古代マケドニア                     令和3年8月21日      
 
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 ヒクソス王朝 古代メソポタミア史 新アッシリア時代 ギリシア都市国家の興亡 古代マケドニア

 
 目次
 1)マケドニア王国
 2)ピリッポス2世
 3)アレクサンドロス3世
 
 1)マケドニア王国
 古代マケドニアは、ギリシア本土(ヘラス)に含まれない北方の地方名であった。エーゲ海北岸に接するギリシア世界とトラキアの平野部と、バルカン半島東部の北西方向に伸びているバルカンの山岳地帯と接する山岳部(ブルガリア中 部で最も高くなる、ボテフ峰2376m)とその南にかたまるピリン山脈、・リラ山脈・ロドピ山脈からなる。
 トラキアの平野部は、ギリシア北東部の一部とブルガリアの南東部に当たる西トラキアと、それにトルコのヨーロッパ部分に当たる東トラキアからなる。
 「ヘラス」と呼ぶギリシアの大部分と異なり、平野部が広く、一年を通して温暖な地中海性気候と、内陸部は夏暑く冬寒い大陸性気候である。山間部では冬季に雪も降るので、防寒の備えが必要となる。概して降雨は夏季に多いが、しばしば干魃に見舞われる。そのため農村地域の多くは、灌漑設備を必要となる。
 古来のマケドニア人は、平野部と山岳部を季節ごとに移動する遊牧生活を行っていた。当時の人々は、ギリシア民族の一派で古代ギリシア人の北西方言群に属する考えていたが、古代のギリシア本土のヘラスの人々(ヘレネス)とは、環境の違いから生活習慣がまったく異なるので、異民族つまり、バルバロイBarbaroiと呼ばれていた。
 古代ギリシアのヘレネスは、古代ギリシア人の名祖、英雄ヘレンの子孫と考えていた。ヘレンHellenは、ゼウスが当時の人類を滅ぼす目的で起した大洪水から生残り、ギリシア人の先祖となったデウカリオンとピュラ夫婦の長子であった。ヘレンは、ペーネイオス河とアイソーポス河のあいだにあるテッサリア地方の最南端プティーアーの王と見なされていた。
 ヘレンは、息子たちにギリシアの土地を分けて与え、それぞれがその土地を支配した。クスートスはペロポネソスの地を得、ドーロスはコリントス湾をはさんだペロポネソス半島の対岸のギリシアの「本土」の1つの領地を得た。そこに住まう人々に自らの名を冠し「ドーリア人」と呼んだ。一方、アイオロスはテッサリア地方とその周辺の土地を得た。クスートスはイオニア人とアカイア人の祖とされている。ドーロスはドーリア人の祖とされ、またアイオロスはアイオリス人の祖とされた。
 古代ギリシア人たちは、自らをヘレネス、またその地をヘラスと呼んでいた。それは、彼らが自らを英雄ヘレンの子孫であるとしたのは、ヘレンの子や孫からドーリア人・アイオリス人・イオニア人・アカイア人というギリシア人の各部族の名祖が誕生したと言う神話的発想による。また、古代ギリシア語は少なくともミケーネ時代には使用されており、この古代ギリシア語を共用したからこそ古代ギリシア文化の花が開いた。

 ギリシア人とは、後世、ローマ人による呼称であった。ラテン語Graeciaに由来する。Graecia自体はGraeci(ギリシア人)の土地という意味で、これ自体古代ギリシア人の自称のひとつグライコイからの借用である。本来はギリシア北西部のエペイロス地方(現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域)のギリシア最古のゼウス神託所があったドドナの辺りの住民 Graikoiグライコイが、アレクサンドロス大王以後のヘレニズム時代にギリシア人全体を指すようになったことに由来する。
 ローマ人はGraeciaの言語をイタリア半島中部の先住民族エトルリア人経由で借用したようだ。
 エトルリア人は、エトルリア文化を築いた。初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣した。ローマ建築に特徴的なアーチは、元々、エトルリア文化の特徴であったと言われている。やがて、古代ローマ人と同化し消滅した。初期の王制ローマの王はエトルリア人であった。この異民族の王達を追放することにより、ローマは初期の共和制に移行した。
 バルバロイの由来は「意味のわからない言葉を話す人」の意味で、ギリシア人が自らをヘレネスといったのに対し、異国人を指す言語として使った。次第に侮蔑的な意味を込めて蛮族を指すようになった。英語の野蛮人 barbarianの語源となっている。
 古代ギリシアでは異国の民をバルバロイと呼んだが、当初は必ずしも軽蔑のニュアンスはなかった。ペルシア戦争で異国の侵入と破壊に蹂躙され、ペルシアへの敵愾心が非ギリシア人の排外感情を醸成し、英語でのバーバリアンBarbarianという語に蔑視のニュアンスが含まれるようになった。ギリシア人たちは自由なギリシア人に比べ、絶対的な王による専制下に屈するバルバロイにたいして、奴隷の品性しかないと考えた。

 マケドニア王国は世襲の王族が支配し、その傘下には入った族長たちが騎兵として支える族長社会であった。農民は農業や移動的な牧畜を営み、奴隷は基本的には存在しなかった。
 マケドニア最初の王朝であるアルゲアス朝はドリス系のギリシア人により建国された。都市国家を形成せず、一夫多妻制を取るなど、古代ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたが、言語と宗教は古代ギリシアの諸ポリスと同一であった。また、アルゲアス朝はヘラクレスの血を引くと称し、アレクサンドロス1世(在位:BC498年-BC454年)が古代オリンピックにも参加していた。
 BC5世紀後半のマケドニア王である彼は、表向きにはアケメネス朝ペルシアに従っていたが、いくつもの対立行動を取った筋金入りの反ペルシア派であった。古代オリンピア競技に初めて参加したマケドニア人としても知られる。
 マケドニア王国は、BC7世紀に古代ギリシア人によって建国された歴史上の国家である。北西ギリシア方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。現在のギリシア共和国は、西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と、北マケドニア共和国南東部ドイラン・ボグダンツィ・ゲヴゲリヤおよび南西部レセン・オフリド各基礎自治体の一部、ブルガリアのブラゴエヴグラト州(ギリシャアとの国境地帯)、アルバニアのポグラデツ県・コルチャ県・デヴォル県の一部にまたがる地域にあった。
 アレクサンドロス1世の子に当たるペルディッカス2世の時に、ペロポネソス戦争が起きたが、マケドニアはこれに参戦せず、領土を拡張しつつ、国内を整備して国力の向上に努めた。
 ペルディッカスの子アルケラオス1世(BC413年-BC399年)は、ペルディッカス2世とその女奴隷の間に生まれた。先代の王アレクサンドロス1世の長子で叔父であるアルケタス2世と従弟のアレクサンドロスを暗殺することで、父ペルディッカスによる王位を獲得した。それにより、アルケラオスはマケドニア王の正式な相続権を手に入れ、積極的にギリシア文化の受容を図った。
 また、マケドニアの商業・軍事・行政において抜本的な改革を施した有能な君主として知られている。彼が暗殺されるまでに、良質な貨幣の鋳造や、要塞・軍用直線道路の建設、重装騎兵・重装歩兵組織の改善など、多くの分野で成果を上げていた。

 BC413年、ニキアスが指揮するアテネ海軍は、シラクサの攻囲戦で、シラクサとスパルタの連合軍に敗れ海軍が壊滅した。新たに三段櫂船を作るための木材の調達に苦慮していた。アルケラオス1世は、長らく敵対していたアテネに対して木材を必要な分だけ供給し有効な関係を築いた。その行為が称えられてアテネのproxenosプロクセノスに任命された。
 古代ギリシアには、相互に外交官を常駐させる制度がなかった代わりに、相手の都市国家の市民の中から、自分の都市の利便をはかってくれる者をプロクセノスに選任して、名誉と特権を与えた。
 BC5世紀末に、またそれまでアイガイ(現ヴェルギナ)にあった都を、ギリシア北東部にあるサロニカ (セサロニキ ) の北西約39kmの位置、ローディアス川の河畔のペラへに移し、ギリシア文化受容の中心とし、マケドニア王国を強力な国家へと変貌させた。
 最期はBC399年、狩猟中に寵臣クラテロスに暗殺された。クラテロスは非王族であったが、アルケラオス1世の殺害によって王位に就いた。3、4日王位にあっただけで他の者に謀殺されたと言う。

 王都ペラは、フィリッポス2世とアレキサンダー大王父子と言う歴史に名を残す2人の英雄を生み出した。当時、世界でもっとも活力に満ちた都市となった。第2次世界大戦後の遺跡発掘により、公共建築物や下水道をともなう道路などが明らかとなり、現在も発掘続行中である。特にBC3世紀頃の建造物の柱や床面の小石モザイクの精巧さが有名である。ただ現在発見されているペラの遺構は大半が、アンティパトロス朝初代のマケドニア王カッサンドロス(ディアドコイの一人)と、その後のアンティゴノス朝時代に建設されたものである。
 「ディアドコイ」とはギリシア語で「後継者」を意味する。アレクサンドロス大王の急逝後(BC323年)、それぞれ大王の後継者としての王号を称えその遺領を争ったマケドニアの部将たちをいう。

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 2)ピリッポス2世
 BC359年、ピリッポス(BC359年‐BC336年)の兄ペルディッカス3世が、バルカン半島西部の先住民イリュリア人と戦いで戦死した。
 同年、兄の遺児アミュンタス4世の摂政となり、間を置かず軍を背景にアミュンタス4世を退位させマケドニア王に即位した。ピリッポス2世は、少年時代(BCBC368年‐BC365年)に父アミュンタス3世死後の王位継承をめぐる争いに介入した当時の強国の一つテーベの人質となり、その3年の間人質として滞在し、その間、将軍エパメイノンダスから政治や軍事を学んだ。
 ピリッポス2世は、ギリシアの先進文化を積極的に取り入れ、国政の改革や国力の増強に努めた。 ピリッポス2世が改革を実施する以前は、マケドニアの多くの人々は貧しく、山野に放牧して暮らしていた。地方も豪族による世襲支配が根付いており、同じく豪族社会であったホメロスHomeros時代の様相が健在であった。
 ホメロスは、ギリシアの古典を代表する叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の作者とされている。BC13世紀頃のミケーネ文明時代のトロイア戦争の出来事が口承されてきたものであろうと考えられている。ギリシアの暗黒時代が終わってポリス形成期に入ったBC8世紀頃に文章化されたのではないか、と言われている。
 ピリッポス2世はギリシア先進地帯を手本とし、ポリスを作ることによって牧羊民が安心して暮らせるようにし、市民共同体も創設した。また、同時に地域を支配する豪族を宮廷貴族とすることによって、中央集権的な統制と官僚機構・軍組織を整えていった。
 この経過の流れで、ピリッポス2世の独自の発想が開花する。農民の生活基盤を安定させ、彼らを重装歩兵隊に組織し、小貴族を重装騎兵隊の主力とし、軍事訓練を日常化し、それを積み重ねることで軍事力を強化した。
 エーゲ海の最北端に近い東マケドニアにあった古代都市ピリッポイは、BC356年にピリッポス2世によって創建された。オルベロス山(現在のレカニ山)の麓に位置し、カヴァラの12km北西にあり、現在の平野部の北端に位置する。この平野部は当時一面の沼地であって、この沼によってピリッポイは南のパンガイオン丘陵から隔てられていた。ピリッポス2世の意図は、この都市をもって、付近の金鉱の開発を促進し、また軍事防衛の拠点とすることにあった。ピリッポスは、海岸沿いのアンピポリスと、バルカン半島北西部イリュリア地方(現在のアルバニアを中心とした地域)の主要都市リッソス(現アルバニアのレジャ)やエピダムノス(現アルバニア第2の都市ドゥラス州の州都ドゥラス)結ぶ街道を防衛する要地となった。比較的小規模な都市であったが、付近の金鉱山ゆえに、ピリッポイの経済上の重要性は街道沿いで際立っていた。 ピリッポス2世以降、歴代の王は、ピリッポイに自治権を認めた。またピリッポス2世は、南の沼地を干拓させた。

 BC8世紀からBC7世紀にかけて、古代ギリシア本土では、人口過密や気候変動、環境悪化などから飢餓など生活が困窮し、ギリシア領域外へ流出する人々が増えていた。
 一方、新しい交易市場や商港を外に求める植民都市建設や、追放や亡命などの政治的理由から、地中海沿岸の各地への植民が活発になった。東は黒海周辺から西はフランス南部やイベリア半島にまで至る広範囲に植民都市が誕生した。とりわけギリシアの西隣りにあるイタリア半島南端およびシチリア島のマグナ・グラエキアMagna Graecia(ラテン語;イタリア半島南端およびシチリア島における古代ギリシアの植民地全体を指す名称)には多くのギリシア人が移住した。
 伝承によれば、BC733年、コリントス人が入植して、ギリシア北西部のイオニア諸島のケルキラ島に植民都市ケルキラを建設した。そのケルキラは、島の東岸にある港湾都市で、BC590年頃、ギリシア神話に登場する狩猟・貞潔の女神アルテミスを祀る神殿が建てられたようだ。この頃の遺跡は殆ど遺されていない。
 ケルキラ島は、ギリシア本土とイタリア半島南部マグナ・グラエキアMagna Graeciaとの間にある交易の要衝であり、しかも島の南部には肥沃な平地を有していた。水源に恵まれた豊かな農業地帯で、オリーブ・柑橘類・ブドウ・トウモロコシなどを生産し輸出していた。
 ケルキラの気候は地中海性気候で、夏は33℃程度にはなるが、程よい湿潤さを保った暖かさで、冬は10度を下らない穏やかさである。
 BC733年、ケルキラにコリントス人たちが植民市を築いたが、それ以前にエレトリアからの入植者がいた。こうした非コリントス系の住民の影響もあり、ケルキュラの植民市の人々は、母都市コリントスに対して反抗的であった。この対立はBC7世紀初頭に先鋭なものとなり、BC665年、ギリシアの歴史に記録された最初の海戦は、この島を巡って行われた。
 この戦争はコリントスの僭主ペリアンドロスが、ケルキラの艦隊を撃ち破って島を占領して終結した。ケルキラはコリントスとともにアポロニアApolonia(アルバニアのフィエル県のポヤニ近郊にあった古代都市)とアナクトリオAnaktorio(西ギリシア、エトリア=アカルナニア県)の建設には参加したが、まもなく独立を回復し、港湾都市交易を発展させる政策に転換した。
 当時は既にコリントスと離反していたケルキラを母市とする植民市エピダムノスは打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊していた。内訌の仲裁と兵士の派遣を母市ケルキラに求めたがケルキラ人は何の支援も与えなかった。困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに応じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し、植民者の公募を募ると、激昂したケルキラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻囲ののち陥落させ、各地のコリントス植民市に対して略奪を繰り返した。

 エピダムノスはBC627年コリントスとケルキラ出身の古代ギリシア人によって建設されたアドリア海に面するイリュリア地方屈指の港湾都市であった。周囲には岩でできた天然港があり、内陸は湿地で海側は高い崖であるという地形のため、陸海両方から攻め落とすのが難しい都市であった。
 しかも、古代の哲学者アリストテレスはその政治システムを称賛していたが、ケルキラ島とコリントスの共同植民都市であったため、BC435年、支配権をめぐる民主派と寡頭派との打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊した。
 やがて両母市が巻込まれて争うところとなり、ケルキラはアテネに支援を願う。BC432年、アテネは、遠からず起こるだろうペロポネソス戦争の際、その戦力増強の好機と見て援軍を送り戦闘となった。それがペロポネソス戦争の誘因となった。

 のちにこの街道は、BC2世紀のローマ帝国時代に再興されて、エグナティア街道となる。イリュリア(スロベニア、クロアチア)が街道の始点となり、アドリア海沿岸のデュラキウム(現ドゥラス)から東のビュザンティオンまで至るローマ街道となった。言わば、古代ローマ帝国のイリュリクム属州とマケドニア属州及びトラキア属州を結ぶ街道であり、現在のアルバニア・マケドニア共和国・ギリシア・トルコの領土にあたる。この地域は、ローマにとっては戦略的にも経済的にも価値が高かく、海岸線には発展し続ける商業港が点在し、内陸部には金鉱山があった。
 BC359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻し、マケドニア王ペルディッカス3世を倒してマケドニアの一部を支配下においたが、BC358年、ピリッポス2世は、逆襲に転じてイリュリア王国に勝利し、マケドニアはバルカン半島最大のオフリド湖(現マケドニアとアルバニアの国境)までの支配を取り戻した。アレクサンドロス3世の時代のBC335年にイリュリアの族長クレイトスがマケドニアに抗戦したが敗退した。その後のアレクサンドロスのペルシア遠征には、イリュリア部族の指導者達と兵士とが従軍している。
 アンフィポリスは、古代ギリシアのアテネの植民都市であった。エーゲ海に流れるストリモナス川の、東岸の台地上にBC437年に建設され、8世紀頃に廃墟となった。アンフィポリスの付近ではBC3000年頃から人間が居住していたようである。戦略的な重要な地形であったために、この地域は非常に早くから要塞化されていた。
 資源が豊富なトラキア地方は、パンイオPaggaio山脈から金や銀が産出され、また海軍の建設に必要な造船所の木材も多く調達できる地域であり、ペルシアから見ても、アテネから見ても非常に魅力的な土地であった。 またトラキア地方は、ドニエプル川下流域の黒海北岸からカスピ海北岸のヴォルガ川までの草原地帯で、騎馬遊牧生活を営む東方スキタイ(イラン系遊牧騎馬民族)から、アテネへ穀物が供給される要衝であった。
 ドナウ川右岸のニコポリス(現,ブルガリア北部の町ニコポル)近傍での考古学調査により、この地域がスキタイ王国の政治・経済の中心地であったこと、そして黒海北岸域のギリシア植民市から陶器・織物・金属製品、・油などを輸入し、家畜・穀物・毛皮・奴隷などを提供する、広範な交易で富裕層が育っていたことなどが確認された。古来、バルカン半島の東部のブルガリアは、農業国として知られてきた。 そしてBC4世紀頃には上層のスキタイ貴族の間で、婦人・奴隷・馬などの殉葬を伴った高さ20m以上壮大な古墳が築造されていた。そのブルガリアの地は、インド・ヨーロッパ語族のトラキア人の世界であったが、間もなくマケドニア王国の支配下に入った。
 マケドニアは、1956mの高峰・パガイオ山の西北西に聳えるパンガイオンヒルズPangaion Hillsの金鉱山やトラキアの港湾都市や市場などの交易拠点なども領有し、財政も豊かになった。
 アテネ人が、トラキア地方に流れるストリュモン河の上流にあるアムフィポリス(エンネアホドイ)にBC465年に植民したのは、パンガイオンヒルズの豊富な金と銀を採掘するためであった。その河口の左岸のエイオンは、やがてアムフィポリスのハブ港として機能した。
 かつてアテネの入植者は近隣に居住するトラキア人に虐殺され、一旦は植民地を放棄したが、治安が安定するとアンフィポリスに戻り植民を再開した。

 マケドニアのフィリッポス2世は、果敢にギリシアに侵出し、圧倒的な軍事力でスパルタを除くポリスを制圧した。BC338年、北方ギリシアからの要路、ボイオティア地方北西端のカイロネイアChaironeiaの戦いでアテネとテーベの連合軍に勝利し、翌BC337年にはスパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となった。
 カイロネイアは、テーベから北方のテッサリア方面に向かう要路であった。現在も、フィリッポス2世の戦勝記念の獅子像が立っている。  
 1977年と1978年の秋に、ヴェルギナにおいて盗掘を免れた2基の王家の墓が発見された。かつての王都アイガイの代々の王の聖なる埋葬地であったヴェルギナ遺跡で、フィリッポス2世の墳墓が発掘された。マケドニア様式の墓は、1つか2つの墓室から成る地中建造物であった。それが完成されて葬儀が済んだ後に、土盛りされ墳丘となった。
 主室には通例、死者を安置するための1つあるいは複数のベッドがあった。 火葬が行われ、遺骨は特別賛沢な骨壷あるいは黄金の骨箱に入れられた。それには常に貴重な副葬品、女性用宝石類・男性用武具・銀や粘土製の容器・ランプや様々な小像、時には金製の優雅なディアデーマ(冠帯)やリースなどが収納され副葬された。
 墓は何度も埋葬がくり返されていた。王族の墓は、一族の家族墓でもあったようだ。内部から豪華な宝飾品が出土し、当然、20世紀の大発見と評価された。発掘された地下宮殿は現在、考古学博物館として2400年前の往時の様子を文字通り如実に展示してくれている。 壁画の殆どはフレスコ画法(壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだフレスコ【新鮮】の状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。)によって仕上げられた。
 マケドニア貴族社会における、大きな墳丘の地下に死者を埋葬するという他のギリシア都市には見られない慣習こそが、墓内部の気温を一定に保つため、外部の気候変化の影響を受けず、壁画が現代にまで保存される環境が維持された。
  フィリッポス2世の子アレクサンドロスは、BC4世紀に東方遠征に出発、30歳までにペルシア帝国を滅ぼしてバルカン半島からインダス川流域に至る大帝国を建設した。

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 3)アレクサンドロス3世
 アレクサンドロスは幼少年期から、フィリッポス2世も認める次代の王にふさわしい見識と武技・戦術において秀でていた。
 父はフィリッポス2世、母はギリシアの北西部(北は、アルバニアと国境を接している。)、マケドニアの西隣りのエピロス王ネオプトレモス1世の娘であった。両勢力の政略結婚と思われる。エピロスの現在のギリシアの行政区画は、イピロス地方で、そのほぼ全域が山岳地帯である。マケドニア王ピリッポス2世の4番目の妻であった。少女時代から蛇崇拝のディオニューソス(ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神)の狂信的な信者であり、極めて激情的な性格であった。息子アレクサンドロス3世と娘クレオパトラの2子をもうけたが、BC337年、新たな妃の冊立に際し離別され出国した。後にアレクサンドロスのとりなしによりピリッポスと和解し、ペラに帰還した。

 フィリッポス2世は、アレクサンドロスを次代の王として育てるための英才教育の場を設けている。BC342年、アレクサンドロスが13歳の年に、42歳頃のアリストテレスを教師として招聘した。学校はペラ西方のミエザに設けられ、プトレマイオス・リュシマコス・ヘパイスティオンら同年代の貴族の子弟も集められた。アリストテレスは彼らに、論理学・自然科学・史学・医学・天文学など本来のギリシア哲学の真髄、つまり広範にわたる知識全般に及ぶ教育を施した。アレクサンドロスも師の学識ばかりでなく、人として敬愛していた。
 アリストテレスは、フィリッポス2世の父マケドニア王アミュンタスタス3世の侍医ニコマコスの息子であった。同じく母も医療従事者であった。
 (アリストテレスは、「歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではない。ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、しかし韻律の有無にかかわらず、歴史であることにいささかの代わりもない。歴史家は既に起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異がある。」と『詩学』第9章に記す)
 ご学友に選ばれたリュシマコスは、後年、マケドニアの将軍となり、アレクサンドロス3世のアジア遠征に側近として武勲を立て、BC 323年の大王死後のサトラップ (州総督) 領分割の際にはディアドコイ(後継者) の一人としてトラキアを領有した。領内の先住民の平定戦に忙殺されたが、BC301年、アナトリア中西部フリュギアの「イプソスの戦い」に勝ち、小アジアの大部分を領有し、やがてマケドニアとテッサリアを支配して強大となったが、BC281年、古代リュディア王国の首都であったサルディス近郊の「クルペディオンの戦い」でセレウコス1世(アレクサンドロスの東方遠征に参加した部将、後にセレウコス朝シリアの初代の王となる)に敗れて槍で突かれて戦死した。

 アレクサンドロスは、BC340年のフィリッポスのビザンティウム(現在;イスタンブール)遠征の際には、マケドニアで王の代理となり王の印章を預かり、遠征先における全権を委譲されている。
 BC338年、中部ギリシアのボイオティアの要衝カイロネイアの戦いでは、18歳のアレクサンドロスは、重装騎兵隊が突撃する際に先駆けとなって敵陣に突入している。ギリシア軍約35,000に対してマケドニア軍歩兵3万、騎兵2000と兵力はほぼ互角であった。戦場で勇猛であるばかりか、臨戦中であっても適切な指図を幕下に下すと、指揮系統は確実で部隊それぞれが臨機に呼応した。勇名をとどろかせていたテーベの精鋭歩兵部隊の神聖隊が、この戦いで壊滅した。

 しかし、彼の王位継承も無残な経過を辿る。しかも歴代の王の殆どが殺害されて終末を迎えるように‥‥
 フィリッポスには何人もの妻がいた。後継に際して、異常事態が起こることは想定されていた。
 アレクサンドロスの母オリュンピアスが、フィリッポスの晩年に寵愛する妻の子が成長する前に、フィリッポスを暗殺したのではないかとも言われている。アレクサンドロスは、父が亡くなるや、瞬息に、容赦なく、彼の権力と競合するとみられる親族や宮廷内の諸勢力を瞬時に一掃した。

 アレクサンドロス3世(在位:BC336年-BC323年)は、軍勢で圧倒的に凌駕されていても、極めて稀有なことに生涯一度も戦いにおいて敗北を帰することがなかった。これは大胆な戦略の下、戦場の地形から戦術を天才的な分析能力で決断し、しかもファランクス(長槍を駆使する重装歩兵による密集陣形)や重装騎兵の突破力による緒戦での圧倒的強さ、そして将兵の殆どが果断なアレクサンドロス3世に強い忠誠心を寄せていたからと言える。
 アレクサンドロス3世の軍隊は、卓越した戦士である彼に身を投げうって従った。戦場では最前線の指揮官であり、騎兵隊の突撃では率先して一番槍をつとめ、都市の包囲攻撃では、投石機で城壁を破壊して、弓矢による猛攻で胸壁の兵士たちを遠ざければ、真っ先に城壁を登り突進した。
 特に精鋭の重装騎兵隊ヘタイロイ(原義は「友」)は堅い結束を誇り、アレクサンドロス3世は、軍勢の最高の司令官であるばかりか勇猛な戦士であり、戦場から離れても「ヘタイロイ」は、王と一緒に食事や酒席を共にすることを喜んだ。

 BC335春、トラキア地方のトリバロイ人らに向け、トラキアの地に進軍したアレクサンドロス3世は、近隣諸国を平定して母国の安泰をを図った。この初戦にてトラキア人の戦死者約1500人、トリバッロイ人の戦死者約3000人に、対するマケドニア軍は騎兵11騎、歩兵約40人の戦死に留まったと言う。
 BC334年、マケドニアとヘラス連盟の連合軍総司令官としてペルシア遠征に向かった。アレクサンドロス3世の軍勢に、ギリシア人傭兵やその同盟軍の歩兵の姿が殆ど見られなかった。敵のペルシア側にギリシア人傭兵が数多くいることから信用できず、同盟軍歩兵やその傭兵を前線で重く 用いることはなかった。
 アレクサンドロス3世は、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)で渡海した。アナトリア半島の北西端のトローアス半島(ビガ半島)のグラニコスGranikos川(現;ビガ川)の河口から約10km入った河畔で、BC334年5月に会戦、この「グラニコスの戦い」でアケメネス朝ペルシアの軍を破った。
 弓を主な武器としていたペルシア軍の軽装騎兵は、マケドニア軍の重装騎兵と、それに続いて渡河してきた重装歩兵の6mの長槍(サリッサ)攻撃を支えることができずに敗走した。後方に控えていたギリシア人傭兵の部隊は、味方の騎兵に取り残され、マケドニア軍の攻撃に晒された。傭兵らは降伏しようとしたが、アレクサンドロス3世は攻撃を続行させ、彼らの多くを戦死させた。生き残った者は捕虜として酷使された。
 戦闘中に大王自らがダレイオス3世の娘婿でペルシア軍の将軍の一人ミトリダテスを討ち取った。この圧倒的な勝利によりアレクサンドロス3世の名声は高まった。
 アナトリア半島西部の都市の多くは、マケドニア軍と戦わずに降伏したため、無血開城にてアナトリア半島の半分を手中にした。アナトリア半島の南西海岸のギリシアの植民都市であったミレトスとハリカルナッソスは、最後まで抵抗したが、BC334年、アレクサンドロス3世の東方遠征が再開されると、いずれも包囲攻撃を受け陥落した。その後、カリアの南西海岸のハリカルナッソスは、その地を訪れた共和政ローマ末期の政治家・哲学者キケロ(AD106年-AD43年)は殆ど廃墟だったと記している。しかし、ここの要塞と掘の遺跡は、1404年、ロードス騎士団が建設したボドルム城(聖ペテロ城)と合わせて、今では観光名所となっている。
 アレクサンドロス3世は、エーゲ海・地中海沿岸の都市を全て攻略して、BC333年に、アナトリア半島の南西部の海岸平野にあったギリシアの植民都市ペルガ(トルコ語名ペルゲ、アンタルアの北18km)・スィデ・アスベンドスなどをペルシアから奪還した。ペルガは、海へ出られる航行可能な川が近くにあり、海岸沿いの都市を造るよりも海賊の襲撃に遭いずらく、また険しい丘が防衛上好都合でありながら、海上と三方向の主要都市に伸びる陸上交通の利便性と肥沃な大地に恵まれていた。 そのためか、BC1000年頃からの集落遺跡が発掘されている。
 
 BC333年11月、アレクサンドロス3世は、数でまさるペルシア軍に対して決定的な勝利をおさめた。シリアとの国境に近いトルコの地中海沿岸の「イッソス(現;イスケンデルン)の戦い」は、シリアとキリキアを分ける東側のアマノス山脈と西側のイスケンデルン湾に挟まれた、それも湾の最奥部の狭隘なイッソスでの大会戦であった。BC333年には、イスケンデルン湾最奥部に位置するイッソスで、4万のマケドニア・ギリシア連合軍がダリウス3世率いる10万のペルシャ軍と戦う。海岸に山が迫っているため、3km弱の幅しかない。このときペルシャ軍を破ったアレクサンドロス3世は、エジプトに向かって南進していた 。
 ダレイオス3世の卓越した偵察部隊は、常にマケドニア軍の動向を見張り続け、より正確に状勢を把握していた。ペルシア軍は、北側を大きく周り、アマノス山脈の西側に進出し、ピナルス川に軍を展開した。
 北側のルートを知らなかったアレクサンドロス3世は、ダレイオス3世に誘導されるように、マケドニア軍を、右手の山脈と左の湾に挟まれた地形に着陣した。戦力は、ダレイオス3世率いるペルシア軍が、約10万、そのうち騎兵は2万、アレクサンドロス3世のマケドニア軍は約4万1000、そのうち5500が騎兵であった。
 マケドニア軍は、中央に重装歩兵を配置し、両翼に重装騎兵を配置するが、アレクサンドロス3世本人は、右翼に世界最強のヘタイロイ騎兵を率いていていた。どちらかといえば、右翼に戦力が偏っていた。しかし、ペルシア軍は、右翼に騎兵戦力のほぼ全てを集中させていた。実は、ピナルス川は、山側に寄れば寄るほど、大小の岩が散乱している。騎兵が活動するには不利な地形になっていた。そこでダレイオス3世は、左翼の歩兵だけでも、アレクサンドロス3世の重装騎兵が渡河に難渋している最中に、弓矢や投石器を使い落馬させれば簡単に討ち取れると予想した。
 しかし、アレクサンドロス3世は、ここに勝機を見出す。ピナルス川は小さな川で、河口近くであっても川幅は広くない。ヘタイロイ騎兵のそばにいる常備の近衛歩兵と、弓矢と投石を得手とする軽装歩兵とその右側に徴募による軽装歩兵を配置した。それらの歩兵が先に動いた。ここでアレクサンドロス3世は、全軍に「勇者であれ!」と叫び、兵士達は雄叫びをあげって突進した。アレクサンドロス3世は、まず自分が指揮する右翼を突出させたが、この時、ピナルス川を真っ先に飛び込んだのは精強歩兵とそれに続く軽装歩兵であった。 この2兵種は、地形対応の能力が優れている。敵からの反撃があっても、精強歩兵と軽装歩兵の連携でどうにか対岸に到達できた。すぐさま攻撃の足場とする橋頭堡を築き、弓とスリングsling(投石具)を使い渡って来る重装騎兵を守った。
 つまり、敵前に壁を作ることで、ヘタイロイ騎兵を、敵の攻撃に晒されないようにした。アレクサンドロス3世率いるヘタイロイ騎兵は、兵力の損耗が少ないまま、ピナルス川を越えて対岸で隊列を整えた。
 そこから、ヘタイロイ騎兵が凄まじい勢いでペルシア軍を攻撃した。重装備の騎兵が高い位置から振り下ろす長槍を、ペルシア軍の左翼の軽装歩兵では受けきれない。歩兵8万に対して騎兵5500でも、装備が格段に優れ、破壊力は圧倒的であった。ペルシア軍の左翼の歩兵は後退を余儀なくされた。アレクサンドロス3世の右翼は、思惑通りに進んでいる。右翼の勢いが加速した。それに同調するアレクサンドロス3世の中央のファランクスphalanx(重装歩兵による密集陣形)に乱れはない。
 古代マケドニア軍は、縦深が8列程度であった従来の密集方陣を改変し、6メートルの長槍(サリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマSyntagmaとして構成する。、このシンクタグマ(「シンクタグマ」とは、ギリシア語で「統合」、「構造」などを意味する。)が横にも並ぶことで方陣を作る。マケドニア式ファランクスの歩兵は、比較的軽装の鎧と、首から架けて腕につける小さな盾を装備していた。また、両手で長槍を支えることができるようになったのも効果が大きい。しかし、大盾と長槍による密集陣形もこの当時に存在していた。
 ファランクスは、左手に盾、右手に長槍を持った重装歩兵が列を作って密集して、盾を少しずつ重ね合わせるようにしながら壁を作りつつ長槍を突き出す隊形である。相手の弓矢などの飛び道具から身を守りつつ、ちょっとずつ前進して相手を押し崩すという戦法であった。機動力や速度を捨てて、思い切り身を固めながら防御するときは徹底して防御して、とにかく敵の攻撃をやり過ごす。耐える時はとにかく耐え忍ぶ。 そして、攻撃が止んだと見るや、即座に前進し、貯めに貯めたパワーを一挙に爆発させ相手を殲滅する。
 ペルシア軍2万の騎兵は勢いのまま押し込んできた。中央は幾分、劣勢を強いられた。しかし、突進する敵の騎兵に遠くから投じる短槍が効果的であった。短槍を束ねて持つ歩兵も珍しくなかった。合成弓(複合弓)は、複数の材料を張り合わせる事で射程と破壊力を向上させていた。ペルシア軍の騎兵2万が右翼に集中していたため、押し込まれた。 しかし、戦場の狭さが味方してくれた。
 戦況が悪化したのは、ペルシア軍の左翼であった。大軍を広く使えないペルシア軍の右翼の騎兵も、縦に厚くしたため前列で戦う騎兵に限りがある。 その淀みの間に、ヘタイロイ騎兵が回り込み凄まじい一撃でペルシア軍の右翼の左側面打ちのめした。この影響でますます後退した。アレクサンドロス3世が率いる右翼に勢いがついた。それに同調して、中央のファランクスによる凄まじい破壊攻撃が開始された。

 中央は劣勢を強いられるが、特に戦況が悪化したのは、マケドニア軍の左翼であった。ペルシア軍の右翼に集中していた圧倒的な数の騎兵の圧力に、マケドニア軍は必死にこの戦況に耐えていた。ここでアレクサンドロス3世は、鉄床戦術(かなとこせんじゅつ)を仕掛けた。ペルシア軍の左翼が後退すると、自らが率いるヘタイロイ騎兵は、勢いのまま撃破すると左に旋回し、チャリオット(戦車)に乗るダレイオス3世がいるペルシア軍の中央軍の側面から襲い掛かった。傷を負いながらも、前へ前へと進撃するアレクサンドロス3世が、愛馬ブケファロスBoukephalosの馬上で槍を振う鬼気迫る光景に、ダレイオス3世は恐れおののき、戦場から逃亡してしまった。それが契機となりで、他のペルシア軍も総崩れとなった。多くのペルシャ兵はマケドニア軍に追い討ちされ、その遺体は逃亡する兵士や追撃する兵士により踏み潰されるか、馬により潰された。
  イッソスの戦いの後の戦場には、ペルシア軍の大量の戦利品とともに、ダレイオス3世の妻・母・娘がペルシャのキャンプに置き去りにされていった。アレクサンダーは彼女たちを歓待し、身の安全を保証したと記録されている。ダレイオス3世の乗っていた馬は彼の弓と盾と共に溝に捨てられていた。また大量の戦利品は、アレクサンドロス3世の慢性的な資金不足を解消し、マケドニア軍の絶対的な優勢へと戦局を大きく転換させた。
 
 チグリス川上流を渡ったBC331年10月のガウガメラ(現;イラク北部)の戦いでは、一見手ごわそうであるが、敵の弱点を見抜く眼力や、ここぞというときの突撃する闘争本能が、いかんなく発揮された。アレクサンドロスの果てしない野望は、BC330年に強大なペルシア帝国を征服したにもかかわらず、遠征を中断しなかったことで如実に現れている。
 
 6mの長さを持つ長槍(サリッサ)で武装するマケドニアのファランクスは、ピリッポス2世による厳格な訓練よって熟達し、アレクサンドロス3世はその俊敏な展開力と破壊力を最大限に駆使した。しかも重装する兵団が整然と展開する正規軍の光景を目前にすると、対峙する側は自軍の数ばかりにたよる無秩序の兵士の無様さが、余りにも明白な戦力差として汲み取れたようだ。
 バビロンに戻ったアレクサンドロス3世は、アラビア遠征を計画していたが、ある夜の祝宴中に蜂に刺され倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、BC323年6月10日、32歳の若さでバビロンにて崩御した。
 うわごとがはじまって、発熱後10日目に崩御したといわれる。これらの症状は、ウエストナイル熱West Nile feverの症状と見られている。鳥と蚊の間で感染環が維持されている。ヒトや動物が終宿主で、ウイルスは蚊の体内に潜み、その蚊に刺されることでヒトに感染する。ウマでの流行も報告されている。1週間ほどで治癒するが、レアケースで、脳炎や髄膜炎を発症し、致死することが知られている。
 ウエストナイル熱による髄膜炎や脳炎の致命率は高く20~30%、一命をとりとめても中枢神経感染にまでになると、後遺症が20~30%残る。鳥類も感染し、病原性を発揮することがあるため、ウイルスが日本に侵入すると感染が拡大する可能性があると指摘されている。鳥類の死骸には、不用意に触れないなど不要なリスクを回避することが大切と言われている。
 アレクサンドロスの子であるヘラクレス(庶子)とアレクサンドロス4世(嫡子)が殺害されている。
 アレクサンドロスの崩御後、大王Magnusの庶兄で毒殺未遂により知的障害者であったピリッポス3世と、アレクサンドロスの崩御後に生まれた嫡子アレクサンドロス4世が共同統治者となった。その後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発した。
 カッサンドロスは他のディアドコイに見られないほどアレクサンドロス3世(大王)への憎しみを抱いていた。
 アレクサンドロス3世の母である太后オリュンピアスは、BC317年にマケドニアに戻りアレクサンドロス4世の後見となり、彼の共同統治者であったピリッポス3世を暗殺した。翌BC316年、太后オリュンピアスもカッサンドロスの命を受けた兵士らにより殺害された。
 BC310年、カッサンドロスは、自己の統治を確実なものにするため、アルゲアス朝最後のマケドニア王アレクサンドロス4世と大王の妃ロクサネの毒殺を命じた。大王の王統が絶えると、BC306年以降、ディアドコイらは一斉に大王の後継者として王号を称えた。
 アレクサンドロスの帝国は配下の将軍ディアドコイらにより、プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリア・アンティゴノス朝マケドニアに3王国に分割された。
 マケドニアはアンティゴノス朝がヘレニズム諸国の一つとして存続したが、BC1世紀にローマに征服され、その属州となった。

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