量子力学 |
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1)量子論の幕開け ニュートン(1642-1727年)の時代では、想定すら不可能であった「量子」の概念を、1900年にドイツの物理学者マックス・プランクMax Planck(1858年- 1947年)が初めて導入した。プランクの法則Planck's lawを考える中で、物体が光を吸収または放射する時、そのエネルギーは、エネルギー素量(現在ではエネルギー量子)は、ε = hν の整数倍でなければならないと仮定した。この量子仮説が、その後の量子力学の幕開けとなった。 1858年、ドイツのキールに生まれたマックス・プランクは、1918年に、ノーベル賞を受賞し、1947年没した。翌1948年に設立されたマックス・プランク研究所は、これまでに17人のノーベル賞受賞者を輩出している。その前身は1911年に創立され、30年あまりでアルバート・アインシュタインをはじめ、15名のノーベル賞受賞者を出した「カイザーヴィルヘルム財団」である。カイザーヴィルヘルム研究所時代まで合わせれば、同研究所が出したノーベル賞受賞者は31名、自然科学や人文・社会科学など、幅広い分野の研究に取り組むドイツ随一の学術研究機関であり、各分野の世界トップレベルの研究者たちが集まっている。 「基礎科学の大半は、今直ぐには利益をもたらさない。大学だけでは、急増するばかりの投資費用を負担しにくい。マックス・プランク財団が国家と地方自治体の財源を、先端研究所と研究施設に繋ぐ役割を果たすことで、ドイツの量子力学が世界トップを走る」 大学の枠組を超えた最新かつ将来性のある分野の基礎研究に取り組み、ドレスデンにある研究所はいずれも最新鋭の施設を備えている。 プランクの「エネルギー量子仮説」は、光のエネルギーは、ある決まった「とびとびの不連続の値」しか取らないと言う。ある一定の波長を持つ光のエネルギーは、連続ではなく、「とびとびの値」をとる「かたまりのようなもの」であることは分かっていた。プランクはさらに探究した結果、一つの仮説(量子仮説)に達する。やがて、光子だけでなく、物理量がとびとびの不連続の値を取る粒子を総称して「量子quantum」と呼ぶようになる。 すべての物質は、量子という微小エネルギー単位で構成されている。量子は粒子性と波動性の二重性を持っているため、粒子は、波(不可視のエネルギー体)を持って振動している。質量が大きければ粒子性の方が勝るが、質量を持たない光子や質量が小さい電子では、波動性=量子波が強く現れる。そのため、量子は空間に広がって消えたり(波動性)、再び現れたり(粒子性)する性質がある。 光子は、電荷(電気力)をもたない、質量0で物質ではない。重さがないのでいくらでも遠くへ飛ぶ。しかも、光は加速度運動をしない。発生した瞬間から光速は常に秒速30万km、光には慣性質量を定義することはできない(「光速度不変の原理」)。慣性質量がゼロの物体であるならば、その物体はほとんどゼロの力で無限大の加速度で運動することになるが、これは光の運動の実態とは異なる。光の慣性質量はいくらか、と問われれば、定義不能と答えるしかない。 電子はクォークとともに物質を作るの基本的な構成要素「レプトンlepton(軽粒子)」 、光子は力を伝える働きをする質量が0の「ゲージ粒子Gauge boson」の一種である。重力子gravitonは、未発見の素粒子であり、標準模型Standard Model には唯一登場しない基本相互作用の重力相互作用を媒介すると予測される仮説上のゲージ粒子である。 (標準模型とは、 素粒子物理学 において、 強い相互作用 ・弱い相互作用・ 電磁相互作用 の3つの 基本的な相互作用 を記述するための モデル のひとつである。 標準理論または 標準モデルとも言う。) 光子が伝える力は、電磁気力(電磁相互作用)である。電子とは全く異なる素粒子である。電子は静止できるが、光子は進み続けるしかない。 電子は光速では移動出来ないが、電子が動く「電場(電荷には正負しかない。電場の力はベクトルである。)」では銅線の中を光速で伝わる。光子は、真空中では光速のみである(光速度不変の原理)。 全ての物質やエネルギーは粒子的な性質と波動的な性質(物質波) の両方を持っている。 ドブロイ波は物質波とも呼ばれているが、 これは電子だけでなく、光子にも適用できる。 量子力学では、光子は電磁力の仲立ちをすると考えられている。電子と原子核を結びつけて原子を作る力や、原子同士を結びつけて分子を作る力も電磁気力と言われている。磁気力の力の粒子は光子、電磁気力は光子をやり取りすることで伝わる。光子による電磁気力の チャージchargeが 電荷 (Q)であり、その電磁気力は電荷 (Q) に比例する。 電荷を持った粒子は、目に見えない光子(仮想光子)をお手玉しながら走っている。言い換えれば、荷電粒子は、光子の衣をまとっている。電子が電磁石などで急に向きを変えられると、まとっている光子の衣が引きちぎれて飛び出す。これが放射光である。 粒子性を強調すると「光子」、波動性を強調すると「電磁波・光」、しかも光子の実体は、切れ端のような電磁波だ。電磁波とは、単純にいうと光子という極めて微細な粒子が波の性質を持って伝わる状態のことを言う。その電磁波が、「波動性」と「粒子性」をあわせ持つため、波長が長くなるほど、回折現象や干渉現象などの「波動性」の特徴が顕著に表れる。電磁波は、場の量子論では光子の集合として扱われる。光子も質量がないため、電磁力は無限の距離にまで到達すると考えられる。 放送局から送られてくるラジオやテレビの電波が建物の陰や室内でも受信できるのは、電波の波長が非常に長いため回折という「波動性」特有の現象が起こるからである。一方、波長が短くなるほど、「波動性」は目立たなくなり、電磁波は直進する、すなわち「粒子性」が顕著に表れる。 電磁波である光が発生させる電磁場は、光の進行方向と垂直に振動する横波である。これを偏光と呼んでいる。 光は数 mm から数nm の範囲の波を指し、波長の順に赤外光・可視光・紫外光と呼ぶ。X線は波長が1nm 以下の波、γ線はさらに短い10pm 以下の波を指すが、厳密にはその発生メカニズムで区別する。 光子とは、電磁波を量子化して得られる粒子である。 光子1個あたりのエネルギーは、E = hν = hc/λ (c=λ×ν)であり、運動量は h/λである。 (λは電磁波の波長、νは振動数、c は光速) 光子や電子は内部構造を持たないと考えられており、数学的には点となる。光子と電子を比較すると、光子のほうが波動性が現れやすく、波として扱われることが多くなる。光子は電子と比較して、粒子の性質よりも波の性質(波動性)を強く持っている。そうすると、干渉、回折などの効果が現れ 、電子は光子と違い質量がある、波動性よりも粒子性が遥かに勝っている。 従って、回折や干渉は非常に弱く、電子の集光性は光よりも遥かに勝っている。 膨張し続ける宇宙を構成する時空と重力の理論である一般相対性理論と、極小の素粒子の基本理論である量子力学は、現代物理学の2つの柱だが、量子宇宙論では、100年来の難題だった両理論の統合が、近年、研究を加速させている。 20世紀の物理学の2つの柱、つまり「一般相対性理論」と「量子力学」により、宇宙空間は真空ではなく、エネルギーが充満して、すべての物質を創造している多次元空間であり、物質と量子の二重性を持っていると説かれている。 「一般相対性理論」は、アインシュタインのたった一人の頭脳により、既知の知見を組み合わせて着想され、極めて難解な「重力」と「空間」と「時間」との錯綜とした相互関係を、一貫した明確な宇宙論的な展望をもって体系化した。 その一方、「量子力学」は、新たな実験データの解析から、その都度、方程式を積み重ねて、新技術や巨大な実証実験装置を開発してきた。プランクの「エネルギーの小箱」やアイシュタインの「光電効果」、そしてニールス・ボーアの「量子跳躍」など、量子力学の黎明期が20世紀初頭から4半世紀も続き、ヴェルナー・ハイゼンベルグWerner Karl Heisenbergやポール・ディラックPaul A. M. Diracなどが20代の青年期に、それぞれが「行列」や、相対論的な量子力学として時間の微分方程式を含む「変数スペクトルの計算」などを生み出した。 量子力学をとおして粒子の本質に備わる「3つの側面」が観取できた。それは「粒子性」・「不確定性」・「相関性」の3つの理論である。特に電子と光の「粒性」が、量子力学の核心と成っている。この世界は、粒状の量子が間断なく引き起こす事象によって形づけられている。その事象は粒状であり、離散的であり、それぞれが互いに独立している。 量子的事象とは、ある物理的な「系system」が、別の物理的「系」の間に引き起こす、個別な相互作用を言う。自然科学における系とは、自然界のうちで「観測の対象として注目している事象の総体」を言う。分野や考察の内容に応じて力学系・生態系・太陽系・実験系などと呼ぶ。観測の対象とされない部分は外界として区別される。 これは外界が系に比べて非常に大きく、外界が系に影響を及ぼして系の状態の変化を引き起こすことがあっても、系が外界に及ぼす影響は無視できる程度とする仮定の下に考察の対象から外される。そのため、外界の状態は、常に一定であるとしたり、単純な外界の事象を条件にしたり、観測の条件として仮定されたりする。また、観測者は外界にいるものとして、通常は考察の対象にならない。 電子や光子や、その他の場の量子は、空間の中に継続的な状態で存在するのではなく、別の何かと衝突した時や、加速され突然進路を変えられた時など、特定の場所に突然出現する。 そのため量子が、いつ、どこで現れるかを確実に予測する方法はない。量子力学によって予測される世界では、この「不確実性」に支配されるため、観測される事象は絶えず偶然に左右され、あらゆる変数が常に「ゆらいでいる」。微小の世界では粒子すべてが「振動」し、原子や分子は絶え間なく「ゆらぎ」、安定することなく、その微視的な事象には絶えまない「不確実性」が付きまとう。自然界の内奥に潜む事象を、確率という雲の中から量子的事象として、蓋然性で捉える計算方法を、量子電磁力学の創始者の一人であるアメリカ合衆国の物理学者ファインマンRichard Phillips Feynman(1918年-1988年)は、「径路総和」と呼ばれる経路積分を用い、実際の粒子のその反応過程を描いて見せた。 アイシュタインは、自身の編み出した方程式が、「宇宙の膨張」を示していながら、あえて否定したため、その画期的な成果を、同じ20世紀の初頭に米国のエドウィン・ハッブル博士が、銀河の観測の結果から「銀河同士がお互いに遠ざかっている」ことから実証したため、それをアイシュタインは、生涯最大の誤りと終生悔やんだと言う。 その後退する速度は、遠い銀河ほど速く遠ざかるというものであった。これが「宇宙の膨張」と呼ばれる現象である。宇宙には変化が生じない。銀河などの天体はいつも決まった位置に「存在している」と考えていた当時の人々にとって、これは衝撃的な発見となった。 宇宙は膨張している、つまり、銀河が後退していることは「赤方偏移」の観測によって解明された。 赤方偏移とは、遠ざかる光源から発せられた光のスペクトルを測定すると、長波長側(可視光で言うと赤い方)にずれる現象のこと。 ちょうど、遠ざかる救急車の音がドップラー効果 Doppler effectで低くなるのと同じ様に、光速を超える速度で運動している銀河から放射される光の波長は、赤い方にずれる。 銀河の後退速度がより大きければ、より赤方偏移も大きくなることが知られている。 しかも、この膨張の速さは「加速」している、つまり速度を増しながらどんどん宇宙が膨らんでいる、ということが観測されている。私たちの宇宙の未来は、宇宙の物質の量を測ることで予測出来るはずが、この宇宙には、光の電磁放射を吸収・反射、または放出しないため、検出が困難であり正確な測定ができない物質とエネルギーの方が圧倒的に多い。未だ私たちの宇宙が開いているか、閉じているかすら分っていない。しかし、ダークマターの量がかなり多いとしても、私たちの宇宙は開いている、そして平坦な宇宙であるという説が現在は有力である。 ビッグバン宇宙論の「標準宇宙モデル」におけるラムダ-CDMモデル(cold dark matter model)では、ダークマターdark matter(暗黒物質;光の電磁波を吸収することも放出することもなく、また陽子や中性子からなる通常の物質とは一切相互作用しない物質)の密度ゆらぎから、現在の銀河や銀河団などの構造が形成されたとする。その宇宙モデルの総質量とエネルギーにおける含有量は、通常の物質とエネルギーが合わせて5%に対して、ダークマター27%に加えてダークエネルギーdark energyは68%に及んでいる。 アインシュタインは、一般相対性理論の方程式に、実質的に万有斥力を引き起こす「宇宙定数」を加えていた。 しかし、アインシュタインは「静的な宇宙」を想定していたために、その宇宙定数が宇宙の膨張を示していたはずなのに、その意味を理解することなく無視した。 宇宙を膨張させる「斥力の」有力な候補が、真空のエネルギーであるが、場の量子論に基づ けば、少なく見積もっても真空の密度エネルギーの期待値は、 観測が示唆する値より約 120 桁も大きいようだ。最近ではこのエ ネルギーを「暗黒エネルギー」と呼んでいる。 実体が分からない暗黒エネルギーが、宇宙の空間を隙間なく支配している。暗黒エネル ギーによる斥力が、宇宙をこのまま加速膨張させ続けるのか、収縮に転じるのか、あるいは終焉を迎えるのか、で宇宙の運命が決まる。現在の「宇宙の空間」には、独自のエネルギーがあり、このエネルギーは「宇宙の空間」そのものの特性であるためか、空間が膨張しても希釈されない。より多くのスペースが生じるにつれ、この宇宙エネルギーが埋めていき、さらに 、このダークエネルギーが、宇宙をより速く拡大させているようだ。 宇宙の加速膨張の謎に挑むには、まず暗黒エネルギーの 密度が、アインシュタインの方程式における「宇宙定数」なのか、宇宙の時間進化なのか、 宇宙論スケールにおける重力が一般相対性理論と矛盾して いるのか、などという 幾つかの重要な課題が残る。 しかしながら、アインシュタインの方程式に「宇宙定数」がなぜ含まれたのか?ましてや宇宙の膨張が加速される理由や原因は、未だ解明されていない。 銀河や銀河団など宇宙の重要構造は、宇宙の質量の大部分を占める暗黒物質間の重力相互作用によるゆらぎ(物質分布の非一様性)の増幅と、ゆら ぎをならす方向に働く宇宙膨張が連動して起こしているようだ。それでもなぜ、その膨張を加速させなければならないのか? このため、宇宙の構造形成を赤方偏移の関数を使い詳しく 調べることで、宇宙論スケールにおける重力の強さと加速膨張との関連を同時に調べることができる。日本でも、アメリカのハワイのマウナケアの頂上に「すばる望遠鏡」を設置し、 自然科学研究機構国立天文台ハワイ観測所が運用する 口径 8.2 mの光学赤外線望遠鏡で、可視光から中間赤外線に及ぶ電磁波を捉えて鮮明な画像にする。 国立天文台ハワイ観測所は、「すばる望遠鏡」を太平洋の中心、ハワイ島標高 4,200 mのマウナケアの山頂に設置し、1997年 、ハワイ島の東海岸に位置するヒロ山麓(マウナケア山頂から車で約2時間のマウナロアの山麓にあるため山麓施設と呼ばれる。)の管理施設の完成とともに発足した。そのヒロ山麓施設は国立天文台本部と専用ネットワークでつながっており、観測データを同台本部で確認する。 「すばる望遠鏡」は、広い視野の観測が可能な超広視野主焦点カメラHyper Suprime-Cam(ハイパー・シュプリーム・カム)で得られた、電離水素が放つ光B、R、Hα輝線バンドフィルターの画像に青・緑・赤を割り当てて合成する。そのため銀河から吹き出す巨大な電離ガスが赤く吹き上げて見える。 副鏡と組み合わせてやや狭い範囲を長い焦点距離で観測するカセグレン焦点(反射望遠鏡において、凹面の主鏡および凸面の副鏡を用いて主鏡の後ろ側に結ばれる焦点)、そして大型の観測装置の設置に向く2つのナスミス焦点(高度軸上に結像される焦点。副鏡からやってきた光を高度軸方向に反射する第三鏡を置くことで実現する。)という、4つの焦点カメラを装置し、様々な観測に対応している。また、多天体分光器を用いた「すみれ計画」が、現在進行中であり、「星や惑星の誕生と進化のプロセス」・「宇宙加速膨張の謎」・「ダークマターと宇宙論」・「最遠の宇宙」などの解明を目指している。 そこは、天体観測に最適な場所の1つとして知られている。標高 4,200 mのマウナケア山頂は、気圧は平地の3分の2しかなく、地上の天候に影響されない高さにある。しかも、快晴の日が多く、乾燥している。近くに大都市がなく、天体観測をさまたげる人工的な光は殆どない。これらの好条件を求めて、マウナケアには 11 ヶ国が運営する 13 の望遠鏡が集まっている。 目次へ |
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2)プランクの放射法則Planck's law of radiation 1900年、ドイツの物理学者マックス・プランクMax Planckは、「熱した物質の温度とその物質が出す光の色」の関係を説明するのに、「光のエネルギーは小さな固まり」と考えると分かりやすいことに気付いた。 物体が例えば赤く見えるのは、それを光で照らした時に赤以外の波長の光が吸収され、赤の光だけが反射されるからである。黒い物体は、あらゆる波長の光を吸収する物体であるため黒体black bodyと呼ばれる。一方、この黒体を高い温度に熱すると、黒体からは色々な波長の光が放出される。 例えば、溶鉱炉の中の鉄が赤く見えたり、裸電球の色が黄色く見えたり、また、太陽からの光が白く輝いて見える。そのことから、溶鉱炉の鉄やタングステン電球のフィラメントは黒体に近い存在と考えられ、その色の違いは黒体の温度の違いを表している。黒体を熱すると、温度が上がるにつれ、最初は赤かったのが黄色くなり、さらに白っぽくなる。これは温度が上がるにつれ、ヒトの目に見える光の色を、その物体が放出していることによる。「一番強い光の色」が赤から黄色に変わる、やがて眩い光を放つ。つまり波長が次第に短くなり、エネルギーを高めるためである。温度の高い黒体は、高 い振動数の光を放っている。 プランクの理論式が成り立つ理想的な熱放射体を「黒体」と言う。そのため、実在する物体には、これより弱い放射しかなく、実際の物体の熱放射の理論値に対する割合を「放射率」と呼ぶ。 黒体放射の研究はエネルギー量子仮説の形で「場の量子論」を生み出した。「場」とは、物理量(例えば、光の物理量には光度カンデラ〔cd〕、輝度カンデラ毎平方メートル 〔cd/m²〕、光束ルーメン〔lm〕、照度 ルクス〔lux〕など)を持つものが、その周囲に継続的に影響を与えるか、逆にその影響を受けている状態にある空間のことである。 例えば電磁波や結晶の振動ように、空間方向と時間方向に広がる物理的作用が働いていれば、何でも場と呼ばれる。「場の量子論」は、理論物理の広い局面で基本となる分野で、素粒子理論においても物性理論においても極めて重要な領域となる。そのため、ほぼ百年前、量子力学自体が研究されると同時に「場の量子論」が始まったと言える。 現在では、「場の量子論」は、いろいろな物理現象に適用され、その理論物理の計算結果は、実験で広く正確に再現されている。それに伴い、数学のいろいろな分野で、「場の量子論」の研究をもとに、新たな方程式が築かれてきた。ただ「場の量子論」は、実験結果を再現する一連の数式や数学を提供して来たが、それを体系化する枠組みを未だ欠いているようだ。 気体・液体または固体を構成する原子・分子・イオンまたは電子は、熱平衡状態においては、その温度に対応したボルツマン分布(ステファン・ボルツマンの法則は、黒体による完全拡散放射の放射輝度および分光放射発散度は、絶対温度の4乗に比例すると説く)に従う熱エネルギーで運動をしている。この熱運動によって、荷電粒子から電磁波が放射されるが、このような放射を出す過程または出された放射のことを「熱放射radiation」と呼ぶ。 「プランクの放射法則」とは、物質と熱平衡状態の放射が出す周波数(波長)および温度の関数として、黒体から輻射される電磁波の分光放射輝度(電磁波の強度を注視するスペクトルエネルギー分布【spectral energy distribution=SED】)または分光放射発散度(エネルギー密度の波長分布)を表す法則のことである。 電波から高エネルギーガンマ線まで広い波長域までも含むSEDからは、その天体で起きている様々な物理現象を理解するための重要な手がかりが得られる。 今では、銀河の紫外-可視光-近赤外域のSEDから、その銀河を構成する膨大な星の種類や、その銀河の創生まで解析できる。 プランクは、黒体の3つの温度による、輻射される光の強度と振動数との関係を実験した。いずれの温度においても、振動数の低い光や高い光であっても、当初の輻射強度は小さいが、温度が高くなるにつれ、全輻射強度と極大振動数は大きくなる。しかも、その中間で強度が極大になる。 こうして、1900年、ドイツの物理学者マックス・プランクによって、黒体温度 T を変数とした黒体からの分光放射輝度の全波長領域が正しく導かれた。 プランクは、極大振動数を超える高い振動数領域になると、1振動モードごとに放射できる光の強度が小さくなることを測定した。プランクは、ここでエネルギー量子仮説を提唱したことになる。 この法則の導出する過程で、輻射場の振動子のエネルギーが、あるエネルギー素量(エネルギー量子)ε = hν の整数倍になっていると考えた。このエネルギーの量子仮説(量子化)がその後の量子力学の幕開けとなった。 放射のエネルギーを、振動子のエネルギーの単位として量子化した。そして、放射場と熱平衡状態にある物体の放出する電磁波を黒体放射と呼んだ。これが「プランクの黒体放射の法則」である。 この法則では、エネルギーの授受が連続的しないため、「エネルギー等分配則」が適合しない。プランクの放射式は新しい物理を含んでいたことになる。この系の熱平衡状態が連続していれば、その古典統計が成り立つが、量子力学的な不連続性が顕著となると、この法則は成立しなくなる。プランクによるエネルギー量子の導入は量子物理学の幕開けとなり、プランクの放射式は量子統計力学の最初の成功例となった。 プランクが概要を発表したのが19世紀の最後の年であり、詳細報告が20世紀の最初の年だったことは、新しい物理学の幕開けに相応しかった。 プランクは、黒体放射を多数の振動子の集まりと考えて、新たな統計物理学的議論を行った。プランクは、「既存の物理学の枠組みから正しい放射式を求めることには無理があり、新しい実験データに着目して導き出す必要がある」と判断した。プランクが1900年、最新の実験結果をから、測定結果を表すもっとも単純な経験式として、プランクの放射式を提案した。 黒体放射を多数の振動子の集まりとみなしたことは、当時としては革命的な着想であり、現在では場の量子化あるいは第二量子化と呼ばれている考え方である。プランクの放射式はそれまでのどの放射式よりも優れていた。まず観測されている全周波数領域の測定結果と一致する。このことは、実験データに基づく経験式だから当然である。 もし、振動数n で振動する光のエネルギーが、h を定数として E =hn で表される。 となれば、振動数が大きくなると、温度 T の黒体が持っているエネルギーではその振動モードを振動させるに十分なエネルギーhn が供給できなくなってしまう。その結果、それより高い振動数を持つ振動モードからは光が放射できなくなるである。 このプランクの仮定に従えば、振動子のエネルギーを本質的に決めるものは振動数であり、「振動数n の振動子が持てるエネルギーは、hn の整数倍にかぎる。」ということになる。この定数 hは、プランク定数と呼ばれる。この仮説が量子力学の世界を開いた。 プランクの法則は、黒体の放射エネルギーと波長(周波数)の関係を示したものである。物質はその温度に応じたエネルギーを電磁波の形で放射する。その放射されるエネルギーは、温度により、物質により、またその表面状態などにより変化する。一般の物質では放射率が1以下になる。したがって、黒体と同一温度の物質の分光放射エネルギー特性は、黒体の示すそれより下側 に、曲線が描かれることになる。 プランクの法則は、単位面積当たりに放出する黒体から輻射(放射)される電磁波の分光放射輝度、もしくは放射発散度(放射エネルギー)を表す。 光子の持つエネルギー(エネルギー量子)ε は振動数 ν に比例し、その比例定数がプランク定数Planck constantと定義され、量子論を特徴付ける物理定数となる。量子力学の創始者の一人であるマックス・プランクにちなんで命名された。 プランク定数は、2019年5月に定義定数となり、正確に h = 6.62607015×10−34 Js(ジュール秒)と定義された。 ε= hν また、光のエネルギー E は光子の持つエネルギーの整数倍の値のみを取るから E = n h 太陽の表面は黄色の光を放っているため、6000℃前後と推測されている。黒点が4000~4500℃と推測されるのも、オレンジに近い色をしているのが理由と言う。太陽表面で一番温度が低いのは、約4,400度の黒点、中心部は約1,500万℃と見られている。 太陽が放出する様々な波長の光を含んだ光を白色光と言う。その白色光を、ガラスでできた三角形のプリズムに通すと屈折によって様々な色に分離され、波長の比較的長い赤はあまり曲げられず、波長の比較的短い青は大きく曲げられる。これを光の分散と呼ぶ。つまり、ヒトは、太陽光から放出される波長の異なる可視光線が、一様にきているときこれを白色光と呼んでいる。色のスペクトラムspectrumをすべて同時に見ると、純粋な白色と認識される。 温度が高くなるに従って、全輻射強度と極大振動数は大きくなる。6000℃での強度分布は、ちょうど、太陽から地球に降り注ぐ光の振動数の分布に相当する。太陽の表面温度が 6000℃と言われる所以である。 プランクが取り組んだ課題は、ある温度の黒体から放射される光の波長がどの様に分布しているかを、数学的に表すことであった。当時、あらゆる問題を解析できると考えられていた古典力学・電磁気学・統計力学を使って得られる光の強度分布は、高振動数側で強度が低下するためどうしても再現できなかった。 これに対してプランクは、高い振動数ほど、1振動モード当たり放射できる光の強度が小さくなると考えた。 振動数n で振動する光のエネルギーが、h を定数として E =hn で表されると仮定すると、そのような状況が生まれる。すなわち、振動数が大きくなると、温度Tの黒体が持っているエネルギーではその振動モードを振動させるに十分なエネルギーhn が供給できなくなってしまう。その結果、高い振動数を持つ振動モードからは光が放射できなくなるであろう。この解析で、プランクは図の曲線を見事に再現することに成功した。 ここで大切なことは、式の仮定である。古典力学に従えば、振動子の持つエネルギーは、振動数に関係なく、その振幅で決まり、振動子はどのようなエネルギーの値でもとれることになる。しかし、プランクの仮定に従えば、振動子のエネルギーを本質的に決めるものは振動数であり、「振動数n の振動子が持てるエネルギーは、hn の整数倍にかぎる。」ということになる。 この定数 hは、プランク定数と呼ばれる。この仮定が量子力学の世界を開いた。 物質はその温度に応じたエネルギーを電磁波の形で放射している。放射されるエネルギーは、温度や物質により、またその表面状態などにより変化する。プランクの法則は、黒体black bodyの放射エネルギーと波長の関係を示したものである。 一般の物質では放射率が1以下になり、黒体と同一温度の物質の分光放射エネルギー特性は、図形にすれば、黒体の示すその山形曲線より下側に、曲線が描かれることになる。 光も、波としての性質をもつ電磁波である。同時に、つぶつぶの粒子のような性質も示す。光が関わる様々な現象は、「光には波としての性質がある」ことによる。波としての性質を表して電磁波 electromagnetic waveと呼ぶ。光は、同時に粒子としての性質を持つ。その光を粒子の集まりとしてとらえた時、その粒子として振舞う光を光子 photonと呼ぶ。 光とその仲間を総称して「電磁波」と言う。光とその仲間の正体は、空間を伝わる電気的な波である。電気的な波が起こると、必ず磁気的な波も同時に起こるので、そのため電磁波と呼ばれている。光とその仲間たちとの違いは、波長の違いである。波長とは、波の一番高い場所から次の山までの長さである。周波数は1秒間に現れる波の数を示す。電磁波の中で、波長が最も長いのが電波である。電磁波は、波長の長さの領域によって名前がつけられている。波長の長い方から短い方へ、電波・マイクロ波・赤外線・光(可視光)・紫外線・X線・ガンマ線の順に波長が短くなる。 太陽の光は、様々な波長の光の混合物で、赤い光が最も長く(約700nm)、最も波長が短いのが紫の光(約400nm)である。太陽から降り注ぐ光のうち、ヒトの眼に見えるのは波長がおおよそ380nmから780nmの光でこの範囲の光を私達は可視光線と呼び、可視光線が太陽から一様にきているときこれを白色光と呼んでいる。 白い光は色々な波長の光が混ざってできている。光の波長の大きさに比べて、空気中の分子の大きさは、その1/1,000程度しかない。光が分子のような光の波長よりも小さいサイズの粒子に当たった時に生じる散乱を「レイリー散乱Rayleigh scattering」と呼ぶ。レイリーは、空気中の窒素や酸素の分子に当って、光が散乱すると結論づけた。波である光は、大気中で波長よりも小さな粒や分子などに当るとそれらを振動させ、その粒や分子が波動を「中継」するかたちで改めて同じ波長の光を周囲に放出する。この現象が、レイリーが言う「光の散乱」である。 波長より大きな障害物に当たり、光の波形が変化する現象を「回折」と呼ぶ。光は波の性質を持つ。平行に進む水の波紋が、より大きな障害物に当ると、よく見ると、波紋が障害物の背後に回り込んでいく現象が見られる。光の波でも、同じこの「回折」現象が見られる。しかも、光は波長が長くなるほど屈折せずに直進する性質がある。赤外線は、可視光線の赤色より波長が長く(周波数が低い)、マイクロ波や短波・長波などの.電波より波長の短い電磁波であるが、その波長の長い赤外線はもとより、赤外線の中でも波長の長い遠赤外線が顕著な例となる。 「レイリー散乱」での散乱光の強さは波長の4乗に反比例する。赤色光の波長は、青色光の波長より約2倍なので、散乱は約1/16と少ない。一方、周波数が高く波長が短い青色光ほど強く散乱されるため、空が青く見える。 「ものが見える」と言うことは、ものに当たって散乱された光が目に飛び込んでくるからである。人が日中、明るい空を見上げると、太陽の紫色光や青色光が、大空に強く散乱されて四方八方から人の目に飛び込んでくる。赤色光は、散乱されにくいので人の目に直接入射してくるだけであるため認識できない。また人の目には、紫色光よりも青色光に対する感度の方が高い。そのため日中の青天を、空の色と思う。 夕焼けや朝焼けは、太陽と観測者の間に大気の存在する距離が日中と比べて長くなり、散乱されにくい赤色光は長い距離を飛んでも、ある程度は残っている。その残った赤色光だけが空気中の分子や塵、水蒸気などにより散乱されため夕焼けの空は赤く見える。 虹を作る水滴は、光の波長(波長範囲の下限は360-400 nm、上限は760-830 nm,1 nm = 1×10-9m)よりずっと大きい粒子であるため、散乱光の強さは、どの光の波長でもほぼ変わらない。こうした散乱を「ミーMie散乱」と呼ぶ。数〜数10µm(1μ【micro】=1μm=10-6m) の粒子は、光の波長より充分大きいため、光が粒子に当っても波長依存性が低下し、可視領域の散乱光は、ほぼ同程度の強度で散乱するため白く見える。これが霧や雲やスモックが白く見える現象として現れる。 このミー散乱の原理は、多くの場合、物体の大きさが数μ程度から100μ程度であれば有効であれば、大気中の水滴の解析のほか、媒質中の粒子などに対しての「散乱の解析」に利用される。 また海が青く見えるのは、青天の空を映しているからである。海の中は、光の散乱の効果よりも、水が赤色の光を吸収する方がかなり多いからである。赤い光が白い珊瑚礁の海底に届くと反射して海面に出てきて海は赤く見えるでしょうか。海底が珊瑚礁のように白ければ、白は全ての波長の光を反射する。 脂肪分の多い生クリームは、脂肪球のミー散乱により白く見え、無脂肪牛乳はレイリー散乱により、青みがかっているが、白は全ての波長の光を反射する多重散乱であるから白く見える。 宇宙空間や月面は殆ど真空なので、散乱を引き起こす微粒子は存在せず、太陽光の散乱は生じない。月面の上空も太陽光は通過するが、散乱されないため、月面の宇宙飛行士からは、真昼であっても真っ暗にしか見えない。 大海原の大量の水は、ヒトの眼には青く映える。その主な原因は水の光の吸収によるもので、ヒトが目にする水の青は、一般的には複数の光学現象(水の光の吸収・水面の反射能・浮遊微粒子の散乱による乱反射)が重なり生み出されている。そのため水の中へ光がどのように進入しどのように放出する.かによって、また海自体それぞれの諸環境を反映し異なる青色となる。 可視光領域における水の消衰係数κは非常に小さな値であるが、青い光の領域のκ値に比べて、赤い光の領域のκ 値は一桁以上大きい。つまり、水は赤い光をより多く吸収する。 水中分光放射照度計を用いて、波長別の放射量を測定すると、深さに比例して各波長ともエネルギーを減衰していき、各波長別で比較すると、500~600nm(黄~緑)の減衰状況と比べて、短波長と長波長の両領域での減衰が著しい。通常では、475nmの青い光付近の透過率が最も高くなる。 水の中を透過する光路長が長くなるに従い、赤い光が吸収され青い光が維持され透過光が青くなる。例えば、内面が白く塗られたプールの水が薄青く見えるのは、赤い光がより強く吸収され、残された青色の透過光が白い面に反射されてヒトの眼に届くからである。 大海原では、単に透過光の赤い光がより多く吸収されるだけで、青色をした透過光が私たちの眼に届くことはない。青色の透過光も次第に吸収されながら海底に進むが、深い海の底に到達する前に青色光も吸収され消失する。深海にまで光は届かない。 光が海に入射した後、水の吸収によって青くなった透過光が水中を進み、水中のチリや微生物など浮遊微粒子の散乱とその乱反射によって青い光が拡散され、海原を眺める眼に青い光が届けられる。この散乱・乱反射によって青い光が眼に届く現象は、主に海面から数10mまでの浅い層で起こる。それ以上深い層で青い光の散乱・乱反射が起こっても、海面へ放出するまでに吸収され減衰する。 こうした水の吸収と散乱・乱反射による光の拡散は、氷河の中でも起こる。氷河が「グレイシャーブルーGlacier Blueと呼ばれる神秘的な青色光の輝きは、長い歳月、圧縮された氷の透明度が極めて高くなり、その青色は光の入射加減で表情を変える。フランス語の氷、Glaceが語源。 海の中が青いのは、赤い光が海の水に吸収され、水に吸収されない青い光だけが届いているからである。最近、水の分子が赤い光を吸収することが分かってきた。無色透明な水の中に、太陽の光を数m位通すと、赤色の光は殆ど吸収され、そのため全体的に青っぽい色になる。その残った青色光が、水中の微粒子やプランクトンなどの微小物質に散乱され「海の色は青い」と見られる。 海の水が青く見えるのは、空の青が写っているからでもある。海に潜って見た海の水が青いのとは、別の理由で、それは状況により異なるが、正確には海面からの青天の光の反射と海中の青い光が海底や浮遊物に反射して海面に出てきた光と合わさったものと言える。海面からの光の反射の方が強いので、海の状況によらず青空の反射が海の青さの大きな理由と考えられている。 水面の光の反射は角度に依存するが、結構強い。波の立った海では、夕日が水面に乱反射して、波長が短くなり金色に輝くことがある。その波長は、オレンジや山吹色などと同じくらいだと考えられる。 地球は、水蒸気や雲の存在する大気や海洋水に覆われている。赤外線Infrared rays=IR(英語では infrared 、「赤より下にある」を意味する。infra は「下」を意味する接頭辞))は、物質に吸収されると分子の熱運動を引き起こし、物質の温度を上昇させることから、「熱線」とも呼ばれる。赤外線は、一般に0.75~200µmの波長範囲を持つ電磁波の一種で、可視光より長い波長を持つ。 すべての物質は、その絶対温度の4乗に比例した赤外線が放射されている(赤外放射)。大気の大量の H2O 分子は、太陽からの赤外線を吸収して高い振動状態になる。つまり、振動のエネルギーが、分子同士の衝突によって、運動エネルギーに変換される。これにより上空の水が、より高温になることで、地球温暖化に繋がる。大気中の水蒸気は自然界にもともと多量に存在する温暖化ガスである。 実は、地上から上空の気温をみると、地上の方が気温が高く、高度による気温の逓減率は地域的・時間的に著しく変化に富んでいる。 一般に山や建物のような地球表面の物体の影響を直接受けない高層の大気(自由大気)より若干小さい0.5〜0.6℃/100mとなると言われている。 しかし、地表面から天空に向けて放射される赤外線(地球放射)が地表面の熱を奪うことにより、地表面付近の温度が低下すると、地上と上空との温度差が小さくなる。さらに、地表面付近の温度が低下すると、上空の気温の方が高くなる「気温の逆転」が生じる。このようになると上下方向の対流がおこらず、地上付近で発生した汚染物質は拡散しにくくなって滞留し、濃度が高くなることがある。このように、地表面からの放射は、大気汚染物質の「拡散のしやすさ」を表す指標である「大気安定度」を左右する要因の一つとなる。 人は、目の中の網膜で光を検出して脳に伝える。その際、この高い振動数を、そのまま直接振動として感じているわけではなく、振動数に応じた刺激を脳が学習して、振動数の違いを色の違いとして認識している。網膜の奥に杆体と錐体という細胞があり、この錐体が可視光線の波長に反応することで、目に入ってきた光を色として認識している。例えば、赤色光は450兆回位、緑色光は550兆回位、青色光は700兆回位の振動をしている。 目の網膜の最外層にある円錐状の視細胞・錐体は、昼行性の動物の網膜に多く、昼間視および色覚にかかわっている。多くの動物の網膜には感受波長の異なる数種の錐体があり、主に3種類 (S、M、L 錐体) に分類されているが、それぞれの錐体の分光吸収特性が異なっており、L錐体は長波長566 nm付近の光(赤)、M錐体は中波長541 nm付近の光(緑)、S錐体は短波長441 nm付近の光(青)をピークにする感度で反応する視物質(オプシン opsin)をもっている。それぞれの発現している情報の違いを統合することで色覚が生じる。 可視光線はヒトの場合は380nmから780nmの範囲とされていて、380nmよりも短い波長は紫外線、780nmよりも長い波長は赤外線と呼ばれている。つまり波長が短いほど紫がかった色に感じ、波長が長いほど赤みが強く感じられる。 可視光の色を、振動数の低い順に並べると、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫となる。 多くの鳥類や猿は、人の目に近い範囲で錐体が反応するとされている。蝶はヒトに見えない紫外線の領域を感じ取ることができるが、ヒトに見えているオレンジから赤にかけては認識されていない。 ヒトの錐体が色を判断する光は、3種類に分けることができる。1つが「放射」、これは物質の熱量が変化して生じる。燃焼によって発生する光や、太陽光や蛍光灯などの光源からくる光もこの放射光にふくまれる。 2つ目が「吸収・反射」で、光源から発生した光が物質に当たり一定の波長が吸収され、残りの波長が跳ね返された結果としてヒトの目に届く光である。リンゴが赤く見えるのは紫から緑にかけての波長をリンゴの皮が吸収し、赤く感じられる長い波長を跳ね返すためである。紙に印刷したものが見えるというのは、光源からの光を紙とインキが反射し、ヒトの目に届くからである。 3つ目は「透過」で、水や空気、フィルムのように透明や半透明の物質の中を光が通過して目に届く光を指す。この場合も通過する過程で物質に特定の波長が吸収され、残った波長がヒトの目に届いて色として感じている。 液晶ディスプレイの画面はいくつもの小さな部屋から形成されている。一つひとつの部屋は液晶と、特定の方向からきた光だけを通す偏光板から作られている。液晶には、電気を流すとそ の分子の並ぶ向きを変える性質がある。それぞれの部屋の電気のスイッチを切ったり 入れたりすると、部屋の中の液晶分子の向きが変化する。この動きにより画面の背後から当てられた光の角度が調節され、偏光板を通過する光の量を調整し、画面上の明暗を制御する。さらにカラー液晶画面では、部屋ごとに赤・青・緑いずれかのカラーフィルターがついていて、色のカラーフィルターの部屋の明暗を組み合わせることで、多彩な色彩を構成し映し出す。 目次へ |
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3)光 イングランドの自然哲学者アイザック・ニュートン Isaac Newton(1642年 - 1727年)の没後から約300年、今もニュートン力学は、身の回りの動きや、医療・宇宙開発にわたる、あらゆる事象の説明には欠かせない理論である。 ニュートン力学は、運動に関する基本的な運動3法則、即ち、 ①「慣性の法則」(第一法則、静止あるいは等速度運動中の物体は、外力が加わらないかぎりその状態を続ける) ②「運動方程式」(第二法則、運動の変化、つまり物体の加速度は加わる力の大きさに比例し、物体の質量に反比例する) ③「作用反作用の法則」(第三法則、物体が他の物体に力を及ぼすとき、二つの物体が相互に及ぼす力の大きさは等しく、方向は反対である) で知られている。 (ニュートンの運動方程式は、ニュートンが1687年に出版した著書「プリンピキア【自然哲学の数学的諸原理】」の中心をなす。数学的には微分方程式である。天体や地球上の自然現象が、①数式に従って秩序をもって運動し、②その運動の予測が可能となった。 運動の第二法則は、質点を前提に示す方程式である。質点とは、全質量が1点に集まった状態を示す仮想の点を言う。それにより説明が簡単明瞭となる。 このような質量 m の物体に f (質点にかかる力)が作用したときの物体の加速度を a とするとき、 a=(ax,ay,az) ,f=(fx,fy,fz) を条件にすれば、運動方程式は ma=f ,max=fx,may=fy ,maz=fzとなる。 同じ力を加える場合、質量が大きい物体はあまり加速しない。加速度 a は質量 m [kg] に反比例する。a ∝ f/m この定式化は、周知のように f = m a (mは物体の質量、fは加えられた力、a は生じた加速度)という形を示す。 アリストテレス(BC384年-BC322年)の物理学では、球形の地球は宇宙の中心に静止しており【【天動説】 、そのまわりを惑星が回る同心球の天球が完全な円運動を行なうと記している。アリストテレスの自然哲学では、「重いものほど早く落下する」と見ていた。それでも、ルネッサンスに至るまでヨーロッパとイスラムの宇宙観に大きな影響を及ぼした。アリストテレスの「物理」と題された著作で、力による強制運動は圧力【押す力】 に由来し、その圧力が尽きた時に運動は止まるとして、P = W V と至ってシンプルな式で示した。 ただ、シモン・ステヴィンSimon Stevin【1548年-1620年】は、フランドル【現:ベルギー】の数学者であり物理学者である。加えて、ヨーロッパで初めて小数を提唱した。そのステヴィンが行った実験で、重さが10倍と異なる2つの物体を落下させたが殆ど同時に落下する実験結果が得られた。 ニュートンは、外力が運動、つまり速さを生むのでなく、運動の変化、つまり加速度を生じさせると考えている。この新しいニュートンの運動法則を土台にして、近代物理学や自然科学全体を律する新たな自然観が誕生した。 加速度と速度・位置ベクトルとの関係 a➔= d➔v /d t = d2r➔ / dt2 が、力学における基本式 ( t は時刻) 物体の速度 v や位置 r を求め ることが、微分方程式による重要な積分計算となる。 力学では、質量の単位として kg、加速度の単位として m/s 2(メートル毎秒毎秒)が 標準的に用いられる。 1メートル毎秒毎秒は、1秒間に1メートル毎秒 (m/s) の加速度と定義されている。つまり、1ニュートンは、質量1kgの物体に「1メートル毎秒毎秒」の加速度を加える力と言うことになる。 加速度は速度の変化率のことである。上記の式は運動の第2法則の最も単純な形ということになる。 また、質量 1kg の質点に 1m/s2 の大きさの加速度を生じさせる力の大きさは、ニュートン Newtonにちなみ1N(ニュートン)と呼ばれている。 1N = 1kg · m/s2 である。) 物体は外から力が働かない限り、今ある運動状態を続けようとする性質、慣性を持っている。外部から力が働かない限り、静止している物体は静止を続け、運動している物体は等速運動を続ける。これを慣性の法則と言う。 宇宙船を月や火星に着陸させるのに成功させ、天体の運行を正確に予測できるのは、ニュートンの運動の法則が物体の運動を正確に方程式で示すからである。しかし、ニュートンの運動の法則には適用限界がある。すなわち、光の速さに近い高速で運動する物体の運動や粒子の記述では、ニュートンの運動の法則は変更される。対象とする系も違えば、計算や実験 の手法も大きく異なる。 科学史上最高の実験家、イギリスのマイケル・ファラデーMichael Faraday(1791年-1867年)は、離れている物体の相互間で直接的な力が作用しているとニュートンが説くが、空間のいたる所に何らかの「実体」が存在し、その「実体」が電気や磁気を帯びた物体から影響され、その「実体」が同時に電気や磁気を帯びた物体に影響を及ぼしていると、その「相関関係」を示した。この「実体」こそが、今日で言う「場」である。 ファラデーは、「場」には、限りなく細い線の束のようなものが、空間を巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされていると想定していた。ファラデーは、それを「力線」と呼んだ。この線こそが電気の力や磁気の力を生み出していると考えた。 電気を帯びた物体は、自身の周りに広がる電場や磁場をゆがめると同時に「場」は力を生み出し、電気や磁気を帯びっている近くの物体に力を加える。「場」は、その中にある「物体」と相互作用を与え合っている。2つの物体が離れた場所にあって、そのいずれもが電気や磁気を帯びていれば、それぞれの間にある力線が媒介して「力」を伝え合っていく。2つの物体自体が直接、引力や斥力を働かせることはない。 ファラデーは、懐疑と熟慮の末、時間の流れとともに空間を移動する粒子だけが世界を構成しているわけではないとして、新たな実体の発見となる「場」の存在をためらいとともに提示した。 科学史上、最も影響を及ぼした科学者の1人とされるファラデーが、「科学の根幹にかかわる問題と相対した時」、2世紀にわたり必須条件であったニュートン力学の世界が修正されることに気が付いていた。 イギリス・スコットランドの理論物理学者マックスウェルJames Clerk Maxwell(1831年-1879年) は、マイケル・ファラデーの着想による電磁場理論をもとに、1864年、電場と磁場による考え方を推し進めて、電荷や電荷の動きを与えると生じる、周りの電場と磁場の状態を予言できるマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。 マックスウェルは、風のそよぎを受けた湖面のように「ファラデー力線」はさざ波を立てる、光の正体は蜘蛛の巣のように張り巡らされた「ファラデー力線」の素早い振動である、と説く。「見る」とは光の知覚であれば、振動する「ファラデー力線」の動きを見ていることになる。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、それが進行方向に、湖面のさざ波のように垂直な波の変化として伝わってゆく現象、横波であることを示した。 光が横波であるということは、既に19世紀初頭からの実験により明らかになっていた。これが、光の正体が電磁波であることの有力な証拠ともなった。 電磁気学を集大成する「マックスウェル方程式」は、無線通信や衛星通信の基本原理でもある。アンテナ・カーナビ・電気モーター・コンピュータなどで日常的に使用されている方程式である。 電流が磁場を作り出す。逆に磁場が電流を作り出せる可能であることが分かったのは、1831年の、ファラデーとアメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーJoseph Henry(1797年-1878年)の二人が独自に電磁誘導を発見したことによる。 電磁波とは電界と磁界が互いに影響し合いながら空間を光と同じ速さで伝わっていく波のことを言う。 「マックスウェル方程式」の適切な記述は、原子を一つにまとめている電気の力や、太陽の働きがいかにして地球に伝わるかなど、あらゆる事象を説明してくれる。また光とは「ファラデー力線の揺らぎにほかならない」、しかも、振動する「ファラデー力線」の波が光の速度で移動することを示していた。ファラデーとマックスウェルは、電気と磁気の仕組みを明らかにしたが、マックスウェルの微分方程式の帰結として重要なのが、電磁波の予言であった。その理論において光も電磁波の一つであり、それまで別のものだと思われていた光の現象と電気の現象が融合された。「色」とは、光を形作る電磁波の波の振動数であり、瞳の受容体は、電磁波(可視光)の様々な振動数を検出して脳に伝えている。 マックスウェルは、「ファラデー力線」が可視光より低い振動数で振動していると予見した(振動数が高い方が、エネルギーも高い)。「電波」は電界と磁界が振動しながら空間を伝播する。「無線通信」と言う表現は、電波による通信のことを言う。例えば、スマートフォンによる電波より振動数が高い赤外線通信は、無線通信とは呼ばない。 自身の方程式を根拠にしたこの電磁波の実在は、数年後、ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツの実験により示された。ヘルツは、マクスウェルの方程式を理論的に検証している。その方程式は、非常に難解で、研究者であっても理解しにくい高度な数学を使っていた。それをわかりやすく整理したのがヘルツであり、それもヘルツの功績に数えられている。 ヘルツ以降に「電波」による無線通信が花開いた。ヘルツ自身には、電磁波が無線通信に役立つという発想はなかったようだ。当時はまだノーベル賞がなかっ時代、1890年、イギリス王立協会より熱と光のすぐれた研究に与えるランフォード・メダルを与えられている。これはノーベル賞にも匹敵する権威ある賞であった。 光と物質の相互作用は、量子情報処理や高精度測定だけでなく、癌の光線力学的治療(Photodynamic Therapy,PDT)では、レーザー照射による癌の増殖と浸潤を抑制し、癌細胞を減弱させたり死滅させる抗腫瘍効果が実証されている。YAG-OPO(光パラメトリック発振器)では、腫瘍内温度変化を経時的に計測し、レーザー照射による治療を行なっている。 (レーザーlaserとは、“誘導放射Stimulated Emissionによる光の増幅Light Amplification”「Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation」の各単語の頭文字をLASERの語源とした。 原子(分子)は外部からエネルギーを吸収すると、下準位(低いエネルギー状態)から、上準位(高いエネルギー状態)に移る。この状態を励起状態と呼ぶ。 この励起状態は不安定な状態であるため、すぐに低いエネルギー状態に戻ろうとする。これを遷移と言う。 このときにエネルギー差に相当する光を放出radiateする。この現象を自然放射と言う。放射された光は、同じ様に励起状態にある他の原子に衝突して、同様の遷移を誘発する。この誘導されて放射される光を誘導放射と言う。 「レーザー装置」は、その放射光を増幅light amplificationして、その特性を変えることなく大きな出力エネルギーとして送り出す。そのレーザー光は指向性や収束性に優れており、殆ど広がることなくまっすぐに進む。そのため電磁波の波長を一定に保つため、レーザーは1つの色で出来ている。これを単色性と言う) 真空中を伝わる光(電磁波)の速さは常に一定で、 その速さを光速 c と呼ぶ。 つまり光の波長と振動数の積は常に一定なので、波長と振動数はお互いに反比例する。 光速c(celeritas;秒速)=波長λ(ラムダ)×振動数ν(ニユー)= Constant 光子のエネルギーはその振動数によって決まる。波長が長いほど、振動数は低くなりエネルギーも低くなる。光子のエネルギー E (energy) は振動数νに比例し、波長λに反比例する。その比例定数をプランク定数 h といい、プランク定数 h = 6.63×10-34 J/s E=hν=h×c/λ (c=λ×ν) 光を「波」と捉えるだけでは、そのエネルギーは遠ざかるほどに弱まってしまう。光を光子と言う粒子と考えれば、光子1個のエネルギーは、光の振動数に比例し波長と反比例して決まるため、振動数が多きくなるほど、光子1個のエネルギーも大きくなる。 光は電磁波の一種であり、波としての性質を持つことは分かっていたが、20世紀になると、波としての性質だけでは説明がつかない現象がしばしば発見された。当時、エネルギーは、滑らかに変化すると考えられていた。光は波と粒子と言う二重の性質を持っているとしか言いようのない「光の二重性」があり、それが普通の物質と区別するため「量子」と言う新たな概念を生み出した。 つまり「量子化学」は、「光の二重性」の研究を端緒にする。 従来の物理の理論では、波と粒子が1つのものの中で共存することはありえないのである。1つのものが波であれば、それが粒子となりえない。その逆も然りであった。 ところが、金属に紫外線のような光を当てると、金属の表面から電子が飛び出す。これは「光電効果photoelectric effect)」と呼ばれる現象で19世紀の終わりごろから知られていた。 金属の中の電子は原子核の引力で拘束され、普通は外へ出てこられない。それが外部から光を当てると、金属の表面から電子が飛び出す。様々な実験をしてみると、金属から電子が飛び出すのは、紫外線のような波長の短い光だけで、赤色のようなの波長の長い光をいくら流しても電子は飛び出さない。逆に波長の短い光なら弱い光でも電子は飛び出す。 この現象を説明するために、アインシュタインは光を粒子と考えた。1905年、光を波として考えるだけでは説明できなかった「光電効果」について、「光は波長に応じたエネルギーを持つ粒である」とすれば、この説明が成り立つ。光はエネルギーの固まりとして考えを進めるのだが、そのエネルギーを持った最小単位としての粒子である光子の存在を考えた。1個の光の粒子を光子photonと呼ぶ。青色光の光子は電子を飛び出させることのできる高いエネルギーを持った光の粒子、赤色光の光はこれができない低いエネルギーの光の粒子であると考えた。アインシュタインは、光子は1秒あたりの振動数vに比例したエネルギーを持つと仮定した。波長λとは、反比例をする。 E=hν=h×c/λ (c=λ×ν) 青色光(λ=400 nm)の光子1 モルmolは約300 kJ のエネルギーを持ち、赤色光の光子1 モルのエネルギーは175 kJ に相当する。つまり、振動数が高い光子ほど、電子にあたると電子を素速く動かすことができる大きなエネルギーを持っている。 (基準に用いられている「原子量12の炭素12C」が12gあるとき、そこに含まれる炭素原子の個数を数えると6.02×1023個になる。の粒子の集団を、1molと定義し「物質量」の定義とする。 ある原子あるいは分子を6.02×1023個集めると、そのときの質量は、その物質の原子量あるいは分子量にグラムをつけた値になる。原子や分子を扱うときは、その物質の質量そのものよりも、その中に何個の原子あるいは分子が含まれるかを知ることが重要となり、これを表す量が物質量である。) 金属から電子が飛び出すに必要なエネルギーは、その金属によって異なるが、しかも必要な最小エネルギーが決まっている。それも光の粒子性によって理論的な説明が成り立つ。 「光は、波でもあり粒でもある」。このための実験が行われた。1805年ころイギリスの物理学者トーマス・ヤングThomas Young(1773年-1829年)のダブルスリットの干渉実験において、光を極端に弱くして「光が一粒しかない状態」でも、干渉縞が現れるかどうかを調べるもので、光の一粒一粒を検出する技術が使われた。 光源からは様々な位相の光が発生する。光の干渉実験をするためには、1つのスリットから同じ波長で同位相の光を発生させる必要がある。その光源からの光を平行な2つのスリットを通すと、その2つのスリットの間隔が短い時、上に干渉縞(明暗の縞模様)を生じることが、この実験で示された。 隣同士の同位相の光がぶつかって、光波(波動としての光)の山が重なり合えば、その箇所は明るくなり、光波の山と谷が打ち消し合う箇所は暗くなる。スクリーン上にはそれらが交互に現れ、縞模様ができる。これを干渉縞と言う。この実験により、光が干渉することが示され、光の波動説が証明された。この光の干渉現象を観察する実験のことを「ヤングの干渉実験Young's interference experiment」と言う。 (トーマス・ヤングは、1792年にロンドンで医学の勉強をし、翌年、20歳のとき、彼は最初の出版物を王立学会誌に提出し、この論文により、21歳という異常に若い年齢で、ヤングは王立学会のフェローに選出された。わずか2年後、再び転勤した後、23歳の1796年に、ゲッティンゲン大学から医学博士号を取得した。1801年に王立研究所の自然学の教授になり、医学の面では乱視や色の知覚などの研究をした。 視覚の研究から光学の研究にむかい、光の干渉現象を再発見して光の波動説を証明した。) アインシュタインは、1921年にノーベル物理学賞を受賞した。その理由は、「光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明」であった。その当時でも、相対性理論は難しすぎて、審査委員会が理解できなかったようだ。 こうして、アインシュタインの光量子説をもとに、その後の量子力学的な考察や実験によって光子の二重性は確認されている。そして現在では光子は、光の吸収や放出といった光と物質の相互作用が関連する分野では粒子として、光の伝播に関わる領域では波として扱われている。光子は「宇宙を構成する4つの力」のうち「電磁気力」を伝える働きをしていることがわかっている。その他の3つは「重力」「強い力」「弱い力」である。 量子学の初期に最も貢献したのが、他ならぬアインシュタインである。アインシュタインは相対論や重力論で多くの功績を残したが、1921年にノーベル賞を取ったのは「光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明」の功績であった。 1905年という年は 科学史上 「奇跡の年」 であった。 この1年間に、アインシュタイン は 3つの偉大な論文を 発表した。「特殊相対性理論」「ブラウン運動の理論」そして「光量子仮説」の提唱であった。光は電磁波の一種であり、波としての性質を持つことは分かっていたが、20世紀になると、波としての性質だけでは説明がつかない現象が発見された。 「ブラウン運動の理論」では、アインシュタインは、水分子の直径はおおよそ 3 × 10-10 m、その水分子の数は、およそ170億個【水の分子量と水の比重は、アボガドロ数で計算できる】と想像を絶する数だが、これら水分子の1つ1つは、室温では平均でおよそ 500 m/s という高速であらゆる方向に動き回っているとしている。アインシュタインは、まさに、この点を深く深く考え抜いた。そして、(ビーズのような)微少な粒子の水中での運動を観察すれば、水分子のあり様についての決定的な証拠がえられるとして1905 年のこの論文で発表した。ここでも、「手に負える部分」と「手に負えない部分」への分離がおこなわれている。 (18世紀、気体を取り扱う化学が発展してくると、気体同士の反応について、反応物,生成物の体積比が簡単な比になることが見出された。 例えば2体積の水素は1体積の酸素と反応して2体積の水(水蒸気)となる。その理由について、1811年、イタリアの化学者アボガドロAvogadroは二つの仮定から物理的に解決した。 1) 酸素や水素・窒素などは原子で存在するのではなく、二つの原子から成り立つ「分子」として存在する。 2) 同温・同体積の気体に含まれる分子の数は、気体の種類にかかわらず同じである。 【『アボガドロの法則』を言い換えると、「同温・同圧で分子の数が同じ気体は、気体の種類によらず同じ体積である」ということになる。アボガドロの死後、この仮説を元に多くの科学者が実験を重ねた結果、「標準状態において、多くの気体1 molの体積は22.4 Lになる」ことが確かめられた。】 原子・分子は極めて小さく軽い、一つひとつの質量を測定することは不可能であるから、一定の個数を1単位として捉とらえていくと便利である。 化学では原子や分子をモルmolという単位で捉える。 例えば水素2 molと酸素1 molが反応して2 molの水ができる。これを化学式で表すと下のように簡単に 2 H2 + O2 → 2 H2O 1 molの原子や分子が何グラムに対応するかは、.原子量やそれから求められる分子量にグラムの単位をつけたものになる。 炭素の原子量は12.01、すなわち、12.01 gの炭素には6.02 × 1023 個の原子が含まれる。 水素の原子量は1.008、水素分子H2の分子量は2.016になる。つまり2.016 gの水素には6.02 × 1023 個の水素分子が含まれることになる。 アボガドロ定数 Avogadro constan物質量1molに含まれる粒子(原子・分子など)の数。例えば、原子量12の炭素(12C)1molは12gであり、その中に含まれる原子の数をいう。通常、NAと表記する。現在はNA=6.02214179×1023/molという値が推奨されている。元々は、同温、同圧、同体積のすべての気体は同数の分子を含むと言うアボガドロの法則から導かれた物理定数であり、気体分子の数に関する概念であった。しかし、現在はすべての相状態に一般化された定数であり、高精度の測定方法として固体単結晶の格子定数を求める方法等が用いられている。 ) また、アインシュタインは、(有限体積の)平衡状態における熱力学的な量のゆらぎに関する重要な関係式をも示している。しかも、マクロな世界とミクロな世界を本質的に結びつける理論であった。近年では、非平衡性がきわめて強い定常状態におけるマクロな量のゆらぎのふるまいが、いくつかの数理モデルで精力的に議論されている。 金属の表面に 光を当てると荷電粒子が 飛び出す光電効果は、電磁波を発見したドイツの物理学ヘルツHeinrich Rudolf Hertz (1857年- 1894年) が、1887年、電磁波の実験中によって発見されていた。 陰極線の研究で1905年にノーベル物理学賞を受賞したドイツの物理学者フィリップ・レーナルト (1862年- 1947年) は、1900年、荷電粒子の比電荷(電荷eとその質量mとの比、e/m)を測定する際、その陰極線の電子の流れの度合いが通過する物質の密度と比例することに気づいた。つまり、質量を持つとすれば、電磁波ではない。この陰極線は負に帯電したエネルギー粒子の流れだという結論に達した。彼はこれを 「quanta of electricity(電気素量)」または単に「quanta(量子)」と名付けた。最終的には 「electron(電子)」と呼ばれるようになった。 光は波と粒子と言う「光の二重性」があり、その特有性から普通の物質と区別するため「量子」と言う新たな概念を生み出した。つまり「量子化学」は、アインシュタインの「光の二重性」の研究を端緒にする。その翌年の22年には、ボーアが「元素の周期律の理論」の業績でノーベル賞を受賞した。 光を「波」と捉えると、そのエネルギーは遠ざかるほどに弱まる。しかし、光を光子と言う粒子と考えれば、光子1個のエネルギーは、光の振動数に比例し波長と反比例して決まるため、振動数が多きくなるほど、光子1個のエネルギーも大きくなる。 従来の物理の概念では、波と粒子が1つの物質の中で両立することは考えられなかった。1つのものが波であれば、それが粒子となりえない。その逆も然りであった。 ところが、金属に紫外線のような光を当てると、金属の表面から電子が飛び出す。これは「光電効果photoelectric effect)」と呼ばれる現象で19世紀の終わり頃から知られていた。 金属の中の電子は原子核の引力で束縛されてて、普通は外へ出てこられない。それが外部から光を当てると、金属の表面から電子が飛び出す。様々な実験をしてみると、金属から電子が飛び出すのは、紫外線のような波長の短い光だけで、赤色のようなの波長の長い光をいくら流しても電子は飛び出さない。逆に波長の短い光なら弱い光でも電子は飛び出す。 レーナルトの研究によって解明が進み、電子の放出は、ある一定以上大きな振動数の光でなければ起こらず、それ以下の振動数の光をいくら当てても電子は飛び出さない。 振動数の大きい光を当てると、光電子の運動エネルギーは変わるが、飛び出す電子の数に変化はない。強い光を当てるとたくさんの電子が飛び出す。それでも、電子1個あたりの運動エネルギーに変化は無いなど、実験により証明されている。 アインシュタインは、この現象を説明するために、光を粒子と考えた。1905年、光を波として考えるだけでは説明できなかった「光電効果」について、「光は波長に応じたエネルギーを持つ粒である」と考えることで、これを説明する。光はエネルギーの固まりとして考えを進め、やがて、エネルギーを持った最小単位としての粒子である光子の存在を考えた。1個の光の粒子を光子photonと呼ぶ。青色光の光子は電子を飛び出させることのできる高いエネルギーを持った光の粒子、赤色光の光はこれができない低いエネルギーの光の粒子であると考えた。アインシュタインは、光子は1秒あたりの振動数vに比例したエネルギーを持つと仮定した。波長λとは、反比例をする。 E=hν=h×c/λ (c=λ×ν) 青色光(λ=400 nm)の光子1 モルmolは約300 kJ (J記号:jouleは、標準重力加速度の下で約 102.0g【小さなリンゴくらいの重さ】の物体を 1 メートル持ち上げる時の仕事に相当する、エネルギー・仕事・熱量・電力量の単位である。)のエネルギーを持ち、赤色光の光子1 モルのエネルギーは175 kJ に相当する。つまり、振動数が高い光子ほど、電子にあたると電子を素速く動かすことができる大きなエネルギーを持っている(基準に用いられている「質量数12の炭素12C」が12gあるとき、そこに含まれる炭素原子の個数を数えると6.02×1023個となる。この個数を、1molと定義し「物質量」の定義とする)。 金属から電子が飛び出すに必要なエネルギーは、その金属によって異なるが、それに必要な最小エネルギーが決まっている。それも光の粒子性によって理論的な説明が成り立つ。 この現象は、19世紀の物理学では説明することのできない難題であったが、1905年、アルベルト・アインシュタインが自身の論文『光の発生と変換に関する1つの発見的な見地について』で導入した光量子仮説によって、初めて論証された。なお、アインシュタインはこの業績によって、1921年にノーベル物理学賞を受賞している。 チューリッヒ連邦工科大学で学んだ後は特許庁へ就職したが、1905年には博士号取得を目指して多くの論文を執筆している。後世、この年は奇跡の年として知られる。26歳にして彼の業績のうちでも非常に重要な「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」などについてまとめあげている。 アインシュタインは光の粒子と波動の二重性を提唱し、光電効果の理論的解明によってノーベル物理学賞を受賞した。この量子力学を包括する現代物理学の基礎を築いたアルベルト・アインシュタインの著した原論文の前書きで 「私が思うに、光ルミネセンスPhotoluminescence(原子・分子・光子または電子が外部からのエネルギーを吸収して励起し、または光速に近い速度にまで加速され、そのエネルギーの一部または全部を電子や電磁放射する過程やその放電自体などを言う)や、紫外線による陰極線の生成(光電効果による電子放出の方向)、箱の内部から発生する電磁放射線(マックス・プランクは、光は連続的にエネルギーを持てるものではなく、【光のエネルギーはとびとびの値を持つ】というエネルギー量子仮説を発表し、光を量子と言う。それは、それまでの常識を覆す論証であった。1918 年にノーベル賞を受賞している。)など、光の生成と変換にかかわる現象の観測結果は、光のエネルギーが空間内に不連続に散らばっていると考えた方が理解しやすいのでは‥‥。ここでは、光線のエネルギーが、空間の中に連続的に配分されているのではなく、空間の中にとびとびに存在する有限個の【エネルギー量子】を構成し、それ以上分かれることなく運動し、それぞれの集まりとして生産されたり、吸収されたりしているのでなないかと仮説的に考察する」と、これまでの個々の斬新な物理学上の成果が「場の量子論」や「量子力学」など20世紀の量子学の扉を開く契機となる論説を述べている。 その後の「理論物理学」で重なる画期的な新発見を誘発し、それに伴い量子力学の「実験物理」の分野を革新的に進化させた。 (物体は温度が上昇するほど波長の短い光を多数放出するようになる。このため、3,000K で赤い色だった放射は、7,000K では青みを帯びてくる。これは、熱によって分子の振動が激しくなるとエネルギーの大きな波長の短い光子を放出する割合が増加するためである。一番多く放出される光の振動数は、プランクの仮説によりエネルギーに比例するため、一番多く放出される光の振動数は絶対温度に比例することになる。光の振動数と波長とは反比例するので、絶対温度が2倍になると放出される中心的な光の波長は2分の1となる。) これを光量子説といい、量子力学の元となる考え方になった。この粒子1個のことを光子と呼ぶ。この考えから光の強さは光子の数に比例すると言える。量子力学Quantum Mechanicsとは古典力学に対する言葉である。簡単にいうと、世の中のすべては粒子であり、同時に波動でもあるという。その理論の先駆けとなったのは、1905年のアインシュタインの論文であった。アインシュタインは量子力学を嫌ったが、その量子力学興隆の発端となったのは、アインシュタインの「光量子仮説」からであった。これは、光がその振動数に比例するエネルギーを持つ一個一個の粒子から成るという仮説である。これによって、「光電効果」という物理現象を明確に説明した。これが量子化学の先駆けとなる。 ノーベル物理学 アインシュタインの初期の論文はすべて熱力学や統計力学に関するもので、1905 年に提出された博士論文「ブラウン運動の理論」の表題も「「静止液体中に懸濁した微粒子の熱の分子運動論から要求される運動について」であった。 オーストリアの物理学者エルンスト・マッハ(1838年-1916年)が、ニュートンの絶対空間・絶対時間の概念を批判して、それがアインシュタインに影響を与え相対性理論を作り上げる切っ掛けとなったとするが、その一方では、マッハは、形而上学的概念を排するべきだという観点から、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判していた。また、マッハ自身、アインシュタインの相対論を受け入れず批判はするが、その論理的矛盾を具体的に何も指摘できていなかった。 20世紀初頭における物理学の大変革、相対性理論や量子力学の登場と普及は、他の物理学者には少なからず受け入れられず、各地でそれらに反発する声が起こった。特に、ドイツの物理学者ヨハネス・シュタルクJohannes Stark(1874 年-1957年)とハンガリー生まれのドイツの物理学者フィリップ・レーナルトPhilipp Lenard(1862 年-1947年)など、ふたりのノーベル物理学賞受賞者(レーナルトは1905年、シュタルクは1919年にノーベル物理学を受賞)による相対性理論への誹謗が目立った。彼らはナチズムを熱烈に支持し、学者でありながら反ユダヤ思想に迎合し「ユダヤ人物理学たる相対性理論」と評し、その反感は愚劣であった。レーナルトは、アドルフ・ヒトラーの科学顧問として、ナチスのドイツ物理学部門の代表に就任している。 興味深いのは、レーナルトが、1893年に、陰極線の性質を明らかにした「レーナルトの窓」を考案し、それがノーベル物理学賞を受賞する理由であったことだ。レーナルトは、光電効果を初めて実験で実証した。陰極から放出される電子のエネルギー(速度)は、波長のみに依存し、入射光の強度には依存しないことを発見し、その陰極線が負に帯電したエネルギー粒子の流れだという結論に達した。彼はこれを 「quanta of electricity」、または「quanta(量子)」と名付けた。最終的には 「electron(電子)」と呼ばれた。また、レーナルトは、電子が原子を構成し、しかも原子の大部分は何もない空間から成り立っていると卓説を記していた。 第二次世界大戦、レーナルトは、1945年に連合国に占領されると、その職を追われた。シュタルクは、1947年に非ナチ化法廷により4年の禁固刑に処せられた。 当初は、殆どの物理学者は、アインシュタインの論文を「若気の至り」として黙殺したが、「相対性理論」については、誰もが称賛した。 ただ光子の存在を真剣にとらえようとする人はいなかった。当時の物理学では、光は電磁波の波とみていた。アインシュタインがベルリンで教授職に就任できるよう、当時の権威ある物理学者たちが、ドイツ政府宛てに提出した推薦状には、この若者は極めて優秀であるから、光子の着想の件は大目に見て欲しいと記した。 アインシュタインはチューリヒ工科大学の助教授を経て、1911年にチェコのプラハ大学の教授になる。この年に『一般相対性理論』の最初の論文を発表し、しかも世界の一流研究者が集うソルベー会議(物理学および化学に関する国際会議)にも招かれている。 ベルギーの工業化学者E・ソルベーは、量子論が提起した物理学上の基本論理に関心をもち、問題解決に真に寄与しうるとして国際会議を提唱した。その提唱に基づき、1911年、ブリュッセルに、アインシュタイン、M・キュリー、ランジュバン、ラザフォードらの国際的に著名な物理学者が招待された。そこで「輻射理論と量子」をテーマに報告し、討論しあった。 光は電磁波であり、同時に一群の光子Photonであり、素粒子の一つである。光を含む全ての電磁波は、光量子light quantumである。 1912年に母校チューリヒ工科大学の教授となり、翌年にはプロイセン科学アカデミー会員に選ばれ、ドイツ国籍を授与された。実は、アインシュタインは1896年1月、父の許可を得て、ドイツ帝国の兵役義務から逃れるため、ドイツ市民権を放棄していた。その後にスイス国籍を取得するまで無国籍であった。 1915年に『一般相対性理論』を完成させる。1921年度のノーベル物理学賞を受賞した。 アインシュタインは、原子の実在性を証明するために情熱を傾けていた。「わが研究のあと」によると 「··· ボルツマンとギブスの既に発表されていた研究に通じていなかったので、私は統計力学とそれにもとづく分子運動論的な熱力学を展開した。私の主目的は、一定の有限な大きさの原子の存在を論証する事実を発見することであった。ブラウン運動の観測が古くから有名であったのを知らずに、私は原子論的理論から、微視的粒子の運動を観測できることを発見した。」 一方、物質については、フランスの物理学者ルイ・ドゥ・ブロイLouis de Broglie (1892-1987)が「物質波仮説」を提唱した。ドゥ・ブロイは「もともと波と考えられていた光が実は粒子でもあったのだから、逆に粒子と見なされている電子が波であってもいいのではないか」という当時は突拍子もない着想を得て、「物質波」という概念を提唱する。やがて、非常に小さなスケールで見ると、物質粒子でさえも波動性を示すという実験結果が得られた。その波動性(波長)が、実はその物質の粒子の運動量(質量×運動速度)によって決定されるということが分かった。 物体の運動は、物体の速度が大きいほど、また、物体の質量が大きいほど激しい。よって、物体の運動の激しさを表すとき、速度と質量を掛け合わせた量を用いる。この量を運動量と言う。 物体の運動量を → p 、質量を m [kg] 、速度を → v [m/s] 、速度の向きが運動量の向きであると定義すると → p = m×→ v (運動量の単位は [kg⋅m/s]) 光量子仮説にはX線(紫外線より波長が短く、γ線より長い)を物質に当てると散乱しますが、散乱X線の中には入射X線より波長の長いものが含まれる。この現象をコンプトン効果Compton effectと呼ぶ。X線が純粋な波動であれば、入射X線と散乱X線の波長は同じになるはずが、そうならないのはX線の粒子性により、衝突後のX線のエネルギーが減る、つまり振動数が小さくなるためと考えられた。 アメリカの物理学者アーサー・コンプトンArthur Holly Compton(1892年-1962年)は、X線が光子という粒子であるため、運動の前後でエネルギー保存の法則と運動量保存の法則が成り立つと考えた。X線が純粋な波動であれば入射X線と散乱X線の波長は同じになるはずが、そうでないのはX線が粒子性を持ち、衝突後のX線のエネルギーが減る(=振動数が小さくなる=波長が大きくなる)ためと考えた。「コンプトン効果」で波動であるはずの光に粒子性があることを説明したが、ド・ブロイはこれとは逆に粒子に波動性があるのではないかと考えた。 光子の運動量は ρ = h /λ であり、あらゆる粒子においてもこの式は成り立つ。 上式から λ = h /ρ であり、ρ =mν を代入すると λ = h /mνであり、 このときの波を物質波あるいはド・ブロイ波と言う。特に電子の場合、電子波と呼ぶ。 ドゥ・ブロイの仮説は4年後の1927年、電子による回折現象(電子波が結晶の後ろに回り込んで伝播する現象)の発見によって実験的に証明され、さらにこの性質はあらゆる物質に適用できることも判明した。1929年のノーベル物理学賞を受賞した。 この波は電子以外にも陽子や中性子にもみられた。理論的には運動する物体すべてにみられる。 この突拍子もない理論が量子力学へとつながっていった。 つまり、「宇宙にあるすべてのものは波であり、粒子である」という前提に立つ。 ここで、光子1個あたりのエネルギーEを、 プランク定数(h=6.63×10−34[J・s])×振動数f で表し、E=h f と記される。 つまり、エネルギーは光子1個の振動数に比例して大きくなる。 ここに、光子1個の波の速さC=振動数f×波長λより f=C/λ を代入すると、E = h f = h C/λ となる。 光速c(ラテン語で速さを意味する celeritas にも由来するものである)=波長λ(ラムダ)×振動数ν(ニユー) (完全な真空中では、「光子」は、秒速29万9792km。特殊相対性理論の「光速度不変の原理」では「光の速度 c は、光源の運動の状態に関わらず常に一定値である」) E=hν=h×c/λ (c=λ×ν) (光子のエネルギー E (energy) は振動数νに比例し、波長λに反比例する。その比例定数をプランク定数 h といい、プランク定数 h = 6.63×10-34 J/s) どんな粒子でも、エネルギーを与えれば与えるほど、振動数が増え、その量子的な波長が短くなる。光の速度に近づくほどの運動するエネルギーを倍増させれば、その素粒子の量子的な波長は半分になる。つまり、素粒子に大量のエネルギーを与えれば与えるほど、量子的な波長は短くなるため、素粒子をどんどん加速させ高エネルギー状態にすれば、どんどん微細な道具に仕立てることができるようになる。これが現代の大掛かりな顕微鏡microscopeや粒子加速器cyclotronの原理的な基礎になる。そのため素粒子を探索の道具にするために、光子に大きなエネルギーを与える必要があるため、その装置は一段と巨大化する。 デンマークの理論物理学者ボーアAage Niels Bohr(1885年-1962年)は、プランクとアインシュタインが導いた光のエネルギーに関する式 Ε= n hν (光子のエネルギー Eは振動数νに比例する。その比例定数をプランク定数 h といい、プランク定数 h = 6.63×10-34 J/s、「n」は定常状態にある「量子数」で、波長の整数倍である) に注目して、光のエネルギーがとびとびに決まるなら、電子のエネルギーもとびとびに決まっている考えた。 こうして、1913年3 月には、この年発表される三部作の最初の論文が完成した。ラザフォードの原子模型とプランクの量子仮説とを組合せ、水素原子のスペクトルの説明に成功した (ボーアの原子理論) 。 その後、「元素の周期律の理論」で予測されていた新元素が、ボーアの研究所で発見され、ハフニウムと命名されている。ボーアは、後に、原子力爆弾も作れる「原子核の液滴模型」を生み出した。1940年、母国がドイツ軍に占領され、一家でスウェーデンに逃れた。その後息子の A.N.ボーアとともにイギリスやアメリカで原子爆弾開発に協力した。 アインシュタインの有名な仕事は相対論や重力論だが、1921年にノーベル賞を取ったのは「光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明」に対してであり、その翌年の22年に10月、日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船し、11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している。 また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。. 受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。 ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々の自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。 光電効果により、物質に光を照射した際に、電子が放出され(陰極線の向き)、その反対の方向へ電流が流れる現象が生じる。この陰極線の流れからデジタルカメラや太陽光発電の動作原理として広く利用されている。 目次へ |
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4)電子論 原子を構成する物質はどれも量子すなわち小さな粒々と考えられていた20世紀初め、原子の構造の実態が解明され始めてきた。 1911年、ニュージーランド出身、イギリスで活躍した物理学者・化学者ラザフォードErnest Rutherford(1871年-1937年)によって原子には正に帯電した原子核が存在していることが明らかになり、その後、原子のモデルとして、原子核の周りを電子が円運動している状態、その有核原子模型を提唱し原子の基本構造を示した。ハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンとともにα線の散乱実験を行い原子核を発見。この実験結果に基づいてラザフォードの原子模型を発表。 1919年ラザフォードは、窒素原子核にアルファ線(+ 2の電荷を持つヘリウムの原子核)を当てると窒素の原子核の破壊が起こり、陽子が放出されることを確認した(α線の散乱実験)。このラザフォード散乱による原子核の発見は、最初の人工的に原子核を破壊する実験による成果であった。その後も軽い元素であるホウ素・窒素・フッ素・ネオン・ナトリウム・マグネシウム・アルミニウム・ケイ素・リン・硫黄・塩素についても、アルファ線を放射すると陽子が放出されることが確認された。まさに実験物理学の成果であり、やがて理論物理学を超える実証実験が数々の先見性を示し、それを応用する先端技術が即座に実用技術の革新を加速させる契機となった。カラー 1908年から1913年まで、マンチェスター大学の物理学研究室で、ラザフォードの指導の下で、ハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンによってα 粒子を金属箔に当てたときの散乱は、「入射したα 粒子の大多数は そのまま直進し、 散乱を起こさない」、「ごくわずかであるが、 たまに 90°を越え 180°に近くなるような 大角度の散乱が起きる」、「散乱の大きさ (散乱の起きる確率) はターゲットの 金属箔の原子量が 大きいほど大きい」など後方散乱まで観測された。 ラザフォード は、α 粒子散乱の実験結果を うまく説明できるかどうか研究し、ラザフォード散乱の公式 を導き、その結果が実験による散乱の角度分布の詳細データと符合するか解析することによって、1914年、ラザフォードは有核原子模型を提唱した。原子核の人工変換などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれる。ラザフォード散乱は、 量子力学に基づいて 解析しても、 ラザフォードが求めた ものと全く同じ 結果が得られた。 また、「放射性元素の原子核が、自然に粒子や電磁波を放出して、他の原子核に変わるα崩壊・β崩壊・γ崩壊などの現象や放射性物質の性質に関する研究」により、1908年には、ノーベル化学賞を受賞していた。 ニールス・ボ-アNiels Bohrは、放射能実験の技法を身につけることを願い、原子核を発見したばかりのラザフォードのいるマンチェスター大学に移ることを決意した。ボーアは実験を始めて、2, 3 週間経つと、マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家ラザフォードの下で、実験を続けても成果が上がらないと思うと告げると、自宅に籠り理論物理学の研究に没頭した。 ボーアのマンチェスター滞在は短いものであったが、ラザフォード研究室の研究員であったゲオルグ・フォン・ヘヴェシー(1943 年にノーベル化学賞受賞)とチャールズ・ゴルトン・ダーウィン(進化論のダーウィンの孫)との交流から新しい物理学を学び、その知識がその後の大発見に繋がった。 ボーアは、大理論物理学者であるが、実験をしない実験家であった。ボーアは実験が苦手で実験室の機材を壊すことで有名であった。みしろ、実験によって証明するのではなく、その結果に基づいて理論構成する物理学者であった。 19 世紀後半から1900 年のプランク法則の発表以後、電子はある軌道から別の軌道へ「量子跳躍」する、その「相関性」を数字の一覧表(数学で言う「行列」)で示したハイゼンベルクや、量子力学における基礎方程式(シュレーディンガー方程式で、量子系の状態が時間とともに変化するという考え方をシュレーディンガー描像と呼ぶ)を提案したシュレディンガー、そして「量子統計(多数の粒子の運動を統計的に扱い、その系の性質を表現する方法の一つ)」をみいだしたディラックに よって、それぞれ が1925 年と 26 年に斬新な量子力学の方程式が発見 されるまでの時代は、古典力学では説明がつかな い実験的観測がかつてないスピードで積み重ねら れていった。その一方、その結果の余りの意外性に、驚愕と困惑で圧倒されていた時代であった。 太陽の周りを回る惑星のように、多数の小さな電子が原子核の周囲を回っている原子の内部構造に関するラザフォード原子模型は、その後のシュレーディンガーによる波動関数の導入とボルンによる確率解釈によって、その模型の「電子が軌道運動をする」という解釈に誤りがあることがわかった。 ボーアの原子模型は、水素原子に関する実験結果と見事に適合し、量子力学の先駆け(前期量子論)となった。原子内の電子は、原子核との間にはたらくクーロン力(二つの荷電粒子間にはたらく力。 その力の大きさは距離の2乗に反比例し、両方のもつ電荷の積に比例するというクーロンの法則に従う)を向心力Centripetal force(物体を曲線軌道で動かす力で、その方向は常に物体の速度とは垂直方向、即ち円の中心に向いている)とする等速円運動を行うが、電子はある定常状態から別の定常状態へ、瞬間的に移行することがある。これを「状態の遷移」と言う。 ボーアは、原子核からの距離が特定の値になった場合にしか、つまり、電子は限られた特定のエネルギーの値を持つ軌道上にしか存在し得ないと見なした。数年前、アインシュタイン‐プランクの法則Einstein-Planck's lawは、「光の量子のエネルギーが、限られた特定の値しか取らない」ことを指摘していた。ボーアの場合も、その理論を構成する鍵になったのが、その「粒性」であった。当時、「粒性」が、自然界に広く認められる一般的物性であることが理解され始めていた。 イギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェル(1831-1879年)は、1861年、「マクスウェルの方程式」を提出した。それまで可視光について進んできた光の研究に、可視光以外の「電磁波」の概念を持ち込んだ。マクスウェルは、色とは光の振動数であることを示した。元素は、限定された振動数の光だけを発している。元素の種類ごとに観察される特有の輝線スペクトルの総体を、元素の「スペクトル」と呼ぶ。スペクトル系の研究は19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて盛んに行われ、原子構造の解明と量子力学の発展に大いに貢献した。 1個の電子が量子数nの定常状態から量子数n'の定常状態に移るとき、そのエネルギー準位の差のエネルギーは、1個の光子の放出と吸収による。そのときに電子が放射された1個の光子は、エネルギー準位の高い電子に吸収される。光の振動数はその後の電子の軌道上の振動数条件を満たす。電子が、この条件を満たす円軌道上では、電子は電磁波を原子外に放出しないため円運動を続けるができると仮定する。 ニールス・ボーアが 1913 年に発表した一連の論文は、これまでの原子模型の幾つかの謎に対して首尾一貫して理論的に解明しており、前期量子論の分野に本格的な研究ラッシュを引き起こす転回点となる研究成果であった。 実験 が示すには、1個の原子は小さな太陽系のような様体を示している。中心にある核に質量が集中し、その周りを惑星が太陽の周りを回るように軽い電子が周回している。しかも原子から発せられる光を詳細に調べると、各種元素はそれぞれ固有の色を持っていた。マックスウェルは、既に色とは光の振動数によることを発見していた。つまり各種元素は、特定の振動数で波動していることになる。 ある元素を特徴づける振動数の総体を、その元素のスペクタルspectacleと呼ぶ。1つ1つのスペクトルは、様々な色がついた細い線の集まりである。それは元素から発せられた光がプリズムのような器具で分光された光景である。あらゆる元素が自身に固有なスペクトルを持つ理由や、その線の位置を決めている要因なぞ未だ不明であるが、各種元素のスペクトルは、詳しく調査されリスト化されている。 高温の気体から放射される光は飛び飛びの波長をもった単色光からなり、これを分光器で波長に応じて分散させると、その元素の種類に特有な輝線スペクトルが観察される。 これと逆に、連続スペクトルをもつ光を試料元素中に通すと、その元素に固有の波長の光だけが媒質中に吸収されて暗線(光の吸収スペクトルにみられる暗い線)が生じ、吸収線スペクトルを示す。これらの線スペクトルは、元素の種類に応じ、その線間隔と強度が完全な規則性をもって並ぶ「スペクトル系列」を形づくる。 色彩とは光の振動数である。光の振動とは、ファラデー力線(この場合、電子が飛ぶ方向)が揺れる速度である。そのファラデー力線が揺れる速度は、光を引き起こす電荷の振動によって決まる。この電荷は、原子核の周りを回転している電子にほかならない。つまりスペクトルさえ調べれば、やがて電子が原子核の周りでどのように振動して振舞っているかがわかるはずだ。その一方で、なぜか原子から発した光の色は、数種類の特定の色しか見分けられていない。すべての色を含むものではなかった。しかも原子のスペクトルは、色彩が連続することなく、離散的に互いに切り離された数本の線だけで構成されている。 むしろ、ニールス・ボーアは、原子の中の電子が持つエネルギーが、「量子化された特定の値」だけを取るならばすべてが統一的に理論づけられるはずと考えた。 ニールス・ボーアが、1913年に発表した一連の論文は、これらの謎の幾つかに対して、首尾一貫した一定の説明を与え、前期量子論の分野に本格的な研究ラッシュを引き起こした転回点となるものであった。 既に数年前、プランクとアインシュタインが、光の量子のエネルギーは限られた特定の値しかとらないと指摘していた。しかも粒子の振動性は、物質全般に共通する標準的な性質であると認識されはじめていた。ボーアも、原子の中の電子の解明において、鍵となるのは電子の「粒性」と考えた。 ボーアは、電子は原子核からの距離が特別の値になった場合のみ存在できるとみた。つまり、電子は限られた特定の値のエネルギーを有し、限られた特定の軌道上と、そこから別に軌道に飛び跳ねる時だけにしか存在し得ない。その軌道の値は、プランク定数hにより規定される。これを「量子跳躍」と呼ぶ。 このボーアの「電子は限られた軌道上にしか存在しない」、しかも「電子は軌道から軌道へ跳躍する」するという2つの推察から、あらゆる原子の、あらゆるスペクトルが推測された。それも未だ観測されていなかったスペクトルさえも正確に予測していた。それは、当時の物質や力学に関係する論理的常識を逸脱する驚愕すべき理論でもあった。 現在、量子力学では原子の周りを回る電子は、実在する粒子ではなく、ある確率で存在するとされている。一個の量子の動きを予想することは不可能でも、たくさんの量子が集まっている場合は、確率論を用いた統計学の手法を用いることで十分に予想することができる。 ある物質の性質を調べるためには、その物質になんらかの影響を与える必要があり、必然的にその結果がその物質を試験前とは別のものに変えてしまう。例えば、量子の映像を、眼球を通して脳に伝えるためには、量子に光をあてることが必要になる。しかし、量子に光を当てることは、量子に光のエネルギーを衝突させることであり、量子の性質を変えてしまう。光子は質量0でも運動量を持つからである。 この考え方こそが、量子力学による最も重要な基本原理となる「不確定性原理」である。具体的には、原子を構成する量子の位置と速度(運動量≠速度(ν)×質量(ⅿ))を同時に知ることはできない。 この量子の世界は「確率」によって操られており、ニュートンの万有引力の法則のように、事前に決められるわけではない、「不確定性」と言う「「確率」」が作用する。幸い、その「確率」のばらつきはかなり狭い範囲に収まっている。 さらにこの原理は「観測者が観測対象に影響を与えないで観測を行うことは不可能である」ことをも示し、科学の世界における常識「原因が結果を生む」という因果律をも崩すことにもなる。なぜなら、原因を知って、結果を導き出そうとしても、その結果があっているか、確かめようとする行為が、すでに結果を変えてしまうことになっているからである。 ボーアはこの原理を「相補性」と名付けたが、この原理はその後物理学以外の分野、心理学や社会学、経済学・美術などあらゆる分野に影響を与えることになる。 当時、アインシュタインはこうした「確率によって操られる世界像」を決して認めようとしなかった。だからこそ、彼は「神はサイコロを振らない」と批判し、量子力学によって説明される確率論的宇宙像を、より大きな枠組みで示す理論が存在するはずだと言い続けた。 電子は大きな速度で円運動するため、外部に電磁波を放出するため、そのエネルギーを瞬時に失い、1秒の10億分の1の100万分の1の10分の1と言う瞬間で、電子は螺旋を描きながら原子核に墜落するはずだ。これは原子がつぶれることを意味するが、現実ではそれはありえない。 そこで、ボーアは電子を粒子ではなく波としてとらえる原子モデルを考えた。つまり、原子の周りで定常波をつくるような波を電子としたのだ。このようなモデルで考えた、電子を1個のみ含む水素原子の半径のことを「ボーア半径」と呼ぶ。全体としての原子の大きさは「ボーア半径」によって定められる。水素原子の電子の基底状態(主量子数n=1)における軌道半径であり、この状態における水素原子の半径に相当する。 5.2917720859×10-11mとなる。 原子核はそれよりはるかに小さく、「ボーア半径」の僅か10万分に1しかない。この微細な領域を探るには、はるかにエネルギーの大きい粒子が必要になる。素粒子を加速すれば、その量子の量子的波長を短くすることができる。しかし高エネルギー粒子加速器が登場するのは1950年代になってからである。 ボーアは、プランクとアインシュタインが導いた光のエネルギーに関する式 Ε =n h ν (光子のエネルギー Eは振動数νに比例する。その比例定数をプランク定数 h といい、プランク定数 h = 6.63×10-34 J/s、「n」は定常状態にある「量子数」で、波長の整数倍である) に注目して、原子の内部における電子のエネルギーもまた、光のエネルギーと同様とびとびに決まる量子化された値しか持ちえないと考えた。つまり、電子は原子の軌道上を1点から別の1点へと、エネルギー量とともに跳ぶと解した。これが「量子跳躍」と呼ばれ、飛ぶ際には、光子を1つ放出するか、または吸収する。つまり、ボーアらの原子模型は原子が不連続なエネルギー準位を持っていることを示す。 こうして、1913年3 月には、この年発表される三部作の最初の論文が完成した。 ボーアの原子模型では、原子核を中心として同心円状に安定した電子軌道が不連続に存在し、ボーアはこれらを「定常状態」と名付けた。それらの軌道のエネルギーは増加順にEn(n = 1,2,3 ⋅⋅⋅) と表記され、特にn = 1 の軌道を「基底状態」と呼び、最低エネルギーE1 を持つとした。 最もエネルギーの低い状態を基底状態、それ以外の状態を励起状態と言う。エネルギーの低いものから、第1励起状態、第2励起状態(n =1, 2, …)と呼ぶ。 原子内の電子は、光子を吸収することによってエネルギーを手に入れ、より高いエネルギー準位へと移動する。しかし、原子や分子に閉じこめられた電子のエネルギーは、連続的な変化はできない。一方、エネルギー準位の低い方へ原子が移動する時は、光を放射することによってエネルギーを外に出す。この様に、光を放出したり吸収したりしてエネルギー準位が移り変わる事を、遷移と呼ぶ。 電子は、高い軌道から低いエネルギーの軌道へ遷移することができる。その際に、電子は、ある決まった量の光のエネルギーを放出する。それが出発点と終着点となる2つの軌道のエネルギーの差となる。人の目には、2つの軌道の組み合わせに特徴的な色が見える。ボーアは、この「原子の量子論」を使い、放出された光子の波長を算出した。 原子が放出する光は、明瞭なスペクトル線として観測できる。スペクトル線は、水素ガスを高温に熱した時に放出される明るい光を、分光器を通せば観察できる。ボーアが導き出した式を使って計算した波長は、分光器を通した実際のスペクトル線の波長とまさしく一致した。 ドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグWerner Karl Heisenberg(1901年-1976年)が、量子力学の黎明期の1924年に、コペンハーゲンのニールス・ボーアの下に半年間留学、1925年、「行列力学」と呼ばれる新しい理論を提唱した。「不確定性原理」は、1927年にハイゼンベルグが提唱した量子力学の根幹をなす有名な原理であった。 ハイゼンベルクの 行列力学は、ミクロの世界では 粒子の位置や運動量は、「きっちりとした1つの値」を持つ量とは限らない、通常の電子の位置と速度の方程式ではなく、数字に一覧表、つまり数学で言う行列で示した。それは以後、量子力学の根幹となる新たな方程式の誕生であった。その方程式は、常に正しい結果を予見し、今日にいたるも一度たりとも誤りが生じていない。 アインシュタインとの討論からヒントを得て、ミクロの世界では 「常識は捨てても かまわない」とハイゼンベルクは 主張した。ハイゼンベルクは、1927年、「不確定性原理」を提唱し、量子力学のコペンハーゲン解釈を確立した。 電子などの素粒子では、その位置と運動量の両方を同時に正確に計測することができないという原理や、これは計測手法の問題ではなく、粒子そのものが持つ物理的性質と理解されている。電子を「位置」と「運動量」を同時に持つ、普通の意味での「粒子」と同様に考えることはできないとした。実際、電子は「波」として互いに干渉する性質も示すため、位置と運動量のペアのほかに、エネルギーと時間のペアや角度と角運動量のペアなど、同時に計測できない複数の不確定性ペアが知られている。 ハイゼンベルグは、電子とは、常にそこに存在しているわけではない。電子は、何か別のものと相互作用し合う時だけ現れると考えた。何か別のものとぶつかるとき時だけ、ある場所に計測可能な物質として現れる。つまり、電子は原子の軌道上を1点から別の1点へと、エネルギー量とともに跳ぶ「量子跳躍」により、その跳ぶ際に、光子を1つ放出するか、または吸収することにより唯一現実に存在が確認される。電子とは、その「量子跳躍」と言う相互作用の集合体であり、その最中の電子を記述するために数学的な数式が用いられるが、それは現実の現象を必ずしも示すものではなく、抽象的な空間を語ることにすぎない。電子は次にどこに現れるかは予測不可能で、偶然が支配するため、ただそこに現れる確率を計算するだけである。 それまでは、地上や宇宙空間すべての現象を、ニュートンのように、例外なく一定の物理法則が支配するの精妙な物質の世界観に、初めて不確定要素を含む「確率」と言う概念が登場した。 ハイゼンベルクの式では、その時代の技術的な限界もあり、測定誤差や測定に生じるといった量が厳密に計測されえていなかった可能性が高いとみられている。このため、ハイゼンベルクの不等式は、厳密なかたちでは一般的に証明されてはいない。不確定性原理という名で呼ぶこと自体支障がある。 その式の中では、測定の誤差を示す標準偏差に電子の「波」としての性質が反映されているため、やはり電子は通常の「粒子」ではありえない。物理学では、理論的な予言は実験の上で検証できて初めて確かなものと認定される。 ハイゼンベルクは、1932年に31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞した。アインシュタインの偉大さは、自分自身受け入れられないと考えに反発しながらも、「世界の根本に関わる事」を発見したとして、ノーベル物理学賞の候補に推薦している。その一方では、量子論の切っ掛けとなったアインシュタインでありながら、常にその原理に異議を唱えていた。 古典力学 では、初期状態を与えてニュートン方程式で解けば、原理的には未来永劫の時間発展を完全に正確に記述することができる決定論的世界が開かれていた。 これに対して 量子力学の世界観では正確な初期条件を与えれば与えるほど、波動関数はすぐに広がってしまい、一定時間経過後の物理量は確率的にしか求まられなくなる。 そのため、量子力学は古典力学に比べて 「不正確な劣った理論」で理解し難く、また、多くの科学者はニュートン的な世界観、すなわち、未来は初期条件によって完全に決定されており、「確率」の入り込む余地はない、とする決定論的世界観が確立されていた。この世界観に反する量子力学は受け容れがたかった。あのアインシュタインですら「神はサイコロを振らない」と言ったのが、それを端的に語る。 そのような価値観・世界観を打ち破るべくハイゼンベルクが指摘したのが物理量測定によって生じる不確定性である。 ハイゼンベルクは 電子に光を当ててその位置と運動量を決定するという仮想的な実験 について考察した。 電子の位置を正確に測定しようとすればより短い波長の光を使わなければならないが、その場合、光の方が物性として大きく、運動量も大きいため、位置測定の際に電子の運動量が乱され、不正確になる。 すなわち位置と運動量の両者を同時に、正確に決定するような測定方法は存在しないことを指摘した。 ハイゼンベルグの仕事を引き継いだのが、若い25歳の青年、イギリスの理論物理学者ポール・ディラックPaul Adrien Maurice Dirac(1902年-1984年)であった。1925年、ヴェルナー・ハイゼンベルグの行列力学と、ボーアの量子論を全て完璧に導くことができるエルビン・シュレ-ディンガ-Erwin Schrödingerの波動方程式を統一する形で、「相関性」が量子力学において普遍的な特性であると説いた。 (量子力学の研究対象の粒子は、規定値としての物理量を持たない。観測するたびに、ランダムな測定値となるため確率分布として表示される。「波動方程式」がその確率分布である。ただ結果を予測することができるが、正確な位置までは示せない。観測の結果が求められないのが、量子力学における粒子の本質であり、それが不確実性を体現する量子の世界の実状と言うしかない) 1927年、電磁場の量子化を定式化し、相互作用によって生成されたり消滅されたりする粒子に対応する「場の量子論quantum theory of fields」の発端となる理論と、1928年、相対論的な電子の波動方程式として「ディラック方程式」を提唱した。 ディラックが、この量子力学の一般方程式を完成させた数年後、その「ディラック方程式」が電磁場のような「場」にも使えることに気が付いた。電子の原子軌道を表す「確率の雲」には、「場」に似たところがある。電子の粒子は、空間の中を「場」として拡散し、その「場」自体も粒子のように相互に影響し合っている。 ここで、光の正体は電子が飛ぶ方向を示す「振動するファラデー力線」であり、電磁波の正体はその「ファラデー力線の振動」であれば、ファラデーとマクスウェルの「場」は、光子と言う粒子によって形づけられていることになる。つまり、ファラデーとマクスウェルが分けて考えていた「場」と「粒子」の概念が、「ディラック方程式」により量子力学の中で一体化したことになる。 光子を電磁波の量子として考えれば、電磁波は光子の大群である。「光電効果」の場合のように、他の物質に相互作用を及ぼす時、電磁波は粒子の群れとして振舞う。ディラックの「場の量子論」は、特殊相対性理論と両立すると評価されている。 今日では、エンジニアや分子化学者、そして分子生物学者などまでが、ディラックの量子力学を日常的に参照し利用している。一般的には、ディラックの知名度は低いが、多くの専門分野の関係者は、アインシュタイン以後に生まれた、20世紀最大の物理学者として評価する。 ある粒子が、他の粒子との相互作用により誘発されるが、速度・エネルギー・角運動量などの物理的変数は、ある特定の値だけに限られる。ディラックは、その際の物理的変数の計算方法を編み出した。それらの値は、原子から発せられる光のスペクトルと相似の関係にある。 元素の光は、それぞれの原子の放出スペクトルとして固有の線を持つ。その線の類似から、取り得る変数の値の総体を「変数のスペクトル」と呼んでいる。それは、低いエネルギー準位に戻る時に放出される電磁波のスペクトルである。それぞれの原子の放出スペクトルは固有のものであり、そのため分光法によって、未知の化合物に含まれる元素を同定することができる。 ディラックの数学により、次に起こる相互作用でスペクトルのどの数字が生じるかを教えてくれるが、それは、あくまでも「見込みの数値」である。電子がどこに現れるかは「確実」に知ることはできない。電子の位置情報は「確率」を計算することである。それでも、原子核の周りを回る電子の軌道半径は、ニールス・ボーアの仮説で計算された、n 番目の定常軌道の半径 rの値を示す。 量子力学の世界では、1個の電子がどこで起こるか、それが左右どちらに動くかは、量子の微小なスケールでは、偶然性が生み出す「ゆらぎ」にゆだねられるため「不確実性」が支配する。そのため、事前に特定することはできない。 ディラックの量子力学における方程式は、最初に物理的変数が有限な選択肢の中のどの値を取り得るかを計算する。これを「変数のスペクトルの計算」と言う。つまり原子・電子・分子・岩・天体などのあらゆる対象が、他の対象と相互作用している瞬間に、その対象の変数がどの値をとり得るかを計算する。 次が「確率の計算」で、次に相互作用を起こすとどの値をとり得るか、その確率を知ることができる。これを「遷移振幅の計算」と言う。 このような確率が、量子論の鍵となる3つめの性質、つまり「不確実性」を示す。量子の世界では、唯一絶対の予測は不可能であり、次に起こり得る「見込み」を複数の予測とともに算定する。 電子雲は、原子軌道を原子核の周りを回る電子の存在の確率として、雲の濃度差で表す。つまり電子が見られる確率が高い所の雲の色がより濃くなっている。量子力学の不確定性原理により、電子の位置と運動量を同時に決定できないため、電子の存在の確率が高い領域を、濃い雲で示した。 20世紀の初めに構築された「量子力学」は、今やレーザーや半導体ばかりか、スマホや電子レンジから量子コンピュータまでに及ぶエレクトロニクス産業の基盤となるばかりでなく、宇宙物理学など新たな現代社会に革命的なロマンを生むために欠かせない膨大な理論体系となっている。 Synchrotron Radiation 電子や陽子などの荷電粒子が加速・減速したり曲がったりすると、光(電磁波)が放射される。これが「放射光Synchrotron Radiation(Synchrotronは、電子・陽子などの加速装置、Radiationは放射・放射線)」である。この放射光は、通常、全方位に球状に放射される。さらに速度の速い電子が曲げられると、前方向だけに偏って放射される。次に光速に近い速度まで加速された電子が曲げられると、放射光がごく狭い範囲に絞られる。荷電粒子のスピードが上げれば上げるほど、放射される方向の進行方向が極めて細い領域に狭まる現象が生じる。 その細い領域に平行性の高い放射光が集中し、しかも加速された分エネルギーが高くなり、それだけ光は明るくなる。しかも、電子の進行方向の変化の大きさによって、様々な波長の電磁波を取り出すことができる。 放射される光の方向の変化は、「アインシュタイン」の重力による現象など、特殊相対性理論で説かれるが、現代の物理学では、可視放射による物体の「輝度率」による色の区別、赤外放射による温くなる遠赤外加熱など、光の波長域は、周辺環境条件に応じて物理的に異なり、これらの各種現象全体については、物質を構成する各種原子核と電子や分子群と、電磁波との相互作用の結果として統一的に論じられる。 電子の電荷や質量の精密測定、そして原子の構造の研究が進み、その過程で現れた質量の速度依存性が相対性理論を、また電子が粒子性と波動性とを示すという矛盾が量子力学を発展させ、しかもその成果が急激な技術開発をもたらした。 実際、「先端材料の原子・電子の構造」、「触媒反応の動的挙動」、「原子・分子分光」、「超微量元素分析」・「地球深部物質の構造と状態」・「映像法による呼吸器系疾患の観察」など多岐にわたる。 広島県・岡山県・兵庫県など広範囲にわたる吉備高原の東端部、兵庫県南西部の丘陵地帯を切り開いて造成した学術公園都市(播磨科学公園都市)にある「SPring-8(Super Photon ring-8)」は、世界最高性能の放射光を生み出すことができる大型放射光施設Large radiation facilityである。 ミクロの世界を観測するには非常に強いX線が必要であるため、電子ビームの加速エネルギーがおよそ50億電子ボルト(5GeV;通常、ギガエレクトロンボルトと読む)以上の加速器を装備する施設である必要がある。2003年7月、米物理学会速報誌『Physical Review Letters』で発表された「5クオークの発見」は、この電子ビームラインを用いた研究における特筆すべき成果であった。 陽子や中性子は3つのクオークからできている。しかし、理論物理で予言されていた4個以上のクオークから成る粒子が、高輝度ビームのパワーにより、世界で初めて「5個のクォーク」からなる粒子が発見された。 現在では、クォークには、アップ(u)、ダウン(d)、ストレンジ(s)、チャーム(c)、ボトム(b)、トップ(t)の6種類があることが判っている。ただ地球上で安定しているのはuクォークとdクォークのみであるし、それ以外の複数のクォークからなる複合粒子「ハドロン」は、SPring-8の実験で観測されているだけである。 目次へ |
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