古代文明の破綻 |
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DNA DNAが遺伝物質 生物進化と光合成 葉緑素とATP 植物の葉の機能 植物の色素 葉緑体と光合成 花粉の形成と受精 ブドウ糖とデンプン 植物の運動力 光合成と光阻害 チラコイド反応 植物のエネルギー生産 ストロマ反応 植物の窒素化合物 屈性と傾性(偏差成長) タンパク質 遺伝子が作るタンパク質 遺伝子の発現(1) 遺伝子の発現(2) 遺伝子発現の仕組み リボソーム コルチゾール 生物個体の発生 染色体と遺伝 減数分裂と受精 対立遺伝子と点変異 疾患とSNP 癌変異の集積 癌細胞の転移 大腸癌 細胞の生命化学 イオン結合 酸と塩基 細胞内の炭素化合物 細胞の中の単量体 糖(sugar) 糖の機能 脂肪酸 生物エネルギー 細胞内の巨大分子 化学結合エネルギー 植物の生活環 シグナル伝達 キク科植物 陸上植物の誕生 植物の進化史 植物の水収支 拡散と浸透 細胞壁と膜の特性 種子植物 馴化と適応 根による水吸収 稲・生命体 胞子体の発生 花粉の形成 雌ずい群 花粉管の先端成長 自殖と他殖 フキノトウ アポミクシス 生物間相互作用 バラ科 ナシ属 蜜蜂 ブドウ科 イネ科植物 細胞化学 ファンデルワールス力 タンパク質の生化学 呼吸鎖 生命の起源 量子化学 ニールス・ボーアとアインシュタイン 元素の周期表 デモクリトスの原子論 古代メソポタミア ヒッタイト古王国時代 ヒッタイトと古代エジプト ヒクソス王朝 古代メソポタミア史 新アッシリア時代 ギリシア都市国家の興亡 古代マケドニア 古代文明の破綻 |
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1)青銅器時代の時代背景 古代オリエントのセム系住民アムル人は、フェニキア人やヘブライ人などとともに、西セム語族に属する半遊牧民の一つで、その風俗文化は不明であるが、シリア砂漠を中心とした半遊牧民族であったと推定される。BC3千年紀後半のアッカド語の文献に、既にメソポタミアの西に広がるシリア砂漠の未開の半遊牧民の総称として登場する。BC3千年紀、アラビアを原住地とする西セム語族の遊牧民族アムル人Amurrus(アモリ人Amoritesともいう)が、沃地が広がるメソポタミアに侵入し、次第に農耕定住生活を営んだ。 BC2000年頃からヒッタイト人が、小アジアに定住し、BC1680年には、ヒッタイト王ハットゥシリ1世はハットゥシャシュ(現;ボガズキョイ)を首都として王国を樹立した。 アムル人も、オリエントの民族大移動の流れにのり、メソポタミア北部に定着し始めていた。そのアムル人は、BC2000年紀初め、シリア北部からメソポタミアに侵入し、古代メソポタミアの都市バビロンを首都とするバビロン第1王朝(古バビロニア時代;BC2003年~BC1595年)の基礎を築いた。アモリ人王朝 とも呼ばれる。後に都市国家バビロン第6代ハンムラビ王(在位:BC1792年-BC1750年)は、メソポタミア全土をほぼ統一し、バビロニア帝国の初代王となる。 東方のザーグロス山岳地帯出身の非セム系民族カッシート人も、BC2千年紀以降メソポタミアに侵入、ハンムラビ王の息子サムス・イルナ王に撃退されたが、バビロニア北方のチグリスやユーフラテス両川流域に定着した。ハンムラビ王死後、サムス・イルナが王位を継ぐが、新興の異民族カッシート人の侵入や、諸都市の反乱で統一は脆くも瓦解、以後バビロン第一王朝は弱体化しながら4代続き、BC1595年、ヒッタイト王ムルシリ1世の遠征軍によって滅ぼされた。 ヒッタイトが支配していた小アジアの東部から北部メソポタミアにかけて、その一帯に自立したカッシート人は、BC1595年にバビロン第1王朝がヒッタイトによって滅ぼされた後のバビロニアに入り、カッシートの王アグム2世 (在位;BC1602年~BC 1585年) がヒッタイトを破ってバビロニアの支配が始まった。古バビロニア時代(BC2003年~BC1595年)以後のバビロニア王朝をバビロン第2王朝(カッシート朝;BC1595年頃-BC1155年頃)と呼ぶ。 BC17世紀頃からメソポタミアの北方の山岳地帯を支配したミタンニ人がミタンニ王国を立てると、その地域のフルリ人の一部がエジプトにまで移動たようだ。ミタンニ人の支配は、この時代の民族移動による国家興亡の1つに過ぎないかも知れないが、BC2000年からBC1500年にかけて、異民族の大移動によってオリエント世界は激動期に入った。山岳民や北方ステップらの戦士である遊牧民らは、馬の扱いに長けている。元々高い戦闘力を持つ騎馬技術に、文明化した職人の力を借りて戦車を作り、戦車戦法を編み出し戦車を駆使した戦術を多用し、強力な戦闘力を備えた。 「ミタンニ」の国家の起原は、解明されていない。首都ワシュガンニは、ハブル川下流地域であるが、明確な位置は未だ不明である。BC16世紀のヒッタイトの文書に「フリ人の王」と戦ったことが刻まれ、エジプトの同時期の王の墓碑銘にも記されている。BC16世紀には、既に国家が成立していたことになる。ユーフラテス川中流域で合流する大きな支流の一つハブール川は、シリア北東端の一帯を流域とする。「ミタンニ」は、数世紀の間、ハブール川流域の強国として存在していた。最盛期には、肥沃な三日月地帯に沿って、チグリス川の平地部上流も支配圏に治めていた。 一方、アラム人は、古代オリエントの遊牧民で、BC11世紀頃までに、ユーフラテス川上流の左岸の「ティル・バルシプTil Barsip」に定住した。現在ではテル・アフマルTell Ahmarの遺丘が古代都市の遺跡として遺こる。トルコとの国境から南へ20kmほどの位置にあった。現在のシリア北部の県都アレッポにあたる。 ティル・バルシプは近隣のカルケミシュ・グザナ・アルパドなどと、アラム人のシリア=ヒッタイト諸国の中心となった。この地には新石器時代から集落があったが、テル・アフマルの重要な遺跡は鉄器時代のものである。 ティル・バルシプは、小さな部族国家ビート・アディニの首都となった。やがてBC14世紀頃、アムル王国を興し、BC11~10世紀頃には、アラム王国を中心に、シリア北部にいくつかの小国家を建国した。 主に、ユーフラテス川上流とハブール川の肥沃な流域にある、アルスランテペ(現;ユーフラテス川から15kmの距離)・カルケミシュCarchemish・サマアル・グザナGuzana(テル=ハラフ;「昔の街でできた丘」を意味する)・サクチュギョジェ・カラテペ・ボルシッパなど、古代の農耕と放牧に支えられる交易都市で、東はメソポタミア、西はキリキアまで版図を広げ、エジプトとヒッタイトの支配下に入っても、オリエント交易の主役であり続けた。 しかし、アッシリアによってBC9世紀に攻略され、街は新アッシリア帝国の王シャルマネセル3世(在位:BC859年-BC824年)の本名「シャルマヌ・アシャレド(「シャルマヌ神は至高なり」を意味する。)」に、ちなんで「カル=シュルマヌ=アシャレドゥ」と改名され、ユーフラテス川沿岸の戦略的に重要な都市としてこの地方のアッシリア帝国の行政の中心となった。 テル・アフマルの遺跡では、近年の発掘では、精巧な象牙細工多数も出土した。豊穣の神イシュタルが浮き彫りになったものなど、重要な石碑が3つ発見された。その記録には、BC8世紀のアラム人の王バル・ガヤフが、近隣のシリア北西部の同じアラム人の国家アルパドArpad(現;シリアのタルリファト)と条約を結んだ経緯が記されていた。 アルパドはBC9世紀に一度は新アッシリア帝国に服従したが、BC843年に反乱し新アッシリア帝国軍の攻撃を受け、3年の包囲戦の後に陥落し破壊された。 ウラルトゥ人は民族的には、非インド・ヨーロッパ語系フルリ人と関連が深く、ヒッタイトの象形文字に似た文字をもっていたが、大部分はアッシリアの楔形文字に基づくウラルトゥ語を使って記録を遺した。 BC9世紀にウラルトゥ人は、東アナトリアの高原に分散していた諸部族ナイリ族を統合した王アラメ(在位;BC858年頃~BC 844年年頃)によって、ウラルトゥ王国を築いた。バン湖を中心に広大な地域を支配した王国の統一からBC7世紀まで、アッシリアとの抗争で常に緊張状態にあった。 ウラルトゥ軍は、鉄の装備で固める精強なアッシリア軍に対して、毛皮をまとい青銅武器で正面から立ち向かう不利を避けて、山に籠って山岳戦を展開した。平坦な戦場を得意とするアッシリア軍が、ウラルトゥ軍を撃滅することは至難の業となった。 ウラルトゥの領土は、現在のアルメニア共和国と、トルコ東部の国境線にまたがり、一時は今日のイラン・イラク・シリアの一部をも制圧していた。かなりの大国であった。その北シリアへの影響力は、宿敵新アッシリアにとって、鉄と馬の主要供給源であるアナトリア半島との交易路が脅かされることになった。 新アッシリアのティグラト・ピレセル3世(在位;BC744年~BC727年)の治世の間に、ついにメソポタミアばかりか、最初にオリエント世界を統一する新アッシリア帝国を樹立した。 BC743年、ティグラト・ピレセル3世がシリアに遠征しウラルトゥ王国を破ったが、西方では、アレッポの北方25kmに位置するアルパドを中心とするシリア諸都市の連合軍が、アッシリア軍の攻撃に屈せず、3年にわたる包囲戦を戦った。BC740年にアルパドは陥落し、ティグラト・ピレセル3世は住民を殺戮し市街を破壊した。 BC734年頃、ティグラト・ピレセル3世が、シリア方面に侵入して来た。ユダ王国アハズAhaz(在位:BC735年頃~BC715年頃)は、新アッシリア帝国に臣従の姿勢を取り、貢納を収めた。この時期、アッシリアに服属していたダマスカス(BC10世紀アラム人の王国の首都とされた)や北イスラエルなどが同盟を結んで反アッシリアの姿勢を取った。 しかし、アハズ王が親アッシリア政策を維持したため、ダマスカス王レツィンと北イスラエル18代の王ペカは共謀してユダ王国を攻撃した。エルサレムが包囲されて、アハズはティグラト・ピレセル3世に属王の礼を取って援軍を求め、見返りの貢納を収めた。ティグラト・ピレセル3世は直ちにダマスカスと北イスラエルを攻撃してダマスカスを陥落させ、その王レツィンを打ち殺させた。北イスラエル領は、アッシリアの属州になった。多くの人々が捕囚として連れ去られた。 アッシリアの碑文には、ユダのアハズやその他の国王たちが納めた貢ぎ物を、「金・銀・すず・鉄・アンチモン、多色の飾りのある亜麻布の衣、自国の黒ずんだ紫の羊毛の衣……海の産物、あるいは大陸の産物のいずれを問わず、あらゆる高価な物、彼らの地方の産物、王の宝物、馬、くびきされたラバ」など記している。 東アナトリア地方の現在のマラティヤ郊外にあったアルスランテペは、トルコ国内でも最も大きい遺丘(テル)の1つである。ユーフラテス川にあるカラカヤ・ダム湖の西にあり、古代より水資源は豊富にありながら、川の氾濫が起きない恵まれた都市であった。そのため農耕が都市を支えてもいた。それでも、農耕が可能な地域は、ユー フラテス川やハブール川流域の限られた周辺であった。人口が集中すると食料の供給がネックとなった。そのために発生する民族移動が、他文明の盛衰に大きな影響を与えた。 ジェムデット・ナスル期(BC3100年~BC2900年)から前期青銅器時代Ⅰ期にかけて、ユーフラテス上流の西岸に位置するカルケミシュなど、穀物生産に最適な広大な肥沃な谷筋に集落が増加するようになる。BC3000年頃、銅に錫を混ぜる青銅合金の製造法が発見され、青銅製の武器が作られた。銅の供給地はオマーンのバット遺跡などが遺こるマガンMagan地方で、BC3千年紀には、遠く離れたメソポタミアの地にまで銅を輸出していた。錫の産出地はトルコ南部のタウロス山脈(トロス山脈)のケステルKestel (トルコのケステル自治体)である。 アッシリア商人の主な交易品の一つである錫はアナトリアにおいても、メソポタミアにおいても貴重な鉱山資源であった。錫の鉱山は、アフガニスタン方面にあると考えられており、東方から運ばれた錫は、古バビロニアを経由して北メソポタミアのアッシュールで、対アナトリア交易の主要品目として需要は旺盛だった。また、アフガニスタンからアッシュールへ錫を運んだのは、アッシリア商人ではなく、エラムやその東方のイラン系アーリア人やパシュトゥーンなど遊牧民を主な出自とする商人や交易従事者であった。 アナトリアの錫の鉱脈の問題に関しては、1987年、キリキア地方の北西に聳えるタウルス山脈の南東に位置するボルカール山脈Bolkar Dağlarで、新たな錫の鉱山が発見された(タウロス山脈は、ベイ山脈・アラ山脈・ボルカール山脈・ムンズール山脈の4つからなるトルコ南部の山脈)。 この地域で引き続き調査を行うと、ケステルKestelで、錫の鉱脈跡も発見された。トルコ南部のタウロス山脈(トロス山脈)のケステル鉱山が、錫の重要な供給地であった。その坑道入り口の作業場跡付近から土器が出土しているため、採掘がBC3千年紀と特定できた。 中央アナトリアでも錫が採掘されていたことが、この考古学的成果により明白になった。 その近くの同時代のギョルテペ遺跡では、散布された石製の鋳型や錫鉱滓、錫石や粉砕用の石製道具が共伴している。この北の方向にキュルテペKültepe遺跡がある。BC20世紀のアッシリアの文書ではカネシュKanešと呼ばれていた。ただケステルの鉱山では、BC3290~BC1840年頃まで採掘がなされたことが証明されたが、それ以降となると採掘の痕跡が見られなくなる。産出量も含めてアッシュール経由の方が安価で安定した供給が可能だったと見られる。ただ、アッシュールでは古代アッシリア時代の文書が殆ど出土していないため解明されていないことが多い。 既にBC3500年になると、人類は大きく進化を遂げる。鉱石から金属を採取して加工する冶金術の発明により多くの武器が誕生し、世界最古の文明であるメソポタミア文明とともに青銅器時代へと飛躍する。 BC前3000年頃になると、現在のイラクあたり、チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミア南部に、人類史上最初の国家がシュメール人により建国され、軍事制度が組まれた。 メソポタミアの古代文明で発明されたコピシュは、鎌剣と呼ばれるように鎌のように剣身が曲がるため通称「シックルソードsickle sword(sickle;鎌、sword;剣)」と呼ばれることもあった。戦斧から発展した武器と言われている。メソポタミアでBC2500年頃から使われるようになったこの剣は、メソポタミア美術において権威の象徴とされ、神々や王たちの手に威信財として握られている様子が度々描かれている。世界最古の戦士たちは、青銅製槍や弓などの武器とともに、鋭く湾曲した鎌剣を振るって戦っていた。 BC2千年紀末からBC1千年紀前半にかけて東はエラムElam(イラン南西部のスサSusaを中心とした平野部と,イラン高原南部の山岳部から成る地域)から西はレバノン山麓まで広範囲にわたって活動したのが西セム語族の半遊牧民であった。 しかし、繁栄する周辺の強国、特にアッシリアの攻撃を受け、統一した国家をつくるまでにいたらず、BC8世紀までにアッシリアに征服された。その後はついに政治的独立を達成することはなかった。しかし,彼らの使用していたアラム語は、アッシリア時代からすでに商業語となり、アケメネス朝ペルシアのときには公用語として使用される。現在でも、シリア・アルメニア・メソポタミア北部でアラム語を話す民族は残っているが、その数はわずかである。 そのメソポタミア北部の文献史料として初めて登場するのが、BC9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族キンメリア人である。乗馬と騎射に優れたイラン系民族であった。これに次ぎ、同じく南ロシア平原にスキュタイ人が現れる。スキュタイ人については、ヘロドトスの書物の記載が有名である。「スキタイ」は、古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。同じく歴史に登場するペルシアのアケメネス朝もまた遊牧民を支配層とした国家である。アケメネス朝は後に続く広域国家の源流といわれる。 青銅器時代の定義は、地域によって違いはあるが、もともと利器の材質に基づいた命名である。石器時代の後の、鉄器時代に先行した時代、つまり鉄の冶金術がまだ知られていない、青銅で鋳造された時代である。青銅器時代の本来の意味は、青銅製の利器その他の器具の製造、使用が行われた時期を言う。主要な利器その他の利器とは、鋭い兵器や武具、実用の鋭利な刃物などのことである。器具一般ではない。 祭祀具・副葬品・宝器・儀器などのように宗教上の目的から、王権の象徴として青銅の利器が作られていても、例えば、クレタ島のミノス文化の双頭斧double-axe(そうとうふ)は、青銅製の祭祀具として有名であるが、それは青銅器時代を設定する指標にはならない。双頭斧を普遍的な現象と結びつけ、雷や雨雲を呼ぶ天の力、さらに豊饒の象徴とされ、そうした祭祀や儀式用の石斧は各地で見いだされている。古代地中海のミノス文化では両頭斧(双頭斧ともいう)が宗教的象徴として重きをなし、王宮壁面の装飾や陶器画にその表現が見られる。日本の弥生時代の平形銅剣や広鋒銅鉾(ひろさきどうほこ)なども典型的な儀器であって、これらに基づいてミノス文化時代や弥生時代を青銅器時代とは呼ばない。愛媛県四国中央市新宮町上山鳩岡の鳩岡遺跡出土の広鋒銅鉾の鋒には、鋭利な刃物の研ぎは無く、「祀りの祭具」と化した弥生時代の青銅製儀器として製作されていた。 (ミノス文明は、エーゲ文明の前半にあたるBC21~BC17世紀年頃成立した青銅器文明であった。エーゲ海の南に位置するクレタ島の、伝説のミノス王の「迷宮」と言われる壮大な宮殿を中心に文明を築いた。クレタ文明を遺した民族は、ギリシア人ではなく、アナトリア半島から移動してきた部族や一部は南方からの渡来者ではないかと言われている。果樹栽培と海上貿易を主な生業とする青銅器文明を開化させた。海洋王国を形成し、独自の文字を使用した。様々な用途の青銅器が普及し、多彩のカマレス陶器が生産され、クノッソス・フェイストス・マリアなどで最初の宮殿が建てられ壁画も発達した。また中期末には、絵文字から発達した線状文字Aが使われるようになった。後期(BC16~BC12世紀) は、クレタ文明が最も栄えた時期である。現存するクノッソス宮殿の大部分はこの時期に造られた。 イギリスの考古学者A.J.エバンズは、このクレタ島青銅器文化を、伝説の王ミノスにちなんで「ミノス文明」と命名した。地中海世界の東部、エーゲ文明の一部を構成する青銅器文明であった。 BC15世紀前半頃、南下してきたギリシア本土の民族が、クノッソスに侵入して線状文字Bを遺した。この時期に、クレタ文明はギリシア本土・シリア・エジプトを結ぶ海上貿易によって繁栄したが、BC 14世紀以降は衰え、BC11世紀初めにドーリス人の侵入によって滅びた。エーゲ文明はミケーネ文明の段階に入ったと考えられている。 クノッソスは伝説上のミノス王の宮殿であったので、ミノス文明、またはミノア文明ともいう。クレタ島からは絵文字と線文字A(ミノア文字)、線文字Bが発見され、クレタ文明の段階では絵文字、線文字Aが使用されたらしいが、まだ解読されていない。ミノス王の宮殿と思われる遺跡には城壁はなく、開放的であり、多数の壺などには蛸など海洋生物の絵が特徴的で、海洋王国が彷彿させる。) 文明の利器の最たるもの、兵器・武具・器具・装身具などの製作に青銅が基本的な材料として用いられた時代、人類史では、都市と都市国家や政府組織の成立、畜力を利用した車の出現、文字の発明と国際交易・市場経済、そして島内各地の港湾都市と地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。未開から文明への画期的な転換期であった時代とみられる。 イラン北西部のザーグロス山脈北麓からカスピ海西南岸にかけて、主として古墓や神祠から発見される青銅器をルリスタンLuristan青銅器と総称した。そのイラン南西部のルリスタン地方のルリスタン文化(BC8~BC7世紀)からの出土品の大部分は、石造の竪穴墳墓からのもので、動物の飾りをつけた斧や、剣・鏃・馬具、そして車飾りやピンや化粧道具なども多く、非常に多種類でしかも数多く遺存していた。ザーグロス山中から出土する、いわゆるルリスタン青銅器は、カフカスとアゾフ海の北部(現;南ウクライナ)に居住していた遊牧騎馬民族キンメリア人の残したものであるとする説がある。その民族の起源については不明なところが多いが、騎馬遊牧文化を営んでいたイラン系民族と見られている。BC8~BC7世紀にスキタイ族に圧迫されて小アジア・シリア方面に侵入したが、その頃からスキタイ人はキンメリア人のルリスタン文化を受け継いでいた。ヘロドトスによれば、スキタイ人は農耕をせず、家畜を生業にしていた、と言う。 古代王朝時代のエジプトやメソポタミアでは、茎(なかご)つき銅剣が主流を占めるが、青銅器時代後半になって柄 (つか)と 刀身がともに青銅で鋳造した有柄式銅剣があらわれる。ルリスタン青銅器として知られるものの大半がこの形式で、柄の両縁を肥厚させ、握りの部分に木や象牙などを嵌めこんで持ちやすくし、刃側の刃区(はまち)を半月形、柄頭に扇形の飾りを施したものもある。 中国内モンゴルのオルドスの青銅器製の銅剣も有柄式である。綏遠 (すいえん;現在のフフホト市)の名をとって綏遠青銅器と呼ばれることもある。しかしその分布地域は、中国東北地方北部や長城地帯などにも及んでいる。その担い手は中国北辺の騎馬遊牧の民であった。短剣・闘斧・斧・内反りの刀子・鏃などの武器や工具、馬具とその様々な革金具など、そして鍑(さがり)と呼ばれるつり下げて物を煮たきする口の大きい沸用容器などが知られているが、いずれも移動生活を支える携帯に便利な小型で軽量のものが特徴となっている。 青銅は、銅90%と錫10%を基準とする合金である。錫の主要鉱石である錫石の産地は限定されているうえに、この鉱石を溶錬して錫を分離、採取することには、かなりの技術を要する。一方、銅は自然銅の形で発見されるから、当初は銅が利器や装身具に用いられた。錫が産出しないか、あるいは入手困難な地域では利器などにはもっぱら銅が用いられた。 今日なお青銅器時代の意義が高く評価されるのは、先史文化を考える分類体系として、画期的な特異性が認められるからである。 BC3,000年代にメソポタミアに始まり、インドではインダス文明期以降、中国では、殷(商)時代、日本では、弥生時代に大陸から青銅器と鉄器が同時にもたらされたため、この時代は設定されていない。エジプトなどの地域では、銅製品は出現するが、錫の入手が困難なため青銅器時代に入れなかった。 古代の西アジアや中国では、鉄使用の初期の頃、隕鉄(いんてつ)を利用した。隕石である隕鉄が、どこにでも大量に散らばっていたわけではないため、入手しやすい膨大な埋蔵量を誇る鉄鉱石(酸化鉄)が利用可能になるまで、長い間、鉄製品は得難い貴重品であった。 イラク、ウル出土の短剣は10.9%がニッケルの隕鉄でBC2,500年頃のもの、トルコのアナトリア高原、アラジャヒュユクの遺跡(ハットゥシャの北)から発掘された剣は、BC2,300年頃のもの、柄と鞘が黄金、刀身が鉄製だった。同時に出土した鉄器に、4~5%のニッケルが含ま れていることから、隕鉄を鍛えたものと見られている。 ヒッタイトは、アナトリアに高度な文明を築いた古代民族名であり、彼らが建国した帝国の名でもある。トルコの首都アンカラの東200kmにあるボアズカレ村には、ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャの遺跡が遺っている。楔形文字で刻まれた2500片の粘土板も、その発掘調査の際に出土した。ヒッタイト王国はBC1700年くらいから始まっているようだ。その前には、アナトリア地方には、いくつかの小王国が勃興していたようだが、史料はあまり発見されていない。 古アッシリア商人たちの居留地跡が、ポアズキョイ(ヒッタイト王国の中心地)を取り巻くように流れ黒海に注ぐクズルウルマック川畔のキュルテぺ(トルコ・カイセリ県)で、発見されたが、その遺跡から出たキュテペ文書から当時の状況が明らかにされている。1925年、ベドジフ・フロズニーはキュルテペを発掘して、楔形文字が記された1000枚以上の粘土板を発見した。 キュルテぺ文書は粘土板に楔形文字で書かれたアッシリア語であるが、これをもってアナトリアは文字記録を持つ「歴史時代」に入る。(ちなみに中国の文字はBC15世紀、殷の時代の甲骨文字が最初と言うが、司馬遷の「史記」では殷以前の夏やその前の記録も含まれている)。 当時のキュルテぺでは地方領主がキュルテぺ(テペは丘、「灰の丘」を意味する)の丘の上に住んでおり、その周囲の丘の麓にアッシリアから進出してきた商人たちの居留地があった。この時代のアナトリアは、小王国が乱立していたが、政治的には安定していたようで、相互間の交易が行われていた。 発掘結果によると、BC20世紀中頃~BC19世紀後半のアッシリア商人の居留地は繁栄期にあったが、突然、その居留地が破壊放棄された。数年後に復旧されていた。そのアッシリア商人居留地繁栄期も、BC1710年に活動が終わっていた。 BC19~BC18世紀頃のアッシリア商人居留地で出土した貿易記録の粘土板文書には、初めてこの都市の名ハットゥシュ(ハッティの国)が刻まれていた。ハットゥシャの地に居住が始まったのがBC3000年頃で、当時は小さな集落であったようだ。アナトリアの中央にある「ハッティの地」は、ハッティ語を話すアナトリア先住民族のハッティ人が住んでいたと言われている。 ボアズキョイのハットゥシャ遺跡で見つかったアッシリアの文書(「アニッタ文書」)に、アニッタがヒッタイト王国の礎を築いた旨を記している。キュルテペをカネシュと呼ばれていた。後のヒッタイト人は通常ネサと呼んだ。クッシャラの地(中央から南東アナリアにかけてのあった地域で、現在の場所は不明)を支配していたクッシャラ国の王アニッタが、ネシャ/カニシュ(現キュルテペ)を支配した。 BC17世紀頃、ハッティの王ピユスティを破り一夜の内にハットゥシャを占領し、この町が今後他の者の手に渡らない様に一度焼き払い野草を植えて呪いをかけたと言う。クッシャラ王ピトハナはネサ(カネシュ)を「夜に、力で」征服したが、「町の人に対して悪事を働くことはなかった」。ネサはピトハナの息子のアニッタに対して反乱を起こしたが、アニッタは反乱を制圧し、ネサに都を置いた、とある。 ここから楔形文字で「アニッタの宮殿」と書かれた青銅製の「アニッタの槍先」が出土している。アニッタはこの様に中央アナトリアの小国を征服しながら中央集権化してヒッタイト王国の基礎を作った。 ハットゥシャの地は戦略的に大変重要な場所であり、当時アニッタの本拠地のネシャと同等の規模の町であった。アニッタが征服した後のハットゥシャは、BC1700年頃に再建され再度都市になった。アニッタは自身に「大王」の称号を使う。これは後世ヒッタイト王が引き継いで使っている称号でもあった。アニッタは人種的にヒッタイト人であったかどうかは解明されていないが、後のヒッタイト王たちはアニッタをヒッタイト人の最初の王として崇敬していた。 中央アジアから移住してきたヒッタイト人は、この辺りに暮らしていたハッティ人を支配して住み着き、ヒッタイト王国を建国した。世界で初めて「鉄」を使った民族と言われたが、ハットゥシャの地には、既に冶金・製錬の製鉄技術は開発されていた。他の民族が、まだ青銅器を使っていたこの時代に、いち早く製鉄技術を駆使して、軍馬に引かせる軽戦車や武器を作ることで強大な軍事力を持ち、大帝国へと発展していく。 トルコ共和国クルシェヒル県カマン郡チャウルカン村にあるカマン・カレホユック遺跡は、首都アンカラから南東約100 km離れた、アナトリアでは中規模の丘状遺跡であるが、それでも直径280 m、高さ16 mある。そこで、2017年9月に発見された最古級の製鉄関連の遺物が、BC2500年頃~BC2250年頃の地層の真上にある焼土層(赤茶色の部分)から出土した。酸化鉄を多く含む分銅形をした直径約3cmの鉄塊であった。 このカマン・カレホユック遺跡は、1986年から調査が続けられている。BC2千年紀の層では、アッシリア商業植民地時代、ヒッタイト古王国時代、ヒッタイト帝国時代とその連続を明確に辿ることができ、鉄器の開始時期にも新たなる見解を提起する資料が次々出土してきている。カマン・カレホユック遺跡は、「鉄製武器と軽戦車」を装備した古代オリエント世界で栄えたヒッタイト帝国(BC1400年頃~BC1200年頃)の中心部にあたる。この帝国は先住民が発明した「最新技術」の製鉄冶金技術を独占して軍事的に優勢となった。だが、帝国が滅ぶと製鉄技術は周辺各国に急速に普及し、旧大陸が鉄器時代へと向かう転換点になった。 BC1650年頃にアニッタの子孫と言われるラバルナ1世(ハットゥシリ1世)が首都をネシャ/カニシュ(現キュルテペ)からハットゥシャに移すと共に、古ヒッタイト王国時代が始まると、急速に王国が発展した。短期間で北シリアのアララハAlalahk(トルコ南部、シリアとの国境に近いハタイ県のアンタキヤの近く)から西アナトリアのアルザワまでを支配下に置いた。 アララハは、オロンテス川流域にあった。オロンテス川はレバノン山脈とアンチレバノン山脈の間にある谷間、ベッカー高原の東側にあるラブウェ Labwehの泉に発する。オロンテス川は北へ、地中海岸と並行して、落差600mの岩の多い渓谷を流れシリアに入る。渓谷を出たところがホムス西郊のダム湖・ホムス湖である。 アララハは、BC2千年紀、青銅器時代中期に成立した「肥沃な三日月地帯」における初期の大都市の一つ。バビロニアの都市ウルを発掘したことで有名なイギリスの考古学者ウーリーが、青銅器時代都市遺跡を発掘し、多数の楔形文字粘土板文書を出土させた。遺構は17層からなり、BC3200年頃に居住が開始され、BC2100年以後大都市に発展した。アララハの城塞の上に建てられた最初の宮殿はBC2000年頃で、メソポタミア南部のウル第三王朝と同じ頃に遡る。BC1194年頃「海の民」の侵入により滅亡した。テル・アトチャナTell Atchanaという大きな遺丘(テル)が、アララハの古跡と同定された。 レヴァントの鉄器時代以後は、アララハに取って代わり、オロンテス川河口(現;トルコ南部の町サマンダーの近く)の商業都市アル・ミナが、海港とともに繁栄を続けた。 因みに、古王国初代国王ラバルナの名を継ぎ、歴代ヒッタイト王は大王の称号としても「ラバルナ」を使用していた。ヒッタイトは絶対王政ではなく、パンクと呼ばれる元老院議会で統治されていた。 ヒッタイト王国は BC1680年頃 から BC1190 年頃の間、アナトリアの中央部を勢力圏とした。最大図版では、現在のイズミルIzmir付近でエーゲ海まで達しているが細いルートを確保したのみで、アナトリアの沿岸部には有力な勢力が複数勢力を張っていた。 ハットゥシリ1世の治世末期、パンク(貴族会議)を召集して後継者を決めさせた。総督に任じていた二人の息子と一人の娘が首都で反乱を起こしたため、従兄弟を後継者に指名した。しかしこの人物もすぐに追放された。結局義子のムルシリを後継者に指名し、幼少の間はパンクの決定に従うよう遺言し、ハットゥシリはBC1540年頃にクッシャラの町で死去した。シリア遠征で負傷して、ハットゥシャに帰還する途上だったとも言われる。 ムルシリ1世(在位;BC1620年頃~BC1590年頃)は、義父ハットゥシリ1世の遺命により王位に就いた。BC 1595年頃、その義父の征討により、既に支配下に入っていたシリアのハルペ(現アレッポ)に反乱が起こると出陣し、その平定による余勢を駆ってさらに兵を東に進め、王城ハットゥサからは実に1200kmの山河を隔てるユーフラテス河畔のバビロンを急襲した。 全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展させた第6代王ハンムラビ(在位;BC1792年頃〜BC1750年頃)以来の由緒を誇るサムス・ディタナ王(ハンムラビの曾孫)が支配するバビロン第1王朝を、BC1595年に壊滅させた。王城内を略奪し尽くし働けるものはすべて捕虜として連れ去り完全に荒廃させた。ムルシリ1世には、バビロンを支配するゆとりもなく、本国に戻った。 ムルシリは、バビロニアをヒッタイトの属国として組み込まず、むしろバビロニアを同盟国のカッシートに漁夫の利を与える結果となり、その後、カッシート王朝(バビロン第2王朝:BC1595年頃-BC1155年頃)はバビロニアの王朝として君臨し、BC1155年までの約440年間、バビロンを首都として支配する事になる。 ヒッタイトの方は、その長きにわたる戦役により、首都ハットウシャを支えるハッティ地方の労働力や財政を浪費したため、首都は無政府状態となり困窮していた。 ムルシリは帰国後直ぐに義弟のハンティリ1世(在位;BC1590年頃〜BC1560年頃)に暗殺されている。ヒッタイト王国はまたもや混乱状態に陥った。チグリス川とユーフラテス川の上流部の山地に住むフルリ人は、この状況を好機としてアレッポとその周辺地域を掌握し、さらに地中海東岸のキリキアCiliciaにあったヒッタイトの植民都市アタニヤ(トルコ南部の国内第4位の大都市アダナAdana、工業都市であるが、周辺は肥沃な農業地帯、同国最大の綿の産地として知られる)を獲得した。 アナトリア半島東南部のアルザワArzawaはアマルナ文書Amarna letters に遺る王国である。ヒッタイトは首都をアパサ(Apasa、Abas)と記し、後のギリシア人はその植民都市をエフェソスEphesusと呼んだ。ヒッタイトが記録を遺すのは、新王国あるいはヒッタイト帝国と呼ばれるBC1430 年以降のようである。楔形文字の使用もこの時期に導入されたもので、アッシリアによってもたらされた文化の影響は殆どない。 アルザワは、BC1300頃、ヒッタイトに征服された。3つの行政区に分割され、カリアCaria、リディアLydia、ピシディアPisidiaと呼ばれる地域となった。 (アマルナ文書は、 エジプト中部のナイル川東岸アマルナで発見された楔形文字で書かれた粘土板文書である。 アマルナ文書の多くは、 エジプト第18王朝のファラオであった アメンヘテプ4世時代【在位: BC1353年頃?~ BC1336年頃?】に関する外交政策と国際関係を伝える史料である。) シリアのラス・シャムラの神殿で発見されたBC1,500年頃の鉄斧は、2.25%のニッケルを含む隕鉄製であった。その現代のラス・シャムラにあった古代都市国家の王都ウガリットの遺跡は、フェニキア人が築いた都市国家で、西アジアと地中海世界との接点となる国際的な港湾都市として発展し、BC1,450年頃からBC 1,200年頃にかけて全盛期を迎えた。 発掘によって、BC7000年紀の新石器時代の集落址が確認されている。BC6000年頃には、集落全体を壁で囲い、守りを固めていた。 その文化の画期はBC4000年以前に遡るが、BC3千年紀後半からは西セム語族系の都市国家として繁栄し、BC18世紀には、コーカサス山脈周辺の北方からメソポタミア北部のハブール川上流域を中心に移住してきたフルリ人が更に加わった。その間の重要な文化層は、BC2000年頃に始まる青銅器時代で、青銅品の合金技術と海上交易により都市国家として発達した。都市国家としてのウガリットは、遅くともBC2000年頃には成立していた。ウガリットが栄えた当時の湾は、現在、堆積平野になっているため120mほど内陸の奥にある遺丘上の都市遺跡として遺存する。 (青銅品の冶金metallurgyは、銅鉱石を製錬・精練・加工して、種々の実用に応じた金属材料や合金を製造する工程である。銅の製錬smeltingは、銅の元素を含んでいる岩石から銅を抽出し、金属塊や金属粉として生産する工程である。製錬によって取り出された金属は純度が低い場合が多く、純度を高めるために更に不純物を取り除く工程、精錬refiningが必要となる。) 交易で成り立っていた港湾都市ウガリットは、東部地中海のキプロス島やクレタ島、ギリシアのペロポネソス半島東部のミケーネ、そしてエジプトやヒッタイトなど大国からの来航者で、市場活動がより隆盛を極め、大都市に発展していたことが出土品から証明されている。ウガリットのフェニキア人は、パレスチナの地中海沿いの低地で暮らしていたカナン人の表音文字から線状のフェニキア文字(楔形文字を使う)を創り、これがギリシア人に伝えられ、アルファベットの起源となった。BC1450年頃からBC1200年頃にかけて都市国家としての全盛期を迎えたが、BC1200年頃、「海の民Sea Peoples」に侵掠されウガリット国は滅亡、首都ラス・シャムラは暴戻狂悖の果て、蹂躙され尽くされ再起不能となり廃墟となった。青銅器時代の終わりを象徴する事変の1つである。 フェニキア人はその後、南に移り、現在のレバノンの東地中海沿岸に栄えた都市シドンやティルスで再起すると、その後フェニキア人は西地中海の北アフリカ沿岸や、南イベリア半島沿岸に新たに植民都市を築き、西地中海の交易活動をより広く展開しした。シドンはBC9世紀、植民都市カルタゴを建設する。なおウガリット神話は、同じセム語族系神話として旧約聖書などにも参照されている。 青銅器時代の末期には、ギリシアのミケーネ人がイオニア人に追われ、キプロスに居住するようになった事実が、BC15世紀のB級線形文字(BC1550年からBC200年頃まで、ギリシア本土およびクレタ島で使われていた絵画的な記号や数字と単位記号からなり、その多くは、粘土板の上に横に罫線を引き、その上に左から右へ字が書かれていた)で裏付けられている。 また、青銅器時代後期には、キプロスはヒッタイト帝国の一部となったが、侵略され征服されたのではなく、キプロスは既にウガリットの支配下にあり、そのウガリットが、ヒッタイト帝国の一部となったためである。 「カナン」は、地中海とヨルダン川や死海に挟まれた地域一帯のパレスチナ地方の古代名称である。その語源は、フェニキア人が自らを呼ぶ「ケナアニ (カナン) 」に由来する。ケナアニには「商人」という意味があり、その民族の特性を物語っている。そのカナン諸語には、ヘブライ語やフェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジアAfro-Asiatic語族(Afro;アフリカ【人・語】、Asiatic;アジアまたはアジアの人々または彼らの言語)も含まれる。 アフロ・アジア語族は、アラビア半島を中心とする西アジア及び北アフリカに分布する語族である。後に、セム語族系のフェニキア系国家として知られる、ベリトス(現、レバノンの首都ベイルート)や、東地中海岸のフェニキア人の拠点となった都市シドン(現;レバノンのサイダー)やティルス(テュロス;現;レバノン、AD11世紀以降は、十字軍との攻防の舞台となった)などであり、やがて、ウガリットもカナン系港湾都市の最北の都市となった。それは、「カナン」が、BC2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われたため、その領域は、地中海を西の境界とし、北はシリアのウガリット、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含むようになった。 この地は古くから「カナン」と呼ばれ、やがて「パレスチナ」という名称が使われる契機となったのが、BC13世紀末、地中海方面から東地中海沿岸平原南部に侵入した「海の民」である。同地に侵入し定着した海洋民族「ペリシテ(フィリスティア)人」の名に由来する。 ウガリットの遺跡で、最も人々を驚かせたのが、多数の楔形文字の文字版が出土したことであった。国際都市であったウガリトでは4カ国語の語彙対照表も出土しており、アッカド人語やフルリ語、シュメール語も使用されていた。しかも、ウガリト語で書かれた神話や叙事詩が、将来の書記を育てるための一連のテキストになっていた。 ウガリトの書記は、それまで知られていた楔形文字を音節文字としてではなく、1字で1つの音価を表すほぼ完全な表音文字として用いた。それは、わずか30文字からなる楔形文字による初のアルファベットであった。それは、主にメソポタミアを中心に使われてきた500種類以上もある複雑な文字体系を一新するものであり、画数を大幅に減らすなど、簡略化が進み、まさに一種の「文字革命」と言えるものであった。 古代オリエントの国際関係で、大国間のパワー・バランスが保たれていた間は、ヒッタイトもエジプト王朝も、これらカナン系港湾都市を緩衝地帯として保護し、貢納を受けていた。シリア東部、ユーフラテス川中流右岸にあるメソポタミア文明の都市マリの遺跡から出土した「マリ文書」は、バビロン第1王朝時代の楔形文字で記された約2万枚に及ぶ粘土小板であった。BC18世紀頃のマリとウガリットとの交易内容を記した経済文書が含まれている。その他、バビロン第1王朝(BC2003年~BC1531年)のジムリリム王の宮殿跡や、シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)のイシュタル神殿(豊穣の女神)など重要な遺物も多数出土している。 ウガリットは、BC15世紀頃、一時ミタンニに従属したが、ミタンニの勢力弱体後は、再度、ヒッタイトに服属した。 この頃までに、アムル人に遅れて都市化が始まったカナン人は、前後して地中海東岸の港湾集落に都市国家を築き、互いに競い合っていた。1929年以来、フランスの考古学者C・F・A・シェッフェルによる発掘隊が編成され、試掘開始後1ヵ月余で、海岸から1kmほど山手のラス・シャムラ (フェンネルの丘の意味;ラタキアの北約 10km)に広がる壮大な遺跡群から、主神で天候神のバール神とアムル系の農耕神ダゴン神を祀るウガリット2大神殿や、神官長の邸宅の発掘に成功した。 ウガリトは国家の名でもあり、 現在のラタキア県とほぼ同じ面積(約2000km2 )を領有しており、 ラス・シャムラはその首都であった。城壁にかこまれた王宮跡からは、銀箔の柱や金器、銀製神像などが出土した。また後期青銅器時代、BC16~BC14世紀の宮殿や神殿址には、多数の金・青銅・象牙などの工芸品が遺存していた。宮殿地区は、官庁区も兼ねていた。内政、外交に関する粘土板文書が多数出土した。 BC7千年紀の新石器時代集落址も発掘されたが、ウガリットの都市遺跡は、ラス・シャムラのテル(遺丘)における上部の文化層であたり、しかもラス・シャムラのテル(遺丘)と、ミネト・エル・ベイダの遺跡からなることが分かった。 ミネト・エル・ベイダは、本来は現地の小さな湾を指す、現地名「白い港」であった。この古代ウガリットの市外港の遺跡は、この湾に面した畑地にあった。ラス・シャムラ自体が、周辺からの平均の高さが約15m、約22haある概ね台形の遺丘であり、ミネト・エル・ベイダの小湾を見下ろす位置にあった。当時は港湾都市であったウガリットの周辺環境は、地中海気候の農耕地であった。麦作と果樹栽培が想定されている。 神官長邸宅址では、3部屋に渡る文書庫から、ウガリット神話を記したものなど、多数の粘土板文書が出土した。シュメール語・バビロニア語・フリ語・ウガリット語の語彙対照表も出土し、フェニキア文明の解明に大きく貢献するだけでなく、メソポタミア文明圏の特に北部のフリ人の広汎な活動が見えてきた。現在まで50回 以上にも及ぶ延 々とした発掘活動が続けられている。 また、この時代のウガリトの繁栄は、専ら国際間交易と港湾都市の市場で取り扱う豊富な財貨や資材で支えられている。西方は、キプロスやギリシアなど地中海世界への航路、また、東方はメソポタミア、北方はアナトリア半島、南方はパレスチナとエ ジプトなどを結ぶ通商路の交差点として恵まれた条件下にあったが、政治的軍事的には、南の強大なエジプト王朝と北のヒッタイト王国、そして東方のアッシリア帝国と境を接する地域にあるため、BC1350年以のウガリトはエジプトの支配下にあり、その後はヒッタイトの支配下入った。 中アッシリア王国(BC1365年~BC934年)の最大領域時代、その勢力はフェニキアにも及ぶが、BC1350年前後は、都市国家ウガリトの経済的成功は、政治的軍事的従属によって妨げられることはなかった。 中アッシリア王国時代のトゥクルティ・ニヌルタ1世の時代(在位;BC1244年頃- BC1208年頃)には、初めてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。だが、彼の死後はBC1200年前後の「海の民」のカタストロフにより、政治に混乱しその勢力は減衰した。ティグラト・ピレセル1世(在位;BC1115年頃-BC1077年頃)の時代には、再び、中アッシリアの領土を大幅に拡大したものの、晩年は各地で大規模な飢饉が発生し、逆にそれに伴うアラム人の侵入によって国内が混乱した。その最中、ティグラト・ピレセル1世は暗殺され中アッシリアは混乱期に入った。 (BC1000年代に、中アッシリア法典が制定された。現段階では、アッシリア最古の成文法である。この法典の中では、男性が女性に対して取るべき作法や取ってはならない行為が規定されている。また、女性の衣服について、ヴェールveilで頭と顔を隠す風習などが条文化されている。 ヴェールとは、頭部や顔の保護とその露出を嫌う慣習が、装いの拘りとなり条文化され、やがて宗教上の戒律となった。通常、視界を余り遮らない薄い布地や網地の「被り物」が使用された。 既婚、未婚の女性や上流階級の女性は、ヴェールの着用が義務化され、逆に女奴隷や娼婦は、ヴェールの着用を禁止されていた。 婚姻に際しては新郎が新婦にヴェールを被せるという儀式が行われた。 初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人パウロが生きていた時代のユダヤ人の女性は、外出をする時にはいつもかぶり物をつけ、男の方は、何もかぶらずにいた。パウロは、教会の集会や礼拝においても、「男がする時と女がする時では、その違いがあるべきだ」と語っている。 今日も、女性は礼拝の時にヴェールをかぶるという形でこの教えを受け継いでいる教会もある。通常、女性のキリスト教徒は頭にかぶり物をしていることが多い。それは薄い布のヴェールだったり、帽子だったりしている。) BC1200-BC1180年頃、ウガリットは滅亡した。ヒッタイト王国の没落と時代が重なる。滅亡したのは「海の民」の侵入による既存居住地の略奪と破壊による荒廃であった。都市ウガリットとその港を荒廃させた暴戻狂悖の破壊は、徹底的であったため、二度と重要な都市として復活しなかった。 ウガリッ研究における初期の驚くべき発見の一つが、ウガリット語が旧約聖書のヘブライ語とかなりの部分で類似していることであった。あらゆる研究が一致して認めるこの類似性により、ウガリット語の迅速な研究に繋がり、ヘブライ語に関してもより正確な知識を持つことが可能になった。 いわゆるカナン語に属するヘブライ語は、セム語の大きな言語系統の一つである。フェニキア語やポエニ語(フェニキア人という名称はギリシア語フォイニケスPhoinikes、ラテン語では主としてカルタゴ人を意味するポエニPoeni)・東ヨルダン方言であるモアブ語(モアブ語Moabiteは、死海の東岸の現ヨルダンの高原地帯、、イスラエル・ユダ(とエドム)の連合軍との決戦に勝利して、モアブの独立を達成した。モアブの王メシャがBC9世紀に建てた、300語あまりから成る戦勝記念碑の言語)・エドム語 やアンモン語(後にダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収される。その首都のラバRabbahは、後にヘブライ語でラバト・アンモーンRabbath Ammonと呼ばれ、現在はヨルダンの首都アンマンとなっている。)もそ こに属 しているが、これらの言語は全てBC1千年紀の資料から知られるだけである。カナン語がそれより早い時期に用いられた証拠は極くわずかである。 BC14世 紀のアマルナ文書Amarna letters(楔形文字の書かれた粘土板文書。アムル王からファラオに宛てた書簡などエジプトと敵対していた勢力の攻撃にさらされていた弱小首長から届いたものが多く、黄金や補給物資の救援を訴えている。アメンヘテプ4世は、新宗教の研鑽に没頭し、これらの訴えの殆どを無視した。)は、発見地であるエジプ トのテル ・エル ・アマルナ(ナイル川東岸、カイロとルクソールのほぼ中間の現在のエジプトのミニヤー県の遺跡。BC1353年頃、エジプト第18王朝後期のファラオ・アメンホテプ4世が新たな首都として建設するも、短期間で放棄された都市)にちなんで呼ばれれている。シリアの小君主からエジプトのファラオに宛 に書かれたアッカド語の手紙 のなかにカナン語の語注がみられた。BC2千年紀におけるカナン語は、史料が希薄であるために、この早い時代では、他のセム語と区別してカナン語と定義付けほどの流布してはいなかった。 ところが、ウガリット語は主にBC13世紀の文書によく使われていた。 そのためこの言語は、BC1千年紀のカナン語よりも500年ほど古く、言語としては古いセム語の様体を特徴としていた。ウガリット語は、その発見以来、様々に解明されかつ分類されてきた。 ウガリット語は、カナン語の近接言語であり、寧ろ、カナン語そのものであって、北カナン方言に当たる。その根拠は、ウガリット語とカナン語は、似たような名詞の活用や動詞の変化、加えてウガリット語は古カナン語と、同一あるいは類似した音声を多く持ち、加えて両者は語彙の大部分を共有 している。この根本的な一致と比べれば、ウガリット語とカナン語の間に見られる相違点は、本質的ではなく、寧ろ、ウガリット語の保守的な特徴が際立つ。 ウガリット語は古カナン語の一致点の中で重要なことは、ウガリット語も、またカナン語諸語に見られる独自の展開、カナン語の特徴的な言語的革新を達成していることにある。言わば、カナ ン語諸語は、北西セム語の共通の一言語系統に集約できる。 いずれにせよ、ウガリット語は最も古いカナン語の一つであって、ヘブライ語と同じ北西セム諸語の言語系統に属している。それを端的にいえば、アラビア語やエチオピア語などとともにセム語族に属し、古代ではフェニキア語などと並んで北西セム語カナン語派を形成した。BC2千年紀後半にアラム(現;シリア)からカナン(現在のパレスチナ)に入った北西セム諸語族のイスラエル・ヘブライ人の言語が、同系のカナン語と混交してできたものと推定されている。 古代ヘブライ語の資料には、「ゲゼル農事暦」(BC10世紀)、「シロアム刻文」(BC700頃)などの短い碑文もあるが、もっとも重要なのは『旧約聖書』で、その98%強がヘブライ語で書かれたことにある。イスラエル・ユダヤ民族の運命と相まって、以後のヘブライ語の歴史的転訛を決定づけたのである。 イスラエルでは、ヤハウェが最高にして唯一の神へと上り詰めた経緯は、初めは徐々に、そして捕囚期及びそれ以後の時代に決定的な特徴を備え、この意外に遅い時代に、特にシリア・カナンで太陽神として崇拝される最高神バアル・シャメム(「天の王」の意)の時代に普遍化されと、考えられる。バアルは、全西セム族共通の男性神の名前で、王・所有者という意味のセム語である。バアルはその地方ごとに豊穣をもたらす神、その地方の主であり守護神として祀られている。その地域の名称をつけて、ティルスのバアル、ペオル山のバアルなどと呼ばれていた。 ウガリットの主として第II層(後期青銅器時代;BC16世紀-BC14世紀) から、神殿遺構を中心に、ブロンズ製の神像をはじめ数々の青銅器が発掘された。ウガリットでは、エジプト・エーゲ海の周辺都市・西アジアの各地の文化が交流し、金・銀・青銅・象牙など洗練された製品が作られたが、重要なのは粘土板文書群、つまり『ウガリット文書』である。王宮出土のものは、楔形文字で記され、当時のオリエント諸国間の政治・外交を知るうえに重要な史料となっている。神殿跡出土のものは、バアル神・アナト女神に関する神話や、ケレトやアクハトに関する叙事詩などを含み、楔形文字からなるアルファベットで書かれている。 『ウガリット文書』は『旧約聖書』の研究および西洋文明の起源の解明に大きな手掛かりとなっている。やがて、ウガリット人は北西セム語族であるが、政治的にはBC16世紀頃よりエジプトの影響圏に入り、エジプト人守備隊が駐屯していたこともあり、政治・軍事・文化など多岐にわたりエジプトの影響が浸透した。 (BC1720年頃、エジプトの第2中間期の政治的混乱に乗じてアジア系民族ヒクソスが、下エジプトのデルタ地域に第15王朝を樹立した。エジプトの歴史上、初の異民族の王朝が開かれた。ヒクソスは、アナトリアやシリア地方にいたセム系を主体にした遊牧民で、雑多な部族の集団だったと言われている。BCBC1680頃にも、馬と戦車をを駆使し、シリアから別のヒクソスのグループが下エジプトを占領し、第16王朝を開いた。 古代エジプト第18王朝の初代ファラオ・イアフメス1世は、BC1565年頃、エジプトからヒクソスを駆逐し、テーベを首都に新王国時代第18王朝を樹立した。王朝2代目の王 アメンヘテプ1世 (イアフメス1世の息子、BC1546年頃-BC1526年頃)は、シリアまで領土を拡大している。) 都市国家ウガリットは、その全盛期のBC1365年頃の大地震や飢饉で一度は疲弊したが、再び全盛期を取り戻した。エジプト王朝・アナトリアのヒッタイト・メソポタミアのアッシリアなど3 大王朝が交差する東地中海の要衝であれば、部族都市として再興された以降、次第に交易の中核となる港湾国家として力を蓄えてきた。 それも、BC1200年頃、北方遊牧民族や地中海周辺の海上民族など雑多な難民からなる「海の民」による暴虐を極めた略奪により壊滅し、そのまま廃墟となった。 「海の民」は、東地中海沿岸部で暴戻狂悖の限りを尽くした多系統の部族集団である。しかし、想定を超える数の難民集団であれば、この時代のヒッタイトやミケーネなどの王国でも主要都市が蹂躙され、レヴァント諸国と同様に暴掠された。一時期、西アジア一帯は壊滅的な打撃を被った。 エジプトの新王国時代第20王朝のラムセス3世は、BC1170頃、デルタ地域に侵入した「海の民」を見事な戦術で壊滅させた。アッシリアも凌ぎ切ったが、アナトリア半島のヒッタイトは、度重なる王族などによるクーデタもあり王国は滅亡した。 「海の民」の一部のフィリスティア人がシリア沿岸南部に上陸した。フィリスティアの人の地は、BC9世紀末のアッシリアの碑文では「パラストゥ」と呼ばれた。やがて、旧約聖書では「ペレシェト」、すなわち「ペリシテ」として言及される。その後、ペリシテ人と言われるようになる。地中海東岸の現在のガザ地区に定住し、その後、内陸にも進出してガテ・アシケロン・アシドド・エクロンなどの南パレスチナの都市国家として栄えた。 ペリシテ人は、周辺都市を軍事力で脅かし、イスラエル最初の王サウル(在位;BC1020年-BC1010年頃)を戦死させた。その時代、セム語系のヘブライ人はいくつかの部族に分かれて戦い、不利な戦いを強いられていたが、BC11世紀にはダヴィデ王が各部族を統一してヘブライ王国を建国し、ダヴィデ王はペリシテ人に反撃し、それを打ち破った。 ペリシテ人はヘブライ人と対立するが、彼らが支配した地域をその部族名からパレスチナというようになる。BC11世紀の終わりにはヘブライ人(当時、ユダヤ人とも呼ばれた)がペリシテ人を抑えて、シリアやパレスチナなどの各地で部族生活を送っていたヘブライ人が統一され、パレスチナの地にヘブライ王国を建国した。イスラエル王国とも言った。羊飼いが出自の初代の王サウルは、多くの部族に分かれていたヘブライ人(イスラエル人)を初めて統一したが、パレスチナ人との戦いで戦死した。 パレスチナ南部のヘブライ人の1部族ユダ族の出身ダヴィデが、ペリシテ人の巨人兵士ゴリアテと対峙し、スリングsling(投石具)から放った石を額に命中させ倒し、自らの剣で首を刎ね絶命させた。サウルの娘を妃として迎えるとヘブライ人全体の王として認められ、ペリシテ人を倒し、BC1003年頃、イスラエル王国の国王となった。BC998年、ダヴィデはカナン地方の中心エルサレムを征服し、イスラエル全域を支配した。 イスラエルという名称は、元々は部族同盟の名称であった。やがて預言者モーセに啓示されたとされる神ヤハウェ信仰に立脚した部族集団が、その集団名としてイスラエル民族の名称を用いた。 「イスラエル」には、「神(エール)が支配する」という意味があり、「エール」とはセム語族系では、一般的に「神」を指す。BC928年、北のイスラエル王国と南のユダ王国の2王国に分裂した。BC721年、イスラエルはアッシリアに、BC586年、ユダは新バビロニアに滅ぼされた。その「バビロン捕囚」と言う逆境の最中に、部族集団のアイデンティティーを確立するためユダヤ教が成立した。従って、ユダヤ教は聖書に基づいて成立したのではない。聖書が最初に編纂されたのは、ユダヤ民族がアケメネス朝ペルシアの支配下にあったBC5世紀からBC4世紀頃になる。ユダヤ教には、古代の長い期間、「聖書」は存在していなかった。 やがて、ユダヤ人でペルシア宮廷の高級官僚であったエズラが中心になって、聖書の編纂が始まった。その文書は、最初の頃は、すべてヘブライ語で書かれていた。ヘブライ語は、古い時代のユダヤ人の言語であったが、聖書の編纂が始まるBC5世紀からBC4世紀頃の、ユダヤ人を含めた長い間「バビロン捕囚」であった人々は、ヘブライ語ではなく、アラム語を使っていた。当時、ヘブライ語は、公用語を勉強をした官僚や知識人だけに通じる言語であった。 その後に編纂される旧約聖書で、神ヤハウェに選ばれた契約の民であるヤコブとその子孫12部族の総称として使われた。 現代では、、「イスラエル」という呼び名は、他民族に対する自国民の国民的名称となり、その国家の名称として用いた。 目次へ |
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2)ヒッタイト古王国 ヒッタイト王ハットゥシリ1世は、BC1,680年、ハットゥシャシュ(現在のボガズキョイ)を首都として王国を建設した。BC1,595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、バビロン第1王朝期最後のサムス・ディタナ率いる古バビロニアを壊滅させた。王城内を略奪し尽くし働けるものはすべて捕虜として連れ去り完全に荒廃させた。しかし、ムルシリ1世には、バビロンを支配するゆとりもなく、本国に戻った。 ムルシリ1世は、バビロニアをヒッタイトの属国として組み込まず、むしろバビロニアを同盟国のカッシートに漁夫の利を与える結果となり、その後、カッシート王朝はバビロニアの王朝として君臨し、BC1155年までの約350年間、バビロンを首都として支配する。 ヒッタイトは、青銅器が主流の時代に、最初の鉄器文化を築いたとされる。高度な製鉄技術は、強靭な鉄製兵備を充実させ、遂には、メソポタミアまでも征服した。そのヒッタイトの滅亡により、独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、青銅器時代から鉄器時代へと移行したと見られている。 鉄とニッケル合金からなる隕鉄(いんてつ)を鍛造した鉄製の利器は、小アジアやエジプト、メソポタミアで広く作られていた。中国の中原でも、BC14 世紀頃の鉄製兵器で、商(殷;BC17世紀頃 - BC1046年)代中期、北京市平谷県劉家溝墓より出土した隕鉄製鉄刃銅鉞がある。周の武王が牧野(ぼくや)で殷の紂王を討ったときに、左手に黄金で飾った隕鉄の刃が付いた黄鉞(こうえつ)を杖としていたとあるように、殷時代後期・西周時代の遺物の中には鉄刃銅鉞といわれる、刃のところに隕鉄を使いより鋭利な武器とした。ただ、隕石の数は限られていたため、隕鉄の製品は普及できなかった。 中国で人工鉄が確認されるのは、BC5,6世紀の春秋末から戦国早期になる。しかしこの時代の鉄器は、鋳造製の農具や工具が主で、鍛造製のものは極めて稀である。 鉄は一般的には酸化鉄(FeO)の鉱石として存在する。自然金・自然銀・自然銅に相当する自然鉄は存在しない。酸化鉄の酸素を還元するプロセスには、高温で燃焼する必要がある。 鉄を還元する際には、鉄鉱石に含まれるシリカ silica(SiO2;二酸化ケイ素)やアルミナalumina(Al2O3;酸化アルミニウム)などの鉄以外の成分を取り除く必要がある。石灰石(CaO)を加えるとそれらの成分と溶融し結合する副産物となり、鉄と分離・回収しやすい。この回収物を鉄鋼スラグと呼ぶ。現代では、CO2削減効果が大きい「地球にやさしい資材」として利用されている。 通常の初期の炉の高さ約1m前後、直径40-50cm程度の大きさ、最初は谷から吹き上げてくる山腹の風を利用した自然送風、やがてBC2,3世紀頃よりフイゴを利用した。更に手押し送風または足踏み送風へと進化する。 数kgの酸化鉄から得られる鉄の量は50%以下、レンガ炉内で酸素を還元する温度が千度前後で製錬されれば、酸素を失った孔だらけの海綿上の鉄(海綿鉄、ルッペ)になる。その粘性が大きい、あめ状の海綿鉄をハンマーで叩き割り適当な大きさにしてから、加熱しながら金床で叩き、中のスラグslagなど不純物を取り出すとともに、鉄を適当な塊状に成形するという鍛造過程を通して鉄は精錬される。 現代でも、実用素材としての鉄は、純鉄ではなく、炭素を一定量含んだものを使う。 現在広く行われている鉄鋼製錬の工程は、まず鉄鉱石と造滓(ぞうさい)剤である石灰石と燃料および還元剤としてのコークスを溶鉱炉に装入し熱風を吹き込んで鉄鉱石を加熱、還元し、炭素を4%前後含む溶融状態の鉄とする。これを銑鉄という。この銑鉄を転炉に移し、酸素を吹き付けて炭素やその他の不純物を酸化して除去し、これを凝固させて圧延その他の塑性加工により鋼の板や棒をつくる。 銑鉄は、鉄鉱石をコークスまたは木炭などで酸素を還元して製錬するため高炭素の鉄となり、通常、3,4%の炭素と少量の珪素・マンガン・燐・硫黄などを含む。鉄を炭素含有量によって大別したとき、炭素2%を越えるものを銑鉄、2%以下が鋼鉄と呼ばれる。 中国でも、世界に先がけて銑鉄が製錬されている。この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器と呼ばれる鋳物の多くは、鉄斧や鋤先などの農耕具が殆どであった。つまり銑鉄は、粘性が高いため鋳物を作るには便利であるが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬く衝撃には極めて脆い。鋭利な刃物や武器などの利器には適さなかった。 しかし、中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術(脱炭とは、高温加熱時の溶鋼や溶銑に酸化鉄などを添加して炭素を酸化して除去あるいは炭素量を低下させる技術で、これに対して、鋼の表面部に炭素を浸入させる処理を浸炭という。)が開発され、鋳造鉄器の刃部に粘りのある鋼加工が施された。日本の弥生時代中期(BC2世紀〜BC1世紀)頃になると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北九州を経由して日本に運ばれ、再利用されている。 島根県雲南市木次町の垣ノ内遺跡は弥生時代中期の集落遺跡であるが、ここから見つかった鋳造鉄斧片もこのようなものだと考えられている。 B.C.3500年頃からの銅精錬の開始、B.C.2000年頃からの青銅精錬の普及に対して、鉄精錬はB.C.1500年頃から始まったと考えられていた。 トルコ共和国クルシェヒル県カマン郡チャウルカン村にあるカマン・カレホユック遺跡は、首都アンカラから南東約100 km離れた、アナトリアでは中規模の丘状遺跡であるが、それでも直径280 m、高さ16 mある。そこで、2017年9月に発見された最古級の製鉄関連の遺物は、BC2500年頃~BC2250年頃の地層の真上にある焼土層(赤茶色の部分)から出土した。酸化鉄を多く含む分銅形をした直径約3cmの鉄塊であった。 その組成から原産地を調べると、「ヒッタイト民族が北方から技術をもってきて、アナトリアで生産した可能性が高い」ことが分かった。 ただし実際に鉄製工具などが広く使用され、鉄器時代といえるようになるのは、鉄精錬法を独占していたヒッタイト王国が崩壊したB.C.1200年以降のことである。 「海の民」は、北方のギリシア人の諸王国を襲い、その後、エーゲ海を渡りアナトリアのヒッタイトの海沿いの重要な拠点を次々に攻め落とし、キプロスからシリア・パレスチナへ、その一方、リビア方面とシナイ半島からエジプト新王国に迫った。 「海の民」は、凌辱略奪し、火を放って破壊するが、侵入地を支配搾取することなく、容赦ない蛮行と破壊の跡を残して去っていた。 発掘結果によるとBC1950年頃-BC1830年頃のアッシリア商人居留地繁栄期があり(II層)、都市が一度破壊放棄され数年後に復旧されていた。後半のアッシリア商人居留地繁栄期(Ib層)の後、BC1710年頃に活動が終わった。このアッシリア商人の活動期は200年位らしい。 BC19~BC18世紀頃のアッシリア商人居留地とその頃の粘土板が見つかっており、この貿易記録の粘土板文書で初めてこの都市の名ハットゥシュ(ハッティの国)が史料に表れた。 ハットゥシャの地に居住が始まったのがBC3000年頃で、この時代では小さな集落でしかなかった。アナトリア中央は「ハッティの地」であり、ハッティ語を話すアナトリア先住民族のハッティ人が住んでいたと言われている。 ハットゥシャ遺跡で見つかった「アニッタ文書」に、クッシャラ国の王アニッタがヒッタイト王国の礎を築いたと記されている。アニッタは、クッシャラの地(中央から南東アナトリアにかけてのある地域。場所は不明)と支配したネシャ/カニシュ(現キュルテペ、アッシリア商人のアナトリアにおける本拠地。ここから“アニッタの宮殿”と書かれた青銅製の「アニッタの槍先」が出土している。)を本拠地としていた。 BC17世紀頃、アナトリア半島中央部の「ハッティの地」に居住していた古代民族ハッティ人Hattiansの王ピユスティを敗り一夜の内にハットゥシャを占領し、この町が今後他の者の手に渡らない様に一度焼き払い野草を植えて呪いをかけたと言う。アニッタはこの様に中央アナトリアの小国を征服しながら中央集権化してヒッタイト王国の基礎を築いた。 ハットゥシャの地は戦略的に大変重要な場所であり、当時アニッタの本拠地のネシャ(カニシュ;現キュルテペ)と同等の規模の町であった。アニッタが征服した後のハットゥシャは、BC1700年頃に都市として再建された。アニッタ自身に「大王」の称号を使うが、これが後世、ヒッタイト王が引き継いで使う称号となる。アニッタは人種的にヒッタイト人であったかどうかは解明されていないが、後のヒッタイト王たちはアニッタをヒッタイト人の最初の王として尊崇していた。 BC1650年頃にアニッタの子孫であると言われるラバルナ1世(ハットゥシリ1世と同一人物であるとする説もある。)が首都をネシャからハットゥシャに移すと共に、古ヒッタイト王国時代が始まる。急速に王国が発展し、短期間で北シリアのアララハAlalahk(北部シリアのアンチオキアとアレッポの中間)から西アナトリアのアルザワを支配下に置き、その領土は海岸地帯にまで拡張された。因みに、ヒッタイト古王国初代の王ラバルナ1世(Labarna I)の名を継ぎ、歴代ヒッタイト王は大王の称号として「ラバルナ」を用いた。ヒッタイトは絶対王政ではなく、パンクと呼ばれる元老院議会が統治の中核にいた。 ムルシリ1世の時代(BC1620-BC1590年)には、東方遠征で、ハットゥシリ1世が完遂できなかった北シリア・北メソポタミアに君臨するヤムハド王国を征服する。当時、ヤムハドの属領となっていたアララハを攻撃し破壊した。ヤムハドの名はこの時代までは、よく文献などに登場するが、ヤマハドの終焉の時期とその状況は明らかでない。ハルペKhalpe(現;アレッポ)も破壊された。 BC1,595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、バビロン第1王朝期最後の王サムス・ディタナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝を成立させた。ヒッタイトは、青銅器が主流の時代に、最初の鉄器文化を築いたとされる。高度な製鉄技術は、強靭な鉄製兵備を充実させ、遂には、メソポタミアまでも征服した。そのヒッタイトの滅亡により、独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、青銅器時代から鉄器時代へと移行したと見られている。鉄とニッケル合金からなる隕鉄を鍛造した鉄製の利器は、小アジアやエジプト、メソポタミアで広く作られていた。しかし、隕石の数は限られていたため、隕鉄の製品は普及しえなかった。 「海の民」は、北方のギリシア人の諸王国を襲い、その後、エーゲ海を渡りアナトリアのヒッタイトの海沿いの重要な拠点を次々に攻め落とし、キプロスからシリア・パレスチナへ、その一方、リビア方面からエジプト新王国を侵掠した。「海の民」は、凌辱略奪し、火を放って破壊するが、侵入地を支配搾取することなく、夥しい残虐と破壊の跡を残して去っていた。 (シリアのラス・シャムラの神殿から発見されたBC1,500年頃の鉄斧は、2.25%のニッケルを含む隕鉄だという。その現代のラス・シャムラにあった古代都市国家ウガリットは、フェニキア人が築いた都市国家で、西アジアと地中海世界との接点となる国際的な港湾都市として発展し、BC1,450年頃~BC 1,200年頃にかけて全盛期を迎えた。 都市国家ウガリットはBC1200年ごろ、「海の民」の侵攻を受けて滅亡し、その後廃墟となった。「海の民」は、東地中海上で活動した系統不明の民族で、その軍事力の大きさや内容も解明されないままであるが、この時代、アナトリアのヒッタイトやミケーネ文明を崩壊させ、エジプト新王国にも侵入するなど、一時期、西アジアに壊滅的な打撃を与えた。) 目次へ |
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3)アラム人 古代地中海世界では、地中海が重要な交通の要路であった。そのため、沿岸部の港湾都市を中心に発達したが、内陸部は山が多く、地中海性気候に属すので、夏は暑く乾燥し、冬も少雨のため、大河や肥沃の平野が乏しく、河川の水運や陸上交通は発達していなかった。 アラム人は、フェニキア人、ヘブライ人と並ぶ、セム語族の民族で、BC1200年頃から西アジアのシリアのあたりに定住し、内陸部の陸上交易で活躍した。彼らの使用したアラム語と、彼らが創ったアラム文字は、ユーラシア大陸の内陸部にまで及ぶ交易活動とともに広く伝播した。ダマスクスは世界最古の町の1つであったが、BC10世紀にはアラム人の王国の首都となった。 アラム人の時代以前の、遥かBC3千年紀後半にまで遡る遺跡であるエブラ(シリア北部にある古代の都市国家の遺跡。アレッポの南西55kmにある。)の王国跡地から出土した粘土板には、エブラの南にある町を「ダマスキ」と記しており、ダマスカスの名の起源はアラム人以前に遡ることが知られた。 1964年に始まる10年のエブラの発掘調査で、BC2500年からBC2000年頃の宮殿を発見した。宮殿遺構からは楔形文字の書かれた保存状態のよい粘土板15,000枚が見つかった。80%はシュメール語だったが、他はかつて見つかったことのないセム語系の言語で書かれており、そのため「エブラ語」と呼ばれることになった。その言語には、西セム語系の言語と、アッカド語に近い東セム語系が含まれていた。 エブラは、古代にシリア北部にあった都市国家で、その所在は不明であったが、その国名は、元々、メソポタミアのシュメールやアッカド時代の粘土板文書の出土から知られていた。メソポタミアはユーフラテス川に沿って上流のマリ(現シリア領テル・ハリリTell Hariri、BC2900年頃以降、都市として繁栄した。ユーフラテス川中流の西岸、イラク国境付近にあった。メソポタミア南部のシュメール諸都市国家とシリア北部の都市を結ぶ戦略的に重要な中継点、ハンムラビによって破壊された)やエマル(シリア北東部のユーフラテス川中流域、アレッポとラッカの中間、現在はユーフラテスを堰き止めた人工湖アサド湖の西岸に位置する。)を経て、地中海沿岸地帯やアナトリア地方との交易を行い、メソポタミアには存在しない鉱物や織物、不足がちな木材などの製品や材料を輸入していた。シリア北部の交易の中心地として、エブラ王国が果たした役割は極めて大きかった。その年代はBC2400年と比定されているが、エブラ王国はシリア北部の交易のセンターとして活動している。 1964年にローマ大学のパウロ・マッティエによって、アレッポの南約65キロメートルにあるテル・マルディフの発掘調査が開始され、ここが都市国家エブラであることは既に分かっていた。周囲を巡らす城壁とそれに守護される宮殿や、風俗図浮彫りの石製容器・ライオンと兵士を浮彫りにした奉献用の石製容器などが発見された。もっとも重要なことは、宮殿に付属する文書館から1975年に1万5000点以上の粘土板文書が発見され、エブラ王国の置かれた交易センターとしての役割の重要性が再確認された。 ダマスカスという地名が初出した文献は、BC15世紀のエジプトのトトメス3世が遺した地理文献にもあった。アッカド語のものは、BC14世紀のアマルナ文書におけるアッカド語文献に載る。 BC1200年頃から、シリア・パレスチナでは、アラム人・フェニキア人・ヘブライ人などの北西セム語族系3民族が活発化した。 遊牧民としてシリアからメソポタミア北部へかけての地方に姿を現したアラム人は、BC2千年紀の半ば頃よりそれぞれの進出先に定着した。幾度も繰り返されたが、BC15世紀から始まる民族大移動の波によって、BC14世紀頃、メソポタミアからシリアにかけて広く分布した。BC14世紀以降、シリアおよび北部山岳地帯に接する領域を支配しバビロニアにも侵攻している。この頃になると、セム系アラム人が北部メソポタミアで有力となり、アッシリア人が築いた交易ルートと競合する。その後も、BC11世紀頃からBC8世紀ごろまでシリア北部からメソポタミア北部に定着し、ここを根拠として、商業交易民族として四方に拡散した。 BC1200年頃より、ダマスクスをはじめとする都市を中心に幾つかの小国家が形成され、内陸貿易の担い手として古代インドにまで及ぶ広域的な内陸交易をより活性化した。ダマスカスは、アラム人が再建した都市であった。 BC11世紀頃、アラム人はユーフラテス川およびハブール川流域を占拠していくつもの王国を作った。その後、シリアにも進出して都市国家を建設した。当初はハマ、やがてダマスカスがアラム人の本拠となった。彼らは統一国家を作ることなく、都市内外での市場と交易活動に専念し、シリア砂漠などを舞台にしたラクダによる隊商貿易で活躍した。しかも交易網の拡大により、古代オリエント世界で通用する商業語としての古代アラム語を定着させた。その一方、その勢力は、アッシリア帝国の西漸を妨げる最大の障害となった。 中アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世(在位;BC1115年頃-BC1077年頃)の時代に、再び、中アッシリアの領土を大幅に拡大した再興したものの、王の晩年は各地で大規模な飢饉が発生し、逆にそれに伴うアラム人の度重なる侵入によって国内が混乱した。その最中、ティグラト・ピレセル1世は暗殺され中アッシリアは混乱期に入った。 アラム人の諸小国家は、アッシリアの巨大な軍事勢力が復活され、その勢力圏内で、BC8世紀末には政治的実体を失うが、アラム文字やアラム語は、交易を介してメソポタミア全域に浸透した。そのBC8世紀頃までは、中アッシリア時代(BC1365年~BC934年)のアッシリア軍の侵略に対し、それまで抗争を続けてきたヘブライ人とも手を結んで抵抗したが、破れて独立を失った。しかし王国滅亡後も商業活動は盛んで、その言語は全オリエントの国際共通語となった。そのため、政治的にはアラム人を支配したアッシリアや、後世のアケメネス朝も、公用語としてアラム語を採用した。またフェニキア文字から分かれて発達したアラム文字は、同時代のフェニキア文字そのものでもあり、字形に幾つかの相違があったとしても、個人差の程度に過ぎない。 各地に伝播して東方系の多くの文字文化の母体となった。アラム文字から派生した文字として、ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字・ソグド文字(中世イラン語のための文字、右から左に書かれた。)・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などがあげられる。パレスチナ・ユダヤ教徒もアラム語であり、パレスチナ・キリスト教徒もアラム語であり、新約聖書はアラム語で書かれた。イエスが活躍したローマ帝国時代のユダヤ属州では、ヘブライ語は既に口語として使われる機会が少なく、通常アラム語が話され、イエスもアラム語(ガリラヤ地方方言)で、弟子たち を教え、民衆に語りかけた可能性が高い。一方、新約聖書の著者の一人パウロは、古代ローマ帝国の属州キリキアの首都タルソスTarsosが生誕の地であり、ローマ市民権を持つ家に育ちギリシア語が自由に使えたため、ギリシア語で布教したと言われている。 ダマスカスは、BC732年、新アッシリアに滅ぼされてから古代ペルシア・ギリシア・ローマなどに支配された。 正統カリフ時代(AD632年-AD661年)のAD635年にイスラムに占領され、その後のイスラム史上最初の世襲ウマイヤ朝(AD661年-AD750年)がダマスカスを首都としたため繁栄した。 イスラムでは、アブラハム・モーセ・イエスなどのユダヤ教やキリスト教の預言者も、神の言葉を伝える者として認められてはいるが、ユダヤ教やキリスト教では神の意思を正確に伝えなかったため、最終預言者としてムハンマドが選ばれたと言う。つまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの神も、実は同一である。 目次へ |
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4)ギリシア哲学 現代のミレトスは海に接していないが、これはトルコ中央部の西側ディナルDinar付近を水源とするメンデレス川の堆積によって湾が埋まってしまったためであり、古代においては港町だった。 タレス(BC624年頃~BC546年)は、イオニア地方のミレトスからほど近いサモス島の生まれだが、ソクラテスの孫弟子に当たるディオゲネスによれば、およそ現在のレバノンの領域、フェニキア人(ギリシア人は、東方オリエントから主に通商を目的として西方に来た人々を「フェニキア人」と呼んだ)の名門テリダイの家系と言う。西洋哲学において、古代ギリシア時代の記録上に遺こる最古の自然哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシア7賢人の1人とされる。 BC5世紀の歴史家ヘロドトス(BC490年頃?-BC430年頃?、アナトリア半島南端のカリア地方にあった都市ハリカルナッソス【現:トルコ領ボドルム】の出身)によれば、タレスはその知識を用いて日食を予言したといわれている。これは天文学上の計算からBC585年5月28日と考えられている。また地に落ちた自分の影と身長とを比較して、ピラミッドの高さを測定したとも言われている。 彼の活動したイオニアは、アナトリア半島南西部に古代に存在した地方名でエーゲ海沿岸に面し、ホメロスの活動した土地でもあった。イオニアは地理的に東方と西方文化の十字路に位置しており、エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入していたと考えられ、そうした文化的素地がタレス・アナクシマンドロス・アナクシメネスなどのミレトス学派が発生する母胎となった。 アナクシマンドロスは、万物の根源は不生不滅で永遠に運動するアペイロン(無限なるもの)であり、このアペイロンから無数の世界が生成すると説いた。アナクシメネスは、万物はその根源としての空気の濃厚化と希薄化とによって生成すると説いた。 BC6世紀初めのミレトスでは、タレス(BC624年頃- BC546年頃)とその弟子、アナクシマンドロス・ヘカタイオス・アナクシメネスと彼らが形成する学派のメンバー達によって、 「神話や精霊を引き合いに出すことなく、事物の性質それ自体の中で答えを探求する」、 「とりわけ、批判的な思考を正しく用いる。それにより自らの視点を絶えず修正する」、 「師の思索に立脚しながらも、弟子は時にそれを否定し、批判し、より優れていると思えるものを生む哲学的思考や科学的思考が目覚ましい発展には不可欠である」と、 ミレトス人がそのことの重要性に気付いて以来、人間の知識の幅は目覚ましい勢いで拡大した。 アリストテレスは、タレスこそが英知を究明する意味での「哲学」の実質上の始祖と語っている。合理的な科学的思考を創始した最初の人としてギリシア哲学史の冒頭に掲げている。いわゆるピュシオロゴイphysiologoi (自然について語る者) の先駆者、イオニア学派の開祖、何よりも「哲学の父」と呼ぶ。 哲学philosophyのラテン語「philosophia」には、「英知を愛する」という意味が込められている。プラトンは俗事に関わらず研究に没頭する哲学者の典型としてタレスを評価している。アリストテレスは、タレスの哲学の実践的な英知とその先駆性に瞠目していた。 「タレスの定理」とよばれるものは5つある。よく知られているのが、 「半円に内接する角は直角である」という定理である。タレス自身が書いた著作や記録は遺っていない。ソクラテス以前の哲学者の殆どが、その著作や記録が、断片的に、特にソクラテスの孫弟子のディオゲネスや、BC3世紀前半頃に活躍した『ギリシア哲学者列伝』の著者として知られるラエルティオスによる引用から推察されるだけである。 古代ギリシアの哲学者は、既に地動説を理解していた。中世のキリスト教信者は、神が作った地球こそが宇宙の中心とする天動説に固執した。現代でも、ダーウインの進化論ですら理解できないキリスト教徒も少なくない。 レウキッポスは、デモクリトス(BC470年頃-BC370年頃)の師であり、師弟共に原子論の理論を編み上げた。レウキッポスのグループは、あらゆる時代の思想に甚大な影響を及ぼしているが、二人の著書は散逸し、両者の思想は明確には区別ができなくなっている。それでも原子論者、哲学者として後世においても尊敬されるデモクリトスは、知のあらゆる分野において70篇もの著書があった。いずれも意図的に散逸されたようだが、その断片の多くに、人間の魂やその生き方、倫理や社会について言及している部分が多い。 デモクリトスは、物質の根源に、目に見えない、これ以上分割されない究極の実在である「原子(アトム)」を理論的に創始し、加えて不生不滅の極微のアトムは無数に存在するが、そのためにはアトム相互の間を区切るケノンkenon(空虚)がどうしても存在しなければならないと考えた。デモクリトスは、原子論的唯物論を確立した。 自然においては、それ以上不可分な無数の原子の結合と分離によって万物は生成・変化・消滅すると説き、しかも、魂は一種の火であって、球形のアトムからできており、肉体と同様に死滅する、と説いた。デモクリトスが、「アトム」則ち「原子」と言う言語を創始した。 万物のもとのもの(アルケー)は不生・不滅・不変のアトムatom、その意味は、分割できないものである。これは数において無限であるが、形態(例えばAとN)と位置(HとH)によって互いに異なっていても、細胞質の空間の中で運動し、その離合集散によって万物が生成し、やがて消滅したりする。したがって、「慣(なら)わしによって色、慣わしによって甘さ、慣わしによって苦さ。だが、実態はアトムと空虚」である、と説いている。 デモクリトスに関してはその原文の引用が全くない。既にAD6世紀頃にはデモクリトスの著作全部が破棄されていたようだ。 宗教的迷信については、デモクリトスの著作からの引用断片においても明確な記述は見られないが、やはり確たる根拠のないものと見なしていたと考えられる。実際、デモクリトスの自然学の枠内では神々ですら原子の集合体であり、そのような神々であれば有限の存在であり、原子の運動が統御する、あくまでも世界の秩序の一部分であるにすぎないと見ていた。アリストテレスは、デモクリトスを原子論atomismの創始者としている。 デモクリトスの偉大な着想は果てしない。しかもその思考力は深まり、車輪が摩滅したり衣服が乾いたりするのも、極めて微少な木や水の粒子がゆっくり失われたためとする。その洞察力は現代の量子論の骨格にまで及んでいた。現代の量子化学によってさらに原子そのものの内部構造と力学が探究され、ますます精緻に体系化されてはいるが、あの天才物理学者アルバート・アインシュタインでも理解できなかったほどのレベルに達している。 「宇宙全体は、終わりのない空っぽな空間、その中を無数の原子が行き交っている。その空間は無限であり、高低の区別も、中心も周縁も存在しない。原子は形の他にいかなる性質も持たない。重さも、色も、味わいも、原子自体とは無縁である」、 「甘さと言う感覚があり、苦さと言う感覚があり、暑さと言う感覚、寒さと言う感覚、そして色彩をめぐる感覚がある。しかし、実体は、原子同士が織りなす肉体の働きに負う」。 「ある人々は、死すれば心身共に解体してしまうことも知らず、しかしも人生で犯した悪行を意識して、神と称する戦慄と恐怖の王の仕打ちに耐え忍び、大切な生の時間を全うする事もままならず、宗教と言う名を語る集団の死後の世界の作り話に怯える」 デモクリトスは死後の生命の存続を「まやかし」と断じた。これは、ギリシア思想史上、初めて明確に生命の永続性を否定した画期的な哲学であった。原子論者のデモクリトスにとって、死とは、原子からなる魂と身体の結合体が解離離散することであれば、死後に感覚や意識が存続することは、もはやありえないことであった。 死の事実について無知であるから、この世での自らの悪行が良心の呵責となり、死後に待ち構えている恐ろしい劫罰を予期して、不安と恐怖に晒され生き続け、それが魂の動揺となり、永続すると怯える。 デモクリトスは、心穏やかに生きられることのない彼らの「生」と、その死後の世界にまで「生前」の罪業に怯え続けると言う観念は、哲学と呼ぶに値しない、と断じた。 鋭い観察眼を持っていたデモクリトスだったが、その晩期には盲目になった。 「生涯の終わり近くに盲目となったデモクリトスが、『探究を重ねる目』で観察すれば、肉体の目で見るものより真実の姿により近付き、その感動の果てにより美しい光景が拡がると再認識し、その感動のまま断食して自ら命を絶とうとした。ところが、息を引き取りそうになる間際に、妹が祭を楽しめなくなるからと言って、焼きたてのパンの香りを嗅がせて命を延ばし繋いだと伝えられている。」(スレンドラ・ヴィーマ『ゆかいな理科年表』) 後世、三位一体説のキリスト教信仰が跋扈し、デモクリストの著書を受け入れられる者がいなくなった。 ヘカタイオス(BC550年頃-BC475年頃)は、ギリシア最古の歴史家で最古の散文家、ミレトス出身、政治家としてイオニア植民市の反乱にも関与した。ひろく旅行し、地図も含む世界地誌『世界周遊』と歴史的著作『系譜』を著し、ヘロドトスに影響を与えた。「ヘカタイオスの世界地図」は、ヘロドトスによれば、その地図は青銅板に彫られており、ペルシア人の支配に抵抗してイオニアのギリシア人植民市が反乱した(BC499年-BC494年)さいに、ミレトスのアリスタゴラスによりスパルタへ運ばれたと言う。 その青銅板からヘカタイオスは、バビロニア人と同じく、「世界は平たい円盤状をなす」ものと考えていたことが分かる。OCEANOS(オケアノス)と書く海洋に囲まれ、北が上となり地中海によって、上部のEUROPA(エオローバ)と、下部のASIA(アジア)に別れ、東の端にインドがある。アフリカもトルコも中近東もASIAに含まれている。そのヘカタイオスは、BC500年のイオニア反乱に際し、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の強大さを知るゆえに、反乱の無謀さを指摘して反対した話が、ヘロドトスにより伝えられている。 ヘカタイオスの歴史書は、批判的な思考が核心を鋭く衝く文章からから始まる。「わたしはここに、自分にとって正しいと思えることを書いていく、と言うのも、ギリシア人の物語は、矛盾や当てにならない記述に満ちているように思えるから」。 伝説によれば、ヘラクレスはギリシアのマタパン岬(岬の先端にはギリシア神話でハーデースの住居とされる洞窟がある。洞窟の上の丘にはポセイドンを祭った神殿跡がある)から冥界に下ったと言う。ヘカタイオスは、マタパン岬を訪れたが、そこのどこにも地下通路や冥界の入り口は存在しなかったことが確認された。その伝説は虚偽であると断じた。 BC490年9月、ペルシア戦争第1回遠征中の戦闘中、ギリシア軍がアッティカ地方のアテネ北東の約40kmのマラトンの南海岸に上陸したペルシアの大軍約2万 5000に対し、アテネは名将ミルティアデスの提案により約1万の重装歩兵 (ホプリタイ ) を送った。古代ギリシアのボイオーティア地方にあった都市国家プラタイアイの援軍 1000を得て、ミルティアデス指揮下のギリシア軍はペルシア軍と戦いを交えて勝った。ペルシア軍は船へ逃げ戻り、スニオン岬を回ってアテネ市を突こうとしたが、アテネ軍が陸路をとってただちに市へ戻ったことを知り、攻撃をあきらめて自国へ引返した。ペルシア軍が 6400人の兵士を失ったのに対し、ギリシア側の死者はわずか 192人だったといわれている。 アリストテレス(BC384年頃‐BC322年)は地球球体説を主張する。根拠は、「地上のあらゆるものは圧縮・集中によって球を形成するまで中心に向かおうとする傾向を持つ」、「南へ向かう旅行家は、南方の星座が地平線より上に上るのが分かる」、「月食時に月面に影が差す。大地は円い」などの観察結果からである。更にアリストテレスに由来する知識として、ヨーロッパ人たちの住む世界は、赤道を挟む熱帯の北側にある温帯で、灼熱の熱帯と極寒の寒帯は無人境である。地球は球形であり、熱帯と南北の温帯と寒帯という5つの領域を持ち、南半球には未知の大陸が存在すると認識していた。 現代の私たちが知る限りにおいて、最初に体系化された物理学は、アリストテレスにより極めて良質に創始された。『物理』と言う学問分野の名称自体が、アリストテレスの著作のタイトルに由来する。 アリストテレスは17歳の時、プラトンが作った哲学学園アカデメイアに入学して、プラトンが63歳の時、その弟子になる。そこで類稀なる才能を発揮し、「学校の精神」と評された。 アリストテレスの物理学は、流体の中の物体や、重力と摩擦を受けている物体の運動を、適切かつ正確に描写している。 「なによりもまず、大地と空を区別しなければならない。空では、すべてが水晶のような物質からできており、それらが周期的かつ永続的に大地の周りを回っている。大地は、同一の中心を共有する球体の中心に位置し、大地もまた球形である。 地上では、力による運動と自然運動を区別しなければならない。力による運動は圧力(押す力)に由来し、その圧力が尽きた時に運動は止まる。自然運動は鉛直方向に発生する。上と下のどちらに動くかは物質ごとに異なる。あらゆる物質は、自身にとっての『自然な場所』、つまり、常にそこに戻ってくる水平面を持っている。 土は一番低い所に、水は土の上に、空気は水の上に、火は空気の上に、それぞれ『自然な場所』を持っている。石を持ち上げ、そのあと手を離したら、石は自然運動によって下に向かって落ちていく。これは、石が自分の水平方向へ戻ろうとした結果である。一方で、水中の気泡や空気中の炎は、やはり自然な場所を目指して上に向かって昇っていく」 古代ギリシアの数学者、特に数学と天文学の分野で後世に残る大きな業績を残したエラトステネスEratosthenes(BC275年‐BC194年)が、地球の大きさを測定し、現代での地球の円周値は約4万km、その1割超ほど過大な44500~46250kmkmと、古代としては驚くほど正確な結果を算出した。ただし、その測定値は出典ごとに違い1,500k超ほどの差がある。 エラトステネスは、シエネ(エジプト南部、アスワン・ハイ・ダムの近く)とアレクサンドリアとの太陽の南中高度の違いから地球の全周長を求めた。当時、シエネはアレクサンドリアの真南にあたるナイル川上流にあると見られていた。しかも、アレクサンドリアとシエネの距離は、隊商が掛かる日数から算出されているため、測量の曖昧さは仕方がない。決して精度は高くないが、実測にかなり近づいてはいる。 アナクシマンドロス(BC610年頃〜BC540年頃)は、ほんの数年で世界に対する認識を深め構想を広げて見せた。地球は空に浮いており、地球の下側にも空が広がっている。雨水は大地から蒸発した水に由来する。地上に存在する物質の多様性は、唯一単純な構成成分の発現と理解できる。 アナクシマンドロスは、タレスの「水」に対して、万物のアルケーarkhē(始源)は「アペイロンapeiron」(限界をもたないもの)だと言った。タレスの「万物は水から生じている」という説では、 「そもそも火はどのようにして生まれたのか」 という問いには窮する。これは、「水」は限定的な物質であるため、“冷たい”や“湿っている”といった自然現象はうまく説明できても、それらに「相反」する“熱い”や“乾いている”といった現象はうまく説明できない。そうした制約を乗り越えるためには、アルケーは無限定な性質のものであるほうが望ましいので、アナクシマンドロスは、「アペイロン」を想定し、その「アペイロン」から様々な相反する性質が分かれ出て、多様な存在が生み出されると考えたのである。 アナクシマンドロスは、動物や植物は、環境の変化に対応するように進化する。人間は他の動物が進化した末に生まれたに違いない。アナクシマンドロスの構想には、現代人が共有する「世界を理解するための基本原理」を根拠にしている。 BC6世紀、人類史上、極めて重大な思想上の革命が、ミレトスMiletusで成し遂げられた。エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、アナトリア半島西海岸(今のトルコのアイドゥン県バラト近郊)のメンデレス川河口付近にあったギリシア人の植民都市である。青銅器時代から人が住んでいた。タレスなどミレトス学派を生んだことで有名である。 目次へ |
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5)デモクリトスの原子論 ミレトスは、市民が自分たちの法律を市民同士で討議し制定するために、市民会議が招集された歴史上初めての都市であった。 ミレトスは、クレタ島からアナトリアへ移住した人々を中心に、先住のカリアCariaの人々も加わり、BC11世紀に創建された都市である。BC7世紀後半からBC 6世紀にかけて、その最盛期を迎えた。 カリア語Carian languageは、鉄器時代のアナトリア半島南西部のカリアで使われていた古代語で、リュキア語と同様にインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派に属する。カリアはリュキアの北西に位置し、トルコのアイドゥン県とムーラ県一帯に相当する。ドーリア人やイオニア人が、そのカリア西部に入植し、そこにギリシアの都市国家を築いた。北のイオニアと隣りあっていた。 リュキアはアナトリア南西部の地中海に面した一地方の古名であり、山が多く、南西の国境地帯は深い森林に覆われている。その西から北西にかけてカリア地方に接している。 BC 7世紀からBC 3世紀にわたるカリアの碑文が残っている。カリア本土のほかにギリシアにも碑文が遺る。また、エジプトのサイスからブヘン(現在はナセル湖の下に水没)にいたるナイル川沿いに170ほどの碑文が遺る。その大半は短文の墓碑銘か奉納文である。ヘロドトスは、エジプト第26王朝の初代ファラオのプサメティコス1世(在位: BC663年- BC610年)は、イオニアとカリアの傭兵を軍隊の主力としていた、と記す。それを裏付けるように、エジプトの豊かなナイルの土壌と穀物豊饒の女神イシス像の土台には、古カリア語で記したプサメティコス1世時代の碑文が遺る。 BC7世紀半ばに、小アジアでカリアで対立していたイオニア人の12都市で形成されたのが「イオニア同盟Ionian League(パンイオニア同盟Panionic League)」で、その同盟都市の代表者が集まった会議が、ミュカレ岬のポセイドンの聖地「パンイオニウム」で開催された。元々はアイオリス人の植民地だったスミルナSmyrna(現イズミル)は、コロポン(BC1千年紀の初め頃から古代リディア地方にあった都市。この都市の廃墟は現在のイズミル県の小さな村 Castro of Ghiaour-Keui にある。)のイオニア人に征服された後、同盟に加わった。 イオニア同盟は、政治的性格よりも基本的に宗教的・文化的同盟で、その象徴だったのが、パンイオニアPanionia(パンイオニオン)という祭で開催されていた。この祭はカリア西部のイオニア人が主催していた。 ミュカレ岬から対岸のサモス島との隔たりは2kmに満たない。サモス島はBC10世紀に、ギリシャ中部のイオニア人が植民した以後、急速に発展し、ブドウ酒・オリーブ・果実などを産した。ピタゴラス(BC582年―BC497年)はこの地の出身者と伝えられる。ペルシア戦争の末期のBC479年、ペロポネソス半島のギリシア海軍は、この島の近くの「ミュカレ岬の戦い」でペルシアの艦隊を壊滅させた。 ペロポネソス半島のイオニア人たちは毎夏、ギリシア南東部のアポロンの生誕地デロス島のアポロン神殿に詣でていた。エーゲ海に浮かぶこの小さな島は、BC2000年頃には既に人が住み、やがて太陽の神アポロンとその双子で月のアルテミスの誕生の地としての神話が語られると、政治・経済・文化の中心として繁栄した。BC478年には、ペルシア戦争に勝利し、その後も続くペルシアの攻撃を防ぐ目的でアテネを中心にポリスが団結して、デロス同盟を結成した。 ギリシア中部(フォキダ県)のパルナッソス山麓のデルポイのアポロン神殿の隣保同盟同様、イオニア同盟も政治的性格より宗教的で、当然政治的に共通の利害から結束を強化することはあっても、すべての都市は自治を認められていた。アカイア同盟やボイオティア同盟のような本当の同盟ではけっしてなかった。ミレトスのタレスはより政治的な同盟にしようと訴えたが、それは拒否された。 ヘロドトス(BC5世紀のギリシャの歴史家)の「歴史」にその記述がある。 「さてパンイオニオンを共有するこれらイオニア人であるが、我々の知る限り世界中で彼らほど気候風土に恵まれたところに町を作っている者は他にはいない。イオニアより北方の地域も南方も、一方は寒気と多湿に悩まされ、他方は高温と乾燥に苦しむからである。 これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、4つの方言に分かれている。」 「パンイオニオンはミュカレ山の北斜面にある聖域で、イオニア人が協同して『ヘリケのポセイドン』に捧げたものである。ミュカレは大陸から西方サモス島に向かって伸びている岬で、イオニア人たちはそれぞれの町々からここに集まり、パンイオニア(全イオニア祭)の名で呼んでいる祭りを祝うのである」 ミュカレ山というのは現在のディレキ半島にあり、岩山の小高い丘の崖面に多くの灌木が散見されるのが印象的である。その半島の先端が海上に浮かぶサモス島に近接する。現在ではミュカレ山はトルコ領であるが、一衣帯水のサモス島はギリシア領である。 議論を重ねて英知を集めることで、同盟都市相互間にとって雨過天晴を招く英断を積み重ねる一方、乱雑に猛威を振るう自然の摂理に不問を貫く神々に、問う無駄を重ねることよりも、むしろ素直に自然界の原理を人が克明に研究し解明しようとした。 やがて、ミレトスは、哲学・自然科学・地理学・歴史学などの揺籃の地となるほどに成長した。地中海のみならず、西欧の近代科学や哲学の根本原理が、BC6世紀のミレトス人の頭脳の中で育まれ、さらなる文明の画期的発展に繋がるはずであった。 BC6世紀の半ばにアケメネス朝ペルシア帝国(BC550年- BC 330年)が侵略し、ミレトスはその支配下に入った。 貿易活動が制限されことなどへの不満が強まり、ペルシアからの離反に踏み切った。BC500年に、イオニアで反乱が起こり、BC 499年にペルシア軍の攻撃が始まり、反乱側は、ギリシア本土のアテネなどの支援を受け入れたが、BC 494年、ラデー沖の海戦(「ラデー」というのはミレトスの沖にあった島、現在では長年の堆積により内陸になっている)に敗れて一気に没落し、しかも、ペルシア帝国の鎮圧は仮借なく徹底的に破壊された。ミレトスの市民の大多数は奴隷となった。ペルシア帝国は、そのイオニアの反乱を支援したことを理由に、ギリシアの諸都市を征服する行動を開始した。それがペルシア戦争へと発展する。 しかし20年後、ギリシア人はペルシアの脅威を退け、ミレトスを見事に甦らせた。人口は再び回復し、市場と交易の中心都市として栄えた。ミレトス人の商流と物流で培われた知性と精神が広くギリシアに普及し、その合理的な思念が磨かれる流れるの中で、多くの科学と哲学の学派が創立されていった。 レウキッポスLeukipposは、『大宇宙系』と言う書物を著したとされている。伝承によればBC450年、ミレトスからトラキア海沿岸の町アブデラへ船で渡っている。アリストテレスは、原子論atomismの創始者としている。 レウキッポスは、トラキアのアブデラ生まれのデモクリトス(BC460年頃- BC370年頃)の師であり、共に原子論の理論を編み上げた。レウキッポスのグループは、あらゆる時代の思想に甚大な影響を及ぼしている。しかし、二人の著書は散逸し、両者の思想は明確には区別できていない。 原子論者、自然哲学者として知られるデモクリトスは、知のあらゆる分野において70篇もの著書があった。いずれも散逸しているが、その断片に、人間の魂やその生き方、倫理や社会について言及している部分が多い。デモクリトスは人間の魂の働きもまた原子の働きによると見事に洞察している。魂は魂原子の群魂があり、その形態、配列、向きは変化する。ならば、人間の資質は生まれつき変わらないと考えられていたそれまでの人間観に対して、教育によって資質も変わっていくと言及する。現代の生物学でも、遺伝子の発現は環境や生育方法の影響を受けるとしている。「生まれborn」ばかりでなく「育ちbring up」も重要視されている。 古代の人々の多くは、それを読んで深く感銘した。当時の知識層の間でも、彼は偉人として尊敬されていた。セネカLucius Annaeus Seneca(BC1年頃~AD65年)は『自然論集』で、デモクリトスを「あらゆる古代人の中で、もっとも鋭敏な知性を備えた人物」と評した。 皇帝ネロの家庭教師も勤めたこともあるストア派哲学者「セネカ」の思想は、古代ギリシアのゼノン(BC335年頃- BC263年頃)が創始した哲学の学派で、当時のギリシア哲学を代表する学派であった。地中海を支配する中心がローマに移ると、ストア派はローマでも盛んになり、セネカが活躍した。ストア派の原則は「自然に従うこと」、つまり、宇宙の大原則に身をゆだね、神的な自然への服従を実践する生き方により、不安や欲望を取り除くことを理想とした。後にキリスト教の教義にも取り入れられ、西洋人に大きな影響を与えた。 キケロ Mrcus Tullius Cicero (BC106~BC43年)は、ローマ共和政の末期の「内乱の1世紀」時代の政治家でかつ雄弁家・文章家・哲学者として著名であった。属州の徴税請負人などになって経済力をつけてきた新興勢力である地方の騎士(エクイテスequites)の家柄に生まれ、ローマに遊学し、修辞学・哲学・法律を学び、弁護士として頭角を現した。さらにアテネ、小アジア、ロードス島に行き、ギリシア哲学を学びギリシア語文献をラテン語に訳すなど、素養を積んだ。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んでローマに紹介したのもキケロであった。騎士階級出身の共和派の政治家としても活躍したが、カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスと対立し、BC43年、暗殺された。ラテン語の名文家として知られ多くの著作を残した。 そのキケロが「いったい誰と、あのデモクリトスと比較できようか?天賦の知性のみならず、魂もまた偉大であったあのデモクリトスと」と評価している。 (騎士/エクイテスは、古代ローマ共和制時代末期に登場した。従来の貴族・新貴族からなる元老院議員層に対し、徴税請負人などとなって富を蓄えた新興富裕層を騎士といった。彼らは、共和政末期には民会を拠点とする平民派の支持基盤となり、元老院を拠点とした閥族派と対立する。彼らの存在は、AD1世紀の内乱の過程で重要性を増し、初代皇帝アウグストゥス以来のローマ帝国の皇帝による統治も騎士階級を支持基盤として強化され、彼らから役人や軍人に登用される者が多かった) デモクリトスは、原子と原子が結びつく時、微視的スケールで起こる重要なことは、原子の形、全体の構造における原子の配置、原子の結び方だけであると言う。20数個のアルファベットが様々に組み合わさり、悲劇や喜劇、滑稽譚や壮大な叙事詩が作り出されるように、基本的な原子が様々に結びつくことによって、限りない多様性を備える世界が生まれると見事に看破する。つまり、原子間の結合でアミノ酸分子が生まれ、その分子同士の結合が重なれば、タンパク質などの巨大分子が形成される。 デモクリトスは「この途方もない原子の舞踊に関し、いかなる目的や意図を伴わない。私達は自然界に存在する他の事物と同様に、果てしなく続く原子が演じる舞踊の帰結である。それは偶然に結びついた結果とも言える。自然は種々の形態と構造を試し続ける。人間も動物も、果てしない淘汰の流れの中で、自然の気まぐれの選択によって発生した存在である。 私達の生は、原子の組み合わせにより、私達の思考は微小な原子に由来する。私達の夢は原子が生み出したものであり、私達の希望や感情は、原子の組み合わせによって構成される言語の中に書き込まれている。私達の見ている光とは原子であり、私達の視野に映る像は原子によってもたらされる。海も街も星も原子からできている」。 信じられないほど透徹した洞察である。たった100個くらいの元素が織りなす宇宙空間であることも想定内に入れていたようだ。しかも光の「粒子性」をも看破している。 デモクリトスの偉大な着想は果てしない。想像力を働かせ、車輪が摩滅したり衣服が乾いたりするのも、極めて微少な木や水の粒子がゆっくり失われたためとする一方、その思考力は量子重力理論の骨格まで達する。 「宇宙全体は、終わりのない空っぽな空間、その中を無数の原子が行き交っている。その空間は無限であり、高低の区別も、中心も周縁も存在しない。原子は形の他にいかなる性質も持たない。重さも、色も、味わいも、原子自体無縁である」、「甘さと言う感覚があり、苦さと言う感覚があり、暑さと言う感覚、寒さと言う感覚、そして色彩をめぐる感覚がある。しかし、実体は、原子同士が織りなす空間の働きに負う」。 一神教の思想が猛威を振う数百年に、デモクリトスの透徹した唯物的な自然主義は完全に忘失された。というより意図的に破棄された。 目次へ |
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6)ローマ帝国の権威の正当化のための皇帝によるキリスト教化 内乱を治め、再び帝国を統一したコンスタンティヌス1世(大帝と呼ばれる)は、これまで歴代の皇帝が、弾圧し、迫害してきたキリスト教を公認した。これが、AD313年の「ミラノ勅令」だ。 イエスの12使徒の一人、聖ペテロの墓上に、326年、コンスタンティヌス1世が献堂した木造建築を起源とし建てられたカトリック教会の総本山「聖ペテロ大聖堂(聖ピエトロ教会)」の司教は、キリスト教信仰の中でペテロ(イエスの一番弟子,12使徒の筆頭,教会の最初の指導者)の後継者という特別の地位が与えられていた。それでも、五本山の一つにすぎず、また、ローマ帝国によってキリスト教の国教化がなされると、ローマ帝国末期には5つの管区に別けて教会と信徒を管理するようになった。その5管区の総大司教座教会を五本山といい、ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア・エルサレム・アンチオキア(古代の西シリア、オロンテス河畔の都市、現;トルコのハタイ県の県庁所在地)がそれである。ローマ皇帝が教会に対する命令権を持っていたため、その保護を受けながら、皇帝に服さなければならなかった。また、アンチオキア以南の3教会は7世紀以降イスラムの支配下に入ると、ローマとコンスタンティノープルが最高権威を競った。 当初、ローマのキリスト教徒は、殉教の苦難の中にあっても、やがて殉教者は聖人として崇敬されるため、殉教を願う者が増え続けていた。4世紀以降には、殉教者の功徳は信徒の救いに有効とされ、墓所の上に教会が建てられた。 コンスタンティヌス1世は、キリスト教徒から絶大な信頼を受け、晩年には洗礼を受けて、キリスト教に改宗した。コンスタンティヌス1世が発したミラノ勅令の狙いはローマ帝国の統一だった。彼は、これまでのようにキリスト教徒に、迫害を続けていても、国を統一することができない、むしろ、キリスト教を認め、ローマ帝国の統一に利用した方が得策と考え、キリスト教を公認した。 330年、皇帝コンスタンティヌス1世は、ローマの首都を今のトルコの最大都市イスタンブールに移し、「コンスタンティノープル」という都市を完成させた。これは「コンスタンティヌスの都市」という意味であり、旧名ビュザンティウム(ギリシア名ビュザンティオン)にちなむビザンティン帝国は、英語のByzantine Empire、ドイツ語読みでビザンツ帝国、一方、日本では東ローマ帝国と呼ぶ。 コンスタンティヌス帝はAD330年ビザンティウムに遷都し、コンスタンティノポリスと改称、ローマ帝国の中心を東に移した。「第二のローマ」の誕生であり、ここからローマ帝国とキリス教の分裂が始まった。AD395年、ついにローマ帝国は東西に分裂する。 ローマ帝国に公認されたキリスト教は、ますます信者を増やし、勢力を拡大した。そして、熱心なキリスト教徒だったテオドシウス1世(在位:379年~395年)は、テオドシウス大帝とも呼ばれ、わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配する最後の皇帝となった。 392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、間もなく西ローマ帝国においても国教化した。同年、すべての異教礼拝を禁じる。これまでのテオドシウスは、異教徒を重要官職に登用するなど、ローマの伝統的異教に対しては寛容であったが、390年以降、ミラノ司教アンブロシウスの強い影響下、対異教政策を厳格化し、遂にローマ帝国自体がキリスト教に改宗した。 当時、ローマ帝国は世界の中心であった。キリスト教がローマ帝国の国教になったということは、世界一の布教を達成したことを意味する。その西ローマ帝国が、476年に崩壊する。 ビザンツ帝国は、東方に依然として残り、1453年に、オスマン帝国軍によるコンスタンティノポリスが攻略されるまで正統な「ローマ帝国」として命脈を保った。多言語・多民族を抱え、ササン朝・十字軍・イスラムなどとの幾多の抗争を凌いで、皇帝の下で中央集権国家を維持した。7世紀以降には、執拗な周辺諸民族の侵入を阻止するため、属州各地の軍団の司令官が管轄地の民政をも兼ねた軍管区制(「テマ制」と呼んだ)を布いた。その「テマ」が11世紀まで属州行政の単位となった。 聖像崇拝禁止を強く主張する東ローマ帝国(ビザンツ帝国)イサウリア朝の初代皇帝レオン3世(在位;717年 - 741年,中世ギリシア語では「レオン」とは「獅子」を指す)以降、ビザンツ皇帝が東方正教会(ギリシア正教会)を掌握する皇帝教皇主義が確立し、事実上コンスタンティノープル総主教(8世紀の中頃から東方正教会を管轄する首長)の任命権を皇帝が保有した。イスラム教や東方教会の影響を受けて、726年、聖像禁止令を発布し聖像崇拝を厳禁する宗教政策をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧し、ローマ教皇グレゴリウス3世の反発を招いて東西教会分裂を決定的にした。 いわゆる東方正教会では、ローマ教皇のような全体的な首長を置くことなく、地域ごとの主教を中心に、それぞれが独立していた。主に、ロシア(ロシア正教会)・東欧・バルカン半島・西アジアに分布し、それぞれが総主教または大主教(ギリシアの場合)の下に完全な自治を有する独立した教団を運営した。 北シリアの下層出身。軍人として台頭しアナトリア管区司令官となり、軍隊に推されて、アドラミュティオン(現;トルコのエドレミット)の徴税役人であったテオドシウス3世Theodosius Ⅲ(在位716年-717年)を退位させ、自ら即位してイサウリア朝を創始した。イスラム人のコンスタンティノポリス(現イスタンブール)攻囲戦を守り抜いてこれを撃退し(717年~718年)、さらに小アジア西部をイスラム支配から解放(740年)して武断的中央集権策を進め、テマ(軍管区)制を再編し、中小農民の保護に努めた。 皇帝レオン3世は、シリアとキリキア地方の境、タウルス山脈南麓の肥沃な小平野マラシュ(現;トルコのカフラマンマラシュ)の出身である。マラシュはアナトリア半島の内陸とシリアを結ぶ各山道の南の出口に近い要地であった。BC12世紀にはヒッタイト王国の都市国家があった。コンスタンティノス5世の時代までレオンの一族が住んでいた。 7世紀にイスラム教徒による征服活動が始まって以来、拡大するウマイヤ朝イスラム帝国に隣接する勢力としては最大であり、しかも最も豊かであるとともに軍事的に最強の国家として存在していた東ローマ帝国は、イスラム教徒にとって魅力的な侵掠領域であった。 8世紀のキリスト教世界に与えたウマイヤ朝イスラムの脅威は、西ヨーロッパでのイベリア半島への侵入(711年)、フランス西部のトゥール・ポワティエ間の戦い(732年)、その同時期に東ローマ帝国の都コンスタンティノープルがイスラムの侵攻にさらされていた。そのようなときに登場したのが皇帝レオン3世であった。 (トゥール・ポワティエ間の戦いは、732年、フランク王国とウマイヤ朝の間で起きた戦いで、その後も735年-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したが、カール・マルテル率いるフランク王国連合軍が撃退した。) レオン3世は、マラシュの下層出身であるが、経歴が明らかになるのは、東ローマ帝国の皇帝アナスタシオス2世(在位:713年- 715年)によって、小アジア中央部の山岳地帯テマ(軍管区)・アナトリコンの長官に任じられた以降である。テマ制とは、所属する兵士に農地を与えて平時は自由農民として農耕に従事させた。その収入により武器や装備を自弁させ、有事には兵士として召集して国土の防衛に当たらせる兵農一致の制度である。平時は常駐する軍隊の膨大な糧食を兵士が農民として自活する。有事には兵士たちは自分の土地と家族と財産を守るために戦うため士気は高い。テマの長官の称号は「将軍」を意味する「ストラテーゴス」であった。特に強力なアナトリコンの軍を率いるレオンは、極めて大きな発言力を持った。 この時期にはウマイヤ朝の軍が既に小アジアに侵入してきており、イスラム軍の司令官であるウマイヤ朝の王子マスラマ(ウマイヤ朝の第5代カリフのアブドゥルマリクの息子)が、アラビア軍の特徴である徹底した略奪と破壊を頻々と重ねながら、アナトリコンの中心都市であるアモリオン(現;トルコ、アフィヨンカラヒサール県)に迫っていた。だが、アモリオンは強固な要塞であり、強力な守備隊を擁していた。レオンの軍略が成功してマスラマの軍を一旦後退させた。その後の小アジアでのイスラムとの戦いでも度々勝利した。その獅子のような勇敢さからレオン(獅子)というあだ名で呼ばれた。717年の即位の際、それを正式な皇帝名とした。 レオン3世が即位してまもなく、マスラマの軍がコンスタンティノポリスに到達し、8月15日から第二次コンスタンティノポリス包囲戦を開始した。ビザンツ最大の危機であった。ウマイヤ朝イスラムのカリフの弟を総大将とするイスラム軍が、陸と海からコンスタンティノープルを包囲した。レオン3世は、コンスタンティノープルを、あらかじめ大城壁と堀を深くして待ち受けていた。そのためイスラム軍の攻撃は困難を極めた。 さらに、レオン3世は金角湾(トルコ・イスタンブールの湾、ボスポラス海峡の主要な入り江)の入り口を鎖で封鎖する一方、自ら艦隊を指揮してイスラムの補給艦隊を撃滅させた。補給が断たれウマイヤ朝の軍は困窮した。 そこにブルガリア軍が東ローマ帝国を救援するため参戦した。事前に、レオン3世が交易開始を条件に、ブルガリアとの同盟を働き掛けていた。 海軍の方では「ギリシアの火(ギリシア火薬)」と呼ばれる焼夷兵器を積んだ東ローマ帝国の特殊戦艦が活躍し、イスラム海軍は大混乱となった。ギリシア火薬は、14世紀前半に火薬の実用化が始まるまでは、ローマ帝国のみがもつ秘密武器として恐れられた。 「ギリシアの火」は、東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。帝国の海戦では、高圧サイフォンを使用して、焼夷用の混合液体を、敵船の上に噴射する。これは水上に浮いている間もずっと燃え続けるため、敵船の兵士に多大な恐怖を与えた。 その「ギリシア火薬」は、諸説あるが原油から常圧蒸留されたナフサにアスファルトや硝石を混合した粘性を持つ液体である。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合液体は、敵船の上に高圧サイフォンで噴射した。 この兵器は、海戦には極めて有効で、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利に大きく貢献した。こうしてコンスタンティノープルを、ウマイヤ朝イスラム軍の2度に渡る攻囲を粉砕している。 これ以降、後代のオスマン帝国に滅ぼされる1453年まで、イスラム軍によって首都が包囲されることはなかった。 東ローマ帝国の体制が整っていった一方、ウマイヤ朝は徐々に衰退した。730年代以降はウマイヤ朝の小アジア侵攻が大きな成果を生まなくなっていく。そして740年にはアクロイノンの戦いBattle of Akroinon(アナトリア高原の西端に位置するフリギアのアクロイノン=現在のアフィヨンカラヒサール付近)でも、アラブ軍の指揮官のアブドゥッラー・アル=バッタールとアル=マリク・イブン・シュアイブの両名と、部隊の大部分におよそ13,200人を失うというビザンツ軍の圧倒的な勝利に終わった。 また、アラブ軍はシリアへ帰還する途上、田園地帯を徹底的に荒らし回ったものの、都市や砦を奪うことに失敗したため、深刻な飢えと物資の不足に苦しみ、ビザンツ軍の反撃でアラブの侵略軍の20,000人が捕虜になったと記録されている。以後小アジアへの侵攻は激減する。 コンスタンティノス5世(在位:741年 - 775年)は、ウマイヤ朝の崩壊を好機として、北シリアまで兵を進め、またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し、東方で主導権を握ることに成功した。770年代まで続く東部辺境における東ローマ帝国の優位が確保された。 1453年に、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされると、コンスタンティノープル総主教下の東方正教会は、19世紀半ばに、ギリシアがトルコから独立するまでの約350年間、トルコの支配下に置かれた。そのトルコの支配下にあった期間、ロシアが正教の大保護国として、宗教的にも文化的にも重要な存在感を示し、やがて主流となったのがロシア正教であった。 現在の東方正教会は、中東・東欧・ロシアを中心とするコンスタンティノープル・アンティオキア・アレクサンドリア・エルサレムなどの他、フィンランド・アメリカ・日本などが加わる18の自主教会からなっている。西ヨーロッパなどにも、東方正教会派の移住者や亡命者により自主教会が設立されている。 イエスの磔刑、そして、12使徒たちによる命がけの伝道が始まってから約400年。 ローマ帝国末期の皇帝テオシドシウス帝(在位379~395年)は、元は属州ヒスパニア(スペイン)出身の軍人であった。378年にローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍が西ゴート人とのアドリアノープルの戦い(羅:ハドリアノポリスの戦い; Adrianopleは、トルコ領西部のヨーロッパ側の西端のエディルネ県)で敗死したために、以後トラキア地方(バルカン半島南東部、現;ブルガリアの南東部とギリシア北東とトルコのヨーロッパ部分)はゴート族が占領する。 急遽、ヒスパニア出身の軍人であった軍隊司令官の一人テオドシウスが皇帝に指名された。テオドシウスは、ローマ帝国の上級将校だった大テオドシウスの息子として、属州ヒスパニア北西部のカウカ(現;スペインのコカ)に生まれた。 383年、ブリタニア(古代ローマの属州「ブリタンニア」があったイギリスのグレートブリテン島南部のラテン語の古称)の軍団に推されてマクシムスが帝位を僭称したため、ローマ皇帝グラチアヌス(父帝の死後西方を統治した)がガリアに向かい、その乱の鎮圧中に殺された。マクシムスは、ブリタニア・ガリア・ヒスパニアを支配し西の皇帝に即いた。 それに対し、テオドシウス1世(通称は大帝)は東の皇帝としてコンスタンティノープルを拠点とした。388年にはマクシムスの軍を破り処刑し、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に統一し、サルマティア人やゴート人の侵入に対処し帝国の危機を救い、名実ともに最後のローマ皇帝となった。 サルマティア人は、ドナウ川からアラル海にかけて活動したイラン系遊牧民で、AD1世紀以後しばしばローマ帝国の北東辺境に侵入した。やがてゲルマン系のゴート族に押され、フン族にも圧迫されて衰えた。ヴォルガ川の中流域にあたるオレンブルク地方のフィリッポフカ古墳の発掘調査によると、BC5世紀末までにはウラル川中流域でサルマタイの勢力が増大していたことが明らかとなった。 ローマ帝国の内戦が続くという危機的状況のなかで即位したテオドシウス1世は、治世当初から社会不安を増長させるキリスト教の教義を名目にするキリスト教徒間の内紛の解決に重点を置いた統治を行った。 AD390年- AD391年、勅命を発し、アタナシウスの教義を補強した三位一体説を正統教義として確定した。さらにAD392年、異教徒禁止令を出し、アタナシウス派キリスト教を事実上の帝国の唯一の国教とする。これによって三位一体説のキリスト教信仰がローマ帝国と結びついて権威ある国家宗教とされることとなった。 以後、古代の哲学を考究する学派は次々と閉鎖され、当時のキリスト教徒が受け入れない文書は、宗教的迷妄と独断によりことごとく破棄された。 テオドシウス自身はローマには一度も行ったことがなく、あくまで中心は東のコンスタンティノープルにおいて統治していた。しかし、現実的に広大なローマ帝国を一元的に支配することは困難になっていた。395年、その死に際し、16歳の息子のホノリウスを西ローマ皇帝に、18歳のアルカディウスに東ローマ皇帝に任命した。この措置によってローマ帝国は、コンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国と、ローマその他の西方の都市を都とする西ローマ帝国に東西分裂が確定した。 アラリック1世(Alaric I, 370/375年 - 410年)は、ゲルマン人の諸国の一つ、西ゴート族の最初の王(在位:395年 - 410年)である。アラリックは、ドナウ河口付近に生まれ、4世紀末には、マケドニア・ギリシアに南下して略奪し、ローマ帝国を悩ませた。しかし、397年、西ローマ帝国の将軍スティリコとのマケドニアの戦い敗れ、ギリシア北西部の山岳地帯エペイロス(現;イピロス地方)に退いた。 スティリコは、ローマ人の母と東ゲルマン系の混成集団ヴァンダル人の父との間に生まれた。両親の名前、経歴は全く不明である。ヴァンダル人は、BCスカンジナビア 南部からバルト海沿岸に移住していた。その後南下して、AD3世紀後半には、ドナウ川の中・下流域に移住した。 スティリコは、テオドシウス1世の宮廷に仕え、その護衛隊長に取り立てられ、西ゴート族からの国土防衛を任される。数々の戦功をたてて昇進し、皇帝の姪セレナを妻とした。 394年、アラリックは2万人のゴート兵を率いて、フランク人(ローマ帝国時代後期から記録に登場するゲルマン人の部族)の将軍アルボガストによって擁立された西ローマ皇帝エウゲニウスに苦戦を強いられていた東ローマ皇帝テオドシウス1世を支援した。フリギドゥス川(現在のヴィパーヴァ川、ヴィパーヴァはスロベニア西部にある市)のほとりで激突した。初日、アルボガストの善戦によってテオドシウスが苦戦、アラリック1世に率いられたゴート人の半数と、イベリア人の王バクリウスとが戦死した。 しかし翌日には、発生した砂嵐を巧みに利用したテオドシウスが、アラリックやスティリコらの奮闘もあって戦況を逆転させてエウゲニウスを打ち破り、エウゲニウスを処刑してアルボガストを自殺に追い込んだ。しかし、旗下の部隊1万人の犠牲にもかかわらず、アラリックはわずかな見返りしか与えられなかった。 テオドシウスはフリギドゥスの戦いから4か月後の395年1月17日にメディオラヌムで急死した。同年のローマ帝国の東西分治後、スティリコは、西ローマ帝国の皇帝となったホノリウスの後見人を務めた。その年、ローマの仕打ちに失望したアラリックは、ローマ軍指揮下を離れて西ゴート族の王(リックス)に選ばれた。そしてコンスタンティノープルを目指して進軍、途中方向を変えてギリシアへと南進し、アッティカ地方を略奪、アテネとその港ピレウスを占領、コリント・メガラ(アテネから西北西へ約42km)・スパルタを略奪破壊した。 ローマ皇帝テオドシウス1世の長男、東ローマ帝国のアルカディウス帝(在位;383年- 408年)は、この事態を終息させるため、アラリックをイリュリクム(現在のボスニア・ヘルツェゴビナからハンガリーにかけて)における軍の「総司令官職(マギステル・ミリトゥム)」に任用した。 目次へ |
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7)スティリコとアラリック 395年にテオドシウス1世が没し、帝国が2分され東ローマ帝国初代の皇帝となったアルカディウス(在位 395年 - 408年)は、394年、アラリックが2万人のゴート兵を率いて奮闘し、その部族1万人が戦死したにもかかわらず、先帝が結んだアラリックへの給付金の支払い拒んだ。これに対して、西ゴート族は、新たに王となったアラリック1世(在位 395年 - 410年)のもとで反乱を起こした。 アラリック1世率いる西ゴート族の軍勢は、395年よりバルカン半島の諸都市を襲撃し莫大な賠償金を奪取した。その阻止に向かった西ローマ帝国の将軍スティリコの追撃をかわしたアラリック1世は、400年にもイタリア半島北部に軍勢を進める。 401年、アラリック1世が率いられたゴート族がミラノを包囲すると、スティリコはブリタンニアやガリアに駐屯していた兵力を集めて対峙した。402年、西ローマ帝国初代皇帝ホノリウス(在位 395年 - 423年)は、北部の都ミラノにある宮殿を捨てて、直線にして南西265km離れたアドリア海に面した海港都市ラヴェンナ(現;イタリアのラヴェンナ県の県都)に遷都し避難した。 402年6月、テナルス川(ポレンティア)の戦いで、今回も西ゴート族を率いるアラリック1世は、ガリア兵やドナウ兵などの軍を率いるスティリコに敗れている。 スティリコは、403年でも、ヴェロナ(イタリア北部ヴェネト州西部)の戦いで、再度侵攻するアラリック1世の軍を打ち破り、イタリアから退却させている。しかし、東ローマ帝国まで追うことはできなかった。405年には、ラガダエススの率いるゲルマン人の大軍を撃退した。 スティリコは、ゴート軍を利用しようとして、アラリックを西ローマ帝国の軍司令官に迎え、巨額の賠償金を与えて同盟関係を結んだ。それにより東ローマ帝国に対抗しようとしたが、406年、ゲルマン民族のうちヴァンダルVandal族(東ゲルマン系の混成部族)・サルマタイ族(ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団)・スエビ Suebi族(ローマでは、古ゲルマン民族のうち最強の民族として知られていた。民族移動の波に乗って5世紀前半イベリア半島の北西部にスエビ王国を建てた)がライン川を越えて西ローマ帝国のガリアに侵入し略奪を行い、イベリア半島へ向かった。この諸勢力による侵入が度重なり、西ローマ宮廷内ではゴート族やゲルマン人に対して反発する勢力が勢いを増した。 (ゲルマン人【ドイツ語:Germanen】は、BC2000年紀中葉、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯で農耕と牧畜を営んでいた。インド・ヨーロッパ語族系ゲルマン語を母語とする諸部族・民族集団) 西ローマの皇帝ホノリウスは、経験が不足な上、暗愚でもあったため、政務は将軍スティリコが行なった。スティリコは2人の娘を相次いで西帝ホノリウスの妻とし、自身は西ローマ帝国の全軍最高司令官として絶大な権力を振るった。スティリコが息子エウケリウスとホノリウス帝の異母妹ガッラ・プラキディアとの結婚を画策すると、これが息子を皇帝にしようとする野望と疑われた。次第にスティリコとホノリウス帝との対立が強まった。 408年、東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝アルカディウス(ローマ皇帝テオドシウス1世の長男)が死亡すると、ホノリウス帝は、新たな東ローマ皇帝を任命せずに単独でローマ帝国全体の皇帝になろうとした。 スティリコはホノリウスを戒めて東ローマの副帝であったテオドシウス2世(在位;408年~450年,皇帝アルカディウスの唯一の息子)を正帝へと昇格させたことにより、ホノリウスはスティリコに対して更なる反感を抱くようになった。 (テオドシウス2世は、父親の死により、7歳で皇帝に即位したが、40年以上も帝位にありながら、その実権は、初期には民政総督アンテミウス、後には姉と妻が握り、生涯、親政を行う事はなかった。また、東ゴート族や騎馬弓射を得意とするフン族の猛攻により政権は振るわなかった。) スティリコがテオドシウス2世への使者として西ローマ帝国を不在にしている間に、宮廷では書記長官であったオリュンピウスがホノリウスの信頼を得ていた。オリュンピウスはホノリウスに、スティリコを排除して実権を取り戻すことを献策した。ホノリウスは当然にしてもホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアすらも反対しなかった。それも、当時、帝国内で幅を利かせるゲルマン諸民族に対するローマ人の憎悪が極限に達していたせいもあった。 408年、東方より帰国の途上、スティリコは、ゴート族と独断で取引をしたという嫌疑で、当時のイタリア北部の首都ラヴェンナ(州都ボローニャから東へ69km)で捕らえられた。スティリコは義理の息子でもあるホノリウスを信じて嫌疑の不当を訴えたが、スティリコとその幕僚たちはホノリウス帝の命により捕らえられ、同年8月22日に将軍ヘラクリアヌスによって処刑された。妻のセレーナは、テオドシウス1世の姪で、アルカディウスとホノリウスの従姉にあたるが処刑された。彼の息子エウケリウスはローマに逃れたが捕らえられて処刑された。長女マリアは、父母より先に病没していた。次女テルマンティアは、父母の死後、修道院に入り余生を全うした。 408年、ホノリウス帝はローマの住民に「フォエデラティ(同盟部族)」としてローマ軍に所属するゴート族の妻子を殺すように扇動した。これにより、イタリア各地でゲルマン人などの他民族に対する過激な暴動が蔓延し、ゴート族やヴァンダル族などフォエデラティの多くの妻子が虐殺された。殺害を免れたスティリコの部下を含めて生き残ったおよそ3万人のゴート族が、殺された一族の復讐を誓い、アラリックの幕営に落ち延び、卑劣な西ローマ帝国に対する戦いをアラリック1世に願った。 408年9月、アラリックはすばやく進撃し、イタリア北東部からスロベニアにまたがるジュリア・アルプス山脈から越境し、アドリア海北岸のアクイレイア、北イタリアのクレモナといった都市を略奪破壊しながら南下した。スティリコを処刑したホノリウス帝は、アラリック1世に対して講和して同盟軍に加わることを求めるとともに、アラリック1世に対し賠償金を払うことを約束した。アラリック1世は、この講和自体信用できずイタリア半島北部を襲撃略奪し続け南下した。アラリックのゴート軍はローマを包囲した。 スティリコは、前途が見通せない状況下にある落日の西ローマ帝国と、身勝手で狡猾なホノリウス帝を懸命に支え、前例に捉われない奇策を講じて帝国を守り続けてきた。そのスティリコ将軍の権勢を羨み、その最大の勲功者を処刑したものの、西ローマ帝国の残余の権力者達には、とりまく緊迫した諸情勢に対して余りにも無策無能で、スティリコ将軍の功績を単に妬んできただけだったようだ。 アラリックは、ローマの現状を知悉していた。兵糧攻めに徹し自軍の無駄な損耗を回避した。和平交渉のため派遣された元老院の使節に対して、アラリックは嗤いながら「まぐさが束になればますます簡単に刈り採れる」と豪語した。いくども交渉を重ねるが、飢餓に苦しむローマ市民は5千ポンドの黄金と3万ポンドの銀、4千枚の絹の外套、3千枚の染物を献上し、更に3千ポンドの莫大な補償に応じざるを得なかった。 アラリックはローマに拘束される4万人のゴート人の奴隷を解放し連れ去った。同族の復讐を果たして、アラリックの最初のローマ包囲は成功裏に終わった。 アラリックの当初の目的は、ローマ帝国を壊滅させることになく、ローマ帝国の領域周辺地、あるいは枢要でない領地に定住することを認めさせることにあった。しかし、アラリックの勢威が高まるにつれ、権力に溺れ要求は壮大なものとなった。その内容はバルカン半島北西部のイリュリアの地に設置された古代ローマの属州イリュリクムに相当する領域、ドナウ川からヴェネツィアまでの320×240km土地の割譲を求めている。加えて、帝国軍の司令官職の称号を要求した。ホノリウス帝はその要求も一旦は受諾した。 402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の首都をミラノからラヴェンナへ遷都していた。ラヴェンナは歴史的には港湾都市であったが、BC31年、マルクス・アントニウスとのアクティウムの海戦で勝利した後、アウグストゥス帝がラヴェンナに艦隊用軍港を築いた。アドリア海に面した城壁で守られた重要なローマの帝国海軍の基地となり繁栄した。ラヴェンナは泥沢地と湿地に囲まれ、そして東ローマ帝国の軍との行き来が容易であった。中世初期までラヴェンナは、アドリア海の重要な海港となった。現代のラヴェンナ市街は、堆積により内陸となり、海との間は直線距離で8kmほどもある。 535年から東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが、地中海世界の回復に乗り出し、武将のベサリオスを派遣し、533年にはヴァンダル王国(西ゴート族に追われたヴァンダル族は、北アフリカのかつてのカルタゴの地のチュニジアに建国し、一時は地中海に覇を唱えた)を征服させ、さらに535年にはイタリア半島の東ゴート王国とのゴート戦争を開始し、555年にはそれを滅ぼしイタリア半島支配を回復した。さらに西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部を占領した。かつてのローマ帝国の地中海域の全域に対する支配圏を回復し大帝と呼ばれた。 (東ゴート王国は、テオドリックによって建国された東ゴート族の王国、その首都がラヴェンナであった。テオドリックは、東ローマ帝国の皇帝ゼノンと同盟し、東ゴート族を率いられてイタリアに侵入した。当時、イタリアを実質的に支配したゲルマン民族の王オドアケルは、ローマ帝国の支配から独立していた。テオドリックは、オドアケルを倒してイタリアのほぼ全域を支配下においた。一時ゲルマン諸国家に覇を唱えたが、526年8月30日にテオドリックが没した後の555年、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの将軍ベリサリオスとナルセスにより東ゴート王国は滅ぼされた。 テオドリック王廟に収められたテオドリックの遺骨は、東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の支配下の555年に取り除かれた。霊廟はキリスト教の礼拝堂となった。) ユスティニアヌス大帝は、イタリアの地を奪回すると、ラヴェンナ総督府を置いて統治した。以後、ラヴェンナは東ローマ帝国のイタリアにおける最重要拠点になった。 6世紀に建造されたサン=ヴィターレ聖堂は、イタリアのラヴェンナにあるビザンツ時代の代表的建築で、その内部には、ユスティニアヌス大帝と皇帝テオドラを中心とした人物群を描いたモザイク壁画が描かれている。他に、ガルラ・プラッチーディア廟堂、テオドリック王廟(東ゴート王国を創始したテオドリック王の墳墓)、正統派洗礼堂、アリウス派洗礼堂などがあり、ビザンツ文化を代表する「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」となっている。古代ローマ文明の終末の炎が一気に燃え上がった観がある。 ホノリウス帝は、ラヴェンナが湿地と城壁で防備されているため自分の身は絶対に安全と考え、ゴート族への多額の賠償を破棄した。409年、アラリックは元老院を介してラヴェンナの宮廷との交渉を有利に進めようと考え、ラヴェンナを迂回し、再びローマへ進軍した。これがローマ第2次包囲戦となる。同年、アラリック1世はローマを蹂躙略奪し、人質としてテオドシウス1世の皇女ガッラ・プラキディアを確保した。後に多くの変遷を経て、ガッラ・プラキディアは息子ウァレンティニアヌス3世とともにラヴェンナへ戻り、甥のビザンティン帝国皇帝テオドシウス2世(在位;408年-450年)を支援した。 アラリックは、皇帝が講和に応じることが人々にとっていかに有益であるかを、イタリアの諸都市に対して絶えず力説した。409年、ローマ元老院はホノリウスの皇帝資格を停止し、帝国の首都長官praefectus urbプリスクス・アッタルスをローマ皇帝に選出した(在位:409年-410年、414年-415年)。 アラリックはギリシア名プリスカス・アッタルスという帝国の首都長官を、西ローマ皇帝アッタルスとして宣した。アッタルスはアラリックの要請に応えて総司令官職(マギステル・ミリトゥム)に就任したが、アフリカに出兵するのは拒んだ。 プリスクス・アッタルスの父はギリシア人で、ウァレンティニアヌス1世の時代に東ローマ帝国からイタリアに移住してきた。アッタルスはローマ帝国の重要な元老院議員で、409年には、首都ローマの治安維持や警察業務に当たるプラエフェクトゥス・ウルビpraefectus urbi(首都長官)の職にあった。プラエフェクトゥスPraefectus(古典ラテン語)は、古代ローマの公職の1つで、日本語では長官あるいは隊長などと訳される。共和政ローマや帝政ローマにおいて多種多様な職務においてプラエフェクトゥスが創設された。例えば、親衛隊長官(近衛軍団長)は、プラエフェクトゥス・プラエトリオpraefectus praetorioと呼ばれた。ローマの殆どの公職に就くには、選挙で当選するか、もしくは選挙を必要とする職務を経験していることが条件となっている場合が多い。事実上、元老院に議席を持つには、特権階級に限定されることになる。 アッタルスは二度、ラヴェンナの西ローマ皇帝ホノリウスの対立皇帝として、西ゴート族の支援のもとで西ローマ皇帝に擁立された。 元老院によって帝位を解かれたラヴェンナのホノリウスは、プリスクス・アッタルスを共同皇帝として認める条件での講和を提案したが、アッタルスはその提案を拒絶し、ホノリウスとの決戦を主張した。ローマや旧都メディオラヌムMediolanum(現ミラノ)などイタリアの諸市が、ホノリウスの廃位とプリスクス・アッタルスへの支持を表明した。しかし、ホノリウスとの交渉を望んでいたアラリックの答えは、アッタルスの廃位であった。 (メディオラヌムMediolanum「平原の真中」の意味は、4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には、西ローマ帝国皇帝の宮殿が置かれ、西ローマ帝国の首都でもあった。北の国境ジュリア・アルプス山脈とイタリア半島を縦貫するアペニン山脈に挟まれるため降水量が少なく、無風の日が多く夏は蒸し暑く、冬は寒冷で多霧と言う。この後間もない450年頃、アッティラに指揮されたフン族に略奪され、539年にはゴート族に破壊された。8世紀末ごろに再び繁栄し始めた。 中世を通してミラノは大司教に統治されたが、都市の独立性をある程度保ちながら、下層の封建貴族たちは次第に大司教の世俗的支配から脱していった。11世紀には、貴族たちが神聖ローマ帝国から独立し、ミラノを富裕な自治都市へ成長発展させた。) アラリックはホノリウスに帝位を返却することを約束し、ホノリウスとの会談の場が設けた。アラリックは約束通り会談に赴いたが、ホノリウスは会談の地に軍隊を差し向け、アラリックを急襲した。アラリックはホノリウスの卑劣な裏切りに失望し、ホノリウスとの交渉を断念し、ローマを包囲した(第3回ローマ包囲)。 元老院は特使を派遣して講和のために賠償金を支払うよう皇帝に要請したが、これをラヴェンナの宮廷は拒絶した。ついにはアラリックも平和的解決を断念し、410年8月24日、サラリア門を開きローマ市内にゴート本軍が雪崩れ込み、飢餓状態でかつ伝染病が蔓延し、既に地獄絵のごとき状況だった「永遠の都」を占領し、3日間、殺戮と略奪に明け暮れた。しかし、火を放ち破壊した建物はわずかであった。 その後、嵐による艦隊の壊滅的打撃により、シチリア属州(BC241年に、カルタゴを下した共和政ローマが、同国を最初の属州とした)と北アフリカを占領するというアラリックの戦略は頓挫し、やむなく北に戻る帰途、アラリックは病没した。 アラリックには息子がなかったため、義理の兄弟であるアタウルフが跡を継いだ。食料に困窮した西ゴート族は412年に、イタリア半島の西側のティレニア海沿岸を北上し、アルプス山脈を越えてガリアに乱入した。 ヨルダネス(6世紀の東ローマ帝国の官僚、ゴート族の血統、後年には歴史家となった。)によれば、その通った跡はあたかもイナゴの大群が通り過ぎたかのようであったと記す。 プリスクス・アッタルス帝の再任は414年に、ローマ帝国の再建を表明した西ゴート族の王アタウルフによってローマ皇帝として擁立された。 (ボルドーの町は、ガロンヌ川に面した港町で、BC300年にケルト系ガリア人によって創設され、ブルティガラと呼ばれた。BC1世紀にはローマに占領されると、ワイン生産が盛んな港湾都市の商業地としても栄えた。ボルドーは4世紀なると、アクイタニア・セクンダ属州の州都となり、大司教座が置かれた。5世紀にローマ帝国が崩壊すると、ゲルマン民族の一派であるゴート人が支配した。) 415年晩夏、事態が急変した。アタウルフが412年に処刑したサルスの部下の復讐にあい、バルチーノBarcino(現;バルセロナ)で暗殺された。バルチーノは、415年よりアタウルフの支配下におかれ、短期間西ゴート王国の首都になっていた。 その後、プリスクス・アッタルス帝は、ホノリウス派によって捕らえられて捕囚となり、416年には、ローマ市街で行われたホノリウスの凱旋式への参加を義務づけられた。その後、アッタルスはシチリア本島の北岸から約30km沖合のリーパリ島へ追放され、そこが終末の地となった。 423年、39歳の誕生日を前に子供を残さずに死去したホノリウスの死後、元老院によってヨハンネスが西ローマ皇帝に推戴された。 スティリコの2人の娘(マリアとテルマンティアの姉妹)を相次いで娶ったが、どちらの間にも子供を儲けることはなかった。マリアとは死別、テルマンティアとは離別した。故にホノリウスの直系子孫は後世に伝わっていない。 ホノリウスの代には西ローマ皇帝の宮廷は実質的にイタリア半島を支配するのが精一杯の状態であり、以後は蛮族に対して常に劣勢であった。ホノリウスの甥ウァレンティニアヌス3世の代には、439年にアフリカ州がヴァンダル族によって征服された。シチリア島や地中海西岸は、ヴァンダル王ガイセリックの艦船によって掠奪されている。その惨状の裏側で、451年に蛮族出身の将軍フラウィウス・アエティウスがフン族の王アッティラに対して大勝利を収め、同じくアエティウスによるガリア南部における西ゴート族に対する武勲(426年、429年、436年)やライン川やドナウ川への侵入者に対する軍功(428年 - 431年)を挙げたが、454年にアエティウスはウァレンティニアヌス3世により殺害され、そのウァレンティニアヌス3世もアエティウスの元部下に殺害された。 以降の皇帝達の中では、マヨリアヌスやアンテミウスが蛮族に対して一時、攻勢に出たが、最終的には頓挫している。もはや西ローマ帝国にとって西ローマ皇帝は無用の存在となっており、476年のロムルス・アウグストゥスの退位、480年のユリウス・ネポス殺害を契機に、西ローマ皇帝は廃止されることになった。 ホノリウス帝の寵臣となったオリュンピウスは、一時西ローマ政府で勢威を振るったが、アラリック王麾下の西ゴートとの交渉における不首尾により失脚した。その後、ダルマティア属州に逃れていたが、412年頃、スティリコを尊敬していた将軍コンスタンティウス(後の西ローマ帝国の皇帝コンスタンティウス3世)の命で処刑された。当時のダルマティアは、ローマ帝国の属州の一つ、バルカン半島西側のアドリア海沿岸部からその沿岸を北西から南東へ645km伸びるディナル・アルプス山脈を含む領域とされた。 AD6年からAD9年に、イリュリア属州でパンノニア族とダルマティア族が反乱を起こした。ローマ帝国が鎮圧した後、AD10年にイリュリア属州は南北に2分割され北側にはパンノニア属州、南側にはダルマティア属州が設立された。 429年には、イベリア半島から北アフリカを支配し、ヴァンダル王国を建国したガイセリック王は、430年には、シチリアやサルデーニャなど地中海の島々を征服した。それは、かつてのカルタゴの領土に匹敵する。広域的な地中海交易により繁栄し、455年にはローマを掠奪し、西ローマ帝国の滅亡を早めた。 AD476年の西ローマ帝国滅亡後の民族移動の流れから、ゴート族が支配していた。東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位;527年-565年)は、武将のベサリオスを西地中海に派遣し、533年にはゲルマン族ヴァンダル人の王国を征服させ、さらに535年にはイタリア半島の東ゴート王国とのゴート戦争を開始した。555年には東ゴート王国も壊滅させイタリア半島全域の支配を回復した。その後、西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部も領地とし、かつてのローマ帝国の地中海全域に及ぶ支配を復活させた。 目次へ |
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8)西ローマ帝国の滅亡 476年のロムルス・アウグストゥス(460年 - 536年)の退位と、480年の皇帝ユリウス・ネポス(在位;AD474年6月頃-AD475年8月28日)殺害を契機に、西ローマ皇帝は廃止されることになった。ネポスの出自は、不明瞭な部分が多いため異説もあるが、ローマ帝国の貴族であったネポティアヌスの息子フラウィウス・ユリウスであったと考えられている。後にネポティアヌスは皇帝から軍務長官の一人に指名され、461年から南ガリアやヒスパニアの帝国領に派遣、465年に任地で死没したと記録されている。母は父と同じ軍務長官としてダルマティア総督を務めるマルケリヌスの妹であったと伝えられている。 その叔父マルケリヌスの存在はネポスの台頭において重要であった。マルケリヌスはダルマティア地方(クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯)に強固な地方軍閥を作り上げ、テオドシウス朝断絶後も諸皇帝から独立した自治権を持つ存在としてダルマティアは承認され、その総督として君臨していた。 ユリウス・ネポスにとって命取りとなったのが、新たな軍務長官にフラウィウス・オレステスを指名した事であった。フン族の王アッティラの重臣であったオレステスを軍務長官に抜擢すると、475年8月28日に軍を率いて反乱を起こした。不意を突かれたネポスはラヴェンナを攻め落とされたが、辛うじて伯父の領地であったダルマティア地方へ海路を使って脱出した。 480年、ユリウス・ネポスはダルマティア属州の首都サロナ(現;ソリンSolin。ローマ帝国の最大の都市の1つであった。現在はクロアチアにおけるローマ帝国時代の最大の遺跡)にある宮殿に滞在していた際、自らを警護する護衛兵の手によって刺殺されたという。 サロナSalonaを中心とする沿岸都市には、イタリア・ギリシア・オリエントなどの多くの移民や商人が流入したため、港や道路網が整備された。内陸部の肥沃な地域には、定住した農耕民が村落を形成していた。渓谷地域には大所領農場経営の別荘も散在していた。一方では、遊牧生活を続ける部族もいた。 古代からの重要な要路だったため、他民族の流入も激しく、639年、遊牧民族アヴァール人(中央アジアのモンゴル系騎馬遊牧民族)とスラヴ人(インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する諸民族集団)などの異民族の侵掠略奪により大規模に破壊され壊滅した。現在はローマ時代の大浴場、・円形劇場・フォーラムのほか、初期キリスト教の教会遺跡が発掘されている。 次の皇帝として復帰したロムルス・アウグストゥルス自身、蛮族出身の軍司令官オレステスの息子である。先の皇帝ユリウス・ネポスを追放した父オレステスによって皇帝として擁立された。そのオレステスがオドアケルに敗れて失脚したことにより、AD476年に、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルに退位を迫られた、皇帝ロムルス・アウグストゥルス(在位:AD475年-AD476年)が最後の皇帝となり、AD476年、西ローマ帝国は滅亡した。ロムルスは、当時16歳、ゆえに助命され、カンパニア(イタリア南部の州)で年金生活を送ることが許された。 オドアケルは、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣とを返上した、と言う。 権力の分裂が東西教会の分裂を誘発し、教義を巡る対立からコンスタンティノポリス大司教のアカキオス(472年‐489年)の離反を招き、西ローマ帝国滅亡の8年後のAD484年に、東方教会とローマ教会に分裂する(アカキオスの離教)。第48代ローマ教皇フェリクス3世による484年6月24日のローマの教会会議は、アカキオスが異端を助長したとして罷免した理由を、同年8月1日付の文書でゼノ皇帝とコンスタンティノポリスの聖職者および市民に告知した。 西ローマ帝国が滅んだ要因は「ゲルマン民族の移動」といわれるが、西ゴートや東ゴートといわれたゲルマン民族のドナウ川の西への移動は、中央アジアのウラル=アルタイ族系の遊牧騎馬民族フン族の西への移動によって押し出されたものであった。背景には、4世紀後半からの地球寒冷化があった。最終氷期の最寒冷期後、約19,000年前頃から始まった地球温暖化は、約6,500年前から約6,000年前まで上昇が続きピークに達する。 青森市の三内丸山遺跡は約5,500年前-4,000年前の主に縄文中期を中心とする集落跡で、大型掘立柱建物遺構がみられる。縄文人の石器の切れ味はもとより鑿のように穿つ能力も相当なもので、建材を加工する技術は大型建造物を建造できるほどの水準に達し東日本の各地に伝播していた。メソポタミアに誕生した先史文化ウバイド期(7000年前頃-6000年前頃)が、都市化の始まりの時期であり、農業や家畜の飼育により定住性の集落が広く行き渡った。ウバイド文化は、イラク南部のウル遺跡から西6kmにあるテル・アル=ウバイドという遺丘で見出された新石器時代から銅器時代の遺跡で、この遺跡がこの文化を代表する。南メソポタミアに人々が、定住的な農耕集落を作り始めたのは、農耕が西アジアで始まってから数千年を経過した7500年前頃のことであった。 地球温暖化が始まったにしても、実は第四間氷期にあたり、不断のサイクルで発生する寒冷化により、しばしば北アジアや中央アジアの草原地帯の遊牧経済が大打撃を受けたことが、ユーラシア大陸全域に及ぶ大規模な民族移動を惹き起こした。 目次へ |