新アッシリア王国時代 車山お知らせ
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DNA DNAが遺伝物質 生物進化と光合成 葉緑素とATP 植物の葉の機能 植物の色素 葉緑体と光合成 花粉の形成と受精 ブドウ糖とデンプン 植物の運動力 光合成と光阻害 チラコイド反応 植物のエネルギー生産 ストロマ反応 植物の窒素化合物 屈性と傾性(偏差成長) タンパク質 遺伝子が作るタンパク質 遺伝子の発現(1) 遺伝子の発現(2) 遺伝子発現の仕組み リボソーム コルチゾール 生物個体の発生 染色体と遺伝 減数分裂と受精 対立遺伝子と点変異 疾患とSNP 癌変異の集積 癌細胞の転移 大腸癌 細胞の生命化学 イオン結合 酸と塩基 細胞内の炭素化合物 細胞の中の単量体 糖(sugar) 糖の機能 脂肪酸 生物エネルギー 細胞内の巨大分子 化学結合エネルギー 植物の生活環 シグナル伝達 キク科植物 陸上植物の誕生 植物の進化史 植物の水収支 拡散と浸透 細胞壁と膜の特性 種子植物 馴化と適応 根による水吸収 稲・生命体 胞子体の発生 花粉の形成 雌ずい群 花粉管の先端成長 自殖と他殖 フキノトウ アポミクシス 生物間相互作用 バラ科 ナシ属 蜜蜂 ブドウ科 イネ科植物 細胞化学 ファンデルワールス力 タンパク質の生化学 呼吸鎖 生命の起源 量子化学 ニールス・ボーアとアインシュタイン 元素の周期表 デモクリトスの原子論 古代メソポタミア ヒッタイト古王国時代 ヒッタイトと古代エジプト ヒクソス王朝 古代メソポタミア史 新アッシリア王国時代
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1)古アッシリア時代 一、セム語族 アラム人 現在でも、中東にはアッシリア人という少数民族がいる。かつての「アッシリア王国」のアッシリア人のゲノムと、どの程度の同一性があるのか、はなはだ疑問である。 現在のアッシリア人は、アラム語の1つ現代アラム語を話しキリスト教を信仰する中東の少数民族で、主にイラク北部とシリア北東部、イラン北西部、トルコ東南部にまたがる地域に居住している。ドイツなどではアラム人と呼ぶ。古来、アラブ人・トルコ人・クルド人・トルクメン人(モンゴロイドをベースにコーカソイド系の遺伝子配列が目立つ)などの異民族との競合や迫害を受けながらも、強固な民族意識により伝統的な文化を継承している。 現代の民族の実態は、それまでの種・血族などのゲノムの同一性を根拠にすることは難しい。BC2千年紀末からBC1千年紀前半にかけて東はエラムから西はレバノン山麓まで広範囲にわたって活動したセム系半遊牧民の一部族が、アモリ人やフェニキア人など西セム系に属する民族であった。セム語族の言語には、アッカド語・バビロニア語・アッシリア語・アラム語・フェニキア語・ヘブライ語・アラビア語などがある。 セム語派とも言うが、当初は、西アジアで遊牧生活を営んでいたが、次第に濃厚定住生活に移り、BC3000年紀にメソポタミアに侵入した。BC2300年頃にメソポタミアを支配したアッカド人をはじめ、バビロニア王国を作ったアムル(アモリ)人などの東セム語族が活発となりメソポタミア文明を発展させた。 次いでBC1200年頃に、シリア・パレスチナのアラム人、フェニキア人、ヘブライ人などの北西セム語族系3民族が活発化した。その後に登場するが、アフリカのエチオピア人やイスラームによって大帝国を作るアラブ人などの南西セム語族である。つまり、セム語族は、オリエント世界で中心的な役割を果たした民族であった。 遊牧民としてシリアからメソポタミア北部へかけての地方に姿を現したアラム人は、BC2千年紀の半ば頃よりそれぞれの進出先で定着した。BC15世紀から始まる民族大移動の波によって、BC14世紀頃、メソポタミアからシリアにかけて広く分布した。BC14世紀以来、シリアおよび北部山岳地帯に接する領域を支配し、またバビロニアにも侵攻している。この頃になると、セム系アラム人が北部メソポタミアで有力となり、アッシリアは一時衰退した。BC11世紀頃からBC8世紀ごろまでシリア北部からメソポタミア北部に定着し、ここを根拠として、商業民族として四方に拡散した。 後世、アラム人の諸小国家はアッシリアの勢力回復とともに征服され、BC8世紀末には政治的実体を失うが、アラム文字やアラム語は、メソポタミア全域に浸透した。そしてBC1200年ころより、ダマスクスをはじめとする都市を中心に幾つかの小国家を形成し、内陸貿易の担い手として広い範囲で活躍した。 BC8世紀には、中アッシリア時代(BC1365年~BC934年)のアッシリア軍の侵略に対し、それまで抗争を続けてきたヘブライ人とも手を結んで抵抗したが、破れて独立を失った。しかし王国滅亡後も商業活動は盛んで、その言語は全オリエントの国際共通語となった。そのため、政治的にはアラム人を支配したアッシリアや、後世のアケメネス朝も、公用語としてアラム語を採用したほどである。またフェニキア文字から分かれて発達したアラム文字は、各地に伝播して東方系の多くの文字文化の母体となった。アラム文字から派生した文字として、ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などがあげられる。 アッシリア王国が建国された北メソポタミア地方に人間が住み始めたのは、BC6000年頃と見られている。 南メソポタミアの土地は肥沃で、経済の基盤は農業に置かれていたが、降水量が少ないため天水だけの農耕は無理であった。このためメソポタミアへの入植は、灌漑技術獲得の後のことであった。時代を下るにつれて、土地の塩化が進み、大麦の反収も減少していった。やがてシュメール文明は途絶した。 北メソポタミアはチグリス川・ユーフラテス川のほとりではあるが、海抜500mほどで2つの川の上流域にあたるため、下流域の南メソポタミア(バビロニア)のように川が運んでくる養分たっぷりの土に頼った農業は期待できなかった。しかもメソポタミア全域は、金属資源や木材・石材といった基本的な資源が非常に乏しいため、周辺地域との交易によって資源を確保することが必要であった。その貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明との交易も早く、交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河とペルシア湾であった。ディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる。また、北メソポタミアは、小アジアとメソポタミア南部、イラン高原方面とを結ぶ交通の要地となり、舟運と陸送による中継貿易 を中心に経済が回っていた。 二、古アッシリア時代 (BC1950年頃~BC15世紀頃) BC2500年頃になると、後にアッシリア王国の首都となるアッシュールに人々が移り住み始め、カルフやニネヴェ・アルベラなどアッシリア王国の中心的都市となる場所の基盤整備も整ってきた。このころには既に都市国家として独自の政治体制を築いていた。そしてBC2000年頃、それまでメソポタミアを支配していたシュメール人によるウル第3王朝(BC2112年~BC2004年)の滅亡とともに、アッシリア王国が歴史上に姿を表し始めた。 古アッシリア時代とは、アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主にBC1950年頃からBC15世紀頃までを指す。アッシリア商人や、シャムシ・アダド1世(在位;BC1813年~BC1781年)の台頭によって多くの文書史料が残り、アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されるようになる。 アムル人(セム語族遊牧民でアモリ人とも呼ぶ。BC2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入し、後にその中・下流域であるバビロニアを支配した)の有力部族の族長であったイラ・カブカブの息子として生まれたシャムシ・アダド1世は、アッシリア王名表によれば、アッシリアの第39代目の王であるが、この時代に関するアッシリア王名表の実証性は低い。 彼はチグリス川河畔の都市エカラトゥムを占領し、ここを拠点にアッシリアへ侵攻した。そして当時のアッシリア王エリシュム2世を破り、BC1813年にアッシリア王となった。 その後シャムシ・アダド1世は新たに首都シュバト・エンリルを築き、ここを拠点に精力的に領土拡大に励んだ。中でも特に重要だったのはマリの占領である。当時のマリ王ヤフドゥン・リム(同じアムル系の王)は強大であり、シャムシ・アダド1世は彼と激しく争った。 ヤフドゥン・リムは、侵攻してきたカナン人を撃退し、シリア方面に遠征を行って勢力を伸張させ、太陽神シャマシュの神殿を建造するなど、マリを王都として勢威を誇った。マリ側の史料には、数度にわたってシャムシ・アダド1世に勝利していることが記されている。 しかし、次第に戦況が不利になると、重臣と思われるスム・ヤマムがクーデターを起こし、ヤフドゥン・リムを暗殺した。息子のジムリ・リムはアレッポへと亡命した。その後マリはシャムシ・アダド1世が死ぬまで支配し、その息子ヤスマフ・アダドによって統治させた。マリ宮廷書庫から 300編以上もの彼らの書簡文書が発見されている。 これを含めた征服活動によって北部メソポタミア全域にアッシリアの勢力を拡大し、名実ともにオリエント最大の君主となった。古バビロニア王国のハンムラビ王(在位;BC1792年頃~BC1750年頃)も、シャムシ・アダド1世が王位にある間は、臣従せざるをえなかったほどの権勢を誇った。 アッシリア王シャムシ・アダド1世は、長期にわたって王位にあった。王は、アッシリアを陥落させたとき、アッシリアに新王朝を打ち立てるのではなく、自分こそはアッシリア王の正当な後継者であると主張した。 シャムシ・アダド1世がBC1781年に死去するとアッシリアは衰退した。アッシリアの覇権の後釜を巡って、バビロン・ラルサ・マリ・エシュヌンナなどが争い、やがてバビロン第1王朝の第6代目の王ハンムラビがその座を得る。 エシュヌンナは、ハンムラビと数次にわたる戦争を繰り広げた末敗退し、BC1762年頃には一時エラムの支配下に置かれた。BC1757年頃、エシュヌンナは、バビロン軍に包囲され、ハンムラビ王の水攻めによって都市は破壊され放棄された。その後BC17世紀にも数名の王のもとで復興したが、いずれもバビロンに敗れ、間もなく完全に歴史の舞台から消えた。 目次へ | ||||||||||
2)中アッシリア王国時代 アラム人のアッシリア勢力は、BC15世紀には、フルリ人(北方のコーカサス山脈から移住してきたと考えられる)がBC16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国したミタンニ王国に服従していたものの、BC1365年からのアッシュール・ウリバト1世(在位;BC1365年~BC1330年)の時代に、独立を回復し中アッシリア王国時代(BC1365~BC934)を築いた。アッシュール・ウリバト1世の治世は、アッシリア史において数100年ぶりにまとまった記録が遺こる事と、ミタンニの圧力を排除するなど史上重要な画期となった。その頃のオリエントでは、ミタンニをはじめヒッタイト・バビロニア・エジプトなどそうそうたる大国が競合していた。やがて、アッシリア王国は、ミタンニを倒しその領土を獲得し、続いてヒッタイト・バビロニアにも勝利しオリエント世界における権勢を一段と高めた。 その後、「BC1200年のカタストロフ」という、コーカサス山脈の北方の民族から始まる難民の大移動を起源とする諸勢力が猛威を振るい、一時、エジプト王朝以外の既存勢力が崩壊するが、この混乱を終息させ再興した諸国の王たちは、意気盛んに遠征を活発化させた。 メソポタミアでは、半遊牧民のセム語族系のアラム人が、BC1200年頃から西アジアのシリアあたりに定住し、ラクダを利用して、内陸部の陸上交易で広域的に活躍していた。 アラム人の都市ダマスカス王ベン・ハダド2世は、BC10世紀頃、メソポタミア北部のユーフラテス川上流に定住したアラム人(元来は遊牧民であった)を率い、かつてヒッタイトに服属していた諸都市の多くを占拠していった。ダマスカスはそのアラム人が、BC10世紀頃、アラム人の国の都として建設した。その後も西アジア交易圏の中心地として栄えた。その当時から、アラム国は中アッシリア王国にとって不断の脅威となった。 新アッシリア(BC934年~BC609年)のアッシュール・ダン2世Assur‐dan II(在位;BC934年~BC912年)は、アラム人や山岳民族の制圧に成功し、中アッシリア時代後期の混乱を収束させた。その治世中、内政の充実につとめ、アッシリアの州行政を整え、また農地を拡大し食糧増産に成功した。 彼の死後、息子の次王アダド・ニラリ2世Adad‐nirari II(在位;BC 911年~BC 891年)が王位を継いだ。地方行政と財政の安定により、以降のアッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。BC853年、新アッシリアのシャルマネセル3世はアラム・フェニキア・イスラエル・ハマテ(ハマト)の連合軍と戦い、BC838年、中部ユーフラテスのアラム国の領地を奪った。 その一方、エジプトでは、第3中間期(BC1070~750頃)第22王朝の第5代ファラオ・オソルコン2世(BC872年頃~BC850年頃)の治世中、従兄弟のハルスィエセがテーベでファラオを称して独立している。テーベと下エジプトとの対立は激化したが、直接な対決までには至らなかった。 そのハルスィエセが死亡すると、オソルコン2世は直ちにアメン大司祭職に息子のニムロトを就けてテーベに対する支配を取り戻した。しかしこの後も、上エジプトのアメン大司祭職を巡る問題は、やがて第22王朝の政治的統一を破綻させる。 オソルコン2世の時代、パレスチナとの関係は一応安泰を保っていたが、遂に新アッシリアによるパレスチナへの侵攻が始まる。国内外に多くの難問を抱える事になった。 オロンテス川畔のカルカルの戦いBattle of Karkarの戦場は、現シリアのハマー県にあった古代都市が舞台となった。BC853年に、メソポタミア地方に本拠を置く新アッシリアのシャルマネセル3世(在位;BC858年~BC824年)が率いる大国アッシリア国の軍と、シリア・パレスチナ地方諸国の同盟軍との間で戦われた。アッシリア側の史料には「ハッティ(アナトリア半島中央部)と海岸の12人の王」として、その同盟参加者が記録されている。 1880年、イラク北部のニムルドNimrud近郊にあたるバラワトで発見された「シャルマネセル3世の青銅刻文」には、時はBC853年と記される。シャルマネセル3世にとっては即位6年目の頃にあたり、また、北イスラエルの7代目のアハブ王にとってはその治世の末期の出来事になる。 (ニムルドは、現在のイラク北部のニーナワー県にある。古代アッシリアの重要な考古遺跡で、アッシリアの時代にはカルフKalḫuと呼ばれていた。カルフの繁栄と名声が絶頂期あったのはBC9世紀、アッシュールナツィルパル2世が都としていた時代である。彼は初期の都市の廃墟の上に巨大な宮殿や神殿を建設した。アッシリア帝国時代のカルフは、BC710年頃までアッシリアの首都であり続けた。その後サルゴン2世がドゥル・シャルキン(コルサバード遺跡)へ、次いでセンナケリブがニネヴェへ遷都したためカルフは都ではなくなったが、なお大都市であり王の宮殿のある都市であった。BC612年にニネヴェが、新バビロニアやメディア王国により陥落した時期、カルフも破壊されたとみられる。) 戦場はオロンテス川畔のカルカル、連合軍の主力は、「ダマスコ(ダマスカス)の王アダドイドリ、ハマテ(ハマーHama)の王イルフレニ、イスラエルの王アハブ」であった。 古代オリエント史上有名な戦いの1つであり、この戦いではアッシリア軍は撃退され、その西方への拡大策は一時頓挫した。 アッシリア側の記録の方は、BC853年に西方遠征を開始したシャルマネセル3世は、アレッポを経由してカルカル市を略奪し、オロンテス川沿いでシリアとパレスチナ地方の同盟軍と対峙した。シャルマネセル3世は無数の戦車と14,000人の兵士を倒して勝利したと記録している。 実際には、この戦いの後、アッシリアがシリア地方を征服した痕跡はなく、しかも、その後もシリア地方への遠征を繰り返している。その結果、アッシリアの西方への領土拡大は頓挫したままとなっていた。 当座の脅威が去ると、シリア諸国の同盟関係は早くも崩れ、BC853年以降にはダマスカスとイスラエル(北王国)の間で争いが生じ、その戦いでイスラエル王アハブが戦死する。 先の戦いが頓挫した後シャルマネセル3世は、一時バビロニアに矛先を変えて現地の政権カルデアを征服した。またレバント情勢の混乱を知り、シャルマネセル3世は、シリア地方への侵攻を再開した。それから10数年の間に、これらの勢力を殆どすべて攻略し、シャルマネセ3世は、アッシリアの領土をさらに大幅に拡大した。征服地の住民の上層部を、強制移住させた。 (カルデアChaldeaは、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によって形成されたメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称である。BC10世紀以降にこの地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族は、カルデア人と呼ばれるようになった。アラム人の系統かどうかは定かではない。カルデア人はBC625年に、新バビロニア王国を建国した。短命に終わったこの王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の4人だけである。最後の国王ナボニドゥスと、その息子で摂政のベルシャザの出自は、一説にはアッシリア出身とも言われている。 そのナボニドゥスが宗教の改革などを行った。特に月神シンをマルドゥクの代わりに最高神としたことが、神官やバビロニア住民の反感を買った。アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、この住民たちの反感を利用し、BC539年、ナボニドゥスが逃げた後のシッパルを戦わずして占領した。ナボニドゥスはバビロンへ逃れたが、キュロス2世の軍は、門の付近で小さな抵抗に遭っただけでバビロンを占領し、ナボニドゥスも捕らえられた。) この時代、有能な行政官を王の直下において育て、新しく帝国の属州に編入したばかりの征服地に派遣した。アッシリアの役人たちの行政能力の優秀さが際立ってくる。 シャルマネセ3世の晩年は、息子の反乱のために国内は大混乱に陥った。BC835年以降はメディアとも戦うが、シャルマネセ3世は既に高齢となり、BC832年以降は息子のアッシュール・ダイン・アピルを軍総司令官に任じて彼に指揮を執らせた。そのアッシュール・ダイン・アピルが、BC827年、突如反乱を起こし、カルフ(ニムルド)を除くニネヴェを含む27の重要な都市を制圧するに到った。シャルマネセル3世は反乱の鎮圧に成功しないままBC824年死去した。後継者だった別の息子シャムシ・アダド5世(在位;BC824年~BC811年)が後を継ぎ反乱の鎮圧にあたった。シャムシ・アダド5世は、アッシュール・ダイン・アピルの反乱に対して、バビロニアのカルデア人の支援を得て、ようやく5年かけてBC820年に鎮圧した。しかし、新アッシリアとその王権は弱体化した。 「カルデア」は、『旧約聖書』では全バビロニアを指している。本来は、ペルシア湾岸沿いの、ティグリスとユーフラテス両川の堆積平野およびその西縁の南バビロニアの一部の地を呼ぶ。セム系民族の一つカルデア人は、バビロニアにおけるアラム人の主要な大種族で、BC1千年紀初めに南部バビロニアにいくつもの部族に分かれて定住した。バビロニアの文化と言語を受容して同化した。 シャムシ・アダド5世は、アッシュール・ダイン・アピルの反乱を鎮圧すると、ウラルトゥ王国に遠征して領土の一部を獲得した。続いてメディアを攻撃してこれに貢納を課した。 ところが、バビロニアのカルデア人は、伸張し続けるアッシリアの暴圧に耐えられなくなった。BC814年、シャムシ・アダド5世は、マルドゥク・バラス・イクビ率いるカルデアの都市連合軍と、「デールDer」で戦い勝利した。マルドゥク・バラス・イクビは、バビロンへ逃れたが、この年はそれに乗じて進撃は行っていない。翌BC813年、シャムシ・アダド5世はバビロニアへ遠征した。戦闘に勝利し、デールを占領し、マルドゥク・バラス・イクビを捕虜としてアッシリアに連れ帰った。 さらに翌年のBC812年には、バビロンで新たにババ・アハ・イディナが挙兵した。BC811年、ババ・アハ・イディナも破れバビロンは占領され、シャムシ・アダド5世に家族もろともに捕らえられてアッシリアに送られた。デールiを含む東部バビロニアの多数の都市が略奪され、これらの都市は単に財を奪われただけでなく、都市の守護神像もアッシリアに持ち去られた。 この直後シャムシ・アダド5世は死去したようだ。バビロニアをアッシリアが制度的に組み入れる段階には、未だ至ってはいなかったが、バビロニアは深刻な政治混乱に陥り、10年余りの間に5人の王が乱立した。BC811年以後のバビロニアは、事実上無政府状態で、年代記には「(判読不明)年間、王は不在」と記されている。 シャムシ・アダド5世による、4年連続となるBC811年までのバビロニア遠征については、一次史料は発見されていない。シャムシ・アダド5世はBC811年になくなっているが、その前のいずれかの時点でカルデア人からの貢納を受けている。シャムシ・アダド5世の碑文では、自身の肩書きを「シュメールとアッカドの王」としており、これがバビロニア全体に対する宗主権の表明であった。 BC1000年期初頭のバビロニアの歴史は、アッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できていない。極めて断片的な解明にとどまる。BC1000年期初頭の250年余りの期間は、E王朝(バビロン第8王朝、BC977年~BC732年)と呼ばれ、ある程度の国力は維持されていたのが、アッシリアとの国境争いの史料から読み取れる。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間拮抗していたが、アッシリアが強大化する一方で、バビロニアはその脅威から混乱し、BC9世紀には西部と南部におけるアラム系の諸部族が主導権を握るようになる。 シャムシ・アダド5世の息子アダド・ニラリ3世(在位;BC811年~BC783年)が王位を継いだ。ただし、この時アダド・ニラリ3世はまだ幼少であったと考えられ、王妃サンムラマートが事実上の権勢を振るったと推定されている。 アダド・ニラリ3世はシャムシ・アダド5世の息子であり正当な後継者であった。即位後最初の5年間の間、母親のサンムラマートが極めて大きな影響力を持っていたことから、アダド・ニラリ3世は即位の時にはかなり幼かったようだる。しかしサンムラマートが摂政であったとする見解は広く退けられているが、この時代の彼女の影響力は巨大なものであった。ただ、その後見期間は、即位から5年間程度だった、と言われている。 アダド・ニラリ3世はアッシュール・ニラリ5世、シャルマネセル4世(在位;BC782年頃~BC 772年頃)、そしてアッシュール・ダン3世(在位;BC773年頃~BC755年頃)の父親である。ティグラト・ピレセル3世は自らをアダド・ニラリ3世の息子であると王碑文に記すが、現代では否定的である。 アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世(在位;BC754年頃~BC744年頃)の治世は、反乱の勃発とペストの発生という不運に見舞われていた。彼らの治世中、アッシリアの権威と権力は劇的に低下した。しかしながら、そのティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年~BC727年)の治世の間に、ついにメソポタミアばかりか、最初にオリエント世界を統一するアッシリア帝国を樹立した。 アダド・ニラリ3世の若さと、彼の父親がその治世の初期に直面していた王家内部の権力闘争が、新アッシリアのメソポタミアやレヴァントに対する国王による専制的支配に深刻な弱体化をもたらした。その結果が、多数の将軍や総督、更には属国統治者の野心の増長であった。 1967年に発見された、アダド・ニラリ3世による西方における遠征を記すテル・アル・リマー(ニネヴェ)の石碑は、イラク国立博物館で収蔵されている。より興味深いのが、アラビア半島西南端のサバSabaで発見されたアッシリア王アダド・ニラリ3世の玄武岩性の石碑が、トルコのイスタンブル考古学博物館の古代オリエント美術館に収蔵されている事実である。 ティグラト・ピレセル3世の年代記には、服属貢納した諸族のリストの中にサバアの名が記されている。 アフリカのサバンナ地帯の雑穀類がインドへ流布し、東南アジアからアフリカへ栽培種のバナナが拡散した。「物々交換」の高度化と広域化が、古代人の文明を発展させる画期となっている。 BC2000年以前の2300年頃、既にメソポタミアとインダス文明の間で、ペルシア湾経由の沿岸航路が発展していたことが明らかになっている。その一方、紅海沿岸のイエメンのサバ地方が、BC10世紀には、インドの香料貿易の仲介で繁栄していた。 (イエメンの都市マアリブは、首都サナアの東120km、ルブアルハリ砂漠の西南に位置する。かつてのサバア王国の首都であったとされ、シバの女王ビルキスの居城であったとされるアルシュ・ビルキスなどの遺跡がある。サバア王国の成立時期は、BC8世紀末頃か?) アダド・ニラリ3世の碑文によれば、彼は祖父のシャルマネセル3世の時代に獲得したアッシリアの領国を取り戻すために、アラビア半島西南部のサバ地方(イエメンの都市マアリブ)など多くの遠征を重ねている。BC802年には、アラムの王ベン・ハダド3世治世下のダマスカスを制圧し賠償金を獲得している。 1993年から1994年に、イスラエルの北部テル・ダン(古代イスラエル王国の北限にあたる)の発掘調査で発見された「テル・ダン石碑」は壊れていたが、発見された複数の石片を組み立てたところ、アラム文字で書かれた戦勝の碑文がレリーフされていた。この石碑は、その文面やアラム語の碑文の字体、同じ層から出土した土器の年代などからアラム国のハザエル王によってBC9世紀後半に建てられたとされた。現在は「イスラエル博物館」に展示されている。 アラムのダマスカスの王ハザエルは、この碑文では「バル・ハダド」と記されている。ハザエルの子ベン・ハダド3世が、ハザエルの跡を継いでシリアの王になったとしている点で「旧約聖書」と一致している。BC13世紀頃在世のモーセの時期とは異なり、この時代以降の 「旧約聖書」の記述の信憑性が、より高くなる。 「テル・ダン石碑」には、「そして私の父は死の床に伏した。父はそのまた父らに会いにいった。今、イスラエル王が侵入してきた。私の父が支配していた土地の中に...。その時、ハダドHadad神が私を王にした。」、「そしてハダド神が私の前を進み、ゆくべき道を教えてくださった。」「そして私は70もの王たちを殺した。その王たちは数千もの馬車と数千もの騎兵を操っていた。 そして私は殺した...」、「イスラエルの王はダビデの家柄である。そして私は彼らの街を壊滅し変わり果てた姿にした。」、「彼らの土地を荒廃させ ...そして...王になった」と記されている。 「ハダド」とは、碑文で明らかなようにアラム人が「主」として崇める神の名であるが、元々は西方セム系の嵐・雷電の神で、シリア地方ではハダドHadadと呼ぶ。その名は「主」を意味する。「旧約聖書」では、ハザエルの父の名と誤解している。また、この石碑によりダビデの実在性が、聖書以外で初めて史料により確認された。 その後、北イスラエル国の13代目の王ヤラベアム2世(BC844年頃~BC804年頃)は、アラムの軍勢を3回にわたり撃ち破り、ベン・ハダド3世が奪った領地を奪い返している。イスラエルの境界線は、以前の状態に戻った。ヤラベアム2世の反撃に関連して、ベン・ハダド3世の史料は見当たらない。当時、既に死んでいたようだ。 BC796年には、アダド・ニラリ3世は、アッシリア西部のオロンテス河畔で戦い、レバント地方の諸都市に対しても貢納を要求した。これがダマスカスを首都とするアラム人の王国を、更に衰退させた一方、第13代の王ヤロブアム2世の治下の北イスラエル王国を繁栄させた。ヤロブアム2世は、弱体化したアラムとの戦いに勝利し領土を回復し、アラムの首都ダマスカスとその北ハマテから、南のアラバArabahの地溝帯を経てアカバ湾Gulf of Aqabaまで領土を拡大させた。その領土は、ソロモン時代の頃に匹敵する。それでも、ヤロブアム2世は、アッシリア王に貢納を行っている。 領土の回復は、様々な交易ルートの支配に繋がり、イスラエルは交易や通行税の収入によって経済的にも繁栄し、首都サマリアには新しい豪華な宮殿も建造した。しかし、北イスラエル王国の経済的な豊かさや生活水準の向上は、少数の特権階級に限られていた。相変わらず殆どのイスラエルの民は貧困に喘いでいた。 アダド・ニラリ3世の死後、アッシリアの統治力は、明らかに低下していた。ティグラト・ピラセル3世が立つ直前には、内戦状態に陥っていた。 シャムシ・アダド5世の治世中、既に宮廷で高位に登用されていた宮廷宦官は、シャムシ・アダド5世の王妃サンムラマト(その息子がアダド・ニラリ3世)と結びついて、急速に影響力を強めていたようだ。高位に登用される宦官の人数も増え、アダド・ニラリ3世の死後には、王国直轄地域の長官として赴任した後に、中央で高位に就く宦官が増えていった。また、王の直属の中央軍は、「王の結び目」と呼ばれたが、その総指揮官(大将軍)に任じられていたのが宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。 アダド・ニラリ3世についての個人的な記録はあまり多くないが、多数の遠征記録が遺されている。 この時期のアッシリアの遠征は、バビロニア地方ではカルデア人を服属させ、BC802年には、ベン・ハダド3世治世下のダマスカスを制圧し、アラビア半島西南部のサバ地方への遠征など、かなりの成果も挙げた。その一方、アダド・ニラリ3世の代の急激な膨張政策が、続く次代の混乱を招いた。 アダド・ニラリ3世の代にアッシリア軍の大将軍に任じられたシャムシ・イルは、カルカルの戦いで敗退したシャルマネセル3世(在位;BC858年~BC824年)以後、数代に渡り内政が混乱し記録も乏しい時期なのに、目立つ存在となっていた。その名の意味は「神はわが太陽」であり、「王に次ぐ者」の称号を持つ最高司令官であった。 BC1000年頃から、1世紀に渡りヒッタイト系王朝マスワリの王都として栄えたティル・バルシブを首都とする西方の属州を50年近く支配していた。BC9世紀初めの頃に、アラム系王朝ビート・アディニの支配下に置かれた時期に、都市名をティル・バルシブと改めた。BC854年、シャルマネセル3世(在位;BC858年~BC824年)に征服された。その翌853年にはカルカルの戦いがあった。 シャムシ・イルは、アダド・ニラリ3世(在位;BC811年~BC783年)やシャルマネセル4世(在位;BC782年頃~BC 772年頃)の碑文にも王とともに名を連ねている。自ら建てた碑の中では「ハッティ(アナトリア半島中央部)の地の知事」を称した。 シャムシ・イルは、軍による侵攻と制圧に長けていたようだが、遠征先の支配地で将軍が王のように振る舞い、やがて中央の意向を無視するようになる。シャムシ・イルは、アダド・ニラリ3世の死後、次第に王権を軽んじる専横な振舞いが際立っていた。その一方、アダド・ニラリ3世は、ニネヴェのナブー神殿など、主要都市に神殿を造営させていた。 古バビロニア時代以降のメソポタミアで、広く崇拝されたナブー神だが、元々は、シュメール・アッカド系ではない。ナブー神崇拝をバビロニアにもたらしたのは、おそらくアムル人のいずれかの部族と見られている。アムル人を指すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は、元来メソポタミアの西の地域を指す地名であった。 「アムル」は、主にBC2000年期前半には、中東各地で権力を握った諸部族の名称となっていた。ウル第3王朝(BC2112年頃~BC2204年頃)滅亡の直接の原因は、エラム人による侵攻であったが、止まる事を知らないアムル人 (アモリ人)の侵入も一因であった。彼らはウル第3王朝の後継者という意識を強く持ち、シュメール的な宗教観・王権観を強く受け継いだ。しかも、彼らは行政語として、ほぼシュメール語やアッカド語を用いたため、碑文や法典など殆ど全てがシュメール語によって書かれた。アムル語の記録は乏しい。 アダド・ニラリ3世の精力的な行動にも関わらず、彼の死後、アッシリアは数十年にわたる長い弱体期に入った。 シャムシ・アダド5世からアッシュール・ニラリ5世の治世の終わりまでの約80年間(BC824年~BC745年)を、後世、「高官の時代」と呼び、地方の高官が時として王に比肩する権力を振るい、アッシリアの政権が封建化したようになる。しかしながら、単にアッシリアの国力が衰えて中央集権ができなくなったと言うよりも、世襲制の封建制とは異なり、実際には中央から派遣された高官の専権支配により、統制力と軍事力はかえって向上していたようだ。 これに先立って征服事業を行ったアッシュールナツィルパル2世やシャルマネセル3世は、実際にはすべての征服地を中央集権的な支配下に組み込んだのではなく、多くの場合、服属させた現地領主に行政官šaknuという肩書を与えることでアッシリアに服属させていた。 アッシュールナツィルパル2世Ashurnasirpal II(在位;BC883年~BC859年)は、新アッシリア王国時代の王である。トゥクルティ・ニヌルタ2世の息子として生まれた。父王は、新アッシリア時代最初の王アダド・ニラリ2世の息子として生まれ、父が成し遂げたレヴァント諸国やバビロニア人、アルメニア人に対する支配を固め、自らの治世初期には東方のザーグロス山脈へ遠征し、新たにペルシア人やメディア人が定着していた地域を平定していった。 アッシュールナツィルパル2世は、BC883年に即位してから17年間に14回の遠征を行ったと言う。シリア東部やカルケミシュに進軍したほか、ザーグロス山脈方面にも出兵している。彼は征服した領土の統治方法として、現地の王に貢納を課すのではなくアッシリア人の総督を派遣する方法を多く用い、以後アッシリア王国の地方統治の範となった。ただし、従属する限りにおいては伝統的な権利を認められた地方君主も多い。 アッシュールナツィルパル2世の息子であり後継者であるシャルマネセル3世Shalmaneser III(在位;BC859年~BC824年)は、その30数年の長期にわたる治世の間、東方の諸部族やバビロニア人、メソポタミアおよびシリア、そしてタウロス山脈の麓キリキア、更にはヴァン湖とウルミア湖の北方のウラルトゥへの不断の遠征の連続であった。カルケミシュの新ヒッタイトに貢納を強制し、ハマトとアラム国の首都ダマスクスを平定した。 アラブ人とカルデア人が、初めて歴史史料に記録されて登場するのはシャルマネセル3世の年代記のBC850年代からである。BC853年、ダマスカスのアラム人王ハダドエゼル、ハマト王イルフレニ、イスラエル王アハブ(北イスラエル王国7代目の王)、アラブの王ギンディブら、11の王による連合軍が 、オロンテス川河畔「カルカルの戦い」でシャルマネセル3世と戦った。その結果は決定的なものとはならず、シャルマネセル3世は何年もの間戦い続けなればならなかった。しかしながら、これらの戦いでアッシリア帝国は最終的にレヴァントとアラビアを支配した。 戦後、自身の戦果を吹聴する碑文を遺した。 「わたしは戦士たちのうち14,000人を剣で斬り殺した。アダドのように、わたしは彼らの上に破壊の雨を降り注がせた。わたしは彼らの死骸を広くばら撒き、荒野を覆い尽くさせた。武器で、わたしは血の流れを谷間に流れさせた。彼らの死骸が倒れるには平野は余りに狭すぎた。広い地方に彼らの死骸を埋めさせた。彼らの死骸を橋にして、わたしはアラントゥ(オロンテス川)を渡った」 シャルマネセル3世は、首都カルフに、父の宮殿より大きな宮殿を築かせている。大きさは2倍で、面積は49,000平方m2あり、部屋数は200を超えていた。大ジッグラト・神殿・シャルマネセル砦と呼ばれる要塞なども建設した。 BC832年には、ウラルトゥに対して再度遠征したが、翌年、高齢のためか軍の指揮権を、タルタンTurtanu(最高司令官)のダヤン・アッシュールに引継がねばばならなかった。「Turtanu」とは、アッカド語で「最高司令官」または「首相」を意味する。新アッシリア軍では、タルタンは王の代理人として軍を指揮する大きな権力を持つため、アッシリアでは王に次ぐ序列の次席司令官であった。 BC828年、息子アッシュール・ダイン・アピルが反乱を起こし、ニネヴェやアッシュールも含む27の都市が反乱に加わった。シャルマネセル3世は,カルフをかろうじて維持したにとどまり、反乱はシャルマネセル3世の死後のBC821年まで続いた。最後はシャルマネセル3世の別の息子シャムシ・アダド5世によって撃破された。シャルマネセル3世はその後間もなく死亡した。 このことを考え合わせると、高官の時代は、むしろ中央の王権の一時的な衰退を、歴年にわたる官僚の育成制度が、官僚組織を堕落させることもなく、むしろ自立的に優秀な気概を持った管理官を輩出し、地方から中央の王権を支える歴史上稀有な政権であったようだ。 これが、ティグラト・ピレセル3世によるアッシリア帝国を誕生させる原動力となった。 シャルマネセル3世の治世後半に発生したこの反乱にもかかわらず、新アッシリアは国境を拡大し、ザーグロスのハブール川と山岳の前線地帯の支配を安定させ、ウラルトゥの侵入を許さなかった。また、彼の治世中、アラビア半島を原住地とするセム系民族のアラブ人たちが初めて歴史に登場した。 ベドウィンとも呼ばれ、いくつかの部族に分かれ、それぞれの部族神を礼拝する多神教を信仰し、広大な砂漠地帯で、交易と略奪をしながら遊牧生活を送っていた。「アラブ人」は人種的存在と言うよりも、むしろセム語系のアラビア語を共有する民族として括られる。 ヒトコブラクダを最初に家畜化したのは、古代のアラム人と見られている。元来、西アジアと東アフリカに野生分布していたが、数千年前(専門家でも諸説ある)に、中央または南アラブで最初に家畜化された。アラム人は、ヒトコブラクダを放牧する遊牧民、あるいはラクダを荷物運搬に使う隊商を営む通商民族として歴史に登場した。広大なアラビア砂漠(サウジアラビア北部のネフド砂漠と南東部のルブアルハリ砂漠)を越えることは、他の使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによって初めて砂漠を横断する通商路が開発された。やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってヒトコブラクダも東方へと生息圏を広げていった。 目次へ | ||||||||||
3)アッシリア帝国当時の時代背景 シリアのアラム人の王国 時代は、BC732年にダマスクスがティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年~BC727年)に占領されたときに終わったが、彼らの隊商交易とその言語は、その後の西アジア世界で極めて重要な役割を果たした。 ティグラト・ピレセル3世の出自は、王族の血筋であったかすら定かではないが、シャルマネセル3世の死後弱体化していたアッシリアの王権を強化し、アッシリア帝国の実質的な創始者となる。 東西貿易路をおさえた北辺の強国ウラルトゥのシリア領への侵出や、各地へのアラム人の蔓延、大貴族の専横などによる、アッシリアの40年におよぶ衰退期に際し王位を簒奪して即 位した。ウラルトゥの本拠地を征して北方に大いに領土を拡大し、バビロニア・アルメニア・シリア・アラビアを征服し史上最大の版図を築いた。 ティグラト・ピレセル3世の治世の初め頃は、帝国の北方・南方、および東方の境界線を極力強固にすることに邁進した。特に、アッシリア北方のヴァン湖周辺を中心に栄えたウラルトゥの本拠地ビアイナ (現ヴァン)へ遠征して、北方に大きく領土を拡大した。 BC9世紀にウラルトゥ人は、東アナトリアの高原に分散していた諸部族ナイリ族を統合した王アラメ(在位;BC858年頃~BC 844年年頃)によって、ウラルトゥ王国を築いた。統一後からBC7世紀まで、アッシリアとの抗争で常に緊張状態にあった。ウラルトゥ軍は、鉄の装備で固める精強なアッシリア軍に対して、毛皮をまとい青銅武器で正面から立ち向かう不利を避けて、山に籠って山岳戦を展開した。平坦な戦場を得意とするアッシリア軍が、ウラルトゥ軍を撃滅することは至難の業となった。 アラメの次代の王サルドゥリシュ1世は、鉄器で武装し首都をヴァン湖畔のビアイナに定めた。BC8世紀初頭のウラルトゥ王国最盛期の王の一人アルギシュティシュ1世は、北東方面ではトランスコーカサス(南コーカサス)のセヴァン湖一帯まで進出した。 トランスコーカサスの鉱物資源、とりわけ銅鉱山に恵まれ、また周辺の服属国から金属を貢納させた。元々、ウラルトゥはヒッタイト帝国の要部を構成していたアナトリア高原東部のナイリ族が建てた国であれば、銀・銅・鉄の資源が豊富にあり、早くから優れた金属工芸を発達させていた。 また、ウラルトゥは優れた土木技術を有し、強固な山城をいくつも築き、円柱を多用する独特の建築を発達させた。各地で発見される灌漑用ダムなどによる技術の発展が、国の生産基盤をより強固なものにしたばかりでなく、優れた建築と装飾技術の基盤となった。 BC9世紀のウラルトゥ王国の首都トゥシュパ(ヴァン)に残された碑文から、アルギシュティシュ1世の治世に関する詳しい情報が伝わる。また、19発見されているアルギシュティシュ1世の碑文のうち12までがトランスコーカサスから発見されていることから、アルギシュティの国家経営は、現在のアルメニアにあたるこの地域に注力していたことが示唆される。 ウラルトゥの領土は、現在の国名でいえばアゼルバイジャンからシリアにまでまたがっていた。かなりの大国であった。南西では北シリアに影響力を及ぼし、宿敵アッシリア帝国にとって鉄と馬の主要供給源であるアナトリア半島との交易路を脅かしていた。 中心拠点は、現在のアルメニア共和国と、トルコ東部の国境線にまたがり、一時は今日のイラン・イラク・シリアの一部をも制圧していた。 西方では、アレッポの北方25km、アラム人の町アルパドArpad(現シリアのタルリファト)を中心とするシリア諸都市の連合軍に圧勝している。さらにイスラエル・ダマスクス・パルミュラ(シリア中部の古代都市、隊商の根拠地として繁栄、ローマに反抗してAD273年滅ぼされた。)を征服した。ポントス・カスピ海の草原に端を発する遊牧騎馬民族キンメリア人Cimmerians (BC9世紀頃から南ウクライナで勢力をふるい南下した)を討伐して、タウロス山脈からシナイ砂漠まで領土を広げた。 (BC714年頃、キンメリア人がウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめるが、征服には至らなかった。BC705年、キンメリア(ギミッラーヤ)がアナトリアに侵入したため、サルゴン2世は再び遠征を行った。 キンメリア人は、BC696年頃〜BC695年頃にアナトリアの西中央部にある王国フリュギアを征服したと記録されている。 サルゴン2世は、キンメリア人との同盟によって強化されていたアナトリアのキズワトナの小国タバルTabalを自ら攻撃したが、その戦闘中に命を落とし、サルゴン2世の遺体は敵の手に落ちたまま、アッシリア兵はこれを回収することができなかった。) 北イスラエル王国の第16代の王メナヘムの治世中(在位;BC745年頃~BC742年頃)に、ティグラト・ピレセル3世はパレスチナへ進軍した。 メナヘムはティグラト・ピレセル3世の臣下になり、「銀1千タラント(古代イスラエルでは、1千タラントは約34kg、銀1kgは約65,000、銀1タラント≒2,210,000円、銀1千タラント≒2,210,000,000円)」相当の貢ぎ物を贈り軍隊を撤退させてもらっている。彼はその銀を、イスラエルのすべての有力な資産家より50シェケル(シェケルは、銀の塊の重さ、時代や地域によって差異がある。この時代の平均はおよそ11.4gか?)ずつ供出させた。この同盟は、北イスラエルがアッシリアに併合されるという結果を招いた。メナヘムは国内の反アッシリア派の抵抗に遭ったが、死ぬまで王位を維持した。息子のペカフヤが、王位を世襲した最後の北イスラエル王となる。 ユダ王国アハズAhaz(在位:BC735年頃~BC715年頃)は、BC734年頃、ティグラト・ピレセル3世がシリア方面に進軍したために、アッシリアに臣従の姿勢を取り、貢納を収めた。この時期、アッシリアに服属したダマスカスや北イスラエルなどが同盟を結んで反アッシリアの姿勢を取った。このためアハズ王が親アッシリア政策を維持したため、ダマスコ王レツィンと北イスラエル18代の王ペカは共謀してユダ王国を攻撃した。エルサレムが包囲されて、アハズはティグラト・ピレセル3世に属王の礼を取って援軍を求め、見返りの貢納を収めた。ティグラト・ピレセル3世は直ちにダマスカスと北イスラエルを攻撃してダマスカスを陥落させ、その王レツィンを打ち殺させた。北イスラエル領は、アッシリアの属州になった。多くの人々が捕囚として連れ去られた。 アッシリアの碑文には、ユダのアハズやその他の国王たちが納めた貢ぎ物を、「金・銀・すず・鉄・アンチモン、多色の飾りのある亜麻布の衣、自国の黒ずんだ紫の羊毛の衣……海の産物、あるいは大陸の産物のいずれを問わず、あらゆる高価な物、彼らの地方の産物、王の宝物、馬、くびきされたラバ」など記している。 ティグラト・ピレセル3世は、アッシリアに服従した国は属国として、抵抗した国は滅ぼして帝国の属州にした。また、「あらゆる敵を殲滅する」制圧に、強制移住政策を加え、労働力の獲得と補充、そして諸民族の反乱の根を断ち切ろうとした。この政策は新バビロニア(BC625年~BC539年)のネブカドネザル2世の「バビロン捕囚」に継承される。 ネブカドネザル2世は、ユダ王国がエジプトと結んでバビロニアと対抗するという企てを察知し、BC586年にエルサレムの都市とエルサレム神殿を破壊し、ユダ王国の王族や貴族、技術者たちを首都バビロンへ連行し、生き残った民の大半をバビロン初めとしたバビロニア地方へ、捕虜として強制移住させ捕囚にした。 最初の捕囚は、既にBC597年に行われ、その後、BC586年、BC581年、最後の捕囚はBC578年に連行された。 このティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年~BC 727年)以降を、アッシリア帝国と呼ぶ。新アッシリアは、互いに起源が異なる複数の民族や部族で構成し、被征服民族を自領に組み込んで再編した国家であったが、やがて、歴史上最初の真の帝国になるまで隆盛を極めた。 新アッシリアの王シャムシ・アダド5世の息子であり後継者であったアダド・ニラリ3世(在位;BC811年頃~BC783年頃)は、即位後最初のBC811年頃~BC808年頃、母親のサンムラマートが極めて大きな影響力を持つことで宦官の権力が増長した。次第に、中央宮廷に勢威を張る宦官とともに、属州統治においても重要な地位を占めるようになり、地方を掌握する権臣の台頭が進んだ。 アッシリア帝国の時代の軍は、中央軍と地方軍からなっていた。地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。この地方軍には被征服国の軍も編入されたため、当然反乱の温床にもなった。ティグラト・ピレセル3世は、一つ一つの 州を細分化して個々の地方長官達の勢力の肥大化を抑えた。 中央軍は王の直属とされていた。ティグラト・ピレセル3世は、属州や属国から徴兵し職業軍人として訓練し常備軍とした。また2人乗りの戦車を、8本のスポークの車輪を使い大型馬車の3人乗りとし、馬を操る御者、弓を射る兵、そして盾で守る兵それぞれが、攻撃する兵は攻撃に集中し、また防御する兵は防御に専念させた。特に王直属の戦車部隊は、「足の戦車」と呼ばれた親衛隊とも言うべき役割を担った。 騎兵は当時、まだ鞍や鐙などの馬具が発明されておらず、運用は困難だったと予想されるが、最初はロバが使用され、後に馬が主流になった。高い機動力・攻撃力を誇り、偵察・伝令・警戒など作戦の幅を広げ、重要な兵科となりすぐに広まった。鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵は、この時代に新たに導入されたのである。アッシリアのレリーフには、馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがある。 ティグラト・ピレセル3世は、兵の調練にも熱心であった。閲兵用の砦を、兵器の貯蔵庫として建設している。ティグラト・ピレセル3世は暗殺されたが、以後その軍制は、アッシリア帝国の時代を通して継承された。 ティグラト・ピレセル3世は、アッシリアの軍兵自体を本質的に変えた。それまで主として自由農民や奴隷を強制的に徴発し、軍事訓練もなく編成していた軍兵を、帝国内の属州や属国から徴募し、彼らを訓練し職業軍人として鍛え、常備軍の戦兵として育てた。アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を樹立したのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も史料が豊富に遺こる時代であった。詳細な政治史の編纂が可能になっている。 アッシリアは、地方統治の拠点都市を通して、トルコ南部のタウルス山脈や北部から東部につならるザークロス山脈山岳地帯から木材や岩石、金属といった天然資源を入手することが可能となった。アッシリア帝国の中心地は現在のイラク北部のモスル近くにあり、このような資源には恵まれていなかった。 西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、BC2千年紀に天の星々と神々を結びつけることから始まる。天体の位置や動きなどを天意の徴(しるし)、地上の出来事の前兆と捉えた。『エヌーマ・アヌ・エンリルEnuma Anu Enlil』は、BC1000年頃、そうした前兆をまとめたものである。 メソポタミアの叙事詩文学の作品として、もっともよく知られたものの-つである。「エヌーマEnuma」の意味は、「上方に(当時、天という呼称がなかった)」、つまり素直に天空に輝く星空全体の輝きをイメージすれば良い。アヌ Anuとはメソポタミア神話における天空の神であり、創造神でもあり、最高神でもある。シュメールではアンAnと呼んだ。メソポタミア神話における天空や星の神、しかも創造神でもあり、最高神である。多神教の神々は肩書に拘るため役割が重複する。 「エンリルEnlil」は、古代メソポタミア神話に登場するニップルの守護神であった。ウルクの都市神でもあると言われている。やがてシュメールとアッカド、つまりバビロニアにおける至高神の位に就く。そこに記される、当時前兆と結びつけられていた出来事は、君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み解きも星位を描いて占うものではなく、星に宿る象徴的な意味を解き明かすものに過ぎなかった。 (BC8世紀以降、アッシリアがオリエント世界全体を包括するアッシリア帝国を構築した。その帝国の下で、ニップルは再び繁栄を取り戻した。アッシリア末期の王アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC631/627年頃)は、ニップルのエ・クル神殿をかつてない規模で再建し、およそ58m×39mの規模を持つジッグラトを建設した) 現代にも引き継がれている星位図に基ずく占星術が天文学で発達したのは、惑星の運行に関する知識が蓄積され、占星術などの記録が豊富に遺されたからである。BC1千年紀半ば以降になって興った。これにより天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能になった。 アッシリア王名表、リンム表Limmu lists(エポニム表Eponym lists)、アッシリア・バビロニア関係の年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に遺存している。 リンム表は、アッシリアにおいて1年交替の名誉職 (リンム) に就いた者の名前によって年号をつけるという仕方で年代を数える表で、各年1年間の公的な年号は「リンム誰某の年」と名によって呼ばれていた。古アッシリア時代には、王自身がリンムに就くことはなかったが、時代が下るにつれて、むしろ定式になる。まず即位後の王、その後は王宮の序列で、タルタン(将軍職)、ナギル・エカリ(王宮布告官)、ラブ・シャケ(王宮酌人長)、アバラク(王宮家令)、それから各地の総督、と続くのが定式化した。 現存するBC890~BC648年のリンム表は、他の史料と正確に一致し、そこに記されている日食の記事から数値年代を確定することができるなど、アッシリアの年代学上、きわめて貴重な資料となっている。 いわゆるアッシリア帝国と呼ばれるのは、ティグラト・ピレセル3世の時代以降である。テイグラト・ピレセル3世は、新アッシリア帝国中興の祖とされ、幾度も領土拡張の遠征をした王の一人である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録ではプルPulと呼ばれた。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれて、これが蔑称と言う感覚で記録された。 古代の一般の記録でも両方の名がこの同一人物に当てられており、「バビロニア王名表A」として知られる記録には「プウルウ」という名で出ており、「ティグラト・ピレセル1世の王碑文」には、アッカド語で「トゥクルティ・アピル・エシャラTukulti apil Esharra」(ティグラト・ピレセル)と記されている。 (中アッシリアが複数の地域や民族に対して君臨するBC13世紀になると、王の軍事業績についての記述を含む個々の王碑文が作成された。) 「プル」はこの帝王の個人名で、彼が王位を簒奪した時、中アッシリア王国時代のアッシリアの王ティグラト・ピレセル1世Tiglath PileserⅠ(在位;BC1115年頃~BC1077年頃)の王名を詐称したのではないかと言われている。ただ、ティグラト・ピレセルTiglath Pileser は、アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラTukulti apil Esharraと表記され、「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味である。その中のアピルapilを更に省略して蔑称とし、彼を恐れ憎んだ被支配者の王達がこの名で記録に遺したとも言える。 ティグラト・ピレセル1世は、中アッシリアの領土を大幅に拡大したが、晩年は各地で大規模な飢饉が発生し、それに伴うアラム人の侵入によって国内が混乱した。その最中、ティグラト・ピレセル1世は暗殺された。 (旧約聖書(歴代第一 5章26節)は、神が「アッシリアの王プルの霊、すなわちアッシリアの王ティルガト・ピルネセルの霊がかき立てられたので、彼はイスラエルの幾つかの部族の民を捕らえて流刑に処した」と記す。「バビロニア王名表A(この王名表はバビロンの統治者のみを記している。二つのバージョンが見つかっており、バビロニア王名表Aとバビロニア王名表Bと呼ばれている。)」と呼ばれる記録には「プウルウ」という名で記されている。 BC729年、バビロニアは、ティグラト・ピレセル3世の晩年に、その領土に組み込まれた。ティグラト・ピレセル3世は、自身の王碑文に「アッシリア王とバビロニア王」を兼ねると称した。アッシリア帝国によるバビロニアの支配は、恒常的な反乱が繰り返されたが、短期間の中断はあても100年以上に及んだ。BC625年にカルデア人のナボポラッサル(在位:BC625年~BC605年)がアッシリア人を駆逐し、バビロンに入城してアッシリアからの独立とバビロン王を宣言し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建国した。BC615年には、ナボポラッサルはニップルを支配下に置いた。その後、アッシュールを包囲するメディア軍を支援するため、ナボポラッサルは進軍したが、到着する前にアッシュールは陥落してしいた。 旧約聖書は、「バビロン捕囚」の境遇下で、新バビロニア時代にまで遺こる各年代のアッシリア時代やバビロニア時代の古代史料を参照して書かれている。そのため、旧約聖書の殆どが、セム語族に属する北西セム語の一つヘブライ語で書かれるが、一部はアラム語で記されている。ただ、書き言葉としてブライ語の使用は続いたが、話し言葉としては早くからアラム語に取って代られた。ヘブライ語はアラム語と、シリア・パレスティナ地方で用いられた言語群の総称カナン語(その下位言語には、ヘブライ語・フェニキア語・死海の東岸のモアブ語など)との混合言語として成立したと考えられる。キリスト教会が、福音書や使徒の書簡などを、キリストによる新しい救いの契約の書、即ち新約聖書としてまとめるようになると、2世紀末頃からユダヤ教の聖書を、イエス・キリストを預言した古い契約の書として旧約聖書と名付けた。) ティグラト・ピレセル3世の家系や王権を獲得した方法などは不明のままである。しかし、その治世はアッシリア帝国に新たな隆盛期をもたらした。征服された民族の大量強制移住を統治の要として確立させたアッシリアの最初の帝王だった。1年に154,000人もの多くの民族が、征服された帝国の領土内で強制的に移配されるような苛酷な政策の目的は、民族の集団的意思を挫き、アッシリア統治の障害となるいかなる連帯行動も許さず、排除することにあった。新アッシリアが帝国化するにつれ、被征服民族を自領に再編したため、広域な戦線を想定して堅固な防衛的体制を維持する必要があった。 この帝国を維持するためにとられた多くの方策の中で、最も有名なものの一つが、この大量捕囚政策である。強制移住自体はオリエント世界では広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものであった。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土内での反乱防止と労働力の確保を目的として度々行われた。 さらに、ティグラト・ピレセル3世は、即位後直ちにBC744年、イラン高原西部の部族を攻撃してこれを服属させ、その後アッシリアに対する同盟を結んでいたウラルトゥ王国、並びにシリアの諸王国と戦い、BC743年にウラルトゥ軍を破った。BC738年には、イスラエル王国に侵攻し、周辺諸国も威圧してユダ王国やダマスコに貢納させた。 その後方向を北に転じて再びウラルトゥを攻撃し、BC736年にウラルトゥ王国の首都ヴァンを攻撃してこれを陥落させて領土に編入した。外交を弄して敵の結束を乱すなどの戦略の確かさと、大軍を擁しながら狭い川筋を利用するなどの奇襲と果断な戦術を駆使しバビロンとウラルトゥを従え、東地中海のレヴァント海岸地帯を征服する一連の遠征事業に成功した。 後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、それがアッシリア支配の特徴と言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた施策をとったことが同時代の記録の分析から明らかになっている。こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以後に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのように宏大な帝国に継承され、その統治施策の先例となったと考えられている。 またその帝国は、本国たるアッシュールの地と周辺の征服地域とは強く区別した。領土は、中アッシリア時代(BC1365年~BC934年)より拡大していたが、神格化されたアッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。 アッシリア帝国の発祥地であり、首都アッシュールの守護神がアッシリアの国家神となった。彼の名は「慈愛深きもの」を意味し、時には豊穣肥沃の神として、脚部が豊穣を象徴する樹葉や葡萄を台輪状、または獣脚を摸した造形となっている。アッシリアがバビロニアを征服した後には、バビロニアの上位の神々であるエンリルやマルドゥクと習合された。 各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、中でもバビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任したり、バビロニアに代理王を置いたりした。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。 目次へ | ||||||||||
4)バビロン第9/第10王朝 1956年にメソポタミア北部のハラン(現在;トルコ南東部のシャンルウルファ県)で貴重な石柱が発見された。これは新バビロニア最後の王ナボニドス(在位:BC555年~BC539年)の治世9年に亡くなった王の母親アダ・グッピの記念碑であった。アダ・グッピは、新バビロニア時代(BC625年~BC539年)のかなりの期間長命を保っていた。 この記念碑の特徴は新バビロニアの各王の統治年数を記載するとともに、その合計数も記載している。しかも、その記述は、アッシリア帝国の王アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC631/627年頃)の治世20年から、新バビロニアの第4代王ネリグリッサル(ネルガル・シャレゼル、在位;BC560年~BC556年)の治世4年までは95年間となっており、さらに別の箇所ではナボニドス王の母がナボニドス王の治世9年に亡くなった時、104歳であった、と述べている。これらの記述はプトレマイオスの王名表と一致し、他の楔形文字の粘土板の記録とも一致していた。 アダ・グッピの記念碑が記す新バビロニアの各王の統治年数やその合計年数は、バビロニア年代記や他の碑文とも細部に至るまで合致している。しかも、複数の天文学的記録と合わせても1年の誤差もなく新バビロニアの年代を確定することができる。バビロニアの記録は、各時代の書記官が客観的に歴史を記録していた証をとどめていた。 BC8世紀中頃からBC7世紀初頭にかけて、新アッシリアは、北はアナトリア半島南東部からコーカサス、西と西南ではレヴァントとエジプト、東はエラムに至る地域を支配するアッシリア帝国の時代に入る。この時代のバビロンの王は、後世の記述であるが『バビロニア王名表』にまとめられており、これをバビロン第9/第10王朝と呼ぶ。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられる「海の国sealand」の王ナブー・ムキン・ゼリ(在位;BC731年頃~BC729年頃)であり、彼の治世前後からバビロニアにおいてアラム語の使用が確認されている。その次の王がプルである。この人がアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年頃~BC727年頃)である。 BC731年とBC729年にはバビロン第9王朝時代に遠征して、ナブー・ムキン・ゼリが籠るシャピアの要塞を占領してこれを捕らた。その晩年に自らバビロン第10王朝の王となって支配下に組み入れた。ティグラト・3世は、自身の王碑文にナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記し、「アッシリア王とバビロニア王」を兼ねると宣した。 (イギリスのマックス・マロワン(アガサ・クリスティの2番目の夫)率いる考古学者によるカルフ(アッシリア帝国の首都、現代ニムルド)の北西宮殿で発見された300以上のうち、20以上の手紙と断片は、ナブー・ムキン・ゼリの反乱の際のアッシリア帝国の介入と、その後のBC730年頃のアッシリア帝国によるバビロニアの併合に繋がった出来事に関連していた。 ティグラト・ピレセル3世(トゥクルティ・アピル=エシャラ)のBC731年の侵攻により、ナブー・ムキン・ゼリは南部の拠点であるシャピアの要塞に向けてバビロンから逃げ出したため、アッシリア軍は都市と 周辺を破壊しシャピアへ進撃した。 ナブー・ナシルからシャマシュ・シュマ・ウキンまでの治世の「年代記」には、最終的な結果を、「3年目、アッシリア王(ティグラト・ピレセル3世)はアッカドに下って来て、バビロニアを荒廃させ、ナブー・ムキン・ゼリを捕らえました。その後(ティグラト・ピレセル3世)はバビロンで王に即位したのです」と記す。 現在、ティグラト・ピレセル3世宛の手紙が保存されており、「ナブー・ムキン・ゼリが殺され、息子のシュムウウキンも殺されました」と報告されている。バビロンの都市は征服された。ティグラト・ピレセル3世は、バビロンの王位に即き、アッシリアとバビロニア両方のアキトゥAkituの祭り(新年の祝祭)を主催した。 バビロンにおけるアキトゥの祝祭が記録されるのは、4,000年前の古代バビロン時代(バビロン第1王朝;BC2003年頃~BC1531年頃)まで遡る。そのBC2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つがバビロンに勃興したバビロン第1王朝を建国した。古代メソポタミアのバビロニア人にとって、3月の終わりある昼と夜が同じ長さの日となる春分に続く最初の新月が、自然界の再生を告げる新年の始まりであった。アキトゥAkituは、シュメール語の「大麦」に由来する。この春の刈り入れと、各地で11日間それぞれが伝承する祝祭を楽しんだ。) ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した以降、アッシリアが滅亡するまでの間、殆どの歴代の王は、バビロニアは反乱に苦慮した。アッシリアでサルゴン2世(シャル・キン2世、在位;BC721年頃~BC 705年頃)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長メロダク・バルアダン2世(アッカド語による表記ではマルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:BC721年年頃~BC 710年)がエラム王フンバニガシュの支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから独立してバビロニア王となった。 メロダク・バルアダン2世は、カルデア人の部族ビート・ヤキンの一族「海の国sealand」の王ナブー・ムキン・ゼリ(バビロン第9王朝の最初の王)の息子で、カルデア人の王であったと伝えられる。 「海の国」とは、海の国第1王朝(BC1740年頃~BC1475年頃)、海の国第2王朝(BC1025年頃~BC1005年頃)の2度にわたって、バビロニアに王朝を樹立したメソポタミア南部にあるその地盤の総称であった。それがメソポタミア南部一帯を示すようになった。混乱が続いたバビロニアでは、その後、BC8世紀以降、新アッシリア王国の支配体制下でカルデア人が中核となっていた。当時、ティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年頃~BC727年頃)によって復興したアッシリア帝国の支配下に入り、メソポタミア南部「海の国」もアッシリアに服属し、カルデア人の部族ビート・ヤキンの一族が代々総督となり治めた。しかしながら、アッシリア帝国の統治は、恣意的な移民政策や強制徴兵など軍事力に物を言わせた苛酷なものであった。当然、被支配者の諸民族は耐えられなくなり反乱を重ねる。それを抑えるため軍事力に力を注いだ。軍事は次第に国力を激しく消耗させる。BC7世紀には、アッシリア帝国のバビロニア支配は抵抗にさらされる。やがて、過酷な試練に耐えた結果、アッシリア帝国に匹敵する新バビロニア王国が立ち上がった。 メロダク・バルアダン2世は、ティグラト・ピレセル3世の子で「アッシリア及びバビロンの王である」シャルマネセル5世の死去に乗じてエラム(フンバンタラ朝)の支援の下で反乱を起こし、BC721年にバビロン第10王朝の王となった。アッシリアの新王サルゴン2世は、当初、支持基盤が脆弱であったこともあり、アッシリアにバビロニア王としての地位を認めさせることに成功した。12年余りに及ぶ彼の反乱は、最終的に、サルゴン2世によって鎮圧された。 サルゴン2世は、軍事遠征によって 古アッシリア王国時代のサルゴン1世Sargon I(在位:BC1850年頃)の足跡を辿ることを切望した。彼の遠征の中で最も評価されたのが、アッシリアの北の隣国ウラルトゥに対するBC714年の遠征であった。サルゴン2世は、ウラルトゥの要塞線を回避し、アッシリアとウラルトゥの国境沿いの長い迂回ルートを進むことで、ウラルトゥの最も神聖な都市ムサシルを占領・略奪することに成功した。 西方での反乱を鎮圧した後、BC710年にバビロニア支配権の奪還に乗り出したサルゴン2世は、バビロニアへの遠征の初戦においても、ティグリス川に沿って南下し、北方ではなく南東からバビロニアを攻撃するという、予想外の攻撃を仕掛けた。メロダク・バルアダン2世は、不十分な態勢で迎え撃ったため、敗れてエラムへと逃れた。バビロン市はアッシリア軍によって占領され、サルゴン2世がバビロニア王に即位した。 メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護の下で機会を待ち、サルゴン2世がBC705年に、アナトリアのキズワトナの小国タバルにおいて戦死するとバビロンに進軍した。バビロンでは、その前にメロダク・バルアダン2世のかつての配下であったマルドゥク・ザキル・シュミ2世がアッシリアに対し反乱を起こしていた。メロダク・バルアダン2世は、BC703年、彼を打倒して再びバビロニア王に返り咲いた。 アッシリア帝国の新王センナケリブ(在位;BC705年頃~BC681年頃)は、サルゴン2世の息子である。再びバビロニアを支配下に置くべく軍を率いた。メロダク・バルアダン2世もこれを迎え撃つべく出撃した。両者は最後にキシュ平野で激突し、バビロニア軍は敗走して決着した。メロダク・バルアダン2世は戦いの最中、軍隊を置き去りにして逃走し、センナケリブは彼を追撃したが湿地帯に逃げ込んで、アッシリア軍の追撃をかわし再びエラムに身を寄せた。 しかし、最早再起の機会は訪れずメロダク・バルアダン2世はそのままエラムで没した。センナケリブはバビロニアを再征服した後、メロダク・バルアダン2世の血族の一人ベール・イブニを傀儡王としてバビロニア王に即位させたが、彼もまたアッシリアに背くこととなる。 センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子アッシュール・ナディン・シュミを据えた。しかし、アッシュール・ナディン・シュミはエラムによる襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となった。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、BC689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した。 センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者エサルハドン(アッシュール・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された。父センナケリブの死後(BC680年)、彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱と相対することはなかった。 メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として繁栄の時代を迎えた。バビロニアのロスチャイルドとも呼ばれる古代の大商人エギビ家の活動も、この時代のバビロニアを発祥とする。 バビロンのエギビ家は銀行業を行い、新バビロニア王国の2代目ネブカドネザル2世の時代(在位;BC605年~BC562年)に、最も著名な「プライベート起業家」になり、数百の商取引の記録が一族の名前で発行された粘土板で遺されている。近年これらの記録は考古学者によって発掘され、現在は1700以上の粘土板が存在している。エギビ家が、バビロンや近くの都市に多くの家を所有していたことも知られた。 (ネブカドネザル2世は、新バビロニアの建国者にして新アッシリア帝国滅亡させたナボポラッサルの長男である。エルサレムをBC597年に占領し、ユダ王国を属国とした。エホヤキン王達を首都バビロンに連行した(第一回バビロン捕囚)。 BC595年、ネブカドネザルはエラムを攻撃し、かつ全オリエントを征服して覇を唱えた。アッシリア帝国から、エジプトを除いたのとほぼ同じ領域を支配下に置いた。) エサルハドンはその死に際し、自分の帝国を息子の弟の方アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC631/627年頃)に継がせ、バビロニア王位を兄の方シャマシュ・シュム・ウキン(在位:BC667年頃~BC648年頃)継がせ、二人の兄弟王子に分割して継承させた。エサルハドンが作らせた条約文書は、アッシュールバニパルを上位者とするものであったが、両者の関係について若干の曖昧さを残すものであった。その後実際にこの定めの通りに王位が継承され、少なくともBC651年までは平穏が保たれた。 アッシュールバニパルはバビロンに建てた石碑に、この兄弟の名前を刻む配慮を示したが、その一方、同時代の碑文よれば、シャマシュ・シュム・ウキンが自らの臣下に与える如何なる命令も、実施前にまずアッシュールバニパルの承認が必要とされていた。また、シャマシュ・シュム・ウキンの支配地奥深くにある都市ボルシッパに常駐の部隊と官吏を置いた。しかも、バビロンの役人によるアッシュールバニパルへ直接提出された請願書までも現存している。 ボルシッパは、バビロンの南西20kmのユーフラテス川の左岸にあり、市の北から西にかけては湖があった。湖の湾が角のように小さく切れ込んでいることから、アッカド語で「海の角」と名付けられた。アッカド語は、アッシリア・バビロニア語Assyro-Babylonianとも呼ばれ、当時は国際共通語でもあった。バビロンとボルシッパの間は運河で結ばれていた。また亜麻布linenの産地であった。 シャマシュ・シュム・ウキンは、次第に名目的な「バビロニア王」に追いやられ、アッシュールバニパルの治世の評価が高まるにつれ、自分に対するアッシュールバニパルの高圧的な干渉に怒りを募らせ、BC652年、ついにエラムなどアッシリアに敵意抱く周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした。このときシャマシュ・シュム・ウキンを支援したのがメロダク・バルアダン2世の孫で「海の国」の首領ナブー・ベール・シュマティであった。 BC650年までに、バビロン市を含めてシャマシュ・シュム・ウキンの支配下にあった都市の大半が包囲された。包囲されたバビロンは飢えと疫病によく耐えたが、結局、BC648年に陥落した。アッシュールバニパルの軍兵による略奪、追い込まれたシャマシュ・シュム・ウキンは、宮殿に自ら火を放ち自死した。 ナブー・ベール・シュマティはエラムの支援を受けてその後も抵抗を続けた。しかしエラムがアッシュールバニパル王に大敗すると、アッシリアに引き渡すと伝えられ自決した。 その後は、バビロニア王の称号を与えられたカンダラヌ(在位:BC647年頃~BC627年頃)と言う官僚が赴任してバビロニアを統治した。アッシリアの征服以来繰り返されてきたバビロニアの反乱を抑止するために、名目的な王に委ねるよりもアッシリアが誇る優秀な官僚の管理下に置いた。カンダラヌの管理領域は、シャマシュ・シュム・ウキンと同様であったが、ニップル市の支配だけは除外された。 アッシュールバニパルは、メソポタミアのほぼ中心にあるニップルを巨大な要塞とするため、ニップルのエ・クル神殿をかつてない規模で再建し、およそ58m×39mの規模を持つジッグラトを建設した。 ジッグラトとは、日乾煉瓦で数階層に組み上げて建てられた巨大な聖塔で、「高い所」を意味する。神殿又は神殿群に付属するが、ジッグラトの頂上にも神殿を備え、神が降臨する人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造された。 カンダラヌの治世の史料は少なく、後世のバビロニア王が作成した年代記碑文には、時に記載され、時に忘れ去られている。しかし、カンダラヌの治世は、21年に及ぶ。病死であった。その間、史上に特段、記録される危機は生じていない。極めて実務に長じた優秀な官僚であったと言える。 目次へ | ||||||||||
5)アッシリア帝国の滅亡 一、ッシュールバニパル王 (在位:BC668年~BC631/627年頃、首都ニネヴェ) BC667年、アッシリアのアッシュールバニパル王が、末期王朝時代(第25王朝)のエジプトに侵入し、エジプトを属国化した。オリエントの主要部分を統一した最初の世界帝国が出現した。首都ニネヴェに大図書館を建設したことでも知られるアッシュールバニパル王の時代に、その版図は最大となった。 (新王国時代(BC1570年頃~BC1070年頃)の衰退に伴ってエジプトが、ヌビアから撤退した後、ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設した。エジプト人は、現在の南エジプトと北スーダンに当たるヌビア南部(上ヌビア)をクシュと呼んだ。 古代エジプト第 25王朝4代目の王タハルカ (在位前 689~664)の王朝を、ナパタ王朝、エチオピア王朝あるいはクシュ王朝とも呼んだ。王は、ナイル川中流第4急湍のすぐ北のナパタの出身である。 初めナイルデルタ地帯のタニスに都をおいたが、アッシリア帝国の王エサルハッドンと、後にその子のアッシュールバニパルに率いられた強国アッシリアの軍勢に侵入され、BC667年、メンフィスは陥落し、下エジプトを失ってからは上エジプトのテーベを根拠地とした。下エジプトは、アッシリア帝国の属国になった。 アッシリア軍の追撃が迫り、タハルカ王は、やがてナパタに逃れ、晩年は第 25王朝最後の次王タヌタモンと共同統治した。) 真にアッシリアの最盛期はサルゴン朝の時代に到来する。アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC631/627年頃)までの4代は時にサルゴン朝と呼ばれ、90余年にわたって世界帝国が維持された。 サルゴン2世(在位;BC721年頃~BC705年頃)は、アッシリア帝国最盛期の王であり、サルゴン朝の創始者である。アッシリアがメソポタミアに拠点を置く王国から真に多国・多民族的帝国へと変貌を遂げたのは、主としてサルゴ2世とその後継者たちの不断の遠征に負う、とは言え、この帝国の建設と発展は、ティグラト・ピレセル3世の治世における広範な民生と軍制改革による成果が大いに貢献している。彼は直ちに改革に着手している。成し遂げた軍制改革には、各州への課税に代えて属州や属国から徴兵し職業軍人として訓練し常備軍したことであり、アッシリア軍はこの時点で最も整備された強力な軍隊となった。 独立に傾きがちな広大な州を分割し、各州に王直属の行政監督官を配置して、官吏の行状・課税・軍備・兵站などを監督指導させ、加えて全国に諜報機関をめぐらした。こうしてBC738年までに 80の州が成立、王命を絶対とする強力な中央集権体制を確立した。 二、シャルマネセル5世 (在位:B.C.727年~B.C.722年) シャルマネセル5世は、父であるティグラト・ピラセル3世の在世中、フェニキア地方(現在のレバノンあたり)の属国(a dependent domain)ジミッラ zimirraの総督だった。ティグラト・ピラセル3世が死没したB.C.727年に、アッシリア王位を継承した。その治世は、B.C.722年までの足掛け6年間に過ぎない。王碑文や王名表など史料が遺らないため、殆ど何もわかっていない。ただ、「ウルライア」という名で5年間バビロンを治めた王として挙げられているのは、このシャルマネセル5世のようである。王位継承に伴い、それまで用いていた「ウルライア」という名前を、アッカド語の名前に改名している。アッカド語ではシャルマヌ・アシャレド Shulmanu asharidと表記される。名前の意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。 「旧約聖書」 では 「イスラエルのホシェア王の治世中(在位;BC731年頃~BC722年頃)に、シャルマネセル5世はパレスチナに進撃し、ホシェアはその従属者となって年ごとの貢ぎを課せられました。しかし、ホシェアは後に貢ぎを払わなくなり、エジプトの王ソと陰謀を巡らしていることが発覚しました。そのため、シャルマネセルはホシェアを留置してから、サマリアを3年間包囲しました。その後、防備の固められたこの都市はついに陥落し、イスラエル人は流刑に処されました。」 (ホシェアは、ホセアとも表記される。北イスラエル王国の第19代、最後の王である。聖書の記録はサマリアを最後に攻め取ったアッシリアの王の名前は明記していない。BC722年のサマリアの陥落をもって、253年にわたるイスラエルの10部族王国の支配は終った。) ただ、シャルマネセル5世は、父ティグラト・ピレセル3世の帝国主義的政策を継続しようとしたが、父王の治世にはジミッラzimirra州の長官を務めていた彼の軍事能力は迅速さと老練さにおいて、父に及ばなかった。特に、長期間にわたる彼のサマリア(北イスラエルの首都)の包囲は3年間におよび、彼が死亡した時点でもまだ続いていた。サルゴン2世は王位に就いた後、すぐにこの地の税と労役を廃止し、後に碑文において前王によるこの税と労役を批判した。シャルマネセル5世の遠征の失敗を手早く解決することを目論んだ。 シャルマネセル5世は、遠征から帰路途上死没した、あるいは、占領地のいずこかで死没したか。それに関する史料は未発見のままである。 三、北イスラエル王国滅亡 北イスラエル王国の第13代の王ヤロブアム2世(在位;BC782年頃~BC753年頃)の治世は、経済的には繁栄の絶頂期であった。アラムとの戦いに勝って領土を回復し、アラムの首都ダマスコとその北ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、ソロモン時代の領土に匹敵する。 ヤロブアム2世の死後、子のゼカリヤが即位した。しかし、わずか6ヶ月でシャルムに暗殺された。シャルムは、BC752年頃の北イスラエル王国第15代の王となる。1か月という短期間の王座であった。自身も暗殺された。 末期には王が相次いで家臣に殺害され、殺害した家臣が王位に就くという下克上的な政情不安が相次ぎ、その一方、アッシリアの侵攻は激しさを増してくる。サマリアはアッシリア王シャルマネセル5世の包囲に耐えていたが、シャルマネセル5世の死後王位に就いたサルゴン2世の猛攻によってBC722年に陥落し、19代の王の下に253年にわたって存続した北イスラエル王国は終焉を迎えた。サマリアは速やかに征服され、サルゴン2世自身の碑文によれば、27,290人のユダヤ人が北イスラエルから、アッシリア帝国全域に再移住させられた。 この強制移住により、10支族の指導者層は連れ去られ、あるいは中東全域に離散した。歴史から消え去った彼らはイスラエルの失われた10支族とも呼ばれた。 10支族の全員が連れ去られたわけではなかった。北イスラエル王国滅亡後、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が移住した。サマリアには10支族の民のうち移住されなかった人々が未だ多く残っていた。彼らは指導者層の喪失や、サマリアに来た異民族との通婚によって10支族としてのアイデンティティを喪失した。 (サルゴン1世は、メソポタミアのセム語系のアッカド王朝(BC2334年頃~BC2154年頃を)成立させ初代王である。アッカドは、メソポタミア南部のユーフラテス下流でバビロニアといわれた地方の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。アッカド人はセム語系に属する民族で、BC2334年頃、メソポタミア南部のシュメール人の都市国家を制圧して、統一国家を築き、「シュメールおよびアッカドの王」となった。やがて、サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域を統一し、中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。その碑文には「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)まで」を支配したとある。「四海の王」と言われる場合もある。サルゴンは「旧約聖書」に記されるヘブライ語にもとづく英語表記で、アッカド語ではシャル・キンSharru kinと表記される。) 四、サルゴン2世 (在位;BC721年頃~BC705年頃) BC722年のシャルマネセル5世の死亡からBC705年の自身の死まで統治したサルゴン2世は、自身がティグラト・ピレセル3世(在位:BC744年~BC727年)の息子であると主張しているが、疑わしい。恐らくは、シャルマネセル5世から王位を簒奪したようだ。ティグラト・ピレセル3世の後を継いだその息子シャルマネセル5世の死からサルゴンの即位に至るまでの経緯は、殆ど不明のままである。 大英博物館収蔵のティグラト・ピレセル3世が、打ち倒した敵の肩に右足を乗せて立っている姿を描いたレリーフはカルフ(ニネヴェ)で発見された。ティグラト・ピレセル3世は、首都をカルフに戻し、その宮殿を種々の自身の碑文やレリーフで飾ったが、その殆どは戦場や狩猟図で、わずかなに祭儀絵が見られる。自身の王碑文であっても前任者や自分の系譜を語ることはなかった。サルゴン2世の多数の碑文も彼の出自に殆ど言及していない。アッシリアの王たちの確立された系譜の中で、サルゴン2世がどのような位置にあるかと言う説明の欠如は、彼の父とされるティグラト・ピレセル3世や、その息子で後継者のセンナケリブの碑文にも共通している。 サルゴン2世が、遠征中のシャルマネセル5世を廃位し、殺害したと推測されている。サルゴン2世は恐らくBC762年頃に生まれ、アッシリアの内乱の時代に成長したのであろう。 サルゴン2世は、アッシリアの滅亡に至るまで1世紀近く新アッシリア帝国を統治することとなるサルゴン王朝の創始者と見られており、新アッシリア時代の最重要な王の1人である。しかしながら、サルゴン2世が王となった時、恐らく40代であった。カルフにあるアッシュールナツィルパル2世の宮殿に住んだ。治政17年目のBC706年、コルサバード(古名ドゥル・シャッルキンDur Sharrukin)へ遷都し、翌年BC705年に戦死した。 彼は新都を、モスルMosulの北約 20km、チグリス川上流の東岸コルサバードに造営し、多くの神殿や宮殿を建造した。シリア・パレスチナなどを征服し、バビロニアを併合した。北方の雄国ウラルトゥを破って後顧の憂いをなくし、地中海沿岸に出兵して、北イスラエル王国の首都サマリアを攻囲して属州にし、住民をアッシリアに強制移住させ、新都コルサバードの建設に当たらせた(アッシリア捕囚)。サルゴン2世自身の碑文によれば、27,290人のユダヤ人が、イスラエルから強制移住させられた。北イスラエル王国は、略奪され破壊し尽くされ滅亡した。これが有名な「イスラエルの10支族の喪失」である。南進してパレスチナ南西端ガザを討ち、反乱を支援したエジプト軍を国境で大敗させ、また北シリアの要衝カルケミシュを属州とした。 フランスの考古学者E.ボッタが、領事としてイラクのモスルに在住中、1842年、コルサバードでサルゴン2世の壮麗な宮殿跡を発見した。フランス政府の助成金を受け、E.ボッタらが調査し、大宮殿を発掘した。その門を飾っていた有翼獣身人面像浮彫などをルーブル美術館に持ち帰った。1847年5月1日ルーブル博物館で、初めてアッシリア美術が展示された。 大宮殿は、1辺約 1.7kmの城壁で囲まれた不整な方形の北東辺であるが、約 600m× 300mの区画に内城が設けられ、その域内にサルゴン2世王宮・ナブ神殿・ジッグラトその他大小6つ以上の建築が集合していた。 サルゴン2世は西方での反乱を鎮圧した後、BC710年にバビロニア支配権の奪還に乗り出た。メロダク・バルアダン2世はこれを迎え撃ったが、敗れてエラムへと逃れた。バビロン市はアッシリア軍によって占領され、サルゴン2世がバビロニア王に即位した。 メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護を受けて逼塞していた。 サルゴン2世がBC705に、死去するとバビロンに進軍した。バビロンではそれとは別にマルドゥク・ザキル・シュミ2世(彼はメロダク・バルアダン2世のかつての配下であった)がアッシリアに対し反乱を起こしていたが、彼を打倒して再びバビロニア王に返り咲いた(BC703年)。アッシリアの新王センナケリブは再びバビロニアを支配下に置くべく軍を差し向け、メロダク・バルアダン2世もこれを迎え撃つべく出撃した。両者はキシュ平野で激突したが、バビロニア軍は敗走した。 BC705年、サルゴン2世は、反乱を起こしたアナトリア高原南東部のヒッタイト系の要素とアラム系の要素とが入り混じったタバルの新ヒッタイト諸王国を、再びアッシリアの属州に戻すべく戻った。成功裡に終わったバビロニアへの遠征の時のように、サルゴン2世は息子のセンナケリブをアッシリアの中核地帯を担当させるために残し、自らは軍を率いてメソポタミアを経由してアナトリアに入った。サルゴン2世は、小国のタバル諸国を侮っていたようだ。タバル諸国はこの頃、キンメリア人との同盟によって軍事的に強化されていた。 キンメリア人は後にアッシリアにとって頭痛の種となる。サルゴン2世は自ら敵を攻撃したが、戦闘の中で命を落とし、アッシリア軍は大きな衝撃を受けた。サルゴン2世の遺体は敵の手に落ち、アッシリア兵はこれを回収することができなかった。アッシリア人たちはこれを災厄の前兆と見なし、後継者センナケリブは王位に就くとただちにコルサバード(ドゥル・シャルキン)を放棄し、首都をニネヴェ市に遷した コルサバードは、ニネヴェの北にあるアッシリアの都市遺跡(古名ドゥル・シャッルキンDur Sharrukin)として遺り、サルゴン2世の宮殿遺構や浮彫、彩釉煉瓦などが首都遺跡から出土している。1843年以来フランス隊などによって発掘された。7門をもつ城壁で四角に囲み、南隅近くには皇太子の宮殿が配置されていた。この時代の国王は絶対で常に中心にあり、神殿は王宮に付属した形をとって建造されている。またジッグラトを中心にし、王宮は有翼の人面獣身像によって守護されていた。 五、センナケリブ王 (在位;BC705年頃~BC681年頃) アッシュールは古くからアッシリアにおける最高神であった。アッシュール神がアッシリアの首都である古代都市アッシュールと同名であることは、神としてのアッシュールは都市アッシュール、あるいはそれが存在した大地自体が擬人化され神格化されて発祥した神だからである。このような本源的に存在した神アッシュールには、古代メソポタミアの他の神々と異なる特徴を備えている。通例、メソポタミアの神々は人間のように配偶者を持ち、子供も持っていたが、初期の段階においてアッシュール神は家族を持たない、神であれば、擬人化して汚してはいけない、擬人化は象徴として崇める手段に過ぎない。 アッシリアが拡大し強力な帝国となっていく間、アッシリア人は隣接する様々な王国を征服し、通常はアッシリアの属州とするか属国とした。その一方、アッシリア人はバビロンの長い歴史と文化を尊び、バビロンは特別に任命された属王による支配、またはアッシリア王による同君連合の形をとる王国として尊重もしていた。 アッシリア学者エッカート・フラームEckart Frahmは「アッシリアはバビロンを愛していたが、彼女を支配したがっていた」と述べている。バビロンは文明の源として尊敬されていたが、政治的には受動的であることを期待されていた。しかし、アッシリアの「花嫁と期待されたバビロニア」にとって、実に迷惑で、繰り返し拒否した。バビロニアにとって、花婿と言うより執拗極まりない侵略者だった。 アッシュール崇拝におけるもう1つの重大な特徴は、アッシリア国家の真の王はアッシュール神であり、人間の王はアッシュール神に任命された「副王」であるというという独特の王権思想である。アッシリア帝国ともよ呼ばれる新アッシリア時代の王アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC631/627年頃)の即位式の式次第の文書からも、はっきりと読み取ることができる。式次第ではアッシリア王が戴冠のために王宮からアッシュール神殿へと練り歩く際、「アッシュールは王です!アッシュールは王です!」という言葉が繰り返されている。 南方のバビロニアもかつては有力な王国であったが、この時代、内部の対立とアッシリアのような良く組織された軍隊や軍制が敷かれず、概してアッシリアより弱体であった。しかも、バビロニアの住民は、文化や思考の異なる多数の民族に分かれていた。バビロン市自体やキシュ、ウル、ウルク、ボルシッパ、ニップルのような都市は古来からの現地のバビロニア人によって統治されていたが、南端部の大部分は首長たちに率いられたカルデア人の部族の支配下にあり、彼らはしばしば相互に争ってい。ラクダを使いシリア砂漠で隊商貿易を行なうアラム人も、定住地帯の周辺部に住んでおり、周囲の領土を略奪することで悪名高かった。 これらの主要な3つのグループの内乱や相克のために、バビロニアはアッシリアにとってしばしば魅力的な遠征先となった。アッシリアとバビロニアは、BC14世紀の中アッシリア時代.の勃興からBC8世紀の新アッシリ時代まで争っており、アッシリア人は一貫して優位を保てていた。バビロンの内的・外的弱体化に乗じて、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世はBC729年にバビロンを征服した。 BC722年のシャルマネセル5世(サルゴン2世の前の王)の死後、バビロニアの支配権を握っていたカルデア人の首長メロダク・バルアダン2世を破ったサルゴン2世は、BC722年以来バビロニアを統治していた。センナケリブは、父サルゴン2世同様に王となった時、「アッシリア王とバビロニア王」の称号を用いた。 BC2000年紀後半、ハンムラビ王 の下、最盛期をむかえる古バビロニア時代(バビロン第一王朝)には、首都バビロンの都市神はマルドゥクMardukとされた。やがて、バビロンの繁栄とともにメソポタミアの最高神として祭られるようになった。特に『新年祭』には、王がマルドゥク神を演じて様々儀礼が執り行われた。新バビロニア時代 においても、マルドゥク神は国家神として儀礼の中心にあった。 当時のバビロンでは、都市神マルドゥクは、バビロニアの国家神でもあり、バビロンの正式な「王」と見なしていた。「アッシリア王とバビロニア王」を名乗る時、サルゴン2世やそれ以前の王は、伝統的なバビロンの戴冠式を経て、マルドゥクの神像の「手を取る」ことで、マルドゥク神に敬意を払わなければならなかった。センナケリブは、この敬意を表すことをしなかった。バビロンの王は、神マルドゥクではなく、アッシリアの王自身がであると明確に宣言した。この不敬によりバビロニアの人々を憤慨させ、BC704年とBC703年の両年には毎月のように反乱が勃発し、バビロニアにおけるセンナケリブの支配を度々覆させていった。 BC700年頃、サルゴン2世の子センナケリブ王(在位;BC705年頃~BC681年頃)治下で、新アッシリア帝国は最盛期を迎え、その首都ニネヴェ市域は拡張され700haに及んだ。自ら「無比の宮殿」と呼んだ巨大な南西宮殿Southwest Palaceを壮麗に建造し、巨大な市壁や多数の神殿と巨大な王宮庭園を建設した。水源を確保し、ニネヴェの街中に運河や水道を通し、王宮の庭にも水道水が供給されていた。大水道や運河の敷設ばかりではなく、多方面にわたり技術革新を行った。それ以後諸王の居住地となった。 広大な帝国内で、速やかで安全な文書(手紙)の伝達は、それを担保する道路の整備とあわせて、優秀な官僚機構を存分に機能させるためにも絶対条件である。アッシリア帝国の王は、帝国のネットワークのために、特別な道を作った。配達の方法は、運び手は道中の支局で新しい運び手と交代し、控えていた新しい馬で次の支局まで運ぶリレー方式だ。この道を使えば、国内の端から端まで、わずか数日で文書を届けられた。郵便制度は既に確立されており、手紙(粘土板)は粘土の封筒(袋状のもの)に入れられ、捺印されて配達された。この「印」が押されたものは王の手紙であることを示し、そこに書かれていることは、誰もが絶対に従わなければならなかった。 大英博物には、手紙(粘土板)、粘土の封筒(袋状のもの)、捺印された「王印」などが大切に所蔵されている。 センナケリブ王は、即位後、南のエラム人およびアラム系諸部族と同盟した宿敵バビロニアを敗走させ、ついでBC701年、エジプトを撃つためにシリアとパレスチナに軍を進めた。 またニネヴェのチグリス川沿いに、フェニキアの造船技師たちにより大艦隊の艦船を建造した。現在のレバノンの地中海岸に栄えたフェニキア人の都市テュロス(ティルス Tyrus)とやや北に位置するシドン(現在ではスール)、フェニキア人の植民都市キュプロス島キティオンの船員が乗り込んだこの艦隊の船は、その後アッシリア軍の大部分をオピスの町まで輸送した。 BC9~8世紀はフェニキア人の地中海に於ける海上交易が最も盛んとなり、チュニス湖東岸のカルタゴなど地中海の各地に植民市を建設した。BC8世紀後半になるとアッシリア帝国が地中海東岸にまで及び、フェニキアの諸都市もその支配下に入った。 オピスは、古代バビロニアの都市で、古代のバビロンから北東へ直線で約75.2kmの場所の、チグリス川の東岸、ディヤラ川付近にあったとされている。BC14世紀には、バビロニアの地方行政区の首都となった。 バビロニア人たちはユーフラテス川とチグリス川の間に「王の運河」を掘ったが、それはオピスの近くで終点を迎える。新バビロニアの王ネブカドネザル2世(在位;BC605年~BC562年)はメディアの侵攻を想定し、その防御のために、2つの川の間に長い城壁を建設した。その防衛戦はチグリス川を越えて東に延び、オピスの近くまで続いた。 メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護の下で機会を待ち、サルゴン2世がBC705年に、アナトリアのキズワトナの小国タバルにおいて戦死するとバビロンに進軍した。バビロンでは、その前にメロダク・バルアダン2世のかつての配下であったマルドゥク・ザキル・シュミ2世がアッシリアに対し反乱を起こしていた。メロダク・バルアダン2世は、BC703年、彼を打倒して再びバビロニア王に返り咲いていた。 メロダク・バルアダン2世の優れた能力は、常に内訌状態にあったカルデア人の部族とバビロニア人をアッシリア人に対して団結させたことであった。エラムの王シュトゥル・ナフンテ2世の方も、メロダク・バルアダン2世を支援し将軍に任じて、騎兵他、80,000人のエラムの弓兵を預けている。このエラムの大規模な支援によって、その他のカルデア人とアラム人の部族もメロダク・バルアダン2世の下に競って参集した。 センナケリブは、BC704年にはアッシリア軍の一部が、アナトリア高原南東部のタバルの諸王国(ビート・ブルタシュ・アトゥナ・シヌフトゥ・トゥワナ・フピシュナなどの小王国)にあって不在であったことと、二方面で戦争を行うことは危険であると判断し、メロダク・バルアダン2世との接触を回避し数か月間軍事行動を起こさなかった。タバル遠征が完了した後、センナケリブはBC703年にアッシリア軍をアッシュール市(この都市はしばしばバビロニア遠征のための軍の召集地とした)に集めた。 アッシリア軍の先陣が、キシュ市近郊で、バビロニアとエラムの連合軍へ攻撃したが失敗した。バビロニアとエラムは緒戦の勝利で勢いづく。クタ市に陣を構えたセンナケリブは、先陣の敗北の報せを受け取ると、二度目の攻撃を自ら指揮してキシュ市近郊の敵軍を撃破した。 この時点での反アッシリア軍は、エラム軍が指揮していた。メロダク・バルアダン2世は、メソポタミア南部の「海の国」に逃亡した。アッシリア軍が勝利した後に捕らわれた捕虜の中には、メロダク・バルアダン2世の義理の息子とバビロニアと同盟を結んでいたアラビアの女王ヤティエの兄弟がいた。 センナケリブは、バビロンへ進軍した。アッシリア軍が地平線上に現れると、バビロン市は門を開け、戦うことなくセンナケリブに降伏した。その後アッシリア軍は5日間にわたってメロダク・バルアダン2世を「海の国」まで追ったが捕らえることができないまま、反乱政権を支持していたカルデア人・アラム人・バビロニア人の土地を破壊し、200,000人の捕虜を得た、と言う。市民は害されなかったが、バビロン市自体は小規模な略奪を受けた。アッシリアとバビロニア双方で王を立てるたことによる失政であった。センナケリブは、アッシリアの宮廷で育ったバビロニア人ベール・イブニを属王としてバビロニアに立てた。センナケリブの碑文は、ベール・イブニは「我が宮廷で仔犬の如く育ったバビロニアの人」と記している。 大英博物館が蔵するセンナケリブの角柱には、バビロン破壊で最高潮に達するセンナケリブの軍事遠征の記録が記される。センナケリブ王は自身の宮殿を「無比の宮殿」と呼んだ。このびっしりと楔形文字が書かれた石柱は、宮殿建設など王が成し遂げた偉大な事業を誇る文書であった。こうした文書は重要な建築物の土台に埋められていた。 このセンナケリブの時代、バビロニアとエジプトがアッシリアに対して反乱の気運を盛り上げると、ユダ王国第13代の王ヒゼキヤ(BC716年頃~BC687年)もそれに同調し反乱側に属した。しかし、バビロン軍やエジプト軍が鎮圧され、BC701年にはユダ王国の主な46の都市までも占領され、多くの民がアッシリアに連行された。 センナケリブのレヴァントへの遠征は、概ねアッシリアの勝利であった。エルサレムの封鎖は、完遂されなかったにしても、アッシリアがユダの重要な都市の殆どを占領し、古代の常套で略奪し破壊した。ヒゼキヤ王は、アッシリアに再び服属せざるを得なくなった。既に、北イスラエル王国は、センナケリブの父サルゴン2世の猛攻によってBC722年に滅亡していた。 10支族の指導者層や多くの民が連れ去られ、アッシリアの領土、中東全域に離散させられた。彼らはイスラエルの「失われた10支族」とも呼ばれるが、10支族の全員が連れ去られたわけではなかったが、その後の多民族の移民と混血で民族としてのアイデンティティはほぼ消滅した。 古代の勝者は苛酷で無情であった。ヒゼキヤは、BC705年からBC701年にかけてニネヴェに送らなかった貢納全部を合わせて送付するよう命じられたばかりか.、以前よりも重い貢納を課せられた.。ヒゼキヤはまた、幽閉していたエクロン(旧約聖書に登場するペリシテ人の5つの町の内の一つ、エルサレムより約42km西)の王パディの解放を強要されるなど、このセンナケリブの遠征は、ユダ王国には取り返しのない負担となったばかりか、かなりの範囲の領土を失わせた。 古代エジプト第3中間期22王朝の初代ファラオ、シェションク1世(在位:BC943年頃~BC921年頃)は、BC945年頃、パレスティナ諸都市に軍事遠征し、エルサレムを寇略 している。そのシェションク1世のユダ侵攻の事実は、エジプト側が遺したメギドから出土した石碑の断片に、王のカルトゥーシュと共に、イスラエルの要塞の幾つかが征服地として記されており、一連の遠征を成功裏に終わらせた王が、同地に建立した記念碑から確認されている。メギドの古代都市遺跡は、カルメル山の東南約20km、エズレル Jezreel Valleyの谷の北西にあたる。 それから約2世紀半後、センナケリブの年代記およびニネヴェのセンナケリブの宮殿に作られた巨大なレリーフの描画では、アッシリアのレヴァントへの遠征は、エルサレムではなく、成功裡に終わったラキシュの包囲として描かれている。エルサレムは包囲によって封鎖されておらず、アッシリアの大軍はエルサレムの郊外、恐らくは北側に野営していたようだ。ラキシュは、エルサレムの南西45kmにあり、旧約聖書には「ソロモンの死後、イスラエル王国は分裂して、南パレスチナにはレハブアムを初代国王とするユダ王国が成立した。レハブアムはラキシュを含む都市の防備を固めた。」とある。 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、アッシリアの敗北について「無数の野ネズミがアッシリア軍の宿営に現れ、矢筒や弦などを食い荒らしたため、アッシリア軍は武器が使えず、逃亡を余儀なくされたのが原因である。」としている。 アッシリア軍は、外征地で野営する緊張の最中に、大量発生した野ネズミに武器を食い荒らされるのを黙認するほど野放図でない。アッシリアの屯集地で大量発生した野ネズミに寄生するノミの咬傷よるペストの感染死が想定される。肺への感染が起こると、発熱・咳・痰などの肺炎の症状により、人同士の感染力が高まり、その症状を放置すれば100%死亡する。それでも、この戦いがアッシリアの完全な敗北に終わったとは考え難い。なぜなら、アッシリアの失敗に言及することに熱心であった同時代を記す「バビロニアの年代記」がこの出来事について触れていない。 南ユダ王国初代王レハブアムの時代に、エジプト王シェションク1世の軍の攻撃により、エルサレムを含むユダ王国の都市や要塞が攻略された。それから約2世紀半後、センナケリブの年代記によれば、エクロンの王パディなどは、新アッシリア帝国に忠義を尽すようになる。センナケリブはユダ王国から奪った領土の一部を、新アッシリア帝国に従属した、旧約聖書にも登場するペリシテ人のアシュドド・アシュケロン・エクロン・ガザ・ガトの5つの五市連合に戻している。 大英博物館には、ニネヴェ(現、イラクのニーナワ県)のセンナケリブが建造した「無比の宮殿」南西宮殿の壁から剥がれたレリーフが所蔵されている。 【長い包囲の後、ラキシュLachishの都市は降伏し、アッシリア軍は都市に入った。センナケリブ王は側近に囲まれて玉座に座り、高官から会釈される。王はユダの囚人を受け取った。楔形文字cuneiform の碑文は、「センナケリブは、世界の王、アッシリアの王、玉座に座って、ラキシュの戦利品が彼の面前で渡された。」と読める。】 【アッシリアの攻城兵器siege-engine(攻城塔 or 車の上に折りたたみ式の梯子を搭載)が、ラキシュの都市の外壁に架けられた。それを駆け上り襲い掛かるアッシリア軍の波状攻撃 military wave は圧倒的であった。この石膏壁の細部描画のレリーフは、セナケリブ王の治世、BC701~BC692に遡る。現代のイラク、メソポタミアの遺跡、ニネヴェの南西宮殿から収容された。】 【アッシリアの兵士は、短剣を使い、ラキシュの囚人を斬首している。いわゆる「ラキシュの包囲のレリーフThe Siege of Lachish Reliefs」における重要な一場面である。(Siege;包囲)】 【アッシリアの投石器を使う人slingersは、アラムの街で投石具を使い敵に石を投げつけている。都市の名前の最後の部分、ーアラムalammuだけが辛うじて遺っていた。恐らく現代のトルコとイラクの国境辺りにあったと思われる。】 センナケリブのバビロニアにおける苦難の多くは、カルデア人の部族長メロダク・バルアダン2世に起因していた。メロダク・バルアダン2世は、BC710年にセンナケリブの父サルゴン2世によって破られるまで、BC722年頃からバビロンの王であった人物である。BC705年にセンナケリブが王位を継承した直後、メロダク・バルアダン2世はバビロンを奪回し、エラムと同盟を結んだ。センナケリブはBC700年にバビロニアを回復したが、メロダク・バルアダン2世は、レヴァントにあるアッシリアの属国の反乱を扇動し、さらにバビロニアの属王としてセンナケリブが任命したベール・イブニ(メロダク・バルアダン2世の血族)にも、同調を迫るなどなど、反アッシリア帝国の諸勢力を糾合した。 センナケリブはBC700年にバビロニアへ遠征を行い、メロダク・バルアダン2世との共謀を疑い、また国王としての気概のないベール・イブニを王位から排除した。その後再び、バビロニアを支配下に置くべく軍勢を発した。メロダク・バルアダン2世もこれを迎え撃つべく出撃した。最期は、両軍はキシュ平野で激突したが、バビロニア軍は敗走した。メロダク・バルアダン2世は、戦いの最中、戦車や馬や武器などを置き去りにして逃走し、センナケリブは彼を追撃したが湿地帯に逃げ込んだ。その後のセンナケリブによるメロダク・バルアダン2世追跡は苛烈を極め、メロダク・バルアダン2世は自らに従う人々と財宝を載せて小舟を連ねペルシア湾を渡り、エラムの都市ナギトゥに逃れた。 勝利の後、センナケリブはバビロニアを統治する新たな手段として、息子のアッシュール・ナディン・シュミをバビロニアの統治に当たらせるべく属王に任命した。 アッシュール・ナディン・シュミは、「マル・レシュトゥ」という称号を帯びていた。この称号は「卓越した息子」あるいは「長男」を意味する。バビロニア王への任命とこの新たな称号は、アッシュール・ナディン・シュミがセンナケリブの死後にアッシリア帝国の王位を継承する王太子であったことを意味する。また「卓越した長男」であれば、通常、アッシリア人は長子相続であるから、アッシュール・ナディン・シュミが後継者であることを宣した、と言える。 アシュル・ナジン・シュミは、バビロニア王として、南部の険悪な政治状況に対処することができなかった。BC694年、センナケリブは、逃げ出したカルデアの反政府勢力を追撃してエラムの領土へ侵入した。 新エラム王国(BC750年頃~BC639年頃)の王シュトゥル・ナフンテ(バビロニアを征服してハンムラピ法典の石碑をスーサに持ち帰った)の後継者であるエラム王ハルシュ・インシュシナクは、この侵略に報復すべく、バビロニア人の支援を受けバビロンを攻撃した。一部のバビロニア人は独立を回復することを望み、バビロニア王アッシュール・ナディン・シュミをシッパル市で捕らえてエラム側に引き渡した。アッシュール・ナディン・シュミはエラムへと連れ去られ、恐らくは処刑された。 息子アッシュール・ナディン・シュミが殺害され、センナケリブはエラムとバビロニア両方に遠征した。特に、バビロン市はセンナケリブの領土でありながら、遠征の主な標的となった。 大英博物館には、アッシリア帝国の所蔵品も多い。センナケリブ王の碑文も大切に保管されている。 その碑文の中のBC700年頃、センナケリブ王が建造させた海戦用のガレー船Biremeのレリーフが興味深い。.軍艦は1本マストと横帆をもち、順風には帆走したが、戦闘中はもっぱらオールを使った。オールoars(櫂)を上下2段に並べる高速二段橈船(にだんかいせん)であった。シールドshield(遮蔽構造)は、古代都市の城壁の要塞のように、周囲はしっかりと固定されている。艦首の水線下に取り付けられた鋭い衝角(しょうかく)も見事で、敵の軍艦を刺し貫き保持するためのものである。 センナケリブは、BC694年には、メロダク・バルアダン2世を追ってエラムに侵攻することを決断した。エラムへの遠征の目的は、エラムの打倒と、脱出したメロダク・バルアダン2世を捕らえることにあった。この準備のため、センナケリブはしばらくの間、ユーフラテス川北部とティグリス川沿いのニネヴェでフェニキアの造船技師たちによる大艦隊の建造を監督した。 テュロス・シドン・キュプロスの船員が乗り込んだこの艦隊が、アッシリア軍の大部分をオピスの町まで輸送した。そこで、これらの船は陸揚げされ、ローラーかそりでアラハトゥ運河に運ばれた。これはユーフラテスとチグリス両河川の下流部がエラムによる厳しい監視下にあるためであった。 バビロンの南のアラハトゥ運河とユーフラテス川の合流地点から、アッシリア軍はユーフラテス川河口へ向けて行軍した。センナケリブ自身はニネヴェからユーフラテス川河口までの全行程を陸路で行軍した。バーブ・サレメティの町から、センナケリブは残りの別動態と合流し、船でペルシア湾を渡った。この旅程は5日を要し、困難だったようで、深淵の神エアへの犠牲が繰り返し捧げられ、無事、アッシリア軍はエラムの海岸に上陸した、とある。 激しい抵抗を受けながらもセンナケリブの軍隊は勝利し、いくつもの町を占領した。彼自身の記録ではこの戦いは「大勝利」と記録されている。捕らえられた多くのカルデア人とエラム人は戦利品として彼の兵士たちに分配された。センナケリブは宿敵メロダク・バルアダン2世に対する復讐を誓ったが、この直前に自然死していたようだ。 エラム王ハルシュ・インシュシナクは、現地人のネルガル・ウシェジブをバビロンの王とした。 エラムとバビロニアの両方によって本国から切り離されたセンナケリブの立場は不利となるなど、当初、エラムとバビロニアの同盟軍の作戦は順調に戦果を上げていた。だが、BC694年6月か7月、ネルガル・ウシェジブはニップル市を占領したが、3ヶ月後にはアッシリア軍がウルクを占領し、早くも戦況はアッシリア軍の優位に変わった。翌年BC693年、ネルガル・ウシェジブとエラムはニップル近郊でアッシリア軍を攻撃したが逆に撃破され、ネルガル・ウシェジブは捕らわれてニネヴェに幽閉された。この直後、エラムで反乱が発生し、ニップルでの敗北の3週間後、ハルシュ・インシュシナクはクティル・ナフンテ3世に取って代わられた。 バビロニア人はなおも降伏せず、ネルガル・ウシェジブに代わってカルデアの王子ムシェジブ・マルドゥクMushezib Marduk(BC692年~BC689年)を新たな王であると宣言した。この問題を処理するより先に、センナケリブはエラムを打倒することを決意した。アッシリア軍は46の都市を占領し破壊したが、エラム軍は戦闘を回避し、新たな王共々、イラン国内の最高峰ザルド・クーフ山(4,548m)が聳えるザーグロスの山岳地帯に退いた。冬が迫ってきた。雪と雨を伴う寒気に阻まれ、センナケリブは追撃をやめニネヴェに戻った。 在位僅か10ヶ月でクティル・ナフンテ3世は、フンバン・ヌメナ3世にエラム王の座を取って代わられた。センナケリブはバビロニアの敵を決定的に打破する時が来たと判断した。 アッシリアの侵略の脅威が迫る中、バビロニア人は主神マルドゥクの神殿から取り出した貴重な品々を新たなエラム王に贈り、エラムからの支援の継続が速やかに実行されることを願った。ムシェジブ・マルドゥクは、エラム王フンバン・ニメナの援軍と周辺諸国も味方につけ、BC691年にハルールの戦い Battle of Khaluleでセンナケリブ率いるアッシリア軍を退け、一時的にバビロニアからアッシリア勢力を一掃することに成功した。フンバン・ヌメナ3世とその配下の将軍フンバン・ウンダシャが、このハルレの戦いでこの連合軍を指揮した。アッシリアの文書は後のバビロン包囲までの間、バビロニアの事に言及していないことから、恐らく多くの犠牲を出して敗退した可能性が高い。 センナケリブはニネヴェへ戻り、バビロニア王ムシェジブ・マルドゥクとエラム王フンバン・ヌメナ3世はそれぞれの王位を維持した。 (大英博物館に展示されている、シッパル出土のナボニドゥスの円筒形碑文Cylinders of Nabonidusは、新バビロニア時代の最期の王ナボニドゥス(在位;BC556年~BC539年)の楔形文字碑文である。) BC690年、フンバン・ヌメナ3世は脳卒中になり、彼のあごは言葉を話すことができない状態で固まった。この状況を利用して、センナケリブはバビロンに対する最後の遠征に取り掛かった。当初、バビロニア人は優勢であったが、それは短期間しか続かず、既に同年中にバビロン市の包囲が本格化した。バビロンは15か月にわたる包囲の末、BC689年にセンナケリブによって陥落させられた。センナケリブは,、臣民でありながら自身に対する攻撃を促したバビロンの神々への愛情を持っておらず、センナケリブの手によってマルドゥク神像が奪われ、バビロン市の大部分が破壊された。 【我が領地へ.、余は生き残ったバビロンの王ムシェズィプ・マルドゥクMušēzib-Mardukと、彼の家族および官吏と共に連行した。余はこの都市の富、銀・金・宝石・資産と数々の品々を我が民の手に渡し、彼らはそれを自身の物とした。 我が民の手がそこに住まう神々を掴み倒し、打ち砕いた。彼らは神殿の資産と品々を奪った。余はこの都市を、その家々を、基礎から胸壁まで破壊した。余はそれらを荒廃させて焼いた。余は市の外壁と内壁、神殿やジッグラトのレンガと土塁を破壊し、それらをアラハトゥ運河の中へと放り込んだ。余はこの都市の真ん中の運河に破滅的な洪水を引き込み、徹底的にその基礎までも完全に消滅させるほど破壊した。将来、その都市と神殿の位置を知ることが不可能になる程に、余は洪水で完全に流し、浸水した土地のまま放置した。】 バビロンの破壊の最中に、センナケリブは神殿と神々の像を破壊したが、マルドゥク神像は例外であり、これはアッシリアへと持ち帰った。アッシリアではバビロンとその神々は大きな尊敬を得ていたため、この破壊はアッシリア国内において驚愕をもたらした。センナケリブは宗教的プロパガンダのキャンペーンによって本国の人々に対して自分の行動を正当化しようと試みた。そのため、彼はアッシリアの神アッシュールの前でマルドゥクが審判にかけられるという神話を作らせた。この文書は断片的であるが、マルドゥクは何らかの重大な罪によって有罪を宣告されたものと思われる。 センナケリブはバビロニアの反乱を、彼が打ち破ったことについてバビロニアの創世神話の言葉をもって描写し、バビロンを悪魔の女神ティアマトに、自らをマルドゥクになぞらえた。アッシュール神は新年祭におけるマルドゥクの役割を奪い、新年祭が行われるバビロンの神殿には、象徴的にバビロンの瓦礫の山を築かせた。 センナケリブの目標は政治的実体としてのバビロニアを完全に根絶することであった。バビロニア北部領土の一部はアッシリアの属州とされ、センナケリブはバビロン自体を再建しようとはしなかった。「バビロニアの年代記」では、この時代には王がいなかった「空位」時代として記された。 このセンナケリブの政策によって、バビロニアの人は根深い憎しみが植え付けられた。 本来の王太子であった長男アッシュール・ナディン・シュミが姿を消し、恐らくは処刑された時、センナケリブは存命中の息子の中で最年長のアルダ・ムリッシを新たな王太子に任命した。アルダ・ムリッシはBC684年にセンナケリブが突如、末子のエサルハドンを後継者に指名するまでの間、明らかに後継者としての地位を保っていた。アルダ・ムリッシが突如王太子の地位から降ろされた理由は不明であるが、同時代の碑文から、彼が大きな失望を抱いたことをは明らかである。また、エサルハドンは王子の中でも最年少であり、幼少時より病弱であったため、この決定は他の王子達に強い反発を生み出した。 エサルハドンの母であり側室の一人であったナキアが、センナケリブにエサルハドンを後継者とするよう説得した可能性が高い。やがて、王母としてアッシリア宮廷に隠然たる影響力を振るった。彼女を表した浮き彫り彫刻も発見されており、これはアッシリア史における女性たちとしては稀有な例であった。 BC7世紀の「エサルハドンのレリーフ」が、ルーブル美術館に収蔵されている。元々は金メッキされていたブロンズであった。 【アッシリアのエサルハドン王とマルドゥク神殿の母ナキア・ザクトゥのブロンズ。エサルハドンによるバビロンの修復を記念したレリーフ。在位;BC680年~BC669年】 この時代にしては、女性のナキア宛の手紙やナキアに言及した手紙が多い。また、ナキアがエサルハドンのために建てた宮殿の碑文や二つの献納碑文のほか、彼女が裕福で多くの使用人を抱えていたことを示す行政・経済文書もある。その現存する情報の大半は、息子エサルハドンの治世が始まってからのものである。 エサルハドンの即位が、ナキアの生活を一変させた。ナキアは王宮に居住し、息子の健康に関する定期的な報告を受けていた。ナキアは息子のエサルハドンより長く生きた。エサルハドンがBC669年、エジプト遠征の途中死去すると、王子達や群臣を集めてアッシュール・バニパルへの忠誠を再度誓約させている。この時の誓約文は、王以外の名で発布された物としては唯一の物である。その後、ナキアの公的活動を記す史料は遺こっていない。 王太子を降ろされたにも関わらず、アルダ・ムリッシは人気を保ち続け、一部の臣下は未だ密かに彼を王位継承者として支持していた。センナケリブはアルダ・ムリッシに対してエサルハドンへの忠誠を誓うよう強要したが、アルダ・ムリッシはセンナケリブに自分を後継者に戻すように繰り返し主張した。センナケリブはアルダ・ムリッシの人気が高まるにつれ、エサルハドンの身を案じるようになり、エサルハドンを西方の属州へ亡命させた。 エサルハドンの亡命により、アルダ・ムリッシの人気は頂点に達していたが、エサルハドンに対して何もすることが出来ない立場であり、困難な立場に置かれた。アルダ・ムリッシは、迅速に行動し武力をもって王位を得る必要があると決断した。アルダ・ムリッシは別の弟ナブー・シャル・ウツルNabu-shar-usurと「反乱の誓約」を交わし、BC681年10月20日、ニネヴェの神殿でセンナケリブを襲撃し殺害した。 当時世界で最も強大な帝国の君主であったセンナケリブの殺害は同時代の人々に大きな衝撃を与えた。メソポタミア、さらには他の古代オリエントの人々は、強い感情の高まりと複雑な思いでこの報せを受け取った。 レヴァントとバビロニアの住民はこの報せを喜び、この出来事は彼らに対するセンナケリブの残虐な遠征に神罰が下された主張した。 一方、センナケリブの暗殺に成功したものの、王殺しは彼の支持者たちを憤慨させ、ルダ・ムリッシと彼の支持者たちの間に深い亀裂を生み出した。このことが戴冠式の実施を遅らせた。その間にエサルハドンが軍を立ち上げた。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルが率いた軍隊は、メソポタミア北部のハブル川上流域ミタンニでエサルハドン軍と会敵した。 対陣するやいなやアルダ・ムリッシらの兵士の大半が、ハブル川を渡りエサルハドンの陣へ移り歓声を揚げた。その想定外の光景を目の当りにして、アルダ・ムリッシらの将軍達や置き去りにされた兵士らは、恐慌状態となりひたすら逃亡するだけであった。エサルハドンは抵抗を受けることなくニネヴェへと進み、ニネヴェを包囲して開門させ、自らをセンナケリブの後継者として玉座の人となった。即位直後、エサルハドンは兄弟たちの家族を含め、王権で探索できる全ての陰謀参加者と、ニネヴェの王宮の警護に携わる従者も含め皆、敵とみなして処刑した。この段階で、エサルハドンは既存の勢力を一層し、残存するかつての権威も無力化し、絶対的な帝王として君臨した。アルダ・ムリッシとナブー・シャル・ウツルは、既に北方のウラルトゥ王国へと亡命していた。 六、エサルハッドン エサルハッドン(在位;BC680年~BC669年)の即位は、実は6週間にわたる内戦で、兄たちを打ち破らなければならなかった。父王センナケリブの暗殺は、エサルハッドンの生涯のトラウマとなり、役人や従者たち、男性親族に対する不信に怯えた。結局、エサルハドンが使用した宮殿の大半は、各都市の主要人口集積地から離れた場所にあり、警備が厳重な要塞のようであった。しかも、男性親族への不信からか、その治世の間、母のナキアや王妃エシャラ・ハンマト、彼の王女シェルア・エテラトのようなエサルハドンの女性親族が、かなり大きな影響力と政治力を行使した。 エサルハドンは碑文で 【兵士たち、余の兄弟たちのためにアッシリアの支配権を奪おうと陰謀を扇動した反逆者たち、彼らの地位を余は最後の1人に至るまで調べ上げ、彼らの上に重き罰を課し、彼らの一族を滅ぼした】 現存する多くの宮廷文書が、エサルハドンの実像を明確に語ってくれる。妻の死、そしてその頃生まれたばかりの幼い子供の死によって、エサルハドンは鬱病状態になった。このことはエサルハドンの祓魔師の長で、エサルハドンの健康に主たる責任を負っていたアダド・シュマ・ウツルAdad-shumu-usurによる王宛の手紙に明瞭に書かれている。 しかも、エサルハドンの侍医など王宮の人々によって書き留められたメモと手紙には、王の体調について、激しい嘔吐、繰り返される発熱と鼻血、眩暈、強い耳の痛み、下痢と陰鬱な精神状態など詳細に説明され議論されている。エサルハドンの健康状態の悪化は、顔面を含めて全身に及ぶ発疹から誰の目にも明らかである。侍医たちも困惑していた。最終的に、自分たちには、王を治癒する能力がないことを白状している。 【我が主、王は「なぜ余の病の本性を特定し 治療法を見出せないのか?」と私に問い続けておられます。既に直接申し上げたように、陛下の病状は特定しかねるのです。】 アッシリアでは、王に謁見する際には誰であれひざまずき、ヴェールをかぶらなければならない。それで、彼の病は臣民たちに隠し通すことができた。 エサルハドンの臣下が、王の多くの子について議論している手紙から、王には少なくとも18人の子供がおり、幾人かの子供は夭逝しており、病弱な子供であったと考えられており、エサルハドンと同じく慢性的な病に苦しみ、侍医たちは常々定期的な治療に当たっていた。シン・ナディン・アプリは、エサルハドンの長男であった。BC674年から急死するBC672年まで王太子であった。五男のアッシュール・タキシャ・リブルトも病弱な子供であったようで、BC672年までには死亡していた。 シェルア・エテラトは、エサルハドンの長女であり娘たちの中で名前が判明している唯一の人物である。恐らくは最年長と見られる。彼女はエサルハドンの宮廷とアッシュール・バニパルの宮廷で重要な地位にあったことが多数の碑文によって証明されている。彼女は後継者アッシュール・バニパルの姉に当たる。 大英博物館には、シェルア・エテラトの楔形文字粘土板cuneiform tableが所蔵されている。内容は、BC670頃、弟の王太子アッシュールバニパルの妻リッバリ・シャラト宛ての手紙で、将来の王妃が学習を疎かにしていることを叱責し、リッバリ・シャラトが読み書きができなければ噂となり 【これが偉大なる王、強き王、世界の王、アッシリアの王、アッシュール・エティル・イラニ・ムキンニ(エサルハドンの公的な宮廷名court name)の後継者(アッシュール・バニパル)の宮殿the Succession Palaceの長女たるシェルア・エテラトの妹になる方なのでしょうか?】と、 【あなたは義理の娘に過ぎないとしても、アッシリアの王エサルハドンが指名した偉大なる王太子アッシュール・バニパル家の奥方なのですよ】と、 やがてアッシュールバニパルの妻となるリッバリ・シャラトが、王室の不名誉となってはならない、と手厳しい。シェルア・エテラトはエサルハドン治世末期のBC670年頃までニネヴェの宮殿で生活していた。エサルハドンが死亡した後、シェルア・エテラトの称号はアハト・シャリ(王の姉妹)であった。 12年と比較的短く、しかも困難な治世であったが、病弱で精神な病に苦しみながらも、エサルハドンは最も成功したアッシリアの王の一人と評価されている。BC681年10月20日、ニネヴェの神殿で父センナケリブが殺害された年に、孤立無援の最中に、果敢に兄達に立ち向かい討ち取っている。 エサルハドンの主要な居城の1つが、カルフ(ニムルド)市にあった宮殿である。これは元々は200年ほど前に、新アッシリアの王シャルマネセル3世(在位;BC858年~BC824年)によって建設された武器庫であった。カルフ市の中心から離れた宮殿は、防御に適した街外れの丘にあった。BC676年からBC672年の間に、この宮殿は強化され、堅牢な門扉により難攻不落の要塞と化して建物全体を完全に都市から遮断できるようになっていた。もしこれらの門扉が閉ざされれば、この宮殿に入る唯一の方法は、幾重にも強固な扉で守られた傾斜が急な狭い通路だけであった。同様の宮殿はニネヴェにも建てられた。ニネヴェの宮殿もまた、都市の中心から隔絶したクユンジクの丘に建てられた。帝国の首都として、大規模な建築事業や都市の拡張が行われたこの時期に、都市を二重の城壁で囲み、宮殿が相次いで建設された。アッシュール・バニパル王の図書館もこの都市にあった。 エサルハドンは、BC674年に長男シン・ナディン・アプリを王太子として指名した。しかし彼はその2年後に死亡した。この時、エサルハドンは2人の王太子を任命した。存命中の王子のうち年長の次男シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王太子(在位; BC672年~BC669年)とし、その後シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンの王位(在位;BC668~BC648年)を継いだ。 バビロンの南西約17.7 kmにあった古代都市ボルシッパのナブ寺院遺跡から出土し、現在、大英博物館に収容されているシャマシュ・シュム・ウキンの石碑では、このバビロンのアッシリアの王は、「頭上にバスケットを乗せて運ぶ未婚の女性」として描かれている。背中の楔形文字の碑文は遺されたが、王の顔は破壊されていた。BC 652年、弟のアッシリア王アッシュールバニパルに対して反乱を起したが、敗れてバビロンは陥落、王は焼身自殺した。この反乱はオリエント全世界の大動乱を誘発した。 過去数10年にわたってアッシリア王は、同時にバビロンの王を兼任していたが、エサルハドンは、次男シャマシュ・シュム・ウキンより年少の四男アッシュール・バニパルをアッシリアの王太子(在位; BC672年~BC669年)に任命した。三男のシャマシュ・メトゥ・ウバリトの名前は「シャマシュは死者を蘇らせた」という意味であり、あるいは出生時に難産であったようで、BC672年まで存命していたが、彼もまた病に苦しんでいた。そのため、後継者の対象にはならなかった。 それぞれが王太子に選ばれた二人の王子は、ニネヴェを共に赴き、諸外国の王、アッシリアの貴族たち、そして 将官や総督たちの祝賀を受けた。 この体制下では、シャマシュ・シュム・ウキンは明らかに弟のアッシュール・バニパルに対して下位に置かれた。碑文史料からも、シャマシュ・シュム・ウキンが自らの臣下に発する如何なる命令も、実施前にまずアッシュールバニパルの事前承認が行われていたことが示されている。バビロンの役人によってアッシュール・バニパルに直接提出された請願書も現存している。アッシュール・バニパルはまた、シャマシュ・シュム・ウキンの支配地奥深くにある都市ボルシッパに常駐の部隊と官吏を置いていた。アッシュール・バニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが平和裏に併存していた時期のバビロニアで発見された王室記録には、両君主の名前が記されているが、同時期のアッシリアの文書にはアッシュールバニパルの名前しか記されておらず、この二人の王の地位は明らかに対等ではなかった。 時と共に、シャマシュ・シュム・ウキンは自分に対するアッシュールバニパルの高圧的な支配に対する怒りを募らせ、BC652年にアッシュール・バニパルの軛を取り除くため、アッシリアに反感を抱く国々を糾合して反乱を起こした。この反乱は失敗に終わり、BC650年までにバビロン市自体を含めてシャマシュ・シュム・ウキンの支配下にあった都市の大半が包囲された。包囲されたバビロンは飢えと疫病に耐えたが、BC648年、追い込まれたシャマシュ・シュム・ウキンは、宮殿に自らに火を放ち自殺した。陥落したバビロンは、アッシュール・バニパル軍により略奪を受けた。 シェルア・エテラトは、内戦が勃発するBC652年以前の、両者の交渉の際には中心的な役割を果たしている。シェルア・エテラトは、アッシュール・バニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの仲裁を幾度か試みている。これが破綻し、アッシュール・バニパルがシャマシュ・シュム・ウキンを自死させると、シェルア・エテラトは何処かに亡命したようだ。 シャマシュ・シュム・ウキンが死亡した後、アッシュールバニパルは、自らの役人の一人カンダラヌを属王としてバビロンの王位に就けた。 カンダラヌ(アッカド語:Kandalānu、在位:BC648年-BC627年)は、その死まで在位した。 カンダラヌの出自は不明である。彼は政治的・軍事的な権力を保持しておらず、アッシリア王の官僚としてバビロニアの支配を担った。彼が統治していた時代の史料は、アッシリア王名表やバビロニア王名表と年代記碑文に限られており、後のバビロニアの王名表では彼の名前が欠落していることもある。 アッシリア王名表のデータが、信頼性のあると認められるのはBC14世紀頃からである。バビロニアの北方のアッシリアでは、リンムLimmuと呼ばれる1年交替の名誉職に就く王や、将軍(タルタン)・王宮の高官・重要州の総督などの名前を年名表記に用いていた。 バビロニア王名表は、バビロンの統治者のみを対象としている。二つのバージョンが見つかっており、バビロニア王名表Aとバビロニア王名表Bと呼ばれている。王名表の後半は、バビロンのカッシート王朝(バビロン第3王朝;BC1595年~BC1155年)と海の国王朝の時代に対応している。 (シュメール語やカッシート語を話す民族の起源は不明。カッシート人は、イラン西部の山岳民族で、BC18世紀頃、メソポタミア東方ザーグロス山岳地帯のディヤラ川上流地帯を越えてバビロニアに侵入、ヒッタイト王国によって滅ぼされた古バビロニア王国に代わって、カッシート朝バビロニア王国を開いた。BC1155年、エラムの侵攻によって滅ぼされた。) エサルハドン、バビロン市再建 大英博物館収蔵の、BC670年頃作られた黒い玄武岩製の四角い石柱のモニュメントには、シュメール・アッカド語の楔形文字で、エサルハドンによるバビロン市再建について記している。 【以前の王(センナケリブ)の治世において悪の兆しがありし時、バビロンは都市神たちの怒りを買い、神々の御命令により破壊された。全てをあるべき場所に修復し、神々の怒りを宥め、憤怒を鎮めるために選ばれた者はエサルハドン、余であった。御身マルドゥク神はアッシュールの地の守護を余に委ねられた。同時にバビロンの神々は彼らの神殿を再建し、マルドゥク神の正しき儀式を再開するよう余に申し付けた。余は全ての我が労働者を召集し、バビロニアの全ての人々を徴集した。余は彼らを働かせ、地面を掘り、土を籠に入れ運ばせた】 エサルハドンは、帝国南部のバビロニアの住民の支持得るため、彼はバビロンだけでなく南部全体におよぶ広い範囲で建築・修復事業に資金をつぎ込んだ。バビロニアは、前世紀のアッシリア王ティグラト・ピレセル3世によって征服・併合されるまで、アッシリアの属王として現地人の王によって統治されていた。 BC729年、バビロニアは、ティグラト・ピレセル3世の晩年に、その領土に組み込まれた。ティグラト・ピレセル3世は、自身の王碑文に「アッシリア王とバビロニア王」を兼ねると称した。 エサルハドンは、この建設計画を通じて、アッシリアによるこの地域への支配を恒常化するため、アッシリア国内と同様の配慮と寛容をもってバビロンを統治するつもりだということを示そうとした。 バビロン市はバビロニアという地名の元となった都市であり、南メソポタミアにおいて1000年にわたって政治的・宗教的中心地であった。バビロニア人としての誇りによる独立志向を挫くため、エサルハドンの父センナケリブは、BC689年にバビロン市を破壊し、都市神マルドゥクの像をアッシリア領奥深くへと持ち去っていた。 そのバビロン市の再建が、エサルハドンによってBC680年に布告された。エサルハドンの治世を通して、この再建を監督するために彼が任命した官僚からの報告が史料として遺り、この建設計画の巨大な規模を示していた。バビロンの大がかりな復興は、センナケリブによる破壊の後に残されていた大量の瓦礫の除去から始まった。この当時までに奴隷化されていた、あるいは帝国全土に強制移住されていたバビロン市民を復帰・再定住させ、大部分の建物の再建、マルドゥクに捧げられた巨大な神殿複合体や巨大なジッグラト、そして2つの市内壁の再建・修復などに従事させた。 アッシリア王は軍人であることを本分としていたが、バビロンの王は建築家かつ修復者であるのを理想とした。エサルハドンが、バビロンで作った王碑文では、「神々に任命された」王として自分自身を称し、かつてのバビロンの破壊をセンナケリブの所業としてではなく、バビロンが「神々の怒りに触れた」ためと断罪した。 エサルハドン治世中の再建事業がどの程度進行していたかは正確には不明であるが、バビロンの神殿群の遺構から彼の石碑が発見されており、かなりの程度、作業が完了していたことが知られる。それでも、エサルハドンの生前に完了しないまま、市壁の完全修復など多くの作業が、後継者たちの治世の間も行われていた。それでも、バビロンのマルドゥク神殿とその神殿の中心部に築かれたジッグラトの完全な修復など、エサルハドンは自分の再建目標をほぼ達成していた。 エサルハドンは南部の他の都市の再建事業も支援していた。エサルハドンは治世1年に、アッシリアが戦争で接収していた様々な南部の神々の像を返還した。 センナケリブによるバビロン市の破壊以来、バビロンの主神マルドゥク像は、他のバビロニアの伝統的な神々の像と共に、アッシリア北東部にあるイッセテIsseteの町に保管されていた。マルドゥク像はアッシリアに残されたが、他の神々の像はデアDer・フムミニアHumhumia・シッパルに返還された。 (BC720年、サルゴン2世はエラムに遠征したが、アッシリア軍は、エラムのフンバン・ニカシュ1世とバビロンのマルドゥク・アプラ・イディナ2世の合同軍によってデルの近くで敗北した。) シュメールにおける原初の5都市のうち、天から与えられた4番目の都市、シッパルがある遺跡テル・アブー・ハッバーフTell Abu Habbahは、約100haの面積を持ち2つの遺丘からなる。この遺跡は11880年から1881年の間、ホルムズド・ラッサムによって初めて発掘された。この発掘は大英博物館のためのもので、18か月間続けられた。メソポタミアの太陽神シャマシュ神殿の粘土板文書を含め、数千点もの粘土板文書が発見された。その大部分は新バビロニア時代のものであった。 (シッパルのテル・アブー・ハッバーフ遺跡はバグダードから比較的近いため、違法な発掘の標的となっている。) その後数年の内に、ラルサとウルクの神像も返還された。バビロンと同様、エサルハドンはウルクで瓦礫を撤去し、そこにあるウルクの都市神、女神イシュタルの神殿を修復した。女神イシュタルは、ウルクを始め、キシュ・アッカド・バビロン・ニネヴェ・アルベラなどメソポタミアに多くの崇拝地を持っていた。イシュタルは様々な女神と神学的に同定されている。英名のヴィーナスはよく知られている。ローマ神話のウェヌス、ギリシア神話におけるアフロディーテのモデルになったとされている。 ニップル、ボルシッパ、そしてアッカドといった諸都市でも小規模ながら同様の復興計画が実施された。 エサルハドンのエジプト征服 エサルハドンは、アッシリアとバビロニアの両方で野心的な大規模都市建設を完遂し、その一方、メディア・アラビア半島・アナトリア・コーカサス、そしてレヴァントへの遠征を成功させた。エジプトを撃破して征服し、自身の死に際し2人の後継者アッシュール・バニパルとシャマシュ・シュム・ウキンへ平和裏に王位の移譲を成し遂げた。 アッシリア王はその広大な領土を州に分け、各地に総督をおいて統治した。また道路網を整備し駅伝制を設けて中央集権の強化をはかった。有名な強制集団移住政策は、被征服民の反乱を防止するとともに、領内の労働力の確保と、その適正配置をねらったものでもあった。 アッシリア軍の中核は陸軍で、鉄製武器や強力な弓で武装した歩兵や騎兵、戦車隊、それに後世のローマ軍と同じように、土木技術を身につけた工兵隊で編成されていた。艦隊の建造にはフェニキア人があたり、築城や攻城のためには、長い経験をもつシリアの工人たちが使われた。またアッシリアの王たちは、治世の大半を陣営のなかで過ごした。 エサルハドンの統治第7年の終わり近く、BC673年の冬に、エジプトへ侵攻した。この侵攻を記すアッシリアの史料は僅かで、アッシリアにとって、最悪の結末で終わったためと見られている。エジプトは多年にわたりアッシリアに対するレヴァントの反抗勢力を支援していた。エサルハドンは、エジプトを襲撃してその勢力を一掃しようとした。エサルハドンは、進軍を急がし過ぎたため、エジプト支配下のアシュケロン(ガザの北方約 20km)の郊外に到着した時には疲労困憊していた。エジプト末期王朝時代第 25王朝4代目の王タハルカ (在位;BC689年~BC664年)によって打ち破られた。タハルカは、パレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱勢力を支援していた。タハルカは、ヌビアのクシュ王国 (BC750頃~590頃) の出身で、その首都ナパタNapataに因んでナパタ王朝あるいはエチオピア王朝とも呼ばれた。この敗北の後、エサルハドンは、エジプト征服を断念しし、ニネヴェへ戻った。 エジプト侵攻の折りも、エサルハドンは常に何らかの病に苦しんでおり、しばしば宿営を離れ、人とも接触することなく何日も過ごしていた。また、現存する多くの宮廷文書から、妻の死、そして誕生間もない嬰児の死によってエサルハドンは暗澹としていた。 BC671年の初頭、エサルハドンは再びエジプトへ遠征する。 2度目のエジプト遠征軍は、BC673年の時よりも かなり大規模な軍容となり、進軍もゆっくりであった。経路上、アッシリア西方の主要都市ハッラーンで、エサルハドンにエジプト征服が成功するであろうという神託があった.。アッシュール・バニパルに送られた手紙によれば、神託は 【エサルハドンがエジプトに進軍する時、杉材の神殿がハッラーン(ハランHarran、古代シリア地方の北部にあった古代都市、現在:トルコ南東部のシャンルウルファ県)に建てられた。そこでシン神(古代メソポタミアで信仰された月の男神、シュメール人の都市ウルの主神、やがて「暦の神」として「遠い日々の運命を定める」力を持つとされた)が木柱の頂の座に就き、冠が頭上にある2つの御神が現れて、その正面に立つ神はヌスク神(ハランの神殿では月神シンの息子としてともに祀られていた。神託を与える神でもあった。)であった。エサルハドンが入りその冠を彼の頭上に戴き、神より次のように神託を告げた。「そなたは前に進み、世界を征服せよ!」。そして彼は行き、エジプトを征服した。】 (ハッラーンは、トルコとシリアの国境に近い古代メソポタミア文明の北方の都市。最盛期には、南のダマスカスに通じる、ニネヴェとカルケミシュを結ぶ内陸交易と戦略上の要地であった。ユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原であるため、土壌は肥沃、雨量はメソポタミア南部より多く、原始農耕の先駆地) この神託から3ヶ月後、エサルハドンの軍勢はエジプト軍との最初の戦闘で勝利した。しかしこの神託どおりの緒戦の勝利にも関わらず、エサルハドンは自らの身辺に危険が及ぶトラウマに苛まれる。エジプト軍を撃破してから僅か11日後、彼は「身代わり王」の方策を執り行った。これは差し迫った危険が、王を襲う恐れがある時.、王を守護する手段として古代アッシリアから利用されていた。エサルハドンは、治世の早い段階から、この方策に頼った。この時期のエサルハドンも、エジプト侵攻の指揮が執ることができないほど精神が不安定になっていた。 この「身代わり王」の方策により、エサルハドンは100日間隠れ、その間、「身代わり王」が王の寝室で眠り、王冠と王の衣装を身に着け、王の食事を食した。この100日の間、隠れていた当の王は「農夫」という別名で呼ばれた。儀式の目的は、王に向けられる危険を「身代わり」に負わせ、王エサルハドンの危機を回避する手立てだった。この「身代わり」は、100日の経過後、事変の有無に関わらず関わらず殺害された。 エサルハドンが恐れていた凶兆の予感とは、父王センナケリブを襲った王の息子たちよる凶行であったが、このBC671年以降の2年間でこの方策を2度利用している。この遠征では、アッシリア王の責務を果たすことなく、この間、帝国の民政の大半は彼の王太子たち、アッシュール・バニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが代行し、エジプト遠征の指揮は、王直属の中央軍の総指揮官(大将軍)に命じていたようだ。一方、新アッシリア帝国を支える優秀な官僚達は、レヴァントの反アッシリア勢力を分断する調略に奔走しほぼ成功する。 アッシリア軍は2度の戦いでエジプト軍を破り、エジプトの首都タニス(ナイルデルタ地帯北東部にあった古代都市、巨大遺跡が現存)を占領・略奪する。エジプト第25王朝(ヌビア朝)のファラオ・タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入、タハルカは下エジプトでの本国の戦いにも敗れ、メンフィスも陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷して下エジプトを失い、上エジプトのテーベへと逃走し根拠地とした。しかしアッシリア軍の追撃が迫り、やがてヌビア王国(エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけて存在した黒人、ヌビア人の王国の総称)の都ナパタ(ナイルの第4急流域,現スーダンのマラウィ)に逃れた。第25王朝は、アッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は維持した。 エサルハドンはタハルカの妻と息子を含む家族を捉え、この王族の大半は人質としてアッシリアに送られた。新たに征服したエジプトの統治担当者として、エサルハドンに忠実な総督たちが置かれた。エジプトの征服を記念して建てられたエサルハドンの勝利の王碑文には、エサルハドンは堂々たるポーズで描かれており、その手には戦棍(殴打用の武器。打撃部分の頭部と柄を組み合わせた合成棍棒)を持ち、属王たちは首に縄をかけられて彼の前で跪いている。この征服の結果、多数のエジプト人がアッシリアの中核地帯に強制移住させられた。 ドイツのベルリンにあるペルガモン博物館収蔵のBC671年に建てられた「エサルハドンの戦勝記念碑」は、現代のトルコのサムアル/ジンディリの要塞から収容した。 【このアッシリアの王エサルハドンが建てた玄武岩の碑石は、エサルハドンが崇拝する神々と神々の象徴を描写する。 王の左手は国王の戦棍と2本のロープを持っている。それぞれのロープは、2人の捕虜の下 唇を通す。跪く小さな人物は、エジプトの皇太子ウシャンクルUshankhuruとおそらくファラオ・タハルカTaharqa(タハルカ自身は既に負傷してテーベへと逃走している)に見える。】 石碑の正面には、楔形文字の碑文があり、エサルハドンが勝利した軍事戦役を語る。 【大いなる神々に呪われたエジプトおよびクシュの王タハルカの軍に対して、イシュフプリから彼の居城メンフィスまで十五日の行程を、余は毎日休止することなく殺戮を行った。彼自身に対しても、余は五度矢の尖端で打ち、癒しがたい傷を負わせた。余は彼の居城メンフィスを包囲し、坑道、突破口、攻城梯子をもちいて、半日のうちに占領した。余はメンフィス市を略奪し、破壊し、火をかけた。彼の妃ハレム、王太子ウシャナフル、その他の王子や王女たち、それに彼の財貨・馬・牛・小家畜を数えきれないほど、戦利品としてアッシリアに運んだ。 余はクシュの勢力をエジプトから根絶した。余に対する恭順の確保のために、エジプトには、だれひとりクシュ人を残すことはしなかった。余はエジプト全土にわたって各地に王・総督・長官・商港監督官・代官・属吏を新たに任命した。我が主なるアッシュールならびに他の大いなる神々たちのために、寄進と供物を永遠にわたって定め、余の支配に対しては、貢納と進物を年ごとに絶えることなく彼らエジプト人に課した。 余は我が名を刻んだ石碑を作らせ、その上に我が主アッシュール神の栄光と武勇、我が素晴らしき所業、余がいかにして我が主アッシュール神の加護のもとへ足繁く通ったか、そして我が征服の手の強さを書かせた。この世の終わりまで全ての我が敵にこれを示すため、余はこれを据え付けた】 エサルハドンは、下エジプトを制圧した。その治世の間、版図はイラン西部からエジプト本土全域にまで及んだ。短期間ながらオリエント世界の統一が実現したのである。 しかし、エサルハドンは、「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称し、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇大に宣した 。これは明らかに吹聴で、テーベからも逃走したタハルカは、一旦は、ヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は掌握していた。タハルカが、当時、ヌビアで儀式などを行った碑文が遺っている。 タハルカは、エサルハドンの本体が去ると北進しテーベを押さえた。新アッシリア帝国に対する抗戦は続く。エサルハドンはこれを鎮定するためにBC669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、新アッシリア帝国の王位は遠征中であればこそ、アッシュール・バニパルが継承した。それでもアッシュール・バニパルは、一旦軍を引き本国に戻らなければならない。タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトの諸勢力もこれに連動して反アッシリアの反乱の勢いが加速した。 新アッシリア帝国は、メソポタミアとエジプトを支配下に置いたものの、最盛期から60年足らず、BC609年に滅亡した。 新アッシリア軍は、フェニキア人のテュロスTyros(ティルスTyrus;レバノンの南西部)のようなエサルハドンに対抗してエジプトと同盟を結んでいたレヴァントの属王達との戦いに直面していた。テュロスは、北からウガリト(現ラス・シャムラ)・アルワド・ビブロス・ベリトス(現ベイルート)・シドン(現サイダ)など、レヴァント 沿岸諸都市を中心に都市同盟を形成し、早くから海上交易を活発に行っていた。その歴史的経過から、フェニキア人は、ヘブライ人やアラム人を主体に北西セム系に属する民族間の混血が進んでいた。 しかしながら、フェニキア人の政治的独立は短く、BC9世紀に、新アッシリア王アッシュール・ナシルパル2世(在位:BC883年頃-BC859年頃)がティグリス川から地中海に至る全域を征服し強大になると、フェニキア諸都市はしだいに勢力を失う。テュロスは、BC701年、エジプトと同盟し新アッシリア帝国に反乱し、センナケリブの遠征軍に包囲され5年間抵抗するも結局服属した。 またBC669年にも、エジプトと同盟し新アッシリアに反乱し、エサルハドンの遠征軍の攻撃を受けた。 BC585年、新バビロニア王ネブカドネザル2世の遠征軍に包囲され13年間にわたり抵抗したが、服属した。 目次へ 新アッシリア帝国の滅亡 新アッシリア帝国のアッシュール・バニパル(在位:BC668年~BC631年頃)は、下エジプトのメンフィスを陥して上エジプトのテーベに迫った。ここで、古代エジプト3000年の歴史の中で最も残酷な大虐殺を行った。クシュの王だったタハルカ王を追い返すと、後のネコ1世Necho I(古代ギリシャ読みで、正確にはネカウNekau)だけを残して、特に支配階層にあたる神官とか王族といった一族の殆どを殺戮し尽くした。ひとり残ったネコ1世を傀儡政権に仕立て、エジプトを属国として統治した。 ネコ1世は、第 24王朝のリビア系王族と同系のサイス王家の一族と考えられる。BC 671年アッシリア王エサルハッドンが、下エジプトをクシュ王国のタハルカから奪取したとき、サイスの総督に任命した。ネコ1世については、元々新アッシリアの文献によってその存在が知られていた。今日ではその治世下のエジプトの記録も発見されている。ネコ1世は、正式にはBC670年頃にエサルハッドンによってサイスに封じられたとされるが、既にそれ以前からサイスの総督としてエジプトを実効支配していた。タハルカの反撃にあい、一時避難したが、BC667年エサルハッドンの子アッシュールバニパルが再びエジプトへと侵攻しこれを撃退、タハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。ネコはエジプトにおける首席総督に選ばれた。その後再度クシュ王国の侵略を受け、アッシュールバニパルが再びこれを撃退したが、ネコは一時アッシリアの首都ニネヴェに反逆のかどで送られた。赦免とともにサイスの総督に復帰した。 アッシュール・バニパルは、タハルカの進軍に呼応して下エジプトで反乱を起こしたエジプト貴族の大半を処刑した。この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世(ネカウ1世)だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともに属国化したエジプトの管理を新アッシリア帝国から委託された。 諸史料によると、新アッシリアと結んでいたネコ1世は、第25王朝最後の5代目ファラオ・タヌトアメン(3代シャバカの息子)を支持して侵入してきたクシュの軍勢によって殺害された。このヌビア勢のナイル川デルタ地方への侵攻は、アッシリアの反攻に遭い、テーベを陥れられ上エジプトも失う失敗に終わった。 エジプトを再統一し、BC664年、ファラオとして第26王朝(サイス朝)を開いたのは、ネコ1世の息子であるプサメティコス1世(プサムテク1世)である。また、その後を継いだネコ2世は彼の孫にあたる。 息子プサムティク1世が跡を継ぎ、アッシリアの内乱に乗じて、アッシリアのエジプト駐屯軍を破り、全エジプトを支配した。 新アッシリアよって有力な貴族の多くがその力を失う中で、サメティコス1世と下エジプトの支配者達との戦いは、新アッシリアの宗主権下にあった時に起こっている.。当時、イオニア系とドーリア系ギリシア人からなるカリア人の一隊が、略奪目的の遠征中にエジプトに漂着する。彼らは青銅製の武具で武装して、上陸地点で略奪を働いた。サメティコス1世は、カリア人達に莫大な報酬を約束して自軍に引き入れた。彼らの援軍を得て、下エジプトの他の支配者達を撃破し、これを統一することに成功した。結果、サイスの王家が下エジプトにおける地位を不動のもとした。 (カリアCariaは、アナトリア半島南西部の古代の地方名。北にリュディア、南東にリュキアと接する。ドーリア人は鉄の武器で先住民を征服しながらペロポネソス半島やエーゲ海の島々に侵入した。ドーリア人の代表的な都市はスパルタ。イオニア人の代表的なポリス,アテナイは、BC2000年ころにバルカン半島を南下し、ギリシャ中部やアナトリア半島の地中海沿岸の北西部に定住したとされるアカイア人の一部である。ドーリア人やイオニア人がカリア西部に植民し、そこにギリシアの植民都市国家を形成した。プサメティコス1世の軍事力は、イオニアとカリアの傭兵を背景としていた。) プサメティコス1世は、上エジプトのテーベに対しても自らの権威を承認させることに成功した。第25王朝時代よりテーベの長官の地位にあったメンチュエムハトが、プサムテク1世の娘ニトクリスが、将来「アメンの聖妻」の地位に着くことを認めたことがそれを示している。そしてサイス王家の当主としては5代目にあたるプサムテク1世が、BC664年第26王朝を創始し、都をサイスに置く。やがて、新アッシリアとヌビアのクシュ王国の宗主化から独立した政権を築き、土着のエジプト人による最後の王朝を繁栄に導いた。 一方ナパタまで逃れたタハルカは、従兄弟、もしくは甥であるタヌトアメンを共同統治者とし、しかも後継者であると定め、その大いに語られるに値する有能な王者の生涯を、その翌年(BC664年)に閉じた。 (クシュ王国の王としては3代目にあたる王ピアンキ(ピイPiye)は、軍勢を率いて北上し、エジプトのアメン信仰の中心テーベ(現;ルクソール)を抵抗もなく占領した。BC750頃デルタ地域へ進軍し、メンフィスを占拠し、エジプト第25王朝の初代黒きファラオとなる。ピアンキはBC716年に没した。その後を継いだ弟のシャバカが、BC700年頃に第24王朝バクエンレネフ王を殺し全エジプトを再統一した。シャバカの14年の治世の後、ピアンキの息子であるシャバタカが王位を継いだ。シャバタカの治世に入るとアッシリアの拡大が重大な脅威となっていた。シリア地方は既に新アッシリア帝国王サルゴン2世によって、ガザに至るまで全域がアッシリアの支配下に置かれていた。BC690年にシャバタカ王が死去すると、ピアンキの息子タハルカが第25王朝4代目の王となる。) アッシュール・バニパル王のエジプト遠征は、農産品や食料などの略奪が目的だったようで、アッシリアに戻るのが早かった。 ネコ1世の後継者プサムテク1世の時代でも、属国支配が実態であった。それでも、平和は国力を高める。ネコ1世とプサムテク1世、その次のネコ2世などは、エジプトの古代ピラミッド時代への復興を目指した。 アッシュール・バニパルは、さらに東方のエラムを征服することで最大版図を実現した。彼は図書館を建てたことでも有名である。しかし、アッシュール・バニパルの死後数年で内紛が起こり、それに乗じて周辺諸国の反乱が誘発された。 その支配があまりにも強権的で過酷であったため、各地に反乱が相次ぎ、さしもの大帝国も巨大な軍事力に陰りが見えてくる。アッシュールバニパルが死去する数年前からBC612年のニネヴェの陥落までの時代は、明らかに残存史料が不足している。『アッシュールバニパルの年代記』はその治世を復元するための第一等の史料であるがBC636年までの情報しかない。アッシュール・バニパルの治世最後の年としてBC631年がしばしば採用されるが、これはハッラーンで発見された1世紀近く後の新バビロニア王ナボニドゥスの母が作らせた碑文に依っている。アッシュールバニパルが生きて統治をしていたことを示す最後の同時代史料は、ニップル市で作成されたBC631年の契約書に記載されるリンムによる。 1年間の公的な年号は「リンム誰某の年」、古アッシリア時代には、王自身がリンムになることはなかったが、中アッシリア時代や新アッシリア時代には王がリンムとなることもあった。 アッシュールバニパルは、BC631年に死亡した。後継者である息子のアッシュール・エティル・イラニやシン・シャル・イシュクンに関する碑文が、バビロンに遺存していた。これにより、バビロン市が新バビロニアの王ナボポラッサルによってBC626年に占領されており、その後二度とアッシリアの手に戻ることがなかったことが知られた。 アッシュール・エティル・イラニのアッシリア王即位当初、反対と動揺があった可能性がある。ニネヴェ市の発掘調査で、アッシュール・バニパルの死亡の頃の火災跡が発見された。首都における陰謀の痕跡と想定される。アッシュール・エティル・イラニの碑文に「我が父は余を育てなかった」とある。国王になるための薫陶や将来重臣となるべき人材を側近に置かなかったようだ。 ほぼ孤立無縁の最中、アッシュール・エティル・イラニが即位すると、「ラブ・シャケ」の地位にあったシン・シュム・リシルに土地を授与している。「ラブ・シャケ」とは、アッシリア語で「献酌人の長」を意味し宮廷の高官であった。献酌人は、王にブドウ酒や他の飲み物を注ぐ役人である。「献酌人の長」は、常に毒殺の危険がある王が飲むブドウ酒を王に供する前に毒味をする。王の命に関わるため、王が信頼する者が、この職務に就く。「献酌人の長」となれば、側近の一人として王室の会議や外交の場に列席するようになり、その地位は、宮廷の中で最も誉れある地位の一つとなった。王宮の宦官長が、王といつも内密な話のできる立場から、王族の護衛隊長となることも珍しくない。常に王に侍る重要な側近となれば、将軍となり戦略的決定や戦術的展開も担うようになった。大英博物館に所蔵されている粘土板には、アッシュール・バニパルが「私は我が軍勢に加わるようにと、ラブ・シャケやすべての総督や王たち(略)に命じた」と記す。 シン・シュム・リシルは宦官であり、恐らくアッシュール・バニパル(在位:BC668年~BC631年頃)の治世中に、宮廷の有力者の宦官長に就任した。新アッシリアでは、王は簒奪の脅威を避けるため、宦官がしばしば政府の有力な地位に任命された。アッシュール・バニパルの死に際し、シン・シュム・リシルは恐らく彼自身が預かる護衛隊を使い、王子アッシュール・エティル・イラニを王座に就けつため素早く王宮を制圧し、反乱を事前に鎮圧し、玉座に迎えた。王の側近として有力な将軍となった。シン・シュム・リシルはアッシュール・エティル・イラニの治世下において、事実上、新アッシリア帝国の支配者と振舞った。 アッシュール・エティル・イラニは、BC627年に亡くなる。僅か数年と短命な治世であった 。そして兄弟のシン・シャル・イシュクンが跡を継いで王となった。シン・シュム・リシルは、前王の側近として権勢を振るったが、新王の誕生によって自らの地位が失われる恐れが生じた。シン・シャル・イシュクンに対して反乱を起こした。当初、ニップルとバビロンを攻略するほどの勢いがあったが、僅か3ヶ月後、シン・シャル・イシュクンによって打ち破られた。 アッシュール・エティル・イラニの治世中に王子がいたことが証明されている。だが王位を継いでいない。 アッシュール・エティル・イラニの在位の間に、周辺諸国が新アッシリアの支配下からの離脱や、さらにはアッシリアの前哨地への攻撃があったことが窺える。例えばBC628年頃、表向きはレヴァントの属国であったユダ王国の王ヨシヤが、地中海の沿岸アシュドドを占領して自らの臣民の一部をそこに住まわせている。 アッシュール・エティル・イラニは、父アッシュール・バニパルが死亡したBC631年から、死去するBC627年まで統治した。その在位期間が短く、僅かな碑文しかなく、その治世について推測するに足る史料がない。また、アッシュール・エティル・イラニが、追放されたり殺害されたりしたことを示す史料も存在しない。 最後から2番目のアッシリア王シン・シャル・イシュクンの治世(在位;BC627年頃 - BC612年)になると、新アッシリアはり弱体化し回復不能な状態になった。兄弟のアッシュール・エティル・イラニから王位を継承した経緯を示す史料が遺らない。アッシュール・バニパルが死去する数年前からBC612年のニネヴェの陥落までの時代は、明らかな粘土板史料が不足している。『アッシュールバニパルの年代記』は、その治世を知る第一級の史料であるが、BC636年までの情報しかない。 シン・シャル・イシュクンの即位後、軍司令官のシン・シュム・リシルが王位を狙って反乱を起こした。これを比較的速やかに鎮圧したが、この反乱で政権が不安定になったことが、バビロニアにおける空位期間と合わさり(シン・シャル・イシュクンとシン・シュム・リシルは共に公式にバビロンの王であることを宣言していなかった)出自不明の人物ナボポラッサルによるバビロニアでの政権の樹立を可能にしたのかもしれない。何年も討伐を繰り返したにもかかわらず、シン・シャル・イシュクンはナボポラッサルを打倒することができず、その間にナボポラッサルは地位を固め、1世紀に渡る新アッシリアの支配から独立して新たに新バビロニアを興すことを許した。 BC626年からBC620年にかけて、新たに建国された新バビロニアによって南部の諸属州を失った。 新バビロニア王ナボポラッサルと新たに成立したメディアの王キュアクサレス2世は、その後アッシリアの中核であるアッシュルの地へと侵攻した。BC614年にキュアクサレス2世は、アッシリアのの母市であり、新アッシリアの王都が他にいくつか建造されても、宗教的・政治的重要性は衰えなかった。アッシュール市を占領して残虐に略奪した。BC612年には新バビロニアとメディアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃した。長い攻城戦と激しい市街戦の末に連合軍を率いた将軍ナボポラッサルが、新バビロニア王国を建国してメソポタミアの支配を引き継ぎ、首都のバビロンはニネヴェに代わりオリエントの中心になった。その侵攻は、アッシリアの征服を目的とせず、強国アッシリアの再興を恐れ、完膚無きまで破壊し尽した。 シン・シャル・イシュクンは、ニネヴェでの戦いで死亡したものと見られる。恐らく息子であるアッシュール・ウバリト2世が王位を継ぎ、ハッラーンでアッシリアの残存兵力を再編した。 シン・シャル・イシュクンの地位は別のアッシリア王アッシュール・ウバリト2世によって継承された。彼は恐らくシン・シャル・イシュクンの息子であり、ニネヴェにあったBC626年とBC623年の碑文に登場する王太子と同一人物であると見られる。アッシュール・ウバリト2世は、ユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原ハッラーン(ハランHarran)で即位した。アッシュール市が破壊されていたことにより、アッシュール・ウバリト2世はアッシリア王の伝統的な戴冠式を行うことができなかっため、国家神アッシュールから王権を授かることができなかった。このため、彼の短い治世の間に残された碑文においては、彼は臣下たちにとっての法的な君主ではなかったので、未だ王ではなく王太子として登場している。従ってアッシリア人にとってシン・シャル・イシュクンが、真の意味での最後の王であった。 アッシュール・ウバリト2世はナボポラッサルがBC610年にハッラーン市を攻撃すると逃亡に追い込まれ、治世とまでは呼べない3年間であった。そして、エジプト軍の支援を受けてアッシリア軍の残党がハッラーンの再占領を試みたがこれも失敗した。これを最後にアッシュール・ウバリト2世とその指揮下にあったアッシリア人たちは歴史から姿を消し、バビロニアの史料に再び登場することもなかった。 新アッシリア帝国滅亡後の情勢 BC1200年のカタストロフにより、ヒッタイトが滅亡して南東アナトリアにシリア・ヒッタイト(BC1180年頃-BC700年頃)と呼ばれる小国家群が立ち上がった。これらの国家群の中からリュディアなどが台頭した。 BC7世紀の中頃に、エジプト第26王朝が独立、次いでイラン高原にインド・ヨーロッパ語系のメディア王国が、また小アジアに同系のリディア王国が成立した。さらに、メソポタミア南部に移動していたアラム人の一派と思われるカルデア人は、BC625年にバビロンを都として新バビロニア(カルデア 王国)を樹立すると、メディアと同盟してアッシリアを攻め、BC612年にニネヴェを陥れてこれを滅ぼした。 BC612年にアッシリア帝国が滅亡して、オリエントは、メディア王国・リディア王国・新バビロニア・エジプト第26王朝(新王国)の4国が併立する形勢となった。なかでも、メソポタミアからシリアやパレスチナへかけての「肥沃な三日月地帯」を支配した新バビロニアがもっとも優勢であった。 リュディアは、ホメーロスの詩では、ヒュデ市を中心にして興ったと伝える。ヒュデ市は、リディア王国の首都サルディのアクロポリスの名前である。フリュギア人Phrygiansは、インド・ヨーロッパ語族の人々で、おそらくギリシア方面からBC12世紀頃移住してこの地域を支配し、BC8世紀に国家を建て、しばらくは強力な王国として栄えた。リュディアの興起は、東隣の大国フリギアと西のギリシア世界との間における交易上の優位性と、領内で金が産した事が大きな要因となった。 しかし、BC9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族キンメリア人(コーカサスとアゾフ海の北部に居住していたイラン系民族、スキタイ人に追われたようだ)が侵攻し、BC695年にアナトリア中西部のフリュギア王国のミダス王を自殺に追い込み、BC670年~BC660年代初めには、アナトリア西部にあったリュディア王国の都サルディスを一時占拠した。 そのキンメリア軍が、BC640年頃に、リュディア王の派兵要請に応えた新アッシリアのアッシュール・バニパル王に敗れ、BC7世紀の終わり頃には、リュディアの王アリュアッテスAlyattēs(在位:BC610年頃 - BC560年頃)に敗れ、その後史料に現れず、アナトリア半島では未だ遺跡の発掘すらない。 アリュアッテスの下、リュディア王国は、再度、東進してフリュギアを傘下に収め、その領域をハリュス川(クズルウルマク川)まで拡大した。一方ハリュス川の東側では、新アッシリア帝国滅亡後、メディア王国が勢力が拡大しており、BC590年頃からリュディアと戦争状態に入った。 BC585年5月28日、両軍はハリュス川で戦ったが、突然の皆既日食のため両軍は戦どころでなくなった。これを契機に、バビロニア王ネブカドネザル2世とキリキア王の仲介により、ハリュス川を両国の境とすることで停戦して平和条約を結び、6年間にわたる戦争を終わらせたた(日食の戦い,この日食は、タレスによって予測されていたとヘロドトスは述べる)。 アリュアッテスの時代に、アナトリア半島の地中海東岸のミレトスなどギリシア植民都市を支配し、強大なリュディア王国を出現させた。次王クロイソス(在位;BC560年頃‐BC546年頃)は、交易を活発化し王国をさらに強国としたが、新興のペルシア王キュロス2世の大軍勢に侵攻され、王都サルディスは陥落した。 ( 紀元前6世紀初めのミレトスで、タレスとその弟子、アナクシマンドロス・ヘカタイオス・アナクシメネスと彼らが形成する学派のメンバー達によって、 「神話や精霊を引き合いに出すことなく、事物の性質それ自体の中で答えを探求する」、 「とりわけ、批判的な思考を正しく用いる。それにより自らの視点を絶えず修正する」、 「師の思索に立脚しながらも、弟子は時にそれを否定し、批判し、より優れていると思えるものを生む哲学的思考や科学的思考が目覚ましい発展には不可欠である」と語られ、 ミレトスの人々がそのことの重要性に気付き尊重した。 以来、人類の知識の幅は目覚ましい勢いで広がり、更に深まった。 ミレトスは、クレタからアナトリアへ移住した人々を中心に、先住のカリアの人々も加わり、BC11世紀に創建された都市で、BC7世紀後半からBC6世紀にかけて、その最盛期を迎えた。ミレトスは、哲学・自然科学・地理学・歴史学などの揺籃の地となるほどに成長した。地中海のみならず、西欧の近代科学や哲学の根本原理が、BC6世紀のミレトス人の頭脳の中で育まれ、さらなる文明の画期的発展に貢献するはずであった。 後世、権力に溺れるキリスト教の司教や主教たちとそれに盲従する信徒達に迫害され、ヨーロッパの自然科学は、ルネッサンス時代まで停滞する。 アリストテレス(BC384‐322)は地球球体説を主張する。根拠は、「地上のあらゆるものは圧縮・集中によって球を形成するまで中心に向かおうとする傾向を持つ」、「南へ向かう旅行家は、南方の星座が地平線より上に上るのが分かる」、「月食時に月面に影が差す大地は円い」などの観察結果からである。更にアリストテレスに由来する知識として、ヨーロッパ人たちの住む世界は、赤道を挟む熱帯の北側にある温帯で、灼熱の熱帯と極寒の寒帯は無人境である。地球は球形であり、熱帯と南北の温帯と寒帯という5つの領域を持ち、南半球には未知の大陸が存在すると認識していた。 ) キュロス2世は、BC600年頃、ペルシア王国の王である父カンビュセス1世とメディアの王女の母マンダネ(メディア最後の王アステュアゲスの娘)との混血の王子として生まれた。当時のペルシアは、バビロニアを除くアッシリア北部の領土すべてを征服したメディア王国に服属する小王国にすぎなかった。キュロス2世は、メディアに対して反旗を翻す。バビロニアの碑文には、「この戦いはBC 553年に起り、軍が寝返ったためにアステュアゲスは捕われたとある」が、詳細は未だ不明のままである。 アステュアゲスは、貴族ハルパゴスを将軍に討伐軍を差し向けた。絶対的な王権を目指すアステュアゲスの傲慢を嫌ったハルパゴスは、人望があるキュロス2世に部隊ごと寝返った。やむなくアステュアゲス自らが討伐に向かったが、パサルガダエ(イランの南部ファールス州)近くの戦いでキュロス2世に敗北し、捕虜になった。メディアの首都エクバタナ(現;イラン・ハマダーン)を攻略して、祖父の国メディアを滅ぼした。この時に、統一王朝アケメネス朝が始まったとされる。勝利後キュロス2世は、パサルガダエに都市を建て帝都とした。BC6世紀、ダレイオス1世(BC550年頃 - BC486年)が建設したイラン中南部のペルセポリスをアケメネス朝ペルシャの王都とした以降でも、歴代ペルシア王はパサルガダエで即位した。 BC5世紀の古代ギリシアの歴史家クテシアスによれば、アステュアゲスはキュロス2世の重臣オイバレスの入れ知恵で、宦官ペティサカスによって飢え死にさせられた、と記す。 不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた精鋭部隊を率いて、小アジア西部のリュディア王国の黄金期に攻め込んだ。キュロス2世は、リュディア王国と2回の戦いで首都サルディスを攻囲し、圧倒的な軍事力でリュディア王クロイソスを捕らえた。 ヘロドトスによると、クロイソスはBC595年頃に、リュディア王アリュアッテスの子として生まれた、とある。アリュアッテスの死後、リュディア王となったクロイソスは、アナトリア半島の地中海西岸に、イオニアのギリシア人が築いた植民都市を次々と征服し、リュディアに併合していた。キュロス2世は、クロイソスの焚刑を中止し、アナトリア遠征の案内役とした。 アナトリア半島の地中海西海岸には、ギリシア人が進出し建設したスミュルナ(ホメロスが居住)・エフェソス(王政が敷かれた)・ミレトス(タレスはミレトス学派の始祖)など植民都市が多くあり、それらのポリスの殆どでは僭主が選ばれ統治していた。その形態は様々であり、王を称して自ら世襲の君主となる者もいた。アケメネス朝では、ポリスに自治を認めつつも、従属的な僭主を統治者とすることで間接的な支配を行った。 キュロス2世は、BC540年にスサを攻略してエラムを滅ぼした。既に、エラム王国は衰退して、スサ周辺のみを領有していた。BC539年、新バビロニア帝国の首都バビロンの北、チグリス川沿いの戦略的要衝都市オピスの戦いに勝利し、更に10月、シッパルが陥落する。新バビロニア最後の王ナボニドゥスは、バビロンへ逃れたが、配下であったウグバルの裏切りで拘束され、バビロンはペルシア軍に無血占領され新バビロニアは滅亡した。10月29日、キュロス2世は、バビロンに入城して、「諸王の王」を号した。 当時のバビロンには、「バビロン捕囚」よ呼ばれる、かつて強制移民させられたユダ人などの諸民族がいた。キュロス2世は、その諸民族を解放した。この行動により、後世に理想的な帝王として語り継がれる。旧約聖書の『イザヤ書』では、ユダ人を解放して帰国させたことで、キュロス2世をメシア(救世主)と讃えた。また、キュロス2世は、新バビロニアのネブカドネザル2世が破壊したエルサレム神殿の再建を援助した。 キュロス2世は、ペルシア王国の第7代王にして、アケメネス朝ペルシアの初代国王である。やがて、古代エジプトを除いた全ての古代オリエント(中東)諸国を統一し、中央アジアの東側にまで及ぶ大帝国を築いた。キュロス2世は、メディアの制度や文化を継承し、メディア人をペルシア帝国においても重用した。 古代エジプト末期王朝時代 (BC750~305) プサムテク1世 エジプト第26王朝の初代ファラオ,プサメティコス1世Psammeticus I(在位:BC664年~BC610年)は、エジプト末期王朝時代(BC750年頃~BC305年頃)のC664年、都をサイスに置き、第26王朝を樹立した。新アッシリアとヌビアのクシュ王国の宗主権から独立した政権を築き、土着のエジプト人による最後の繁栄期となる王朝時代を実現した。 プサムテク1世(Psamtik I(在位:BC664年 -BC610年)は、サイス王家の当主としては5代目にあたる。そのサイスを治めるネコ1世NechoI(ネコは古代ギリシャ読み、正確にはネカウNekau)の息子として生まれた。この一族は、リビア系エジプト人のテフナクト1世を始祖とする第24王朝の血を引く家系である。ネコ1世の時代までは、第24王朝を滅ぼしたヌビアの第25王朝に服属し、知事としてサイスを統治していた。 BC671年にエサルハドン王がエジプトに侵入した。第25王朝の王タハルカは戦いに敗れ根拠地であるヌビアへと追われ、新アッシリア帝国のエジプト支配が始まった。ネコ1世とその息子であるプサムテク1世は、アッシリアによってエジプトの太守に任命され、それぞれ「サイスの王」、「アトリビスの王」という地位を承認された。「アトリビス」は、ナイル・デルタの南部、現在のクァリュービア県のあった。遺跡の現状は、遺丘(テル)になっているので「テル・アトリブ」と呼ばれている。 プサムテク1世と下エジプトの支配者達との戦いは、アッシリアの宗主権下において行われたものであり、実態は反アッシリアの土着勢力相互間の主導権争いと言える。結果、下エジプトにおけるエジプト人による支配が確立された。 プサムテク1世は、BC664 第26王朝を樹立し、都をサイスに置く。上エジプトのテーベに対しても自らの権威を承認させることに成功した。第25王朝時代より上エジプト総督であった司祭メンチュエムハトは、プサムテク1世の娘ニトクリスが、将来「アメンの聖なる妻」の地位に就くことで受け入れた。 王の姿を借りた国家神アメンが、正妃の称号となる「アメンの聖なる妻」と交わることによって、アメンの聖なる血を受け継いだ次王が生まれるとされた。このため、王は同腹の嫡出姉妹から正妃を選ぶのが理想とされた。 プサムテク1世は、既に、デルタ地方諸都市の抵抗勢力を制圧し、上エジプトも掌握した。内政の充実に努めた。貿易や建設事業を積極的に行い、軍隊にはギリシアなど多くの外国出身者を傭兵とし、徹底的に強化した。美術・芸術分野では古王国・中王国時代への回帰が唱えられ、「サイス・ルネッサンス」と呼ばれている。この時代の出土品は、古王国時代まがい遺物も少なくない。 2017年3月9日、ヘリオポリスの町があったカイロ郊外の地下で、巨大な像の断片が発見された。破片は4500個もあった。彫像の基部に彫られた名前はプサムテク1世であった。珪岩で作られた像は、胸部と頭部からなるが、全身を含めた高さは、約7.9mになると推測された。 ネコ2世(ネカウ2世) エジプト第26王朝の第2代ファラオ,ネコ2世Necho II(在位: BC610年~BC595年)は、プサムテク1世の子である。ネコ2世は、BC605年のカルケミシュでの敗戦後、内政を重視し交易を活発化するため、ナイル川から紅海まで運河を拓こうとした。現在のスエズ運河を2500年も先取りしていたが、完成には至らなかった。 特に、ギリシア人との交易関係を強化し、エジプト初の海軍を創設した。ギリシャ人の傭兵を中心に結成し、地中海や紅海に配備した。更にフェニキア人の船乗りにアフリカ大陸を一周させたという記録が遺こる。古代エジプトは、元々、海洋交易に傾斜していなかったが、、ネコ2世は、海に関する事業を積極的に展開した。 ネコ2世(在位: BC610年 - BC595年)は、新アッシリア最後の王アッシュール・ウバリト2世の治世(BC612-BC609年)と重なり、当時、宿敵新アッシリアが衰退し、エジプトが勢いを盛り返せる時代に王になった。 . 新興の新バビロニアに敗れたアッシリアを救援するために軍を進め、新バビロニアと同盟するユダの王ヨシヤが進路を塞いだためメギドの戦いで殺し、パレスチナに足場を築いたが、BC 605年カルケミシュの戦いで新バビロニア王ナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世に大敗を喫した。BC 601年にはエジプト本土も攻撃されたが、この時は敵を撃退させた。 ネコ2世は、シリアとパレスチナで反バビロニア勢力の拡充を図った。しかし彼自身は、敗戦に懲りて再びエジプトを出ようとはしなかった。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、彼はアフリカ一周の遠征航海を実現させた。また紅海とナイル川を結ぶ運河の建設を試みたが、神託に従って中止したという。 「メギドの戦い」とは、BC609年に、ネコ2世のエジプトと新アッシリアの亡命軍が同盟して、新バビロニアと、北シリアの「カルケミシュの戦い」の前戦で起こった、エジプトとユダ王国との戦いであった。エジプト軍がカルケミシュに到達するためには、ユダ王国の支配領域を通過する必要があり、ネコ2世はその許可をユダ王ヨシアに要請した。理由は不明であるが、ヨシア王はそれを許さず戦いとなり、新バビロニア王国の援軍があったものの、ヨシアはその戦乱の中で死んだ。 その後、ユダ王国はエジプトの属国となり、エジプトは、再び、シリア・パレスティナ地方への覇権を回復した。シリアとメソポタミアからの帰還時に、ネコ2世は、ヨシアの跡を継いでユダ王となった息子のヨアハズ(別名をシャルム)を捕らえて追放した。更に、100タレントの銀と1タレントの金を課税し、ヨアハズの異母兄であるエルヤキムを王に任命した。ネコ2世はエルヤキムの名をエホヤキムと改名させた。ネコ2世は多くの貢納を要求したので、エホヤキムは国民に重税を課した。ヨアハズ(エホアハズ)はエジプトの捕虜として抑留され、国外で死亡した初めてのユダの王となった。 BC605年、新アッシリアを滅ぼしてメソポタミアに覇権を唱えたナボポラッサルが、王子ネブカドネザル(後のネブカドネザル2世;在位;BC604年~BC562年)の軍をレヴァントへ派兵した。エジプト王国と新アッシリア亡命政権の同盟軍に対する、新バビロニア王国・メディア王国・スキタイの連合軍との戦いとなった。 大英博物館収蔵のネブカドネザル2世の年代記には、「(ナボポラッサルの)治世第25年(BC605)、アッカドの王(ナボポラッサル)は 彼自身の国に留まり、彼の最も年長の息子にして皇太子であるネブカドネザルが、バビロニア軍を召集し、彼の軍を指揮した。彼はユーフラテス河沿いにあるカルケミシュへ行軍した。そして彼は河を渡り、カルケミシュにいたエジプト軍に向かっていった。彼らは戦い、エジプト軍は彼らから逃れた。 彼は彼らを敗走させ、一人残らず打ちのめした。残りのエジプト軍は、敗北すると素早く逃げたため、武器を交わすことができなかった。ハマテ(ハマト)の地で、バビロニア軍は彼らに追いつき、一人残らず彼らの国に帰れないほどに打ち負かした。この時、ネブカドネザルはハマトの地の全てを征服した。 21年間に亘り、ナボポラッサルはバビロンの王だった。アブの月の8日(BC605年8月15日)、運命に従い旅立った。ウルルの月 (9月) ネブカドネザルはバビロンに戻った。ウルルの月の1日 (BC605年9月7日)彼はバビロンの玉座についた。」とある。 エジプトは、この「カルケミシュの戦い」で敗退し、シリア・パレスティナ地方の覇権を奪われた。幸い、この戦の前後にナボポラッサルが没したため、ネブカドネザルの軍は帰国し、エジプト本国の蹂躙は免れた。 ネブカドネザルは、BC586年に再び度遠征し、パレスチナのヘブライ人のユダ王国を滅ぼし、多数のユダ人を首都バビロンに連行した。これが「バビロン捕囚」である。またフェニキア人の商圏を押さえ、バビロンは古バビロニアのハンムラビ王時代を超える繁栄を極めた。 プサムテク2世(プサメティコス2世) ネコ2世の息子、在位B.C.595~589、即位名の意味は「美しきはラーの心」。在位は6年間と短いが、軍事・政治ともに精力的な王であった。ヘリオポリスの寺院の高台に、21.79mを超える見事な一対のオベリスクを建てた。エジプト西方砂漠ハルガオアシスに建つハイビス神殿も、プサメティコス2世によって建造された。
サイスの王朝は第24王朝時代からヌビア(第25王朝)と競り合っており、第25王朝が崩壊しヌビアへ撤退した後も確執は続いていた。このヌビア遠征には後に王位を簒奪することになるアマシス(イアフメス2世)が将軍として参加していた。プサムテク2世は、ナパタの神殿を焼失させ、碑文を打ち壊したが、ヌビアを支配することはせず略奪をして帰った。この遠征は、クシュ王国のエジプトへの野心を阻むための住民虐殺と建設労働者獲得のための攻撃であった。 ちょうどこの頃、ヌビアの首都は、かつてのナイル川中流第4急湍のすぐ北のナパタからメロエ(現在のスーダンの首都ハルツームの北東)へと移っている。 また、プサムテク2世の王女アンクネスネフェルイブラーは、テーベの「アメンの聖なる妻」となっている。テーベとの関係も良好だったようだ。 ヘロドトスの『歴史』には、BC600年頃、ネコ2世の命により、フェニキア人は、紅海から出港し、時計回りに、喜望峰を経由して、アフリカ大陸を一周し、3年後にエジプトに戻って来た、と記す。フェニキア人が、エジプトの交易品を扱っていたこともあり、その関係は良好で、プサムテク2世は、BC 591年に、フェニキアを訪れている。 アッシリアの滅亡後のフェニキアは、新バビロニア、次いでアケメネス朝ペルシアに服属するが、依然として海上交易と地中海沿岸各地の植民都市の繁栄で、勢威は保たれていた。特にアフリカ西北岸・イベリア半島南部海岸やチュニジアに植民都市を集中させる。チュニジアのチュニス湖東岸にあったカルタゴは、本国のティルスがアッシリアに支配されると、フェニキア人にとって、このカルタゴが本拠地となり、ここを拠点として西地中海交易を支配してゆくことになった。同時期、ギリシアの都市国家が、東地中海交易を独占する勢力となりは、イタリア半島から黒海沿岸部やアナトリア半島の地中海西海岸に植民都市を盛んに築き、やがてフェニキアと拮抗していく。 その後、カルタゴは、イタリア半島を本拠地に台頭してきたローマの軍勢と、地中海全域に及ぶ覇権を競うライバルとなる。ローマ人から呼ばれる「ポエニ戦争(BC264年~BC146年)」で、地中海覇権の鍵を握る地中海の中央部のシシリア島などの支配をめぐってローマ軍と激突する。 (ヘロドトスは、アナトリア半島南西部のカリア地方の地中海沿岸にあった古代ギリシア都市ハリカルナッソス(現;トルコ領ボドルム)の出身であった。ヘロドトスは、現在では日本語で『歴史(英:;The Histories)』と言うタイトルで知られる著作を残した。それは、全ギリシアを巻き込むペルシア戦争を主題にした1種の同時代史であり、著述の方法として調査・探求(historia)と言うギリシア語の単語を使った現存する最古の用例ともなった。ヘロドトスには、現代で言う「歴史」と言う概念はもとより、自らを歴史家とも思っていなかった。当時の「ギリシャ哲学」には、未だ「歴史」と言う文言すらなかった。ヘロドトスが用いた調査・探求(ヒストリエー historia )というギリシア語の単語が、英語の historyやフランス語の histoireの語源となっている。ヘロドトスは、BC430年からBC420年の間に、60歳前後で死亡した。その没後100年あまりの間に、「ギリシャ哲学」に叙事詩とは異なる「歴史」というジャンルが明確に確立された。
歴史それ自体の評価と分析は、時代の共に変化し新たな評価が下される。過去に発生した史実を、完璧な形で再現することは、将来の科学技術の発達が想定されても未来永劫、不可能である。歴史学は真実を再現する事はできない。「歴史そのものがフィクションである」という極言が至言に思えるぐらいである。 ヘロドトスの『歴史』は、歴史学の嚆矢であることは紛れもない。考古学は、過去の事象を検証するために史料を収集し、それらを再評価するの過程の積み重ねである。ヘロドトスの「歴史」は、その嚆矢となる。当然、それぞれの時代ごとの限界が伴い、批判的検討は避けられない。それでも歴史学の創始は、ヘロドトスの「歴史」から第一歩が始まった、と讃えるべきである。 ヘロドトスは、未だ歴史という語句すら無かった時代に、後世その端緒となる著書を遺した。その時代背景に、古代アナトリア半島南西部のイオニア地方のギリシアの植民都市の存在が大きく貢献した。近くにスミルナがあった。当時のイオニア地方で活発化していた知的活動による成果が、ギリシャア哲学を誕生させた。ヘロドトスの「歴史」もまた、当時のこの潮流から醸成された。 BC6世紀頃のイオニアの中心都市ミレトスに集まる古代ギリシア人が、知的活動の一大拠点を築いた。当時のイオニア地方から、後世、哲学と呼ばれる叡知を極めんとする多数の研究分野が創始された。万物の根源を探究したタレスやアナクシマンドロス、アナクシメネスなどがミレトス学派を開花させた。またエフェソス出身の「万物は流転する」と結論づけたヘラクレイトスや、サモス出身の数学者ピュタゴラス、コロフォン出身の「擬人的神観に反対し、神は一にして一切なるものと説いた」クセノファネス、そしてヘロドトスの同時代かそれ以降の人であるエーゲ海南東部のコス島出身の「医学の父」ヒポクラテスなどの名も現代に伝わる。) ウアフイブラー(アプリエス) プサムテク2世の息子、在位はB.C.589年~B.C.570年、即位名の意味は「慶賀すべきは永遠なるラーの心」。ギリシャ名はアプリエス。 国内外に問題を抱えて苦悩する。最期はリビアとの戦い敗れ、軍の反乱により処刑されてしまう悲劇のファラオとなる。 ネコ2世の新バビロニアとの「カルケミシュの戦い」以降、レヴァント やその周辺国は、新バビロニアに対抗でき勢力では無くなっていた。BC588年、ウアフイブラーは、新バビロニアの王ネブカドネザルとシリアの覇権を争おうとした。既にバビロニアの属国となっていたエルサレムのユダ王国をたきつけて、バビロニアに反旗を翻させる。 エホヤキン(ヨヤキン)がバビロンに連行された後、新バビロンの王によってその叔父が王位に就けられてゼデキヤと名乗った。11年間、王位にありエルサレムでユダ王国(族長ヤコブの子ユダの名前に由来する)を治めたが、ユダ王国最後の王となった。 ゼデキヤは、周辺諸外国が対新バビロンで結束しようとした時に、自らはバビロンと和平交渉に行ったが、最後には主戦派の圧力に屈しネブカデネザルに反逆した。その1年半後のBC586年に、ネブカドネザルは遠征しエルサレムの城壁の周囲に砦を築いた。その年の4月9日になると、エルサレムの都市内が厳しい食料難となった。ゼデキヤは、闇夜に紛れて脱出して落ち延びたが途中で捕らえられた。ネブカドネザルは、ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺した後、ゼデキヤの目をえぐり、足枷を付けたままバビロンへ連行した。死ぬまで鎖はずさなかった。ネブカデネザルのお陰で、ユダの王に即けたのに、エジプト側に寝返ったことを激怒したからだ。ゼデキヤの息子ミュレクだけが、西の方へ逃げたと伝わる。 5月7日に、バビロンの侍衛の長ネブザラダンがエルサレムに来たのが、エルサレムが陥落した、その1か月ほど後、つまりゼデキヤ王がネブカドネザル王の前に連行され、盲目にされた後のことである。侍衛の長は、カルデヤ人などすべての軍勢に、エルサレムを囲む城壁を完全に破壊させた。エルサレム神殿の財宝を略奪し、王宮と王家、そしてエルサレムの都市全体が破壊された。支配者や貴族たちは、首都バビロニアへ連行され、これを「第1回バビロン捕囚」という。 ネブザラダンは事後措置として、バビロンの王の代弁者として、BC587年、ユダ王国の貴族ゲダリヤを総督に任命し、ユダ残留者たちを監視するよう命じた。ゲダリヤは、壊滅したエルサレムから、遠く離れたイスラエルの北の果て、ミヅパに居を移し、親バビロニア政策を推進した。 イスラエルの地にユダ民族を存続される手立は他には無かった。ゲダリヤはミツパに居を構え、かつて「やがて訪れるイスラエルの戦火は、神の意思である」と預言し排斥された預言者エレミヤ(旧約聖書の『エレミヤ書』の古代ユダの預言者)も、そこに住むほど信頼されていた。以後、辛うじて捕囚から免れたユダの軍隊の長たちは、部下と共にミツパにいるゲダリヤの元へ頼って来た。しかも、モアブ・アンモン・エドムや他の場所に離散したユダ人も、絶えることなくゲダリヤを頼り訪れた。ゲダリヤの偉大さは、虚勢を張ることなく、新バビロニアの王に仕え続けることが、ユダ民族が生き延びる手立てと、ぶどう酒や果物を供して、ユダ人を繰り返し説得したことにある。 ダビデ系統を誇るユダ王家のイシマエルは、ゲダリヤに輿望が集まること嫉視し終に暗殺した。総督暗殺事件が起こると、報復を恐れた反バビロニア派の多くはエジプトに亡命した。BC568年にゲダルヤ暗殺とその後の混乱の中で、エジプト逃亡を主張する一団に、エレミヤは無理やりエジプトへ連行される。エレミヤが絶望的な状況の中で告げていた預言は、実は未来への僅かな願いが込められていた。 「宗教が組織化されると、いたずらに形式的に中央集権化し儀式化していく。されど、心情深く、人格的個人的な関係こそが宗教の本質である」、と説いたエレミヤは、南王国ユダの最後の証人となった。 「預言は災厄への警告が主である。災厄を通して神と新しき永遠の契約を結ぶことが迫られている。」 このエレミヤ思想を、後世のイエス・キリストはどう解釈したのであろうか? その間、エジプトは援軍を送るが、やはりバビロニアにはかなわずユダ王国は滅亡、残留した住民は皆バビロニアに強制移住させられた(第2回バビロン捕囚)。捕囚を逃れた多くのユダ人がエジプトへ流出した。 (「旧約聖書:ヨシュア記:11章:3節」; すなわち、東西のカナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、山地のエブスびと、ミヅパの地にあるヘルモンの麓のヒビ人(「旧約聖書」中のヒビ人はフルリ人を指しているようだ)に使者を遣わした。 ヘルモン山は、エルサレムから遠く北に離れたイスラエル・シリアとレバノンの国境アンティレバノン山脈の南端に聳え、頂上に雪をいただく標高 2814mの高山。ヘルモンは「禁じられた場所」を意味し、古来、聖地とされている。 1967年の中東戦争後、その南と西の山腹は、ゴラン高原の一部として、イスラエルが管理する。) これが第2回バビロン捕囚で、一般にこの時のことを「バビロン捕囚」と言っている。この時エルサレムから連れ去られたのは、エレミヤ書に依れば832名とされているが、これは家長だけの数字である。この時はエルサレムの都市は徹底的に破壊され、神殿に火を放たれた都市は灰燼に帰した。ユダ王国は滅亡した。なお、「エレミヤ書」によれば、BC582年に第3回のバビロン捕囚が行われ、745人が連行されたと言う。ネブカドネザルはユダの地を新バビロニアの属州とし、総督をおいて支配したが、潜伏した反バビロニアの人々の抵抗が続いた。 「バビロン捕囚」によってユダ王国は実質的に滅亡した。ヘブライ王国から数えれば500年に及ぶ歴史、王家はほぼダヴィデ家の家系で継承された。オリエントでは希有なことである。南のユダ人とベニヤミン人を含むユダ王国(南王国)は、イスラエル王国と比べ人口や耕地面積も少なく、家畜飼育と中継交易に大きく依存した経済であった。エルサレムを政治と宗教文化の中心に置き、かつダビデの家系を継ぐユダ人とベニヤミン人住民が、比較的同質であったために、辛うじて維持された紆余曲折の多い長い治世であった。 イスラエル王国は、当初よりユダ王国よりも経済的にも優位に立っていたが、10部族と多くの部族を抱えたイスラエル王国の求心力は、反ユダ王国の感情だけで、部族間の内紛が絶えず、王朝は幾度も交代した。末期には王が相次いで家臣に殺害され、殺害した家臣が王位に就くという下克上的が相次ぎ、既に、新アッシリアの王サルゴン2世の猛攻によってBC722年に首都サマリアは陥落していた。 リビアでの敗戦 BC570年に、隣国リビアで、植民地化を進めるギリシャの侵入軍と現地民の間で争いが起こり、リビアの王はエジプトに支援を求めた。 この26王朝は、ギリシア人を傭兵として、交易上も友好関係を結んでいる。ギリシアとは敵対しずらい。それでも、ウアフイブラーはリビア人を支持して兵を送るが、派遣された兵士の士気は上がらず、戦況は混乱し、援軍は、あっさり敗北した。 リビアでの戦いは、勝ち目がないことが分かっていながら軍を派遣し、多くの兵士を死なせたとして、敗残のエジプト兵達が王に対して反旗を翻した。その反乱鎮圧のために派遣された将軍イアフメス(かつてプサメティク2世の時代に、ヌビア遠征を指揮した将軍)に、反乱軍の兵達は、無能な王よりも将軍の方がエジプトはより安泰となるして、率先して投降した。首都サイスに近付くにつれ益々多くのエジプト人が、イアフメスを歓迎した。 このためウアフイブラーは、アナトリア半島南西部カリア地方のイオニア系とドーリア系のギリシア人の傭兵を中心とした軍を率いて反乱軍に立ち向かうが、ギリシア人の傭兵同士の戦いであれば結果は明らかだ。イアフメスは周到に準備しウアフイブラーを捕らえ、後顧の憂いを断つため直ちに処刑した。ウアフイブラーの遺体は、丁重に歴代の王と同様の礼式に則って埋葬された。 イアフメス2世は、以後40数年にわたってエジプトを統治することになる。 イアフメス2世(アマシス) 在位B.C.570年~B.C.526年。即位名の意味は「ラーの心を大切にする君」。イアフメスAmasisは優秀な将軍で、プサムテク2世のヌビア遠征にも参加している。そしてウアフイブラーから王位を簒奪した。ウアフイブラーの王女と結婚することで王朝を継承した。平民の出身であったが、古典文化の復興に貢献した。ヘロドトスは、ギリシア中部のにある聖域デルフォイのアポロン神殿が燃やされたとき、その復元に1000タラントと多額の寄付をしたと記す。またフェニキア人やギリシャ人の関係を重視し、交易を積極的に行ない国力を増強させた。
エーゲ海沿岸小アジア南西岸の古代ギリシアの植民都市ミレトスは、マイアンドロス河口にあったため、アナトリアの物資の輸出港として栄えた。 イアフメス2世は、BC560年頃、ナウクラティスをギリシア人との交易のための特許港とした。 古代エジプトにおける古代ギリシアのごく初期の植民都市であり、早くからギリシアとエジプトの技術と文化が交流した。アレクサンドロス大王の時代には、独自の貨幣を鋳造し、ローマ時代にも独立した都市として、メンフィス行きの貨物積替え港として賑わい、ビザンティン帝国時代まで存続した。ここの発掘調査では、多数の美術品が出土し、世界各地の博物館や美術館に収蔵されている。 共伴した陶器の銘は、最初期のギリシア文字で書かれていた。エジプトで初めての通貨も、この都市限定で使われていた。 考古学調査で、ナウクラティスはギリシャ人が創建したのではなく、元々あった都市に、エジプト人やギリシャ人、そしてフェニキア人混住していたことが分かった。その都市がBC570年以降間もなく、戦功の代償としてギリシャ人に与えられた。ギリシャ人を1か所に集住させ、彼らの活動をファラオの統制下に置くという位置付けであった。 イアフメス2世はギリシャ人傭兵の宿営地を閉鎖し、彼らをメンフィスに移し「同族であるエジプト民族からファラオを守る」親衛隊としても任用している。 イアフメス2世は、東はキプロス、西はキュレネまでで強い影響力を持っていた。キュレネ(現;シャハト)は、北アフリカのリビア北東部沿岸にあった古代ギリシアの植民都市であった。この地方にあった5つのギリシャ都市の中で、最大となる中核都市であった。現在は、キレナイカ地方にある古代ギリシャの都市遺跡として遺る。現存する遺跡は、アフダル山地から流れ出る緑豊かな谷川に囲まれた高台にある。 BC7世紀、ギリシャ南東部、エーゲ海にあるテラ島(現ティラ島)の住民が植民指導者バットスに率いられてこの沃野に入植した。キュレネはすぐにエジプトとカルタゴを繋ぐリビア地方の中心的都市となり、全ギリシャ都市との交易関係を発展させ、BC5世紀には自分たちの王の下で最盛期を迎えた。BC4世紀に再収録された「植民決議」の碑文がキュレネのアゴラから出土している。 ナボニドゥスの年代記Nabonidus Chronicleは、バビロニア年代記の一部であり、粘土板に楔形文字で刻まれた非常に短い碑文である。現存する新バビロン滅亡に関する楔状文字史料としては、完璧に近いが、この碑文はキュロスを称賛し過ぎ、ナボニドスを侮蔑する。これはペルシアの書記よる「ペルシアの宣伝」のためと見られるが、情況史料としては信頼できる。新バビロニア帝国の最後の王、ナボニドゥスの治世(在位:BC555年~BC539年)を記録し、ペルシア帝国のキュロス大王によるバビロン征服に関する記述を含み、キュロスの息子、カンビュセスの治世が始まるところで終わる。時期としてはBC556年からBC539年までの間である。 ナボニドゥスは、相次いで王位が変わる新バビロニアの混乱状態を収めて新バビロニアの王座についた。特に強大化する勢力に増長する神官達に対抗するために神殿の人事に介入し、監督官を派遣してこれを統制した。これらの宗教改革から生じた緊迫した政情から、彼はその治世の初期の頃から首都を去り、アラビア砂漠のオアシスであるタイマへと居を移した。 ナボニドゥスは、BC553年にシリアへ遠征を行い、次いでBC552年にタイマへ遠征し、以後10年前後にわたってそこに残留したのである。タイマへの滞在中、ナボニドゥスは手の込んだ建築物をタイマに建設した。最近の発掘により、古代北アラビアのタイマ地方の碑文からナボニドゥスの最初の証言が得られ、その多くの事が明らかになりつつある。 つまりイアフメス2世の治世を通して、新バビロニアは一度も脅威とっていない。 イアフメス2世の治世の末期頃、ペルシャ帝国(アケメネス朝)によって、BC539年にバビロニアが滅ぼされる。破竹の勢いのペルシャ王キュロス2世はバビロニアやリディアなどの諸都市を陥落させた。 戦いはバビロニア帝国の首都バビロンの北、川沿いの戦略的要衝都市オピスで、BC539年9月に始まった(オピスの戦いBattle of Opis)。キュロス率いるペルシア軍と新バビロニア最後の王ナボニドゥス率いる新バビロニア帝国軍との大会戦であった。数日後、都市シッパルはペルシア軍に降伏した。10月7日、ペルシア軍が、抵抗なくバビロンに入城した。10月29日にはキュロスもバビロンに入城し、「諸王の王」を称号とした。ナボニドゥスはカルマニア(現:イラン領ケルマーン州)で生きることが許された。 BC538年、「クロスの勅令(キュロスの勅令)」を発し、バビロンの捕囚となったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。新バビロニアのネブカドネザル2世によって略奪されていたエルサレム神殿の什器を渡し、エルサレムに神殿の再建を命じた。この再建は難航し、BC520年頃に第二神殿が漸く完成した。キュロスは既にこの世を去っていた。旧約聖書『第二イザヤ書』で、キュロス2世を「救世主(メシア)」と讃えている。 エジプト侵攻も時間の問題となっていた。イアフメス2世は、ペルシャに対抗するため、軍備の増強や、新バビロニア王ナボニドゥスやリュディア王クロイソスらと同盟を結び、ギリシャとの関係を強化した。しかし、数年のうちに新バビロニアもリュディアも、キュロス2世によって併呑された。しかしエジプトで戦端が開かれる前に、イアフメス2世は死亡した。 ヘロドトスの「歴史」では、キュロス2世は、中央アジアのカスピ海東岸に勢力を張っていた、イラン人で半遊牧民のマッサゲタイ族の女王トミュリスとの戦いで戦死したと記す。 「トミュリスは革袋一杯に血を満たし、ペルシア軍の戦死者の中からキュロスを見つけるとその首を落とし、革袋の中に放り込むのです。 そして、こう言います。 【私は戦いには勝った。しかし、勝負は私の息子を謀略によって殺したそなたの勝ちだ。約束通り、飽きるまで血を見るが良い】」 プサムテク3世(プサメティコス3世) 在位B.C.526年~B.C.525年。即位名の意味は「ラーは魂に命を与える」。イアフメス2世の息子。ペルシャ王カンビュセス2世(キュロス2世の後継者)の攻撃を受け敗北。エジプトはアケメネス朝ペルシャの属国となる。 イアフメス2世は、キュロス2世に対抗するために戦争準備に奔走し、北エーゲ地方のサモス島の僭主ポリュクラテスと同盟を結んだ。ポリュクラテスは、三段櫂船100隻に弓兵1000を乗せて猛攻、アナトリア半島西海岸のギリシア領レスボス島やミレトスの海軍を敗り、エーゲ海の島々やアナトリア半島東地中海沿岸部の諸都市を略奪し隷属させた。さらにギリシア南東部のアポロンの生誕地デロス島を占拠し、ギリシア中部における聖域デルフォイのアポローン神殿に奉納した。しかしポリュクラテスは、ペルシア軍が接近するとカンビュセス2世と和議を結び同盟した。イアフメス2世は、その戦いの直前、BC526年末に没した。息子のプサムテク3世が王位を引き継いだ。 BC526年頃までは、プサムテク3世は、ギリシアとの同盟があれば勝てる、という楽観的な考えでいたが、いざBC525年に、戦いが始まると、エジプトと同盟を結んでいたはずの国々が次々とペルシア側に寝返りエジプトは孤立する。 プサムテク3世は、イオニア系とカリア系のギリシア人を傭兵とする主力部隊を率いてナイルデルタの一番東端のペルシウム河口「ペルシウムの入り口Ostium Pelusiacum」に布陣した。ペルシア軍のカンビュセス2世は、アラビア人の族長らに頼み、大軍が行軍する先々で大量の水の補給を受けながらシナイ砂漠を越えて、ナイル川の最も東寄りの河口に着陣した。それ程の時を要さず、エジプト軍は壊滅的敗北を帰した。メンフィスへは算を乱す完全な敗走になっていた(ペルシウムの戦い)。 BC5世紀のカリアのクニドス出身の古代ギリシア人で、アケメネス朝ペルシア王アルタクセルクセス2世の侍医で歴史家であったクテシアスは、「ペルシウムの戦い」では、ペルシャ側の死者7千人に対して、エジプト側の戦死者は5万人と伝えている。クテシアスは、外国出身の宮廷医師であったが、戦争の際には王に随従して遠征まで同行していた。ただ、お抱えの医者として好待遇を受けていたが、捕虜出身の立場上、かなり閉鎖的な人間関係の中で生活していたので、出会ったわずかな宮廷人たちとの交流から得られた情報をもとに、『ペルシア史』を後日、ギリシアで著作した。必然、彼の著述には、伝聞や伝説が多く紛れ込むことになった。 メンフィスに逃れたプサムテク3世の下に、カンビュセス2世から降伏を勧告する使者が送られてきたが、プサムテク3世は大使と随行者とボートの漕ぎ手200人余りをを殺害して籠城を続けた。そしてメンフィスでの最後の戦いで、エジプトは征服された。わずか6か月間のプサムテク3世のエジプト統治であった。アケメネス朝ペルシャ(第27王朝)の支配が始まる。 カンビュセス2世は、プサムテク3世と貴族の娘すべてを奴隷にした。また、使者殺害の報復としてプサムテク3世や貴族の息子2000人に、死刑を宣告した。 プサムテク3世は、カンビュセス2世の下に引き据えられ詰問される侮辱を受けた。最後に「かつて王の友達だった老人」が物乞い姿になって現れた。プサムテク3世は、その時、初めて動揺した。それを見て、カンビュセス2世は、プサメティコス3世を処刑せずに側近くに置いた。 エジプトの碑文によれば、カンビュセス2世はファラオの称号と衣装を身に付けたとある。当時の4大王国、メディア・リュディア・新バビロニア・エジプト第26王朝に分立していた古代オリエント世界を統一し、初めてイランを基盤とする大帝国を出現させた。次いで、現在のスーダンにあたるクシュの征服に向かう。カンビュセスの軍隊は砂漠に苦戦する。ヘロドトスによれば、カンビュセスの軍隊が遠征の途中、なんと5万人もの軍が砂漠を横断中、巨大な砂嵐に遭遇し、全員砂に埋まってしまったと記す。遠征軍に深刻な打撃を与えた。ベルリン博物館所蔵のナパタ(クシュ第3代ピイ王以降の王国の首都として繁栄した)の碑文には、クシュの王ナスタセンがケンバスデン(カンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを捕獲したと記している。 後世、クシュの支配者アスペルタAspeltaの後継者のいずれかが、首都をナパタよりかなり南のメロエへ遷都した。BC6世紀からAD4世紀にかけて、ナイル川中流域、現在のスーダンの首都ハルツームの北東の都市メロエで繁栄した黒人による王国であった。その首都が南に遷都したのは、鉄の鉱山があったからで、メロエ周辺にはナパタと違い、溶鉱炉を燃焼させ続けられる大きな森があった。 カンビュセス2世の遠征が頓挫する間に、エジプトに反乱が起こった。遠征を中止して戻ったカンビュセスは激しい弾圧を行い、反乱に荷担した神官が属する神殿全ての破壊を命じた。 プサムテク3世は、そのエジプト人の反乱を主導したために処刑され、第26王朝は終焉を迎えた。 (BC525年に、ペルシウムの近くで戦われたが、ヘロドトスが訪れた時、周りの野原には戦闘員の骨が散乱していたと言う。ペルシウムは、下エジプト最東端の大きな街であり、ナイル川の一番東の分流の岸辺に建つ、古代エジプトの重要都市であった。現在のスエズ運河の港湾都市であるポートサイドの30km南東にあたる。古来、東西通商の要地として、末期王朝時代 (BC750年頃~BC305年頃) には、パレスチナとの国境を守る要衝として、またローマ時代には紅海へ通じる要港があった。) カンビュセス2世の最期 (在位;BC529年頃~BC522年) BC530年8月に、遊牧民マッサゲタイとの戦闘中に、ケメネス朝ペルシア帝国の初代王キュロス2世が戦死した。息子のアカンビセス2世が、騒乱もなく直ちに即位した。ヘロドトスは、彼の在位をキュロス2世の死から始まるものとしており、その期間はBC530年からBC523年の夏までの7年5か月としている。 BC530年、キュロス2世は最後の東方遠征を行なうにあたってカンビュセスに王位を授けた。当時作られた数多くの粘土板が、この王位継承とカンビュセスの治世元年、すなわちカンビュセスが「諸国の王」となった年から書き起こされている。同年8月に父が死亡し、カンビュセスは単独の王となった。 バビロニアの彼の統治期間を記録した粘土板は、治世8年目にあたるBC522年3月で終了している。 巨大な岩山にレリーフされた磨崖碑は、ベヒストゥン碑文(ベヒスタンは、現イラン西部のケルマーンシャー州の東方にある。)と呼ばれ、ダレイオス1世が王位を簒奪したガウマタを討伐したことを記念する絵がレリーフされ、ダレイオス1世が、自らの即位の経緯とその正統性を主張する楔形文字が刻まれている。
謀反人は、実はアカンビセス2世の弟スメルディスではなく、ガウマタという名のペルシア神殿の大神官であり、本物のスメルディスは3年ほど前に兄に殺害されていたと記す。ダレイオス1世は、後世、「国王の簒奪者」と呼ばれる汚名を回避しようとして、ガウマタと名乗る人物を創作したようだ。 エジプト遠征から帰還途中のカンビュセス2世は、BC522年3月、この反乱を鎮圧するため進撃を試みたが、成功する見込みがないと知り自死した。これが当時カンビュセス2世の親衛隊として仕えていた槍持ちのダレイオス(1世)が遺す碑文に刻まれた。ヘロドトスやクテーシアスによる記述よりも、当時、広く伝承されていた。 「槍持ち」は王の側近であり、王侯や貴族の息子が就く顕職であった。ダレイオスは、既に属州バビロニアのサトラップsatrap(アケメネス朝ペルシアの属州に置かれた行政長官職、通常ペルシア人の王侯貴族が任命された。)のゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていた。後に、ゴブリュアスは、ダレイオス1世の功臣となり、その息子マルドニオスは将軍としてペルシア戦争に参戦し、BC479年8月、ギリシアのボイオティア地方南部の都市国家プラタイア近郊の戦いでスパルタ・コリントス・アテナイなどのギリシア連合軍によって討ち取られた(プラタイアイの戦い)。 ヘロドトスの「歴史」は、カンビュセスがエジプトにいる間に、ペルシア本国の大神官のガウマタが、スメルディスにと似ていたため成りすまし、ペルシアの帝位を簒奪したと記す。 近年の研究では、BC525年のカンビュセス2世によるエジプト遠征後に、ペルシアでは、弟のスメルディス(バルディア)が謀反を起こしてアジアの領土全域で王として承認されていた。しかし、スメルディスはエジプト遠征から戻ったダレイオスに殺害され、ダレイオス1世が王位を簒奪したと見ている。 実はダレイオス本人が帝位に就くための下準備として、カンビュセスを暗殺したのではないかという推測もされてはいる。 ダレイオス1世はアケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる。彼は簒奪した王位を正統化するため、キュロス2世の娘アトッサとアルテュストネと結婚し、殺害されたスメルディスの娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネスの娘パイデュメも妻とし、王家の血統を独占した ペルシャ帝国の最初の首都パサルガダエに埋葬されカンビュセス2世の墓所の門扉だったと証明された石板が、2006年にその墓所の遺跡から発掘された。 目次へ | ||||||||||
6)その後のアッシリア 「アッシリア」はアッシュールの地を指すギリシア語表記に由来するヨーロッパにおける呼称で、本来のアッカド語の北方方言であるアッシリア語であればアッシュールAsshurとなる。 アッシュールとは、元々は、チグリス川上流にあった国土とその首邑の名であった。やがてその守護神の名前となり、その土地の住民もこれを名前とし、同じくアッシリア国家全体もここから名乗られた。今日で言えばイラク北部、シリア北東部、トルコ南東部が該当する。さらには、その国家がオリエント一帯を征服して樹立した大帝国を指すようになる。 アッシュールの地は、バビロニアの北西を流れるチグリス川上流域の高原地帯であり、クルディスタンのザーグロス山脈の西部とタウルス山脈の東部延長部分にあたる山岳地帯を北の後背地として、メソポタミアの低地をはるか南方に望む大地にある。 バビロニアは、現代のイラク南部、概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾までである。チグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史上の地理的領域と言える。バグダードは、アッカド王国の時代(BC2334年頃~BC2154年頃)から集落の存在が確認されている。BC8世紀頃にはアラム人が集住し、やがて、チグリス河畔にあるため交通の要衝となり周辺地域の物流の中心となり、節目ごとに定期市を開くことが慣例になった。 バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央にあり、メソポタミア地方の農産物の集積地として、東西の隊商ルートと南北の河川ルートが交差する交易の結節点となり繁栄を極めた。 現在では、イラン・イラク戦争や湾岸戦争後の度重なる戦争などで、殆どの遺跡や近代施設が破壊され尽くされ、今後、当地での民族の復興は、極めて困難を極めると思える。余りにも理念を欠く諸勢力による見苦しい不条理な戦いが繰り返され、古代アラブの諸文明を、自ら完膚なきまで打ち砕いて得意になる異常さが露骨過ぎる。しかも、「マホメット」を冒涜し、その名を掲げることにより、同族が、弱者である女性や子供たちに理不尽な陵虐を重ねる。 アッシュール周辺の大地は、バビロニアのようなメソポタミア低地域と異なり、年間降水量が200mm以上あり、その農業は灌漑に依存しない、いわゆる天水農業地帯である。年毎の降水量に左右されて収量が不安定な側面はあるものの、下流域のバビロニアと違い塩分に弱い小麦であっても豊富に収穫できる。 バビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁であり、また、肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリアやイラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあった。 チグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家、そのアッシリア人はセム語族に属するアッカド語の北方方言を使う民族が形成の主体となった。アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。 BC2300年頃、アッカド人は次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王朝(BC2334年頃~BC2154年頃)を樹立した。やがて、アッカド王朝が、メソポタミアほぼ全域を支配する領域国家となり、アッカド人の使うセム語系のアッカド語がメソポタミアの公用語となり、シュメール語は使われなくなった。しかし、アッカド人は文字を持っていなかった。その表記にシュメール人の楔形文字が使われた。これによって楔形文字が継承され、メソポタミア全域で用いられる文字になった。BC7世紀前半にオリエントを統一した新アッシリア時代(BC934年~BC609年)になっても、公用語はアッカド語とアラム語が併用された。アッカド語を書くには楔形文字、アラム語を書くにはアラム文字が使われていた。 アラム文字は、ユーフラテス川上流からシリア地域にかけて定住し、その地域間の交易を担ってきたアラム人によって、近隣地域で用いられていたフェニキア文字を転用する形で生み出された。 現在のレバノン一帯を中心に、古代の地中海の海域で活動していたフェニキア人が使用していた、右から左に書く、1つの文字が1つの子音を表す文字体系の大部分は、このアラム文字から派生した。 ギリシア文字は、フェニキア文字の直系と言え、特定の文字の音価が母音を表すように変更され、アルファベットとなった。フェニキア文字はフェニキアの商人により欧州と中東をまたいで広められた。それらの地域で、様々な種類の言語を表記するために使われ、やがて多くの後継文字体系を派生させた。フェニキア文字の変化形であるアラム文字は、現代のアラビア文字とヘブライ文字の祖型となった。 その地理条件もあって、アッシリア商人は特に古アッシリア時代(BC1950年頃~BC15世紀)はオリエント各地で活躍し、アナトリア半島のカネシュ(現キュルテペ)など現地の各都市に隣接してカールム(商業植民地)と呼ばれる商業拠点集落を数多く築いていた。その各々のカールムが、アナトリア半島内の全アッシリア商業植民地網の管理・流通の中心拠点になっていた。 鉄器時代に入ると、新アッシリア王国(BC934年~BC609年)と呼ばれた時代に、オリエント全域を支配する歴史上最初の真の帝国を打ち立てた。アッシリア人は鉄器で完全武装した最初の民族であり、その軍隊の主体は職業軍人で組織化され、鉄製戦車の改良や騎兵隊の導入、攻城兵器や工兵などを備え、高度で効果的な戦術を駆使した。地方の属国属州体制を戦略上の重要な拠点とし、教育された優秀な官僚を派遣し、統治のみならず将来、王直属軍に属すべき優秀な傭兵を育てた。 諸民族と国々の盛衰の激しいオリエント世界で、例外的に一貫性して中央集権的な国家体制を維持した。国家支配に欠かせない官僚教育と組織を完成させ、それが後続の各国家や王朝の標準となった。また、互いに起源が異なる複数の民族と部族を強制移住させ、被征服民族を自領に組み込んで再編し、地方における民族的な統合を阻んだ。 しかし、この大帝国が衰退、解体すると共に民族的集団としても精彩を欠き、その1300年を超える長い歴史に終止符を打った。この大帝国を統治する制度的や技術は、その後オリエントで広域に覇権を打ち立てた新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシア、そしてアレクサンドロス3世に受け継がれた。 ニネヴェなど、アッシリアの主要な都市の幾つかは、アッシリア帝国滅亡時に破壊された。ヘロドトスの時代にはそこに住む者はいなかったと言う。だが、アッシリア人が、突然絶滅したわけでもなく、アッシリア人自身が支配者として君臨することはその後二度となかったが、アッシュール神に対する祭祀も継続された。アッシュールやシャルマヌ、ニヌルタ(農業・狩猟と戦闘の神)など、アッシリア人が好んだ神の名を持つ人名がその後も役人などで記録されている アッシュール神を始めとしたアッシリアの神々の名を負った人名は、その後サーサーン朝イラン帝国(226年-651年)時代までアラム語とギリシア語の文書に記載され続け、その文化的継続性を窺わせる。 サーサーン朝のシャープール1世(在位:241-272)は、東はインドのクシャーナ朝を圧迫し、西はローマ帝国と戦った。260年にはアルメニアに進出し、ローマ帝国の軍をエデッサの戦いで破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。そのシャープール1世により、257年、アッシュールは占領され破壊されたが、その後も人が住んでいた。12世紀から13世紀にかけてザンギー朝、イルハン朝がこの地を支配した。しかし、もはや往時の面影はなく、14世紀頃定住地としては放棄された。 その後は、遺跡やその周辺に断続的であるが、ベドウィンたちがテントを張り、1970年代頃まで、遺跡の一部が墓地として使われていた。 アッシュールの遺跡は、2003年に世界遺産に登録された際、同時に危機遺産リストにも登録されている。その理由は、数10km離れたこの遺跡の下流における大規模なダム建設計画より、遺跡が浸水してしまう危険があることによる。現在では、イラク戦争によってフセイン政権が崩壊し、ダムの建設計画も頓挫している。しかし、依然と続くイラク戦争やISILの台頭により、イラクの治安は極度に悪化し、アッシュール遺跡は、研究者による発掘調査はおろか、破壊の危機が切迫している。 目次へ |