺にシュメール、エラム、マガン、東方にはメルッハ(古代、インダスはメルッハ、オマーンはマガンと呼ばれた)などがある。古代より真珠の産地として知らた。 ディルムンは、シュメール初期王朝(BC2900年~BC2350年)の時代に、メソポタミアとディルムンの交易記録として5つ遺こる。 初期王朝時代のラガシュ出土文書(BC2370年頃)、 ウル第3王朝時代のウル出土文書(BC2111年頃〜BC2003年頃)、 (アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル・ナンムが、ウルを中心に独立を回復し、メソポタミアにシュメール人の王朝を復活させた。新シュメール時代とも呼ばれる。ウル・ナンムは、神殿の建築や運河の建設などを行うと共にウル・ナンム法典を定めた。後世、古バビロニア王国のハンムラビ法典に影響を与えた。) イシン・ラルサ時代のウル出土文書(BC2003年頃)、 イシン・ラルサ時代の後代のウル出土文書(BC1822年頃~BC1763年頃)である。 (シリア地方のユーフラテス河中流域ビシュリ山系を拠点としていた遊牧民アムル人が、ウル第3王朝の領域を北から圧迫していた。BC2003年頃、ウル第3王朝5代約100年続いた後、東方から侵入したエラム人によって滅ぼされた。その版図の殆どが「イシン」に吸収される。アムル系のラルサの台頭後は、イシンとラルサの間で覇権が争われる。やがて、BC1763年頃、アムル人の王朝ハンムラビ王により、メソポタミアが統一される時代までを「イシン・ラルサ時代」と呼ぶ。 いずれも他を圧するほどの力はなく、南部メソポタミアは「イシン」「ラルサ」「バビロン」「ウルク」「エシュヌンナ」「マリ」などの都市国家が小国分立する時期が続く。 BC1800年頃、イシンはラルサに滅ぼされ、その数10年後、バビロンのハンムラビ王によって、ラルサは制圧され「バビロン第1王朝時代」になる。) ディルムンは、南メソポタミアと、オマーンやインダスなどを結ぶペルシア湾の海上交易を独占して繫栄してきた。 ディルムンは、銅・木材(黒檀など)・瑠璃・砂金・象牙・ラピスラズリなどや、ペルシア湾で採れた真珠、貝や骨の嵌め込み細工、インダス地方の象牙やカーネリアン(紅玉髄を、インダス文明では、ビーズに加工して繁栄を極めた)、さらに釉薬をかけたビーズ細工や亀甲、綿織物や家禽(インダスの主産品であった一方、メソポタミアに原産種がいなかった)なども交易材は豊富であった。 メソポタミア側は、穀物・銀・スズ・毛織物・オリーブオイル・ナツメヤシなど、またメソポタミアで産出する天然アスファルトも輸出した。 この交易の重要性は、ディルムンで用いられていた重さや長さの規格が、インダスで用いられていたものと実質的に一致していたことにある。それらは南メソポタミアのものとは一致していなかった。いわば、メソポタミア文明を支えていたディルムンが、交易面でも主導していたようだ。 大英博物館に展示されている古バビロニア時代(バビロン第一王朝;BC2003年~BC1531年)の粘土板が、現在では世界最古のクレーム遺跡と言える。BC1750年頃に書かれた粘土板の楔形文字には、質の悪い銅を売りつけられ、返金を主張したが、使者を送って主張したが、門前払いとなり激怒したバビロニアの銅商人ナンニが、取引相手のエア・ナシル宛に出した苦情の手紙が遺こる。 「エア・ナシルに伝えてくれ。 この前、君はこう言った。「ジミル・シンに良質な銅を渡す」と。だが君は約束を守らなかった。私の使者に粗悪な銅を渡して「欲しいなら持っていけ。いらないならそのまま立ち去れ!」と言い放った。 君は私を誰だと思ってるんだ? 私のような客を侮辱するのか? 返金のため、私と同じように紳士的な使者を何回送っても、君は使者を突き返して私を侮辱した。敵地をくぐり抜けて行ったんだぞ。ディルムン(当時の銅の産地)で私にこんな対応をする商人は誰1人いない。私の使者を侮辱したのは君だけだ! 目次へ | |||||
3)農耕 ヤンガードリアスYounger Dryas(YD)は、最終氷期が終わり、次の後氷期の温暖化が始まった状態から急激に寒冷化に戻った現象を言う。暦年代で1万2900年前 から1万1500年前、北半球の高緯度で起こった。この変化は数10年の期間で起きたとされている。 年平均気温がおよそ-5℃に低下し、高地には氷原や氷河が形成され、氷河の先端が低地にまで前進していた。 スカンジナビアの森林が、氷河性のツンドラへ交代した。代表的な植生がチョウノスケソウDryas octopetalaで、ヤンガードリアスの時代には北半球の広い範囲がツンドラとなり、本種が繁殖していた。 (チョウノスケソウは、北半球の極地および高山に生育する匍匐性の常緑小低木で、バラ科に属する。高山の岩場に群生し、花も美しいのでよく知られている) アジアの砂漠起源の塵が、地球大気中で増加した。レバント地方の旱魃が、ナトゥーフ文化Natufian cultureで農業が始まった原因といわれている。 ナトゥーフ文化(終末期旧石器時代)は、氷河の影響が限られていた中東、アナトリア及びキプロス島などの地域で、中石器時代に代わる用語として使われている。BC12500年からBC9500年にかけてレバントのナトゥーフ文化では、人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、定住あるいは定住に近い生活が営まれていた。 細石器として知られている小さい燧石や黒曜石の刃を木製の柄に装着して作られた比較的高度な道具であった。おそらく世界最古の都市であるとされるイェリコは、この時期に建設されたと思われる。 いくつかの考古学的証拠は、穀物、特にライ麦の計画的な栽培が、ナトゥーフ文化期後半にシリアのテル・アブ・フレイラTell Abu Hureyraにおいて行われていたことを示しており、これは人類史における最初の農耕の証拠である。 ただし、野生の穀物の方がより広く利用されていた。 また、ウシ科のガゼルが狩猟されていた。 「テル・アブ・フレイラ」の村は、シリア北部アレッポから東に120km、ユーフラテス川中流域の南岸の台地上にあった。 BC11,000年頃のライムギの農耕栽培の証拠が、この遺跡から検出された。ヤンガードリアスの寒冷期が始まる時期にあたり、再び急激な寒冷化を迎え、気候の乾燥化も加わり野生動物や野生のムギ類が減少し、採集だけに頼れず人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。この時代の地層から出土したライムギの種子を分析した結果、野生種から栽培種となっていたことが明らかになった。放射性炭素年代測定により、現在のところ人類最古の農業の例となっている。 だがBC10800年頃、彗星が大気圏内に突入、割れていくつかの大爆発を繰り広げた。集落の真上の爆裂はすさまじく、それぞれが核爆発にも匹敵する威力となり、その下にある大地を一瞬にして蒸発させ、その強烈な衝撃波は、数10km圏内にあるものすべてを吹き飛ばしたという。 当時の遺物が、超高熱で形成されたガラス状物質として出土した。物質内の化学組成や形状、形成温度などを分析した結果、クロムや鉄、ニッケルやチタン、さらにはプラチナやイリジウムを豊富に含む溶解鉄と特定された。その形成温度は、摂氏2200℃以上だったことも分かった。 放棄されていた時期を挟み、今からBC7400年頃の新石器時代に、テル・アブ・フレイラでは再び集落が営まれた。これは最初の集落より10倍は大きく、15haの面積があり、当時の中東でも最大級の集落であった。泥レンガで長方形の住居が作られ、古い住居が崩れれば泥の上に新しい住居を再建する積み重ねから、集落は遺丘Tellを形成した。 ユーフラテス川に、1973年、巨大ダムが建設されたために、集落は現在アサド湖に水没してしまっている。 ヤンガードリアスの寒冷期は、食糧を狩猟採集に依存していたレヴァントの人びとに、エリコ(ヨルダン川西岸地区)やハジャル・アスワド(シリア南西部)などの森と草原の間に定住し野生植物を栽培することを促したために、コムギやオオムギのムギ類とマメ類などの食糧を人為的に獲得する「農耕」を開始させた。 かつて、人類の農耕はメソポタミアの「肥沃な半月地帯」と呼ばれるチャヨニュー、アリ・コシュ、ジャルモなどの地域において8500年前に開始されたとされてきたが、もっと古いレヴァントの農耕が伝播されてきた可能性が高い。 ジャルモは、イラク北東部クルディスタン地方、キルクーク東方の約60kmにある農耕村落遺跡、ザーグロス山脈中の深い涸(か)れ谷の断崖上にある初期農耕村落の遺跡であった。幅90m、奥行き140m、約1.3haの広さを持つ集落の約30棟の住居址から約200人位の居住が推定された。粘土状の泥壁や、その土台として置かれた礎石、漆喰で塗り固められた床が発掘された。こうした住居跡が16層、約8mの深さで積み重なっていた。ジャルモ遺跡では、無土器文化時代から、赤色研磨土器が開発される新石器時代まで営なまれていた。 野生に近い小麦・大麦や豆類も栽培されていたらしく、炭化したその実物が検出された。家畜化された羊・ヤギ・豚の骨や犬も多数出土した。ジャルモ遺跡の住居には、中庭が確認されている。そこで野生のものよりも小型の家畜を飼っていたようだ。また、床面を掘りくぼめた穀物の貯蔵庫や、後期には竃も備えていた。 BC8500年頃までの「肥沃な半月地帯」は、各地に豊かな森林や水源があり、人類はその豊かな自然環境に頼って狩猟・採集生活をしていた。その後環境の変化によって、土地は乾燥し、森林は砂漠に変わっていった。この環境変動に、人類は、エジプトやメソポタミアといった文明が誕生するよりもはるか以前に農耕を営む必要に迫られていた。現在のイラク北東部、ザクロス山脈の麓近くの丘陵地帯にあるジャルモでは、灌漑を行わなくとも適度な降水量に恵まれ、「天水農業」が必然のようにして始まった。 付近から産出しない黒曜石が用いられていた。東アナトリア地方から交易によって得たと思われる黒曜石と見られる。黒曜石性の細石器の小さな刃は、木や骨の柄にはめこみ、アスファルト(ビテュメン)で動かぬようにとめて、ナイフ・鎌として麦などの穗を刈るのに用いたようだ。 アスファルトで固めた籠や、皮を貼った容器と石臼などが遺存し、定着農耕文化の最古に近いものであるとみられている。ジャルモ式彩文土器と呼ばれる素焼きの、特徴ある良質の赤色研磨土器も出土している。鉄分を含む赤土などが主に用いられるため、酸化炎で赤く発色する。原始農耕文化がより発達した段階に至ったと思わせる。メソポタミアや古代エジプト、インダス川上流の東方文化圏やアメリカインディアンの土器など、世界各地の新石器文化で彩文土器(素焼の表面を研磨して、赤・白・黒などの顔料で文様を描いた土器)が使用されている。中国で作られた彩文土器は、特に彩陶(さいとう)と呼ぶ。弥生土器の赤彩土器に対してもこの名を用いることがある。 ほぼ同時代のアナトリア地方南部のBC7500年に遡るチャタル・ヒュユクや死海の北西部にあるエリコでは、既に大集落化している。特に、エリコは古代オリエントの中でも古い町で、BC8000年紀には周囲を壁で囲った集落となり、世界最古の町と評されている。 BC3500年頃の寒冷・乾燥化気候が、シュメールに「都市革命」をもたらした。確かに豊富な雨量に恵まれれば作物は自然と育つが、同じ場所で何度も栽培を行うと、土地の養分が枯渇し収穫量が激減する。耕作地を移せば作物はまた育つが、開墾できる土地にも限界がある。 そこで新たに生み出されたのが灌漑農耕である。乾燥化に伴い、人びとは大河のほとりで灌概による大規模な農耕を発達させ収穫量を高めた。大河のほとりに集落を築いた人々は、河の水を農地に引き込み始めた。 雨水とちがって豊富な養分を含んだ河川の水が農地を潤し、これによって土壌は活力を取り戻した。この農法によって発展したのは、ジャルモ遺跡があった北メソポタミアではなく、より広大な平地が広がる南メソポタミアであった。 大規模な治水と灌概のための共同作業には強力な統率者が必要であり、やがて生産性の向上により交易品が増え、職人や商人、建設労働者などが揃い都市国家となり、近隣の都市国家や遊牧民などの諸勢力に対抗できる軍事力を駆使する王が登場した 。 農作物の収穫量を高めて得た社会的余剰が、統治体制と宗教の組織化と、手工業を発達させ、交易による富の蓄積となり、農耕に携わらない王や僧侶、書記・官吏や戦士、また職人や商人などを階層化し、都市的文明を発展させた。メソポタミア南部では、BC3500年頃から人口が急増したために、各地の都市国家は大河の治水や灌概につとめ、より生産力を高めた。メソポタミアには都市国家が多数勃興し、都市文化が栄えた。ウルク文化後期(BC3300年頃~BC 3100年頃)には、王朝時代の兆し、覇権を争う時期に入ったようだ。楔形文字が次第に現れ始め、青銅器も使用され始めた。 チグリスとユーフラテスの両河川は、ナイル川の2~4倍の泥を含んでいて、泥の沈殿によって天井川となり、大洪水が収穫を損なうばかりでなく、水路の埋没や閉鎖を引き起こした。BC2250年に、最初の統一国家を築いたアッカド王朝(BC2334年頃~BC2154年頃)は、ユーフラテス川流域に点在するオアシスに導水口と排水口を設けるなど、メソポタミア全土に灌概網を張り巡らした。幅25m、深さ2~3mの幹線水路から、幅7~14mで深さ2~3mの支線水路を多数分岐させたが、水路に堆積する泥土を絶えず浚渫する必要が生じた。 しかも、既にシュメール初期王朝時代末期のBC2400年頃から、メソポタミア中南部の灌概耕地は、塩化現象により農産物の収穫量を著しく低下させていた。 メソポタミアは非常に豊かな大地であった。そのために、この地域の支配権をめぐる戦争が繰り返された。その一方、度重なる戦争や塩害による農業の衰退で国家が疲弊し、BC2350年頃、北部バビロニアのセム系語族のアッカド人によって、シュメールの都市国家は滅ぼされた。代わってアッカド人が、メソポタミア南部のバビロニア全域を支配する初の統一王朝・アッカド帝国(BC2334年頃~BC2154年頃)を建国した。 やがてシュメール人は勢力を回復させ、アッカド帝国を滅ぼし、ウル第3王朝(BC2112年~BC2004年)を建国したが、この王朝も「メーガーラヤン」の到来により余り長く続かなかった。かわって、セム系遊牧民のアムル人がバビロン第一王朝(BC2003年~BC1531年)を築く。 バビロン第一王朝ハムラビ王(在位;BC1792年~BC1750年)により、再び全メソポタミアが統一された。運河を建設し、交通交易網を整備し、官僚組織を制度化し、中央集権国家としての王権機構を確立した。そして、「目には目を、歯には歯を」で有名な「ハンムラビ法典」を制定する。 ハムラビ王はチグリス川上流域の原水、ヴァン湖やウルミア湖の両湖は塩湖であることは知られている。都バビロンの北のユーフラテス川とチグリス川が最接近している中間地帯において、両河川の河床の高低差を利用して河床の高いユーフラテスの河珊水をチグリス珊に排水することによって、農地の残留水の停滞とこれによる農地の塩化を防止することに成功した。 BC1531年、バビロン第1王朝第11代の王サムス・ディタナの治世に、ムルシリ1世に率いられたヒッタイトの急襲に遭い、バビロニア王国は壊滅した。 やがて、旱魃により、灌漑システムが機能しなくなると、塩分をたっぷり含んだ地下水の水位が上昇し、それにより塩分がどんどん地表に蓄積されていく。実際、メソポタミアの農業はその後、塩害で衰退していく。発掘された粘土板には、「大地が白くなった」と記録されているほどである。 メソポタミアの農耕文明の特徴は、高度な灌漑システムにあった。絶えず灌漑をすることで、農業の生産性を高めた。 この時代、メソポタミアの文明を支えてきた上流域では、永年にわたる森林の伐採などにより土壤の崩落が加速し、河川から流入する塩類を含む土が下流に堆積すれば、運河や潅漑用水路が閉塞される。その沈泥の塩類が塩害を加速させた。次第に、旱魃化が進む気候下で潅漑を続けていたため、潅漑用水に含まれる塩類が水分の蒸発によって次第に土壤に堆積され、BC2000年頃には、塩類に弱い小麦の収量が極端に減少し、塩類に強い大麦の収穫さえもままならず、塩類集積土壌に耐性のあるナツメヤシの作付けのみとなった。しかも、ナツメヤシの若芽はジュンマール Jummarと呼ばれ、野菜のように食用にされる。ただ成長点であるため、摘まれればナツメヤシは死んでしまう。そのため若芽は、果樹として成長したナツメヤシから選択的に収穫される。
エジプトは、古代から、世界で最も乾燥した地域の1つである。「エジプトはナイルの賜物」の言葉どおり、ナイル川の水源である雨季降水によって引き起こされる。その洪水は、エチオピア北西にあるタナ湖から流れ落ちる青ナイル川とその支流の沈泥を運びこむ。ナイル川を氾濫させ、7~10月に増水した河川水が上エジプトの河谷(河道のある谷地全体)沿いの堤防の下に開けられた穴からナイル川流域の氾濫原に溢水し、減水するまでの40~60日間に肥沃な泥を堆積させると共に、土壌に十分な水分を含ませる。そのため減水後の氾濫原が耕され、種がまかれて翌年の3~6月に収穫される冬作が行われた。 古代のエジプトでは、氾濫期の間、ナイル川の水位の増加を綿密に観測していた。ナイロメーターNilometerと呼ばれるナイル川の段階的な上昇と沈みを計測するための建築物がエジプト各地で設けられ、水位の変動が記録され報告されていた。エジプト中のナイロメーターが設置された箇所の高低角は全て、ひとつの共有データとしてまとめられた。流水量や流水期間の調整は、専任の役人が、決められた水位と期間が保てるよう水門を用いて管理していた。 エジプトのような乾燥地では、雨は殆ど降らない。農業用水や地下水には塩分が溶け込んでいるため、灌漑した農地の地表からの蒸発量が多いと、塩類を残してしまう。エジプトの人口は2019年、1億人を突破した。エジプトは世界有数の小麦輸入国である。政府は砂漠の農地開発を進めており、そのためナイル川の水が大量に必要となる。最下流域に回る水が少なくなり、塩害を加速させているとも言われる。ナイルデルタの下流では、農地からの排水を農業用水に再利用すれば、さらに塩類濃度が高まり植物は殆ど育たなくなる。小麦やサトウキビを育てる畑の脇に、白い塩が見える土が積まれている。さらに北上すれば、塩分濃度が高すぎて、土地が養魚場に変えられた地域もあると言う。一度塩分を含んだ土地はなかなか元に戻せない。塩害がつきまとえば、灌漑農業でるため、豊富な天水と上流河川における絶え間ない流量が不可欠となる。 19世紀に造った「せき」と、1970年にできたアスワンハイダムの影響が大きいという。以前はナイル川が定期的に洪水を起こし、それを利用した伝統的な灌漑が、流域に肥沃な農地をもたらした。ダムのおかげで水力発電に頼る産業や家庭に貢献しても、洪水がなくなり、農地は徐々に塩害で痩せ、常に大量に肥料を投入する土壌改良が必要になった。痩せた土地にさらに化学肥料を与え続けたことで、農地に元々あった「地力」をどんどん衰えさせていった。 政府は、砂漠に農地を拡大し、現在、国土の3.8%の農地を2030年までに5%へと拡大を目指す。水の補給には、地下水汲み上げによる農業、スプリンクラー灌漑、海水淡水化事業などの計画を実行した。 エジプトは国土の約95%が砂漠でありながら、国連食糧農業機関(FAO)による2017年の世界における農作物収穫量統計では、トマト5位、タマネギ5位、オレンジ7位、コメ15位、ブドウ15位などが上位に入っており、農業も基幹産業の1つになっている。国土の3.8%を占める農地の大半は、ナイル川流域、特に河口のナイルデルタと呼ばれるナイル川の支流が広がる肥沃な三角州に位置する。世界一の長さを持つナイル川流域とナイルデルタおよびファイユーム・オアシスにおいて、古代から農業が続けられている。農業には労働人口の約4分の1が従事し、農水産業はGDPの11%(約277億ドル)を占めている。 エジプトの農地は肥沃で多毛作が可能であり、雨や曇りの日が少なく日照日数が多いため、世界的にも単収が高いとされている。台風などの自然災害が少ないこと、高温乾燥で害虫が少ないことも背景にある。 FAO統計によると、1ha当たりのコメの単収は2017年に9.3tで世界2位、10年前の2007年には9.8tで世界1位だった。そのほか、2017年のトマトの単収は世界11位、オレンジの単収は世界15位である。1980年代のエジプトのオレンジ単収は低かったものの、年々、増加傾向にあり、2000年代以降の単収は世界平均や欧州平均、アフリカ平均を上回っている。 目次へ | |||||
4)メソポタミア大洪水 エジプトのナイル川は、季節ごとに水位が上下する氾濫は起きるが、予想外の大洪水までには至らなかった。エジプトの南端アスワンを過ぎると、そこから海までは流れは緩やかで、1kmあたり1cmしか標高が下がらない。 チグリスとユーフラテス川の方では、凄まじい大洪水が起きていた。二本の大河のうち、洪水が起きやすいのはチグリス川の方で、ユーフラテスに比べて市中における傾斜が急で、ユーフラテスのように緩衝地となる湖も無い。上流で雨が降ったら、バクダッドまで一気に水が流れ落ちる。それでも、チグリス川はバグダットから、ユーフラテスはバグダッドの南南東約 240kmのサマーワ(シュメール時代はウルクがあった)から漸く緩やかになる。 一方、ナイル川はアスワン以降の流れは緩やかである。 チグリス川では雪解けの時期にアナトリアの山地で増水が起こり、時としてこれが下流で大氾濫をもたらす。下流のシュメールなどの人々にとって、前触れもなく突然押し寄せる洪水は大きな脅威であり、そこから洪水を生み出した原因や結果を題材にする神話が生まれた。 考古学者のマックス・マローワンとレオナード・ウーリーは、BC2900年頃に起こったユーフラテス川の氾濫がシュメール神話における大洪水説話を生み出し、これが伝播して旧約聖書を含めた各地の大洪水説話を生んだと主張した。聖書学者のキャンベルとオブライエンによれば、創世記の洪水神話はヤハウェ資料による記述と祭司史料による記述の両方が、「バビロン捕囚」以後に編纂されたもので、バビロニアの物語に由来するという。 (新バビロニア王国(BC625年~BC538年)2代目ネブカドネザル2世(在位:BC605年頃~ BC562年頃)が、BC601年、エジプトへの攻略に失敗すると、征服した古代シリア地方の諸王国が各地で反乱を起こした。ネブカドネザルは出兵し、エルサレムをBC597年に占領し、ユダ王国を属国とし、ユダ王国の第19代エホヤキン王と指導者階層約1万人を首都バビロンに連行した。 BC587年、ユダ王国の第20代のゼデキヤ王(前王エホヤキンのおじにあたり、ユダ王国の最後の王)は、エジプトと結んで新バビロニア王国の支配から逃れようと企てたが露見したため、再びネブカドネザル2世により、BC586年、首都エルサレムを制圧されエルサレム神殿をは破壊され、ヘブライ人の貴族と軍人らは首都バビロニアへ連行され、他地域の奴隷と混住し主に都市の建設労働者として働かされた。ネブカドネザル2世は、ゼデキヤに対して「ユダの王にしてもらった恩を仇で返した」と激怒し、目の前で子供を虐殺し、両眼を抉り取り、死ぬまで鎖に繋いだ、と言う。これが後世「バビロン捕囚」と呼ばれる集団の実態であった。 ユダ王国の神殿とエルサレムは徹底的に破壊され、属州イェハド(BC586年~BC539年)に併呑された。その間にも、捕らえられた多くの捕虜が首都バビロンへ連行された。ユダ王国の地は廃墟となって放置された。 バビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的なスケールの文明や宗教・文化に感化され、バビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。それが契機となり、民族の歩みや宗教の在り方が、徹底的に再考されることになった。やがて、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに、律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。その律法が、「バビロン捕囚」達の宗教的な結束を強めた。 この時期に、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界の創造神であり唯一神である、と解されるようになった。バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も、旧約聖書学で「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれている宗教者たちにより記述された。失われなかったイスラエル民族のアイデンティティは、こうしてバビロン捕囚の時期に確立される。例えば、「第2イザヤ」が活動した時代は、その預言の内容からバビロン捕囚末期から捕囚解放、そしてエルサレム帰還に至る時代と考えられる。BC550年頃、バビロン捕囚以降に書かれた「祭司記者」の史料の多くに、バビロニア神話やシュメール神話との類似点が見られる。より端的に言えば、バビロニア神話やそれに先行する古代メソポタミア神話を記す粘土板を素材にして、「旧約聖書」を創作したというのが実態に近い。 囚われの身となっ たヘブライ人は、、およそ50年の捕囚生活の後、新バビロニアがアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって滅ぼされたBC538年に解放されて、パレスチナの地に戻ることが許された。 つまり、「バビロン捕囚」当初のユダヤ人と、キュロス2世によって解放された種族とは必ずしも一致しない。現在でも、レヴァント(歴史的シリア)は、イスラエルとパレスチナの紛争、シリアの内戦、そしてクルド人の独立運動など、多民族が入り乱れる世界で最も深刻な紛争地帯となっている。) シュメール王名表も大洪水について言及している。その説明によれば、最初エリドゥに渡った王権は、次いでバド・ティビラ、ララク、シッパル、シュルッパクへと移る。イラクにおける発掘で、シュルッパクの洪水はBC2900年~BC2750年頃、ほぼキシュの街まで及んだことが証明されている。そのキシュの王エタナは、大洪水の後、シュメール初期王朝時代のキシュ第1王朝の伝説的な王として語られる。シュメール王名表には「牧人、天に昇りし者。全国土を固めし者」と注釈が記されている。つまり、都市キシュ周辺で牛か山羊など家畜を飼う牧人達が、「エタナ」を首領として軍事力で都市キシュを制圧して王となった。 考古学者のマックス・マローワンによれば、創世記の洪水は「BC2900年頃、初期王朝の始まりに実際に起こった事象に基づいている」というが、治水の技術や知識が不足な時代であれば、大洪水はチグリスとユーフラテスが並流する2つの河川の上流から下流の両域で、荒天には抗えず頻発していたはずだ。 チグリス・ユーフラテスと一括されるが、並流する2つの河川であり、共通するのが、源流がアルメニアに近いトルコ東部の山岳地帯で、現在のイラク国内を北西から南東に流れる。チグリス川がイラン側の北東、ユーフラテス川がシリア砂漠側の南西を流れ、中流部の現在のバグダード付近で間が狭まり、下流域で再び間が広くなって、現代では最後にまとまり1つのシャトル・アラブShatt al-Arab川となって、イラン・イラク国境地帯を流れペルシア湾に注いでいる。 この両河に挟まれた地域が、ギリシア時代から「川の間の地域」を意味する「メソポタミア」と呼ばれた。ただし、古代メソポタミア文明の時代には、現在より海岸線は内陸にあり、2つの川は別々に海に注いでいた。現在は「二つの川」を意味する「アル・ラフダイン」と呼ぶ。 ユーフラテス川とチグリス川上流域に挟まれた標高 240~460mの、イラクの北西部とシリアの北東部を含むステップ地帯を「ジャジーラ(島の意味)」と呼ぶ。水と鉱物資源に富み、古代ではイラン・イラク・シリア・アルメニア・アナトリアなどを結ぶ交易の重要な要路であった。大半は砂漠であるが、初春には牧草が生えるステップ地帯であるから、遊牧民の季節的な放牧地となる。 マックス・マローワンは、は、イギリスの考古学者で、特に古代中東史を専門とする。また、アガサ・クリスティの2番目の夫でもある。メソポタミア文明の首都と見なされていたウルの発掘現場(1925年~1931年)で、レオナード・ウーリーの弟子として働いていた。その発掘現場で1930年、アガサ・クリスティに初めて会い、同年中に結婚している。 BC1300〜BC1200年頃にまとめられたバビロニアのギルガメシュ叙事詩(新アッシリア時代のアッシュルバニパル王(在位:BC668年~BC631/627年頃)が、メソポタミア北部のチグリスの上流ニネヴェに建てた図書館から出土した)によれば、大洪水が記されている。不死を追い求めていたギルガメシュ王は、一種の地上の楽園・ディルムンで、ウトナピシュティム(シュメール神話のジウスドラをアッカド語に直訳した名前)と出会う。ウトナピシュティムは、大洪水によってすべての生命を破壊するという神の計画について、エア神(シュメール神話のエンキ神に類似)が彼に警告し、船を作って彼の家族や友人、財産や家畜を守るよう指示したことを語る。大洪水の後、神はみずからの行動を悔やみ、ウトナピシュティムに不死を与える。全能の神にしては、随分と粗雑な神話である。 BC18世紀に3枚の粘土版にアッカド語で記されたアトラハシス叙事詩で明らかなように、洪水が地域的河川氾濫だったと確認できる。「とんぼのように人々の遺体は川を埋めた。いかだのように遺体は船のへりに当たった。いかだのように遺体は川岸に流れ着いた。」 「アトラハシス」は、古バビロニア語の『ギルガメシュ叙事詩』では、「ウタナピシュティム」であり、シュメール語の大洪水伝説では、「永遠の生命」「永続する生命」の意味の「ジウスドラ」と言う名で呼ばれている。 ニップル出土のシュメールの粘土板では、「暴風雨はすさまじく一束になって襲いかかり 、大洪水は一挙に祭祀の地を一掃する。七日七夜大洪水は全土を覆いつくし、大きな船は風雨のために大浪にうちあたりたるのちに、ウツの神があらわれて天と地に光をそそぐ、ジウスドラは大きな舟の窓を開く、英雄神ウツはそれに光をそそぐ、王ジウスドラは、ウツの前にひれ伏しウシを屠り、ヒツジを殺す」と記されている。 シュメール王名表はジウスドラの支配の後に洪水を設定しているが、彼が、他の洪水伝説と多くの共通点を持つジウスドラ叙事詩において、洪水の主人公として語られている。マックス・マローワンによれば、創世記の洪水は「BC2900年頃、初期王朝の始まりに実際に起こった事象に基づいている」という。 エジプトのゆったりした大河ナイルと違い、時々大暴れする大河のほとりに暮らしてしまったメソポタミアの人々が体験した「大洪水」の記録は、「ウーリーの穴」とか「大洪水の穴」とか呼ばれる発掘穴で、考古学的に証明されている。 この穴は、1929年から1930年にかけて、ウルの都を発掘していたチャールズ・レオナルド・ウーリーCharles Leonard Woolleyによって発見された。 レオナルド・ウーリーはウルの大地に思いがけないものを発見する。分厚い粘土層による文明の中断の跡が見つかったのだ。ウルがある地域に「最初に人が住み始めて」から「現在」までの歴史過程を辿れる深い穴が、「ウーリーの穴」、「大洪水の穴」と呼ばれている。 ウルから人類の文明の痕跡を、中断させている分厚い粘土層は、大洪水の跡であった。その厚さは最大で3.5mにも及ぶ。 ウルの町は過去に少なくとも2度の洪水に襲われ、その最高水位は8m、メソポタミア流域の、長さ500km、幅150kmの広大な地域を丸ごと水没させる大規模なものであったと推測されている。 現代の分析では、ウルの住民が体験した「大洪水」は、地層からしてBC4000~BC3500年頃だったとされる。エジプトに統一王朝(初期王朝時代)が登場する以前の、先王朝時代(BC5000~BC 3000頃)であるため、エジプト側の記録は残っていない。 しかし洪水は、この2回だけではない。厄介なことに、チグリス・ユーフラテスの両河川は、大規模な洪水を起こすと流れを変えてしまうことがあった。河川の経路が変わったために、水不足で滅びたと思われる都市すらある。 その時々の流れによって、被害を受けた地域は異なる。実際、他の都市でも同じように竪穴を掘ってみたら、異なる時代に洪水跡が見られたという。ニネヴェの町はウルと同じ年代に洪水の跡が見られるが、ウルより河の上流なので体積層が少ない。ウルクやラガシュ、シュルッパクなどは、現在は川に面していないが、BC2800年くらいに洪水による粘土の堆積が見られるという。 目次へ |