ギリシア都市国家の興亡
 
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 ヒクソス王朝 古代メソポタミア史 新アッシリア時代 ギリシア都市国家の興亡
 
 
 目次
 1)スパルチアタイ
 2)スパルタ
 3)クレイステネスの政治改革がアテネ民主化の出発点
 4)ペリクレスの政治
 5)レウクトラの戦い(エパメイノンダスの斜線陣)
 6)ファランクス
 7)テーベ壊滅
 1)スパルチアタイ
 

 古代のギリシア人の中で、バルカン半島の最南端を形成するペロポネソス半島に居住し、その方言を話した人々をドーリア人と言う。このドーリア人が先住民を征服して建設したポリスがスパルタである。ドーリア人の一派のスパルタ人はペロポネソス半島のエウロタス河畔に居を定め、周辺を征服しながら、服従した人々をヘイロタイという奴隷身分にし、ペリオイコイとよばれる半自由民(劣格市民)として重い貢納の義務を課した。
 ドーリア人が先住民を征服してできたポリスであるスパルタは、イオニア人が建設したアテネと共に、ギリシア史をつづることになる。
 ペリオイコイperioikoiの原義は「周辺住民」。古代ギリシアのスパルタの政治や社会体制の中では、ラコニアを侵略したドーリア人が「完全市民」を意味するスパルタ人としての「スパルチアタイ」を称した。その語句は単に「スパルタの人」という意味であるが、重要なことは、それ自体が都市国家を支配する「特権階級」を標榜することに繋がる。
 ペロポネソス半島の南東部ラコニア地方を北から南に貫流するエウロータス川の中流右岸に中心地を置き勢力を張った。その地をラケダイモンLakedaimonと呼んだ。このタイゲトス山脈の麓に首都スパルタがあり、ラコニア地方にあったので「ラケダイモン」と呼ばれた。スパルタ人が自国を誇る公称となっていた。また国民(スパルタ市民とペリオイコイ)も、自らを呼ぶ名称にも使っていた。
 スパルタに征服されたラコニアやメッセニアの「周辺住民」は、ペリオイコイと呼ばれたが、「スパルチアタイ」とともにスパルタの都市国家創建に貢献したはずが「劣格市民」と位置付けられ参政権を与えられなかった。「劣格市民」らは自ら地縁的共同体を形成し、「スパルチアタイ」に政治的には従属するが、ある程度の自治権は保有していた。スパルタ市民であれば軽装歩兵としての兵役と納税義務を負っており、重装歩兵として兵役だけに特権化する「スパルチアタイ」に代って商工業活動により過大な軍事費を支えてきた。
 軽装歩兵として兵役につくペリオイコイは、軽装であっても自前の装備であれば、おそらく土地所有者と見られる。アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との古代ギリシア全域を巻き込んだ「ペロポネソス戦争」や、BC371年のバルカン半島南ボイオチアのレウクトラ平野でテーベ軍との「レウクトラの戦い」にも従軍している。ペリオイコイは、概して「スパルチアタイ」に従順であった。

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 2)スパルタ
 BC1300年代の青銅器時代後期には、官僚制を布く農業国であったピュロス国の王がメッセニア地方を統治していた。当時はミケーネ方言が話され、ギリシアの多神教を信仰していた。ミケーネは、ペロポネソス半島東部にあった青銅器文明期の都市で、古代ギリシア以前の文明である。アメリカのカール=ブレーゲンが1939年に発掘に着手し、第二次世界大戦後の1953年に再開された。330枚以上の粘土版が出土し、それにクレタ島で発見された「線文字B」が記されており、この「線文字B」をヴェントリスが解読して、ギリシア語を表記する文字であることから、ギリシア本土とクレタ島クノッソスのつながりが分かった。
 BC16世紀頃より極めて高度な文化を発展させたミケーネ時代には、「アカイア人」がギリシア人以前.の呼称となっていたようだ。王が君臨し、統治下の村々から役人が農作物や家畜などを貢納させていた。約30km北東にコリント、10km南にアルゴスがある。ミケーネ・ギリシャ語は、ギリシア本土・クレタ島・キュプロスでBC16世紀~BC12世紀に話されていた、ギリシア語の中で最も古い言語である。BC14世紀以前のクレタ島で発見された碑文が、最も古いギリシア語文字の遺存であると言われている。
 BC13世紀のペロポネソス半島の南東部ラコニアLaconiaにはアカイア人が住み、ミケーネ王国の領域内にあったと考えられる。後世、ドーリア人のスパルタが、ラコニア地方を北から南に貫流するエウロータス川の中流域右岸に中心地を置き勢力を張った。このタイゲトス山脈の麓に首都スパルタを創建し、そこがラコニア地方のラケダイモンLakedaimonと呼ばれた地域であったので、スパルタ人の自国の公称とした。また国民(スパルチアタイとペリオイコイ)が、自らを呼ぶ名称でもあった。
 BC1200年代、「海の民」の侵入により東地中海全域に起こった文明破壊がこの地にも及び、ピュロス国の王宮もこの時期に焼亡した。この際の火災のお陰で「線文字B」で書かれた粘土板に焼きが入ったため、その後の3,200年を超える積年に耐え、今日まで遺存していた。
 その青銅器時代後期のBC1200年頃に、ペロポネソス半島中央部のアルカディア地方(半島の北部がアカイア地方)からヘラクレスの子孫と称するHylleis(ヘラクレスの子Hyllosの名になぞらえる)やPamphyloiとDymanesなど3部族の首長が率いるドーリア(ドーリス)人が、ペロポネソス半島南西部に侵入すると、メッセニア平原の北部のステニクラルスを首都とした、と伝承されている。しかし近年では、その3部族のHylleis・Pamphyloi・ Dymanesの名称から、実態は「多くの部族の集合体」と推測されている。つまり、この時に侵入したドーリア人は、大きく括られた3部族が主流となり構成されていたようだ。
 ミケーネ文明を破壊したのは「海の民」であるが、その後、BC1200年頃-BC1000年頃、最も遅れて鉄器をもってギリシアに南下・侵入してきたギリシア人の一分派のドーリア人が、ペロポネソス半島に移動して定住し、クレタ島や小アジア海岸にも植民都市を建設した。
 当時のアルカディアの方言は、ミケーネ方言と同一系統である。その後のドーリア人支配はメッセニア地方全土に及んだ。メッセニア地方は肥沃な大地と良好な気候のために比較的豊かな地方で、先住民の一部がドーリア人に追われてアルカディア高原に逃げ込んだものの、メッセニアの地に侵入しドーリス人と、残った先住民とが融合して混血し、新たなメッセニア人としてまとまり定住したという。
 アルカディアは、ギリシア神話に登場するアルカディア人の祖アルカスに由来する。古代のアルカディア高原は、後世、「牧人の楽園」の伝承が生まれたため、理想郷の代名詞となったが、実際は農耕に適さない貧しい山岳地帯であるから、遊牧を主体としていた。
 その後にドーリア人が、再びラコニアに侵入してきて建国したのがスパルタである。メッセニア地方の中央のメッセニア平原に住む人々は、同じドーリア系のアルカディア地方から侵掠してきたスパルタによって征服された。BC8世紀中頃までには統一国家が形成され、その領域はスパルタ市を中心におおよそラコニア一帯に及んだ。
 ペリオイコイperioikoiの原義は、「周辺住民」、古代ギリシアのスパルタの政治体制では、完全市民であるスパルチアタイとともに、スパルタの国家を形成しポリスにも在住した半自由民である。古代ギリシアの一部、アルゴリスやクレタにも、特にスパルタなどドーリア人系のポリスに多かった。スパルタのペリオイコイの人々は、当初は征服された周辺のラコニアの住民を指した。メッセニアの併合過程でメッセニア人の一部もこの身分となった。スパルタにはその共同体が100ほどあったと伝えられている。
 彼らはスパルタの正式の国家構成員であったが、参政権はなく、軍事と納税義務を負い、農耕だけでなく商工業に従事していた。都市及び周辺に住み、市民とヘロット(国有奴隷)の中間的身分であったが、彼らの共同体内の自治は許されていた。従軍義務も課せられた。むしろスパルタの兵力の大部分を占めていた。征服者のドーリア人の一部とも言われていた。生活は農業を主とし、貧富の差があり貴族的階層も存在していた。スパルタはスパルチアタイには商工業を禁じたので、商工業活動はもっぱらペリオイコイの仕事であったため、都市国家スパルタにとって不可欠な存在でもあった。
 古代ギリシアでは2王制自体、稀な事例ではないが、スパルタの2王制の特異性は、古代からヘレニズムの時代に至るまで存続したことにある。そこまで長期間に及んだ事例は他にはない。それは王権がエフォロイephoroiによる制約を受けたことと関連する。
 エフォロイとは、市民の身体・財産を保護する官職で、古代ギリシアのスパルタに設置されていたスパルタで最高の権力をもつ役人であった。スパルタ王と共に権力を分け合った。エフォロイは定員5人であり、民会でスパルタ市民の公選により選出され、民会の招集権も有した。おそらく第1次メッセニア戦争中に設けられたと制度と見られている。エフォロイはスパルタ市民から選出され、全てのスパルチアタイが被選挙権を有していた。その年の最年長者の名は紀年として使われた。任期は1年、エフォロイの再任制度は無かったため一期で退任した。
 スパルチアタイ内の民主政確立の過程のなかでその権限を拡大された。行政・司法を所轄し、市民の日常生活をも厳しく監督した。王は彼らに誓い、法に従う限りその地位にとどまりえた。軍事面でも軍の招集とその規模を決定し、王の指揮を監視した。また外国使節と交渉する権限をも有していた。
 へロドトスの記事によれば、スパルタでは、アギスとエウリュポン両王家に収斂しつつ並立していた、と記す。アギス家の方が、古い家系で、また卓越していたとも記す。エフォロイの実態は、稀にしか協力しなかった2人のスパルタ王の権力のバランスの上に立っていた。エフォロイは2人の王が不仲であれば勢力が強くなる一方で、2人の王が一致協力して国政を遂行する場合はその政策に介入することは許されなかったため、国政に対する影響力も低下した。

 アギス家の初期の諸王の中で最も華々しい活躍したのがテレクロスである。困難を極めたのが2回にわたるスパルタ南部のアミュクライの征圧であったが、スパルタの3部族が、アミュクライを「スパルチアタイ」の住地とし独占した。これにより、先住ギリシア人と共存しながら定着したドーリア人の一派のスパルタ人(スパルチアタイは、自らはラケダイモンと呼んだ)は、、エウロタス河畔に居を定め、自らを強固な支配身分の共同体として結束し、他の従属的な諸身分を支配する重装歩兵戦士団の共同体をつくった。これにより先住民ドーリア人への支配が完成した。
 この征服によって覇権を確立したテレクロスは、アミュクライを含むエウロタス河下流域を征服し、そのスパルティアタイのための住地を再編した。これによりテレクロスは初めて諸部族長の中で、一頭地を抜く存在になった。スパルタのポリスの成立は、このアミュクライの征服により完成する。BC8世紀前半の「大レトラ」制定の直前にあたる時期である。
 スパルタの立法者リュクルゴスLykourgosは、テレクロスの意を汲み取って、スパルタの国制や市民の生活規範「大レトラ」を制定した。その第一の眼目が、「新部族制度の制定」であった。第二の眼目が「長老会と民会の法制化」であった。
 スパルタの地に侵入した以降のポリス形成期には、部族長間の覇権争いが頻発した。やがてアギス家のテレクレスが突出した成果を上げ、ポリスとしての体制が整えられたが、それでも自らをアルケゲテスarchagetes(名祖【なおや】になり得る創設者)の系譜を声高に誇る部族長は、3人程度では止まらなかった。ギリシアのアポロのような特別な神や英雄ヘラクレスなどの名前を称号のように、特に新しい植民地や入植地の創始者や祖先の名祖archagetesとして利用した。未だこの情勢下では、テレクレスは「一等の指導者」とまでは主張できなかったようだ。テレクロスはアテネ神殿での祭典の際にメッセニア人との小競り合いで殺害され、この出来事が第一次メッセニア戦争の原因の一つとなった。
 (アテネは、戦いの女神であると同時に、知恵および工芸技術万般を管掌するが、起源的には、ギリシア民族がペロポネソス半島に南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の「都市の守護女神」として崇拝されていた。ミノア文明では、アテネの神殿は都市を象徴する小高い丘、アクロポリスに築かれた。女神を都市の守護者とする信仰は、ギリシア全土に及んでおり、アテネ、ミケーネ、コリントス、テーベなどの有力な都市には、アクロポリスの上に女神の神殿が建てられていた。
 元々、バルカン半島南部のギリシアの地に固有の女神だが、ギリシアを征服する過程で自分たちの神に組み込んだと言われている。古代ギリシアでは、戦の際にはアテネに祈りを捧げた。)

 テレクロスTeleklos(在位;BC760年-BC740年)の死後、数年後のBC736年頃、第一次メッセニア戦争が勃発する。スパルタは自分たちの諸部族の統制が整わないまま、西の隣国、メッセニアを征服した。肥沃なメッセニア地方は、スパルタ人の欲望を掻き立てたようだ。そのことがスパルタの領土拡張主義を煽り、やがて西方語群のドーリア方言を使う代表的なポリスがスパルタとなった。
 スパルタに二王制が成立するが、共に、ドーリア人の部族長が出自と思われるが、長い覇権争いの結果であれば、いずれの部族がどの王家になのか推測することすら難しい。しかし、テレクロスの覇権確立によって、王制の第一歩が踏み出されたことは確かである。
 第一次メッセニア戦争の指揮を執ったのが、エウリュポ家のテォポンポス(在位;BC720年-BC675年)であった。この戦争では、二回の大会戦があったが両軍はいずれも引き分けている。緒戦では、スパルタ軍は要衝アンフェイアを陥落させたが、それから3年後の一回目の大会戦では引き分けた。二回目の大会戦では、右翼を率いていたテオポンポスはメッセニアの王エウパエスによって敗走させられたものの、左翼のアギス家のポリュドロスが優勢に戦ったため、敗北は回避できた。
 歴代の王の中でもポリュドロスは特に尊敬されていたが、BC665年、貴族ポレマルコスによって殺された。

 メッセニア王エウパエスの奮戦にもかかわらず、スパルタの勝利に終わった。メッセニアは、戦争による財政の悪化、奴隷の逃亡、そして疫病の流行のため、窮地に立たされ要害イトメ山(現;メッシナにあるオーリーブの山々に囲まれている)に籠城するが、それから5年後の会戦では、エウパエスは自らの戦死を願う奮戦の末に戦死した。
 また、スパルタはテオポンポスの治世においてテュレア地方をめぐり、ペロポネソス半島の東北部のアルゴス(アルゴリコス湾の湾奥から約6km離れた内陸に広がるアルゴス平野の中心に位置する。ミケーネ文明が栄えた土地であり、アルゴスの北約10kmにミケーネの遺跡がある)とも争った。
 テオポンポスの治世下に、スパルタ民会の召集や法案提出の権限を有するエフォロイ(監督官)の制度が導入され、その一方「レトラ」は改定され、民会に対する長老会と王の拒否権を加えた。例えば、スパルタ市民から告訴された際に3人のエフォロイが方針を変更すれば、スパルタの政策を容易に変更することが可能になった。

  第一次メッセニア戦争敗戦後、メッセニア人はヘイロタイ(隷属農業生産者)の地位に落とされ、スパルタ人の過酷な支配を受けた。結果として、スパルタ市民は広大な土地を得て、土地を捨てて逃げなかったメッセニア人はヘイロタイの身分に落とされた。隷属は過酷で、自らが耕す土地の生産物の半分を、土地の所有者であるスパルタ市民に支払わねばならなかった。
 ヘイロタイは国家共同体の農業奴隷としてスパルタの市民それぞれに割当てられ、その新たな主人となった者の土地を耕して一定の年貢を納めた。戦時には、家隷として主人につき従い、軽装歩兵や船の漕手として働かされた。これによってスパルタはギリシアのポリスの中では例外的な広い領土と兵力を保持することになった。スパルチアタイは、数のうえで圧倒的に優勢な彼らの反乱を常に恐れながら、参政権は一切与えず恐怖政治のもとに軍国主義を貫いた。
 スパルタの詩人テュルタイオスは、スパルタ人の傲慢さに耐え忍ぶメッセニア人をこう描写している。
 「領主が乗るロバは傲慢なので、残忍な軍隊は彼らに服従を強制した。よく耕された土地が生産する果実の全てのうち、半分は彼らの傲慢な領主が持っていく。」

 メッセニア人は将来にわたって農業奴隷のままであるならば、戦って死ぬか、ペロポネソスから逃散してしまう方が益しと思い、反乱の機運が高まった。第一次メッセニア戦争敗戦後約39年、メッセニア人は軍備を整え、事前にアルゴスやアルカディアを同盟に引き入れるなど準備を整え決起した。
 BC685年頃、メッセニアンの指導者アリストメネスの指揮下で、メッセニア人がスパルタに対して蜂起したのが第二次メッセニア戦争(BC685年頃-BC668年頃)である。メッセニアンはすぐに東の都市国家アルゴスの他、ペロポネソス半島の中央山岳地帯アルカディア、北東コリンシアのシキオン、北西の肥沃な沖積平野のエリスなどの都市と同盟を結んだ。
 古代から現在に至るまで、ペロポネソス半島は7つの主要な地域に分かれている。 北のアカイア、北東コリンシア、東のアルゴリス、中央部のアルカディア(農耕に適さない貧しい山岳地帯で、牧畜を主としていたが、マンティネイアやテゲアなどのポリスがあった。)、南東のラコニア、南西のメセニア、および 北西のエリス(第1回古代オリンピックは、BC8世紀、古代都市エリスで開催)、これらの各地域は都市によって治められていた。
 そのペロポネソス半島とバルカン半島全体が最大の地震活動帯で、過去に多くの地震が発生した場所である。
 スパルタは、コリントやクレタ島などからの多数の傭兵を誘い兵力とした。反乱の最初の会戦であるBC685年のメッセニアのデレスの戦いでは引き分けた。この戦いで活躍したアリストメネスで王家の末裔でもあったため、人々によって王に選ばれた。しかし彼は王位を辞退して、戦時に絶対権を持つ将軍となった。
スパルタはメッセニアンの同盟国に賄賂を贈り懐柔したため、メッセニアンのアリストメネスは孤立しヘイラ山に籠った。アリスト メネスのメッセニア側は、11年間もの間ヘイラ山を守り抜いた。その間アリストメネスはゲリラ戦を展開し、今や敵地となった領土を略奪して回った。
 包囲から11年目、スパルタ軍は豪雨に乗じた夜襲を仕掛けた。メッセニア軍は二日目までは踏みとどまったものの、三日目にヘイラから退去した。この退却戦でアリストメネスは先陣を占め、殿の指揮を息子のマンティクロスに任せた。スパルタ軍は死に物狂いの敵と戦うよりは敵を逃がすことを選び、メッセニア人は敵陣を通り抜けることができた。

 ロドス島のイアリュソスのダマゲトス王に、ギリシア随一の立派な人の娘を嫁に貰うようにという神託が下った。それで、アリストメネスの3番目の娘を妻に迎えた。アリストメネスは娘と共にロドス島へ向った。そして、その地で病没した。ダマゲトスとロドスの住民たちは、アリストメネスのために立派な墓を建てた。
 ロドス島出身で、母親が第二次メッセニアン戦争の英雄アリストメネスの子孫であったディアゴラスは、BC5世紀、古代ギリシアのボクサーとして活躍した。古代オリンピックなど多くのギリシアの祭典で優勝した。その息子や孫も勝利している。

 BC650年頃、スパルタはメッセニア全土を征服して、一部をペリオイコイ(半自由民;劣格市民)としたが、メッセニア人の殆どをヘイロタイとし、土地の再分配を行ない、スパルタ人すべてが新たな土地の所有者となった。
 市民とその家族約5万人のスパルタ人に対し、約10万人のヘイロタイが存在したため、数で劣るスパルタ人は常にヘイロタイによる反乱を恐れていた。その結果スパルタは市民皆兵の軍国主義政策を採用し、重装歩兵を主体とした強力な軍隊を備えた。
 BC7世紀後半のスパルタは、文化的にも物質的にも繁栄したが、同世紀末に北隣のアルカディア地方の征服戦争に乗り出した。しかし、都市国家テゲアの市民は勇猛をもって聞えた。その戦いに失敗を重ね、国内でも戦時には軽装歩兵となるペリオイコイが参政権を求めて騒然としていた。
 ペリオイコイはスパルタの正式の国家構成員であったが、参政権はなかった。共同体内の自治は許されたが、従軍義務を課せられ、スパルタの兵力の大部分を占めた。生業は農業を主とし、商工業活動も、もっぱらペリオイコイの仕事であった。スパルタでは「スパルチアタイ」に商工業を禁じたので、ペリオイコイの存在が無ければスパルタの都市国家は機能不全となる。 BC479年のギリシア中部のボイオティア地方のプラタイアイの戦い(アケメネス朝のペルシア軍とギリシア軍との間で行われた戦闘)への出兵に際しては、スパルタ人1人に対してヘイロタイ7名が従卒ないし輜重兵として参加した。
 ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシアの諸ポリスの軍勢を、スパルタ・コリントス・アテネなどのギリシア連合軍が撃退した戦いであったが、右翼についたスパルタ軍だけで大半のペルシア兵を討ち取り、それが直接的な勝因に繋がった。
 この戦いでも、ヘイロタイは危険な分遣作戦に先んじて使われ、殆どの者が躊躇なく見捨てられたと言う。
 BC 371年のレウクトラの戦いのあと、ようやくBC369年、テーベの指導者エパメイノンダスはメッセニアン人の亡命者の子孫を帰還させ、独立を回復させた。
 メッセニアンの人々は、BC369年、イトメ山の西麓に都市メッセネを建設し、堅固な要塞を築き、更にはアカイア連盟に加入してスパルタの攻撃に対抗する構えを見せた。長さ約 9kmを超える城壁を備える要塞の堅固さは、古代ギリシア随一であったという。
 人類史は流転する。BC182年、アカイア連盟軍の将軍リュコルタスに占領された。BC 146年、ローマの支配下でアカイア州の一部となり、以後もローマ時代を通じて重要な地位を占めている。
 
 ペロポネソス半島南西部のメッセニアは、南と西はイオニア海に接する。特にステニクラーロス平野のパミソス川の下流域は古来肥沃な大地であった。オレンジ・レモン・アーモンド・イチジク・ブドウ・オリーブなどの生産性が高い。

 テーベはギリシアの覇者となると、さらに北方に進出しマケドニアと戦い、フィリッポス(後のフィリッポス2世、その子アレクサンドロス3世)を人質にするなど、古代ギリシアの都市国家時代の晩期に一時代を築いた。
 テーベは一躍ギリシアの覇権都市なるが、BC362年、ギリシア本土アルカディア高原の古代都市マンティネイア(同じく、アルカディア高原の都市国家、南の隣国テゲアと常に対立していた)と結んだスパルタやアテネと再び対立した。スパルタがペロポネソス半島 中央部アルカディア地方に支配権を拡大しようとしたとき、アルカディア地方の都市国家テゲアの要請もあって4度目のペロポネソス遠征を行った。アテナイ・スパルタ・マンティネイア連合軍と、テーベを中心とするボイオティア同盟軍との会戦『マンティネイアの戦い』で、エパメイノ ンダスは、自ら突撃隊を率いて戦い敵を敗走させたが、自身は戦闘の最中に槍を受けて戦死した。この戦いで、彼を初めとする上級将校の殆どが戦死し、もはや彼の戦術戦略を継承できるテーベ人は存在していない。
 エパメイノンダスや彼を必死に支える優秀な指揮官達を同時失うと、その以後、テーベには優秀な司令官が現れなかった。マケドニア王国のフィリッポス2世(BC359年-BC336年)の攻勢に屈する。フィリッポス2世は、BC359年に即位すると、軍制を改革し、ギリシアに進出して隣保同盟(アンフィクテュオニア)の実権を握った。カイロネイアの戦に勝ってコリントス同盟を結成し、その盟主となってギリシア都市国家の殆どを支配した。

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 3)クレイステネスの政治改革がアテネ民主化の出発点
 ドーリア人は西北系方言のギリシア人であるのに対して、東方系のイオニア人が集住して成立したアテネは、他のポリスと同様、当初は王政であったが、ポリス市民の発言力が高まる中で、次第に貴族が王に代わってアルコン(執政官)となり統治するという貴族政治に移行していった。
 それでも、積極的な植民活動により貨幣経済が発展したことと、平民が重装歩兵や軽装歩兵として活躍し、さらに下層民が三段櫂船の漕ぎ手として戦争の勝利に貢献するなど、その発言力が強まり、貴族と平民や下層民との抗争が激しくなっていった。BC6世紀中頃には、このような平民の地位の向上を背景として、貴族と平民の双方に人気を得て独裁的な権力を握ったペイシストラトスが、僭主政を布き、民主政が危機に陥った。
 農夫などの無産者階級や、小農民と商工業者が組む高地党を主体として結成したペイシストラトスは、僭主(古代ギリシアの都市国家では、政権を独占した支配者を指す)となるとむしろ合法的に国事を司った。しかしその支配がしっかり根を下ろす前に、政敵によって一時アテネを追われた。その後謀略をもって復帰したが、再び党派間の争いから亡命に追いやられた。だが、亡命先トラキアのパンガイオン金山で産出される金銀で資金を蓄え、ドーリア系のアルゴス人(アルゴスは、ギリシアのペロポネソス半島北東部のアルゴリス地方の中心都市)の傭兵を雇い、ナクソス島の僭主リュグダミスの援助を得て、エレトリア(アッティカに面したエウボイア島にあった都市国家)を足掛りとして、BC546年、マラトン近くの「パルレニスの戦い」で反対派貴族を倒し、アテネ市に返り咲いた。ペイシストラトスは軍事力を背景に民衆の武器を取り上げてついに僭主政を実現した。
 アテネに復帰したペイシストラトスは、自らの勢力基盤である小農民や商工業者を特に優遇し独裁的権力を行使したが、やがて、市民の自覚の高まりにつれ、次第に僭主の独裁を嫌忌し民主政を実現させようとする動きが生じた。
 BC527年に死去したペイシストラトスには、二人の息子、ヒッパルコスとヒッピアスがいた。二人とも権力を継承したが、ヒッパルコスは同性愛のもつれからアリストゲイトンという男に殺されてしまった(BC514年)。ヒッピアスの方は残酷な暴君と化したため、BC510年、アテネ市民は蜂起し彼を追放した。
 ヒッピアスは、アケメネス朝ペルシアに亡命し、後のペルシア戦争では、ペルシア軍のギリシア侵攻軍に加わっている。 アテネ市民は僭主たる者の愚昧さと弊害を知り、その出現を防止する必要性を再認識した。
 BC510年、アテネでヒッピアスガ追放されて僭主政が倒れた後、イサゴラスに率いられた貴族(平野党)とクレイステネスの率いる平民(海岸党)の争いが起こり、イサゴラスはスパルタ軍の支援を受けて一時権力を握った。
 クレイステネスは名門アルクメオン家出身の貴族であるが、母は、シキュオン(ペロポネソス半島北東部コリンティア県にある地名、遺跡が遺こる)の僭主クレイステネスの娘アガリステであった。古代ギリシアでは祖父の名を、孫に付けることは行われていた。
 クレイステネスは、一旦、国外に亡命した。イサゴラスは評議会を解散させようとしたが、評議会はそれに抵抗し、アクロポリスに逃げ込んだイサゴラスとスパルタ兵を二日にわたって包囲してついに撤退させ、亡命先からクレイステネスを呼び戻した。
 クレイステネスは、スパルタの助力を受ける政敵イサゴラスを打倒し、国制の大改革を断行した。民衆の支持を支えに、その領袖として国政にあたることになった。クレイステネスはBC508年にアルコンとなると、ただちに僭主の出現を防止し、民主政を確立させるために画期的な改革を実施した。それが「クレイステネスの改革」で、アテネの民主政を大きく前進させることとなった。
 今までの村落的なデモスDemos(行政区画)を改編し、「クレイステネスの改革」の要となる10部族制度を支える行政単位とした。
 アテネの支配領域であるアッティカ全土を139のデモスに区画した。すなわち、地縁的な10部族(ヒュレphyle)を新たに組織して、従来、貴族の勢力基盤であった氏族制的な4部族の政治・軍事の役割をこれに移し、10部族の下部単位として139のデモスを設けて、各市民の所属する区を定め、その自然村落を地縁的的基盤として再編成し、区民登録名簿を作成し、それぞれのデモスごとに区長を置いた。
 「クレイステネスの改革」は、この区民名簿に基づき18才以上の成人男子には、市民資格を与え民会への出席を認めた。ポリス市民の全体会議である民会とは別に、デモスごとに区民総会を開いて日常的な問題を処理した。やがてクレイステネスの時に設置された『五百人評議会』の議員を選出する母体となった。
 『五百人評議会』は、農民階層までの市民500人からなる評議会を設置して、広範な権限をこれに与え、民会の議決にかける前に議案を審議する日常的な任務があったため、やがて、実質的な常任執行委員会として行政を担当するようになる。実際、BC462年、エフィアルテスとペリクレス(母がクレイステネスの姪)の改革によって、貴族から構成されていたアレオパゴス会議の実権が剥奪され、『五百人評議会』が行政の最高機関となった。
 (アレオパゴス会議は、王政時代は長老会議【元老院】として、ポリス成立後はアルコス経験者が終身会員となり、殺人・放火などの裁判【最高裁判所】や国政の監視にあたっていた。保守派の牙城であった。アクロポリス西側の小さな丘アレオパゴスAreopagos【アレスの丘Areios pagos】で開かれたので、この名が使われた。この丘はアレス神【軍神にして殺害の神、狂暴にして無思慮】が殺人のかどで神々に裁かれた場所とされており、その神話に由来するためもあり権威があった。)
 古代アテネのデモスは、元来、「村落」を指すが、「クレイステネスの改革」により、民主政を支える基本単位とされたことから、「民衆demo/dem」を意味するようになり、民主政Democracyという言葉が生まれ、現在のデモクラシーという言葉に繋がった。
 また「クレイステネスの改革」、特に農民育成策は、彼らの経済力を背景にした実質的な地位の向上に繋がり、中小の土地所有農民による武器の入手が比較的容易になり、兜・胸甲(きょうこう)・すね当て・直刀・楯・投槍などの武器を自弁で所持するようになり、古代ギリシアの陸軍の中核を担う重装歩兵として国防の主力となった。その結果、貴族による政権独占は困難になり、アテネに重装歩兵民主政を確立させ、BC5世紀の民主政の発展を揺ぎ無いものにした。
 「クレイステネスの改革」の中でも『陶片追放政策』は有名である。オストラコンostrakonという通常は花瓶や土器の破片を使って、市民による投票を行った。僭主になりそうな危険人物をオストラコンに記し、投票総数が6,000票以上に達し、その最多得票者は10年間、国外へ追放された。
 僭主の再来防止のためにオストラキスモスostrakismos(陶片追放)の法を制定した。こうしてアテネに重装歩兵民主政を確立し、BC5世紀の民主政の発展の基礎を築いた。市民が積極的に軍事と政治に参加しアテネはさらに飛躍した。
 歴史家ヘロドトスは、「かくてアテナイは強大となっ たのであるが、イセゴリアisegoriaということが、あらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証してみせた」と記している。
 イソノミア isonomia(等しい者の統治)とは、万人が等しく政治の営みに関わることができると言う意味であるから、その営みは、アテネのポリスにあっては、とりわけ一緒に集まり話し合うという営みなのである。故に、「イソノミア」を担保するためには、何よりも『言論の自由』が不可欠となる。『言論の自由』自体が、イセゴリア isegoria、つまり『市民が政治方針について自由に発言する平等な機会が与えられる』、アテネでは『民会ecclesiaで発言を望むものには、誰でも平等にそれを認められる政治手法』と同義となる。
 クレイステネスは、その後まもなく、スパルタとの衝突に備えてペルシアとの同盟を求めたが、市民の反対を受けたことから失脚したらしい。
 アテネを建設したイオニア人とテーベなどを建設したアイオリス人などは、東方系方言のギリシア人とされている。イオニア地方の北、レスボス島やその対岸のキラ・ミュリナ(小アジア西部のアイオリスの都市)・スミルナ(「エーゲ海の真珠」と古来称えられる港町)がアイオリス地方にあたる。
 テーベはアテネの北西にあたるギリシアのポリスの一つで、アテネに対して対抗心が強く働く。同じアナトリアの東部海岸に植民的諸都市を建設したアイオリス人とイオニア人でありながら、部族間で生じる沿革的な軋轢を引きずったまま、テーベはペルシア戦争(BC500年~BC449年)の際、ペルシア側に協力した。

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 4)ペリクレスの政治
 クレイステネスの姪を母にもつ名門の出身ペリクレス(BC495頃~BC429年)は、ペルシア戦争の最中にアテネの民主政を完成させた。BC443年~BC429年まで、選挙で将軍職(ストラテーゴスは、BC5世紀のアテネでは軍事と政治両面に重要な役職であった)に選出された後、連続して 15年間再任され続けた。
 「ペリクレス時代」と呼ばれるアテネの全盛期を築いた。ペリクレスはアルコンではなかった。アルコンの任期は1年で再任は認められず、9人の合議制なので、民主的ではあったが、パルテノン神殿の建設のような長期的政策を実行するには不向きだった。専門職である将軍職は、クレイステネスの時に設置され、10人が民会の選挙で選ばれ、再任が可能だった。
 ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアとアテネを中心とするポリス連合軍の戦いであり、BC500年~BC449年の約50年間、4回に及ぶ。発端は、ペルシアが支配権を握ったアナトリア半島のイオニア地方のギリシア人植民市が、ペルシアの支配に抵抗しBC500年に起こした「イオニアの反乱」を、ペルシアのダレイオス1世(大王)が鎮圧したが、その際、援軍を送ったアテネなどのギリシアのポリスに対し、大遠征軍を派遣し帝国の版図拡大の契機とした。
 BC480年8月、大軍を擁するペルシアとの戦い(第3次)では、ギリシア中東部、カリモドロス山とマリアコス湾に挟まれた狭隘なテルモピュライの地峡に誘ったが、スパルタのレオニダス王が戦死するほどの玉砕(テルモピュライの戦い)となり、アテネはペルシア軍に占領されて焼かれるなど、ギリシアの諸都市国家は最大の危機に陥った。

 その後、アテネを中心に都市国家の連合軍が、陸上ではサリッサ(4.0- 6.4mの非常に長い槍)を駆使する重装歩兵による密集部隊戦術で、海上戦ではアテネ海軍の三段櫂船(さんだんかいせん)の「衝角 」戦術で優位に戦い、ペルシア王アルタクセルクセス1世(在位;BC465年-BC424年)は、アナトリアへ逃れた。
 ギリシアの三段櫂船の船員は、漕手170人、補欠漕手・水夫・戦闘員30人の200人、その漕手170人が三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせて一斉に櫂を漕ぐ。アテネの三段櫂船は、最高で時速18kmは出たと言う。船首には青銅製の「衝角」をつけ、敵船に体当たりして船体を破壊する戦術が採られた。「衝角」には、二つの鑿のような青銅製の刃があり、ひとつは水上、他方は水中に入っている。衝角の2つの突出は、敵船に衝突して船腹に穴を穿って浸水させる武器と、水の抵抗を少なくし速度を上げる水切りと、両方の機能を持っていた。
 ペルシア戦争のサラミスの海戦では、三段櫂船の戦術が大いなる破壊力を発揮した。BC480年9月末、アテネの東側海域の沖合に近接するサラミス島付近でアテネ海軍が三段櫂船を駆使してペルシア海軍に勝利した。この三段櫂船の漕手には、武器や武具の装備の負担が無いため、貧しい市民や無産市民に課せられた。ペルシア戦争の帰趨を決する重要なサラミスの海戦の勝利は、その三段櫂船の漕手の活躍があって初めて可能だった。これ以後、三段櫂船の漕ぎ手として活躍する多くの無産市民の発言力が高まり、アテネ民主政を支える民衆層の広がりとなり、アテネ都市国家が全盛期を迎えた。

 BC5世紀の後期(BC431年~404年)、ギリシアの二大ポリス、アテネとスパルタの対立から起こった。アテネを中心にペルシアを打ち破った功績は大きく、アケメネス朝ペルシアの反撃を恐れる小アジア西岸やエーゲ海のギリシア諸都市は、アテネをイオニア解放の旗頭として頼った。次のペルシアの来襲に備えて、アテネが主導するエーゲ海域のギリシア諸市がデロス同盟(対ペルシア攻守同盟。当初、同盟本部は、太陽の神アポロンの生誕地デロス島に置かれた。最も多い時で200のポリスが参加した。)を結成した。各ポリスが一定の兵船を提供して連合艦隊を編成し、それができないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に納めることとした。実際に艦隊を提供したのはアテネだけで、他のポリスは納入金を納めるだけだった。共同金庫は共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された
 デロス同盟の納入金の管理は10人のアテネ市民に委ねられたので、同盟の執行権は初めからアテネが握っていた。BC454年には、金庫がデロス島からアテネに移され、その後、BC449年に、デロス同盟とアケメネス朝ペルシアとの間で、ペルシア戦争終結を目的とした条約が批准された(カリアスの和約)。しかし、アテネの政界の第一人者の地位にあるペリクレスは、デロス同盟を強引に継続させ、アテネはデロス同盟を通して「アテネ帝国」と呼ばれるほどの専横を振るうようになった。発足当初からヘレノタイミアイ(「ギリシア財務官」の意)と呼ばれる10名の同盟財務官は、アテネ民会選出のアテネ市民であった。また軍指揮権はアテネの将軍たちが独占していた。完全にアテネ主導型の同盟であった。BC470年頃に離反したナクソス島(ギリシア南東部、エーゲ海南部のキクラデス諸島中最大の島。東半分は険しい山地で大理石を産する。)は、武力鎮圧されて、アテネの隷属市に落とされた。
  その一方、ペロポネソス半島内の諸都市国家は、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟を、既にBC6世紀に結成しており、次第に両同盟の対立が深刻になり、ギリシアの二大ポリス、アテネとスパルタの関係が険悪化した。

 蓄えられていた納入金をペリクレスが、アテネに海抜約156mの石灰台地に築かれたアクロポリス(「高い丘の上の都市」という意味)にパルテノン神殿(BC447年に建設が始まり、BC438年に完工、その後も内装や展示物の完成にBC431年まで時を費やした)の建立につぎ込んだ。パルテノン神殿建立をはじめ大規模な公共建築を起工して市民たちに大量の工人手当を与える一方、下層市民に土地を供すべく、彼らを入植者としてトラキア地方、エーゲ海の島々などに次々と送り出した。
 BC450年頃からアテネの力の政策が一層強引となり、同盟諸市の内政に干渉して駐屯軍や監視役人団を派遣したり、入植団までも送り込んで土地を奪ったりした。BC5世紀後半には、アテネの専横が極まって、同盟諸都市は「アテネ帝国」と揶揄される状況にまで属国化した。
 このアテネの横暴に、既にペロポネソス半島の諸都市国家は反発していて、スパルタを中心としたペロポネソス同盟を増強していた。増長するアテナイ軍による、ペロポネソス同盟加入のポリスに対する略奪や侵略が続き、ペロポネソス戦争がBC431年に開戦した。ペロポネソス戦争期(BC431年-BC404年)には同盟の年賦金増額が決議されたが、当然、他のポリスの不満は高まった。

 戦争開始翌年のBC430年、ペリクレスは戦争にそなえてアテネ人をアテネに移住させていた。市内の人口は過密になり不衛生、真夏の炎天下で疫病が蔓延し、神殿と言わず、路上と言わず手の施しようもなく死体がころがる惨状となった。ペリクレス自身も二人の子供をペストでなくし、ついに自らも一年後に死んだ。「アテネのペスト」とは、「悪疫」の意味で、いわゆるペストではなく、天然痘であるというが、致死率の高い感染症が狭く密集する場で蔓延すれば、排水ばかりか飲料水や鼠などを媒介して感染症が猛威を振るう 

 ペルシア戦争後、アテネはデロス同盟の盟主となり、ギリシア全域の覇権を握り海上帝国として西方の地中海にもその勢力を拡大しようとした。アテネの野望に反発したのが、シチリア島南東部におけるギリシアのコリントスの植民都市シラクサで、スパルタと同盟して抵抗した。
 シラクサは、BC734年頃、コリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ Sirakoと名づけたのが起源である。土地が肥沃で都市は繁栄し、BC466年までには、シチリア全島を支配し、地中海においてギリシア植民市のうちで最も繁栄する都市国家となった。アルキメデスの生地でもある。
 ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たるプラトンは、BC387年、40歳頃、シケリア(現;シチリア)旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西のアカデメイアの地の近傍に学園を設立した。シラクサは、地中海の中心に位置する港湾都市として繁栄したが、BC211年にはローマに敗れ、その属州となった。

 BC413年、ニキアスが指揮するアテネ海軍は、シラクサの攻囲戦で、シラクサとスパルタの連合軍に敗れた。アテネ海軍は全滅の危機に瀕し、撤退を決意しその準備に入った。いざ撤退となる8月27日の満月の夜に月食が始まった。アテネの軍衆の過半が、これを凶兆と見て出航中止を主張し、指揮官ニキアスたちも出航をためらった。そればかりか逗留を長びかせた。
 (BC4 世紀、アリストテレスは、地球が丸いことの根拠を、月食のときに月に映る地球の影が丸いことや、北極星が見える角度が北へいくほど高くなることをあげている。)
 三段櫂船のような軍船には、乗員の寝場所がないため、夜間は海浜に引き揚げて乗員は陸上基地で炊事し休息した。 シラクサ軍は、夜襲を掛け、アテネ海軍の船すべてを焼き払い、その動きを封じた。上陸していたアテネの部隊は捕虜となって石切場に閉じこめられ、全員が餓死、ニキアスも捕らえられ処刑された。アテネは200隻以上の軍船、35,000人に及ぶ乗組員、4,000人のアテネ出身者を含む陸軍兵士、および多くの資材と財貨を失い、ペロポネソス戦争の帰趨は決定した。
 シチリア遠征失敗後には、年賦金に代わって通関新税が課せられたが、シチリアでのアテネの敗北を知ったイオニアのデロス同盟諸国が離脱すると、スパルタはイオニア諸都市へのアケメネス朝ペルシア帝国の保護権を認める代わりに、その資金援助を受けるというスパルタ=ペルシア同盟を結んだ。その資金でスパルタは海軍を増強、次第に制海権を握ってアテネの穀物輸送路を抑えたため、BC404年にアテネは全面降伏した。アテネの敗北によって、デロス同盟は名実ともに消滅した。

 このペロポネソス戦争の長期化によりギリシアのポリス社会を支える市民が没落し、ポリス民主政の社会基盤がくずれていった。当時、既に、戦争の主体も市民による重装歩兵から、傭兵が使われていた。それが衰退期に向かう契機となった。アテネの海上帝国は崩壊し、デロス同盟も解体、ポリス世界の覇権はスパルタに移った。スパルタはペルシア帝国と同盟したため、ペルシアのギリシア干渉が再び強まった。

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 5)レウクトラの戦い(エパメイノンダスの斜線陣)
 覇権を握ったスパルタは他のギリシアのポリス(都市国家)に対して、スパルタの駐留部隊の武力を背景にして、寡頭制による傀儡政権を導入し、ギリシアを支配していた。もちろんギリシアのポリスの1つであるテーベも例外ではなく、スパルタに併合されていたが、市民たちが決起して独立した。しかしギリシア中部の支配が不安定になると見たスパルタは、テーベに戦争を仕掛けた。テーバイの指揮官たちは、ギリシア最強と称されたスパルタ軍に恐れをなし、「テーベの街に籠城してスパルタに抵抗しよう」と総司令官であるエパメイノンダス将軍に提案した。

 ペロポネソス戦争後にスパルタが優勢になると、テーベに有能な将軍エパメイノンダスが現れた。エパメイノンダスは最強のスパルタ軍に対して、野戦での決戦に挑むことを決意した。ヘビの頭を切って落とし、「ヘビの頭(スパルタ)を潰せば、ヘビ全体が死ぬ」と周りの者らを説得し、納得させた。
 その指揮のもとでBC371年、南ボイオティアのレウクトラの平野での会戦「レウクトラの戦い」でスパルタを破り、ペロポネソス同盟軍を率いたスパルタ王クレオンブロトス1世を敗死させた。
 ボイオティア同盟軍(テーべ側)   重装歩兵6,000~7,000  騎兵1,500 
 ペロポネソス同盟軍(スパルタ側) 重装歩兵10,000~11,000(うちスパルタ重装歩兵700)  騎兵1,000
 戦闘は、ペロポネソス同盟軍(スパルタ側)のペルタストpeltastes(古代ギリシアの軽装歩兵)がスリングsling(投石紐)による投石や投げ槍で、ボイオティア同盟軍(ボイオティアは、古代ギリシアの一地方で、アッティカの西北に位置、中心都市はテーベ)を散発的に威嚇したことで始まった。ボイオティア同盟軍の中には、当初はスパルタに恐れをなして、戦わずに逃げようとしていた者もいた。この散兵線を布いた軽装歩兵の攻撃により逃亡しようとしていた者たちは、その機会を逸しペロポネソス同盟軍と戦わざるを得なくなった。
 重装歩兵は(ラテン語ではホプリテス hoplitēs)は、世界各地で年代も様々に活躍していた。古代ギリシア世界の重装歩兵は、「ホプロンhoplon」と呼ばれる盾を持って戦ったことからホプリテス(複数形でホプリタイ)と呼ばれた。
 重装歩兵は、頭部は兜、胸部から腹部は鎧、手は籠手、脚部は膝当て・脛当てなどで重装な防備を施していた。盾を左肩に掛けて保持し、その盾は自分を守るのではなく、左隣の仲間の身を守る防備であるため、自分の露出した右半身は右隣の歩兵の盾に頼った。この陣形は正面に対しては大きな防御力と破壊力を持ったが、機動力のある騎兵などによる側面・背面攻撃に弱点があった。そのためファランクスphalanx(会戦の際に用いられた重装歩兵による密集陣形)では一番右側に、一番の精鋭部隊を置いた。そのため右側に配置されることは名誉とされていた。
 時代が進むと中央に重装歩兵密集陣ファランクスを展開し、その右側面に騎兵部隊を配置し、前方には軽装歩兵などによる散兵線を布いた。
  BC2450年頃の古代メソポタミアの『禿げ鷹の碑Stele of the Vultures』(シュメールの都市遺跡ギルスで発見された。ルーヴル美術館蔵)に大盾と槍による密集陣形が描かれている。BC7世紀以後の古代ギリシアでは、鎧兜を着用した重装歩兵を重視するファランクスが布陣された。当時の地中海交易の発達により、富裕な市民層が育ち、アテネのような都市国家の市民は兵役の義務があったため甲冑が普及し、重装歩兵部隊を編成することを可能にした。
 ボイオティア同盟軍の指揮官エパミノンダスの戦術は、左翼には見るからに重装備の歩兵部隊を縦隊で厚く密集させ、中央と右翼には機動性のある騎兵と軽装兵を、左翼よりも幾分後方に引く「斜線陣」を布いた。加えて、自軍左翼側の先頭に最精鋭である「神聖隊」を配置した。その背後には、50列ものファランクスを厚く配置していた。
 ペロポネソス同盟軍は、左右が敵方向にせり出す長く広がった「鶴翼の陣」を布いた。今回の戦闘でも、ペロポネソス同盟軍の最右翼には、最強のスパルタ軍が配置された。スパルタ王クレオンブロトス1世もその最右翼に総司令官として布陣し、そこで指揮を執る構えだった。スパルタ王がエパミノンダスの変形した雁行陣の左翼にある右方向からの弱点を突く攻撃を誘った。
 戦列が整えられると、最初に騎兵戦が始まった。この騎兵同士での戦闘は、数に勝るボイオティア同盟軍の方に軍配が上がり、ペロポネソス同盟軍の騎兵は敗走した。この時、戦列を伸ばしてボイオティア同盟軍の左翼側を包囲しようとしていたスパルタ軍は、この敗走してくる自軍騎兵によって戦列を乱され指揮が混乱した。その隙をついてボイオティア同盟軍左翼の先頭に配置されていた、テーベ最強の部隊「神聖隊」が混乱するスパルタ軍の右翼に襲い掛かった。この神聖隊は、150組300人全員が同性愛者の部隊であった。「恋人と一緒なら無様な姿を晒さず勇敢に戦うだろう」という部隊であった。確かに強かった。市民兵ではなく国費で平時も訓練に明け暮れていた常備軍であった。
 一方、ペロポネソス同盟軍は劣勢な敵側右翼の軽装歩兵を突破口と見て集中して攻撃し深く侵入していた。目前の敵を破り勢いのまま敵陣深く進撃するペロポネソス同盟軍が側面を晒すと、エパメイノンダスは、重装備の歩兵部隊を、すかさず迂回させ背後と左翼から片翼包囲で襲い掛からせた。スパルタ軍の重装備歩兵部隊の弱点である右側面からは、「神聖隊」と騎兵が挟撃し、遂には殲滅した。
 スパルタ王クレオンブロトス1世の遺体がそのまま野晒しになるのは耐えがたいとして、休戦協定を結んだ。クレオンブロトスは、BC480年のテルモピュライの戦い戦死したレオニダス1世に次いで二人目の戦場で倒れたスパルタ王となった。この敗北により、スパルタはギリシアの覇権を失った。
 (アッティカ・ボイオティアとテッサリアを結ぶ幹線道路が通過するギリシア中東部の狭隘の地「テルモピュライ」は、防衛に適した要衝としてしばしば戦場となった。BC480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で戦闘があった。圧倒的な戦力差にも関わらず、ギリシア軍はペルシア軍を3日間に渡って食い止めたが、最終的に背後に回り込まれて敗退した。スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、この戦闘によりスパルタ軍の勇猛さが喧伝された。
 古代ギリシアのボイオティアにあった都市国家テスピアイは、ヘリコーン山の麓から東のテーバイまで続く丘陵の低い地域を見渡せる平地にあった。)


 ボイオティア同盟軍はペロポネソス半島へと侵攻した(アッティカは、アテネ周辺を指す地域名)。そこで、今まで侵攻されたことが一度もなかったスパルタの地ラコニアへ兵馬が足を踏み入れ、スパルタに隷属していたメッセニアを解放し、スパルタの都市国家の経済に大打撃を与えた。テーベが、新たなギリシアの覇者となった。さらに北方に進出しマケドニアと戦い、フィリッポス2世(アレクサンドロス大王の父)を人質にするなど、勢いがあった。
 BC362年、ペロポネソス半島中央部のアルカディア高原の古代都市マンティネイアと結んだスパルタとアテナの連合軍と再び対立し、テーベを中心とするエヴィア島のエレトリアやギリシアの穀倉地帯のテッサリアなどのボイオティア同盟軍が会戦した『マンティネイアの戦い』で、エパメイノンダスは自ら突撃隊を率い、敵を敗走させたが、自身は戦闘の最中に槍を受けて戦死した。この戦いでボイオティア同盟軍は勝利したものの、テーベは、エパメイノンダスをはじめとするダイファントスやイオライダスなど有能な将軍を失った。これ以降テーベはギリシアの覇権を維持できなくなり、衰退の道を辿ることになる。

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 6)ファランクス
 アテネの将軍イフィクラテス(BC415年頃-BC353年頃)は、靴職人の息子であったが、コリントス戦争中(BC395年頃‐BC386年頃、コリントス・アテネ・テーベ・アルゴスなど中部ギリシアの諸都市国家が同盟を結んでスパルタと戦った)、コノンの指揮下でスパルタ艦隊を打ち破ったBC394年のクニドスの海戦において頭角を現した。結果、スパルタの海上権はアテネに奪回された。クニドスは、スパルタ人が築いた植民都市を起源する、アナトリア沿岸の南西部カリア地方の、ダッチャ半島の先端部にあったドーリス人の 6大都市の一つであった。古代ギリシアの商業都市として栄え、BC7世紀頃からプラクシテレス作の有名な「クニドスのアフロディーテ」などの彫刻芸術や、医学・天文学など学問の中心地として発展した。
 クニドスは、BC546年頃からBC448年頃にかけてギリシア諸都市とアケメネス朝ペルシアとの間で戦われたペルシア戦争後、BC478年頃-BC477年頃にアケメネス朝の再襲来に備えて、アテネの指導統率のもとに結成されたギリシア都市国家のデロス同盟の一員となり、BC412年には離反している。BC330年頃、半島の西端要害の地に新市を築いた。
 イフィクラテスは、コノンのあとを継いで傭兵軍の指揮を執った。イフィクラテスは、BC391年頃、ペルタスタイ(軽装歩兵)に小型で軽い革製の盾と軽い投げ槍を持たせ、厳しい統制下に置き、日常的に徹底した訓練を課し機動性に富んだ傭兵に育てた。「ペルタスタイ」は、元来はペルテーと呼ばれる三日月型の盾を装備し、投げ槍や弓を用いる軽装かつ機敏な歩兵を指す。BC390年頃、コリントス領のレカイオンの戦いでは、軽装歩兵を駆使して、レカイオンに駐留するスパルタの重装歩兵軍の部隊に、スリングsling(投石紐)による投石や投げ槍、弓を射るなどの側面からの機敏な攻撃が端緒となり全滅させた。
 イフィクラテスは、本来は補助戦力でしかなかった軽装歩兵を駆使し、スパルタの重装歩兵に機動力を活かして打ち勝った経験を踏まえ、従来の重装備の甲冑と短槍を装備したファランクスから、軽装にして機動性を重視するファランクスを調練して、その兵力を機敏にして有効に駆使する画期的な戦術を編み出した。
 金属製のすね当てを廃止して、くるぶしまでのブーツに変え、盾は大盾から小型の盾にし、その盾に紐を付けて首に架けて腕に括りつけるようにした。鎧が軽装になったことによる不利は、槍を3mほどの両手で扱う長槍にかえてリーチを延ばすことによって補った。長槍を構えると、ちょうど盾が前面を覆い、また剣を長くし野戦での接近戦でも有利となった。
 レカイオンの戦いの後、BC388年にイフィクラテスは、ケルソネソス(黒海北岸のクリミア半島の南端にあった古代ギリシアの植民都市)へと派遣される。この時に彼が率いていた軍勢の多くは彼の指揮下にあったコリントスの兵士達であった。この時のイフィクラテスは、ダーダネルス海峡に面し、古くから海上交通および軍事上の要衝として知られる、アナトリア半島北西端部の港湾都市アビュドス付近で、スパルタの軍勢を打ち破る戦果を挙げている。その後のイフィクラテスは、BC 370年代にアケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス2世(在位:BC404年-BC358年)のギリシア人傭兵の指揮官としてエジプトの反乱軍と戦い、エジプト側の激しい抵抗にあい、遠征は失敗に終わっている。アルタクセルクセス2世は、ペロポネソス戦争の退役ギリシア軍人を傭兵としたようだ。その後、アルタクセルクセス2世が遠征し、エジプトの反乱軍を鎮圧している。
 BC373年、イフィクラテスはアテネに戻っている。その後はアテネ艦隊を率いてトラキアに滞在している。
 (エジプト第27王朝【BC525年-BC404年】は、エジプトにおける最初のアケメネス朝の王朝、実状はアケメネス朝の属州【サトラップ】であり、第1次ペルシア支配時代とも呼ばれる。第27王朝はアケメネス朝の王カンビュセス2世がエジプトを征服し、エジプトファラオとして即位したことによって成立した。その後、アミルタイオスの反乱によって終焉を迎えた。
 アミルタイオスは、リビア系の26王朝の末裔で、リビア人の首長イナロス2世【26王朝最後のファラオ・プサメティコス3世の孫】と共にBC465年からBC463年にかけてアケメネス朝に対して反乱を起こしたサイスのアミルタイオスの孫と言われている。彼はクレタ人の傭兵の力も借りて、BC405年にペルシア人をメンフィスから追放することに成功した。翌BC404年にダレイオス2世が死去すると、アミルタイオスがエジプト王であることを宣言した。
 これが、エジプト第28王朝で、通常、エジプト末期王朝に分類される3番目の王朝となる。ダレイオス2世の後を継いでペルシア王となったのが、アケメネス朝では最長の治世のなるダレイオス2世の長子アルタクセルクセス2世であったが、エジプトを再征服すべく遠征を試みるも、弟キュロスの政治的脅威のため、実現できなかった。そのためアミルタイオスは、全エジプトを統治することができた。
 BC398年、アミルタイオスはネフェリテス1世によって殺害された。これによって第28王朝は終了し、エジプト第29王朝が始まった。)

 古代マケドニア軍のファランクスは、縦深が8列程度であった従来の密集方陣を、6mの長槍(サリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマSyntagma(ギリシア語で「統合」・「構造」などを意味)とし、このシンクタグマが横に並ぶことで方陣を形成した。
 3年間テーバイで人質生活を送ったピリッポス2世は、その改良型ファランクスによる戦い方を検討して、マケドニア式ファランクスを創始した。マケドニア式のファランクスが用いたカイロネイアの戦いでは、本隊の重装歩兵右側に常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突進力に勝るヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵が布陣した。左翼で防御している間に、右翼からの敵戦列破壊を行うマケドニア式ファランクスは、側面からの攻撃に弱い従来のファランクスを圧倒した。このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれる。
 ギリシア北方のマケドニアやトラキアは遊牧民族的な性格が強く、騎兵が強力な主戦力で、質・量のともにギリシアを超えていた。アレクサンドロス大王の遠征では、鉄床戦術を行うために、重装歩兵によるファランクスとともに主要な戦力として活躍した。フィリッポス2世は兄の戦死後即位し、農地を開発して自由農民の生活を安定させ、彼らを長槍を武器とする強力な歩兵兵団(ペゼタイロイ)に組織し訓練した。それと組み合わせて、封建領主からなる重装騎兵兵団(ヘタイロイ)を主要な戦力とした。ヘタイロイは、元々、「友」の意味で王と同格の大貴族団の称号であった。
 このマケドニア式の「鉄床戦術」を以って、ピリッポス2世はアテナイ、・スパルタ・コリントスなどギリシアの諸都市国家を打ち破り、遂には、彼の子アレクサンドロス3世はアケメネス朝ペルシアを滅ぼした。
 その後マケドニア式ファランクスは、アレクサンドロスの死後、その後継者の座を争ったディアドコイ達に受け継がれた。ディアドコイ同士の戦いは必然的にマケドニア式ファランクス同士の戦いとなり、彼らは槍をさらに長くしたり、防御力を上げるために鎧をさらに重装備にしたりして他のディアドコイより優位に立とうとした。
 しかし、それらの改良は迅速な俊敏性や機動力の更なる低下へと繋がった。後にこの欠点や機動力を補う騎兵の不足などによってローマ軍団に敗れることとなる。
 (その後マケドニア式のファランクスは、ローマでは楯を隙間無く配置し防御力を高めたテストゥドに進化した。テストゥドはローマ軍の歩兵戦術の1つで、歩兵集団が密集した隊列で盾を前方、上方に掲げつつ対峙移動する戦術である。主に騎兵に対する防御あるいは攻城戦での突撃に用いられた。テストゥドは飛び道具に対して極めて有効で、歩兵は弓・投げ槍・投石での攻撃を恐れずに移動ができた。)

 スパルタ側であるペロポネソス同盟軍は、従来のファランクス(密集陣形)通り12列の深さで陣形を組んでいた。この深さ列ぐらいが、当時ファランクスを組むのに陣形としての厚さと横の長さがちょうど良いとされていた。右手で槍を持ち、左手で盾を持ち、密集状態で陣形を組むため、その左手で持った盾は自分を守るのではなく、左隣の仲間の防御のためである。ということは陣形の一番右に居る兵士は、盾による防御ができない。そのためファランクスでは、一番右側に一番の精鋭部隊を置いた。その右側に配置されることは名誉とされていた。
 一方ボイオティア同盟軍の指揮官エパメイノンダスは、従来の配置とは逆に、自軍左翼側に最精鋭である神聖隊を配置した。それだけではなく、通常12列の深さのファランクスの代わりに、50列もの深さのファランクスを組んで待ち構えていた。強いスパルタであっても、数で圧倒すれば勝てると見込んだのであった。スパルタ軍にとって、敵を倒しても倒しても、後ろから新しく兵が出てくる、さらに、ボイオティア同盟軍の指揮官エパメイノンダスは、従来のその配置とは逆に、自軍左翼側に最精鋭である神聖隊を配置して待ち構えていた。
 自軍の行軍に時間差をつけて、階段状に行軍することにより、1番強くて厚くなっている左翼戦列が真っ先に戦闘に参加し、薄くなっている中央や右翼の会戦を遅らせた。そして自軍左翼が敵右翼を破った頃に、自軍中央部が敵中央と会戦している間に、目の前の敵を破った自軍左翼が敵軍の背後や右側に回り込んで攻撃する戦術であった。エパメイノンダスが編み出したこの陣形を斜線陣と呼ぶ。
 エパメイノンダスの斜線陣によりペロポネソス同盟軍右翼のスパルタ軍は破られ、最強スパルタ軍が負けたのを見た他のペロポネソス同盟軍は逃げ出し、ボイオティア同盟の勝利に終わった。このレウクトラの戦いと、続くマンティネイアの戦いでの敗戦により、スパルタが主導していたペロポネソス同盟は崩壊し、スパルタはギリシアの覇権国から二流国以下に没落した。
 ボイオティア同盟軍はアッティカ(テーベやアテネ周辺を指す地域名)半島からコリントス地峡を通過しペロポネソス半島南西部のメッセニアへと進軍した。今まで侵攻されたことが一度もなかったスパルタの地ラコニアへと踏み入り、スパルタの隷属地でありながら経済基盤であるメッセニアの地を解放したため、スパルタにとって存亡にかかわる大打撃となった。

 古代マケドニア軍のファランクスは、縦深が8列程度であった従来の密集方陣を、6mの長槍(サリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマSyntagma(ギリシア語で「統合」・「構造」などを意味)とし、このシンクタグマが横に並ぶことで方陣を形成した。
3年間テーバイで人質生活を送ったピリッポス2世は、その改良型ファランクスによる戦い方を検討して、マケドニア式ファランクスを創始した。マケドニア式のファランクスが用いたカイロネイアの戦いでは、本隊の歩兵右側に常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突進力に勝るヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵が布陣した。左翼で防御している間に、右翼からの敵戦列破壊を行うマケドニア式ファランクスは、側面からの攻撃に弱い従来のファランクスを圧倒した。このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれる。
 このマケドニア式のファランクスを以って、ピリッポス2世はアテナイ、・スパルタ・コリントスなどギリシアの諸都市国家を打ち破り、遂には、彼の子アレクサンドロス3世はアケメネス朝ペルシアを滅ぼした。その後マケドニア式ファランクスは、アレクサンドロスの死後、その後継者の座を争ったディアドコイ達に受け継がれた。ディアドコイ同士の戦いは必然的にマケドニア式ファランクス同士の戦いとなり、彼らは槍をさらに長くしたり、防御力を上げるために鎧をさらに重装備にしたりして他のディアドコイより優位に立とうとした。
しかし、これらの改良は柔軟性や機動力の更なる低下へと繋がった。後にこの欠点や機動力を補う騎兵の不足などによってローマ軍団に敗れることとなる。
 その後マケドニア式のファランクスは、ローマでは楯を隙間無く配置し防御力を高めたテストゥドに進化した。テストゥドはローマ軍の歩兵戦術の1つで、歩兵集団が密集した隊列で盾を前方、上方に掲げつつ対峙移動する戦術である。主に騎兵に対する防御あるいは攻城戦での突撃に用いられた。テストゥドは飛び道具に対して極めて有効で、歩兵は弓・投げ槍・投石での攻撃を恐れずに移動ができた。

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 7)テーベ壊滅
 テーベは、勇将エパメイノンダスの戦死後、覇権を維持することが困難になった。テーベは急速に衰え、BC 346年マケドニアのフィリッポス2世との同盟を受け入れざるを得なかった。その後まもなく同盟を破棄し、アテネとともにフィリッポスと戦った。
 しかしBC4世紀後半には他のポリスと同様に衰微し、逆に力を付けたマケドニアのフィリッポス2世がギリシア本土に侵攻すると、アテネなどと協力してそれに当たったが、BC338年8月初めに、ボイオティア地方の都市国家カイロネイアの近郊、東に広がる平原『カイロネイアの戦い』で大敗し、スパルタ以外はその支配下に入った。
 ギリシア軍約3万5000、マケドニア軍歩兵3万、騎兵2000と、兵力はほぼ互角であったが、マケドニアの本隊の重装歩兵右側に常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突撃力を誇るヘタイロイ騎兵(重装騎兵の集団)、左翼にはテッサリア人騎兵(テッサリアは、ペルシア戦争ではアケメネス朝側についてマケドニアと戦ったが、まもなく、ピリッポス2世がテッサリアのアルコンに選ばれると、以後の数世紀にわたってテッサリアはマケドニアに服属した。)を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵が担当した。
 フィリッポス2世が主力の左翼で攻撃防御している間に、子アレクサンドロス3世が指揮する右翼のマケドニア式のファランクスが、側面からの攻撃に弱い従来形のギリシア式ファランクスの戦列に突撃して包囲し壊滅させた。このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼んだ。「鉄床戦術」とは、「槌」と「金床」の連携、つまり軍を2つの部隊に分け、一方が敵と攻防しているうちにもう一方が背後や側面に回りこみ本隊を包囲挟撃する戦術である。
 斜線陣の左翼騎兵部隊を指揮するアレクサンドロスによる側面攻撃で、ギリシア軍の主力であるテーベの「神聖隊」が撃滅され、アテネ軍も包囲されて殲滅された。6mの長槍(サリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマとするマケドニアの新式ファランクスの前に、3mほどの槍を両手で扱いリーチを延ばすことによって補完したギリシアの既存のファランクスでは応戦できなかった。包囲されたボイオティア軍は逃げることもできず、多くの兵士が討ち死にした。中でもテーベの神聖隊は300人中254人が戦死するという壊滅的敗北であった。
 カイロネイアは、古代ボイオティアを流れるキフィソス川に沿った谷にある町である。キフィソス川沿いの谷は、テーベから北方のテッサリア方面に向かう交通路にあたり、テッサリア地方北東部のマケドニアとの境界には、ギリシャの最高峰であるオリンポス山(2,917 m)が聳えている。
 その戦の後、BC337年、マケドニア王フィリッポス2世は、スパルタを除く全ギリシアをコリントス(コリントス湾奥に位置する港市都市。BC8世紀頃から海陸の交通の要衝として繁栄した。BC6世紀にはアテネとスパルタと並ぶ有力なポリスとなった。)に召集してコリントス同盟を結成した。各ポリスの自由自治・相互不可侵・参政権の維持・私有財産の保護等の規定と合わせてペルシア討伐を決定した。ポリス間の抗争は禁止され、マケドニアの実質的な軍事・外交上の主導権を認め、マケドニア軍の占領下に置かれたポリスは事実上自治を失うこととなった。
 BC336年、父王が暗殺されたため、マケドニアに若い20歳アレクサンドロス3世が即位すると、テーベは離反を試み反旗を翻した。アレクサンドロス3世はBC335年にテーベを急襲し、テーベ人6,000を殺し、神官を除く自由民全部を奴隷として売った。その数は3万にのぼった。ただ、アレクサンドロス3世の父のフィリッポス2世は、幼少の頃テーベで人質となっていた頃、エパメイノンダスの薫陶を得て「斜線陣」など実践的な戦術戦略を学んでいた。そのエパメイノンダスの斜線陣は、アレクサンドロス3世がさらに発展させた。アレクサンドロス3世は、父の知人たちは奴隷売却から外し、その同族も同様に扱った。
 フィリッポス2世は、アレクサンドロス3世に英才教育を施すことを決め、BC342年、彼が13歳になるとアリストテレスが42歳頃、教師として招聘した。学校はペラ西方のミエザに設けられ、プトレマイオス・リュシマコス・ヘパイスティオンら同年代の貴族の子弟も集められた。アリストテレスは彼らに広範にわたる教育を施し、アレクサンドロスも彼のことを深く敬愛した。
 アリストテレスは、BC367年、17-18歳頃、「ギリシアの学校」とペリクレスが謳ったアテネに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門した。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評された、教師として後進を指導することもあった。
 アレクサンドロス3世は、テーベを徹底破壊し神殿領以外を諸国に分配し、生き残った市民は全員を奴隷とした。救われたのはマケドニア王家の友人や古代ギリシア最大の抒情詩人ピンダロスの子孫などわずかな者たちのみで、ピンダロスの子孫を厚遇し、彼の屋敷だけはそのまま保存させた。ピンダロスは、テーベの古い貴族の門流に属する家系に生まれ、アテネに学び、注文に応じて競技祝勝歌など合唱隊歌を作った。合唱隊歌は、BC6世紀の全盛時代、各地の僭主や貴族が私的祝典のために詩人を雇って、おかかえの合唱隊に歌わせた。
 テーベの消滅はギリシア諸国に衝撃を与え、離反を企てていた諸国も抵抗を放棄した。アレクサンドロス3世は王国の基盤固め、ギリシア全土の覇権を確立した。
 BC334年に始まるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征軍は、ペルシア軍を小アジア(アナトリア)半島の北西端グラニコス川(現在名コジャバシュ川)の戦いに勝利した。ここで壊滅させた騎兵隊は、ペルシアの精鋭部隊とも言うべき戦力であった。この勝利によって、小アジアのギリシア諸市の解放がほぼ達成された。

 ダレイオス3世が初めて出陣したBC333年の(現在のトルコのシリアとの国境に近い平野)イッソスの戦いでも戦闘用馬車に乗っていながら戦場から突然逃げ出し、BC331年のアルベラの戦い(ガウガメラの戦い)でも勝負の決着がつかない前にまたしても逃亡、BC330年には都のペルセポリス(イランのファールス州;現在はシーラースの北の砂漠の中に遺跡として遺こる)は、アレクサンドロス大王によって焼き討ちされ廃墟となった。ダレイオス3世はエクバタナに逃れたが、次々と臣下が離反、最後はバクトリア(主にアフガニスタン北部)のサトラップ(総督;アケメネス朝ペルシアの属州に置かれた行政長官職)らに牛車に放り込まれ槍を撃ち込まれ、そのまま死ぬまで放置された。BC330年、アケメネス朝ペルシアは滅亡した。バクトリアは、BC255年頃~BC139年まで、現在のアフガニスタンの地域に入植させられたギリシア人が支配するヘレニズム諸国の一つとして存続する。
 ギリシア諸国のうち唯一、マケドニアの覇権を認めなかったスパルタは、コリントス同盟にも加盟せず「光栄ある孤立」を守った。アレクサンドロスが東方遠征に出発する際にも、マケドニアはスパルタを攻撃しなかった。逆に、スパルタ王アギスがBC331年夏に反マケドニアの挙兵に踏みきった。ペルシアの支援を受ける一方で、アテネにも同調を期待したようだ。兵力は歩兵2万、騎兵2千に達し、中にはイッソスの戦い(BC333年11月、アレクサンドロスの率いるマケドニアの東方遠征軍が、小アジアの東部に進み、ダレイオス3世の率いるペルシア帝国軍とイッソスで激突した)の戦場から離脱したギリシア人傭兵8千が含まれていた。ギリシア人の傭兵はマケドニア軍から冷遇されたため、不満の方が強かった。当時、アケメネス朝ペルシアは、既にマケドニア軍に大敗し、ダレイオス3世は家族までも置き去りにして行方を絶っていた。
 アレクサンドロスがギリシア防衛のために残しておいた代理統治者アンティパトロスは歩兵1万2千、騎兵1500にすぎず不利であった。しかし、海上ではマケドニア海軍が帰順したフェニキアとキプロスの艦隊を加えて圧倒的に優勢だった。最大の焦点はアテネが反乱に参加するかどうかであったが、アテネはついにアギスの誘いに乗らなかった。コリントス同盟から離脱することは避けた。孤立したアギスの反乱は、BC330年、アンティパトロスによって鎮圧された。
 同BC330年、マケドニア・ギリシア連合軍4万がペロポネソス半島中部のメガロポリスでスパルタ軍と対決、スパルタ側の5,300が戦死、アギス自身も最期を遂げて反乱は終息した。なぜか、アレキサンダー大王が、唯一制圧しなかったのはスパルタだと言われている。
 BC3世紀半ばには、スパルタ人の数は700人、そのうち土地所有者はわずかに100人に減じていた。BC3世紀の後半に相次いで即位したアギス4世とクレオメネス3世は、思いきった改革によって祖国の復興を企てたが、ともに挫折した。

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